2022年11月13日の説教要旨 出エジプト33:7-11・ヘブライ8:1-13

「救いの約束」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

 私たちは、神様との関係を大事にしているでしょうか。又、私達にとってイエス様とは、どのようなお方でしょうか。

モーセによってエジプトから導き出され、旅を続けていたイスラエルの民がシナイの荒れ野に到着し、山に向かって宿営をしていた時、神様はモーセを山の頂に呼び寄せられたので(出エジプト記19章)、モーセはシナイ山(31:18・別名ホレブ山(33:6)に登り、神様から二枚の石の板(十戒)をいただきました。しかしモーセの下山が長引いたため待ちくたびれた人々は金の子牛の像を造り、その像を神としていけにえをささげ、飲み食いし、たわむれていました。山を下りて来たモーセは人々の乱れた姿を見て、神様からいただいた掟の板を投げつけて山のふもとで砕き(32:19)、この日三千人の人々が滅ぼされました(同28節)。民が犯した大きな罪による神様の怒りの前で、モーセは罪の赦しを必死に求め願いました(32:31)。

*臨在の幕屋

 本日の33章では、モーセが人々の宿営から遠く離れた所に天幕を張り「臨在の幕屋」と名付け、この幕屋を「神様と出会う聖なる場所、祈りの場」としました。それで人々は、モーセがその幕屋に向かう時、自分の天幕の入り口で見送り、モーセが臨在の幕屋に入ると、雲の柱が臨在の幕屋の入り口に立ちました。人々は雲の柱を見ると全員起立して自分の天幕の入り口で、悔い改めの時として礼拝しました。神様はモーセに、かつてイスラエルの族長(アブラハム、イサク、ヤコブ)に誓った「約束の地(カナン)」に向かって出発するように命じられましたが、神ご自身は民がかたくなな民であるがゆえに共に行かないと言われました(3~4節)。しかし12節以下には、モーセがイスラエルの民は「神の民」であることや、旅は神様ご自身がモーセを選び導かれた旅であることを伝え、同行を強く願いましたので、神様はこの願いを聞き届けられました。臨在の幕屋では「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られ(33:11)」ました。

モーセの歩みを知る時、私達はイエス様の姿と重なる部分を見ることが出来ます。

*わたしたちのイエス様

 本日のヘブライ書8章の小見出しに「新しい、優れた約束の大祭司」とあり、イエス様が私達にとって、約束された大祭司であることが語られています。イエス様は、「天におられる大いなる方(神様)の右の座に着き、真の幕屋(過ぎゆく地上の幕屋に対して、永遠に存在する天の幕屋)で仕えておられる」こと、大祭司は「供え物といけにえとを献げるために、任命されています(8:3)」が、イエス様は、ただ一度、ご自身を献げることによって、罪のためのいけにえをささげることを成し遂げられました(7:27)とあり、「わたしたちの大祭司は、(モーセより)はるかに優れた務めを得ておられます」「更にまさった契約の仲介者になられた(6節)と記されています。モーセは、神様から律法をいただき、神様の指示に従い幕屋を建て、神様と契約を結びました。しかしイエス様は、古い契約に代わって新しい契約の仲介者になられたのです。

*はるかに優れた務め

 イエス様は完全なお方で何一つの罪も見当たらないお方です。そして、一度だけの完全な罪の贖いとしてご自身を献げられました。その結果、これまでの祭司のように自分のため、又、人々のために毎日のいけにえを献げる必要は永遠になくなりました。イエス様は、私達のためにいつも側にいて下さり、神様に近づく者のためにとりなしの祈りをしておられます。そして今や、文字に刻まれた律法が私達の外側から、(守るべきもの・強制)ではなく、律法は、私達の内側(思いに置き、心に記す・神を愛して、従いたい)から起こり、小さな者から大きな者に至るまで神様を知ることが出来るようにされました(8:10~)。古い契約は律法を守るために努力しなければなりませんでしたが、私達は新しい契約の下で、大祭司イエス様の一回限りの十字架による罪の赦しによって、神様の恵みと慈しみのもとで、喜んで主に従い、近づくことが出来ます。

私達はイエス様を身に付けて今週一週間、主と共に歩んで参りましょう。

2022年3月6日の説教要旨 エレミヤ書31:27-34・ヘブライ2:10-18

誘惑に勝つ」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日のエレミヤ書には、神と人間の関係を示す契約の、最も深くて本質的な内容が示されています。神様とイスラエルの民との契約とは、神様がシナイ山において、指導者モーセを通して民に与えられた契約です。それは十戒と呼ばれる十の戒めであり、「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を、民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。」(出エジプト24:3)」と記されています。十戒をはじめとする律法は、イスラエルの民の生活の中で生きたものとなり、人格形成の助け手の役割がありました。

*新しい契約

この神様とイスラエルの人々との間で結ばれた約束(契約)が、今度は新しくされることが、預言者エレミヤによって、神様の言葉が語られます。

見よ、・・・新しい契約を結ぶ日が来る」(元の言葉では「日々」)です。

この「新しさ」とは、今まで契約の相手は「イスラエルの民=群・共同体」であったけれども、今度は、「神様とわたし(個人)」の間で結ばれる契約になるというのです。神様との契約は、表面的に命令として受け止めたり、定められた基準にただ従って行動するというのではなく、ひとりひとりの心に刻まれて、人間性そのものが新たにされる、ということへとつながることになります。

*預言者エレミヤ

 エレミヤが活動した南王国ユダでは、ヨシヤ王が修理中のエルサレム神殿から発見された神の律法の書(申命記)によって、BC.621年に宗教改革が行なわれました(列王記下22-23章)。エレミヤは、その律法の書に記されている全ての言葉を価値あるものとして扱い、この契約の言葉に従わない者は呪われることを主張し、ヨシヤ王の改革運動を支持しました。

ヨシヤ王は、神殿および周辺にあった偶像となりうる物をことごとく外へ運び出し、破壊し、焼き払い、神殿や高台、町などを聖(きよ)めました。

しかしヨシヤ王が戦死したことにより、人々が律法の言葉に対して真剣に取り組まなかったことで、この宗教改革は挫折(ざせつ)しました。エレミヤから見て、イスラエルの人々は、希望が持てない民、絶望的な民であり、彼らのあまりの罪の深さにより、自分の意志や考えをコントロールできず、自ら滅びの道へ歩んでしまったのでした。

BC.587年にエルサレムは陥落。神殿は焼かれ、ユダ王国は滅び、人々は捕囚となってバビロニアに連行されていくのです。しかしエレミヤは、そのようなイスラエルの人々でも、その中から、わずかな可能性、望みを持ち続け、人々が将来、神様に立ち帰り、信仰を再び取り戻すことを期待し、民族再生の道を追求していました。人々から激しい迫害を受け、涙で語るエレミヤは、神様への純粋な信仰を貫き通して、「新しい契約」のメッセージを語ります。

*「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(33節)

あの、古い律法(=十戒)は、石の板(イスラエル共同体)に刻まれたが、これからは、一人ひとり・個人の心に律法が記されるという「新しい契約」が結ばれる日がくるのです。それは、私達が義務や、他の誰かから強制されて物事を捉(とら)えるのではなく、わたし達の心の内側からの意志の現われが、自発的な態度を造り、自分に直接関係するという意識を生み出すことになり、自分の意志で、神様の律法(トーラー)を守り従うことになります。このことにより、神様の言葉「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(33節)ことが可能となる契約です。

*ヘブライ書2章18節

イエス様は、私達人間の罪をつぐなう為に私達の身代りとなって律法を成就され、ご自身の十字架の犠牲によって律法での「いけにえ」を献げる行為を終らせて下さいました。私達自らが、主イエス・キリストの贖いの死と復活を信じて聖霊に満たされ、導かれ、聖書の御言葉に信頼を置くことで、新しい契約の下での「救い」を無償の賜物として受け取る機会を与えられています。「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人達を助けることがおできになるのです。

2022年2月27日の説教要旨 ヨナ書 1:1-2:1・ヘブライ書2:1-4

御業の現われ」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

主なる神様は、預言者ヨナに「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」と、言われました。

神様は、アッシリアの都(みやこ)ニネベの人々が悪の道を歩き続けていることで審判を下し、まもなく大いなる都のニネベが滅亡することを告げるようにヨナに命じたのです。しかしヨナは、主の言葉に従わず、主の前から逃れようと、ニネベとは別方向のタルシシュに向かう船に乗り込みます。

*主から逃れたヨナ

 ヨナはなぜこのように「主」から逃げようとしたのでしょうか。神様から与えられる言葉は預言者にとって絶対的な命令であり、聖なる裁き主である神様に対して、預言者は従う責任を負っています。にもかかわらず、ヨナはその命令から逃げようとするのには何か理由があるはずです・・。

ひょっとしたらヨナは、遠く離れた所に行くことで、神様の命令から身を引くことができると考えたのかもしれません。けれどもヨナの乗った船は、大荒れの海の中で砕けんばかりとなり、積み荷を海に投げ捨てても海は荒れる一方でした。この災難は誰の原因で起こったのか、くじを引いたところヨナに当たった為、ヨナは皆に、神の前から逃げたことを告白し、自分を海へ放り込むようにと頼みます。それは、自分の死によって罪を悔い改めれば神様の怒りは静まることをヨナ自身が知っていたからです。

*巨大魚の腹の中へ

海はますます荒れ、船は制御不能となり、乗組員達はついにヨナを海に放り込みます。すると荒れ狂っていた海は静まり、この出来事によって人々はヨナの信じる神様を大いに畏れていけにえをささげたとあります。一方ヨナは神様によって巨大な魚に吞み込まれます。三日三晩の後、神様は魚にヨナを吐き出させ、ヨナには神様の命令が繰り返されます。悔い改めたヨナは直ちにニネベに行き、命じられた通りニネベの滅亡を叫びながら町を歩き廻りました。すると、ニネベの人々は断食し悔い改めたのです。

*ヨナの不満

人々が悪の道から離れたことをご覧になった神様は思い直され、災いを下すのをやめられました。しかしヨナは不満を訴えます。「ああ主よ、だから、私は先にタルシシュに向かって逃げたのです。私にはこうなることが分かっていました。あなたは恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方です」と。ヨナは「神様というお方は、悪に対しては厳しく罰するが、悔い改める者には恵みと憐れみを注ぎ、罪を赦し、滅ぼす計画をも思い直されるお方である」からこそ、わたしは<滅びの宣告>の命令から逃げたと訴えました。

そうでないと、押し流されてしまいます

本日のヘブライ書の1節に「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」とあります。この「押し流される」の元の言葉の中に、流れたり、すり抜けたり、滑り落ちるという意味がありますが、航海の意味も含んでいます。

この「航海」は、船を港に泊める意味の他に、船員が、風や潮の流れに注意することを忘れてしまうことや、避難するはずだった港や避難所をすり抜けてしまった船のことも含まれます。

*わたしたち

もし「わたし」という生命の船が港を通り過ぎてしまい、嵐で船が壊されないようにするには、「神様の言葉である聖書」が私達にとって船のかじを取る役割・存在です。私達は、この聖書の言葉・イエス様の語る言葉から離れては何もすることはできません。このお方こそが、私達の心の中に癒しを与え、力を与え、励ましを与え、生きる意味を教えて下さるのです。私達は時に、ヨナのように神様の声、語りかけを無視して、違う方向、自分が良く思える方法へと歩むことがあります。しかしヨナが巨大魚に呑み込まれてしまう中でも、主の助けによって救い出される体験をしています。私達もイエス様に救い出された者であり、その霊に満たされた者たちです。たとえ私達の生活の中で、今が嵐だと思える状況にあっても、私達は希望を捨てずに神様の声に耳を傾けましょう。

2021年10月3日の説教要旨 ヨシュア記6:1-20・ヘブライ書11:7-22

「信仰による真実」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

 アブラハムの時代から神様とイスラエルの民との間には契約が立てられ、契約のしるしとして男子は皆、生まれて8日目に「割礼」を受けました(創世記17章)。しかしエジプトを脱出した時の民は、カナンを目指して荒れ野でさまよい歩く40年の月日の中で死に、今、カナン侵入を目の前にしている人々は、荒れ野で生れた「割礼」を受ける機会がなかった彼らの息子達でした。神様はモーセの後継者となったヨシュアに、契約のしるしである「割礼」を施すように命じられました。神様は、イスラエルの民に与えた「約束の地」でこれからなさろうとしている事を前に、先ず始めに、イスラエルの民の男子を聖めることを命じられました。(ヨシュア記5章)

*主の軍の将軍

彼らが最初に占領する町は、城壁の門を堅く閉ざした「エリコ」という、要塞と呼ぶにふさわしい町でした。ヨシュアがエリコのそばに来ていた時、抜き身の剣を持った主(神)の軍の将軍と出会い、この戦いが主のものであることを示されました(5:13~)この事は、これから起こる全てのことは主の指示に従って歩むことを意味しており、イスラエルの人々が、全知全能の神を再び知ることでもありました。

ヨシュアの前に現れた「抜き身の剣を持った主の軍の将軍」と同じように、私達の前にも、時に、素晴らしく偉大な力強い姿で主は現れて下さり、その圧迫感、圧力の凄さを前に、私達はひざまづき、身をかがめて礼拝をすることが出来ます。私達は毎日、そのための時間を作り、体験しているでしょうか?

*エリコの占領

 神様はヨシュアに、「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す(2節)」と言われました。エリコの町はイスラエルの人々の攻撃に備えて、誰も出入りが出来ないように閉ざされていました。イスラエルの人々は、城壁で囲まれた町を攻略するための戦略方法も分かりませんでした。しかしどのような強力なセキュリティー・システムを用いていても、神様は神様を信じる者達に、悪の敵の城壁を打ち破る方法を教えて下さいます。神様は、エリコを攻略する方法を次のように指示されました。「イスラエルの兵士達は皆、エリコの町の周りを一周し、それを六日間続け、七日目には町を七周し、祭司達は角笛を吹き鳴らし、それが聞こえたら民は皆、「鬨(とき)の声」をあげる」でした。ヨシュアは主の命じられた通り、すべてそのように行いました。七日目には町を七周回った後、角笛が吹き鳴らされ、それを聞いた民が鬨(とき)の声をあげると城壁は崩れ落ち、民は町に突入して占領出来たのでした。

*「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」

本日のヘブライ人への手紙11章7-22節では、信仰は霊的な真実の世界を見通すことができ、実際には見えないけれども、それが真実であることを確信することであると告げています。それは神様の約束の実現や、すべてのことを神様に明け渡すことによる神様との信頼関係から与えられるものだと思います。ノアの時代、世界は神様から離れてノアのしていることを馬鹿にしました。信仰に基づく義とは神様の賜物であり、見えない神様の約束を信じる者に与えられるものです。

 アブラハムの信仰は、神様に告げられた言葉だけを信じて、行き先も知らずに出発したことから始まります。

*わたしたち

 私達はどこに神様を求め、神様が存在して下さる場所を作っているでしょうか?私逹が神様を信じ続ける神聖な場所を作る秘訣は、ヨシュア記のエリコの町のように、堅固な城壁を作ることではなく、私達が生活して行く中で、この「聖書」という真実な言葉があり、目には見えず、感じることしか出来ないお方、心に宿る、確かなお方が私達にはいる、在るということです。 

その神様が、私達に、共に声を合わせて、主は全てにおいて勝利されたことを宣言しなさい、と伝えているのです。私達は、今日のこの日に、主が共におられることに感謝して一週間の歩みを進めて参りましょう。

5月21日の説教要旨 「永遠なる大祭司」 牧師 平賀真理子

レビ記917ヘブライ人への手紙72228

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、「ヘブライ人への手紙」から与えられました。この書簡は、恐らく、紀元80年~90年代に、ローマにいるユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものだろうと言われています。著者は、宛先の人々と同じくユダヤ人キリスト者であり、かつ、ユダヤ教の神学的な内容に精通していて、自分の確信を情熱をもって語れた人だろうと言われています。この書簡の中には、迫害を経験したか、または、これから起こるであろう迫害を前に不安になった故に、キリスト教信仰を捨てようとする人々に対し、救い主イエス様の恵みが、ユダヤ教からの恵みとは比べものにならないほどに、より大きくて、いかに確かなものであるかを伝えようとする著者の思いが溢れています。

 大祭司イエス様

「ヘブライ人への手紙」は、1章から6章までが導入部分と言えます。はじめに、著者は、イエス様が天使やモーセよりも優れた御方であり、完全な救いを成就してくださった御方だとあります(小見出し参照:1章「御子は天使にまさる」、2章「救いの創始者」、3章「イエスはモーセにまさる」)。

次に、3章1節で初めて、「イエス様が大祭司である」という考え方が表わされています。そして、4章14節で「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」という励ましのメッセージが述べられます。「大祭司」という言葉については、5章1節に明確に説明されています。「大祭司はすべての人間から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています」。また、5章4節には、この大祭司という任務は「アロンもそうであったように、神から召されて受ける」とあります。

 アロンとその子孫が受け継いだ「大祭司」という職務

今日の旧約聖書箇所に、ユダヤ人が敬愛するモーセが、その兄弟アロンに初めて「祭司」の職務を行うように言ったと記されています。祭司としてアロンに、アロン自身とユダヤの民の罪を贖う儀式を行うように、主が命じたと、モーセが告げたことが重要です。祭司の職務は、神様が命じられる(直接介入される)ほど重要です。ユダヤ教では、神様に従うことと背くことの基準は、「神様からいただいた律法を守るか、守らないか」でした。ユダヤ人達は律法を守れなかったら、罪を犯したことになります。その罪を神様に赦していただくには、贖罪のためのいけにえを屠り、その血を祭壇に注ぐという贖罪の儀式を、アロンの子孫であるレビ族出身の大祭司に取り行なってもらう必要がありました。

 血統を越えた「新しい救い」=預言された「永遠なる大祭司」 

ところが、イエス様はユダ族出身だったので、ユダヤ教の常識を捨てられないユダヤ人キリスト者にとって、イエス様が、新しい大祭司だとすぐには受け入れ難いことでした。だから7章では、昔、レビ族ではない「メルキゼデク」という祭司がいて、ユダヤ人達の信仰の祖として尊敬されているアブラハムもこの人に献げ物をした事実を挙げ、掟を越えたことが歴史上、既になされていたことを指摘しました。その上、神様は「以前の掟を廃止して、もっと優れた希望をもたらそう」(7:18-19)としていると説明しています。同時に、神様は、ずっと昔に預言した「メルキゼデクのような『永遠なる大祭司』をこの世に送る(詩編110編4節)」という約束(20節では「誓い」という言葉)を守ってくださった結果、来られた「永遠なる大祭司」がイエス様であると21節までで説明しています。同じことを22節では「イエス様は いっそう優れた契約の保証となられた」と表現しています。大祭司イエス様がなぜ、今までの大祭司よりずっと優れた御方なのかの根拠の一つが23節から25節にあります。人間である大祭司は死を越えられないので、代替わりが必要です。一方、イエス様は「神の右の座にお着きになった」(1:3)ので、神様として時空を超えた御方です。永遠に生きて、信じる者達への執り成しを永遠にしてくださるので、完全なる救いがおできになります!

 ただ一度の尊いいけにえ=「主の十字架」

イエス様の十字架が、私達の完全なる救いのためのただ一度の尊い犠牲であるということは、私達の信仰の核心部分です。このことを「ヘブライ人の手紙」では、3回もはっきり主張しています(7:21、9:28、10:10)。イエス様による「罪の贖い」の完全さを証しした上で、伝えられた人間がどうすべきかが、10章19節-20節に記されています。「イエス様の贖い」を信じることで聖所に入れるとか、イエス様の肉を通って(犠牲を通して)新しい生きた道が開かれたと述べています。そして、これ以降には、信仰者に必要な内容が次々と記されています。11章では「信仰」、12章では信仰に必要な「主の鍛錬」、13章では「神に喜ばれる奉仕」など、キリスト者にふさわしい信仰生活についての記述が続きます。

 キリスト教の外側でなく、内側「主の贖いの御業」を一人一人が信じる

かつてのユダヤ教のように、自分の罪の赦しを、大祭司に委ねて償ってもらう時代は終わりました。イエス様の偉大で完全な贖いの御業を、知らされた一人一人がそのまま信じるかどうかが問われています。ヘブライ人の手紙は、そのことを明らかにして、信仰者達を励まそうと書かれています。更に、使徒パウロも、同じ内容を記しています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ロマ書3:23-25)キリスト教や教会が提供する行事や芸術や雰囲気という外側が素敵だから信じるではなく、内側=核心「イエス様の十字架が私の罪の贖いのためである」ことを信じ、神の民とされる幸いを受け取ることが許されている喜びに溢れ、信仰を保ち続けましょう!