2024年2月18日の説教要旨 出エジプト17:3-7・ヘブライ4:12-16

            「主の声を聞く」         加藤 秀久牧師

*はじめに

 私達は、日々の生活の中で、心を静めて神様の言葉(聖書・他)を読んだり、聞いたり、祈ったりする時間を持てているでしょうか? 

又、私達の心に心配ごとや、かき乱されるような出来事に遭遇したり、あるいは、これからの自分の人生、歩みはどうなるのかなどの心配をして眠れない日々が続くようなことがあるかと思います。

*神様の安息

 本日の、ヘブライ書4章には、神様の安息のことが告げられています。

特に11節には、「だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。」と記されて、私達が熱心に努力するのは、神様が与えて下さる「安息に入るため」、神様の安息を自ら経験するため、そして不従順の例に倣って堕落する者が一人もいないようにするためと説明しています。

神様との交わりをもつことにおいては、私達は頑張らなくてもよく、神様は私達との交わりをもつため、すでに必要な居場所を作って下さっているので「安心してわたしを信じ、わたしと交わりの時を持ちましょう!関係を築き上げましょう!」と言って下さっていると思います。

*メリバの水(出エジプト記17:7)

 本日の出エジプト記では、エジプト脱出後カナンへの荒れ野の旅の途中、飲み水がなく、不平不満で「つぶやき」、民は指導者モーセと争いになり、モーセは石で打ち殺されそうになりました。この民たちの「つぶやき」は、その後、彼らを40年間の放浪の旅となり、最終的には第一世代の者達は約束の地カナンに入ることは出来ませんでした。彼らは、導かれる唯一の神様ではなく他の神々に心が奪われ、仕える失敗も繰り返しました。そうならないためには自分自身を知り、何事も正しく見極めていく心を整えておくことが大切です。その為の必要な道具は、神の言葉・聖書にあります。

*「神の言葉は生きており、どんな両刃(もろは)の剣よりも鋭い」神の言葉は剣よりも鋭く、精神と霊、関節、骨髄、を切り離すほどに刺し通して心の思いや考えを見分けることが出来る」(ヘブライ書4:12)。 

私達人間の体は関節、骨髄、精神、霊および心の思いや考えがありますが、私達にはどこからどこ迄が関節で、どこ迄が骨髄かは分からず、又、心にも色々な考え方や思い、感情があり、それらは私達人間から出たものなのか、神様から出たものなのか、悪魔による働きから出たものなのか...その判断は人によって違い、その分かれ目もはっきりしません。ですから私達が勝手な判断で、考え違いをしてしまうことが起こり得ます。そのような時、私達は神様の前に静まり、神様と交わり、神様の言葉に耳を傾けることで、私達は正しい方向へと歩むことが出来ます。13節に「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたし達は自分のことを申し述べねばなりません」とあります。

*偉大な大祭司・神の子イエス・キリスト(ヘブライ書4:14~)。

「祭司」は、民が神様を礼拝し神様に近づくために仲介の務(つと)めを果たし、中でも上に立つのが大祭司でした。イエス様は私達のために、神様との間を取り持つ大祭司として神様からこの世に遣わされ、私達と同じ試練に遭われました。そして私達の罪を赦(ゆる)していただく為に十字架で死なれ、神様によって復活し昇天され、今は最も権威ある天の父(神)の右の座に着かれて私達に聖霊を送り、今も私達の為にとりなして下さっています。私達の心に心配ごとや、かき乱されるような出来事が起こった時、あるいは現状に対する不平不満やつぶやきが生まれた時、神様は、全ての人達と関係を持ち、神様がいつも共にいることを知って欲しいと願っていますので、私達が神様に聞くようにと、あえて私達を厳しい場所に置くことがあるかも知れません。しかし私達は偉大な大祭司をもっているという確信こそ、全ての持てる中で最も素晴らしいものです。この大祭司のおられる恵みの御座から、信仰によって神様からの安息と祝福がもたらされることを今一度、心に留めたいと思います。

2024年1月21日の説教要旨 出エジプト33:12-23・ヨハネ2:1-11

             「主の道」        加藤 秀久牧師

*はじめに

私達が神様に従う道・主の道を神様と共に歩んでいる時に、私達の前に壁が出来て前に進めなくなるような出来事が起こることがあります。そのような時、私達はどのような願いと祈りを持って、神様に助けを求めつつ信仰生活を送っているでしょうか。本日の出エジプト記では、神様に近づくことが許されているモーセが、民の犯した罪を心配しながら、人々に寄り添い、神様に訴えている姿を見ることができます。

*イスラエルの民の罪

モーセがシナイ山で、神様から契約の板(十戒)を受け取っている間に、待ちくたびれたイスラエルの民は、金の子牛の像(偶像)を造り、それに祈りを捧げ、飲み食いして乱れた行為を行ないました。山から下りてこの光景を見たモーセは激しく怒り、神様から戴いた十戒の二枚の石板を山のふもとで砕き、造った偶像を火で焼き、粉々に砕き、水の上にまき散らして飲ませたと記されています(32:19~)。民が犯した罪は、神様の大きな怒りを招きました。そして神様は、ご自分がかたくなな民に対して怒りによって滅ぼすことがないように、今後は民との旅には同行せず、神の使いの者を先導させると言われました(33:1~)。

*臨在の幕屋

この知らせを聞いた民は嘆き悲しみましたが、身に付けている飾りを取り去るなら神様は再び考えて下さると聞き、民は身に付けている飾りを全て取り去りました。モーセは宿営から遠く離れた所に神様にお会いする場所として一つの天幕を張り「臨在の幕屋」と名付けました。モーセがその幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て入り口に立ち、神様はモーセと語られました(9節~)。モーセは神様に、神様が自分を民のリーダーとして選ばれているのだから、神様が旅の同行者になって欲しい。そうでなければ自分達に旅を続けさせないようにと粘り強く訴えました。そして、もし旅に同行されるならば、イスラエルの民と神様との関係は他の民族とは異なる特別な善い関係であることを示すことになると訴え、「神様の栄光」を示して欲しいと願いました。そこで神様はモーセに岩の傍に立つように命じて、神様が通り過ぎる時、モーセの目は神様の手で覆われ、通り過ぎた時、手を放したのでモーセは神の後ろを見た、とあります(18節~)。

*カナの婚礼(イエス様の最初のしるし)

本日のヨハネ福音書2:11には「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行なって、その栄光を現された」とあります。「しるし」はイエス様の「奇蹟」のことであり「神様の業が現わされる」ことです。

その日、イエス様と弟子達が婚礼に招かれた時のこと、途中で婚礼の祝いに欠かすことの出来ないぶどう酒が足りなくなったことに気付いた母マリアが、イエス様にそのことを伝え、召使い達にもイエス様に従うように言いました。イエス様は召使い達に、置いてあったユダヤ教の「清め」に用いる六つの水がめに水を満たすように命じ、その水を汲んで宴会の世話役に運ぶように命じました。世話役が水を味見すると、良いぶどう酒に変わっていました。これが「最初のしるし」です。

*水からぶどう酒へ

清めのための六つの水は、自分自身を清めて神様に喜ばれようとする人間社会の価値観や、人間の努力で生きようとする、限界のある世界を意味しているようです。しかしイエス様は「水」を「ぶどう酒」に変えられたことで神様の栄光を現されました(11節)。 神様は、頑張っても不完全な器でしかない私達を、神様の御心にかなう者として変えて下さり、聖(きよ)めて下さる完全な唯一のお方であることを現していると思います。神様の御業が起こる時、神様と民との間をとりなしたモーセの働きや、祝宴が守られるためにイエス様に状況を知らせて、召使いにイエス様に従うように導いた母マリアの働きを知らされます。

恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ(出エジプト33:19)」神様は、御業である「しるし」を通して、今日もこの場所・伝道所に、私達と共にいて下さり、神様のご栄光を現されます。この場所には癒しがあり救いがあります。今週も神様の示す道を共に歩んで参りましょう。

2023年11月19日の説教要旨 出エジプト2:1-10・ヘブライ3:1-6

              「モーセ」        加藤 秀久牧師

*はじめに

モーセが生まれた頃、エジプトではイスラエルの人々(ヘブライ人)が、王によって苦しめられていました。族長ヤコブの息子のヨセフの時代にエジプトに移り住んだイスラエルの人々がエジプトの地で増え広がり、ヨセフを知らない新しい王の時代には、エジプトの国にとって脅威になると考えたからです。彼らの仕事はナイル川から土を運び、土をこねてレンガを焼き、そのレンガで建物を作ることや、農作物の作業はもちろん、用水路や運河を作る工事もしたと考えられています。しかし、重労働を課して苦しめてもイスラエルの人口は減らず増え広がる一方のため、王はさらに過酷な労働をさせて彼らの生活を脅かすようになりました。

*助産婦の行動

エジプト王は二人のヘブライ人助産婦に、「ヘブライ人の出産を助ける時には男の子ならば殺し、女の子なら生かしておけ」と命じました。しかし神を畏(おそ)れる助産婦は男の子も生かしておいたため、王に呼びだされた時、「ヘブライ人の女性はエジプトの女性と違い、自分達が行く前に産んでしまうのです」と答えました。神様はこの助産婦逹に恵みを与えられたと記されています。そこで王は「生まれた男の子は一人残らずナイル川に放り込むように、と命令を出しました。

*モーセの生い立ち

イスラエル12部族の内のレビ族(後の祭司の家系)出身の夫婦に男の子が産まれましたが可愛かったので、3ヶ月間隠れて育てました。しかし隠しきれなくなり、防水加工した籠に赤ちゃんを入れ、河畔の葦の茂みの間に置きました。そこに王女が水浴びに来て籠を見つけ、ふびんに思い我が子として育てることにします。様子を見ていた姉ミリアムは、王女に、乳母を紹介すると言って母親を連れてきたので、王女はその子を託しました。

*「水の中から引き上げた」(マーシャー)から「モーセ」と命名

王女は彼をモーセと名付けました。水の中から引き上げたからです

パレスチナは水が少なかったので、水は大切な支えとして(イザ 3:1)、発見時には祝われ(民21:16~)、祝福の象徴(詩 23:2 ・イザ32:2)でもあり、清めの象徴(エゼ 16:4)にもなりました。「引き上げる」は、旧約聖書では「主は高い天から御手を伸ばしてわたしをとらえ大水の中から引き上げてくれた(サム下22:17)」、「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださる(詩18:17)」とあり、新約聖書では、モーセが拾い上げられた場面(使徒7:21)、幼子イエス様の命がねらわれてエジプトに逃げた時の預言(マタイ2:15・・ホセア11:1)、イエス様が聖なるものとして身体が献げられた時(へブライ書10:10)に用いられていて、この「引き上げる」という言葉は「モーセ」の名前に「救い主イエス様」との関係を持たせているようです。清めの儀式にも使われる「水」、命を与える「水」、その水から引き上げられた、そのことが神様の計画にあり、やがて現れるイエス様の出来事にも繋がりがあり、意味ある名前であることが分かります。

*わたしたちこそ「神の家」(ヘブライ書3:6)

本日のヘブライ書に、「モーセは将来語られるはずのこと(イエス様の、神の家の建設)を証しするために、仕える者として神の家(イスラエルの民)全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家(教会)を忠実に治められるのです。」とあります(5~6節)。モーセはシナイ山(別名ホレブ山)で神様と語り、山を下った時には神様の栄光を受けて顔は光を放っていたので、神様の言葉を伝え終るとモーセは顔に覆いをかけました(出エジプト34:29)(やがて消え去る光)。

イエス様は万物を創られた神の御子として地上に派遣され、十字架の死による私達の罪の贖(あがな)いと復活によって神の家(教会)を建築され、教会のかしらとして治めておられます。私達がイエス様は主であると告白することによって、私達は清められ、聖なる者とされ、神様の霊がそれぞれの心の中に宿ります。私逹がもし確信と希望に満ちた誇り=再臨の日に与えられる救いの完成と、神様の御計画と約束への信頼から生まれる誇りとを持ち続けるならば私達こそ神の家なのです。

2023年8月27日の説教要旨 出エジプト23:10-13・ローマ14:1-9

             「従う心」         加藤 秀久牧師

*はじめに

 本日の旧約聖書には、安息年と安息日についての守り方が記されています。安息日を一般の辞書には「何の煩いもなく、くつろいで休むこと」とありますが、創世記2章には、神様が天地創造された時,6日間の仕事を終えて「第7の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった」(2節)とあり、「その日を神は祝福して、聖別された」(3節)と記されています。

 現代を生きる私達にとって安息日は日曜日ではなかったり、まとまった休みを取るため、長期間仕事から離れられなかったり、或いは、仕事やその他の事情でお盆とお正月位しか休めないという方がおられるかもしれません。一方で、休日を「休む日」ではなく「その日にしかできない時間」として、自分自身を忙しくしてしまう日になってはいないでしょうか。

*安息年

神様がイスラエルの人々に与えた約束の地では、人々は6年間は自分の土地に種を蒔き、その実りを収穫しましたが、7年目にはその土地を休ませなければなりませんでした。本日の出エジプト記には「7年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない」とあり(23:11)、休閑地では乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるが良いとあります。

(レビ記25章では、安息年には「全き安息を土地に与え」ねばならず、それは「主の為の安息」であり、7年目に生じた物は、所有者、男女の奴隷、雇い人や滞在者、そして家畜や野生の動物のためと記されています)。

イスラエルの人達の基本的な考え方は、土地や人や労働者達は神様の所有であり、全ての人が同じ立場にたち、社会的に弱い立場にある者を、そうでない者達が助け合い、支え合う神の家族として、イスラエル共同体を造り上げていくことにあったのではないでしょうか。

*安息日

 12節には、人々は六日の間働き七日目には、仕事をやめねばならないと安息日の過ごし方が書いてあります。それは、彼らの牛やろばが休み、女奴隷の子供や寄留者が元気を回復するためとあります。そして13節で、これらの戒めをすべて守るように(従うように)命じ、異教の神の名を口にすることを禁じています。

*わたしたち

私達は、神様が定めた安息日(仕事を離れた休みの日)をどのように過ごしているでしょうか。この日は主なる神様との日です。私達は霊の内に、神様と向き合う日、心を落ち着かせ、神様とゆっくりした時間を十分に持つ日とすることです。この安息は、日曜日(神様を礼拝する日)だけに限定せず、神様と向き合い心を落ち着かせ、神様とゆっくりした時間(安息)を持つことが出来れば幸いです。

信仰の弱い人を受け入れなさい。批判してはなりません。」(1節)

 本日のロマ書で、著者パウロは「信仰の弱い者を受け入れる」ように勧め、彼らを批判することを禁じています。イエス様を信じる者達は、イエス様によって救われ、恵みによって自由にされた者達です。「信仰の弱い人」とは信じる力が弱い人ではなく、ユダヤ教的な教えや慣習の下で育ってきたため、「野菜だけを食べ、肉を食べず、酒を飲まない」、又、「特定の日を重んずる」など、律法主義的な考えが根強く、それらから自由に解放されないままの信仰生活者を指しています。(日本でも古い伝統や慣習が多く残っています)。そこで著者パウロは6章14節で「罪はもはやあなた方を支配する事はない。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」と教えています。「信仰の強い人」とは、信仰による真理の自由というものを知っており、信仰の良心に従うことの出来る人で信仰生活において何が根本的に重要か、そうでないかの確信を持っている人でしょう。注意すべきは「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならず、食べない人は食べる人を裁いてはなりません。(3節)」なぜなら、両者とも、ご主人(神様)の召使いの立場にあるからです。両者とも神様に感謝しており、両者とも神様の裁きの座の前に立つからです。今日、神様が与えて下さった安息の日、律法の下ではなく恵みの下に置かれている者として、今週も御言葉に従って歩んでいきましょう。

2023年8月6日の説教要旨 出エジプト22:20-26・ロマ書12:9-21

              「隣の人を思う」     加藤 秀久牧師

*はじめに

私達にとってイエス様の愛の深さとはどのように思い浮かべることが出来るでしょうか。たとえば、<信頼している人から裏切られ一人になって行き場を失ったとしても>、<仕事で追い込まれて神様との時間が奪われ霊的に弱ったとしても>、絶望的な場に置かれて対応が分からず、生きる希望を失ったとしても>、私達が決して一人ではなくイエス様と話せる場所があることを神様は教えて下さっています。本日のロマ書はイエス様を信じることは神様の憐れみに触れ、その恵み深さを知り、相手を思いやれる優しく心豊かな人になることができることを教えようとしています。

*「愛には偽りがあってはなりません。」(ロマ12:9)

 私達は、他人に対して義理の愛・出し惜しみした愛など、神様から受けた愛とは違う愛の示し方、与え方をしてしまうことがあるかと思います。

たとえ自分の愛を与えたくないと思える相手であったとしても、神様の働きを信じて、私達は、相手に神様の愛を示すことが大事であると思います。

9節の少し前の2節では、「何が善いことで、神に喜ばれ、又、完全なことであるかをわきまえるように」とあり、又、1節の後半では「私達の体を神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそなすべき礼拝です。」と教えています。礼拝は、神様に感謝の言葉、態度を現わす場所であると同時に、私達が神様の愛を受け取る場所でもあり、私達はここで神様に出会うことが出来ます。この礼拝場所で、神様との出会いを通して、私達は神様から優しい心、人を自分のことのように思うことのできる心が与えられると思います。

神様からの恵み、祝福は、決して止むことはありません。神様の私達に対する愛は、人への憎しみや悲しみを与えません。むしろ近くにいる人達をも巻き込み、喜びや笑顔を与えてくれます。 それだからこそ私達は、その神様から与えられた恵みと祝福を、私達が出会う人達に与えられるようにキリストに結ばれて、一つの体を作るようにと告げられているのです。

*兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。(10節)

 私達は、相手から見れば、優れた部分もあれば劣った部分もあるかと思います。その交わりの中で、相手の人が、何か特別な良い行いがあるからではなく、私自身が仕え支え合える隣人として神様から与えられた相応しい相手であり、尊敬をもって相手を優れた者と思えた時、私達は相手の徳を高める態度が神様から与えられ、健全な心へとつながります。

*誰に対しても悪に悪を返さず、善を行うように心がけなさい。(17節)

 この教えは、神様を信じる上で大切なことです。私達の生まれながらの妬み、劣等感、復讐心からは無縁になり、すべての人と平和に暮らせる心を得ることにつながるからです。私達が悪を受けた時、自分で復讐するのではなく、その怒りを神様に委ねるべきであることを、ここで「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」(19節)と、申命記を引用して教えています(32:35)。これにより「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(14節)の意味が明確になると思います。 (私達もかつて、同じような罪の中にいた者であることを伝えようとしているのかもしれません)。

それで「敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」(20節)と促します。これによって「敵の頭に炭火を積む(敵にとって相手から受ける愛の行為は耐えがたく、恥じ入らせ、内側にある牙(きば)を抜くことになる)」のです。神様の復讐は、善をもって悪に打ち勝つ(21節)からです。

*寄留者・寡婦・孤児・貧しい者を苦しめてはならない。

 本日の旧約聖書には、他の家(国)に身を寄せる者、夫と死別した夫人、親を失った孤児、そして貧しい人達を苦しめることを禁じています。もし彼らが神様に訴えるなら、神様は「わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」と言われます。(出エジプト22:26)。

*本日は平和聖日です。

すべての人達が神様を見上げて、隣人を思い、主の平安がありますようにと祈ることができる人になれたら、神様からの素晴らしい恵み、愛を受けることが出来るのです。

2023年6月4日の説教要旨 出エジプト19:3-8a・使徒言行録2:14-36

「礼 拝」        加藤 秀久牧師     

*はじめに

 先週私達は、イエス様が天に昇られたあと、五旬祭(過越の日か50日目)に、弟子達が心を一つにして祈っていると、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。(2:2)」出来事を学びました。そこに集まって来た人々は、この不思議な出来事と光景を見て驚き怪しみました。本日の使徒言行録には、ペトロと十一人の仲間逹が聖霊を受けて、心を燃やされ、人々に語り始めます。

*酒に酔っているのではない

ペトロは、「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません(14~15節)」と語りかけます。

ペトロや他の弟子達を知る人達にとって、イエス様の十字架の死の後、弟子達が途方に暮れて気が抜けたような姿を見たことでしょう。それが今、前よりもっと違う姿で目の前にいます。私達はその働き(神様の力)を頭で考え理解しようとしてもできません。自分自身の身で受け止めることが出来ず、この世のものとは思えない体験が起こり、私達の身体が神様に支配され、神様が私達の心の中に宿った感覚に捉われるからです。そのため、この聖霊の力を受けたペトロや十一人の弟子たちは、人々の前で大胆に、力強く立ち上がり、振舞うことができたのだと思います。

 ペトロは、聖霊の力を知らない人々が、「お酒を飲み過ぎた」「気が変になった」、或いは「悪魔の仕業」などと誤解しないように、このように、酒に酔っているのではないと言ってから説教を始めます。聖霊の働きは、人々の目から見ると、不思議な出来事、怪しい動きに見えたことでしょう。

*ペトロの説教

ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。(22節)」

聖霊を受けたペトロは、今目の前で起こった出来事は、旧約聖書の「ヨエル書の預言(3章)」が成就した出来事であったと説明してから、イエス様について語り始めます。イエス様こそ、神様から遣わされたお方であり、神様はイエス・キリストを通して多くの不思議なわざやしるしを現して証明されたが、あなた方は律法を知らない人々(異邦人・この場合ローマ人)の手を借りて十字架で殺してしまった。けれども神様は、イエス様を死に支配されたままにしておかず、復活させられた。

だからあなた方は はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエス様を、神様は、主としメシア(救い主)となさったのです(36節)と。この後、ペトロの説教を聞いていた人達が、自分達はどうしたらよいかを尋ね、それに対するペトロ達の答が37節以下に記されています。

*モーセとイスラエルの民

 ペンテコステの日(聖霊降臨)の出来事は、本日の出エジプト記に記されているモーセがシナイ山で神様の言葉(19:3~)を聞いて、その言葉を携えて戻り、民の長老たちを呼び集めて、神様の言葉をすべて彼らの前で語った時の光景を思い浮かべることができます。

神様は、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。(5節)」とイスラエルの人々に語るように言われ、モーセからこの言葉を聞いた人々は、「わたしたちは神様が語られたことをすべて行います(8節)。」と、一斉に答えたことを、聖書は伝えています。

*わたしたち

 わたしたちは、神様の言葉を聞いて応答したイスラエルの人々と同じように、又ペトロの説教を聞いてイエス様について教えられた人々と同じように、イエス様の奇跡と不思議な業(わざ)と、十字架の死とそれに続く復活の預言(詩編16:10)と実現を信じ、毎週持たれる礼拝の中で、イエス様を私の救い主と告白し、約束の聖霊(33節)の働きを信じて(受けて)今週も、主に伺い、主に期待して、共に歩んで参りましょう。

4月30日の説教要旨 出エジプト16:1-16・Ⅰコリント8:1-13

「良い食べ物」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

エジプト王の宮廷の責任者とされたヨセフは、飢饉の為にカナン地方から食料を買いに来た兄達に自分の身を明かして、カナンの地から父ヤコブをはじめすべての家族(総勢70名・46:27)をエジプトに呼び寄せました。彼らは最良の地に住むことが許され食料も豊かに与えられ、子供も増えていきました。しかしヨセフも、その世代の人々も皆亡くなり、ヨセフを知らない新しい王が国を治め始めると、イスラエル人の人口が増して強力になりすぎた為、王は強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待しました。労働はいずれも過酷をきわめ、助けを求める彼らの叫び声は激しさを増し、イスラエルの人々は神様に祈り、助けを求めました。その叫び声は神様に届き、彼らの苦しみを御心に留められた神様は、ミディアン地方でしゅうとの羊の群れを飼っていたモーセを選び、エジプト王のもとへ遣わして、イスラエルの人々を、約束の地カナンに連れ帰るように導かれたのでした。

わたしがあなたたちの神、主である。

 本日の出エジプト記では、エジプトを脱出したイスラエルの人々は無事に荒野に入ることが出来ましたが、脱出後一か月くらいに、シナイの荒れ野に行く途中「シンの荒れ野(聖書のうしろにある地図2)」に向かっていた時、イスラエルの人々の共同体全体が、モーセとアロン(モーセの兄・モーセの語るべき言葉の口の役割を担う・出エジプト4:14~)に向かって不平を述べ立てました。「エジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなた達は我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と言いました。彼らの不平を聞かれた神様は、人々を神様の前に集めさせ、人々が荒れ野の方を見ると、主の栄光が雲の中に現れました。そこでモーセは、神様の語る言葉を伝えました『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。』と。

*夕方にはうずら、朝にはマナ

 私たち人間は、目の前に危険が迫ったり直面すると、普段は冷静に振舞えるにもかかわらず、それが出来ず、心の中にあった本音が現れて言ってしまうことがあります。イスラエルの人々が旅を続ける中、疲れやストレスがたまり、喉の渇きや食料不足による空腹を覚える時、エジプトで食べられたり、飲んだりした時のことを思い出して、荒れ野という過酷な場所で、その不満が一気に表に出てきてしまったのでしょう。 

けれども主なる神様は、夕方には「うずら」に宿営を覆わせ、朝には宿営の周りに「露」を降りさせ、この露が蒸発すると、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていました(16:13~)。それは蜜の入ったウェファースのような味がして、民は「マナ」と名付けました(31節)。彼らは神様がモーセを通して命じた通り、家族に応じてある者は多く、ある者は少なく集め、翌朝まで残しておかないこと、又、六日目には二倍の量を集めて七日目の安息日には休むなどの決まりを守りました。イスラエルの人々は、目的地に着くまでの40年にわたり、この恵みの「マナ」を食べて旅を続けました(16:35)。

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1節)

 本日の、Ⅰコリント書の8章の1-13節には、偶像に供えられた肉について語られています。4節には「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」とあり、続く7節には「しかし、この知識が誰にでもあるわけではありません。」とあるように、偶像になじんできた習慣にとらわれている人にとっては「この肉は偶像に備えられた後、食肉用におろされたもの」と聞くと、食べるか食べないかの葛藤が心に起こることが語られます。そして、自分が正しい知識を持っていると考えている人達の、その人の自由な態度が、弱い人達を罪に誘うことにならないように気を付けなさいと警告しています。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げ」ます。私達は、与えられている聖書の御言葉を通して「良い食べ物」を与えられ、そして、与えていく者になりたいと願っています。

2022年11月13日の説教要旨 出エジプト33:7-11・ヘブライ8:1-13

「救いの約束」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

 私たちは、神様との関係を大事にしているでしょうか。又、私達にとってイエス様とは、どのようなお方でしょうか。

モーセによってエジプトから導き出され、旅を続けていたイスラエルの民がシナイの荒れ野に到着し、山に向かって宿営をしていた時、神様はモーセを山の頂に呼び寄せられたので(出エジプト記19章)、モーセはシナイ山(31:18・別名ホレブ山(33:6)に登り、神様から二枚の石の板(十戒)をいただきました。しかしモーセの下山が長引いたため待ちくたびれた人々は金の子牛の像を造り、その像を神としていけにえをささげ、飲み食いし、たわむれていました。山を下りて来たモーセは人々の乱れた姿を見て、神様からいただいた掟の板を投げつけて山のふもとで砕き(32:19)、この日三千人の人々が滅ぼされました(同28節)。民が犯した大きな罪による神様の怒りの前で、モーセは罪の赦しを必死に求め願いました(32:31)。

*臨在の幕屋

 本日の33章では、モーセが人々の宿営から遠く離れた所に天幕を張り「臨在の幕屋」と名付け、この幕屋を「神様と出会う聖なる場所、祈りの場」としました。それで人々は、モーセがその幕屋に向かう時、自分の天幕の入り口で見送り、モーセが臨在の幕屋に入ると、雲の柱が臨在の幕屋の入り口に立ちました。人々は雲の柱を見ると全員起立して自分の天幕の入り口で、悔い改めの時として礼拝しました。神様はモーセに、かつてイスラエルの族長(アブラハム、イサク、ヤコブ)に誓った「約束の地(カナン)」に向かって出発するように命じられましたが、神ご自身は民がかたくなな民であるがゆえに共に行かないと言われました(3~4節)。しかし12節以下には、モーセがイスラエルの民は「神の民」であることや、旅は神様ご自身がモーセを選び導かれた旅であることを伝え、同行を強く願いましたので、神様はこの願いを聞き届けられました。臨在の幕屋では「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られ(33:11)」ました。

モーセの歩みを知る時、私達はイエス様の姿と重なる部分を見ることが出来ます。

*わたしたちのイエス様

 本日のヘブライ書8章の小見出しに「新しい、優れた約束の大祭司」とあり、イエス様が私達にとって、約束された大祭司であることが語られています。イエス様は、「天におられる大いなる方(神様)の右の座に着き、真の幕屋(過ぎゆく地上の幕屋に対して、永遠に存在する天の幕屋)で仕えておられる」こと、大祭司は「供え物といけにえとを献げるために、任命されています(8:3)」が、イエス様は、ただ一度、ご自身を献げることによって、罪のためのいけにえをささげることを成し遂げられました(7:27)とあり、「わたしたちの大祭司は、(モーセより)はるかに優れた務めを得ておられます」「更にまさった契約の仲介者になられた(6節)と記されています。モーセは、神様から律法をいただき、神様の指示に従い幕屋を建て、神様と契約を結びました。しかしイエス様は、古い契約に代わって新しい契約の仲介者になられたのです。

*はるかに優れた務め

 イエス様は完全なお方で何一つの罪も見当たらないお方です。そして、一度だけの完全な罪の贖いとしてご自身を献げられました。その結果、これまでの祭司のように自分のため、又、人々のために毎日のいけにえを献げる必要は永遠になくなりました。イエス様は、私達のためにいつも側にいて下さり、神様に近づく者のためにとりなしの祈りをしておられます。そして今や、文字に刻まれた律法が私達の外側から、(守るべきもの・強制)ではなく、律法は、私達の内側(思いに置き、心に記す・神を愛して、従いたい)から起こり、小さな者から大きな者に至るまで神様を知ることが出来るようにされました(8:10~)。古い契約は律法を守るために努力しなければなりませんでしたが、私達は新しい契約の下で、大祭司イエス様の一回限りの十字架による罪の赦しによって、神様の恵みと慈しみのもとで、喜んで主に従い、近づくことが出来ます。

私達はイエス様を身に付けて今週一週間、主と共に歩んで参りましょう。

2021年3月14日の説教要旨 出エジプト24:3-11・マタイ書17:1-13

「もう、だいじょうぶ」    遠藤尚幸先生

*はじめに

 今朝与えられた聖書の言葉には、大変不思議な場面が記されていました。それは、「主イエスの姿が変わる」ということです。聖書の中で主イエスは、病のいやしや悪霊の追放など、様々な奇跡的な業を人々の前に示していますが、今朝の箇所の特徴は、その奇跡が、主イエスご自身に起こるということです。主イエスご自身にどんな奇跡が起こったのでしょうか。

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マタイ17:1~)

*暗い思いに包まれていた弟子達

 主イエスの、この姿は、神様ご自身の栄光に輝く姿です。弟子達はこの主イエスの光り輝く姿を目撃する直前、実は暗い思いを抱くような経験をしていました。それは主イエスが弟子達に「これからエルサレムに行って起きること」の予告をされたことです。主イエスが、長老、祭司長、律法学者という当時の社会の権力者達に捕われ、苦しみを受けて殺されるというのです。「三日目に復活する」との予告もありましたが、この段階ではそれが何を意味するのか弟子達には分かりませんでした。弟子のリーダーでもあったペトロが、この言葉を聞いて「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と主イエスをいさめ始めました(16:22)。主イエスがエルサレムで殺されてしまうなど、誰一人その意味を理解することが出来ず、弟子達は、この時まさに暗い思いに包まれていたのです。

*モーセとエリヤ

 主イエスが山の上で光り輝く栄光の姿を現したのは、これから起こることが決して否定的な意味を持つのではないということを伝えるためです。聖書は、次のように続けます。「見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」。モーセもエリヤも、旧約聖書を代表する人物です。モーセはイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放し、神様から大切な教えである「律法」を受け取り、民に伝えた人物です。エリヤは、神様の言葉を預かり、それを人々に語り伝えていた代表的な預言者です。旧約聖書が語り継いできた歴史がこの二人の姿に表されています。その流れに主イエスが合流している。ルカ福音書にはこの三人が「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(9:31)とあります。つまり旧約聖書の成就として主イエスがエルサレムで遂げる最期、あの十字架の出来事があることが示されています。 弟子達にとって悲しみの出来事でしかない主イエスの十字架の死が、実はイスラエル民族の救いの成就であり、神様の深いご計画に基づいた出来事としてあること、主イエスはその十字架へ向かって進もうとしていること。弟子達はその栄光の主イエスの姿を、この時、垣間(かいま)見たのです。

 

*「起きなさい。恐れることはない

 この栄光の主イエスの姿を留めておきたいと考えたペトロは「お望みでしたら、仮小屋を三つ建てましょう。あなたのため、モーセのため、エリヤのために」と言いました(17:4)。しかし、光り輝く雲が彼らを覆い、天からの声をが聞こえ、彼らがひれ伏し恐れていると、主イエスは彼らに手を触れて「起きなさい。恐れることはない」と言われ、彼らが顔を上げて見ると、主イエスのほかには誰もおらず、弟子たちの前にはいつも通りの主イエスがいました。私達と同じ人間として悩み、十字架の道を苦しみながら歩もうとする主イエスです。

*ペトロ、ヤコブ、ヨハネ

 この三人の弟子達は、主イエスの栄光の姿を目撃した後で、その主イエスの苦しみ抜く姿を目撃します。この三人は、ゲツセマネの園での祈りの場面でも同様に選ばれています。主イエスが十字架につけられる前夜、祭司長達から捕われる直前に祈りをささげたのがゲツセマネと呼ばれる場所でした。主イエスはゲツセマネの園でこのように祈りました。

父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(26:39)

この祈りは、これから起こる杯(=十字架の出来事)を過ぎ去らせてほしいという願いと、しかし、神様の御心が実現していくようにという戦いの祈りでした。三人の弟子は、この主イエスの祈りの場所に同行することになります。主イエスというお方は、常日頃から栄光の姿を持って何の悩みも持たずに生涯を歩み、苦しまずに十字架に向かわれたわけではありませんでした。

そして弟子達は、結局は、主イエスの敗北にも思える姿を理解しきれずに、祭司長達に捕えられると怖くなって逃げ去り、遂には、主イエスただお一人で十字架への道を歩んでいくことになります。

主イエスの十字架への歩みは、そのようにして、都合よく神様を利用し都合よく神様を見捨てていく、私達人間の罪の深さを明らかにしました。

*十字架の愛

 そして、主イエスは、私達の罪を背負って十字架で死んで下さいました。私達の命は、神のひとり子である方が、命を捨ててまで救い出して下さったほどに価値があり、欠けがえのないものです。

高い山の上で見た光は、弟子たちにとって、一瞬垣間見たものでした。しかし、彼らは後に、光り輝く栄光だけが真の栄光ではないことに気づいていきます。主イエスのあのみすぼらしい、敗北のように見える十字架にこそ、神様の豊かな愛です。光り輝く栄光の姿は確かに素晴らしく、ペトロが言ったように、何としてでも留めておかなければと思うほど魅力的なものだったかもしれません。しかしそれ以上に、もっと素晴らしいことは、神様が、「その存在そのものを懸けてこの私を愛してくださった」という出来事です。弟子達は後に教会を形成し、主イエスのことを伝えていきますが、彼らが伝えたのは、光り輝く栄光ある主イエスの姿ではなくて、彼らは大胆に、十字架で命を捨てた神の子イエス・キリストを伝道していくのです。私達の罪のために十字架を背負う主イエスの姿は、後に、全世界の人々へと告げ知らされ、遂には今私たちの所に手渡されています。

私達一人一人もまた、この主イエスの十字架の愛の中に置かれています。

*山の上で

 主イエスの姿が変わる出来事は「山の上」で起きました。

 「山」は、神様と出会う特別な場所として描かれ(マタイ福音書)、主イエスが十字架で死に復活した後、弟子達が主イエスと再会する場所もガリラヤの山の上です。主イエスを見捨てた弟子達が、再び主イエスに出会い、派遣されていくのは、「山の上」であることを伝えています。

「山の上」での神様との出会いは、私達が毎週教会でささげている礼拝の姿と重なります。礼拝で知らされることは、私達がこの一週間を振り返り、いかに神様という存在を自分勝手に都合よく考えてきたかということです。そのような私達に主イエスは近づいて下さり、手を触れて、「起きなさい。恐れることはない」(17:7)と語りかけて下さっている。 

弟子達は主イエスを見捨てて裏切ったわけですから、復活の主イエスと出会うことは、「喜ばしいだけ」ではなかったはずです。しかし主イエスは、そんな彼らの思いを超えて、一人一人を愛し、受け入れ、もう一度そこから「起きなさい」と呼びかけて下さる。

私達も又、この弟子達と同じです。この礼拝を通して知るべきことは、私達一人一人のために、主イエスがあの十字架で命を捨てて下さったということです。私達一人一人の不信仰、欠け、弱さを超えて、私達一人一人をどこまでも愛し抜いて下さっている方がいる。私達が毎週教会に集うその意味は、共に、自らに与えられている「その良き知らせ」を聴き、新しい一週間を共に歩みだすためです。

*受難節の歩みの中で

 私達は今、主イエスの十字架への歩みと、その苦しみを覚える受難節を過ごしています。教会歴の中で、受難節最後の週である受難週は、主イエスの苦しみを覚えて過ごすためにいろいろな試みがなされています。が、大切なことは、この主イエスの十字架の歩みの中に、私達一人一人が深く覚えられていることを、心に刻みながら過ごすことです。 新しい一週間が始まります。主イエスの栄光の姿は過ぎ去りました。しかし、何も問題はありません。私達の目の前には、私達の罪を背負い、十字架の道を歩む主イエスがおられるからです。

2020年8月23日の説教要旨 出エジプト30:11-16・マタイ17:24-27

「主イエスの贖い」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに

エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民が、神様に助けだされて、荒れ野での生活をしていたのは紀元前1200年頃といわれます。奴隷から自由な身となったイスラエルの民は、神様と『神の民』となる契約を結び、神様はモーセを通して、人々が聖(きよ)く正しく生きる道しるべとして律法、規則を授けました。

*登録税

出エジプト記30章は、20歳以上の男子を対象とした人口調査の時の、登録税に関する規定が記されています。このお金は、人々の命の代償金として神様に献げられました。代償金は半シェケル(今のお金で約1日分の労働賃金)と定められました。この金額は、神様がイスラエルの人々の「命を贖(あがな)うための約束のお金」であったので、多く献げたり少なく献げたりは出来ないものでした。この神様との約束が基(もと)なりイエス様の時代には、同じ半シェケルを神殿税として毎年納めることになりました。このお金は神殿での献げものに使われ、イスラエルの人々の贖罪(人々の罪があがなわれる・赦される)の約束の意味を持っていたそうです。

*イエス様と神殿税

イエス様一行がカファルナウムに来た時、神殿税を集める者達がペトロに、「あなた達の先生は神殿税を納めないのか」と言いました。ペトロは、「納めます」と言って家に入りました。

私達の税金は、国民の生活や安全を守る警察・消防・道路・水道の整備、又、年金・医療・福祉・教育など公的サービスや、社会活動などに使われますから、社会で生活していく会費のようなものと言えるかもしれません。

それに対し神殿税は神殿の運営や修理費に用いられ、神殿税を納めることが神様に選ばれた民の一員であることの一つの「しるし」でもありました。

*地上の王と天上の王

家に入ると、イエス様の方から、「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物を誰から取り立てるのか。自分の子供達からか、それともほかの人々からか。」と言い出されました。ペトロは「ほかの人達からです」と答えると、イエス様は「では、子供達は納めなくてよいわけだ」と言われました。人間の王は自分の子供達からは税金を取り立てないのだから、天上の王(神様)の子供達も同じように、納税には自由であると言われたのでしょう。しかしイエス様は続けて「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。」と言われ、ペトロに釣りをして、最初に釣れたの魚の口の中にある銀貨一枚で、自分とペトロの分を納めるように言われました。イエス様は地上において「神の子」でありながらも「人間」としてへりくだり、全てにおいて正しく歩まれたのでした。

*私達の罪の代償・罪のあがない

神殿税は、毎年繰り返される罪の贖(あがな)いの「しるし」でした。

しかしイエス様は、終りのない、繰り返される罪の贖(あがな)いから私達人間を解放するため「一度きりの、あがないの代価」を払って下さいました。「私達の命の代償」としての保証金、納入金を神の御国に納めて下さいました。それはイエス様が私達の罪のために十字架にかかり、ご自分の命を捧げて下さったということです。そのことにより、私達人間の罪の代価が支払われて、私達は神様から自由にされているのです。

*神様とイエス様の私達への愛

神様は人を地のちりで形造り、その鼻に命の息を吹き込み、人は神様と共に生きる者となりました。しかし人は罪を犯して神様と共に生きられなくなりました。それでも神様は人間を見捨てることはなさらず、ご自分の独り子であられるイエス様を私達のもとに送り、再び神様と共に生きる者として下さり、イエス様を人々の命の贖いとされたのです。 これほどまでにして、神様は私達人間を愛して下さっています。イエス様が私達のために犠牲を払って下さったのですから、私達はイエス様の愛に包まれて歩む信仰を得なければなりません。それは私達がイエス様を信じて、イエス様は神の子であると告白することです。イエス様は、どんな時にも私達の隣にいて下さり、励ましを与えて下さるお方です。