「救いの約束」 加藤 秀久伝道師
*はじめに
私たちは、神様との関係を大事にしているでしょうか。又、私達にとってイエス様とは、どのようなお方でしょうか。
モーセによってエジプトから導き出され、旅を続けていたイスラエルの民がシナイの荒れ野に到着し、山に向かって宿営をしていた時、神様はモーセを山の頂に呼び寄せられたので(出エジプト記19章)、モーセはシナイ山(31:18・別名ホレブ山(33:6)に登り、神様から二枚の石の板(十戒)をいただきました。しかしモーセの下山が長引いたため待ちくたびれた人々は金の子牛の像を造り、その像を神としていけにえをささげ、飲み食いし、たわむれていました。山を下りて来たモーセは人々の乱れた姿を見て、神様からいただいた掟の板を投げつけて山のふもとで砕き(32:19)、この日三千人の人々が滅ぼされました(同28節)。民が犯した大きな罪による神様の怒りの前で、モーセは罪の赦しを必死に求め願いました(32:31)。
*臨在の幕屋
本日の33章では、モーセが人々の宿営から遠く離れた所に天幕を張り「臨在の幕屋」と名付け、この幕屋を「神様と出会う聖なる場所、祈りの場」としました。それで人々は、モーセがその幕屋に向かう時、自分の天幕の入り口で見送り、モーセが臨在の幕屋に入ると、雲の柱が臨在の幕屋の入り口に立ちました。人々は雲の柱を見ると全員起立して自分の天幕の入り口で、悔い改めの時として礼拝しました。神様はモーセに、かつてイスラエルの族長(アブラハム、イサク、ヤコブ)に誓った「約束の地(カナン)」に向かって出発するように命じられましたが、神ご自身は民がかたくなな民であるがゆえに共に行かないと言われました(3~4節)。しかし12節以下には、モーセがイスラエルの民は「神の民」であることや、旅は神様ご自身がモーセを選び導かれた旅であることを伝え、同行を強く願いましたので、神様はこの願いを聞き届けられました。臨在の幕屋では「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られ(33:11)」ました。
モーセの歩みを知る時、私達はイエス様の姿と重なる部分を見ることが出来ます。
*わたしたちのイエス様
本日のヘブライ書8章の小見出しに「新しい、優れた約束の大祭司」とあり、イエス様が私達にとって、約束された大祭司であることが語られています。イエス様は、「天におられる大いなる方(神様)の右の座に着き、真の幕屋(過ぎゆく地上の幕屋に対して、永遠に存在する天の幕屋)で仕えておられる」こと、大祭司は「供え物といけにえとを献げるために、任命されています(8:3)」が、イエス様は、ただ一度、ご自身を献げることによって、罪のためのいけにえをささげることを成し遂げられました(7:27)とあり、「わたしたちの大祭司は、(モーセより)はるかに優れた務めを得ておられます」「更にまさった契約の仲介者になられた(6節)と記されています。モーセは、神様から律法をいただき、神様の指示に従い幕屋を建て、神様と契約を結びました。しかしイエス様は、古い契約に代わって新しい契約の仲介者になられたのです。
*はるかに優れた務め
イエス様は完全なお方で何一つの罪も見当たらないお方です。そして、一度だけの完全な罪の贖いとしてご自身を献げられました。その結果、これまでの祭司のように自分のため、又、人々のために毎日のいけにえを献げる必要は永遠になくなりました。イエス様は、私達のためにいつも側にいて下さり、神様に近づく者のためにとりなしの祈りをしておられます。そして今や、文字に刻まれた律法が私達の外側から、(守るべきもの・強制)ではなく、律法は、私達の内側(思いに置き、心に記す・神を愛して、従いたい)から起こり、小さな者から大きな者に至るまで神様を知ることが出来るようにされました(8:10~)。古い契約は律法を守るために努力しなければなりませんでしたが、私達は新しい契約の下で、大祭司イエス様の一回限りの十字架による罪の赦しによって、神様の恵みと慈しみのもとで、喜んで主に従い、近づくことが出来ます。
私達はイエス様を身に付けて今週一週間、主と共に歩んで参りましょう。