2024年2月4日の説教要旨 ヨブ記23:1-10・ヨハネ書5:1-18

           「信仰の投げかけ」       加藤 秀久牧師

*はじめに

私達は聖書の言葉を通して神様の言葉に耳を傾け、神様が私に語りかけていることを信じて神様の業が行われるまで待ち望むことが出来ているでしょうか。本日のヨブ記23章は、ヨブに降りかかった災難を聞いて、親しい友人達(2:11/エリファズ・ビルダド・ツォファル)が見舞い慰めようとやってきてヨブの訴えを聞き、エリファズが述べた意見(勧め・22章)に対してヨブが答えている箇所です。

*直接神に訴えるヨブ

3人の友人達は代わる代わるヨブの苦しみの根源をさぐり、4章以降(エリファズ:4~5章・15章・22章、ビルダド:8章・18章、ツォファル:11章・20章)で、ヨブと議論しつつ解決の道を示そうとしています。エリファズは22章で、ヨブの苦しみはヨブ自身に原因があり、ヨブの心が曲がっていることで不幸を招いているので、「神の教えを受けて、神の言葉を心に納め、神のもとに立ち帰り、不正を遠ざけるなら、あなたは元どおりにしていただける」と説得を試みます。これに対するヨブの答えは、人生の謎に焦点を当てて話をしています。ヨブはこれまで友人達の言葉に耳を傾けてきましたが納得出来ず、友人達との直接的な議論はやめて真剣に神様と言葉を交わしたいと思うようになります。しかし神様は沈黙を続けていて話をすることができない。だからといって神様は何もしてくれないかと言えばそうではなく、神様の計画するその時その場所で、神様の良しとされることを行なわれる・・。23章はヨブの心からの叫び・嘆きとなり、彼の強い想いを打ち明けて、ヨブの素直な気持が現われているようです。「どうしたら神様を見つけることが出来るか?神様と出会うことが出来たなら沢山色々なことを告げたい、話をしたい・・。神様の声を直接聞くことが出来たら、その言葉を受け入れられるのに・・。「そうすれば、わたしは神の前に正しいとされ、わたしの訴えはとこしえに解決できるだろう(7節)。」「わたしの足はその方に従って歩み、その道を守って離れたことはない(11節)」。」

*安息日のベトザタの池での奇跡

本日のヨハネ福音書には38年間病気で苦しんでいた人が癒された出来事が記されています。この奇跡は、ユダヤ教で床を担ぐことは律法で禁止されている安息日に行われました。なぜ安息日にイエス様は病人を癒したのでしょうか。それは安息日が「~してはいけない日」という 捉(とら)え方の違いを明らかにしようとしたからだと思います。

*「ベトザタ」(ヘブライ語)

ヘブライ語で「ベトザタ」は「恵みの家」の意味があります。そこでは病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていました。ヨハネ福音書の最後に抜けている4節が記されています。「彼らは、水の動くのを待っていた。主の使いが時々池に降りて来て、水が動くことがあり、動いた時、真っ先に水に入る者は癒された」とあり、ここにいる人々の背景には異教の神々の宗教の影響を強く受けて「恵みの家」と呼ばれていたことで大勢集って来ていたと考えられます。けれどもイエス様は、38年もの間、病気にかかっている人に声をかけました。彼はヨブのように神様を求めていたように思えます。

*神様のみわざ

イエス様は彼に、「良くなりたいか」と尋ねられ、答えた彼に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われました。「床」は「親密な交わりの場」をも意味し、神様と人とが親密な交わりのできる神様の国と考えられます。イエス様は彼に、俗なる社会、偽りの神々の情報のある社会との交わりを断ち切り、神様と交わりのできる場所に行くように言われたのです。私達も又、ヨブや池のそばで横たわっていた彼と同じように、この社会の中で、神様の働き・現れ、み業を待ち望んでいるのではないでしょうか。 本日もイエス様は、私達のいるこの地上、この社会、この礼拝の場所に来られています。イエス様が来られたということは、神様の国と同じような場所がこの所に現れて、体験することが出来るということです。だからこそ、この時、この場所で、神様を感じてほしい、知って欲しいと願っています。

神様に全てを委ねて、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。