2022年3月6日の説教要旨 エレミヤ書31:27-34・ヘブライ2:10-18

誘惑に勝つ」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日のエレミヤ書には、神と人間の関係を示す契約の、最も深くて本質的な内容が示されています。神様とイスラエルの民との契約とは、神様がシナイ山において、指導者モーセを通して民に与えられた契約です。それは十戒と呼ばれる十の戒めであり、「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を、民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。」(出エジプト24:3)」と記されています。十戒をはじめとする律法は、イスラエルの民の生活の中で生きたものとなり、人格形成の助け手の役割がありました。

*新しい契約

この神様とイスラエルの人々との間で結ばれた約束(契約)が、今度は新しくされることが、預言者エレミヤによって、神様の言葉が語られます。

見よ、・・・新しい契約を結ぶ日が来る」(元の言葉では「日々」)です。

この「新しさ」とは、今まで契約の相手は「イスラエルの民=群・共同体」であったけれども、今度は、「神様とわたし(個人)」の間で結ばれる契約になるというのです。神様との契約は、表面的に命令として受け止めたり、定められた基準にただ従って行動するというのではなく、ひとりひとりの心に刻まれて、人間性そのものが新たにされる、ということへとつながることになります。

*預言者エレミヤ

 エレミヤが活動した南王国ユダでは、ヨシヤ王が修理中のエルサレム神殿から発見された神の律法の書(申命記)によって、BC.621年に宗教改革が行なわれました(列王記下22-23章)。エレミヤは、その律法の書に記されている全ての言葉を価値あるものとして扱い、この契約の言葉に従わない者は呪われることを主張し、ヨシヤ王の改革運動を支持しました。

ヨシヤ王は、神殿および周辺にあった偶像となりうる物をことごとく外へ運び出し、破壊し、焼き払い、神殿や高台、町などを聖(きよ)めました。

しかしヨシヤ王が戦死したことにより、人々が律法の言葉に対して真剣に取り組まなかったことで、この宗教改革は挫折(ざせつ)しました。エレミヤから見て、イスラエルの人々は、希望が持てない民、絶望的な民であり、彼らのあまりの罪の深さにより、自分の意志や考えをコントロールできず、自ら滅びの道へ歩んでしまったのでした。

BC.587年にエルサレムは陥落。神殿は焼かれ、ユダ王国は滅び、人々は捕囚となってバビロニアに連行されていくのです。しかしエレミヤは、そのようなイスラエルの人々でも、その中から、わずかな可能性、望みを持ち続け、人々が将来、神様に立ち帰り、信仰を再び取り戻すことを期待し、民族再生の道を追求していました。人々から激しい迫害を受け、涙で語るエレミヤは、神様への純粋な信仰を貫き通して、「新しい契約」のメッセージを語ります。

*「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(33節)

あの、古い律法(=十戒)は、石の板(イスラエル共同体)に刻まれたが、これからは、一人ひとり・個人の心に律法が記されるという「新しい契約」が結ばれる日がくるのです。それは、私達が義務や、他の誰かから強制されて物事を捉(とら)えるのではなく、わたし達の心の内側からの意志の現われが、自発的な態度を造り、自分に直接関係するという意識を生み出すことになり、自分の意志で、神様の律法(トーラー)を守り従うことになります。このことにより、神様の言葉「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(33節)ことが可能となる契約です。

*ヘブライ書2章18節

イエス様は、私達人間の罪をつぐなう為に私達の身代りとなって律法を成就され、ご自身の十字架の犠牲によって律法での「いけにえ」を献げる行為を終らせて下さいました。私達自らが、主イエス・キリストの贖いの死と復活を信じて聖霊に満たされ、導かれ、聖書の御言葉に信頼を置くことで、新しい契約の下での「救い」を無償の賜物として受け取る機会を与えられています。「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人達を助けることがおできになるのです。