2024年2月4日の説教要旨 ヨブ記23:1-10・ヨハネ書5:1-18

           「信仰の投げかけ」       加藤 秀久牧師

*はじめに

私達は聖書の言葉を通して神様の言葉に耳を傾け、神様が私に語りかけていることを信じて神様の業が行われるまで待ち望むことが出来ているでしょうか。本日のヨブ記23章は、ヨブに降りかかった災難を聞いて、親しい友人達(2:11/エリファズ・ビルダド・ツォファル)が見舞い慰めようとやってきてヨブの訴えを聞き、エリファズが述べた意見(勧め・22章)に対してヨブが答えている箇所です。

*直接神に訴えるヨブ

3人の友人達は代わる代わるヨブの苦しみの根源をさぐり、4章以降(エリファズ:4~5章・15章・22章、ビルダド:8章・18章、ツォファル:11章・20章)で、ヨブと議論しつつ解決の道を示そうとしています。エリファズは22章で、ヨブの苦しみはヨブ自身に原因があり、ヨブの心が曲がっていることで不幸を招いているので、「神の教えを受けて、神の言葉を心に納め、神のもとに立ち帰り、不正を遠ざけるなら、あなたは元どおりにしていただける」と説得を試みます。これに対するヨブの答えは、人生の謎に焦点を当てて話をしています。ヨブはこれまで友人達の言葉に耳を傾けてきましたが納得出来ず、友人達との直接的な議論はやめて真剣に神様と言葉を交わしたいと思うようになります。しかし神様は沈黙を続けていて話をすることができない。だからといって神様は何もしてくれないかと言えばそうではなく、神様の計画するその時その場所で、神様の良しとされることを行なわれる・・。23章はヨブの心からの叫び・嘆きとなり、彼の強い想いを打ち明けて、ヨブの素直な気持が現われているようです。「どうしたら神様を見つけることが出来るか?神様と出会うことが出来たなら沢山色々なことを告げたい、話をしたい・・。神様の声を直接聞くことが出来たら、その言葉を受け入れられるのに・・。「そうすれば、わたしは神の前に正しいとされ、わたしの訴えはとこしえに解決できるだろう(7節)。」「わたしの足はその方に従って歩み、その道を守って離れたことはない(11節)」。」

*安息日のベトザタの池での奇跡

本日のヨハネ福音書には38年間病気で苦しんでいた人が癒された出来事が記されています。この奇跡は、ユダヤ教で床を担ぐことは律法で禁止されている安息日に行われました。なぜ安息日にイエス様は病人を癒したのでしょうか。それは安息日が「~してはいけない日」という 捉(とら)え方の違いを明らかにしようとしたからだと思います。

*「ベトザタ」(ヘブライ語)

ヘブライ語で「ベトザタ」は「恵みの家」の意味があります。そこでは病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていました。ヨハネ福音書の最後に抜けている4節が記されています。「彼らは、水の動くのを待っていた。主の使いが時々池に降りて来て、水が動くことがあり、動いた時、真っ先に水に入る者は癒された」とあり、ここにいる人々の背景には異教の神々の宗教の影響を強く受けて「恵みの家」と呼ばれていたことで大勢集って来ていたと考えられます。けれどもイエス様は、38年もの間、病気にかかっている人に声をかけました。彼はヨブのように神様を求めていたように思えます。

*神様のみわざ

イエス様は彼に、「良くなりたいか」と尋ねられ、答えた彼に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われました。「床」は「親密な交わりの場」をも意味し、神様と人とが親密な交わりのできる神様の国と考えられます。イエス様は彼に、俗なる社会、偽りの神々の情報のある社会との交わりを断ち切り、神様と交わりのできる場所に行くように言われたのです。私達も又、ヨブや池のそばで横たわっていた彼と同じように、この社会の中で、神様の働き・現れ、み業を待ち望んでいるのではないでしょうか。 本日もイエス様は、私達のいるこの地上、この社会、この礼拝の場所に来られています。イエス様が来られたということは、神様の国と同じような場所がこの所に現れて、体験することが出来るということです。だからこそ、この時、この場所で、神様を感じてほしい、知って欲しいと願っています。

神様に全てを委ねて、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2024年1月21日の説教要旨 出エジプト33:12-23・ヨハネ2:1-11

             「主の道」        加藤 秀久牧師

*はじめに

私達が神様に従う道・主の道を神様と共に歩んでいる時に、私達の前に壁が出来て前に進めなくなるような出来事が起こることがあります。そのような時、私達はどのような願いと祈りを持って、神様に助けを求めつつ信仰生活を送っているでしょうか。本日の出エジプト記では、神様に近づくことが許されているモーセが、民の犯した罪を心配しながら、人々に寄り添い、神様に訴えている姿を見ることができます。

*イスラエルの民の罪

モーセがシナイ山で、神様から契約の板(十戒)を受け取っている間に、待ちくたびれたイスラエルの民は、金の子牛の像(偶像)を造り、それに祈りを捧げ、飲み食いして乱れた行為を行ないました。山から下りてこの光景を見たモーセは激しく怒り、神様から戴いた十戒の二枚の石板を山のふもとで砕き、造った偶像を火で焼き、粉々に砕き、水の上にまき散らして飲ませたと記されています(32:19~)。民が犯した罪は、神様の大きな怒りを招きました。そして神様は、ご自分がかたくなな民に対して怒りによって滅ぼすことがないように、今後は民との旅には同行せず、神の使いの者を先導させると言われました(33:1~)。

*臨在の幕屋

この知らせを聞いた民は嘆き悲しみましたが、身に付けている飾りを取り去るなら神様は再び考えて下さると聞き、民は身に付けている飾りを全て取り去りました。モーセは宿営から遠く離れた所に神様にお会いする場所として一つの天幕を張り「臨在の幕屋」と名付けました。モーセがその幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て入り口に立ち、神様はモーセと語られました(9節~)。モーセは神様に、神様が自分を民のリーダーとして選ばれているのだから、神様が旅の同行者になって欲しい。そうでなければ自分達に旅を続けさせないようにと粘り強く訴えました。そして、もし旅に同行されるならば、イスラエルの民と神様との関係は他の民族とは異なる特別な善い関係であることを示すことになると訴え、「神様の栄光」を示して欲しいと願いました。そこで神様はモーセに岩の傍に立つように命じて、神様が通り過ぎる時、モーセの目は神様の手で覆われ、通り過ぎた時、手を放したのでモーセは神の後ろを見た、とあります(18節~)。

*カナの婚礼(イエス様の最初のしるし)

本日のヨハネ福音書2:11には「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行なって、その栄光を現された」とあります。「しるし」はイエス様の「奇蹟」のことであり「神様の業が現わされる」ことです。

その日、イエス様と弟子達が婚礼に招かれた時のこと、途中で婚礼の祝いに欠かすことの出来ないぶどう酒が足りなくなったことに気付いた母マリアが、イエス様にそのことを伝え、召使い達にもイエス様に従うように言いました。イエス様は召使い達に、置いてあったユダヤ教の「清め」に用いる六つの水がめに水を満たすように命じ、その水を汲んで宴会の世話役に運ぶように命じました。世話役が水を味見すると、良いぶどう酒に変わっていました。これが「最初のしるし」です。

*水からぶどう酒へ

清めのための六つの水は、自分自身を清めて神様に喜ばれようとする人間社会の価値観や、人間の努力で生きようとする、限界のある世界を意味しているようです。しかしイエス様は「水」を「ぶどう酒」に変えられたことで神様の栄光を現されました(11節)。 神様は、頑張っても不完全な器でしかない私達を、神様の御心にかなう者として変えて下さり、聖(きよ)めて下さる完全な唯一のお方であることを現していると思います。神様の御業が起こる時、神様と民との間をとりなしたモーセの働きや、祝宴が守られるためにイエス様に状況を知らせて、召使いにイエス様に従うように導いた母マリアの働きを知らされます。

恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ(出エジプト33:19)」神様は、御業である「しるし」を通して、今日もこの場所・伝道所に、私達と共にいて下さり、神様のご栄光を現されます。この場所には癒しがあり救いがあります。今週も神様の示す道を共に歩んで参りましょう。

2024年1月14日の説教要旨 サムエル記上3:1-10・ヨハネ書1:35-42

             「主の呼びかけ」       加藤 秀久牧師

*はじめに

 皆さんはどのような時に、神様からの言葉、呼びかけを感じることがあるでしょうか?神様は天と地を造り、植物や生き物を造り、人を神様に似せて造り世界を管理する者とされました。このように私達人間は、神様と近い関係を持ち、神様と会話できるようにと御業によって語りかけて下さっています。神様からの語りかけは、日々の生活の中で頻繁に起きていますが、その語りかけに私達が耳を傾けるか、傾けないかは、私達自身の選択、自由意志によります。

*少年サムエル

本日の旧約聖書は、神様の声を聞いた者の話です。サムエルは幼い時に、祭司エリに預けられて少年となり主に仕えていました。彼は神の箱(十戒の石板が入っている)が置かれている神殿に寝ていました。神殿は神様が臨在されている場所です。彼は未だ神様のことを十分知らず、神様からの言葉も聞くことはありませんでした。その夜、サムエルは自分を呼ぶ声に気づき、祭司エリが呼んだと思い、エリのもとに走り「お呼びになったので参りました」と言いましたが、エリから「私は呼んでいない。戻ってお休み」と言われてサムエルは戻り、寝ました。しかし眠りについたサムエルに、又「サムエルよ」と呼ぶ声が聞こえたので、走って「お呼びになったので参りました」とエリに言いましたが、エリは「私は呼んでいない。戻ってお休み」と言いました。1節には「その頃、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」とあるので、祭司エリも神様からの呼びかけとは気づかなかったのでしょう。三度同じことが起こった時、エリは、サムエルを呼んでいたのは神様であると悟り、サムエルに「又、呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」と教えました。戻って寝ていたサムエルは、再度の神様の呼びかけに『主よ。お話しください。僕は聞いております。』と答えました。

神様が語られたことは、神様の言葉に聞き従わなかった祭司エリの家に起こされる「神様の裁き」についてでした。翌朝エリはサムエルを呼んで、神様の言葉をすべて話すように言いましたので、彼はすべてを話し、伝えました。その後、サムエルは成長し、神様は彼と共におられ、サムエルは神様からの語りかけの言葉をすべて聞き漏らすことなく人々にも語り伝えたので、人々から「預言者」として認められていきました。

来なさい。そうすれば分かる

 本日のヨハネ福音書は、荒れ野で罪の赦しを得させるために人々に悔い改めのバプテスマ(洗礼)を授けていたヨハネは、イエス様にもバプテスマを授けた翌日のことです。二人の弟子と一緒にいた時、歩いておられるイエス様を見つめて「見よ、神の小羊だ」と言いました。

29節では「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言っています。二人の弟子はそれを聞いてイエス様に従いました。イエス様は従ってくる二人を見て「何を求めているのか」と言われ、彼らは「先生、どこに泊まっておられるのですか」と聞くと、イエス様は「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。二人はイエス様が泊っておられる所にも泊まりました。このことは、私達がイエス様に目を向けてイエス様の後について行かない限り神様のもとには行かれず、又、イエス様のもとにとどまることは「神様のご臨在・霊」の中に生かされることを教えています。

*神の小羊=この人を見よ

 この言葉は2つの文字で示され、「人間の形」・「見る」という意味になり、「見る」は、(換気口の意味から呼吸する=)「生きる」という意味が含まれ、イエス様はまさに「生きている人の形をとってこの地上に来られ」、「この人を見よ」=イエス様を見れば神様がどんな方であるかがわかる、神様のご計画がわかる、だから「イエス様を見なさい」という意味がこの「小羊」に込められています。私達は神様に似せて造られ、神様との関係を持つために造られ、生かされています。

イエス様は今日も私達に「来なさい。そうすれば分かる」と言われます。イエス様が私達のために全てのことをして下さいます。

今週も一週間、イエス様の言葉に導かれながら共に歩んで参りましょう。

2022年4月24日の説教要旨 詩編27編・ヨハネ15:1-10

主の内にとどまる」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

一つの事を主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り(住んで・口語訳)主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを

 本日の詩編27編は、神様を信じる者たちが心を静めて、力強い主との深い関係を思い描き、主の素晴らしさに思いを巡らし、主の家に住まわせてほしいと祈り、心を神様に留めることで、神様と会話をする心での詩になっていると思います。又、この詩は、私たちが自分自身を見つめ直し、神様に造られた自分という個人が、神様との関係作りの中にあって、主の内に留まる、主の家に住むことができる、主の考えていることや主の語りかけを理解することができる場所(私と神様との隠れた祈りの場所・拠り所)を持っているかどうかを、私達に考えさせてくれる信仰告白の詩です。

主はわたしの光、わたしの救い」(1節)

この「光」とは、創世記1章の、天地創造の第一日目に、たった一つの出来事として、混沌とした闇の中から「光あれ」と、光とやみを区別され、光だけを良しとされた その光であり、私たち(神様に造られ、神様に愛された者たち)に照らされる光、救いの光です。

この詩編の作者ダビデは、神様に彼の思いを集中させ、沈黙の世界の中に神様との交わりの時を持ちたい、その場に、その空間に、留まりたいと願っていたのです。私達もダビデのように、この光、神様から照らされる場所、その場所を個人的に落ち着く場所、神様に出会い、神様と会話をする所を探し求める必要があります。そしてその主の霊に満たされることによって、主を畏れ、敬い、主の家、主の宮に住みたい、留まりたい、神様が好きで好きでたまらなくなるのです。皆さまは、神様に思いを寄せて特別に出会える場所、その隠れ家はどこにあるのでしょうか。ダビデはまだ若く、羊の世話をしていた頃、神様に選び出されて、羊に対する羊飼いのような恵みと憐れみを豊かに受けて、主の素晴らしさ、主の麗しさを体験しました。神様は、私達をも人々の中から選び出し、神様の霊を注ぎ、この世界に存在する意味を教えて下さっています

*今年度の仙台南伝道所の御言葉 

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 本日の、ヨハネによる福音書15章1-10節には、「つながる」の言葉が10回も出てきます。「つながる」には、他に「とどまる、滞在する,泊まる,居続ける,住み着く,住む」という意味があります。ここには、詩編27編とのカギとなる言葉が使われています。

 イエス様は私たちに、「主の内に留まりなさい、居続けなさい、住み着きなさい、と、ここでも伝えているのです。

ダビデは、主の霊が存在する所に、神様との関係作りが作れる所に、住み続けることを望みました。そしてヨハネ福音書で、イエス様は、イエス様に繋がっていなければ、私たちは良い実を結ぶことはできないし、何もすることが出来ないと、語られています。

*わたしたち

 私達は、「イエス様を信じます」と告白し、受け入れた時に、目には見えない油という主の霊(聖霊)が注がれ、私達の内に神様というお方が住まわれました(「わたしたちは生ける神の神殿なのです」(Ⅱコリ6:16)。

 このようにして、私たちがこのお方の名前を呼ぶ時に、神様は私達の内に現れて下さり、神様との関係作りが始まるのです。それは、私たちがどこかに、神様との関係作りをする特別な建物や部屋を作らなければならないということではありません。私たちが神様に一対一で祈ることのできる環境、空間があればいいのです。ただ、それだけのことです。

 もしくは、私たちが、二人でも三人でも、思いを寄せることのできる、祈りあえる仲間がいれば良いのです。私達が神様に思いを寄せることのできる仲間たちと共に、その場所で、主の御名を呼び、静まり、祈る。その中に神様の現われ、神様の存在を感じ取る空間ができるのです。

今週も、主の霊に満たされて歩んで行けますようにお祈り致します。

2022年4月17日の説教要旨 詩編114:1-8・ヨハネ20:1-18

復 活 の 日」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

イースター、おめでとうございます。イースター(復活祭)は、イエス様が十字架にかかり、死なれ、復活した日をお祝いする日です。

週の初めの日、マグダラのマリアは、朝早く、まだ暗い内にイエス様の身体が納められているお墓に行きました。

「週の初めの日」とは、ユダヤ教では安息日が金曜の日没から土曜の日没までで、イエス様が亡くなられたのは安息日の準備の日(金曜日)でした。「イエスは、ご自分が必ず多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子達に打ち明け始められた。」(マタイ16:21)とありますので、三日目は日曜日にあたります。

*週の初めの日

「週の初め」の「初め」という言葉には、ヘブライ語で「第一、一番目」という意味だけでなく「唯一、たった一つ」という意味もあります。

創世記1章1節~5節に、初めに神様は天地を創造され、地は混沌(こんとん)としていて闇(やみ)が覆っていましたが、神様は、「光あれ」と言われて、光を見て「良し」とされました。混沌としていた闇の中から、光とやみを区別されたのです。神様は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれ、夕べがあり、朝がありました。それが第一の日の出来事、唯一の出来事として記されています。

ここで神様は、光は救いであること、闇は滅びであることを示そうとしたのかもしれません。神様は、神様のことを信じる者と信じない者が混ざり合って混沌としている、この世界・社会を、光と闇、救いと滅びで、はっきりと分けようとしているのだと思います。

神様は、この世界を創造された時から、そして、このお方を信じた時から、受け入れた時から、私達は 神様の照らす光の道を歩くことができるのです。神様は全てのことに計画を立て、神様の「時」に、様々な出来事を、私達の目に見えるように、分かるような形で行なって下さるのです。

*墓の入り口には大きな石を転がしておいた(マタイ27:60)

 イエス様が十字架につけられた所には園があり、そこにはまだ誰も、葬られたことのない新しいお墓があり(ヨハネ19:41)、イエス様の遺体はそこに納められました。マタイ福音書には、アリマタヤ出身のヨセフが、イエス様の遺体を受け取り、きれいな亜麻布に包んで、岩に掘った自分の新しいお墓に納めて、お墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去ったと報告されています。

マグダラのマリアが訪れた時には大きな石は取りのけてありました。朝早く、まだ暗かったのでマリアにとって何とも不思議な光景だったと思います。「お墓」の原語には、「回復する国の計画」・「国王の帰還」との意味があります。イエス様のよみがえり、復活すべき国王が帰還したとの、神様の御計画の実現を伝えています。

地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に 」(詩編114:7)

 さらに注目する点は、お墓の石が取り除かれていたことです。これは本日の詩編「地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に 」とあり、「身もだえせよ」の原語では、ねじまげるとか、ゆすぶる、苦しめるという意味があり、マタイ福音書28:2には、この時、「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」と記されています。神様は、神様のご計画を実行する時に、大地を揺り動かしてまでも、(大地を身もだえさせてでも)、その力を私達人間に現わし、体験させるようになさることが分かります。

*復活の日

 復活の日は、第一日目、週の初めの日に来なくてはなりません。

なぜなら、全ての出来事の中には神様の計画された日があるからです。それらは、私達にとって、唯一の日、たった一つの日になるからです。そして日曜日が、復活したイエス様の日、初めの日の出来事として私達が覚え、集まり、祈る。このことを通して、私達、神様を信じる者達が一週間、神様に導かれ、守られ、神様と共に生きる喜びを知り、イエス様が、私達一人ひとりの心の内におられることを知っていくのです。

2020年3月8日の説教要旨 詩編51:3-6・ヨハネ福音書1:29-34

「世の罪を取り除く神の小羊」 佐々木哲夫先生

*はじめに

恥の文化 江戸時代の大阪商人は、商いの契約書に次のような但し書きを書いていました。「この契約書に決して違反いたしません。万が一、背くようなことがありましたら、万座の中でお笑いくださっても少しも恨みとは存じません。」

信用を旨(むね)とする商人にとって万座の中で恥を掻(か)くことは最高の罰でした。但し書きを読むと、単に世間体を気にするという表面的なことではなく、名誉を重んじる商人たちの価値観が伺えます。日本の文化を恥の文化と称し、罪の文化である西洋と対比して論じられることが少なくありません。確かに恥をかかないようにとの気持ちから一生懸命に努力することに私たちは共感できます。日本文化の本質的な特色なのでしょう。

恥の文化にある者が罪の概念を理解することは、心の中の価値観に変革を求める事ですので簡単なことではないと思われます。

*罪の文化  

恥の文化では、人が見ているか見ていないかという外面的な拘束力(こうそくりょく)に行動の動機を見出すのに対し、罪の文化では、誰が見ていなくても神様が見ている、天に恥じることのないようにという内面的な拘束力に基づいて行動します。例えば、モーセの十戒を何故守るのか。社会的秩序を維持するため、とのこともありますが、それ以上に、十戒は、神と人との間に結ばれた契約であり、神との約束であるから守るというのです。

ですから、誰も見ていないから盗む、他に目撃者がいないから自分に都合の良い偽りの証言をするということは、神との約束を破る、すなわち神に対して罪を犯すことになります。

*三つの「つみ」

旧約聖書の原文には「つみ」を表す言葉として主に三つの単語が使われています。「背(そむ)きの罪」「咎(とが)」そして「罪」と邦訳されている単語の三種類です。「罪」は「罪」なのだから「罪」という一つの日本語で表現すれば良いと思われるかもしれません。単語が三種類あるということは、ユダヤ人の罪に対する思い入れがあるからです。

日本人は天から降ってくる雨に思い入れがあります。例えば、春雨(はるさめ)、

五月雨(さみだれ)、梅雨(ばいう)、小糠雨(こぬかあめ)、夕立、秋雨(あきさめ)、時雨(しぐれ)、小雨(こさめ)、涙雨(なみだあめ)など、日本語の雨に関する単語は豊富で400語、もしくは1200語もあると言われております。それは、日本人の雨に対する繊細な感覚の現れでもあります。

*背(そむ)きの罪

本日の旧約聖書箇所の詩編51編3節を見てみます。

神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。

ダビデは「背(そむ)きの罪」を拭(ぬぐ)ってもらいたいと神に嘆願しています。

「背きの罪」とは、主人などを欺(あざむ)き反逆する罪のことです。例えば、牛、ろば、羊、上着、遺失物など巡って所有権を争い、裁判になり、有罪とされた場合の罪もこれに相当します。(出エジプト22:9)

*咎(とが)

4節には「咎(とが)」という表現があります。「咎」は、自分の好き勝手な判断で規則を破ってしまうことを意味しています。衣服を洗うことや沐浴(もくよく)をせよと命じるレビ記の規則に従わない罪を原文では同じ単語なのですが、「咎(とが)」ではなくレビ記では「罪責」と邦訳しています。(17:16)

*罪                       

 4節のもう一つの表現、ただ単に「罪」と記されている単語は、旧約聖書に300回以上も記されています。これは「あるべき道からは外れて不注意にも迷ってしまっている状態」を意味します。例えば、働いた人に賃金の支払いをせずに、働いた人から訴えられた場合の罪も含まれています(申24:15)。

わずか三種類の言葉ですが、私の行為がどの罪に問われるだろうかと考えさせられ、罪に敏感になってしまいます。ダビデは詩編51編において三種類の罪の言葉を13回も使って自分の犯した罪を全部ひっくるめて神に悔い改めを祈っています。

*責任ということ

罪に敏感になると、反面、罪に応じて下される罰はいかなるものかと気になります。旧約聖書を読みますと、例えば、自分の所有している牛が人を突(つ)く癖(くせ)を持っていることを事前に知っていたか、いなかったかで罰の程度が変わります。事件の加害者が、過失か故意かによっても変わります。心の中で自分の兄弟を憎んだか、憎まなかったのか、など内面的な動機も問われます。複雑(ふくざつ)多岐(たき)で詳細(しょうさい)な吟味(ぎんみ)が求められるので、律法の専門家でないと罪の解明(かいめい)が難(むずか)しくなってしまいます。神に対し罪を犯さないためには一体どうしたらよいかと途方に暮れてしまいます。

身近な例によって考えてみたいと思います。小学校6年生教科書『国語(下)』(昭和56年光村図書発行)に小児科医で思想家の松田道雄さんが書いた「責任というもの」という興味深い論説文が載っておりました。

要約して引用してみます。

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小学生の男の子たちが広場で野球をしていました。一人が打ったボールがフェンスを越えて向こうの家の窓ガラスを割ってしまいます。みんな一斉に逃げようとしますが、出口のところで校長先生に出会ってしまいます。そして、誤(あやま)りにせよ物を壊(こわ)したら持ち主に謝(あやま)らないといけないと注意されます。校長先生に言われたので、謝りに行ったとするならば、それは生徒としての義務を果たしたことになる。もし誰にも言われなくとも自分の意思で謝りに行ったのならば、それは壊したことの責任を取ったということです。規則などで縛(しば)られてではなく、自分の威厳(いげん)にふさわしいように振舞(ふるま)うことが責任です。責任は、人間にとって義務よりも大事なものです。

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このような論説文を読むと、規則や定めを熟知(じゅくち)していなくとも、神の似姿である人間の威厳(いげん)にふさわしく責任ある振る舞うことの大事なことが理解できます。人間には、自分の行動が神に喜ばれることか、厭(いと)われることか、を自主的に判断する能力が備わっているのです。

*取り除く=引き取る

 とはいえ、神の前で罪を犯してしまったらどうしたら良いのでしょうか。本日読みました新約聖書の箇所において、バプテスマのヨハネはイエス・キリストが自分の方に歩いてくるのを見て、

見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言っております。すなわち、どんな罪でも取り除くことのできるお方であるとバプテスマのヨハネはイエスキリストの真の姿を見抜いたのです。

「取り除く」という表現には「取り除いてポイと捨てる」というニュアンスだけではなくもう一つ意味があります。それは、「担う、背負う」とのニュアンスです。例えば、復活の朝早く、マグダラのマリアは、イエス・キリストの遺体が収められているはずの墓に行きます。しかし、イエス・キリストの遺体のない空っぽの墓を見て泣き出してしまいます。その時、復活のイエス・キリストが「なぜ泣いているのか。誰を探しているのか」とマリアに声をかけます。その人物がイエス・キリストであることを認識できず、園(その)の管理人と間違えてしまったマリアは、

あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります」と語りかけます。

マリアの最後の言葉「引き取る」が「取り除く」と同じ原語なのです。

バプテスマのヨハネは

見よ、世の罪を引き取る(引き受ける)神の小羊

と言ったのです。それは、世の罪を引き受け、罪の赦しを実現した イエスキリストの十字架を連想させるものでした。

2020年2月23日の説教要旨

詩編95:1-11、ヨハネ福音書 6:1-15

「少しも無駄にならないように」 遠藤尚幸先生(東北学院中学高校)

*大勢の群衆

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」(6:1-2)

 今朝、私たちに与えられたヨハネによる福音書の言葉には、そのようにありました。主イエスの後を追って大勢の群衆が歩いていく。聖書の言葉そのままに読めば、湖を超えて向こう岸までついてきた。そんな、大勢の群衆の姿が目に浮かびます。彼らはどうして主イエスを追いかけたのか。聖書はそれを「イエスが病人たちになさったしるし」を見たからだと語ります。大勢の群衆もまた、自らの病を持ちながら、湖を渡り、主イエスの後を追ってやってきたのです。このような思いは2000年前の聖書の時代も、現代も変わりません。また、病だけではなくて、辛さや苦しみの中で、主イエスを追って来た人もいたでしょう。そのような意味で、私たちもまた、今朝、この大勢の群衆のようでもあります。一人一人それぞれにある思いの中で、今共に、主イエスの語る言葉に耳を傾けています。

*イエスは目を上げ

 主イエスは、大勢の群衆にどのように応えたのでしょうか。

イエスは目を上げ、大勢の群衆が自分の方へ来るのを見て」(5節)

 主イエスは、群衆を見つめます。そのために目を上げます。主イエスの眼差しは、今、この群衆に注がれています。群衆が追いかけて来るというのは、全く聞く耳を持たない方の背中を見つめながら、追いかけるのではありません。彼らが追う主イエスは、彼ら一人一人を見つめている。

群衆はこの眼差しの中を歩みます。この場面、私は、神様と、そこに集おうとする私たち一人一人の姿に重ねることができると感じます。私たちも今日それぞれの思いを抱えながら、この礼拝に集っています。一週間の歩みを終え、それぞれにあった苦労を乗り越えてここに集っています。大勢の群衆は湖を渡ってきたわけですが、それは決して容易な道ではなかったはずです。湖を渡るには準備が必要です。その途上、嵐が起こることもあります。人々は自らの足で主イエスを追いかけます。向こう岸へ渡るというのは容易なことではありません。しかし、それでも主イエスを追いかけて来る。礼拝堂に集う私たちもまた、何よりも主イエスが私たちに目を上げ、待っていてくださっている中で集っている。そのことを忘れたくはないのです。そしてこの眼差しは、今朝この時間だけに注がれているものではありません。振り返れば、この一週間すべてをも包み込むように注がれてきた眼差しです。礼拝は、この神様の眼差しに私たちが気づくときでもあります。ああ、自分の人生は、その歩みは、神様の眼差しの中にあったのかと気づきます。一人で歩んでいたと考えていた時、苦難の中にあった時、その時に、神様は目を上げ、この私を見ていてくださった。大勢の群衆も、主イエスの眼差しに気付いた時、そのことを思い起こしたはずです。主イエスが見ている。もう大丈夫だ。ここに私たちの真の安心があります。

*足りないでしょう

 主イエスはこの群衆に眼差しを注ぎながら、弟子のフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言いました。しかし、主イエスはこの後におこることをご存知の上で、フィリポにこう尋ねたと記されています。フィリポは、主イエスの問いにこう答えます。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。一デナリオンは、当時の一日分の給料と同等の金額です。ですから、二百デナリオンは200日働いた人が手にすることができる金額でした。主イエスの前にいた人々は男だけで5000人とも書かれています。女性や子ども含めれば1万人以上はいたと想像することができます。当然、この人々に食事を与えることなど想像することができないわけです。フィリポにとってみれば、自分の理解を超えた問いに、彼なりに一生懸命計算して出した答えが「200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」という諦めとも取れる言葉でした。そこで出て来るのが、一人の少年です。

*五つのパンと魚二匹

 8節には、続けて主イエスの弟子の一人であったアンデレがこう言ったことが記されています。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。

 一人の少年が大麦のパン五つと、魚二匹を持っている。アンデレは、そのことを主イエスに報告します。しかし先ほどのフィリポ同様、それでこの人数の人に食べさせることなど不可能であることを伝えます。この少年はどうして大麦のパン五つと魚二匹を持っていたのでしょうか。主イエスについてきた人の子どもであったかもしれないし、一人で来た少年だったのかもしれません。自分で自分の分として、彼なりに一生懸命準備して来たものだったかもしれません。アンデレが言うように、大勢の前では意味がないものかもしれません。しかし沢山いる弟子たち、大人たちの中で、よく準備して来た少年であったことは確かです。主イエスはその少年を見逃しませんでした。主イエスの眼差しというのは、こういうところまで行き届いています。弟子が目の前の大勢の群衆にばかり目を奪われ、少年や、少年の持っている持ち物を「足りないでしょう」、「何の役にも立たないでしょう」と言う時に、主イエスはこの少年の持ち物こそ、この5000人以上の人々の空腹を満たすために用いるべきものだと判断するのです。主イエスは人々を座らせました。そして、パンを取り、感謝の祈りを唱え、魚も同じようにし、それを座っている人々に分け与えました。このパンと魚を通して人々は、満たされていきます。そして主イエスはこう言います。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい

*「少しも無駄にならないように」

「少しも無駄にならないように」。これが、主イエスが弟子たちに語った言葉です。人々を満腹にさせ、それでもなお残った分がありました。残った分をどうするか、主イエスはそれもまた丁寧に扱おうとします。考えてみれば今朝与えられた箇所は、最初から最後まで、主イエスの私たち人間に対する心遣いを見て取れる箇所だとも感じます。大勢の群衆を見つめる眼差しから始まり、小さな少年のわずかな持ち物を大切にし、そして、残ったものを一つも無駄にしない。一つ一つを丁寧に扱おうとする、主イエスの姿があります。ここで使われている「無駄にする」という言葉は原文では、ヨハネによる福音書においては「滅びる」とか「失う」とか「朽ちる」という意味で使われる言葉です。有名な言葉で、たとえばヨハネによる福音書3:16で使われています。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。他にも6:27「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」というところにも「朽ちる」という箇所で使われています。どうして、それほど大切に扱うのか。それはそこに集う一人一人が、少年が差し出したパンと魚が、神様ご自身が備え、与えてくださったものだからです。私たちが誰一人として、滅びることのないように、失われることのないように、朽ちることのないように、これが神様の御心です。そのために、主イエスは来てくださり、私たちに目を上げ、その眼差しを注いで下さっているのです。

*教会の姿

 教会は、主イエスを中心として、一人一人が、大切に、神様によって用いられる場所です。私たち人間には何の価値もないように見えるもの、弟子たちだけではなくて、少年も、まさか自分自身の小さな持ち物が、こんなに大きな出来事に用いられるとは考えてはいませんでした。私たちもそういうところがあります。自分の持っているもの、それを自分のものさしで測ってしまうところがある。主イエスがフィリポを試されたというのは、そんな人間のものさしだけで物事を測ることから抜け出させようとするためではなかったのかとも感じます。私たちの頭で考えることには限界があります。5000人以上の人に、食事を与えなさいと言われて、そんなこと無理だと考えてしまうのが私たちです。しかし、聖書は、その先に、神様が共にいるゆえに、道が開かれていくことを教えています。今朝与えられた詩編95:9には「あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した」とありました。「神を試す」とは「人間のものさしだけですべてを測ろうとすること」です。しかし、教会は、その先を見つめます。人間の持っている小さなものを、なお、神様は大胆に用いてくださる。私たち一人ひとりにも、そういうものがあるのではないでしょうか。それは自分から見れば、目の前にある課題を解決するのには十分ではないものに見えるかもしれない。しかし、神様の目には、他ならぬ十分すぎるものであることがあるのです。私が初めて神学校を見学に行った時に、説教台に立って説教を語っている神学生を見て、自分には到底こんなことはできないと感じました。しかし、神様は今、私を、この説教台に立たせてくださっています。人間の目に不十分だと思えることが、しかし、神様の御手の中で用いられる時に、思いもよらない可能性があったのだと気付かされるのです。

私たちのうちに、足りないものは何一つありません。神様が満たしてくださるから、私たちにはそれで十分です。

*世に来られる

 この人間の理解を超えた主イエスの業を通して、人々は変わっていきました。「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。」(6:14)

「世に来られる」とはヨハネによる福音書で重要な言葉です。ヨハネによる福音書は主イエスを世に来られる光であり、神の子であることを証言しています。つまりこの人々も、主イエスが何者であるかを知ったということです。主イエスこそ、この世を照らす光です。そして、私たちの罪を背負い、十字架につけられていく小羊です。私たち人間は、主イエス・キリストが十字架で命を捨ててくださったことを通して、神様の子どもとして今ここに集うことが赦されています。この人々の言葉は、私たち一人一人の言葉です。遠い時代、ガリラヤで始まった主イエスの伝道の果実は、今の時代、私たち一人一人を通して実っています。主イエスは、私たち一人一人を決して見捨てることはありません。

 どこまでも、最後の一人までも決して無駄にすることはしない。私たちがその最後の一人でもあります。私たちのために、キリストはあの十字架で命を捨ててくださいました。

*受難節に向かって

 今週の水曜日、灰の水曜日より受難節に入ります。受難節は主イエス・キリストの十字架の苦しみを覚える期間です。最後の一週間である受難週は、主イエスの十字架までの一週間を想起させる、教会歴の中で最も聖なる一週間と言われます。

どうして、主イエスの苦しみが一年で最も尊いのか。

それは、世に来られた神の子であるイエス・キリストが、私たち一人一人の罪を背負って、十字架の道を歩んで下さったからです。

私たち人間ではどうすることもできなかった、神様の前での罪の問題の一切は、キリストの十字架を通して贖われました。私たちはただひたすら、その恵みを感謝して受け取るだけです。

籠いっぱいになったパンの屑は、今、私たちの集う教会へと託されています。神様の恵みは、この教会を通して、さらに多くの人へと手渡されていきます。5000人を遥かに超える食卓は決して聖書の中だけの「奇跡」ではありません。その「奇跡」は教会を通して、私たち一人一人を通して、今も続いている出来事です。

あなたにも、神様の愛の眼差しが注がれている。安心していい。不安こそが高らかに叫ばれる時代にあって、神様が共にいる恵みをご一緒に伝えていきたいと願います。

教会はキリストの体です。誰一人滅ぶことのないように、朽ちることのないように、「少しも無駄にならないように」、神の恵み、十字架の キリストを私たちは今日、この時代に語り伝えます。

5月13日の説教要旨 「キリストの昇天」 牧師  平賀真理子

イザヤ書45:1-7 ヨハネ福音書17:1-13

 はじめに

先週の木曜日は「主の昇天を記念する日」でした。復活の主が40日間弟子達に現れたと聖書にあります(使徒言行録1:3)。教会暦では今年のイースターは4月1日で、40日後の5月10日が昇天記念日でした。

 

十字架に向けての逮捕直前の「告別説教」とその後の「イエスの祈り」

今日の聖書の直前には、イエス様が十字架へ向けて逮捕される前の「告別説教」があります。ここで、イエス様は弟子達にたくさん語っておきたいことがある!でも、彼らにはなかなか伝わらないという状況だったことがわかります。しかも、弟子の一人が、反対派をイエス様の所へ導いて来る時が迫り、その他の弟子達は不穏な雰囲気を感じ取って不安になっています。そこで、イエス様は、告別説教の内容については、御自分の昇天の後で、天の父なる神様がお遣わしになる「聖霊」が弟子達を悟らせると預言なさいました。(イエス様の死後、その通りでした!)

告別説教の後に、イエス様は「天の父なる神様」に向かって祈りを献げました。その祈りを、今、私達は聖書で知ることができています。これこそ、奇跡です!前述の通り、弟子達は、イエス様の遺言と言える「告別説教」をその瞬間には理解していたとは思えません。後に、聖霊をいただくようになって、「告別説教」と、その直後の「イエスの祈り」の意味を悟ることができるようになり、こうして、後の時代の信仰者のために、大事な御言葉を残したと言えるでしょう。これこそ、イエス様が約束なさった「聖霊」が弟子達に降った証しの一つです。人間の知識や判断を越えた「神様の働き」が起こった、つまり、弟子達に降った「聖霊」が、彼らを通して働いたのです。

 

父なる神様の栄光を何よりも尊重する

イエス様は、今日の箇所の「祈り」において、まず、父なる神様の栄光のために、御自分に栄光を与えてくださいと祈られました。イエス様の生涯は、天の父なる神様を第一の御方とすることで貫かれています。それがここにも表れています。何よりも「自分の栄光」を求めてしまうような罪深い私達人間と、イエス様は全く違う御方なのです。

 

「永遠の命」

この「イエスの祈り」の前半で、「永遠の命」について、イエス様が、はっきり言及なさっていることに驚かされます。3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなた(父なる神)と、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とおっしゃいました!

 

父なる神様と御子イエス様を「深く知る」

3節で、もう一つ注目したいことは、「知る」という単語です。元々の言葉(ギリシア語)では「内面まで深く知ること、または知るようになること」という意味があります。「単に知識として表面的に知っている」ということではありません。その点、イエス様の直弟子さん達はうらやましい限りです。イエス様と寝食を共にしていたのですから、イエス様がどういうお人柄か、「深く知る」ことができたわけです。けれども、後代の信仰者の私達も、イエス様を「深く知る」ことができます。一つは「聖書」によってです。イエス様がどのような御方なのかを深く知るために福音書が読めます!もう一つは「聖霊」によってです。父なる神様と御子イエス様の御心を行う聖霊は、イエス様を深く知りたい、その御心に従いたいと願う信仰者を助けてくださいます。「聖霊の助け」を祈り求めていくのに限界はありません。救い主イエス様の昇天後=イエス様が神様として天におられる今、私達は「聖霊の助け」を賜り、時空を超えて、イエス様を「深く知る」ことに励むことができるのです!

 

 弟子達(まだ見ぬ弟子達=「私達」をも含む!)への愛

この「祈り」で、イエス様は弟子達を父なる神様から与えられた人々であり、父なる神様から御自分に託された御言葉を守った人々であると言って喜び、今度は彼らを御自分の喜び=本当の喜びで満たしたいという愛で溢れておられると感じます。更に、20節「彼らの言葉によってわたしを信じる人々のために」と祈ってくださいました。まさしく私達のために、もっと言えば、私達一人一人が神様に背いていた時からずっと、イエス様は既に私達のために、父なる神様に執り成しの祈りをしてくださっていたのです!その大きな深い愛に心から感謝するものです!

5月6日の説教要旨 「父なる神のもとに行く主」 牧師  平賀真理子

創世記18:23-33 ヨハネ福音書16:12-24

 はじめに

今日の新約聖書の箇所も、「告別説教」の一部分です。イエス様が十字架にかかる直前に、弟子達に向けて語られた「遺言」と言えます。

 

 告別説教の中で語られている「聖霊」

「告別説教」の中には、「聖霊」に関する教えがたくさん含まれています。「聖霊」については、「神の霊」と説明されることが多いですが、「告別説教」を読むと、「聖霊」は、イエス様が天の父なる神様のもとに帰った後、弟子達の所に来てくださる霊だと示されています。

 

「父なる神様のもとに帰る」(14:3、14:28、16:5、16:28)

間近に起こることに不安を抱える弟子達を前に、イエス様は、告別説教でずっと、御自分はまもなく「天」=御自分を派遣なさった「父なる神様」のもとに帰ると何度も教えてくださいました。実は、これ以前にも、同じことをイエス様は語っておられました。今回、そのことを示された箇所を拾い上げようとしたら、1章から告別説教に入る直前の13章までのほぼ全ての章で、御自分が天の父なる神様から派遣され、この世に来られたと教えておられました!その多さに驚かされました。

 

 天からこの世に来られたイエス様がなさること

 その中でも、1章51節の御言葉に注目したいと思います。ナタナエルとフィリポという弟子達に最初に会った時、イエス様は、「天が開け、神の天使たちが人の子(救い主イエス様)の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と語られました。これは、御自分が天から降ってきて、父なる神様の御心と交流して一致しながら、御心をこの世に実現すること、そして、身近にいる弟子達がその証し人となるとの預言です。主の歩み全てが天の父なる神様の御心のとおりであり、この直後の十字架と復活も、父なる神様の御心だと示されていると理解できるのではないでしょうか。

 

 「天の神様」に常に心を向けていたイエス様と全く心を向けない私達

 今日の旧約聖書の箇所では、信仰の祖アブラハムが、主なる神様に対して「神の義」を真剣に求めていたと読み取れます。アブラハムは「天」におられる神様に心を向けていたのです。さて、現代の私達はどうでしょうか。自分のことやこの世のことに夢中になりすぎて、「天の神様」を全く忘れてしまいがちではないでしょうか。一方、イエス様は、私達とは全く異なり、天の父なる神様からこの世に派遣されたことを常に主軸にして歩まれたことが、ヨハネ福音書全体に記されています。

 

 三位一体の神(御父と御子と聖霊の一致)

 今日の箇所の初めの部分で、イエス様は、弟子達への教えを途中で止め、弟子達に悟らせるという働きを「聖霊」に委ねました。「聖霊」が御自分と同様に弟子達を導くことができるとご存知でした。「聖霊」にどうしてそのような力があるのかは14節~15節に書いてあります。「聖霊」は、天の父なる神様と御子イエス様とは全く別の存在として勝手に考えて行動する存在ではない!と証しされています。天の父なる神様とイエス様が一体なので、その間で語られることは当然一致しており、それを、この世に実現させるものとして「聖霊」はこの世に派遣されます。御子イエス様は、従順なる十字架の死により、天の父なる神様から御自分と同格の存在として栄光を賜ります。そして、御自分と同じ性質や力を持つ聖霊を、弟子達に送る権威と力を賜ったのです。この説は、やがて「三位一体の神」と言われますが、これが、ある神学者によって打ち出されるまで数百年かかりました。神様が示された聖書の内容を理論的に分析するのに、人間の僅かな知恵では数百年かかるのです。

 

主の十字架と復活、そして昇天による恵み

16節~19節は、私達=後の信仰者は、弟子達が「主の十字架」による苦難の後、「復活の主」に出会い、誰にも奪われない喜びに溢れたことを指すと知らされています。主の預言が実現しました!更に、イエス様は弟子達に対し、御自分の名による祈りは全て実現すると語られました。なぜなら、イエス様の名を通す弟子達の祈りは、主の御心と一体であると証しされ、父なる神様が、聖霊を、この世への実現のために働くようになさるからです。これも、イエス様が「天」に帰られたことによる恵みであり、私達も弟子として同じ恵みをいただけることに感謝です!

4月29日の説教要旨 「神の民であるということ」 牧師  平賀真理子

出エジプト記19:1-9 ヨハネ福音書15:1-10

はじめに

今日の新約聖書の箇所の5節の聖句「わたし(イエス様)はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」は、キリスト教会の中で、多くの信仰者に愛されている箇所です。ただ、それだけでなく、イエス様の弟子達への遺言、いわゆる「告別説教(訣別説教)」の中にある御言葉だという理由で、信仰者である私達は重く受け止める必要があると思います。

この聖句は、もちろん、比喩=例えです。ぶどうの木と例えられるイエス様に、弟子達がつながっていなさいという教えです。それで、イエス様につながるとは具体的にどういうことかというと、直前の段落14章23節に「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」という御言葉があるので、イエス様につながることを求めている弟子達は、イエス様の御言葉を守ることが大前提だということがわかります。

 

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(15:1)

イエス様が御自分をぶどうの木と例えたのにはもう一つ、理由があって、それは1節「わたしの父は農夫である」という例えをおっしゃりたかったからではないかと推測できます。イエス様のこの世での歩みをすべて支配なさっているのが「父なる神様」であると、例えを用いて、弟子達にわからせようとなさったのだと思います。イエス様は御言葉を聞く弟子達の理解に合わせて、例え話をなさったのです。

 

つながっていながら実を結ばない枝と豊かに実を結ぶ枝

しかし、続く2節では、イエス様に例えられるぶどうの木につながっていながらも実を結ばない枝があるという表現に出会います。そういう枝は父なる神様が取り除かれると言われました。次に進むと、逆に、イエス様に例えられるぶどうの木につながって豊かに実を結ぶ枝もあると表現されています。どちらも、イエス様につながっている枝、つまり、弟子でありながら、父なる神様によって、滅ぼされる枝と、祝福を受ける枝があるということです。

 

滅びと祝福の差=「言葉(ロゴス)につながっているか否か」

では、この2種類の、正反対の結果になるものの差は何でしょうか。どちらもイエス様につながっている枝なのに、大きな差が出てくるのはどうしてでしょうか?それは3節にある言葉がキーワードです。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」の「言葉」です。新約聖書の原語ギリシア語でこの単語は「ロゴス」となっています。ヨハネによる福音書の冒頭の1章では、イエス様が神様の言(ことば)(ロゴス)そのものであり、その言(ことば)がこの世に人間の肉となったと語られています。「ロゴス」は単に「話す言葉」」というよりも、神様の特徴とか特質、もっと言うと、神様の本質=神の真理であると言えます。だから、3節にあるように、神様の真理が、イエス様によってこの世に表現されることとなって、それを受け入れて従おうとする弟子達は、イエス様の話した言葉で清くされることが既に(本人達がわかっていなくても)起こっていたわけです。神の民として、もはや神様の祝福を受ける対象になっているという恵みが語られているのです。ぶどうの木と例えられるイエス様と本当の意味でつながれる枝とは、神の真理を現わすロゴスを守ろうとして聞く弟子達のことを意味しているわけです。

 

神の真理「ロゴス」とは何か?

「ロゴス」には、本当の神様がどんな御方かの特質も含まれますし、特に、救い主イエス様の十字架と復活という救いの御業も含まれていることを忘れてはならないでしょう。この「神様の救いの御業」の源に「ロゴス」という神様の本質=神の真理があるのです。イエス様の癒し等の愛の業を見て、その表面的なところだけをまねようとする人がいます。しかし、そこに「ロゴス」に対する信仰がなければなりません。それがない人は、2節の表現から言えば、徹底的に滅ぼされるわけです。

 

「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」(15:7)

一方、7節にある「言葉」は「ロゴス」という単語ではなく、話す内容という意味の単語が用いられています。イエス様の出来事を「ロゴス」として理解するのは、実はかなり難しいです。せめて、イエス様の御言葉そのものや、この世での歩み等を学び、記憶し、生きる中心に据えて従おうと努めるのが「神の民であるということ」の要(かなめ)だと言えます。