2024年1月21日の説教要旨 出エジプト33:12-23・ヨハネ2:1-11

             「主の道」        加藤 秀久牧師

*はじめに

私達が神様に従う道・主の道を神様と共に歩んでいる時に、私達の前に壁が出来て前に進めなくなるような出来事が起こることがあります。そのような時、私達はどのような願いと祈りを持って、神様に助けを求めつつ信仰生活を送っているでしょうか。本日の出エジプト記では、神様に近づくことが許されているモーセが、民の犯した罪を心配しながら、人々に寄り添い、神様に訴えている姿を見ることができます。

*イスラエルの民の罪

モーセがシナイ山で、神様から契約の板(十戒)を受け取っている間に、待ちくたびれたイスラエルの民は、金の子牛の像(偶像)を造り、それに祈りを捧げ、飲み食いして乱れた行為を行ないました。山から下りてこの光景を見たモーセは激しく怒り、神様から戴いた十戒の二枚の石板を山のふもとで砕き、造った偶像を火で焼き、粉々に砕き、水の上にまき散らして飲ませたと記されています(32:19~)。民が犯した罪は、神様の大きな怒りを招きました。そして神様は、ご自分がかたくなな民に対して怒りによって滅ぼすことがないように、今後は民との旅には同行せず、神の使いの者を先導させると言われました(33:1~)。

*臨在の幕屋

この知らせを聞いた民は嘆き悲しみましたが、身に付けている飾りを取り去るなら神様は再び考えて下さると聞き、民は身に付けている飾りを全て取り去りました。モーセは宿営から遠く離れた所に神様にお会いする場所として一つの天幕を張り「臨在の幕屋」と名付けました。モーセがその幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て入り口に立ち、神様はモーセと語られました(9節~)。モーセは神様に、神様が自分を民のリーダーとして選ばれているのだから、神様が旅の同行者になって欲しい。そうでなければ自分達に旅を続けさせないようにと粘り強く訴えました。そして、もし旅に同行されるならば、イスラエルの民と神様との関係は他の民族とは異なる特別な善い関係であることを示すことになると訴え、「神様の栄光」を示して欲しいと願いました。そこで神様はモーセに岩の傍に立つように命じて、神様が通り過ぎる時、モーセの目は神様の手で覆われ、通り過ぎた時、手を放したのでモーセは神の後ろを見た、とあります(18節~)。

*カナの婚礼(イエス様の最初のしるし)

本日のヨハネ福音書2:11には「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行なって、その栄光を現された」とあります。「しるし」はイエス様の「奇蹟」のことであり「神様の業が現わされる」ことです。

その日、イエス様と弟子達が婚礼に招かれた時のこと、途中で婚礼の祝いに欠かすことの出来ないぶどう酒が足りなくなったことに気付いた母マリアが、イエス様にそのことを伝え、召使い達にもイエス様に従うように言いました。イエス様は召使い達に、置いてあったユダヤ教の「清め」に用いる六つの水がめに水を満たすように命じ、その水を汲んで宴会の世話役に運ぶように命じました。世話役が水を味見すると、良いぶどう酒に変わっていました。これが「最初のしるし」です。

*水からぶどう酒へ

清めのための六つの水は、自分自身を清めて神様に喜ばれようとする人間社会の価値観や、人間の努力で生きようとする、限界のある世界を意味しているようです。しかしイエス様は「水」を「ぶどう酒」に変えられたことで神様の栄光を現されました(11節)。 神様は、頑張っても不完全な器でしかない私達を、神様の御心にかなう者として変えて下さり、聖(きよ)めて下さる完全な唯一のお方であることを現していると思います。神様の御業が起こる時、神様と民との間をとりなしたモーセの働きや、祝宴が守られるためにイエス様に状況を知らせて、召使いにイエス様に従うように導いた母マリアの働きを知らされます。

恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ(出エジプト33:19)」神様は、御業である「しるし」を通して、今日もこの場所・伝道所に、私達と共にいて下さり、神様のご栄光を現されます。この場所には癒しがあり救いがあります。今週も神様の示す道を共に歩んで参りましょう。