2017・1月1日の礼拝説教要旨 「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」 佐藤 義子

イザヤ書 49813・Ⅱコリント6:110

はじめに

2017年の最初の日を、聖日礼拝として皆様とご一緒に礼拝できる幸いを心から感謝いたします。今年度の聖句として与えられたのは、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。『恵みの時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」です。(コリント第二の手紙、6章1-2節)

「恵み」という言葉は聖書の中で度々登場しますが、特に「神様の恵み」という時、①イエス様を人間としてこの世に遣わされたこと、②イエス様の十字架の死を通して私(達)の罪をあがなってくださったこと、③イエス様を死から復活させて下さったこと、が、その中心にあります。

今、ここにクリスチャンとして礼拝の恵みにあずかっておられる方々は、神様が各々に定めて下さった日に、この三つを神様の恵みとして受け入れ、ご自分の信仰告白として、おおやけに言い表して洗礼を受けられた方々です。その受洗の時に、私達に何が起こっていたのでしょうか?

 

受洗はキリストと結ばれること

今日読みました聖書の前(5章)には 次のように記されています。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造されたものなのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって・・」(17節-18節)。

私達が洗礼を受けた時、私達にはこのようなことが起こっていたのです。これから洗礼を受ける方々にも、このようなことが起こるということです。私達がおおやけに信仰を告白した時(決断した時)、私達は今までの自分から新しく創造された自分(新生)へと変えられます。イエス様はご自身をぶどうの木に、私達をその枝に譬えられているように(ヨハネ福音書15章)、私達は信仰告白と同時にキリストに結ばれ、キリストと結ばれる(=キリストと共に歩み,その交わりの中に置かれる)者は新しく創られていきます。

 

・・神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ」(同)

さらに信仰を告白することによって、神様が私達と和解して下さった喜びに招かれます。「和解」は、断絶など 関係が切れた状態にあったことが前提です。神様が私達と和解して下さったということは、それまで長い間、神様と私達人間の関係は切れていた(断絶していた)のです。神様は私達人間を創られ、命の息を吹き入れられて生きる者とされました(創世記)。ですから私達人間は、創り主である神様とは切っても切れない関係にあり、神様に従う限りにおいては祝福が約束されておりました。しかし私達人間は創り主に対して不服従を繰り返し、ついに神様と断絶関係に陥ってしまったのです。断絶に至った人間の罪は計り知れず、神様からの離反・不服従(自己優先)・反逆などを繰り返した結果、私達人間は滅びの道しか残されていませんでした。ところが憐れみ深い神様は、人間が地上において(サタンの支配のもとで・罪の中で)苦しんでいるのを見過ごすことを良しとせず、救いの手を差し伸べる御計画をたてて下さいました。神様と人間が再び関係を結ぶ道です!すなわち、人間の罪がつぐなわれて神様から罪の赦しをいただく和解への道!

このことが、18節の「キリストを通して」、すなわちイエス様の十字架による「死」と、神様による「死に勝利する復活」でした。なぜイエス様が十字架で死なねばならなかったのでしょうか?

それは、罪の赦しには「つぐない」が不可欠ですが、それが出来るお方(人間の罪を身代わりに背負うことの出来るお方)は、罪のない神の御子イエス様しかいないからです。それゆえ神様は御子を地上に送り、イエス様は、神様の御心に従って人間の罪を担い、罪をつぐなう死(あがないの死)としての十字架を引き受けられました。これによって「私(全人類)の罪」は赦され、神様は「わたしたちをご自分と和解させ」られたのでした。

 

また、和解の為に奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

 つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私達にゆだねられたのです。」(18-19節)

さらに神様は、この和解を受け取ったクリスチャンに一つの任務を与えられました。それは、和解の言葉をゆだねられた者として生きることです。イエス様を信じる信仰が創り主である神様のもとに帰る道であり、神様が用意して下さっている和解を受け取ることこそ、私達人間の本来の生き方であり、神様が祝福されることであることを、伝え、証しする任務です。

 

神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」(6:1)

今日の聖書の6章1節では、著者パウロが信仰者に対して「神の協力者としてあなたがたに勧めます」と呼びかけています。そして神様から差し出された和解の恵みをいただいた者は、この恵みを無駄にしないようにと勧告します。恵みとは、自力で手にすることが出来ないものを与えられることです。「太陽の恵み」や「恵みの雨」のように、私達が生きていく上でなくてならぬものが 公平に与えられていることを思い起こしますが、ここでは神様から一方的に差し出された「神様との和解」、すなわち私達人間が、自分の創り主であるお方のもとに、イエス様の十字架のおかげで戻ることが出来た!神様とあるべき正しい関係(創造主と被造物)を結ぶことが出来た!生きる上で100% 必要なもの(無くてならぬものはただ一つ)が与えられた!ことを意味します。この大きな恵みを無駄にしてはいけないとの勧告と励ましを、2017年の御言葉として心に刻みたいと思います。

 

恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた」(6:2)

これはイザヤ書49章からの引用です。当時イスラエル民族は,バビロン捕囚の日々が半世紀近く続いており(BC587年から-解放はBC538年)、人々の中で、祖国への帰還と祖国の復興という期待と希望が小さくなっていく時、第二イザヤ(イザヤ書は1-39章・40-55章・56-66章を書いた3人により構成されている)と呼ばれている預言者が、神様から聞いて語った言葉です。この言葉は、まだ、捕囚が続いている中で、第二イザヤ(BC 545年頃)が、神様からの約束の言葉(慰めと希望)として語り、人々を励ましたのです。信じた人々は、この後で、この約束の実現を体験することになりました。

 

今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

このイザヤ書の言葉をパウロは引用して、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」と、コリントの教会の人々に(そして南伝道所の私達に)呼びかけます。今や、神様がわたしに下さった恵みを受け入れる時、又、すでに恵みをいただいた人々が、神様との和解の出来事を伝える奉仕を通して、救いが起こされる時です。私達の地上での生活には限りがあります。私達はそのことを忘れがちで「あわてることはない。あせることはない。今、決めなくても良い。もう少し後になってからでも・・」と言います。確かに今でなくても、次の決断の時が来るかもしれません。しかし来ないかもしれません。決断すべきとの思いが少しでも与えられたら、それを後回しにしてはいけないことを、この聖句は教えています。

「今」という時を見過ごさないように、いつも心の目を覚まして、今、何をなすべきかを、祈りを通して神様から教えていただきながら、新しい年を過ごしていきたいと思います。

あらゆる場合に神に仕える者として・・大いなる忍耐をもって、

苦難、欠乏、行き詰まり、・・労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって、」(4―7節)

  著者パウロは、教会の人々に奉仕を呼びかけるだけでなく、自らがどのように和解の福音に奉仕しているかを3節以下で語っています。

私達は、今すぐパウロのような福音の奉仕者になることはむつかしく思われますが、しかしキリストに結ばれて歩む時、このように生きることが出来る!ということを知らされます。なぜならパウロは「神の力によって」出来ていることを明言しているからです。

この一年、神様からどのような道を示されても、真理の言葉、神の力によって、大いなる忍耐をもって、苦難や行き詰まりに対処し、与えられた恵みを無駄にせず、イエス様に結ばれた者・新しく創造された者としてふさわしい歩みを 歩んでいきたいと祈り、願うものです。