10月21日の説教要旨 「聞き入れられた願い」 佐藤 義子

列王記下 5:9-14 マタイ15:21-28

 

*はじめに

今日は一年に一度の、教会学校と大人との合同礼拝です。教会学校では毎週,子供達が来ることを祈って待っています。小さい時から神様のお話を聞いて育つことはとても幸せなことです。昔、新聞に 山で子供がたった一人で夜を過ごし 次の日に無事に見つかったという記事がありました。見つけられた子供は「怖かったでしょう」という質問に「神様が守ってくれるので大丈夫だと思っていた」と答えたそうです。迷子?になった理由などは覚えていませんが、子供が教会学校に通っていたことを知り、記憶に残っています。

信仰はどんなに小さい子供にでも与えられます。私の姉の孫は小学生の時にバプテスマを受けました。私自身は(感謝なことですが)中学生の時に信仰を与えられました。教会は、生まれた時(神様に導かれた時)から天国に行く時までの生涯、通い続ける場所であり、信仰が与えられ、守られ、成長していくところの、本当に大きな恵みの場所です。

 

*旧約聖書のおはなし

さて、今日の旧約聖書のナアマン将軍のお話は、私が教会学校で聞いた大好きなお話の一つです。ナアマン将軍は軍の司令官という大変 地位の高い偉い人でしたが、重い皮膚病で苦しんでいました。ある日、遠い外国に治してくれる人がいると聞き、家来を連れて沢山のお土産を用意して、エリシャさんという神様のことを人々に伝えるお仕事をしていた預言者に会いに行きます。ところが、エリシャさんの家に行ってもエリシャさんは出てこないで、お手伝いの人がエリシャさんの言葉だけを伝えました。その言葉は、近くのヨルダン川に行って体を7回沈めて洗いなさいというものでした。ナアマン将軍は、エリシャさんが自分の病気を直接見てさわり、エリシャさんの信じる本当の神様にお祈りして治してくれると期待していたので、会ってくれないエリシャさんに腹を立て、怒って帰り始めました。ナアマン将軍はいつもみんなから大切にされていたので、エリシャさんの言葉に素直に従うことが出来なかったのです。

聖書には神様の教えがたくさん記されていますが、その中の一つに、「へりくだり」があります。帰り始めたナアマン将軍に家来は言いました。「エリシャさんの言ったことはむつかしいことではありませんよ」。ナアマン将軍は,家来の言葉で自分の「ごうまん」に気付きへりくだって言われた通り7回、川に沈み 体を洗った時、皮膚病は治ったのです。

 

*新約聖書のおはなし

今日の新約聖書は重い病気の娘がいる母親のお話です。この女の人は、ユダヤ人ではありませんでした。イエス様はユダヤ人としてお生まれになり、神様から 先ず最初にユダヤ人の心が神様に戻る為に働くように言われていました。ユダヤ人以外の外国人(異邦人と呼ぶ)に対しては、ユダヤ人がみんな救われた後に・・という順番が決まっていたのです。

 

*「主よ、ダビデの子よ

さてイエス様は日々の忙しい時から離れて、静かな休息を必要とされて、ユダヤ人の住む地域から外国人の住むカナンという隣の地方に出かけました。人に知られないようにと思っていましたが、カナンに着くと、一人の母親がイエス様が来たことを知り、すぐ出て来てイエス様たちに向かって叫びました。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と。「主よ、ダビデの子よ」と言ったのは、この女の人がユダヤ人と同じように、イエス様のことを神の御子、救い主として信じていたことを表しています。外国人でもイエス様のことを聞いて、信じていた人達がいたのです。

しかしイエス様の時代は、ユダヤ人は異邦人とは一切付き合いませんでした。そして、異邦人もユダヤ人を嫌っていたのです。さらに昔は、女性から男性に声をかけることは滅多になかったので、この女の人は、勇気があったと言えるでしょう。

この母親はイエス様のうわさを聞いた時、自分の娘を助けてくれる人はもうこのお方しかいないと確信したに違いありません。そしてイエス様と弟子達に向かって叫んだのです。

 

*イエス様の沈黙

ところが聖書はこう記しています。「しかし、イエスは何もお答えにならなかった・・」。「えっ。どうして?」と思いませんか。イエス様は、聞こえているはずなのに返事をなさらないのは無視されたのでしょうか。冷たい反応です。でも母親は、そのことを覚悟していたかもしれません。自分はユダヤ人でもないし、ユダヤ人のように律法を知らないし守ってもいないからです。でも母親はイエス様の後を叫びながらついていきました。母親があきらめなかったのは、この機会を逃したら、娘の病は一生続くでしょうし、それは娘にとって不幸なことであり、娘の不幸は自分の不幸でもあることを十分知っていたからです。イエス様が振り向いて下さらないなら、振り向いて下さるまで追いかけていこうという固い決心を、ここで見ます。

母親が叫びながらついて来るのを見た弟子達は、早く何とかして、この母親を家に帰らせたいと思い、黙って歩くイエス様に「母親を何とかして下さい」と頼みました。

 

*「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない

これがイエス様のお答えでした。イスラエルの家とはユダヤ人のことです。羊とは人間のことで、神様と御子イエス様は羊飼いです。つまり、「わたしは、羊飼い(神様)から離れて行った羊(ユダヤ人)たちを、神様のところに連れ戻すために、神様から遣わされて来たのです。」=それ以外の異邦人達を助けるように、との神様の命令はまだきていません。

 

*イエス様の、神様への従順

イエス様が弟子達にこのように答えられたのを母親は聞きました。それでも母親は、イエス様のそばにかけより、イエス様の前にひれ伏して、「主よ、どうかお助け下さい」とお願いしたのです。

「ひれ伏す」とは神様を礼拝する時の姿勢です。自分の心のすべてを神様の前に明け渡して、心の奥底まで神様の前に出し切り、すべてをお委ねして、神様はきっと最善にして下さると信じている態度です。それでもイエス様は、最初の言い方を変えて同じことを言われました。

子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない。

イエス様は、ご自分の使命を大切に(最優先に)されるお方ですから、神様が命じられている救いの順番を勝手に変えようとはされません。

「子供達」とはユダヤ人、「子犬」とは異邦人をさします。そして「パン」とは、神様の大きな愛と、恵みと、救いを意味しています。

 

*「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです。」

母親は、イエス様が、異邦人である自分の願いを拒否されたことも素直に「ごもっともです」と受け入れました。ナアマン将軍とは対照的な「へりくだり」の姿です。この母親は神様を信じ、イエス様を信じていましたので、助けていただける道が必ずあるとの確信を捨てませんでした。そしてイエス様のされた「たとえ話」を引き継いで、「子供がこぼしたパンくずであれば、子犬が食べても子供は困らず、お腹は満たされるし、子犬も又、そのおこぼれのパンくずで空腹を満たすことが出来る」と答えました。母親は、神様が下さるパン=神様の愛と恵みと助け は、それほど大きいのではありませんか・・と応答したのです。

 

*聞き入れられた願い

イエス様はこれを聞いて「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」とおっしゃいました。そして、娘の病気はいやされたのです。イエス様がご覧になるのは、いつも信仰です。文語訳聖書では、「汝の信仰は大(おおい)なるかな」と、「大きい」という字が使われています。  

私達の信仰は大きいでしょうか?今はユダヤ人も異邦人もなく、全世界の至る所で神様の大いなる愛と恵みと救いが用意されています。私達はいつでも「主よ」と呼びかけてひれ伏し、どんな不可能に思える難題も乗り越える大きな信仰を祈り求めて、日々の歩みを続けましょう!!

5月27日の説教要旨 「神の国へのパスポート」 平賀真理子 牧師

列王記下20:1-7  ルカ福音書18:9-17

 はじめに

ルカによる福音書を再び読み進めましょう。今までで18章8節まで読み終わりました。イエス様は御自身が十字架にかかる町エルサレムを目指し、弟子達と共に旅を続け、目的地に近づいたところで、弟子達に語られた話として、今日の新約聖書箇所は記されています。

 

気を落とさずに祈る⇒祈る時の心構え

今日の箇所へ入る直前で、イエス様は、「気を落とさずに祈らなければならない」ことを教えようと例え話をなさったと記されています。

私達信仰者は、こう知らされると、「よし、祈りを頑張ろう!」と素直に思い、より一層、祈りに励むようになるでしょう。でも、そこに落とし穴があります。祈りの根本姿勢が間違っていれば元も子もないので、イエス様は弟子達に祈りの正しい姿勢を教えてくださったのです。

 

 対照的な2人(ファリサイ派と徴税人)の祈り

10節からの例え話で、イエス様は2人の対照的な人物を挙げました。一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人ですね。ファリサイ派の人々は、自分達は神様から賜った「律法」の順守に熱心だから、自分達こそ神様に近い人間だとうぬぼれていました。もう一人の徴税人は、神様を知らない異邦人の利益のために同胞を裏切る人間で、しかも、自分の私腹も肥やす悪事をなしている人が多かったために、神様からほど遠い人間・汚れた人間と見なされていました。このような説明から人間的な評価をすると、ファリサイ派の人の方が神様は喜ばれるでしょうし、徴税人は決して正しいとは言えないと思われるでしょう。なのに、イエス様は、神様は全く逆に評価なさることを告げたのです。

 

 神様が「良し!」と認めてくださる祈りの姿勢

 ファリサイ派の人の祈りは、言葉の上で、神様への感謝となっていますが、根本では、神様を崇めてはいません。周りの人間と比べて、自分が「律法」に基づいた行動ができていることを感謝しています。それは、神様賛美ではなくて自己賛美であり、その根っこでは、神様を見ずに、人間(自分や周りの人間)しか見ていません。人間からや、その中でも自分自身からの「義」という評価は何の意味もありません。神様からの「義」をいただくことが人間の本来の喜びです。

一方、徴税人は、自分は神殿の前に出る資格もないと自覚した故に、遠くに立ったのでしょうし、神様の御座所と言われた天に向かって目を上げられないほど、自分の罪に打ちひしがれていたのでしょう。極めつけは「胸を打ちながら」という様子であり、心からの悔い改めを伴った祈りをしているとの表現だと思われます。自分の罪深さに真摯に向かい合い、自分の努力では罪から抜け出せないことを悟り、神様からの憐れみにすがる他はない、神様の憐れみによって罪から救われたいと心から願っていることがわかります。神様から「義」とされたのはこの人です。

 

 深い悔い改めと神様からの救いの希望

深い悔い改めと、神様からの救いへの希望、これこそ、神様が「良し!」と認めてくださる祈りの正しい根本姿勢です。自分のことを良く見つめ、自分のダメさ加減(罪)を良く知り、それは、自分や人間の考えでは決して解決しないことを知り、自分は神様から救われなければ生きてゆけないと思えたか、また、そのような経験があるかがとても重要です。その深い穴に、主の十字架と復活の恵みが入るのです。神様は、本当の悔い改めをした人を、罪の中で苦しんだままには決してなさいません。そこから救い出そうと働いてくださる愛によって、御子イエス様をこの世に送り、私達一人一人に出会わせてくださっているのです!

 

 「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14節)

 「高い・低い」だけでなく、「大きい・小さい」「強い・弱い」「豊かな・乏しい」なども、神様は、人間とは全く逆の評価をし、人間社会で価値がないと捨てられる者を、神の民として重用してくださいます。

 

「神の国」へのパスポート

「小さい」故に人間社会では軽視される子供が、御許に来ることをイエス様は喜ばれました。子供達が見せる絶対的な信頼こそ人間が神様に本来見せるべき姿勢です。「主」へのこのような絶対的信頼と、前述の「へりくだり(自分を低くする姿勢)」こそ、神の国へのパスポートです。