2021年10月3日の説教要旨 ヨシュア記6:1-20・ヘブライ書11:7-22

「信仰による真実」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

 アブラハムの時代から神様とイスラエルの民との間には契約が立てられ、契約のしるしとして男子は皆、生まれて8日目に「割礼」を受けました(創世記17章)。しかしエジプトを脱出した時の民は、カナンを目指して荒れ野でさまよい歩く40年の月日の中で死に、今、カナン侵入を目の前にしている人々は、荒れ野で生れた「割礼」を受ける機会がなかった彼らの息子達でした。神様はモーセの後継者となったヨシュアに、契約のしるしである「割礼」を施すように命じられました。神様は、イスラエルの民に与えた「約束の地」でこれからなさろうとしている事を前に、先ず始めに、イスラエルの民の男子を聖めることを命じられました。(ヨシュア記5章)

*主の軍の将軍

彼らが最初に占領する町は、城壁の門を堅く閉ざした「エリコ」という、要塞と呼ぶにふさわしい町でした。ヨシュアがエリコのそばに来ていた時、抜き身の剣を持った主(神)の軍の将軍と出会い、この戦いが主のものであることを示されました(5:13~)この事は、これから起こる全てのことは主の指示に従って歩むことを意味しており、イスラエルの人々が、全知全能の神を再び知ることでもありました。

ヨシュアの前に現れた「抜き身の剣を持った主の軍の将軍」と同じように、私達の前にも、時に、素晴らしく偉大な力強い姿で主は現れて下さり、その圧迫感、圧力の凄さを前に、私達はひざまづき、身をかがめて礼拝をすることが出来ます。私達は毎日、そのための時間を作り、体験しているでしょうか?

*エリコの占領

 神様はヨシュアに、「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す(2節)」と言われました。エリコの町はイスラエルの人々の攻撃に備えて、誰も出入りが出来ないように閉ざされていました。イスラエルの人々は、城壁で囲まれた町を攻略するための戦略方法も分かりませんでした。しかしどのような強力なセキュリティー・システムを用いていても、神様は神様を信じる者達に、悪の敵の城壁を打ち破る方法を教えて下さいます。神様は、エリコを攻略する方法を次のように指示されました。「イスラエルの兵士達は皆、エリコの町の周りを一周し、それを六日間続け、七日目には町を七周し、祭司達は角笛を吹き鳴らし、それが聞こえたら民は皆、「鬨(とき)の声」をあげる」でした。ヨシュアは主の命じられた通り、すべてそのように行いました。七日目には町を七周回った後、角笛が吹き鳴らされ、それを聞いた民が鬨(とき)の声をあげると城壁は崩れ落ち、民は町に突入して占領出来たのでした。

*「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」

本日のヘブライ人への手紙11章7-22節では、信仰は霊的な真実の世界を見通すことができ、実際には見えないけれども、それが真実であることを確信することであると告げています。それは神様の約束の実現や、すべてのことを神様に明け渡すことによる神様との信頼関係から与えられるものだと思います。ノアの時代、世界は神様から離れてノアのしていることを馬鹿にしました。信仰に基づく義とは神様の賜物であり、見えない神様の約束を信じる者に与えられるものです。

 アブラハムの信仰は、神様に告げられた言葉だけを信じて、行き先も知らずに出発したことから始まります。

*わたしたち

 私達はどこに神様を求め、神様が存在して下さる場所を作っているでしょうか?私逹が神様を信じ続ける神聖な場所を作る秘訣は、ヨシュア記のエリコの町のように、堅固な城壁を作ることではなく、私達が生活して行く中で、この「聖書」という真実な言葉があり、目には見えず、感じることしか出来ないお方、心に宿る、確かなお方が私達にはいる、在るということです。 

その神様が、私達に、共に声を合わせて、主は全てにおいて勝利されたことを宣言しなさい、と伝えているのです。私達は、今日のこの日に、主が共におられることに感謝して一週間の歩みを進めて参りましょう。

5月21日の説教要旨 「永遠なる大祭司」 牧師 平賀真理子

レビ記917ヘブライ人への手紙72228

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、「ヘブライ人への手紙」から与えられました。この書簡は、恐らく、紀元80年~90年代に、ローマにいるユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものだろうと言われています。著者は、宛先の人々と同じくユダヤ人キリスト者であり、かつ、ユダヤ教の神学的な内容に精通していて、自分の確信を情熱をもって語れた人だろうと言われています。この書簡の中には、迫害を経験したか、または、これから起こるであろう迫害を前に不安になった故に、キリスト教信仰を捨てようとする人々に対し、救い主イエス様の恵みが、ユダヤ教からの恵みとは比べものにならないほどに、より大きくて、いかに確かなものであるかを伝えようとする著者の思いが溢れています。

 大祭司イエス様

「ヘブライ人への手紙」は、1章から6章までが導入部分と言えます。はじめに、著者は、イエス様が天使やモーセよりも優れた御方であり、完全な救いを成就してくださった御方だとあります(小見出し参照:1章「御子は天使にまさる」、2章「救いの創始者」、3章「イエスはモーセにまさる」)。

次に、3章1節で初めて、「イエス様が大祭司である」という考え方が表わされています。そして、4章14節で「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」という励ましのメッセージが述べられます。「大祭司」という言葉については、5章1節に明確に説明されています。「大祭司はすべての人間から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています」。また、5章4節には、この大祭司という任務は「アロンもそうであったように、神から召されて受ける」とあります。

 アロンとその子孫が受け継いだ「大祭司」という職務

今日の旧約聖書箇所に、ユダヤ人が敬愛するモーセが、その兄弟アロンに初めて「祭司」の職務を行うように言ったと記されています。祭司としてアロンに、アロン自身とユダヤの民の罪を贖う儀式を行うように、主が命じたと、モーセが告げたことが重要です。祭司の職務は、神様が命じられる(直接介入される)ほど重要です。ユダヤ教では、神様に従うことと背くことの基準は、「神様からいただいた律法を守るか、守らないか」でした。ユダヤ人達は律法を守れなかったら、罪を犯したことになります。その罪を神様に赦していただくには、贖罪のためのいけにえを屠り、その血を祭壇に注ぐという贖罪の儀式を、アロンの子孫であるレビ族出身の大祭司に取り行なってもらう必要がありました。

 血統を越えた「新しい救い」=預言された「永遠なる大祭司」 

ところが、イエス様はユダ族出身だったので、ユダヤ教の常識を捨てられないユダヤ人キリスト者にとって、イエス様が、新しい大祭司だとすぐには受け入れ難いことでした。だから7章では、昔、レビ族ではない「メルキゼデク」という祭司がいて、ユダヤ人達の信仰の祖として尊敬されているアブラハムもこの人に献げ物をした事実を挙げ、掟を越えたことが歴史上、既になされていたことを指摘しました。その上、神様は「以前の掟を廃止して、もっと優れた希望をもたらそう」(7:18-19)としていると説明しています。同時に、神様は、ずっと昔に預言した「メルキゼデクのような『永遠なる大祭司』をこの世に送る(詩編110編4節)」という約束(20節では「誓い」という言葉)を守ってくださった結果、来られた「永遠なる大祭司」がイエス様であると21節までで説明しています。同じことを22節では「イエス様は いっそう優れた契約の保証となられた」と表現しています。大祭司イエス様がなぜ、今までの大祭司よりずっと優れた御方なのかの根拠の一つが23節から25節にあります。人間である大祭司は死を越えられないので、代替わりが必要です。一方、イエス様は「神の右の座にお着きになった」(1:3)ので、神様として時空を超えた御方です。永遠に生きて、信じる者達への執り成しを永遠にしてくださるので、完全なる救いがおできになります!

 ただ一度の尊いいけにえ=「主の十字架」

イエス様の十字架が、私達の完全なる救いのためのただ一度の尊い犠牲であるということは、私達の信仰の核心部分です。このことを「ヘブライ人の手紙」では、3回もはっきり主張しています(7:21、9:28、10:10)。イエス様による「罪の贖い」の完全さを証しした上で、伝えられた人間がどうすべきかが、10章19節-20節に記されています。「イエス様の贖い」を信じることで聖所に入れるとか、イエス様の肉を通って(犠牲を通して)新しい生きた道が開かれたと述べています。そして、これ以降には、信仰者に必要な内容が次々と記されています。11章では「信仰」、12章では信仰に必要な「主の鍛錬」、13章では「神に喜ばれる奉仕」など、キリスト者にふさわしい信仰生活についての記述が続きます。

 キリスト教の外側でなく、内側「主の贖いの御業」を一人一人が信じる

かつてのユダヤ教のように、自分の罪の赦しを、大祭司に委ねて償ってもらう時代は終わりました。イエス様の偉大で完全な贖いの御業を、知らされた一人一人がそのまま信じるかどうかが問われています。ヘブライ人の手紙は、そのことを明らかにして、信仰者達を励まそうと書かれています。更に、使徒パウロも、同じ内容を記しています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ロマ書3:23-25)キリスト教や教会が提供する行事や芸術や雰囲気という外側が素敵だから信じるではなく、内側=核心「イエス様の十字架が私の罪の贖いのためである」ことを信じ、神の民とされる幸いを受け取ることが許されている喜びに溢れ、信仰を保ち続けましょう!