2021年6月20日の説教要旨 申命記26:1-11・Ⅱコリント8:1-15

「主への告白」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

イスラエルの民はエジプトを脱出後、主に導かれながら40年間の荒野での生活を送ってきました。その間、主なる神から天から降ってきた「マナ」によって養われました。しかしこれから入る嗣業(しぎょう・神様から賜った資産)のカナンの土地では、土地を耕し自らが農作物を作り、収穫しなければなりません。神様は、このカナンの地で新しい生活を始めるにあたり、幾つかの注意点を述べています。

*土地から取れた収穫物をささげる時の信仰告白(5節-10節)

先ず「初物」をかごに入れて祭壇に行き、祭司には「約束の土地・カナン」に入ったことを報告して「初物」のかごを祭司に渡す。祭司はそのかごを祭壇に備える。その後、「初物」をささげる者が神様に対して以下のように信仰の告白をする。『わたしの先祖は滅びゆく一(いち)アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこの私たちを虐(しいた)げ、苦しめ、重労働を課(か)しました。私たちが先祖の神、主に助けを求めると、主は私たちの声を聞き、私たちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもって私たちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。 わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。

*嗣業の土地

「信仰告白」で大切なことは、『主がこの所に導き入れて、乳と蜜の流れるこの土地を与えられた、という点にあります。主が約束されて与えられ、主から相続した嗣業の土地で取れた、あらゆる地の産物や彼らの業績などは、彼ら自身の力と手の働きによるものなどと考えてはならず、むしろ主なる神を思い起こし、主の導きや守りによることへの神様への感謝と、彼らの信仰を、後の世代まで継承していくことを教えています。そこに神様に従い続ける忠誠心、献身力が養い育てられていくと思います。では、私達がささげる初物のささげ物とはどういうものなのでしょうか。

*新約時代の献金

本日のⅡコリント書では、コリントの教会に間違った教えが入り込み、信徒達は献金を集めることをやめていたので、パウロは信徒の人々に、献金再開のお願いの手紙を書いています。この献金はエルサレムの聖なる者達の中の貧しい人々を援助するためのものでした。そこでパウロは、マケドニア州の諸教会に与えられた神様の恵みについて書いています。マケドニアの信徒達は、苦しみによる激しい試練を受けていましたが、彼らは喜びに満ち溢れ、極度の貧しさにもかかわらず溢れるばかりに豊かな真心をパウロ達に示しました。彼らは、それぞれ個人に与えられた力、能力に応じて、又、力以上に自ら進んで聖なる者達を助けるための奉仕に加わる恵みに与(あずか)りたいとしきりに願い出て、パウロ達が期待していた以上に自らを献げ、仕えました(8:2~)。彼らはパウロを通して神様の素晴らしさ、凄さを体験したので貧しい生活を送っていた者達でさえも惜しみなく、又、自ら進んで献金を献げました。

*わたしたち

私は日本には数多くの宣教師やクリスチャン達が訪れ、私達日本人のために彼らの時間、生活費を費やして、神様の言葉を伝えている人達のことを思い浮かべました。この方達は一度も顔を見たことも話したこともない人達の為に日本を訪れていますから、神様を信頼し神様の御国の建設のため、教会形成に自分も何かの役に立ちたいという献身の思いがなければ人々に仕え、御言葉を伝えることはできなかったでしょう。

献金は神様に献げられたもので、神様のために働く者達の為、神様を求めて教会に集まって来た人々の為、又、この教会だけに留めるのではなく、神様を信じる全ての者達のために用いられるべきものです。私達はこの伝道所へ神様に呼び出され、集められ、神様の前で罪の告白をし、祈り、讃美し、み言葉を聞き、この神様の愛に感謝して感謝のささげ物の献金をします。この中で私達の信仰を告白しようではありませんか。

2021年2月7日の説教要旨 列王記下5:1-14・Ⅱコリント12:1-10

*はじめに 

 本日の旧約聖書では、アラム(シリア)の王の軍司令官、ナアマンが登場します。彼は地位も名誉もありましたが、重い皮膚病にかかっていました。レビ記には「『わたしは汚れた者です。』と呼ばわらねばならない。・・・その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」と記されていて(13:45-46)、当時は、不治の病と見なされていたようです。 ナアマンの妻の召使いで、イスラエルから捕虜として連れてこられた少女が「サマリアにいる預言者を訪ねれば、ご主人の病をいやしてもらえるでしょう」と妻に告げると、ナアマンはその話をアラムの王に伝えました。王はイスラエルの王に、「ナアマンの重い皮膚病をいやしてほしい」との手紙を書いてくれましたので、ナアマンは沢山のみやげの品々を準備して、イスラエルの王を訪ねました。

*イスラエルの王

 イスラエルの王は、アラムの王からの手紙を読むと、「私が神だとでも言うのか。彼は私に言いがかりをつけようとしている」と言って激しく怒り、衣を裂きました。それを聞いた預言者エリシャは、イスラエルの王のもとに人を遣わして「その男を私の所によこして下さい。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」と言いました。

そこでナアマンは、戦車に乗ってエリシャの家の戸口に立ちました。

*預言者エリシャとナアマンとナアマンの家来達

 ナアマンはエリシャと直接会うことで、彼の真剣な気持をエリシャに理解してもらえるだろうと思っていたに違いありません。しかしエリシャは彼の前に姿を現さず、使いの者に「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」と言わせました。ナアマンはひどく怒り、言いました。「エリシャが自ら出て来て私の前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた」と。しかも彼はヨルダン川の水よりももっと良い水の川があるのを知っていました。彼は、憤慨しながら去って行きました。ナアマンのプライドがズタズタにされた様子が伺えます。 

しかしナアマンの家来達は彼をいさめて、「あの預言者が大変なことを命じたとしても、あなたはその通りなさったに違いありません。あの預言者は『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」と言いました。ナアマンはエリシャの言われた言葉を信じて、ヨルダン川に行き、7回、身体を浸しました。すると彼の身体は元に戻り、小さい子供の体のように清くなりました。(5:14)

*信仰

 ルカ福音書に「預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかは誰も清くされなかった。」(4:27)とのイエス様の言葉が記されています。ナアマンの、「いやされたい」という真剣な気持と「預言者の言葉を信じる信仰」の持ち主が、エリシャの時代にいなかったことが分かります。信仰は、私達が心に残る神様の御言葉や、本当の神様に出会った時から始まります。

私達が苦しみや困難な状況に置かれている時、「神様は私の祈り、願いを聞いて下さらないのか。・・」と神様に呟(つぶや)き、失望したことはないでしょうか。そのような時、それは私達の側に神様が働くことの出来ない何か、私達が握りしめて手放すことの出来ないものがあるからだと思います。パウロは使徒言行録で「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(16:31)と言いました。パウロは主イエスを信じることの大切さを教えているのではないでしょうか。

本日の新約聖書でパウロは、身に「一つのとげ」が与えられたと記しています。おそらく伝道旅行中にかかった病気のことだと考えられます。パウロはこの病を通して、霊的に強められ、自分自身の弱さの中で神様の恵みに頼ることを知ることができました。そして何よりも「神様の力は弱さの中でこそ十分に発揮される」ことを体験しました。神様は私達にどんな所を歩ませようとも、必ず共におられ私達を助け出すお方です。神様は私達の祈りを知り、聞いています。落ち着いた心で神様が私達になさろうとしていることに喜んで耳を傾け、歩んでいきましょう。

2020年10月18日の説教要旨 詩編90:1-12・Ⅱコリント書5:1-10

「聖霊の守り」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに 

詩編90編1節に「祈り、神の人モーセの詩」とあります。モーセは、「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」と告白ました。人間にとって神様は、私達を守って下さる場所、避難所であることを確認しています。そのことは、「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々変わりなく、永遠に至るまで」私達の神であられることを意味しています。そして神様は、人を、元の塵に返すことで、人は はかない存在であることを述べています。朝に花を咲かせ、夕べにはしおれて枯れていくように、私達の人生は短く、苦労に満ちた生活となっていることを告白し、神様の目からすれば、千年といえども一日が過ぎ去るようでしかなく、人生はほんの一瞬にしか過ぎないゆえに、神様の慈しみを願い祈っています。

さらに人は、神様の前に罪を犯し、その犯した罪を隠そうとしても、神様は明らかにすると告げます。私達生きる者はアダムとエバが罪を犯した時から罪の呪いの生活の中に入れられました。人は神様のかたちに造られ、永遠に生きることのできる者であったにもかかわらず、蛇の誘惑を得て、善悪を知る知識の木から実を食べ、神様に従わなかった罪の代償として「死」がこの世界に入り込みました。私達は、彼らの犯した罪を受け継ぐ結果となり、神様の怒りの中で生活していると言えると思います。

*「生涯の日を正しく数え、知恵ある心を得ることができますように」

この罪からの脱出の道は、私達の過去に犯した罪(神様から離れた生活)を告白して神様の赦しを得ることです。それは、私達が神様の前に自らを低くして、へりくだることから始まります。

このモーセの祈りは、私達も又、生かされている日々を正しく数え、キリストにある生活を歩めるように、「神様からの知恵ある心」を得ることができるように、主と共に歩み続けることができるように、と願い祈る大切さを教えてくれるのです。

*地上の住みかと天の住みか

 「私達の地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」と、本日のコリントの手紙5章は始まります。私達の身体は、この地上において、やがて衰え朽ちていき、塵にかえります。ヨブ記では「人は塵の中に基(もとい)を置く土の家に住む者」(4:19)とあり、私達の身体が塵(土)から造られている住み家であることが分かります。

しかし天にある住みかは、永遠の住みかであることが記されています。

*保証としての“霊”

パウロは、彼の証の中で、イエス様を信じる者達には天にある住みかが用意されていることを伝え、信仰を与えられた者はその保証として、生きた神の霊が与えられていることを力強く述べました(5節)。そしてパウロにとって自分自身の霊が肉体から離れることは喜びであり(8節)、今ある身体は一時的な仮住まいの場所(地上の幕屋)であり、復活の身体においては、永遠の栄光の希望の光があることを記しています。

裁きの座の前に立つ

私達すべての人間は、必ず神様の裁きの座の前に立つことになります。地上での生活が、人を傷つけたままの状態であったり、悔い改めようとしない者が、クリスチャンの中にいるかもしれません。自分は救われているから、神様に会えるから、天国に行けるから・・と、自分の過ちや弱さから目を背ける人々に、この手紙は、「それぞれが身体、肉体によって行ったことに応じて神様からの報いを受けねばならない」と告げています。

パウロは、地上を住みかとしていても、天にある住みかであっても、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と切望しています(9節)。

 神様は、今日も真実なお方です。今日、私達の心の中に祈らなければならないこと、悔い改めなければならないことが思い浮かんだのなら、神様に赦していただけるように祈りましょう。 私達が信じて祈り求めるのなら、その答えを必ず与えて下さいます。

2017・1月1日の礼拝説教要旨 「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」 佐藤 義子

イザヤ書 49813・Ⅱコリント6:110

はじめに

2017年の最初の日を、聖日礼拝として皆様とご一緒に礼拝できる幸いを心から感謝いたします。今年度の聖句として与えられたのは、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。『恵みの時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」です。(コリント第二の手紙、6章1-2節)

「恵み」という言葉は聖書の中で度々登場しますが、特に「神様の恵み」という時、①イエス様を人間としてこの世に遣わされたこと、②イエス様の十字架の死を通して私(達)の罪をあがなってくださったこと、③イエス様を死から復活させて下さったこと、が、その中心にあります。

今、ここにクリスチャンとして礼拝の恵みにあずかっておられる方々は、神様が各々に定めて下さった日に、この三つを神様の恵みとして受け入れ、ご自分の信仰告白として、おおやけに言い表して洗礼を受けられた方々です。その受洗の時に、私達に何が起こっていたのでしょうか?

 

受洗はキリストと結ばれること

今日読みました聖書の前(5章)には 次のように記されています。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造されたものなのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって・・」(17節-18節)。

私達が洗礼を受けた時、私達にはこのようなことが起こっていたのです。これから洗礼を受ける方々にも、このようなことが起こるということです。私達がおおやけに信仰を告白した時(決断した時)、私達は今までの自分から新しく創造された自分(新生)へと変えられます。イエス様はご自身をぶどうの木に、私達をその枝に譬えられているように(ヨハネ福音書15章)、私達は信仰告白と同時にキリストに結ばれ、キリストと結ばれる(=キリストと共に歩み,その交わりの中に置かれる)者は新しく創られていきます。

 

・・神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ」(同)

さらに信仰を告白することによって、神様が私達と和解して下さった喜びに招かれます。「和解」は、断絶など 関係が切れた状態にあったことが前提です。神様が私達と和解して下さったということは、それまで長い間、神様と私達人間の関係は切れていた(断絶していた)のです。神様は私達人間を創られ、命の息を吹き入れられて生きる者とされました(創世記)。ですから私達人間は、創り主である神様とは切っても切れない関係にあり、神様に従う限りにおいては祝福が約束されておりました。しかし私達人間は創り主に対して不服従を繰り返し、ついに神様と断絶関係に陥ってしまったのです。断絶に至った人間の罪は計り知れず、神様からの離反・不服従(自己優先)・反逆などを繰り返した結果、私達人間は滅びの道しか残されていませんでした。ところが憐れみ深い神様は、人間が地上において(サタンの支配のもとで・罪の中で)苦しんでいるのを見過ごすことを良しとせず、救いの手を差し伸べる御計画をたてて下さいました。神様と人間が再び関係を結ぶ道です!すなわち、人間の罪がつぐなわれて神様から罪の赦しをいただく和解への道!

このことが、18節の「キリストを通して」、すなわちイエス様の十字架による「死」と、神様による「死に勝利する復活」でした。なぜイエス様が十字架で死なねばならなかったのでしょうか?

それは、罪の赦しには「つぐない」が不可欠ですが、それが出来るお方(人間の罪を身代わりに背負うことの出来るお方)は、罪のない神の御子イエス様しかいないからです。それゆえ神様は御子を地上に送り、イエス様は、神様の御心に従って人間の罪を担い、罪をつぐなう死(あがないの死)としての十字架を引き受けられました。これによって「私(全人類)の罪」は赦され、神様は「わたしたちをご自分と和解させ」られたのでした。

 

また、和解の為に奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

 つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私達にゆだねられたのです。」(18-19節)

さらに神様は、この和解を受け取ったクリスチャンに一つの任務を与えられました。それは、和解の言葉をゆだねられた者として生きることです。イエス様を信じる信仰が創り主である神様のもとに帰る道であり、神様が用意して下さっている和解を受け取ることこそ、私達人間の本来の生き方であり、神様が祝福されることであることを、伝え、証しする任務です。

 

神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」(6:1)

今日の聖書の6章1節では、著者パウロが信仰者に対して「神の協力者としてあなたがたに勧めます」と呼びかけています。そして神様から差し出された和解の恵みをいただいた者は、この恵みを無駄にしないようにと勧告します。恵みとは、自力で手にすることが出来ないものを与えられることです。「太陽の恵み」や「恵みの雨」のように、私達が生きていく上でなくてならぬものが 公平に与えられていることを思い起こしますが、ここでは神様から一方的に差し出された「神様との和解」、すなわち私達人間が、自分の創り主であるお方のもとに、イエス様の十字架のおかげで戻ることが出来た!神様とあるべき正しい関係(創造主と被造物)を結ぶことが出来た!生きる上で100% 必要なもの(無くてならぬものはただ一つ)が与えられた!ことを意味します。この大きな恵みを無駄にしてはいけないとの勧告と励ましを、2017年の御言葉として心に刻みたいと思います。

 

恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた」(6:2)

これはイザヤ書49章からの引用です。当時イスラエル民族は,バビロン捕囚の日々が半世紀近く続いており(BC587年から-解放はBC538年)、人々の中で、祖国への帰還と祖国の復興という期待と希望が小さくなっていく時、第二イザヤ(イザヤ書は1-39章・40-55章・56-66章を書いた3人により構成されている)と呼ばれている預言者が、神様から聞いて語った言葉です。この言葉は、まだ、捕囚が続いている中で、第二イザヤ(BC 545年頃)が、神様からの約束の言葉(慰めと希望)として語り、人々を励ましたのです。信じた人々は、この後で、この約束の実現を体験することになりました。

 

今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

このイザヤ書の言葉をパウロは引用して、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」と、コリントの教会の人々に(そして南伝道所の私達に)呼びかけます。今や、神様がわたしに下さった恵みを受け入れる時、又、すでに恵みをいただいた人々が、神様との和解の出来事を伝える奉仕を通して、救いが起こされる時です。私達の地上での生活には限りがあります。私達はそのことを忘れがちで「あわてることはない。あせることはない。今、決めなくても良い。もう少し後になってからでも・・」と言います。確かに今でなくても、次の決断の時が来るかもしれません。しかし来ないかもしれません。決断すべきとの思いが少しでも与えられたら、それを後回しにしてはいけないことを、この聖句は教えています。

「今」という時を見過ごさないように、いつも心の目を覚まして、今、何をなすべきかを、祈りを通して神様から教えていただきながら、新しい年を過ごしていきたいと思います。

あらゆる場合に神に仕える者として・・大いなる忍耐をもって、

苦難、欠乏、行き詰まり、・・労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって、」(4―7節)

  著者パウロは、教会の人々に奉仕を呼びかけるだけでなく、自らがどのように和解の福音に奉仕しているかを3節以下で語っています。

私達は、今すぐパウロのような福音の奉仕者になることはむつかしく思われますが、しかしキリストに結ばれて歩む時、このように生きることが出来る!ということを知らされます。なぜならパウロは「神の力によって」出来ていることを明言しているからです。

この一年、神様からどのような道を示されても、真理の言葉、神の力によって、大いなる忍耐をもって、苦難や行き詰まりに対処し、与えられた恵みを無駄にせず、イエス様に結ばれた者・新しく創造された者としてふさわしい歩みを 歩んでいきたいと祈り、願うものです。