2021年3月21日の説教要旨 創世記25:29-34・ロマ書8:1-11

「我を生かす神」     加藤秀久伝道師

*はじめに

イサクとリベカは神様の導きによって結ばれた2人でしたが、なぜか20年間、子供は与えられませんでした。イサクはリベカに子供ができなかったので、「リベカのために主に祈った」と、創世記25章に記されています。神様はこの祈りを聞き入れて下さり、リベカは双子の男の子を産みました。最初の子供は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったのでエサウと、次の子供には、エサウのかかとをつかんでいたのでヤコブと名付けられました。

*エサウとヤコブ

 子供達は成長してエサウは狩りが上手だったので野の人となり、ヤコブは穏やかな人なので天幕に住んでいました。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛しました。リベカは、子供達がリベカのお腹にいた時、胎内で子供達が押し合うので主の御心を尋ねるために祈りました。その時、主はリベカに、「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり 兄が弟に仕えるようになる。」と言われました。リベカはその言葉を忘れず、ヤコブを陰ながら支え、ヤコブに愛を注いでいたことが想像できます。

ある日、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れ切って野から帰って来てヤコブに頼みました。「お願いだ、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっている!」と。ヤコブはエサウに「先ず、お兄さんの長子の権利を譲って下さい」と言いました。エサウは、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と答えると、ヤコブは「では、今すぐ誓ってください。」と言ったので、エサウはその誓いを立ててしまいました。エサウはヤコブに、いとも簡単に長子の権利を譲ってしまいました。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじてしまったのでした。

*わたしたち

 私達も、自分の心の思いや肉の欲望が強くなると、エサウと同じように周りのものが見えなくなり、我を忘れ、本来、大事にしなければならないものをいとも簡単に捨てることが出来てしまうという弱い姿を、自分の中に見つけられるのではないでしょうか。

キリストに結ばれている者は、罪に定められることはない

パウロは7章で、神様を知れば知るほど、神様の正しさの中で生活をしたい、神様の霊が働くところにとどまりたいと願いつつ、その思いの一方で、昔の自分の思いや経験した出来事が邪魔をして、正しい道を歩めず、行き先が定まらない、弱い自分があったことを告白しています。

 しかし本日の御言葉の始まりには、今迄 肉に従っていた私達がイエス・キリストというお方に出会い、イエス様を知りイエス様に結ばれることによって罪に定められることはない、とあります。すなわち私達が神様の律法を行うのではなく、イエス様を信じる信仰によって私達の心に霊がやどり、聖霊の導きによって神様に仕えることが出来、勝利の道をイエス様と共に歩むことが出来ると教えています。「肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされる(4節)」のです。

*ざんげの祈りと、罪の赦し

神様を信じる者とされても、尚、日々の生活の中で無意識に行ってしまう罪もあります。それらの罪を赦していただくために、私達は毎週の礼拝の中で「懺悔の祈り」を捧げます。この祈りを祈ることで罪が赦され、心が洗われて新しい週を始めていくことが出来るのではないでしょうか。私達の祈りに対して神様は、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と言われます。イエス様は裁くためにではなく全ての人の心にある悪い行い(偶像礼拝、ねたみ、悪口、傲慢、無分別などの肉の思い)から離れさせ解放するために、この世へと来られました。神様は、神様が私達人間に用意されている「霊の支配下」(9節)で、神様に守り導かれて歩んでほしいと望んでおられます。今日ここに、十字架にかかり、死に勝利されたイエス様がおられます。このお方を心に招いて信じて一緒に歩む決心をした者には、神様は、神様の力と霊を与えて下さいます。今週一週間、神様が皆様と共にあり、皆様の足を強めて下さるようにお祈り致します。

2020年11月1日の説教要旨 イザヤ書44:6-17・ローマ書3:21-28

「神への信仰」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに 

イザヤは紀元前8世紀の後半に召命を受けて活躍した預言者です。本日の旧約聖書では、「神様はイスラエルの民にとって贖(あがな)い主である」                      

  *注 <贖い=犠牲を伴う罪の赦し・罪のつぐない・和解> 

ことが強調されています。神様はイスラエルの民を選び、贖って下さる方であるにもかかわらず、イスラエルの民が無力な役に立たない偶像を作っている、しかも偶像の材料となる木は、料理や暖房に使われて、その同じ木で偶像を作り、それにひれ伏すことの虚しさを神様は忠告し、捕囚前のイスラエルの罪が「捕囚」を招いたこと、彼ら自らが破滅の道に向かっていることを指摘します。

*不信心と不義に対する神様の怒り

本日読んだロマ書3章の前では「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(1:18)とあり、さらに、「神様の怒り」を他人事のように考え、自分だけは正しいと考える人は、神様の裁きを免れることはできないと語っています。

ユダヤ人は、神様から選ばれ、律法を与えられている者だから、異邦人とは違い神様からの怒りを受けることはないと考えていました。その考えに対してパウロは、ユダヤ人が異邦人と変わらずに人として守るべき道から離れていることを指摘し、3章前半で、「裁き」はすべての者に当てはまるのであり、とりわけ、義を熱心に追い求める者、自分自身の義を立てようとする者に向けられていることを語っています。ユダヤ人のように、律法のわざによって「自分自身の義」を立てようとすることこそ、「神様の義」を立てることに逆行してしまうからです。

*「ところが今や」(3:20)

本日の箇所は、「ところが今や」から始められ、1-2章の続きになっていて、「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」とあります。

当時の人達にとって、この考え方は、思いもよらないものだったでしょう。

神様は真実なお方で正しいお方です。そして神様は私達にもその正しさを求めます。しかし私達人間は、神様からの求めにきちんと向き合い、応えることが出来ず、神様の怒りを受けるべき存在です。私達は人生の中でどのようにしたら神様と正しい関係になれるのでしょうか。

神様は、このような負の状態にある私達に、ご自身を正しいお方として、なお、かつ、私たち罪人を義と認める道を示して下さいました。

*「不義」を「義」と変えて下さる神様の愛

このことを教えてくれるのがロマ書です。1:17では、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」と告げています。ですから私達が、神様からご覧になって正しい者になりたいというその気持が、まず初めに大事なのではないでしょうか。そして今までは「律法に従う」ことによって正しさを求められていたものが、「今や」・「ただキリスト・イエスによる贖いのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(3:24)

*神様の義

神様はそれまでの人間の罪を忍耐深く見逃してこられましたが、イエス様を「罪の身代わり」として立て、その流された血潮により罪をつぐなう供え物・贖いの業を通して人間の罪を赦すことで、「神の義」を最後まで貫き通されました。このイエス・キリストによる贖いの業を通して、罪人であった私達が、罪の奴隷(罪の支配下)から解放されることなり、神様の恵みにより「無償で義」とされたのです。

*わたしたち

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)。 私達はイエス様を知って受け入れた時から、信じた時から、その名前を呼んだ時から義(正しい)とされている者達です。私達にはいつも義なる神様、イエス様が共いて励まして下さいます。どんなことにもあきらめずにイエス様を信じて歩んでいる限り、イエス様は、私達の主であり、私達はその子供です。

2019年9月1日の説教要旨

列王記下5:9-16・ロマ書6:1-14

「キリストに結ばれた『恵み』」      平賀真理子

*はじめに(前回8/4の礼拝説教のまとめ)

 前回招かれた礼拝(8/4)の説教では、ガラテヤ書3章26節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」を中心にお話ししました。キリスト教会が果たすべき役割は「イエス・キリストは神の御子・救い主である」と証しすることですが、パウロは手紙の読者である教会員も「神の子」と言えると主張しているのです。その根拠について、次の27節で「洗礼を受けてキリスト・イエスに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と続いて述べています。「キリストを着ている」教会員は、キリストの救いの恵み、人間を救いたいという「神の愛」を身にまとうことを許され、イエス様と同じように「神の子」と呼ばれ得るという大変大きな恵みが語られている箇所です。

*「洗礼」は聖霊(神様の霊)の導きを受けた証し

教会員は洗礼を受けた者です。洗礼を受ける前には、イエス様を自分の救い主と信仰告白しました。多くの信仰者は、そこに至るまでに(精神的または霊的に)格闘したと感じておられると思いますが、パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない(Ⅰコリ12:3)」と述べています。人間は自分の人生は自分で勝ち取ったと思いたがりますが、「何か自分でない者に導かれた」と後で気づく経験がある方も多いでしょう。「洗礼」「信仰告白」という主の救いに与る恵みを受ける経験は、実は、私達の人生に神様が働いてくださった証しでもあります。

*パウロが教会員に伝えたい「洗礼の意味」

パウロは、今日の新約聖書箇所ロマ書6章3節で「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けた」とローマの教会員に教えています。ここには、そのような意味を理解せずに、洗礼後も、それ以前の罪多き生活を変えようとしない教会員がいたことを暗示していると読み取れます。

 「洗礼」の本当の意味、それは、この世の罪に染まった自分、神様に近づけない自分を霊的に死なせることです。教会員は「洗礼の恵みの源は主の死であり、自分も共に死ぬ定めを負った」ことを忘れてはなりません。勿論、決して罪を犯されなかったイエス様は、人間の罪を贖う意味で死の定めを負ったわけで、各々の教会員は、イエス様を死に追いやった自分を、受洗時に一度死に追いやる覚悟が求められたことを想起せねばなりません。そうして、死という定めを主と共にするからこそ、復活の主と同じ定め、即ち、永遠の命という新たな生が始まると自覚したいものです。人は苦悩は受け取らず、恵みだけを欲しがりますが、これも「罪」の様相の一つです。主の恵みを自覚した者は、昔の罪の生活を続けることはできないはずです。

*洗礼を受けた教会員は「罪の支配下」ではなく、「恵みの支配下」にいる

 ところが、今日の新約聖書箇所の冒頭やその直後には、パウロの教えまで曲解して、以前の自分、罪に染まった自分を変えようとしない教会員がいたことが記されています。人間の罪は何と根深いのでしょう!手紙で、パウロが何度も教えているように、洗礼を受けたという「神様主体の出来事」を身に受けた者は、本人の自覚の有無にかかわらず、もう既に恵みの下にいるのです。それは霊的に厳然たる事実です!そのことに気づかないのは、実にもったいないことです。この世の人間としての私達は、時間的にもエネルギーの上でも有限だからです。この世にいる間に罪の自分を霊的に死なせた上で、その後は「神の民」として、この世とは違う次元での命をもって生かされていることを、私達教会員が自覚して生きるならば、その言動は主の恵みの証しとなって、主の福音伝道に用いられるのです。

*主の救いの素晴らしさを本当に知る者は、その証し人となる

今日の旧約聖書箇所では、異邦人ナアマン将軍が自分の皮膚病を癒されて「イスラエルの神」の力を知り、信仰に導かれたとあります。主の預言者が伝えた御言葉に従い、神が「聖」と定めたヨルダン川で、水の清めを受けたナアマンが、主なる神様の力の偉大さを知って、信仰告白へと導かれました。私達も、洗礼を通して、イエス様と同じ定めである「死と復活」を霊的に再現するように神様に導かれ、今は「神の子」と呼ばれる恵みを得ていることを再び思い起こしましょう。主の自己犠牲の愛を受けた私達は、今度は、自分を主なる神様に献げる番です。主の恵みの下で生きる素晴らしさを自分の体による言動で証しできるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

10月28日の説教要旨 「新しい救い」 平賀真理子牧師

エレミヤ書31:31-34 ローマ書9:30-10:4

 

 *はじめに

 今から501年前、1517年10月31日に、キリスト教では、プロテスタントというグループが産声をあげました。その流れをくむ教会では、10月31日か、その直前の日曜日に「宗教改革記念礼拝」を献げます。

 

 *「宗教改革」の口火を切ったルター

宗教改革は、ドイツのマルティン・ルターが、当時のカトリック教会のやり方に対して疑問を表明したことから始まりました。カトリック教会は「免罪符」なるものを発行し、これを買った者は罪を帳消しにしてもらえると宣伝しながら販売していたのです。ルターは、悔い改め無しに罪が赦されるなどとは、聖書は言っていないと主張しました。

 

 *「神の義」についてのルターの新しい発見

更に、ルターには、カトリックの教えとは違う確信がありました。それは「神の義」についての教えです。ルターは、かつてカトリック教会の教えに従った修道院で修養を積んだのですが、そこでは、「義」を重んじる神様に対して善行を積まねばならないと教わってきましたし、何か欲望に負けたりしたら、償いの修行を行わなければならないとされていました。しかし、ルターは、善行を積めば積むほど、これでは足りないのではないかと思い、また、償いの修行をいくら重ねても、自分は神様に「義」とされないのではないかという恐れから逃れられませんでした。そんなルターは、大学で聖書の講義をするために、聖書を丹念に学ぶ中で、新たな発見をしました。それは、「神の義」とは、人間が善行を積み重ねた後に神様から与えられるものではなくて、憐れみ深い神様の方から、救われる方法を先に人間にくださっているということです。つまり、神様がこの世に御子イエス・キリストを「救い主」として、既に遣わしてくださったのだから、人間はこれを受け入れるだけで神様から「義」とされるということです。そこには、人間の行いという条件はありません。

 

 *2000年前の民の間違いの原因(1500年後に繰り返されます!)

今日の新約聖書箇所を含む「ローマの信徒への手紙」には、「神の義」が随所に記されています(特に、1章17節がルターを目覚めさせたと言われています)。今日の箇所の中でも、「神の義」について、しかも、その解釈の間違いについて、2か所も記されています。1つ目は、9章32節で、「信仰によってではなく、行いによって律法に達せられるように考えたから」とあります。2つ目の箇所10章3節では、「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったから」とあります。この2つをまとめると、こうなるでしょう。「イスラエルの民は、律法を守る行いを通して、神様から良しとされる(救われる)と考え、熱心に律法に従ったが、イエス様がこの世に来られた後では、イエス様によって救われる訳で、イエス様を拒否する者は、律法の目標点でもあった『救い』に決して到達できない。」

 

 *神様に従う心から、神様に従う行いが出来る!

神様は、御自分に従順に従う、人間の心を求めておられます。心が神様に従った結果、神様の御心に従った行いができるのです。善行をした結果、神様に御自分の民として認められるという、それまでのカトリック教会の教えは、原因と結果が逆になっています。残念ながら、神様無しで済まそうとする、罪深い人間は、悪い心のまま、善行を装うことが出来てしまいます。心と行いとが一致しない、この状況を、神様は良しとなさいません。

 

 *真の「神の義」を人間に発見させ、「宗教改革」を導いてくださった神様

2000年前の間違いが、1500年後の宗教改革の時代に再現されてしまいました。つまり、見えない心ではなく、見える行いを善行という衣で包めば、神様から義とされると、人間の間違った解釈による正しくない歩みが繰り返されていたのです。そんな中、それを正しい方向に戻そうと、神様は、ルターやカルヴァンなどの宗教改革者達を、この同時代に準備してくださり、豊かに用いてくださったと言えるでしょう。聖書(神の御言葉)に真剣に格闘した彼らは、新たな発見に導かれ、喜びに満ち溢れたのです。それは、罪深い人間の行いに左右されることなく、「神の義」が先に差し出されているということ、つまり、聖書に証しされているイエス様を救い主と受け入れることが「神の義」であるという発見です。そして、彼らは、過去の間違った教えから解放され、本当の救い=新しい救いを発見して、楽園に入ったような喜びを得たのです。その喜びが宗教改革の原点です。