2021年11月21日の説教要旨 サムエル上16:1-13・Ⅰテモテ1:12-17

「忠実な者への務め」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに

 サウル王はイスラエル王国の最初の王でした。「神の民」を治める王として神様の恵みと召命を受けて、神様に仕える者として王座に就きました。しかしサウルは、預言者サムエルから油を注がれて(*)、王座に就いたにもかかわらず、主に従わず自分の考えで行動を起こしたため、神様は「わたしは王位から彼を退けた」(1節)と、サムエルに、次の王のための使命を与えます。(*油=オリーブ油・油注ぎ=聖別されて即位する)。

サムエルはこのことを嘆き、心を痛めていました。

*新しい使命

 本日のサムエル記では、神様がサムエルに「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしはあなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」と語られています。サムエルは、サウルがまだ即位中にもかかわらず、次の王となる者に油注ぎの儀式を行うことに躊躇(ちゅうちょ)して答えます。

「どうして私が行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」すると神様はサムエルに、「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、いけにえをささげる時になったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、その時わたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」と言われました。サムエルは主が命じられた通りエッサイと息子達に身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招きました。そして長男エリアブに目を留め、彼こそ主の前に王として油を注がれる者だと思いました。しかし神様は「容姿や背の高さに目を向けるな。・・人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(7節)と、人がうわべのかっこ良さや見かけで判断することに対して神様は「心」を見ることを伝えました。父エッサイは7人の息子達を一人ずつサムエルの前に進ませ紹介しましたが、どの息子も神様が選んだ人ではないと神様に告げられます。「あなたの息子はこれだけですか。」と父親に尋ねますと、「末の子が残っているが羊の番をしている」と答えました。サムエルが彼を連れて来させると、神様はサムエルに「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」と言われました。

このようにしてダビデは、神様に仕える者として聖別されました。神様からの油注ぎは、主の霊が注がれたしるしでもあります。

その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。」(13節)

主の霊はサウルから離れ、」(14節)と、記されています。

 

*神様の霊、聖霊を宿していたパウロ

 神様の力は、神様から与えられなければ知ることも感じることも出来ません。神様の力と知恵を自分勝手な解釈や理解によって使ったサウルは退けられ、一方ダビデは神様の言われること、なさろうとすることに従順に従い、守り続けようと努力しました。罪を犯した時には神様の前にへりくだり、犯した過ちは赦しを願い求めて祈りを献げています。

 本日のテモテ書Ⅰの1:12-17には、聖書の言葉の力、イエス様の愛の力によってパウロが勇気づけられ、励まされていることが記されています。パウロも、イエス様の霊との劇的な出会いにより過去の過ちから赦されて、聖霊をいつも心の中に宿していました。たとえ困難な問題・自分の生死にかかわる問題に対しても、イエス様に感謝して前を向き、イエス様が十字架上で血を流され、死なれ、陰府に下り、そこから復活され、天に昇られ、神様を信じる者達には罪の赦しと永遠の命が与えられることを宣べ伝え続けました。

*わたしたち

 わたしたちはどうでしょうか。私達はパウロと同じような主の恵みと祝福が(キリスト・イエスによる信仰と愛が)あふれるばかりに与えられているにもかかわらず、もっと助けて下さいと求め続けてはいないでしょうか。神様はすでに、私達一人一人の内に、神様の霊を注いで下さっています。それは時に力強く、時に優しく、時に頼りがいのある霊として注がれます。その神様の霊を感じながら、神様の霊に励まされながら、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。