2023年12月3日の説教要旨 イザヤ書52:1-10・ロマ書11:13-24

           「主の来る日を待つ」      加藤 秀久牧師

*はじめに

待降節 第一週に入りました。

今年も、色々な出来事が私達の身の回りに起こったと思いますが、その中で私達は、しっかりと周りで起こる事柄に目を留め、それらの状況に対応しながら神様に祈り、神様に解決策を聞きながら一年を過ごしてきたかと思います。

本日の旧約聖書のイザヤ書は大きく三つに分けられ、40章から55章までは著者である預言者の名前が知られていないために、第二イザヤと呼ばれています。(56章以降は第三イザヤ)。第二イザヤは、バビロン捕囚時代の終り頃から、故郷エルサレム帰還への先頭に立った預言者であり、本日の52章1節では、異国に荒らされたエルサレムに、今や、主なる神が王として帰って来られるとの預言を語り、「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオン(全エルサレムおよびその住民)よ。輝く衣をまとえ、エルサレムよ。」と、捕囚からの解放へ準備の勧めの言葉となっています。3節には、「ただ同然で売られたあなたたちは 銀によらずに買い戻される」とあり、神様の恵みが告げられます。神様のお働きは、日常的な価値観や判断基準で行われるのではなく、神様独自のご計画、進め方があることを教えられます。

*良い知らせを伝える者の足

7節には、「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」とあります。旧約聖書で「美しい」は、神様の動きの中で示されるものと考えられ、中でも「平和、恵みの良い知らせ、救い」は神様が王となりエルサレムの人々が解放される出来事に繋がり、喜ばしい良い知らせを伝える者の足は美しいと、ロマ書にも引用されています。「主の名を呼び求める者は誰でも救われるところで信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」(10:15)

神様は、「神様の時」に私達の前に現れます。この喜ばしい知らせを聞いた者たちが神様の訪れを伝える者とならなければなりません。遣わされる者たちは、伝えるべき言葉を正しく理解して神様との愛と信頼の良き交わりのもとに、「足」という言葉で捉えているようにも思います。

*折り取られたオリーブの木の枝と、野生のオリーブの接ぎ木

本日のロマ書では「救いの恵み」について、もともと神様から選民として選ばれていたユダヤ人と、それまで神様を知らなかったユダヤ人以外の異邦人との違いについて「オリーブの木」を用いて説明されます。本来救いの恵みにつながる枝であったユダヤ人が、不信仰の為に、枝が切り落とされてしまい、その代わりに野生のオリーブであった異邦人が本来の木に接ぎ木されて、根から豊かな養分を受けるようになっている現状をパウロが語っています。重要なことは、神様が栽培される本来のオリーブの木につながっているか否か、ということです。私たちはこのたとえを通して、神様の「慈しみ」と「厳しさ」を見なければならないことをパウロは告げています。そして、(不信仰の為に)木の枝が切り落とされてしまったユダヤ人でも、もし彼らが悔い改めるならば、野生のオリーブの接ぎ木よりもたやすく接ぎ木されると語っています (23, 24節)。

*主の来る日を待つ

このことから、神様が選ばれたすべての者は、切り落とされてどのような状況にあろうとも、神様のところに戻る時、神様の慈しみは、再びつぎ木によって、根から豊かな養分を受けられることを教えています。私たちはどのような所にいようとも、いつでも神様の所へ、神様のおられるこの伝道所に帰ることができることを心に刻みたいと思います。 イエス様の誕生日を待ち望む待降節のこの時、旧約時代のイスラエルの民が、長かった捕囚から、故郷エルサレム帰還への希望の預言を聞いて、その時を待ち望み続けた日々を思い起しつつ、私たちも、救い主イエス様の誕生の日(=良い知らせ)を伝える者として、心をはずませ、待ちつつ、今週も一週間、共に歩んで参りましょう。

2023年11月12日の説教要旨 創世記12:1-9・ロマ書4:13-25

             「神の民の選び」      加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の創世記には、アブラハムが神様の恵みによって神様に呼び出されたことが記されています。アブラハムは神様から何の理由も告げられないまま住んでいたハランから「神様が示す地」に行くように命じられました。

この神様の恵みによる呼び出しには、神様からの約束が結びついていました。神様の呼びかけ、語りかけは次のように記されています。

「主はアブラム(元の名)に言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

*召命

ここで繰り返されている「あなた」とは、アブラハムへの語りかけであり、呼び出しです。アブラハムは、神様からの呼び出しは信頼すべき事柄であると確信し、しっかりと応えて、一族を伴ってカナン地方へ向かって出発し、カナンの地に入りました。主は言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」(12:7) 私達は、アブラハムの召命を見る時、「召命」とは、神様がご自身の救いの計画のために、ある特定な人を呼び出すこと、個人に与えられる神様からの使命、計画を受け取ることだと思いがちです。しかし、私達一人ひとり、聖書を読む者たちへの神様のご計画や神様から与えられた行動、使命の始まりは、(個人的に違いがありますが)、「神様に仕え、神様に従う」ということにある、とを伝えようとしていると思います。

また、神様を受け入れる・神様を信じる・という出来事には、人それぞれの時期、違いがあることを、ここで告げているのかもしれません。

私のように、神様の恵みの呼びかけを受けたと感じた者たちは、よりいっそう神様からの呼びかけの、その具体的な「時」を待たなければならない時間があるということも、教えようとしていると思います。

ある人には、神様からの恵みのその時が早く起きるかもしれず、ある人には、多くの時間を費やして待たなければならないかもしれません。しかし、どのような状況にあろうとも、私たちは確かに神様からの呼びかけの声、はっきりとした神様からの声を聞いたから、「今」という時を待つことができる、「今」そのことが起きているといえるでしょう。神様からの「あなたは・・しなさい」という声は、私たち個人に向けられたものであって、他の人には関係ありません。

*信仰の父・アブラハム

アブラハムは「神の民」であるイスラエル民族の祖先であり人類全体の「信仰の父」と言われる人物ですが、聖書ではすでに、「アベル(4章)、エノク(5章)、ノア(6章)」が登場しています。 なぜアブラハムは「信仰の父」と言われるようになったのでしょうか。ロマ書4:11には「アブラハムは、割礼(かつれい)を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印(しるし)を受けたのです。」とあり、割礼を受けたユダヤ人だけでなく、アブラハムの信仰を受け継ぐ「信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。」とあります。

*わたしたちの信仰

私たちも、どのような形であれ、神様からの恵みの呼びかけの言葉を聞いていると思います。聞いたことがないという人は、その言葉が聞けなかったのではなく、ただ、心に響いてこなかっただけだと思います。私たちの心がどこに向けられているか、で、神様の声を聞くことが出来るか出来ないかになっているだけではないでしょうか。

アブラハムの信仰は、自身と家族のためだけでなく、近い将来、又、遠い未来に至るまで、血縁関係にある子孫や、信仰によって義とされた者達の子孫をも含み、神様の祝福が必ずそこにある(幸いが及んでいく)という信仰です。私達も、神様から頂いた恵みと祝福を、近い将来、遠い未来まで、さらに神の家族として与えられている会員の方々の子孫をも含んで、神様の祝福を受け取ることが出来るという深い信仰を持ち、神様の恵みの声に耳を傾けながら一週間の歩みを始めて参りましょう。

2023年8月27日の説教要旨 出エジプト23:10-13・ローマ14:1-9

             「従う心」         加藤 秀久牧師

*はじめに

 本日の旧約聖書には、安息年と安息日についての守り方が記されています。安息日を一般の辞書には「何の煩いもなく、くつろいで休むこと」とありますが、創世記2章には、神様が天地創造された時,6日間の仕事を終えて「第7の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった」(2節)とあり、「その日を神は祝福して、聖別された」(3節)と記されています。

 現代を生きる私達にとって安息日は日曜日ではなかったり、まとまった休みを取るため、長期間仕事から離れられなかったり、或いは、仕事やその他の事情でお盆とお正月位しか休めないという方がおられるかもしれません。一方で、休日を「休む日」ではなく「その日にしかできない時間」として、自分自身を忙しくしてしまう日になってはいないでしょうか。

*安息年

神様がイスラエルの人々に与えた約束の地では、人々は6年間は自分の土地に種を蒔き、その実りを収穫しましたが、7年目にはその土地を休ませなければなりませんでした。本日の出エジプト記には「7年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない」とあり(23:11)、休閑地では乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるが良いとあります。

(レビ記25章では、安息年には「全き安息を土地に与え」ねばならず、それは「主の為の安息」であり、7年目に生じた物は、所有者、男女の奴隷、雇い人や滞在者、そして家畜や野生の動物のためと記されています)。

イスラエルの人達の基本的な考え方は、土地や人や労働者達は神様の所有であり、全ての人が同じ立場にたち、社会的に弱い立場にある者を、そうでない者達が助け合い、支え合う神の家族として、イスラエル共同体を造り上げていくことにあったのではないでしょうか。

*安息日

 12節には、人々は六日の間働き七日目には、仕事をやめねばならないと安息日の過ごし方が書いてあります。それは、彼らの牛やろばが休み、女奴隷の子供や寄留者が元気を回復するためとあります。そして13節で、これらの戒めをすべて守るように(従うように)命じ、異教の神の名を口にすることを禁じています。

*わたしたち

私達は、神様が定めた安息日(仕事を離れた休みの日)をどのように過ごしているでしょうか。この日は主なる神様との日です。私達は霊の内に、神様と向き合う日、心を落ち着かせ、神様とゆっくりした時間を十分に持つ日とすることです。この安息は、日曜日(神様を礼拝する日)だけに限定せず、神様と向き合い心を落ち着かせ、神様とゆっくりした時間(安息)を持つことが出来れば幸いです。

信仰の弱い人を受け入れなさい。批判してはなりません。」(1節)

 本日のロマ書で、著者パウロは「信仰の弱い者を受け入れる」ように勧め、彼らを批判することを禁じています。イエス様を信じる者達は、イエス様によって救われ、恵みによって自由にされた者達です。「信仰の弱い人」とは信じる力が弱い人ではなく、ユダヤ教的な教えや慣習の下で育ってきたため、「野菜だけを食べ、肉を食べず、酒を飲まない」、又、「特定の日を重んずる」など、律法主義的な考えが根強く、それらから自由に解放されないままの信仰生活者を指しています。(日本でも古い伝統や慣習が多く残っています)。そこで著者パウロは6章14節で「罪はもはやあなた方を支配する事はない。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」と教えています。「信仰の強い人」とは、信仰による真理の自由というものを知っており、信仰の良心に従うことの出来る人で信仰生活において何が根本的に重要か、そうでないかの確信を持っている人でしょう。注意すべきは「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならず、食べない人は食べる人を裁いてはなりません。(3節)」なぜなら、両者とも、ご主人(神様)の召使いの立場にあるからです。両者とも神様に感謝しており、両者とも神様の裁きの座の前に立つからです。今日、神様が与えて下さった安息の日、律法の下ではなく恵みの下に置かれている者として、今週も御言葉に従って歩んでいきましょう。

2023年8月6日の説教要旨 出エジプト22:20-26・ロマ書12:9-21

              「隣の人を思う」     加藤 秀久牧師

*はじめに

私達にとってイエス様の愛の深さとはどのように思い浮かべることが出来るでしょうか。たとえば、<信頼している人から裏切られ一人になって行き場を失ったとしても>、<仕事で追い込まれて神様との時間が奪われ霊的に弱ったとしても>、絶望的な場に置かれて対応が分からず、生きる希望を失ったとしても>、私達が決して一人ではなくイエス様と話せる場所があることを神様は教えて下さっています。本日のロマ書はイエス様を信じることは神様の憐れみに触れ、その恵み深さを知り、相手を思いやれる優しく心豊かな人になることができることを教えようとしています。

*「愛には偽りがあってはなりません。」(ロマ12:9)

 私達は、他人に対して義理の愛・出し惜しみした愛など、神様から受けた愛とは違う愛の示し方、与え方をしてしまうことがあるかと思います。

たとえ自分の愛を与えたくないと思える相手であったとしても、神様の働きを信じて、私達は、相手に神様の愛を示すことが大事であると思います。

9節の少し前の2節では、「何が善いことで、神に喜ばれ、又、完全なことであるかをわきまえるように」とあり、又、1節の後半では「私達の体を神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそなすべき礼拝です。」と教えています。礼拝は、神様に感謝の言葉、態度を現わす場所であると同時に、私達が神様の愛を受け取る場所でもあり、私達はここで神様に出会うことが出来ます。この礼拝場所で、神様との出会いを通して、私達は神様から優しい心、人を自分のことのように思うことのできる心が与えられると思います。

神様からの恵み、祝福は、決して止むことはありません。神様の私達に対する愛は、人への憎しみや悲しみを与えません。むしろ近くにいる人達をも巻き込み、喜びや笑顔を与えてくれます。 それだからこそ私達は、その神様から与えられた恵みと祝福を、私達が出会う人達に与えられるようにキリストに結ばれて、一つの体を作るようにと告げられているのです。

*兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。(10節)

 私達は、相手から見れば、優れた部分もあれば劣った部分もあるかと思います。その交わりの中で、相手の人が、何か特別な良い行いがあるからではなく、私自身が仕え支え合える隣人として神様から与えられた相応しい相手であり、尊敬をもって相手を優れた者と思えた時、私達は相手の徳を高める態度が神様から与えられ、健全な心へとつながります。

*誰に対しても悪に悪を返さず、善を行うように心がけなさい。(17節)

 この教えは、神様を信じる上で大切なことです。私達の生まれながらの妬み、劣等感、復讐心からは無縁になり、すべての人と平和に暮らせる心を得ることにつながるからです。私達が悪を受けた時、自分で復讐するのではなく、その怒りを神様に委ねるべきであることを、ここで「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」(19節)と、申命記を引用して教えています(32:35)。これにより「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(14節)の意味が明確になると思います。 (私達もかつて、同じような罪の中にいた者であることを伝えようとしているのかもしれません)。

それで「敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」(20節)と促します。これによって「敵の頭に炭火を積む(敵にとって相手から受ける愛の行為は耐えがたく、恥じ入らせ、内側にある牙(きば)を抜くことになる)」のです。神様の復讐は、善をもって悪に打ち勝つ(21節)からです。

*寄留者・寡婦・孤児・貧しい者を苦しめてはならない。

 本日の旧約聖書には、他の家(国)に身を寄せる者、夫と死別した夫人、親を失った孤児、そして貧しい人達を苦しめることを禁じています。もし彼らが神様に訴えるなら、神様は「わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」と言われます。(出エジプト22:26)。

*本日は平和聖日です。

すべての人達が神様を見上げて、隣人を思い、主の平安がありますようにと祈ることができる人になれたら、神様からの素晴らしい恵み、愛を受けることが出来るのです。

2022年10月2日の説教要旨 イザヤ書30:15-21・ロマ⒓:1-2

世界宣教の日「神に倣い,キリストに倣い,パウロに倣う。」  佐藤義子

*はじめに

 本日のロマ書12章には、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげなさい」とあり、これこそ、私達のなすべき礼拝であると教えています。私達は毎週礼拝で、神様を讃美し、一週間守られたことを感謝し、懺悔の祈り、今日から始まる新らしい一週間の歩みが神様のみ旨に沿うように、聖書を通して神様からのメッセージを聴き、慰められ力づけられ、神様への感謝のささげものを献げて、再び社会へと送り出されていきます。この礼拝で、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげる」とは、どういうことでしょうか。

*ささげる

神様を礼拝することは「神のものは神にお返しする(マルコ12:17)」こととも言われます。神様の恵みによって与えられたもの・・私達の第一の所有物は自分の体です。礼拝に於いて自分の体をいけにえ(犠牲)としてささげることを考えると、「私は弱く、足りないものだらけで、あなたに救われた者ですが、献げるにはふさわしくありません」と答えなければならないでしょう。しかしロマ書では、もし自分の体から「犠牲の供え物」をささげるならば、それこそ生きた供え物として神様に喜ばれるなすべき礼拝であると教えます。たとえば、自分は悪くないのに攻撃を受けて「怒り」を覚えたとします。その「怒り」は神様への供え物にはなり得ません。しかし私達が誤解され自分を攻撃した人を(神様の教えに従うため)赦せるように祈り、赦せたとします。その赦しが(赦すことが出来た自分が)、神様に喜ばれる供え物になるのではないかと思います。私達が神様への積極的な服従によって礼拝がなされる時、神様の み旨(むね)がなされます。

*世界宣教の日(10月の第一日曜日)                  

教会には毎年、日本から送り出している宣教師の方々の働きを紹介する冊子が送られてきています。本日の説教題を「神に倣い、キリストに倣い、パウロに倣う」としましたのは、宣教師の方々の歩みが、以下の聖句にあるように思い至ったからです。

*あなた方は神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)。私達が神様から愛されていることは、神様が私達に独り子イエス様を送って下さったという事実を自分のこととして深く知ることでわかります。(こんな罪深い私の為に、神様は私を神様の子供とするためにイエス様を送って下さり、私の罪を赦すために十字架の犠牲という大きな代償を払って下さった)。だから、私は神様から愛されている。その神様の愛に倣う者となりたいと願うようになります。

*わたしがキリストに倣う者であるように(コリント11:1)

「倣う」は「見本にする」「模範にする」ことです。ペトロの手紙は私達を励まします。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。・・キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足あとに続くようにと、模範を残されたからです(2:21)」。

あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(コリント11:1)

フィリピ書でもパウロは、「わたしは・・・何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです(フィリピ3:12-16)」と、励ましています。宣教師の方々も、ここにおられる皆様も、私も、神様から同じように信仰を与えられた者達であり、今、信仰の種を蒔かれている方々です。信仰の種は、きれいな空気と澄んだ水、太陽の光を受けて(日毎の御言葉と祈り、礼拝を始めとする教会生活、信仰者たちとの交わり他)ぐんぐん大きく育ち、やがて鳥が来て枝に巣をつくるほどの木になります。成長に必要なすべてのものは、求めさえすれば、神様が必ず豊かに与えて下さることは多くの宣教師の方々が証言されています。福音宣教の為、困難の中、外国の地で働かれている宣教師と御家族のため祈りましょう。同時に私達の宣教の業が用いられていくように祈りましょう。

2021年7月18日の説教要旨 創世記21:9-21・ロマ書9:19-28

「全てのものの神」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

アブラハムは、神様の前に正しい人でした。神様はアブラハム祝福し、彼の子孫も祝福することを約束されました。けれども妻サラには長い間、子供が生まれなかったため、サラはエジプト人の女奴隷ハガルをアブラハムの側女としました。ハガルはイシュマエルという男の子を産みました。しかし神様はアブラハムに、「あなたの妻サラが、あなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」と言われて、サラから生まれる子供が、約束の子供であることを告げました。

*アブラハムから生まれたイサクとイシュマエル

 そしてアブラハムとサラに、主によって約束された子供・イサクが与えられます。子供が与えられることは私達を笑顔にさせてくれますが、この出来事は、イサクが乳離れをした頃に様子が変わります。サラはイシュマエルがイサクをからかうのを見て、アブラハムにハガルと息子を追い出すように願い出ます。アブラハムはこのことで苦しみましたが、神様はアブラハムに「苦しまなくてもよい。アブラハムの子孫はイサクから出る者が継ぐ。イシュマエルも一つの国民の父とする。」と、約束されました。

*ハガルと息子

 アブラハムは翌日の朝早く、パンと水の革袋をハガルに与えて息子と共に送り出しました。ハガルは荒野をさまよい水が無くなると、子供を灌木の下に寝かせ、自分は少し離れた所で死を覚悟して座ります。神様は子供の泣き声を聞き、天から御使いを遣わしてハガルに呼びかけます。「行ってあの子を抱き上げ、しっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と伝え、ハガルの目を開き、水のある井戸を見つけさせたので、彼女は窮地を脱しました。こうして神様が二人と共におられたので、彼は成長し、母ハガルはエジプトからイシュマエルの妻を迎え、イシュマエルは、イスラエルとは異なる民族の祖となったのでした。

*パウロの悲しみと痛み

 ロマ書の著者パウロは、同胞であるイスラエルの人々の魂の救いを心から願っておりました。9章2節には「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」とあり、パウロはイスラエルの人々の 少数の人だけがイエス様を信じて受け入れ、他の人々はイエス様を信じようとしなかったことに心を痛め、悲しみの感情に捉えられています。イエス様はイスラエルの人々の神であり、主であられます。イスラエルの人々には、神の子としての身分や律法、約束などが与えられており、肉によればイエス様も彼らから出られました。

しかし6節で「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならない」とあるように、アブラハムの子孫だからといって皆が神様との正しい関係にあることの保証にはならないことを本日の聖書箇所 <焼き物師と粘土の関係> を通して教えています。

*「怒りの器」から「憐れみの器」へ

 焼き物師と粘土の関係を考えればわかるように、「すべてのことは器を造る造り主に権限がある」(21節)こと、私達は本来「怒りの器」として滅びることになっていた(22節)にもかかわらず、神様は寛大な心で耐え忍ばれ、それも、「憐れみの器」として栄光を与えようと準備しておられた者達に、ご自分の豊かな栄光をお示しになるためだと語ります。

*焼き物師と粘土(ねんど)

 「造られた物が造った者に『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるだろうか」(20節)と、焼き物師である神様には造り主としての用途があることを示します。神様は人を不当に扱うことはなさらず、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言われます(15-16節)。滅びゆく道へと歩んでいた私達は、「ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業を通して、神の恵みにより、無償で、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(3:21-24)をいただいた、神様に造られた者達です。 この神様に信頼を置き、神様の示される道を今週も進んで参りましょう。

2021年3月21日の説教要旨 創世記25:29-34・ロマ書8:1-11

「我を生かす神」     加藤秀久伝道師

*はじめに

イサクとリベカは神様の導きによって結ばれた2人でしたが、なぜか20年間、子供は与えられませんでした。イサクはリベカに子供ができなかったので、「リベカのために主に祈った」と、創世記25章に記されています。神様はこの祈りを聞き入れて下さり、リベカは双子の男の子を産みました。最初の子供は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったのでエサウと、次の子供には、エサウのかかとをつかんでいたのでヤコブと名付けられました。

*エサウとヤコブ

 子供達は成長してエサウは狩りが上手だったので野の人となり、ヤコブは穏やかな人なので天幕に住んでいました。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛しました。リベカは、子供達がリベカのお腹にいた時、胎内で子供達が押し合うので主の御心を尋ねるために祈りました。その時、主はリベカに、「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり 兄が弟に仕えるようになる。」と言われました。リベカはその言葉を忘れず、ヤコブを陰ながら支え、ヤコブに愛を注いでいたことが想像できます。

ある日、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れ切って野から帰って来てヤコブに頼みました。「お願いだ、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっている!」と。ヤコブはエサウに「先ず、お兄さんの長子の権利を譲って下さい」と言いました。エサウは、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と答えると、ヤコブは「では、今すぐ誓ってください。」と言ったので、エサウはその誓いを立ててしまいました。エサウはヤコブに、いとも簡単に長子の権利を譲ってしまいました。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじてしまったのでした。

*わたしたち

 私達も、自分の心の思いや肉の欲望が強くなると、エサウと同じように周りのものが見えなくなり、我を忘れ、本来、大事にしなければならないものをいとも簡単に捨てることが出来てしまうという弱い姿を、自分の中に見つけられるのではないでしょうか。

キリストに結ばれている者は、罪に定められることはない

パウロは7章で、神様を知れば知るほど、神様の正しさの中で生活をしたい、神様の霊が働くところにとどまりたいと願いつつ、その思いの一方で、昔の自分の思いや経験した出来事が邪魔をして、正しい道を歩めず、行き先が定まらない、弱い自分があったことを告白しています。

 しかし本日の御言葉の始まりには、今迄 肉に従っていた私達がイエス・キリストというお方に出会い、イエス様を知りイエス様に結ばれることによって罪に定められることはない、とあります。すなわち私達が神様の律法を行うのではなく、イエス様を信じる信仰によって私達の心に霊がやどり、聖霊の導きによって神様に仕えることが出来、勝利の道をイエス様と共に歩むことが出来ると教えています。「肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされる(4節)」のです。

*ざんげの祈りと、罪の赦し

神様を信じる者とされても、尚、日々の生活の中で無意識に行ってしまう罪もあります。それらの罪を赦していただくために、私達は毎週の礼拝の中で「懺悔の祈り」を捧げます。この祈りを祈ることで罪が赦され、心が洗われて新しい週を始めていくことが出来るのではないでしょうか。私達の祈りに対して神様は、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と言われます。イエス様は裁くためにではなく全ての人の心にある悪い行い(偶像礼拝、ねたみ、悪口、傲慢、無分別などの肉の思い)から離れさせ解放するために、この世へと来られました。神様は、神様が私達人間に用意されている「霊の支配下」(9節)で、神様に守り導かれて歩んでほしいと望んでおられます。今日ここに、十字架にかかり、死に勝利されたイエス様がおられます。このお方を心に招いて信じて一緒に歩む決心をした者には、神様は、神様の力と霊を与えて下さいます。今週一週間、神様が皆様と共にあり、皆様の足を強めて下さるようにお祈り致します。

2020年11月1日の説教要旨 イザヤ書44:6-17・ローマ書3:21-28

「神への信仰」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに 

イザヤは紀元前8世紀の後半に召命を受けて活躍した預言者です。本日の旧約聖書では、「神様はイスラエルの民にとって贖(あがな)い主である」                      

  *注 <贖い=犠牲を伴う罪の赦し・罪のつぐない・和解> 

ことが強調されています。神様はイスラエルの民を選び、贖って下さる方であるにもかかわらず、イスラエルの民が無力な役に立たない偶像を作っている、しかも偶像の材料となる木は、料理や暖房に使われて、その同じ木で偶像を作り、それにひれ伏すことの虚しさを神様は忠告し、捕囚前のイスラエルの罪が「捕囚」を招いたこと、彼ら自らが破滅の道に向かっていることを指摘します。

*不信心と不義に対する神様の怒り

本日読んだロマ書3章の前では「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(1:18)とあり、さらに、「神様の怒り」を他人事のように考え、自分だけは正しいと考える人は、神様の裁きを免れることはできないと語っています。

ユダヤ人は、神様から選ばれ、律法を与えられている者だから、異邦人とは違い神様からの怒りを受けることはないと考えていました。その考えに対してパウロは、ユダヤ人が異邦人と変わらずに人として守るべき道から離れていることを指摘し、3章前半で、「裁き」はすべての者に当てはまるのであり、とりわけ、義を熱心に追い求める者、自分自身の義を立てようとする者に向けられていることを語っています。ユダヤ人のように、律法のわざによって「自分自身の義」を立てようとすることこそ、「神様の義」を立てることに逆行してしまうからです。

*「ところが今や」(3:20)

本日の箇所は、「ところが今や」から始められ、1-2章の続きになっていて、「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」とあります。

当時の人達にとって、この考え方は、思いもよらないものだったでしょう。

神様は真実なお方で正しいお方です。そして神様は私達にもその正しさを求めます。しかし私達人間は、神様からの求めにきちんと向き合い、応えることが出来ず、神様の怒りを受けるべき存在です。私達は人生の中でどのようにしたら神様と正しい関係になれるのでしょうか。

神様は、このような負の状態にある私達に、ご自身を正しいお方として、なお、かつ、私たち罪人を義と認める道を示して下さいました。

*「不義」を「義」と変えて下さる神様の愛

このことを教えてくれるのがロマ書です。1:17では、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」と告げています。ですから私達が、神様からご覧になって正しい者になりたいというその気持が、まず初めに大事なのではないでしょうか。そして今までは「律法に従う」ことによって正しさを求められていたものが、「今や」・「ただキリスト・イエスによる贖いのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(3:24)

*神様の義

神様はそれまでの人間の罪を忍耐深く見逃してこられましたが、イエス様を「罪の身代わり」として立て、その流された血潮により罪をつぐなう供え物・贖いの業を通して人間の罪を赦すことで、「神の義」を最後まで貫き通されました。このイエス・キリストによる贖いの業を通して、罪人であった私達が、罪の奴隷(罪の支配下)から解放されることなり、神様の恵みにより「無償で義」とされたのです。

*わたしたち

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)。 私達はイエス様を知って受け入れた時から、信じた時から、その名前を呼んだ時から義(正しい)とされている者達です。私達にはいつも義なる神様、イエス様が共いて励まして下さいます。どんなことにもあきらめずにイエス様を信じて歩んでいる限り、イエス様は、私達の主であり、私達はその子供です。

2019年9月1日の説教要旨

列王記下5:9-16・ロマ書6:1-14

「キリストに結ばれた『恵み』」      平賀真理子

*はじめに(前回8/4の礼拝説教のまとめ)

 前回招かれた礼拝(8/4)の説教では、ガラテヤ書3章26節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」を中心にお話ししました。キリスト教会が果たすべき役割は「イエス・キリストは神の御子・救い主である」と証しすることですが、パウロは手紙の読者である教会員も「神の子」と言えると主張しているのです。その根拠について、次の27節で「洗礼を受けてキリスト・イエスに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と続いて述べています。「キリストを着ている」教会員は、キリストの救いの恵み、人間を救いたいという「神の愛」を身にまとうことを許され、イエス様と同じように「神の子」と呼ばれ得るという大変大きな恵みが語られている箇所です。

*「洗礼」は聖霊(神様の霊)の導きを受けた証し

教会員は洗礼を受けた者です。洗礼を受ける前には、イエス様を自分の救い主と信仰告白しました。多くの信仰者は、そこに至るまでに(精神的または霊的に)格闘したと感じておられると思いますが、パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない(Ⅰコリ12:3)」と述べています。人間は自分の人生は自分で勝ち取ったと思いたがりますが、「何か自分でない者に導かれた」と後で気づく経験がある方も多いでしょう。「洗礼」「信仰告白」という主の救いに与る恵みを受ける経験は、実は、私達の人生に神様が働いてくださった証しでもあります。

*パウロが教会員に伝えたい「洗礼の意味」

パウロは、今日の新約聖書箇所ロマ書6章3節で「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けた」とローマの教会員に教えています。ここには、そのような意味を理解せずに、洗礼後も、それ以前の罪多き生活を変えようとしない教会員がいたことを暗示していると読み取れます。

 「洗礼」の本当の意味、それは、この世の罪に染まった自分、神様に近づけない自分を霊的に死なせることです。教会員は「洗礼の恵みの源は主の死であり、自分も共に死ぬ定めを負った」ことを忘れてはなりません。勿論、決して罪を犯されなかったイエス様は、人間の罪を贖う意味で死の定めを負ったわけで、各々の教会員は、イエス様を死に追いやった自分を、受洗時に一度死に追いやる覚悟が求められたことを想起せねばなりません。そうして、死という定めを主と共にするからこそ、復活の主と同じ定め、即ち、永遠の命という新たな生が始まると自覚したいものです。人は苦悩は受け取らず、恵みだけを欲しがりますが、これも「罪」の様相の一つです。主の恵みを自覚した者は、昔の罪の生活を続けることはできないはずです。

*洗礼を受けた教会員は「罪の支配下」ではなく、「恵みの支配下」にいる

 ところが、今日の新約聖書箇所の冒頭やその直後には、パウロの教えまで曲解して、以前の自分、罪に染まった自分を変えようとしない教会員がいたことが記されています。人間の罪は何と根深いのでしょう!手紙で、パウロが何度も教えているように、洗礼を受けたという「神様主体の出来事」を身に受けた者は、本人の自覚の有無にかかわらず、もう既に恵みの下にいるのです。それは霊的に厳然たる事実です!そのことに気づかないのは、実にもったいないことです。この世の人間としての私達は、時間的にもエネルギーの上でも有限だからです。この世にいる間に罪の自分を霊的に死なせた上で、その後は「神の民」として、この世とは違う次元での命をもって生かされていることを、私達教会員が自覚して生きるならば、その言動は主の恵みの証しとなって、主の福音伝道に用いられるのです。

*主の救いの素晴らしさを本当に知る者は、その証し人となる

今日の旧約聖書箇所では、異邦人ナアマン将軍が自分の皮膚病を癒されて「イスラエルの神」の力を知り、信仰に導かれたとあります。主の預言者が伝えた御言葉に従い、神が「聖」と定めたヨルダン川で、水の清めを受けたナアマンが、主なる神様の力の偉大さを知って、信仰告白へと導かれました。私達も、洗礼を通して、イエス様と同じ定めである「死と復活」を霊的に再現するように神様に導かれ、今は「神の子」と呼ばれる恵みを得ていることを再び思い起こしましょう。主の自己犠牲の愛を受けた私達は、今度は、自分を主なる神様に献げる番です。主の恵みの下で生きる素晴らしさを自分の体による言動で証しできるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

10月28日の説教要旨 「新しい救い」 平賀真理子牧師

エレミヤ書31:31-34 ローマ書9:30-10:4

 

 *はじめに

 今から501年前、1517年10月31日に、キリスト教では、プロテスタントというグループが産声をあげました。その流れをくむ教会では、10月31日か、その直前の日曜日に「宗教改革記念礼拝」を献げます。

 

 *「宗教改革」の口火を切ったルター

宗教改革は、ドイツのマルティン・ルターが、当時のカトリック教会のやり方に対して疑問を表明したことから始まりました。カトリック教会は「免罪符」なるものを発行し、これを買った者は罪を帳消しにしてもらえると宣伝しながら販売していたのです。ルターは、悔い改め無しに罪が赦されるなどとは、聖書は言っていないと主張しました。

 

 *「神の義」についてのルターの新しい発見

更に、ルターには、カトリックの教えとは違う確信がありました。それは「神の義」についての教えです。ルターは、かつてカトリック教会の教えに従った修道院で修養を積んだのですが、そこでは、「義」を重んじる神様に対して善行を積まねばならないと教わってきましたし、何か欲望に負けたりしたら、償いの修行を行わなければならないとされていました。しかし、ルターは、善行を積めば積むほど、これでは足りないのではないかと思い、また、償いの修行をいくら重ねても、自分は神様に「義」とされないのではないかという恐れから逃れられませんでした。そんなルターは、大学で聖書の講義をするために、聖書を丹念に学ぶ中で、新たな発見をしました。それは、「神の義」とは、人間が善行を積み重ねた後に神様から与えられるものではなくて、憐れみ深い神様の方から、救われる方法を先に人間にくださっているということです。つまり、神様がこの世に御子イエス・キリストを「救い主」として、既に遣わしてくださったのだから、人間はこれを受け入れるだけで神様から「義」とされるということです。そこには、人間の行いという条件はありません。

 

 *2000年前の民の間違いの原因(1500年後に繰り返されます!)

今日の新約聖書箇所を含む「ローマの信徒への手紙」には、「神の義」が随所に記されています(特に、1章17節がルターを目覚めさせたと言われています)。今日の箇所の中でも、「神の義」について、しかも、その解釈の間違いについて、2か所も記されています。1つ目は、9章32節で、「信仰によってではなく、行いによって律法に達せられるように考えたから」とあります。2つ目の箇所10章3節では、「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったから」とあります。この2つをまとめると、こうなるでしょう。「イスラエルの民は、律法を守る行いを通して、神様から良しとされる(救われる)と考え、熱心に律法に従ったが、イエス様がこの世に来られた後では、イエス様によって救われる訳で、イエス様を拒否する者は、律法の目標点でもあった『救い』に決して到達できない。」

 

 *神様に従う心から、神様に従う行いが出来る!

神様は、御自分に従順に従う、人間の心を求めておられます。心が神様に従った結果、神様の御心に従った行いができるのです。善行をした結果、神様に御自分の民として認められるという、それまでのカトリック教会の教えは、原因と結果が逆になっています。残念ながら、神様無しで済まそうとする、罪深い人間は、悪い心のまま、善行を装うことが出来てしまいます。心と行いとが一致しない、この状況を、神様は良しとなさいません。

 

 *真の「神の義」を人間に発見させ、「宗教改革」を導いてくださった神様

2000年前の間違いが、1500年後の宗教改革の時代に再現されてしまいました。つまり、見えない心ではなく、見える行いを善行という衣で包めば、神様から義とされると、人間の間違った解釈による正しくない歩みが繰り返されていたのです。そんな中、それを正しい方向に戻そうと、神様は、ルターやカルヴァンなどの宗教改革者達を、この同時代に準備してくださり、豊かに用いてくださったと言えるでしょう。聖書(神の御言葉)に真剣に格闘した彼らは、新たな発見に導かれ、喜びに満ち溢れたのです。それは、罪深い人間の行いに左右されることなく、「神の義」が先に差し出されているということ、つまり、聖書に証しされているイエス様を救い主と受け入れることが「神の義」であるという発見です。そして、彼らは、過去の間違った教えから解放され、本当の救い=新しい救いを発見して、楽園に入ったような喜びを得たのです。その喜びが宗教改革の原点です。