5月13日の説教要旨 「キリストの昇天」 牧師  平賀真理子

イザヤ書45:1-7 ヨハネ福音書17:1-13

 はじめに

先週の木曜日は「主の昇天を記念する日」でした。復活の主が40日間弟子達に現れたと聖書にあります(使徒言行録1:3)。教会暦では今年のイースターは4月1日で、40日後の5月10日が昇天記念日でした。

 

十字架に向けての逮捕直前の「告別説教」とその後の「イエスの祈り」

今日の聖書の直前には、イエス様が十字架へ向けて逮捕される前の「告別説教」があります。ここで、イエス様は弟子達にたくさん語っておきたいことがある!でも、彼らにはなかなか伝わらないという状況だったことがわかります。しかも、弟子の一人が、反対派をイエス様の所へ導いて来る時が迫り、その他の弟子達は不穏な雰囲気を感じ取って不安になっています。そこで、イエス様は、告別説教の内容については、御自分の昇天の後で、天の父なる神様がお遣わしになる「聖霊」が弟子達を悟らせると預言なさいました。(イエス様の死後、その通りでした!)

告別説教の後に、イエス様は「天の父なる神様」に向かって祈りを献げました。その祈りを、今、私達は聖書で知ることができています。これこそ、奇跡です!前述の通り、弟子達は、イエス様の遺言と言える「告別説教」をその瞬間には理解していたとは思えません。後に、聖霊をいただくようになって、「告別説教」と、その直後の「イエスの祈り」の意味を悟ることができるようになり、こうして、後の時代の信仰者のために、大事な御言葉を残したと言えるでしょう。これこそ、イエス様が約束なさった「聖霊」が弟子達に降った証しの一つです。人間の知識や判断を越えた「神様の働き」が起こった、つまり、弟子達に降った「聖霊」が、彼らを通して働いたのです。

 

父なる神様の栄光を何よりも尊重する

イエス様は、今日の箇所の「祈り」において、まず、父なる神様の栄光のために、御自分に栄光を与えてくださいと祈られました。イエス様の生涯は、天の父なる神様を第一の御方とすることで貫かれています。それがここにも表れています。何よりも「自分の栄光」を求めてしまうような罪深い私達人間と、イエス様は全く違う御方なのです。

 

「永遠の命」

この「イエスの祈り」の前半で、「永遠の命」について、イエス様が、はっきり言及なさっていることに驚かされます。3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなた(父なる神)と、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とおっしゃいました!

 

父なる神様と御子イエス様を「深く知る」

3節で、もう一つ注目したいことは、「知る」という単語です。元々の言葉(ギリシア語)では「内面まで深く知ること、または知るようになること」という意味があります。「単に知識として表面的に知っている」ということではありません。その点、イエス様の直弟子さん達はうらやましい限りです。イエス様と寝食を共にしていたのですから、イエス様がどういうお人柄か、「深く知る」ことができたわけです。けれども、後代の信仰者の私達も、イエス様を「深く知る」ことができます。一つは「聖書」によってです。イエス様がどのような御方なのかを深く知るために福音書が読めます!もう一つは「聖霊」によってです。父なる神様と御子イエス様の御心を行う聖霊は、イエス様を深く知りたい、その御心に従いたいと願う信仰者を助けてくださいます。「聖霊の助け」を祈り求めていくのに限界はありません。救い主イエス様の昇天後=イエス様が神様として天におられる今、私達は「聖霊の助け」を賜り、時空を超えて、イエス様を「深く知る」ことに励むことができるのです!

 

 弟子達(まだ見ぬ弟子達=「私達」をも含む!)への愛

この「祈り」で、イエス様は弟子達を父なる神様から与えられた人々であり、父なる神様から御自分に託された御言葉を守った人々であると言って喜び、今度は彼らを御自分の喜び=本当の喜びで満たしたいという愛で溢れておられると感じます。更に、20節「彼らの言葉によってわたしを信じる人々のために」と祈ってくださいました。まさしく私達のために、もっと言えば、私達一人一人が神様に背いていた時からずっと、イエス様は既に私達のために、父なる神様に執り成しの祈りをしてくださっていたのです!その大きな深い愛に心から感謝するものです!

5月6日の説教要旨 「父なる神のもとに行く主」 牧師  平賀真理子

創世記18:23-33 ヨハネ福音書16:12-24

 はじめに

今日の新約聖書の箇所も、「告別説教」の一部分です。イエス様が十字架にかかる直前に、弟子達に向けて語られた「遺言」と言えます。

 

 告別説教の中で語られている「聖霊」

「告別説教」の中には、「聖霊」に関する教えがたくさん含まれています。「聖霊」については、「神の霊」と説明されることが多いですが、「告別説教」を読むと、「聖霊」は、イエス様が天の父なる神様のもとに帰った後、弟子達の所に来てくださる霊だと示されています。

 

「父なる神様のもとに帰る」(14:3、14:28、16:5、16:28)

間近に起こることに不安を抱える弟子達を前に、イエス様は、告別説教でずっと、御自分はまもなく「天」=御自分を派遣なさった「父なる神様」のもとに帰ると何度も教えてくださいました。実は、これ以前にも、同じことをイエス様は語っておられました。今回、そのことを示された箇所を拾い上げようとしたら、1章から告別説教に入る直前の13章までのほぼ全ての章で、御自分が天の父なる神様から派遣され、この世に来られたと教えておられました!その多さに驚かされました。

 

 天からこの世に来られたイエス様がなさること

 その中でも、1章51節の御言葉に注目したいと思います。ナタナエルとフィリポという弟子達に最初に会った時、イエス様は、「天が開け、神の天使たちが人の子(救い主イエス様)の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と語られました。これは、御自分が天から降ってきて、父なる神様の御心と交流して一致しながら、御心をこの世に実現すること、そして、身近にいる弟子達がその証し人となるとの預言です。主の歩み全てが天の父なる神様の御心のとおりであり、この直後の十字架と復活も、父なる神様の御心だと示されていると理解できるのではないでしょうか。

 

 「天の神様」に常に心を向けていたイエス様と全く心を向けない私達

 今日の旧約聖書の箇所では、信仰の祖アブラハムが、主なる神様に対して「神の義」を真剣に求めていたと読み取れます。アブラハムは「天」におられる神様に心を向けていたのです。さて、現代の私達はどうでしょうか。自分のことやこの世のことに夢中になりすぎて、「天の神様」を全く忘れてしまいがちではないでしょうか。一方、イエス様は、私達とは全く異なり、天の父なる神様からこの世に派遣されたことを常に主軸にして歩まれたことが、ヨハネ福音書全体に記されています。

 

 三位一体の神(御父と御子と聖霊の一致)

 今日の箇所の初めの部分で、イエス様は、弟子達への教えを途中で止め、弟子達に悟らせるという働きを「聖霊」に委ねました。「聖霊」が御自分と同様に弟子達を導くことができるとご存知でした。「聖霊」にどうしてそのような力があるのかは14節~15節に書いてあります。「聖霊」は、天の父なる神様と御子イエス様とは全く別の存在として勝手に考えて行動する存在ではない!と証しされています。天の父なる神様とイエス様が一体なので、その間で語られることは当然一致しており、それを、この世に実現させるものとして「聖霊」はこの世に派遣されます。御子イエス様は、従順なる十字架の死により、天の父なる神様から御自分と同格の存在として栄光を賜ります。そして、御自分と同じ性質や力を持つ聖霊を、弟子達に送る権威と力を賜ったのです。この説は、やがて「三位一体の神」と言われますが、これが、ある神学者によって打ち出されるまで数百年かかりました。神様が示された聖書の内容を理論的に分析するのに、人間の僅かな知恵では数百年かかるのです。

 

主の十字架と復活、そして昇天による恵み

16節~19節は、私達=後の信仰者は、弟子達が「主の十字架」による苦難の後、「復活の主」に出会い、誰にも奪われない喜びに溢れたことを指すと知らされています。主の預言が実現しました!更に、イエス様は弟子達に対し、御自分の名による祈りは全て実現すると語られました。なぜなら、イエス様の名を通す弟子達の祈りは、主の御心と一体であると証しされ、父なる神様が、聖霊を、この世への実現のために働くようになさるからです。これも、イエス様が「天」に帰られたことによる恵みであり、私達も弟子として同じ恵みをいただけることに感謝です!

4月29日の説教要旨 「神の民であるということ」 牧師  平賀真理子

出エジプト記19:1-9 ヨハネ福音書15:1-10

はじめに

今日の新約聖書の箇所の5節の聖句「わたし(イエス様)はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」は、キリスト教会の中で、多くの信仰者に愛されている箇所です。ただ、それだけでなく、イエス様の弟子達への遺言、いわゆる「告別説教(訣別説教)」の中にある御言葉だという理由で、信仰者である私達は重く受け止める必要があると思います。

この聖句は、もちろん、比喩=例えです。ぶどうの木と例えられるイエス様に、弟子達がつながっていなさいという教えです。それで、イエス様につながるとは具体的にどういうことかというと、直前の段落14章23節に「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」という御言葉があるので、イエス様につながることを求めている弟子達は、イエス様の御言葉を守ることが大前提だということがわかります。

 

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(15:1)

イエス様が御自分をぶどうの木と例えたのにはもう一つ、理由があって、それは1節「わたしの父は農夫である」という例えをおっしゃりたかったからではないかと推測できます。イエス様のこの世での歩みをすべて支配なさっているのが「父なる神様」であると、例えを用いて、弟子達にわからせようとなさったのだと思います。イエス様は御言葉を聞く弟子達の理解に合わせて、例え話をなさったのです。

 

つながっていながら実を結ばない枝と豊かに実を結ぶ枝

しかし、続く2節では、イエス様に例えられるぶどうの木につながっていながらも実を結ばない枝があるという表現に出会います。そういう枝は父なる神様が取り除かれると言われました。次に進むと、逆に、イエス様に例えられるぶどうの木につながって豊かに実を結ぶ枝もあると表現されています。どちらも、イエス様につながっている枝、つまり、弟子でありながら、父なる神様によって、滅ぼされる枝と、祝福を受ける枝があるということです。

 

滅びと祝福の差=「言葉(ロゴス)につながっているか否か」

では、この2種類の、正反対の結果になるものの差は何でしょうか。どちらもイエス様につながっている枝なのに、大きな差が出てくるのはどうしてでしょうか?それは3節にある言葉がキーワードです。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」の「言葉」です。新約聖書の原語ギリシア語でこの単語は「ロゴス」となっています。ヨハネによる福音書の冒頭の1章では、イエス様が神様の言(ことば)(ロゴス)そのものであり、その言(ことば)がこの世に人間の肉となったと語られています。「ロゴス」は単に「話す言葉」」というよりも、神様の特徴とか特質、もっと言うと、神様の本質=神の真理であると言えます。だから、3節にあるように、神様の真理が、イエス様によってこの世に表現されることとなって、それを受け入れて従おうとする弟子達は、イエス様の話した言葉で清くされることが既に(本人達がわかっていなくても)起こっていたわけです。神の民として、もはや神様の祝福を受ける対象になっているという恵みが語られているのです。ぶどうの木と例えられるイエス様と本当の意味でつながれる枝とは、神の真理を現わすロゴスを守ろうとして聞く弟子達のことを意味しているわけです。

 

神の真理「ロゴス」とは何か?

「ロゴス」には、本当の神様がどんな御方かの特質も含まれますし、特に、救い主イエス様の十字架と復活という救いの御業も含まれていることを忘れてはならないでしょう。この「神様の救いの御業」の源に「ロゴス」という神様の本質=神の真理があるのです。イエス様の癒し等の愛の業を見て、その表面的なところだけをまねようとする人がいます。しかし、そこに「ロゴス」に対する信仰がなければなりません。それがない人は、2節の表現から言えば、徹底的に滅ぼされるわけです。

 

「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」(15:7)

一方、7節にある「言葉」は「ロゴス」という単語ではなく、話す内容という意味の単語が用いられています。イエス様の出来事を「ロゴス」として理解するのは、実はかなり難しいです。せめて、イエス様の御言葉そのものや、この世での歩み等を学び、記憶し、生きる中心に据えて従おうと努めるのが「神の民であるということ」の要(かなめ)だと言えます。

4月15日の説教要旨 「まことの羊飼い」 牧師  平賀真理子

エゼキエル書34:7-16 ヨハネ福音書10:7-18

 

はじめに

今日の新約聖書の箇所は、キリスト教会では有名な箇所の一つで、イエス様が御自分が良い羊飼いであると証しされています。それも重要ですが、読み返すと、それ以外にも大変重要なことが語られていることがわかりました。そのことをお伝えしたいと思います。

 

前の9章を受け、「羊の囲い」(16)の例えを理解する

10章から読み始めると、いきなり「羊の囲い」の話が始まり、この1-6節の段落の話を受けて、今日の箇所の7節からは「羊の門」や「羊飼い」という言葉に続きます。イエス様は、「羊の囲い」に入る時に「門」を通らないでほかの所を乗り越えて来る者を、「盗人」や「強盗」とおっしゃいました。が、これは例えです。「盗人」「強盗」とは、その前の9章に書かれている「ファリサイ派の人々」を例えたものです。

9章では、生まれつき目の見えない人をイエス様が癒して見えるようになさった出来事を通し、ファリサイ派の人々が、その明白な事実を、頑なに否定しようとする様子が記されています。彼らは、イエス様の癒しの御業が神様からの御力をいただいた結果だと認めるのは、イエス様が神様が遣わされた御方だと認めることになると知っていました。だから、癒された本人が「あの方は神のもとから来られた(9:33)」と証ししているにも関わらず、ファリサイ派の人々は、証言者の人格否定をして(9:34)、この証しも否定しました。ファリサイ派はユダヤ教指導者として、ユダヤの民衆(羊と例えられる)を導く使命を神様から与えられているはずなのに、彼らは、民衆を慰めたり導いたりすることに留意せず、弱い立場の人を助けずに無視し、民衆からは利益や尊敬を搾取することだけを主眼にしていたのです。それは、当時の宗教指導者だけの過ちではなく、昔から「牧者」と例えられる宗教指導者が犯してきた罪の姿だと、今日の旧約聖書の箇所からもわかります。ファリサイ派の人々は、民衆を神様に導くはずなのに、自分の方へ導こうとしていました。その姿は、「本当の救い」をもたらすためにこの世に来られたイエス様から見れば、「盗人」「強盗」と同じだったのです。「羊の囲い」とは本当の神様から全権委任されたイエス様の「救いの枠」、または「神の国」とも言えるでしょう。

 

「羊の門」を入った羊(人々)が「良い羊飼い」(イエス様)に導かれる

イエス様は御自分のことを「羊の門」であり、「良い羊飼い」であるとの2種類の言葉で御自分を再び゙例えようとなさいました。「羊の門」とは、具体的には、イエス様を救い主として受け入れることで、神様の救いを受ける基準を満たすことを表しています。「わたしを通って入る者は救われる(9節)」とあるとおりです。また、正しい門から入った羊だけが、牧草を見つけて豊かに生きるとは、イエス様の本当の救いに与る者だけが、神様から永遠の命をいただけることを意味しています。更に、イエス様は、御自分を表現なさるのに「羊の門」という「基準」を表す、旧約的な例えだけでは足りないと思われたのか、「羊飼い」という例えも重ねられました。これは、羊を所有する羊飼いなら、羊の命が危険な時は、自らが自分の命を懸けて羊を守る姿を例えたもので、「良い羊飼い」とはイエス様が、神様から救うべき人々を託され、命を懸けて愛する御姿の例えです。(一方、雇われ羊飼いは、責任を持っていないので、羊の命よりも自分の命を優先すると言われています。ファリサイ派の人々の例えです。)

 

十字架と復活の告知がここにも!

「良い羊飼い」の箇所で、今回の発見の最大のものは、17-18節に「主の十字架と復活」が告知されているということです。イエス様が御自分の命を、再び受けるために、捨てること、それ故に父なる神様がイエス様を愛してくださり、再び命を受けることが、主の御言葉として述べられていて、「十字架と復活」の別の表現がなされていると改めて認識しました。新約聖書の大事な使信がここにもあると驚かされ、感動しました。

 

「囲い」に入っていない ほかの羊も導かなければならない(16節)

最後に、16節から、イエス様が救いたいと願う人々がユダヤ人だけでなく、全世界にいるのだとわかります。主の熱意を受け継いで、私達一人一人が福音伝道に励むようにとの、イエス様からのメッセージが送られています!そのために主によって用いられたいと祈り求めましょう。

4月8日の説教要旨 「見ずして信ずる者は幸福(さいわい)いなり」 佐藤 義子

詩編145:1b-9,17-21 ヨハネ福音書20:19-29

はじめに

イエス様が復活した! 死人がよみがえった!   教会が知らせる、この素晴らしいニュースは、人知を超える出来事ですから、普通の感覚であれば、あり得ないこと、信じ難いこととして受け止められます。それゆえ、イエス様が十字架というむごい死刑で死なれたこと、しかも死で終らずに三日目に復活されたことが、伝道を困難にしていると考えて、もしも宣教内容を、イエス様の「十字架の死と復活」を背後にまわして、前面には「神の愛、キリストの愛、隣人愛」だけを大きな声で語り続けていくならば、教会は教会でなくなってしまうでしょう。キリスト教は確かに、私達人間が正しく生きる生き方を指し示していますが、その大中心にあるのはイエス・キリストの十字架の死と三日後の復活の出来事(その根源には神の愛・キリストの愛がある)であり、これこそキリスト教がキリスト教として立ち続けている土台です。

 

家の戸に鍵をかけていた弟子達

今日の聖書には、イエス様の十字架に伴うご受難と死と埋葬の出来事(18-19章)に続く、三日目に起こった復活の出来事が記されています。20章前半には、マグダラのマリアが復活されたイエス様と最初に会い、弟子達に、イエス様とお会いしたことと受けた伝言を伝えたことが記されており、今日の箇所は、同じ日の夕方、復活されたイエス様がトマスを除く弟子達の集まっている所に来て下さったこと、後半には、その八日後、再びイエス様が、今度はトマスもイエス様とお会いした出来事が記されています。 今日読んだ最初の19節には、弟子達がユダヤ人を恐れて家に鍵をかけていたとあります。弟子達は、今まで主と仰ぎ、先生と慕ってついてきたイエス様を失い、大きな失意と悲しみの中にいただけではなく、神を冒涜したとして処刑された犯罪者イエスの弟子・仲間であるとの理由で、イエス様を憎んでいたユダヤ人達から、いつ襲われるかもしれないという不安の中に、身をひそめて過ごしていたことでしょう。

 

シャローム(あなた方に平和があるように)

そこへ突然、復活されたイエス様が来られ、真ん中に立たれて「シャローム」と挨拶されました。復活体のイエス様は空間と自然を支配されておられます。「シャローム(あなたがたに平和があるように)」の平和とは、人間の全領域にわたっての、神様のご意志に基づいた真の望ましい状態をさす言葉です。イエス様は、この挨拶のあと,ご自分から十字架の釘あとが残る手と、兵士の一人が やりでわき腹を刺したその傷跡を弟子達にお見せになりました。それによって弟子達は、今目の前に立たれているイエス様が、三日前に死んで葬られた自分達の先生であるイエス様だと確認して、「弟子たちは喜んだ」(20節)とある通り、それまで部屋に満ちていた、おそらく暗い絶望的な空気を吹き飛ばすかのように大きな喜びが弟子達の間に満ち溢れたことでしょう。イエス様は再び「シャローム」と言われました。弟子達が、神様の御心に沿う望ましい状態の中で生きていくことを強く願われていたことを思わされます。そしてイエス様は、弟子達に大きな使命と権限を与えていかれました。

 

大きな使命と権限

大きな使命とは、イエス様が生前、父なる神様から派遣されて宣教してきたように、今度はイエス様から弟子達に派遣命令が出されたのです。弟子達は、これまでイエス様と共に宣教活動を行ってきましたが、その宣教をこれからも中断することなく引き継ぐことを命じられました。

そしてもう一つなされたことは、この宣教活動に不可欠な「聖霊」を、弟子達に与えられたことです。この聖霊が与えられたことによって、弟子達には「罪の赦し」と「罪の留保」(罪が赦されないまま残る)という、二つの権限が委託されたのでありました。

 

教会へ引き継がれる

ここで大切なことは、復活のイエス様が弟子集団に与えた大きな使命と権限が、この時以後、ペンテコステの出来事を経て、教会へと引き継がれ、私達の仙台南伝道所も又、一つの教会としてイエス様の派遣命令を受けて立ち、宣教の使命を果たすべく日々歩んでいるという事実です。

そして、聖霊の導きのもとに行われるバプテスマ式、すなわち「イエス様の十字架の死によって、自分の罪が贖われ、赦されたことを信じる」信仰告白に基づいて行われるバプテスマ式を通して、今も、すべての教会は、委託された罪の赦しの権限を正しく行使することが求められています。

 

復活のイエス様にお会いできなかったトマス

24-25節には、不在の為、復活のイエス様に会うことが出来なかったトマスと他の弟子達との会話が記されています。弟子達はイエス様とお会い出来た喜びの中で、仲間のトマスに、口々にイエス様のことを、興奮と感動をもって伝えたことでしょう。しかしトマスはこの嬉しい大ニュースを聞いて一緒に喜ぶことは出来ず、こう言います。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。

 

トマスの不信

トマスは、なぜ信じられなかったのか、と私達はトマスを批判することは許されないでしょう。と申しますのは、20章の最初には、マグダラのマリアからお墓が空になっていることを知らされたペテロと、もう一人の弟子が、お墓まで走って確かめに行くことが記されていますが、二人は、中にあった遺体がなくなっていることを確認したものの、イエス様の復活と結びつけることは出来ないまま帰宅しています。その行動に対して聖書は、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(9節)と説明しています。又、ルカ福音書24章36節以下には、復活されたイエス様が弟子達の所に来られた時、弟子達は、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と記されています。 さらに、その前には、エマオへの途上で、二人の弟子が途中からイエス様と同行する出来事が記されていますが、二人とも食事をするまでイエス様のことが分からなかったことが記されています。さらに又、マルコ福音書に出てくる女性達についても以下のように記されています。「若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。(中略)さあ、行って、弟子達とペトロに告げなさい。『あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(16:6-)

 

不信のトマスにイエス様は・・

トマスは八日間、不信の中で苦しんだことでしょう。彼は自分の前にイエス様ご自身の姿が現れて、自分に満足を与えて下さることに固執していました。ただ見るだけでなく、その姿が亡霊でないことを確かめるために、自分の手を使って直接その部分に触れることを望んだのです。再会されたイエス様は、トマスに「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい」と、トマスが望んでいたことをするように許可されました。トマスは自分の願い通り、確認したのでしょうか? 聖書はそう書いていません。トマスは(おそらくそのお姿に圧倒されて)何も言えず、口から出た言葉は、ただ、「私の主、わたしの神よ」との信仰告白でした。これは最も古い信仰告白の言葉とされています。私達も又、イエス様にこの告白の言葉を捧げた時、私達は新しく造り変えられていくのです。

 

「見ずして信ずる者は幸福(さいわい)いなり」

イエス様はトマスに「見たから信じたのか」と、トマスの不信仰と、かたくなな心を おとがめになっています。そしてこのあと、「見ないのに信じる人は幸いである」と言われました。聖書に登場する弟子達や婦人達の姿の中に、私達は、私達の中にも入り込もうとする不信や、かたくなさや、自己主張や、弱さを見ます。にもかかわらず、イエス様は、すべてをご存じの上で、私達を赦し、聖霊を与えて下さり、教会を通して伝道へと派遣されておられます。イエス様から送られてくる聖霊の導きの下で、見ないで信じる幸いな多くのクリスチャンが、2000年以上たった今も尚、生れ続けており、私達の伝道所でも10人の方々が見ないで信じる幸いな人として加えられました。何と素晴らしい大きな恵みでしょうか。最後に、第一ペテロの手紙1:8-9(p.428)を読みます。

あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今、見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして、魂の救いを受けているからです。

2017・10月15日の礼拝説教要旨 「私の助けはどこから?」 佐藤 義子

詩編121:1-2・ヨハネ福音書3:16
*はじめに
今日は、一年に一度の子供と大人の合同礼拝です。教会学校では、旧約聖書ではアブラハムさんなど、聖書に出てくる人達がどのように生きたのかについて学んできましたし、新約聖書ではイエス様についてやイエス様がして下さった「たとえ話」などを学んできました。今日は、旧約聖書の詩編の言葉、そして新約聖書ではヨハネ福音書の有名な言葉のお話です。
*「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」
これは今、読んだ詩編の1節です。この時、これを書いた人は「助けてほしい」と思っていますね。私達が誰かに助けてほしいと思う時は、私達が困った時です。子供の時は、大人の人に助けてもらうことが多いですが、大人になっても困ることはいろいろ起こります。そういう時は誰かに助けてもらわなければなりません。この詩編を書いた人は、何に困っているのかというと、これから長い旅に出ることになり、その旅には沢山の危険が予想されていたからです。たとえば山の向こうまでいく道には、でこぼこ道や、急な坂、深い谷間があるだろう。沼や川や、途中でへびとかクマが出るかもしれない。又、強盗が待ち伏せして襲われるような危険な目に会うかもしれない・・などと考えたのでしょう。そのような心配が心の中に広がってきて、「わたしの助けはどこから来るのでしょう」と、誰かに聞いているようです。あるいは、自分の心に聞いているのかもしれません。
私達が今、生きている時代は大変な時代です。「テロ」とか「ミサイル」という言葉を何回も聞くようになりましたし、地震や津波や火山の爆発などの自然災害も多く起こっています。そのほか事件や事故も多く、そして、大人であれば、自分の健康のこと、仕事のこと、家族のこと、人間関係や将来の進路などなど、先が良くわからないことについての心配や不安などを持っている人は、きっと沢山いることでしょう。それらを心配している人と、今、この詩編を書いた人・・遠くて長い、危険をともなうこれからの旅を前にして、山々を見上げ、不安な気持でいる人と、とても良く似ていますね。
*「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」
「わたしの助けはどこから?」という質問の答えが、2節「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」です。「どこから?」と聞いている人が、この答えを出したのなら、この人は神様からの声を聞いたに違いありません。又、もし誰かに質問したのであれば、答えを返した人は、当時の「祭司」と呼ばれた信仰のリーダーでしょう。
*天地を造られた主
「主」とは神様のことです。なぜ助けは、天地を造られた神様から来るのでしょうか。それは、天と地上を造られただけでなく、世界中の人達すべて(私達も!)皆、神様が命を与えて生かして下さっているから、だから、人間を救う力も、もちろん持っておられるからです。
3節以下には、神様は、私達が生きていく上で足がよろめかないように(ふらふらしないように)助けて下さるお方であり昼も夜も眠ることなくいつも見守って下さるお方であり、いろいろな災いを遠ざけて下さるお方であり、どこに行っても守って下さるお方であると書かれています。この神様への信頼を持ち続けている限り、私達は決して倒れません。
*「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
神様の独り子はイエス様です。神様はイエス様を、私達の住むこの地上に遣わして下さったことによって、私達は神様のことを正しく知ることが出来るようになりました。そして、それまで神様を正しく知らないで生きてきた「罪」を悔い改めて、イエス様を信じることにより、永遠の命をいただけることが、(ヨハネ福音書)3章16節に記されています。
私達が、「神様、助けて下さい」とお祈りする、そのお祈りは、実は、イエス様が、神様に伝えて下さっているのです。私達のお祈りが神様に届くようになったのは、イエス様が十字架で死んでくださって、神様が私達の罪を赦して下さったからなのです。神様は、イエス様を3日目に復活させて下さり、今は、神様の元に戻られています。そして毎日の私達の祈りを神様に伝えて下さり、聖霊を送って下さっています。
それで、私達は、お祈りの最後に、必ず、「イエス様のお名前を通して」とか、「イエス様のみ名によってお祈りします」と祈るのです。
*讃美歌301番
「山辺(やまべ)に向かいて我(われ)、目を開(あ)ぐ、助けは何処方(いずかた)より来(きた)るか、天地(あめつち)の御神より 助けぞ 我に来(きた)る」
今朝、歌った讃美歌301番は、121篇の「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」が もとになって作られました。最後に、この御言葉と共に歩まれた「山本つち先生」についてお話したいと思います。
山本先生は、私が卒業した女子学院という中学高校の女の院長先生です。先生は学校のすぐそばに住んでおられました。学校では毎朝「礼拝」があり、礼拝前にはいつも301番の讃美歌のチャイムが流れていました。ある朝の礼拝で山本先生は、詩編121篇を読まれて、学校が火事になった時のことを話されました。その後、火事について書かれた本なども読む機会がありました。それによると火事は1949年5月に起こりました(私の入学前です)。午後10時、先生が寝ようとしたその時、不意に聞こえて来た女の人の叫び声と窓ガラスにうつる炎に、先生の家にいた皆が燃える校舎に駆けつけました。その後,近所の方々や消防や警察の方々にも助けられ、ピアノや机いすなど出してもらったそうですが、あとはすべて焼けてしまいました。焼けた校舎は、以前、戦争で焼けた後に一年前、苦労してようやく建った新しい校舎でした。その校舎が再び今度は不審火による火事で失われてしまったのです。翌朝何も知らずに登校してきた生徒達はショックで泣いたりしていたそうですが、先生は、火事以後、祈られた夜を過ごし、朝には、凛として焼け跡に立ち、礼拝で詩編121篇を全員で読み301番を歌い、目には見えない神様への信仰を語り、火事によって一人のけが人も出なかったことに感謝の祈りを捧げたとのことでした。
ここに、121篇「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」を確信して、自分に与えられた重荷を担って前に進む信仰者の姿を見ます。
この伝道所にも礼拝を知らせるチャイムを求めていたところ、幸いにも、女子学院の鵜﨑院長のご紹介で、女子学院チャイムと同じ音源を使用する許可をいただきました。このチャイムを聴きながら、私達はこれから何が起ころうとも、ゆるぎない神様への信頼をもって歩み続けていきましょう。

5月14日の説教要旨 「主は道、真理、命」 牧師 平賀真理子

詩編9819 ヨハネ福音書14111

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、イエス様が反対派によって逮捕されて十字架に付けられるという出来事の直前に、弟子達にお語りになった「告別説教」の一部です。言わば、イエス様の遺言であり、とても重要なことを語られました。今日の箇所の内容を考える前に理解しておくべきことが2つあります。1つは、イエス様御自身が、御自分の近い将来の死(この世から去って、天に帰るということ)をおわかりなっていて、弟子達に予告しておられるということです。2つ目は、イエス様の御言葉を受け、弟子達が大きな不安に陥っているということです。

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」

だから、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(1節)とおっしゃったのです。そして、これが、この箇所で、イエス様が弟子達に一番伝えたかったメッセージです。この後の2節から11節までは、このメッセージの理由を述べているのです。

 「弟子達を決してみなしごにはしない」(14:18)

イエス様は、弟子達を父なる神様の御許に迎える用意をするために、天に帰る必要があり、その用意ができたら、戻って来て、弟子達を迎えると約束されました。それを「わたしのいるところにあなたがたもいることになる」と表現されました。イエス様は死んで弟子達には見えなくなるけれども、それは一時的で、永遠の別れでもないし、弟子達を主は決してみなしごのように一人きりにしないことを約束してくださり、そのような絶対的な信頼を寄せてよいと保証してくださいました。

 「十字架」という道を通って、「天に帰る」イエス様

イエス様は御自分がどこに行くのか、また、その道をも弟子達は知っているとおっしゃいました(4節)。御自分が天から来て、今や天に帰ること、そして、それは、人々の罪の贖いのために、最もへりくだった死(十字架)という道を通ることを、弟子達は教えられていたにもかかわらず、実際は、理解できていなかったことが、5節の弟子トマスの言葉でわかります。「主がどこへ行かれるかも、その道もわかりません。」弟子達のこのような無理解に対し、イエス様は更に御言葉を重ねて教えてくださいました!

 「わたし(イエス様)は道であり、真理であり、命である。」(6節)

①「わたしは道である」この直後に「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節b)と説明されています。救い主イエス様の重要な役割は、父なる神様の御心を行うことです。では、「父なる神様の御心」とは何でしょうか。ヨハネ福音書6章40節にあります。「わたしの父の御心は、子(イエス様御自身)を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」だとイエス様が語っておられます。「子を見て信じる」とは「何を信じるのか。」というと、イエス様を救い主だと信じることです。救い主として最も大きな役割は人間の罪の「贖い」=「身代わりに償うこと」です。神の御子ならば、人間のように「罪がある」わけではないのですが、イエス様は、人間の罪の贖いのために「神の御子の死」という尊い犠牲を引き受ける必要がありました。その結果、神様と人間を隔てていた罪が埋め合わされ、人間が神様に至る「道」ができました。だから、人間にとって、イエス様の十字架は自分の罪の贖いだと信じることが、神様に繋がる「道」となるのです。

②「わたしは真理である」ここでの「真理」とは、神様に関わる文脈で使われていて、科学や哲学で使われる「真理」とは次元が違います。この「真理」とは、元々のギリシア語では「アレテイア」という言葉で、「隠されていたものが明らかになる」という意味があります。「隠されたもの」とは神様のことです。8節の弟子フィリポのお願い「父なる神様を見せてください」に対する、イエス様の御言葉「わたしを見た者は、父を見たのだ」にも答えが暗示されています。ここでの「真理」とは、人間の目には見えない、隠された父なる神様が、この世で、人間として明らかになったのが、イエス様御自身のことだというわけです。

③「わたしは命である」イエス様は、自分達も死ぬかもしれないという弟子達の不安を取り除きたいと思われたのでしょう。御自分を救い主として信じて従うことは、父なる神様に繋がることができる、即ち、「永遠の命」をいただける、大いなる希望の道であると伝えたかったので、御自分を救い主と信じる者達は、心を騒がせるなとおっしゃったのです。私達も時空を超えて「弟子達」の一人一人と言えます。ですから、偉大な救い主イエス様への信仰を貫きましょう!

5月7日の説教要旨 「主は復活と命」 牧師 平賀真理子

ダニエル書1213 ヨハネ福音書111727

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、死んで4日も経ったラザロという男をイエス様がよみがえらせた話の一部から与えられました。この話は、ヨハネによる福音書だけに記された話です。ラザロには、マルタとマリアという2人の姉妹がいて、マリアは、主の十字架の前に、その死を予感して、生前のイエス様に香油を塗った女性として知られています(マタイ26:6、マルコ14:3、ルカ7:36)。また、ルカ福音書10章38節からの段落では「マルタとマリア」と言う小見出しで、対照的な行動をする姉妹としても描かれています。

 イエス様に愛されたラザロ達

ユダヤ地方のベタニア(エルサレムから約3㎞)に住んでいた、この3人の兄弟は、これ以前に、イエス様と良い交わりをしていたと思われます。2人の姉妹がラザロの病気を主に報告する際に「あなたの愛しておられる者が病気です。」と言っているからです。しかし、イエス様は、ラザロの出来事は「神の栄光」のためであるとおっしゃり、すぐには出発されませんでした。一行がベタニアに到着した時には、ラザロは既に死後4日も経っていました。そこで、イエス様を先に出迎えたマルタがイエス様と交わした会話が、今日の箇所です。

 マルタの言葉にならない願いを汲み取り、かなえてくださる主

兄弟を失ったマルタは、イエス様がそばにいてくださったら、兄弟は死ななかったでしょうと、その御力を信頼しています。しかし、次の「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださる」とは、一体どういう意図で言ったのでしょうか。それは、次のイエス様の言葉から理解することができます。「あなたの兄弟は復活する」(23節)という御言葉です。人の心を見抜くイエス様が、マルタの心に秘めた願い「今からでも遅くないなら、神様に願って、ラザロを生き返らせてほしい」という、マルタの心の底にある思いを汲み取ってくださったのでしょう。主と良い交わりを重ねてきた この姉妹の思いをかなえるために、この後に働いてくださることを予め知らせておられるのだと読み取ることができるでしょう。

 「復活」について

主が深い憐れみによる御言葉をくださったにもかかわらず、マルタは、その意味をすぐに正しく理解できませんでした。「終末の日に、死者がいっぺんに復活する。」というのが、ユダヤ人の常識でした。ユダヤ人達は伝統的に「死んだ者が生き返る」ということにあまり関心がなかったようです(今日の旧約聖書箇所は、「死者の復活」を述べた、数少ない箇所の一つです。)。従って、「ラザロが生き返るのは終末を待たねばならない。」とマルタは考えていて、イエス様の御言葉が自分達の身にすぐに実現するのだとは全く期待していなかったでしょう。

さて、一度死んだ人間がどうしたら生き返るでしょうか。それは、命を取り去ることのできる御方が、同じように、命を与える権限を持って、その人に働きかけるという行為がなされなければなりません。その権限を、神の御子であるイエス様が持っているので、「わたしは復活であり、命である」とおっしゃることができ、しかも、御言葉のとおりのことが、ラザロを通して起こったのです。

「わたし(イエス様)は復活である」という中の「復活」とは「立ち上がらせる」という意味が原語にはあります。「死んだ人間を死の世界から立ち上がらせる、生き返らせる力がわたしにはある、その権限を持っている」ということです。

 「命」について

「わたしは命である」とは、「命を生み出し、与える権限がわたしにはある。」とイエス様が宣言なさったわけです。聖書では、この世のすべてのものに命を与えられるのは、神様だけというのが大前提です。その創造主なる神の御子だからこそ、イエス様は、死んだ人間に再び命を与えることがおできになるのです。

また、生物学的な「生」と「死」を越えた次元で、聖書では、「命」がある状態とは「神様と正しい関係にある」状態だと考えます。イエス様を救い主と受け入れて信じるだけで、罪ある人間が神様と繋がることができ、「永遠の命」の状態に入れられるのです!マルタはイエス様の御力の偉大さを「知って」いましたが、イエス様が最終的にマルタに確認なさったのは、イエス様が命をつかさどる神様の権限を持つことを「信じるか」ということでした。マルタのように、私達も御子イエス様への信仰を成長させていただけるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

10月30日の説教要旨 「わたしたちの立ち所」 倉松 功 先生(元東北学院院長)

ヨハネ福音書65263

 はじめに

私達の教会はプロテスタントですが、決して「新教」(新しい宗教)ではありません。日本では、カトリックは「旧教」、プロテスタントは「新教」と表しますが、カトリックが古代(4~5世紀)の教会から離脱していたのを、そこへ帰って行こうとするがプロテスタント、「新教」ではありません。

 宗教改革→プロテスタントの発足

プロテスタントは、今から499年前の1517年10月31日に発足しました。この日、ヴィッテンベルクのお城の付属教会の扉に、マルティン・ルターが95箇条の質問(問題提起)を打ち付けたことにより、宗教改革が始まったのです。それは、ローマ・カトリック教会(以下、ルターの使った「ローマ教会」と記す)の誤りを正そうとするものでした。それはローマ教会が販売していた贖宥券(通称「免罪符」)についてです。元々、「贖宥券制度」とは罪の償いの軽減のため、中世のローマ教会が案出したものでした。しかし、ルターの時代には、死後の煉獄での苦しみの軽減に及び、自分のためだけでなく、既に死んだ者のために販売されました。ルターが直接非難したのは免罪符販売の口実です。神父テッツェルは「免罪符を買った人の代金が箱に入れられ、チャリンという音がするや否や、罪赦されて魂は天国に行く」と宣伝しました。私達日本人は、神社やお寺でお賽銭を箱に入れてお参りするという光景を現代でも見かけます。似たような状況が、ルターが95箇条の問題提起をした時にあったのです。

 ルターが抗議した相手

更に、ルターの宗教改革は、カトリックが使命と考えてきた「宗教と政治を一つにする」ことに対する批判、抗議でもありました。カトリックは「救済の歴史を、政治においても信仰においても担うこと」が自分達の使命と考えていたのです。ルターの宗教改革は、このことへの抗議でもありました。カトリックの司教は、教会の監督であると同時にこの世の「領主」でもありました。だから、ルターの宗教改革は、カトリックの司教でもある領主達という、大変困難な相手に対する批判でもあったのです。

 ルターの宗教改革の遺産=「信仰のみ」「聖書のみ」

ルターの宗教改革の遺産は何といっても「(キリストを信じる)信仰のみによって救われる」ということと「権威の拠り所は聖書のみ」ということです。これに対して、カトリックは「聖書と伝統」、「信仰と伝統」、「信仰と行為」を根拠とし、大きく異なります。その「行為」とは、カトリック教会が当時決めていた行為、例えば、特定の教会への訪問や、秘蹟(サクラメント)のことだったりします。

 プロテスタントのサクラメントは2

サクラメントと言えば、カトリックは7つの秘蹟ですが、プロテスタントでは、その定義は「それ自体がキリストによって設定され、恵みを伝達するもの」、つまり、「聖礼典」のことであり、具体的には「洗礼」と「聖餐」の2つです。特に、「聖餐」についてはプロテスタントの幾つかの教派で、解釈の違いはありますが、私達の教会では、聖書の言葉を根拠に聖餐を行っています。聖餐について、聖書で語られている箇所は幾つかあります。今日の聖書箇所(ヨハネ福音書6:52-63)もその一つです。私達は、聖書の御言葉「これ(パン)はわたし(キリスト)の体であり、これ(葡萄酒)はわたし(キリスト)の契約の血である」を根拠に、聖餐を行っています。(参照:Ⅰコリント書11:23-26、ルカ福音書22:19-20等)

 ルターの宗教改革で特筆すべきこと

ルターの宗教改革で、他に特筆すべきことが幾つかあります。一つは「万人祭司」、つまり、すべてのキリスト者は、信者でも牧師でも同じように、祭司としての権威が与えられているということです。このことを、神学者のティリッヒや文学者のトーマス・マンは「宗教的民主主義」と言いました。また、「万人祭司」に対応して、ルターはこう主張しています。「領主は領民への奉仕者である。」

二つ目として、「信仰告白は、福音の伝道である」とも言われていることが挙げられます。このことは、今日の教会の伝道への励ましと受け取れます。

三つ目に、ルターのキリスト論「キリストは神であると同時に人である」「キリストは神性と人性を共有している」ということをお伝えします。これは、他の宗教改革者達(カルバン=「キリストの神性は人性の外にある。」ツヴィングリ=「キリストの神性と人性は交替する」)と異なっていますが、ルターは聖書そのものを根拠にそう説きました。私達は、ルターの遺産として「神学の根拠は聖書のみ」「信仰によってのみ救われる」ことを再び思い起こし、継承していきたいものです。

4月10日の説教要旨 「実を結ぶ枝となる」 牧師 佐藤 義子

詩編 139:1-10・ヨハネ福音書 15:1-11

 はじめに

今日の、ヨハネによる福音書15章は、イエス様の告別説教と呼ばれている中の一部です。告別の説教は14章から始まり16章まで続きます。

イエス様は、この告別説教のあと、大祭司の祈り(17章)とも呼ばれる長い祈りを捧げられて、受難(捕縛・裁判・十字架)の時を迎えます。 今日の聖書箇所を、イエス様が弟子達に語った遺言として聞き、ご一緒に学びたいと思います。

 ぶどうの木

ぶどうの木は、英語の聖書では「vine」という言葉が使われています。「vine」は、辞書で調べると、最初に「つる性の植物」とあり、そのあとに、「ぶどうの木」という意味も載っています。ぶどうの木は、木からつるが伸びていき、やがて若枝となり、又、その枝からつるが伸びて、その先端に花の穂を付けるそうです。ぶどうを作る人は、冬の間に木の形を維持するため枝を切り詰めて、棚(他に、垣根や支柱)などを作り、そこにつるが伸びていくように誘導しておくそうです。その一方で、古い枝や、生長を妨げる枝などは、不要な枝として切りますが、残した枝もそのままにしておかず、木の栄養分が枝や葉の方に回らないように枝の先端を切り詰めて、果実の品質を良くするということです。

 「わたしはぶどうの木、父は農夫、あなたがたはその枝」

今日の聖書では、イエス様はご自分をぶどうの木、ご自分の父(神)を「ブドウ園の主人(農夫)」と、たとえています。ぶどうの木は、ブドウ園主のために木からつるを出し、その実を実らせるためにそこに植えられます。木から伸びていく「つる」は、若枝となり、その枝は、イエス様の弟子達のことを指します。そして若枝がつける実りとは、弟子達がこれから伝道して、それによって神様のもとに導かれていく人達であり、その人達からなる教会の群れと考えることができるでしょう。イエス様は、ご自分から出たたつるが、実りをつける枝となるための方法を教えられました。

 「わたしにつながっていなさい。」

枝は、木から命の樹液を受け取ります。木につながっていない枝は自分では実をむすぶことが出来ません。たとえ、イエス様から訓練された弟子であったとしても、彼らは自立して一人で、人々を神様のもとに導くことは出来ません。なぜなら人間は、自分の中に真理を持っていないからです。真理は木であるイエス様が持っておられます。枝である弟子達は、木から命の樹液、真理を受け取るのであり、自分の考え、自分の力、イエス様に根差していないすべてのものは、実をつける働きを弱めるだけです。

つるが枝となり実りをつける場合も、ブドウ園主(農夫)の手入れが入ります。もっと豊かに実を結ばせるために、時に厳しいはさみの剪定(せんてい)を受けなければなりません。

 実を結び、弟子となる

7節では、もし弟子達がイエス様と密接につながり、イエス様の言葉が弟子達の心の中にいつもあるならば、その言葉は弟子達を支配し、何が必要かを見抜くことが出来、弟子達の祈りは聞き届けられることが約束されています。そして弟子達が、人々を神様のもとに招き、その人々の心の中にイエス様の光と命が入っていくならば、弟子達はぶどうの木を植えたブドウ園の主人である「神様の」栄光を現していくのです。

わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまる

イエス様が弟子達に求めておられる奉仕(人々を神様のもとに導く奉仕)の本質は、イエス様ご自身が弟子達に注がれている愛です。この愛がなかったなら、つるは実を結ぶことが出来ません。この愛は神様からきている愛です。弟子達がイエス様の愛から離れずその中にとどまるということは、神様から湧き出た愛がイエス様を通って弟子達に注がれている、その愛の中に入ることです。イエス様が父である神様に服従することを通して神様の愛にとどまっているように、弟子達も又、イエス様が教えられた「掟」を守る(服従する)ことによって、イエス様の愛にとどまり続けることが出来ます。

 イエス様の掟

イエス様が、「これにまさる掟はほかにない」、と言われた二つの戒めが、あります。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。

第一の掟は、神様を愛することです。目に見えない神様を愛するとは、具体的には、(十戒にあるように)、天地創造主である神様だけを神様として、偶像礼拝をしないこと、みだりに神様の名前を唱えないこと(みだりに=空しく)、安息日(私達にとっては日曜日)を、他のウィークデーと区別して、聖なる日とする(礼拝を守る)ことです。

第二の掟は、「隣人を自分のように愛する」です。ルカによる福音書10章には、「隣人とは誰か」と質問した律法の専門家に対する答えとして、イエス様が、「良きサマリヤ人」のたとえ話を語られています。

 隣人になる

たとえ話は、「旅をしていた一人のユダヤ人が、途中強盗に襲われ、半死の状態で倒れているのを、三人の人達が通りすがりに気付きます。が、最初の人も二番目の人も、道の向こう側を通って行ってしまいます。しかし、三番目に通りかかった人は、ユダヤ人とは仲の悪いサマリヤ人でしたが、彼は倒れている人を憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱し、翌日になると宿屋の主人にお金を渡して、介抱してくれるように頼み、不足分が出たら、帰りがけに払うと言いました。」

イエス様は、このたとえ話をされた後、質問者に「誰が、この旅人の隣人になったと思うか」と問い返しました。質問者は「その人を助けた人です」と答えますと、イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。このたとえ話に関連して書かれた書物の中に、イエス様の中では、すべての人が隣人であって、人を助けた人だけが、その人との「隣人である」という関係から「隣人になる」関係へと変えられたと記されておりました。

 イエス様につながり、イエス様の愛にとどまる

今から30年以上も前に、アメリカで出会った二人の女性のことを思い出します。二人は、家族連れで留学や研究に来ている外国人達の、家族のサポートをするボランティアグループのリーダー達でした。

ある日、私は、アメリカ人の夫を持つ二人の幼い子供がいる日本人の、若い母親の世話を、リーダーから依頼されました。母親は精神的に不安定になっており助けが必要でした。一か月位の期間を決めて引き受けましたが、その間、二人のリーダーは、彼女の為に日本語がわかる精神科医を捜し、通院の送り迎えなどで助けました。その結果、母親は次第に落ち着いてきました。やがて滞在期間が終る前日の夜、いつものように祈り、「頑張ってね」との私の言葉に、彼女も「頑張る」と約束したので、安心して翌日、自宅に見送りました。ところがその夜、彼女が薬を飲み、救急車で運ばれて入院したとの知らせを受けました。私は裏切られたように思い、約一か月の日々が、すべて空しく思えて気持が沈み、お見舞いに行く気になりませんでした。それに対して二人のリーダー達は以前と少しも変わらず、入院した彼女の為に、幼い子供達を祖父母のところに預け、病院には着替えなど毎日のようにお世話をし、「私達はただ必要なことをしているだけ」と言い、退院後も彼女を助け続け、離婚の話が出た時は弁護士を探してあげて、離婚後は、自立のために運転免許をとるために手伝い、その後、就職先を見つけて紹介し、自立させたことを、帰国後、日本人の友人から聞きました。

二人のリーダー達は、なぜこれほど外国人を愛することができたのでしょうか。そして私はなぜ、ほんの一時期だけしか「隣人になる」ことが出来なかったのでしょうか。その答えが、今日の聖書にあります。

私は、イエス様というぶどうの木にしっかりつながっておらず、木から送られる命の樹液を十分吸収しないまま、イエス様の愛の中ではなく、自己中心的な愛の中にとどまっていたからです。しかしリーダー達は、「イエス様につながり」、イエス様も「リーダー達につながって下さった」ので、豊かな実を実らせていく歩みを続けることができたのです。