「御業の現われ」 加藤 秀久伝道師
*はじめに
主なる神様は、預言者ヨナに「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」と、言われました。
神様は、アッシリアの都(みやこ)ニネベの人々が悪の道を歩き続けていることで審判を下し、まもなく大いなる都のニネベが滅亡することを告げるようにヨナに命じたのです。しかしヨナは、主の言葉に従わず、主の前から逃れようと、ニネベとは別方向のタルシシュに向かう船に乗り込みます。
*主から逃れたヨナ
ヨナはなぜこのように「主」から逃げようとしたのでしょうか。神様から与えられる言葉は預言者にとって絶対的な命令であり、聖なる裁き主である神様に対して、預言者は従う責任を負っています。にもかかわらず、ヨナはその命令から逃げようとするのには何か理由があるはずです・・。
ひょっとしたらヨナは、遠く離れた所に行くことで、神様の命令から身を引くことができると考えたのかもしれません。けれどもヨナの乗った船は、大荒れの海の中で砕けんばかりとなり、積み荷を海に投げ捨てても海は荒れる一方でした。この災難は誰の原因で起こったのか、くじを引いたところヨナに当たった為、ヨナは皆に、神の前から逃げたことを告白し、自分を海へ放り込むようにと頼みます。それは、自分の死によって罪を悔い改めれば神様の怒りは静まることをヨナ自身が知っていたからです。
*巨大魚の腹の中へ
海はますます荒れ、船は制御不能となり、乗組員達はついにヨナを海に放り込みます。すると荒れ狂っていた海は静まり、この出来事によって人々はヨナの信じる神様を大いに畏れていけにえをささげたとあります。一方ヨナは神様によって巨大な魚に吞み込まれます。三日三晩の後、神様は魚にヨナを吐き出させ、ヨナには神様の命令が繰り返されます。悔い改めたヨナは直ちにニネベに行き、命じられた通りニネベの滅亡を叫びながら町を歩き廻りました。すると、ニネベの人々は断食し悔い改めたのです。
*ヨナの不満
人々が悪の道から離れたことをご覧になった神様は思い直され、災いを下すのをやめられました。しかしヨナは不満を訴えます。「ああ主よ、だから、私は先にタルシシュに向かって逃げたのです。私にはこうなることが分かっていました。あなたは恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方です」と。ヨナは「神様というお方は、悪に対しては厳しく罰するが、悔い改める者には恵みと憐れみを注ぎ、罪を赦し、滅ぼす計画をも思い直されるお方である」からこそ、わたしは<滅びの宣告>の命令から逃げたと訴えました。
*「そうでないと、押し流されてしまいます」
本日のヘブライ書の1節に「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」とあります。この「押し流される」の元の言葉の中に、流れたり、すり抜けたり、滑り落ちるという意味がありますが、航海の意味も含んでいます。
この「航海」は、船を港に泊める意味の他に、船員が、風や潮の流れに注意することを忘れてしまうことや、避難するはずだった港や避難所をすり抜けてしまった船のことも含まれます。
*わたしたち
もし「わたし」という生命の船が港を通り過ぎてしまい、嵐で船が壊されないようにするには、「神様の言葉である聖書」が私達にとって船のかじを取る役割・存在です。私達は、この聖書の言葉・イエス様の語る言葉から離れては何もすることはできません。このお方こそが、私達の心の中に癒しを与え、力を与え、励ましを与え、生きる意味を教えて下さるのです。私達は時に、ヨナのように神様の声、語りかけを無視して、違う方向、自分が良く思える方法へと歩むことがあります。しかしヨナが巨大魚に呑み込まれてしまう中でも、主の助けによって救い出される体験をしています。私達もイエス様に救い出された者であり、その霊に満たされた者たちです。たとえ私達の生活の中で、今が嵐だと思える状況にあっても、私達は希望を捨てずに神様の声に耳を傾けましょう。