8月26日の説教要旨 「命をかち取る」 平賀真理子牧師

出エジプト記4:10-12 ルカ福音書21:7-19

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、直前の5-6節のやりとりが前提となっています。エルサレム神殿の素晴らしさをほめたたえる者達に対して、イエス様が「それはやがて崩れる」と預言されました。人々は、外側に表れたものを称賛しましたが、一方、イエス様のお答えは、実は、外側だけが崩れると意味しているのではなく、もっと深いのです。

 

 まだ建設中のエルサレム神殿の崩壊の預言

6節のイエス様の御言葉を聞いた人々は、壮麗な神殿の崩壊だけが語られたと受け取り、それがいつ起こるのか、そして、その前兆を教えてほしいと願いました。実のところ、この時、エルサレム神殿は、まだ完成していませんでした(紀元64年に完成)。まだ建設中の建物が崩壊するなんて、人々は想像できず、そんなことはありえないと思ったかもしれませんし、イエス様の預言が本当になったらどうしようと心配になって質問した人がいたかもしれません。

 

 エルサレム神殿を中心としたユダヤ教の信仰体系の崩壊

ここで思い出していただきたいのが、この頃のユダヤ教はエルサレム神殿を中心とした信仰体系になっていたということです。首都であり、神の都であるエルサレムにある神殿で、自分の罪を贖う動物の犠牲を献げて礼拝することが大変重要だと信じられていました。エルサレム神殿が崩れてなくなるとは、単なる建物の消滅ではなく、エルサレム神殿の権威の崩壊、そして、彼らの社会の崩壊、更には、この世の崩壊までを意味していたわけです。また、当時のユダヤ教では、この世の終わりを「終末」と呼び、「終末」にメシアが来て、人々を裁くと言われていましたから、「終末が来る時」を前もって知り、神様の裁きに備えたいと考える人も当然いたことでしょう。

 

 「終末」に怯える人間が抱く恐れ、イエス様が人間に対して抱く心配

イエス様は質問者達の思惑をおわかりになった上で、「人々の恐れ」を利用して、「自分が救い主だ」とか「終末が近づいた」という偽キリストに従わないように警告なさったのです。また、恐れを抱えた人間は戦争や暴動のニュースを聞いただけで「終末だ」と怯えることもイエス様は御存じで、そうではないと教えてくださいました。更に、「民vs民、国vs国」といった対立や、地震・飢饉・疫病の頻発、恐ろしい現象や天に現れる著しい徴で、人間は「終末が来た」と恐れるようになるとイエス様は予見し、人間の誤解を指摘なさったのです。一方、当のイエス様が心配なさっていたことは、12節以下、つまり、イエス様を救い主として受け入れた人々が、受け入れない人々によって迫害されること、場合によっては「殉教者」として殺されることです。それは、人間的に見れば、大変恐ろしい「終わり」です。外側に表れる天変地異や人災ともいえる戦争や暴動の前に、信仰者の内側=心に、「終末」のような恐ろしい出来事が必ず起こるから、それに備える必要があると教えておられるのです。

 

 権力者の前での弁明の時に、主が「言葉と知恵」を授けてくださる

信仰者は、権力者達の前で信仰について語る機会が与えられるであろうとイエス様は預言なさいました。人前で語る教育を受けていない庶民出身の信仰者にとり、そんな機会は恐怖以外の何物でもないでしょう。そんなピンチの時、イエス様は信仰者に「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵」を授けると約束なさいました!神様からの言葉や知恵は、人間を越えた、欠けのない、完璧なものです。使徒言行録には、実際にそのことが起こったという証しが幾つもあります。

 

 信仰ゆえに起こる「終末」を励ましてくださるイエス様

信仰者がもっと恐れるのは、家族や友人という親しい人々から迫害され、殺されるに至ることです。更に、「わたしの名のために」、つまり、「イエス様が自分の救い主」という信仰ゆえに、信仰者は「すべての人に憎まれる」と主はお語りになっています。何も後ろ盾がなければ、まさに「終末」のように恐ろしいことです。けれども、信仰者を「髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)ほど、主御自身が完璧な後ろ盾として守ってくださると保証してくださっています!信仰者はただ、どんな状況下でも信仰を貫くという「忍耐」によって、神様につながる「人間本来の命」をかち取るよう、主は願い、私達信仰者を励ましておられるのです。

7月29日の説教要旨 「天からの権威、人からの権威」 平賀真理子牧師

出エジプト記11521 ルカ福音書2018

はじめに

ルカによる福音書を読み進めてきて、イエス様が、この世で歩まれた最後の一週間の箇所に入りました。イエス様が神の都エルサレムに入った出来事を「エルサレム入城」、その後に、エルサレム神殿で商売人達をイエス様が追い出した出来事を「宮清め」と言います。今日は、その後に行われた、イエス様と反対派の人々との論争の箇所です。

 

エルサレム神殿を、神様の御言葉で満たしたイエス様

「宮清め」の後、つまり、エルサレム神殿で本来行われるべきでない商売を直接排除なさった後に、イエス様は、まず、中身として大事なことを行われました。それは、神様についての「本当の教え」、または、御自分の教えを信じることによる「救い」を民衆に伝えることです。エルサレム神殿を、この世の「金銭」ではなく、「神様の御言葉」で満たしていかれたのです。このことは、後の時代の信仰者の私達から見れば、なんと素晴らしいことをなさったのか!という思いにさせられますが、既に自分達に都合の権利を得ていた人々(反対派)の立場から見れば、イエス様を一刻も早く排除したいと思ったことでしょう。

 

反対派(祭司長、律法学者、長老達)からの質問とイエス様の逆質問

だから、彼らは、イエス様の言動の源について質問しました。イエス様が神殿内で教えている、その言動は、誰の許可を取って行っているのか?という問いです。そして、結局、誰からも権威をもらっていないことを明確にして、エルサレム神殿で教えさせないことをもくろんでいたと思われます。これに対して、イエス様は、逆質問する形をお取りになりました。しかも、その逆質問は、イエス様御自身の権威について直接の問いではありません。御自分ではなく、「ヨハネの洗礼」の権威についての質問でした。これに対して、反対派の人々は、「自分達の質問に答えず、逆質問する権利がどこにあるのか?」などと言わず、その質問に答えられなくて右往左往しています。イエス様からの逆質問は彼らの矛盾を深く突くものだったのです。

 

 「ヨハネの洗礼」の権威は、天から?、人から?

 ユダヤ社会においては、救い主誕生の前に、主の道を備える者(マラキ3:1)が現れると預言されていて、それが「洗礼者ヨハネ」だとルカ福音書は証しするべく、このヨハネの誕生や、彼が行った悔い改めの説教と洗礼が神様の御計画であると伝えています。「もしかして救い主では?」と期待された、このヨハネは、自分はそうではなくて、その前に主の道を備える者に過ぎないと事前に語り、イエス様が自分の所に洗礼を受けに来た時に、「この御方こそ救い主であり、神の子である」(ヨハネ1:29ー34)と証ししました。このことは当時のユダヤ社会で有名な話で、反対派の人々も知っていたはずです。だから、彼らは「洗礼者ヨハネの洗礼」は「天(神様の呼び名の別称)からの権威」と知っていたはずなのです。

 

洗礼者ヨハネも救い主イエス様も「天からの権威」

洗礼者ヨハネの洗礼が「天からの権威だ」と答えたならば、そのヨハネが「救い主」と証ししたイエス様を主と認めないのは「神様への不信仰」です。反対派の人々にとって「不信仰」とされることこそ、受け入れがたい不名誉です。だから、彼らはヨハネの洗礼を「天からの権威」とは答えられません。また、もう一つの選択肢の「人からの権威」と彼らが答えたならば、「洗礼者ヨハネ」を神様から遣わされた人物であると信じて、彼から洗礼を受けた、大勢の民衆が、指導者達は、自分達とは見解が異なると知って暴動を起こすだろう、そんなことは指導者として避けたいと考えたのでした。神様の御業を認めようともせず、民衆の評価と勢いを第一に恐れた彼らは、結局、イエス様の逆質問に答えないことを選びました。実は、この逆質問は、彼らへの悔い改めへの招きでした。この機会に、彼らはよく考えて、または、真摯に祈り求めて、イエス様を「救い主」と受け入れることもできたのです。けれども、彼らはそれを拒みました。そんな彼らに、救い主イエス様も答えを拒んだのです。

 

イエス様を「救い主」と受け入れる者達(私達)への大いなる恵み

天からの権威による「救い主イエス様」を知りながら、面と向かわない者は、結局、主の救いに与れません。一方、何の功績もない私達が、主の救いを受け入れるように導かれました。その恵みに感謝しましょう!

 

4月29日の説教要旨 「神の民であるということ」 牧師  平賀真理子

出エジプト記19:1-9 ヨハネ福音書15:1-10

はじめに

今日の新約聖書の箇所の5節の聖句「わたし(イエス様)はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」は、キリスト教会の中で、多くの信仰者に愛されている箇所です。ただ、それだけでなく、イエス様の弟子達への遺言、いわゆる「告別説教(訣別説教)」の中にある御言葉だという理由で、信仰者である私達は重く受け止める必要があると思います。

この聖句は、もちろん、比喩=例えです。ぶどうの木と例えられるイエス様に、弟子達がつながっていなさいという教えです。それで、イエス様につながるとは具体的にどういうことかというと、直前の段落14章23節に「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」という御言葉があるので、イエス様につながることを求めている弟子達は、イエス様の御言葉を守ることが大前提だということがわかります。

 

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(15:1)

イエス様が御自分をぶどうの木と例えたのにはもう一つ、理由があって、それは1節「わたしの父は農夫である」という例えをおっしゃりたかったからではないかと推測できます。イエス様のこの世での歩みをすべて支配なさっているのが「父なる神様」であると、例えを用いて、弟子達にわからせようとなさったのだと思います。イエス様は御言葉を聞く弟子達の理解に合わせて、例え話をなさったのです。

 

つながっていながら実を結ばない枝と豊かに実を結ぶ枝

しかし、続く2節では、イエス様に例えられるぶどうの木につながっていながらも実を結ばない枝があるという表現に出会います。そういう枝は父なる神様が取り除かれると言われました。次に進むと、逆に、イエス様に例えられるぶどうの木につながって豊かに実を結ぶ枝もあると表現されています。どちらも、イエス様につながっている枝、つまり、弟子でありながら、父なる神様によって、滅ぼされる枝と、祝福を受ける枝があるということです。

 

滅びと祝福の差=「言葉(ロゴス)につながっているか否か」

では、この2種類の、正反対の結果になるものの差は何でしょうか。どちらもイエス様につながっている枝なのに、大きな差が出てくるのはどうしてでしょうか?それは3節にある言葉がキーワードです。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」の「言葉」です。新約聖書の原語ギリシア語でこの単語は「ロゴス」となっています。ヨハネによる福音書の冒頭の1章では、イエス様が神様の言(ことば)(ロゴス)そのものであり、その言(ことば)がこの世に人間の肉となったと語られています。「ロゴス」は単に「話す言葉」」というよりも、神様の特徴とか特質、もっと言うと、神様の本質=神の真理であると言えます。だから、3節にあるように、神様の真理が、イエス様によってこの世に表現されることとなって、それを受け入れて従おうとする弟子達は、イエス様の話した言葉で清くされることが既に(本人達がわかっていなくても)起こっていたわけです。神の民として、もはや神様の祝福を受ける対象になっているという恵みが語られているのです。ぶどうの木と例えられるイエス様と本当の意味でつながれる枝とは、神の真理を現わすロゴスを守ろうとして聞く弟子達のことを意味しているわけです。

 

神の真理「ロゴス」とは何か?

「ロゴス」には、本当の神様がどんな御方かの特質も含まれますし、特に、救い主イエス様の十字架と復活という救いの御業も含まれていることを忘れてはならないでしょう。この「神様の救いの御業」の源に「ロゴス」という神様の本質=神の真理があるのです。イエス様の癒し等の愛の業を見て、その表面的なところだけをまねようとする人がいます。しかし、そこに「ロゴス」に対する信仰がなければなりません。それがない人は、2節の表現から言えば、徹底的に滅ぼされるわけです。

 

「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」(15:7)

一方、7節にある「言葉」は「ロゴス」という単語ではなく、話す内容という意味の単語が用いられています。イエス様の出来事を「ロゴス」として理解するのは、実はかなり難しいです。せめて、イエス様の御言葉そのものや、この世での歩み等を学び、記憶し、生きる中心に据えて従おうと努めるのが「神の民であるということ」の要(かなめ)だと言えます。

11月15日の説教要旨 「天からのパン」 牧師 佐藤 義子

出エジプト16:9-15・ヨハネ福音書 6:26-33

 はじめに

伝えたいことが相手に伝わらない。伝わらないだけでなく、全く違ったふうに受け取られてしまう。「誤解」は私達の社会の人間関係においても多くみられ、人間関係の亀裂を生じさせるものです。ヨハネ福音書を読んでいきますと、イエス様の生涯において、人々は、イエス様のなさることや、語られた言葉を正しく理解せず(しようとせず)、又、自分達の願望、欲望が先行し、誤解を重ねていく場面を見ます。本日のヨハネ福音書6章は、イエス様の「パンの奇跡」から始まりますが、群衆はイエス様の言動を誤解し、その結果、同じ6章の66節には、「このために、弟子達の多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」と記されているほどです。イエス様のお気持の何分の一も知ることは出来ませんが、誤解する人々の前にあって、イエス様の心の痛みはどれほどであったかを思います。と同時に、人々が抱いたイエス様に対する誤解は、現代においても、私達の伝道所を含む全世界の教会の中でも、起こり続けているといえるのではないかと思います。

 パンの奇跡

今日の聖書は、前日に起こった「パンの奇跡」の出来事を経験した人々が、再び、イエス様を捜し求めて、イエス様を見つけたところから始まります。彼らは、前日の奇跡の後、「この人こそ、この世に来ることになっている約束の預言者だ」と言って、イエス様を王にしようと騒ぎ始めていました。というのは、ユダヤ人の先祖達が、エジプト脱出後の荒れ野の旅の中で、モーセを通して、天から与えられた「マナ」(パンに代わる物)で飢えが満たされたことを思い起こし、さらに旧約聖書には、モーセのような預言者が与えられると約束されていたからです。

 満腹を求めて

群衆の、ご自分をこの世の王にしようとする思いを知られたイエス様は山に退かれました。が、翌日も群衆はイエス様を探し求めて来たのです。イエス様は人々に、「あなたがたが わたしを捜しているのは、しるしを見たからではなくパンを食べて満腹したからだ。」と言われ、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)と、言われました。

 「永遠の命に至る食べ物のために働く」

人々は、この言葉の意味が分かりませんでした。そこで、何をしたらよいのか(神様につながる業とは何か)を尋ねたのです。イエス様は、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(29節)と教えられました。むつかしいことをするのではない。イエス様を信じること、イエス様が神の御子であり、神様から遣わされて来た方であり、神様のことを私達に伝え、罪ある私達を罪の支配から救い出して、神様の支配のもとに移して下さるために来られたこと、イエス様を信じることは神様を信じることであり、永遠の命に至る食べ物を食べることです。

人々の誤解

すると人々は、「自分達が信じるために、どんなしるしをみせてくれるのか」とイエス様に、さらなる奇跡を求めたのです。前日の「パンの奇跡」を見た群衆の、イエス様に対する「誤解」が明らかになります。五千人の空腹が満たされた「奇跡」は、イエス様が神様に祈られた結果です。この時、人々は神様の力を見たのです。神様の力を知ったのです。同時に、神様に祈られたイエス様の祈りが、そのまま神様に受け入れられたことを通して、神様の御意志に適う、そのような祈りがお出来になるイエス様とはどのようなお方であるのかを知ることが出来たはずでした。にもかかわらず、人々は、この世の満腹、地上での物質的幸せを求めて、自分達の欲望・自分達の期待を膨らませ、自分達を満足させてくれるならイエス様を信じても良い、というような、自分の支配下にイエス様を置こうとしたのです。これは、神様の御意志以外には何もしないというイエス様の教えとはまったく逆です。私達の信仰が、「先ず、神様の御意志」を求めて生きる歩みへと導かれるように祈りましょう。