「神との和解」 加藤 秀久伝道師
*はじめに
私達は、神様をどのような形で知ろうとしているのでしょうか。神様は私達に、「聖書」という、生きた神様の言葉を与えて下さいました。この神様の言葉は、私達に日々の生活の中で、力と励ましを与えて下さいます。
*「肉に従って知ろうとはしません」
パウロは、ある日突然、目には見えない神様の御子イエス様に出会い、神様を知り、神様を体験した人物の一人です。神様から呼び出され、その声に従いました。本日のⅡコリントの手紙5:16で、パウロは「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」と言っています。「肉に従う」の、「肉」の原語では、人間的な見方や人間的な標準という意味になります。その見方で、神様や接する人達を見たり知ったとしても、それは人間の価値観や経験で見ることになり、本当の姿に出会うことは出来ません。
*「一人の方がすべての人のために死んで下さった」(14節)
「一人の方=イエス様」は、「私達すべての人間の罪の為に死んで下さった」以上は、「すべての人も死んだことになる」と、パウロは語ります。イエス様の愛がすべての人たちを包み、その愛が人々をとらえて離さず、イエス様はすべての人のために死んで下さった!このイエス様の死と共に、私達も又、生まれながらに与えられている肉の思い(=人間的な見方、人間的な照準で生きる)も死んだのです。そして死んだ私達はイエス様の復活と共に、イエス様を復活させられた神様の霊の力によって、新しく創造された者です。その目的は、「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きること」(15節)にあり、今は神様の右におられて聖霊を送って下さるイエス様と共に、私達は日々生き、生かされていることを語ります。
*「新しく創造された者」(17節)
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」、さらに、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とあります。
そして更に、「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私達をご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私達にお授けになりました(18節)。」と語っています。「生じた」は、創世記の天地創造の箇所で、神様が命じて「起る、そのようになる」出来事と同じです。人は「神にかたどって=似せて創造された(1:27)」にもかかわらず蛇の誘惑に会い、神様に背(そむ)き、人間が得ることになった知識、知恵、善悪などは神様から身を隠すという行動を起こさせ、悪がはびこる世界に入る結果を作ってしまいました。その世界に身を置く私達人間は、知らず知らずの内に、背後で操つる悪魔(サタン)の働きにより影響を受けてきました。
しかし私達は、キリストと出会い、結ばれた時、今までの古い人間的な考えや思い、価値観はすべて取り払われ、新しい人が私の中で存在し始めたことが述べられます。私達が主に出会う時、私達は神様によってすべてが新しく、まるで「違う自分と入れ替わった」ように軽く晴れやかになり、生まれ変わった気持になることをここで伝えています。
私達の罪のために死なれたイエス様は、その死を通して、私達を罪で滅んで行く者から新しく生きる者へと変えて下さった、そこには本当の生きた神様に出会い、イエス様を知る特権が与えられているのです。
*二つの世界で
私達が生きる世界に目を向ける時、一方では、素晴らしい神様が造られた世界を見ます。しかし他方で、人間の間違った解釈、知識、悪魔(サタン)の働きにより、あるべき姿から違う方向へ向かっているのも見ます。その二つの世界の中で、神様はご計画を少しずつ実行していることも事実です。それは主イエス・キリストの誕生・復活・昇天と、聖霊を送って下さっている出来事をはじめとして、この伝道所の18年間の歩みの中での出来事です。それはまるで天地創造の時と同じように山田の地域に伝道所を建てて良しとされました。それは「神様との和解のために奉仕する任務」のため、神様と出会える場所として、又、人々の安ら ぎの場所として用いられていくためです。共に祈ってまいりましょう。