2019年10月6日・世界宣教の日の説教要旨

イザヤ60:1-2・コロサイ1:17-23 

「世界中に伝えられている福音」     佐藤 義子

*はじめに

本日は、「世界宣教の日」(日本基督教団・10月第一日曜日)です。福音が全世界に宣べ伝えられることはイエス様の遺言でもあり、マタイ福音書の最後に、イエス様の語られた言葉が記されています。

あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 この言葉は、「大宣教命令」と呼ばれ、教会はこの言葉と共に歩みを続けていると言っても過言ではありません。教会の使命は伝道です。クリスチャンの使命も伝道です。誰に伝道するのでしょうか。聖書で語り伝えている神様もイエス様も知らない方達にです。家族、親族、友人、知人にとどまらず、神学校に導かれ牧師として、全く知らなかった地域で伝道している方々も多く、さらに、キリスト教主義の学校・病院・施設・幼稚園・保育園などで働きながら伝道している方々も多くおられます。(文書伝道・ラジオ伝道・インターネット伝道もあります)。

*世界宣教

目を国内から海外に向けて宣教師として伝道されている方々も多くおられます。私達日本人は「宣教師」という母国から海外伝道に派遣された方々によって福音を伝えられ、今や「イエス・キリスト」の名を聞いたことがないという人はいなくなり、迫害もなく、この山田の地でもこうして礼拝が捧げられていることは本当に感謝なことです。現在日本基督教団では、14ヵ国に20人の方々を派遣しており、子供も一緒の家族での派遣も、又、単身で赴任される方々もおられます。仙台南伝道所では、以前、聖書翻訳宣教師として働かれた虎川宣教師と、インディアン伝道をされているアメリカからウェイド宣教師をお迎えして説教を伺い、その内容は伝道所の「説教集」に収録されていますので、再び読まれることをお勧めします。

 *コロサイ書1章23節

本日の聖書の23節後半に、「この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました」とあります。パウロが仕えた福音こそ、私達が教会で聞いて、信じて、今も、依って立つ信仰の基盤です。

 *信仰の基盤

  今日お読みした聖書の少し前の14節から、少し先の2章12節の間に、重要な言葉が五つ出てきます。①「罪の赦し」(14節)②「御子は教会の頭(かしら)」(18節)③「十字架の血」(20節)④「神との和解」(同)⑤「私達の復活」(2:12)。この5つの言葉をつなげますと、以下のような福音、私達が聞いて信じた福音の内容が明らかにされています。

*福音の内容

私達は、かつては神様から遠く離れ、闇の力の支配下に置かれており、神様から離れている(=罪)ことさえ意識していませんでした。しかし神様は私達を愛するゆえに、御子イエス様を遣わして下さり、私達が神様から離れて生きてきたそれ迄の「」を、イエス様が流された「十字架の血潮」(=罪のあがない)によって「赦し」て下さり、それによって「神様と私達との和解」がもたらされました。この福音を信じる信仰によって私達はバプテスマを授けていただき、それによって罪の中で生きてきた古い自分がイエス様と共に葬られ(死んで)、イエス様と共に「新しい自分へと復活」させていただき(=闇の支配の領域からキリストが支配される領域に移された)、「救いの恵み」が与えられました。「御子イエス様は、教会の頭(かしら)」であり、教会(=信仰告白共同体)は、イエス・キリストの体です(コロサイ書1:18節 / エフェソ書1:23)。

*正しい信仰とそうでない信仰

 パウロの時代には、違う福音理解を持ち込む危険な指導者達がいました。それゆえパウロは23節で、「揺らぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」と記します。私達も聖書から、教会から、離れることなく、聞いて信じた福音に堅く立ち、伝道のために用いていただきたいと願うものです。

3月17日の説教要旨

イザヤ書53:6-12  ルカ福音書24:13-27

「主の復活②」 平賀真理子牧師

*はじめに

ルカによる福音書を読み進めてきて、最終章の24章に入っています。最初の段落では、墓に納められたはずのイエス様の御遺体が消えていたという驚きの記述から始まっていました。しかも、直後には、天使達が「主は復活なさった」と告げたこと、その証言が女性信徒達から使徒をはじめとする男性信徒達に告げられたけれども「たわ言」だと思われたことが記されていました。(しかし、この段階では「復活の主」はまだ誰にも現れておらず、「主は復活された」との証言だけが先に存在しています。)

*エルサレムからエマオ村への道中で「復活の主」が顕現なさった!

 この一連の出来事を体験した男性信徒の内の二人が、エマオ村へ向かう道中で経験した出来事の前半が今日の新約聖書箇所です。約二千年前のエマオ村を、今は特定できないそうですが、候補地は3か所ほどあって、3つ共に、エルサレムから北西の方角に十数キロ、もしくは数十キロといった場所のようです。この二人はエルサレムから北西方面へ歩いていたとイメージできます。そして、ついに15節で、復活なさったイエス様が彼らの目の前に顕現なさったことがわかります。

*「復活の主」だと悟れない弟子達

 ところが、イエス様は御自分が復活してこの二人の弟子達に現れていることを、御自身から言い表さず、彼らが話題にしていることについて第三者として質問なさいました。弟子達も「復活の主」に会っていながら、イエス様だとすぐには気づかず、見知らぬ人の質問に答える形で、エルサレムでイエス様を中心に起こったことを語りました。ここで明らかになったのは、彼らはイエス様を「力ある預言者」(19節)、もしくは「イスラエルを解放してくださる御方」(21節)と解釈していたことです。更に、彼らは、ユダヤの指導者達がイエス様を死刑にしようとしたことに対抗できなかった無力感、希望の星「イエス様」を失った失望感、「主が復活した」という仲間の証言への不信感などのマイナスの感情に捕らわれていたことが想像できます。人間的感覚で言えば、最後の拠り所と考えられるご遺体さえ見当たらないのですから、彼らの絶望の度合いは深かったのでしょう。しかし、このような状態の彼らは、主の弟子とは言えません。彼らはあまりにも人間的な解釈に捕らわれていたので、25節で、主は彼らに向かって「物分かりが悪く、心が鈍く、預言(神様からの御言葉)すべてを信じられない者たち」(25節)とおっしゃったのです。

*預言や旧約聖書全体に証しされていた「苦難の僕」の道を歩む救い主

イエス様の弟子である彼らは、主の生前に、神様からの救い主とは「苦難の僕」の道を歩むということを既に学んでいたはずでした(イザヤ書52:13-53:12)。イエス様御自身の御言葉としての「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだ」(26節)は、弟子達にかつての学びを思い出させようという思いが溢れた表現だと思います。そして、この二人の弟子達に、本当の神様から派遣された救い主は、かつての預言者達の預言や旧約聖書に確かに預言されていて、イエス様の歩みそのものだと、再び気づかせようとなさったのです。それは、人間が思い描く「自分の利益や権威だけを欲する王様」のような救い主ではないし、弟子達もそのように誤解するような心構えでは、「復活の主」が目の前に現れても気づけないと示されています。弟子達(後代の弟子である私達を含む)は、救い主の出来事についての考えが主と一致していなければ、出会いの恵みに気づけないのです。

*「復活の主」に気づくために「御言葉」を学び続ける

イエス様の救いの御業の主要な出来事として、主の十字架をもちろん、挙げることができます。それは、私達の罪を、主が代わりに背負ってくださったという意味があるからです。しかし、そこで終わりではありません。その先に、神様がイエス様に栄光を賜った証しとして「主が復活」があります。「復活なさった主」は御自分が受けた「神様からの栄光」を弟子達と分かち合いたいと願って近くに来られるのです。私達は、神様からの御言葉を学び続けて、復活の主に出会う喜びに目覚め続けていたいものです。

2月24日の説教要旨

イザヤ書52:13-15  ルカ福音書23:44-56

「主の死と埋葬」 平賀真理子牧師

*はじめに

今日の新約聖書箇所で、主がこの世での生、つまり、人間としての生を十字架上で終えたことが書かれています。私達人間が神様に絶対の信頼を決して寄せられないという深い罪を肩代わりなさるため、イエス様は御自分の命を犠牲にせざるを得なかったわけです。神の御子が御自分の命を献げるほどに、父なる神様に従順に従う、その御姿は、本来は、最初の人間アダムに求められていたことでした。しかし、「蛇」と称される「悪霊の頭サタン」の罠に陥り、人間は主なる神様とその御言葉を信じ通せず、「神様に従えない」という罪を継承するようになったのです。しかし、神様はそんな人間を見捨てず、まず、「神の民」に選ばれたイスラエル民族が、神様とその御言葉を信じることで、人間の信仰を回復させようと御計画なさいました。その深い愛にも関わらず、人間の罪は重すぎて、悪魔の追及を寄せ付けないほどの信仰を示すことができなかったことを旧約聖書は証ししています。

*救い主が「苦難の僕」とならざるを得ないほど、人間の罪は重い!

 だから、神様は人間を救うための新しい方法として「救い主への信仰」を示した者が救われるという御計画を立ててくださいました。が、ここでも難問が立ちはだかります。人間は「救い主」と言うと、この世の「王」の延長で、最高の権威を顕示する権力者をイメージします。一方、本当の神様は「救い主」を「苦難の僕」の歩みをするように定められた(参照:イザヤ書52:13-53:12)ので、「救い主」について、神様と人間では、全く違う様相を想定していたわけです。イエス様は勿論、父なる神様の御心に従われます。この世の権力を横取りしたサタンが告発できないほどに、イエス様は苛酷な苦難の道を歩んだ上で、その命を犠牲にする、それでも、父なる神様への従順を貫く、このような御計画を成就するために、主の十字架という苦難が必要だったのです!私達自身を含む「人間の罪」は、それほどまでに重いのです。

*十字架で息を引き取ったイエス様の最後の御言葉

 イエス様が十字架に架かって数時間で、太陽の光が失われ、また、エルサレム神殿の至聖所と聖所を分ける垂れ幕が真ん中から裂けました。めったに起きない2つの現象が同時に起きたのです。本当の神様がお造りになった自然の中でも、最大の明るさを持つ太陽が光を失ったことは、神様の御心も光を失い、大変な悲しみに沈まれたと読み取れます。また、ユダヤ教の総本山の大事な垂れ幕の破損を通して、ユダヤ教の役割(神の民を教え導くこと)の終了が示されたと思えます。この直後に、イエス様は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(46節)と叫んで息を引き取られました。神の御手によって、イエス様の救いの御業こそが、次の時代の救いとなるとルカ福音書は証ししていると思えます。46節の御言葉は、イエス様の御生涯を貫く、父なる神様への絶対の従順の姿を表した御言葉であり、この姿勢こそ、人間が神様に向かって献げるべき、本来の信仰の姿勢です。

*ローマ兵の証しは、イエス様の救いの御業が異邦人中心へと向かう暗示

主の死の直後、異邦人であるローマ軍の百人隊長が、イエス様を「正しい人だった」と証ししたと書かれています。ユダヤ人指導者達が扇動して十字架に付けた「救い主」に対して、異邦人がまず最初に、本当の価値を理解したわけです。イエス様の救いの御業は、ユダヤ人の救いよりも、異邦人の救いへ向かうことの象徴的な出来事ではないでしょうか。

*主の埋葬のために用いられた「アリマタヤのヨセフ」

 金曜日の午後3時頃に息を引き取ったイエス様の埋葬のため、神様に用いられたのが「アリマタヤのヨセフ」です。彼は議員でしたが、イエス様を有罪とした決議や同僚の行動に同意しませんでした。神様は、そのような彼を、主の御遺体の尊厳を守るべく埋葬する働きに用いられたことをルカ福音書は証ししています。神様は、その御用のために、私達信仰者一人一人の信仰に応じて豊かに用いてくださるという証しと言えます。神様は、御子の死という大変な悲しみの中でも、信仰者への愛を注がれる御方です。

2月17日の説教要旨

イザヤ書53:1-5  ルカ福音書23:26-43

「十字架における主と立ち会った人々」  平賀真理子牧師

*はじめに

ルカによる福音書を読み進めておりまして、とうとう、私達の主イエス様の十字架への道について書かれている所まで来ました。十字架刑の執行にあたり、当時は、刑を受ける本人が、「されこうべ」(ヘブライ語の一種のアラム語で「ゴルゴタ」、ラテン語で「カルバリ」)と呼ばれる刑場まで、自分が架かる十字架を背負わされることになっていました。成人男子が架かる十字架は大変重いことは容易に想像できます。しかも、イエス様は、長い宣教の旅のお疲れがあった中、逮捕や裁判に際しての疲労が重なり、十字架を途中で背負えない状況になりました。

*主の十字架を背負って従うことになった異邦人シモン

それで、通りがかりのキレネ人シモンが、恐らくローマ兵の命令で、イエス様の十字架を代わりに背負うことになったのでしょう。ルカ福音書では、特に、彼が「主の十字架を代わりに背負い、しかも後ろから従う姿」を描写しています。それは、一番弟子であったペトロと呼ばれたシモンに、本来求められる姿だったのに、彼は、前日にイエス様を知らないと3度否認しました。ユダヤ人シモン・ペトロが主に従えなかった一方、異邦人(キレネ人)シモンが主に従ったという証しとなっています。マルコ福音書に、キレネ人シモンは「アレクサンドロとルフォスの父」とあります(15:21)。それは、初代教会の中で、この兄弟は既に名の知れた信仰者であったことを示しています。キレネ人シモンは、神の選びにより、十字架に向かう主に出会い、理想の信仰者の姿を表す役割を担い、それを契機に、本人と家族は救いの恵みをいただいたと想像できます。

*救い主を殺す大罪を犯す「神の都エルサレム」への裁きについての預言

イエス様の十字架への道について行った多くの人の中でも、嘆き悲しむ婦人達に向かい、27節―31節にはイエス様がおっしゃった御言葉が記録されています。当時は、子供を持つ婦人が幸せで、そうでない婦人は不幸であるという考え方がありましたが、イエス様は、それを覆す出来事が起こると預言されたのです。子供を持つ婦人が不幸になること、それは子供が殺されること、悲惨な目に遭うことです。つまり、神様が派遣された救い主イエス様を殺す「神の民」には、救い主に対して行ったこと、いや、それ以上の悲惨な裁きを神様がせざるを得ないと、イエス様が予見なさり、悲しまれたのです。(実際、これから約40年後に、エルサレムはローマによって徹底的に破壊されるという「ユダヤ戦争」が起こりました。)

*救い主イエス様のとりなしの祈り(34節の[ ]内)

 その後、いよいよ、本当にイエス様は十字架の上に釘打たれることになりました。そこでおっしゃった御言葉(34節の[ ]内)こそ、イエス様が救い主としての姿勢を貫いた御姿を見ることができます。この御言葉は、まずは、御自分を十字架に付けているローマ兵達に向けられたと思われます。彼らは、救い主を殺すことに加担しているとは知らないのですから、イエス様が父なる神様に彼らの罪の赦しを彼らに代わって祈ってくださったのです。何と憐れみ深いのだろうと感謝ですが、その対象は彼らだけでなく、イエス様の十字架刑を主張したユダヤ教指導者達や権力者達、それに追従したエルサレムの民衆までを含み、主は彼らの罪をとりなそうとしてくだっさったと思われます。この、主の「とりなしの祈り」こそ、自己を犠牲にしても、相手の救いや赦しを願う、本当の神様とその御子の憐れみ深い御性質が示されていると私達は思い知るべきです。

*神を恐れ、自分の罪を悔い改め、救い主に素直に近づく

主と同時に十字架刑になる2人の犯罪人の内、一人は、主に対して「自分自身と我々(2人の犯罪人)を救ってみろ」とののしりました(「自分を救え」という主張は、ユダヤ人議員達やローマ兵達も発言していて、この発言で3回目)。一方、もう一人の犯罪人は、イエス様には罪が無いと宣言し、一方、自分には罪があるが、主に自分を思い出してほしいと願いました。神を恐れ、自分の罪を悔い改め、救い主に素直に近づく、という理想の信仰者の姿が示されています。私達信仰者もこの姿勢を貫いて歩めるよう、祈りましょう。

「十字架における主と立ち会った人々」   平賀真理子牧師

2月10日の説教要旨

イザヤ書53:6-12  ルカ福音書23:13-23:25

「罪無き御方への死刑判決」 平賀真理子牧師

*はじめに

私達の主イエス様が、救い主としての主要な定めである「十字架刑(死刑)」を前に3つの階層の人々から裁判(尋問)を受けたことを、前回学びました。1つめの階層であるユダヤ人の指導者達はイエス様を最初から有罪にしようとし、最高権力機関である「最高法院」で、「瀆神罪(神を冒瀆する罪)」を犯したと判決を出しました。しかし、2つめの階層であるシリア総督ピラトと3つめの階層であるガリラヤ地方(イエス様の出身地)の領主ヘロデ・アンティパスは、諸事情からイエス様を有罪とする判決を決して出そうとはしませんでした。

*ローマ帝国の総督ピラトのイエス様に対する「無罪宣言」

 ヘロデ・アンティパスは、自分の前で何も語らないイエス様をローマ帝国の総督ピラトの所に送り返しました。ピラトは、自分にとって、面倒な判決をとうとう自分が出さなければならないと悟ったのでしょう。ピラトは、ユダヤ人社会のあらゆる階層の人々(宗教上の指導者である祭司長達、政治上の指導者である議員達、民衆)を呼び集めて、「ナザレ人イエスには何の罪も見つからない」と宣言しました。ルカ福音書では、ピラトのイエス様に対する無罪宣言を、ここで3回も繰り返しています。「神の民」であるユダヤ人のあらゆる階層に向かって、神を知らないはずの異邦人の権力者ピラトが「イエス様は罪が無い」と宣言したのです!

*3度の無罪宣言の理由

 3度の無罪宣言をルカ福音書はなぜ記述したのか?2つの理由に思い至りました。一つは、ルカ福音書記者の篤い信仰心が溢れ出ているからと言えるでしょう。イエス様に対して「十字架」という死刑になったけれども、御自分には決して罪は無く、頑なに神を拒む人間達の罪を肩代わりなさった御方であると証ししたいという信仰の表れだと感じられます。

もう一つの理由は、3度という数字から思い浮かぶものです。それは、この直前に起こった「ペトロのイエス様の3度の否認」と対比させて、ルカ福音書はイエス様の無罪を強調しようとしていたからということです。イエス様に愛され、教え導かれた一番弟子ペトロが、死への恐怖などからイエス様の仲間であることを否定するために、「イエス様を知らない」と言ってしまったのです。ユダヤ人の中でも一番イエス様に恩義のあるペトロさえ、サタンの試みを受け、イエス様を否定したわけです。一方、ピラトはローマ皇帝という人間を神と崇めることに抵抗のない異邦人でありながら、イエス様の無罪を宣言する役割を果たしています。更に深読みするならば、ルカ福音書は、この後、ユダヤ人よりも異邦人の方に、イエス様の福音が広まっていくのを暗示しようとしたのかもしれません。それにしても、神様を知っているはずのユダヤ人はイエス様を否定し、本当の神様の存在を知らない異邦人が「神からのメシアであるイエス様は罪が無い」という真実を宣言する役割を果たした、これは、実に不思議な現象です。

*神の御前の真理を悟りながら、従い得ない人間の罪から来る悲劇

さて、もう一つ、不思議な現象が起こります。それは、権力者ピラトが3度も無罪宣言したイエス様が結局は有罪判決を受けて十字架刑に処せられ、暴動と殺人という大罪を犯したバラバという罪人が釈放される結果になったことです。本当にありえないことです。(まさしく、サタンが働いたとしか言いようがないでしょう。)このねじれ現象の直接の原因は、ピラトがユダヤ人達の「イエスを十字架につけろ」という要求に圧倒されたからです。支配国の権力者が被支配民の要求に屈する理由は、お役人ゆえの事なかれ主義(領地でもめ事を起こさないこと)か、ユダヤ人に握られていた弱みか、推測の域を出ません。とにかく、イエス様を無罪と宣言したピラトは皇帝や領民からの評価を得たいという欲望に負けました。イエス様を十字架へ扇動したユダヤ人指導者達もピラトも、神様の御前における真理追求を第一とせず、人間(多勢の民衆や皇帝等の権力者)の要求を第一としてしまいました。実は、私達もその罪に陥る危険があります。本当の神様、主から啓示される真理を第一とできるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

1月20日の説教要旨 「あなたも神の愛の中にいる」 遠藤尚幸先生 (東北学院中・高 聖書科教諭)

イザヤ書40:1-11 マタイ福音書18:21-35

 

*ペトロの問い

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

今朝、私たちに与えられた聖書の言葉には、そのようにありました。主イエスの一番弟子のペトロが、主イエスに対して、問いかけています。彼はなぜ、突然このような問いを投げかけたのでしょうか。それは、直前の箇所と関係があります。今朝お読みしました箇所の一つ前、私たちが読んでいる新共同訳の聖書では、「兄弟の忠告」とタイトルがつけられている箇所です。実はこの18章全体は、主イエスに結ばれた共同体であるキリスト教会の交わりについて書かれている、一つのまとまった箇所です。18:1では弟子たちが、だれが天の国でいちばん偉いのか議論しています。すると、主イエスが弟子たちに語り始めた、という文脈にある箇所です。主イエスは弟子たちに、あなたがたの共同体は、「小さな者」を受け入れる共同体であるということを語っていきます。第一に子供を受け入れること(18:5)、そして、教会に来る者たちをつまずかせないこと(18:6)。そして、教会から迷い出る者を、きちんと自分の群れに受け入れていくこと(18:14)。主イエスは、私たち教会の群れのあり方を、一つ一つ丁寧に教えてくださっています。そして、18:15にさしかかると、私たち教会の中で一番議論されるかもしれない事柄へと話を移していくのです。それは、18:15にある通り「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という事柄です。子供を受け入れること、つまずかせないこと、迷い出た者を探し出すこと、これらは、特に私たち自身に何か具体的な危害が与えられるということは語られていません。しかし、どの話も背後には、あなたがた教会は、あなたがた自身に罪を犯す者をどうするのか、このことによく注意しなければならない、ということが語られていたのです。もちろん、話し合い、和解できることが一番良いはずです。しかし、私たちの生活の中で、実はそのことが、大変よくあることでありながら、なかなか解決し難い課題ではないかと感じます。「自分に罪を犯す者を赦す」。言葉にすれば短いものですが、いざ自分がその現実に向き合うときに、驚くほど困難を覚える。私たちにも、そういう人物が一人や二人いるのではないでしょうか。手を伸ばし、本当は和解すべきだと分かっている。しかし、それをすることができないのが私たちです。主イエスは単に教会とはこうあるべきだということをこの18章で語っているだけではないことが分かります。主イエスはこれらの話を通して、私たちの最も深いところにある悩みに、触れてくださっている。私たちは主イエスの投げかける問いの前に立たされながら、主の御声によって、「赦す」とはどういうことか、その問いに立たされているのです。

 

*ペトロの答え

私たちと同じように、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という問いに、このペトロという人も立たされています。ペトロはその問いに、こんなふうに答えています。もう一度21節をお読みます。

「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

彼は決して、赦すべき回数を聞いているわけではないことは明らかです。なぜなら彼は、この18章の一つ一つの言葉を聴きながら、教会は自分に罪を犯す者をきちんとその群れに受け入れなければならない、ということを聞いているからです。その彼が、赦しを「七回」と限定するはずはありません。実は、この「七」という数字は、ユダヤにおいては、たとえば、祭司が罪の赦しの儀式をするときに、イスラエルの人々の汚れを聖別するため、祭壇に血を振りまく回数として出てきます(レビ記16:19)。つまり、それは特別な意味を持った数字であり、「どこまでも赦す」という意味を持つ数字です。

 

*主イエスの答え

主イエスは、ペトロに対してこう答えました。

「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」

「七の七十倍赦しなさい」。これが主イエスの答えです。先ほどの「七」という数字が持つ特別な意味を考えるならば、これは「490回赦せばそれでよい」と言っているわけではないことが分かります。「どこまでも、計り知れないほど、永遠に赦し続けなさい」。これが主イエスの答えです。ペトロの答えが、私たち教会を代表する声であるなら、主イエスの声は、まさに、私たち人間の想いを超えたところにある神様の声そのものです。「どこまでも、計り知れないほど、永遠に赦し続けなさい」。そして主イエスは、その言葉に続くように、23節以下のたとえ話を話し始めました。それはこういう話です。

 

王と家来

あるところに王様がいました。王様は、自分が家来たちに貸したお金の決済をしようとしています。王が決済をし始めると、そこに一人の家来がやってきました。この家来は「一万タラントン借金をしている」と紹介されています。一万タラントンとは、聞きなれない金額です。現在の金額にしてだいたい10億〜1兆円くらいだと考えられています。普通の人間が、一生かかっても使いきれないほどの金額をこの家来は王様から借りていました。実はこのたとえは、聞いている人にしてみれば、現実離れし、かなり異様なたとえです。しかし、この莫大な金額の意味が続く話の展開で明らかになっていきます。この家来は、到底この金額を返済できるはずはありません。それで、王様から「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」命じられました。この家来は26節で「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と願います。すると、その王様は、この家来を憐れに思い、彼を赦し、その借金を帳消しにします。主イエスがどうして、こんな現実離れした金額のたとえ話をしたのか。それは、今、主イエスの言葉を聴き、罪の赦しに歩みだそうとするペトロに対して、その前に、まずあなたがたが与えられているものがどれほど大きいのか、そのことに目を留めることこそ大切なことなのだということを教えたかったからです。

 

*王と家来とは

このたとえに出て来る王様は神様です。そして、この借金を帳消しにされた家来が、私たちです。神様は、何よりも、この私たちの負債を赦してくださっている。それは、この莫大な借金が表す通り、私たちの途方も無い罪の現実を赦してくださっているということです。これは主イエスの宣言です。「あなたの罪は赦される」と、主イエスはここでペトロに向かって語ってくださっている。私は、主イエスがここでペトロに向かって罪の赦しを語ってくださっていることに、後にペトロが犯す、主イエスに対する裏切り、不信仰な姿を憶えずにはいられません。主イエスは彼が、これからの歩みの中で、ご自身に背いていく。そのあなたの罪を赦すために、そのために、私はあなたの傍らにきたのだと、宣言されているのです。

 

*王が損失を被る

どうしてそんなことが言えるのか。それは、この王様の姿に現れています。王様は、確かにこの家来の借金を帳消しにしました。家来の方からしてみれば、それは突如訪れた幸運です。しかし、王様にしてみればどうでしょうか。王様は借金を帳消しにしたところで、その損失はゼロになったわけではありません。ですから、このたとえの本質は、実は、この家来の借金を、王が代わりに背負ってくださったというところにあると言えます。神様の私たちを愛する愛。それは私たちの方から見れば、徹底して無償の愛です。しかし、神様の方には大いなる痛みがある。ペトロの弱さ、不信仰、私たちの弱さ、不信仰は、その身代わりとなった存在によって、担われ、そして赦されているということです。ではその私たちの計り知れない罪を、私たちの代わりに背負ってくださったのは誰か。それが主イエス・キリストです。主イエスこそ、罪人であった私たちの身代わりとなって、その罪を一身に受けてくださったお方です。この方が、真の神でありながら、罪人としてあの十字架につけられていくのです。キリストの十字架は、痛みと悲しみに満ちています。主イエスは、祭司長、律法学者たちに苦しめられ、引き渡され、鞭打たれ、そしてユダヤの人々、弟子たち、私たちすべての人間に見捨てられ、遂には「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、十字架でその命を捨てました。主イエスの十字架は、実は、本来、私たち自身が受けるべき十字架であったのです。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙2:19-20でこう語っています。

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」

あの2000年前に起こった十字架の出来事によって、私たちの自身の罪の赦しが成し遂げられました。そして、キリストが罪を背負い死ぬことによって、その代わりに、私たち一人一人が、全き神の子として生きることができるようになりました。私たちはもはや、罪という奴隷の軛につながれているわけではない。神様の豊かな、そして大いなる恵みの中で、神の子となる資格をあたえられているのです。主イエスはここで、その恵みをも先取りしてペトロに語っています。だから、「この大いなる恵みを受けた者として、当然、同じように、他者を赦すことがあなたはできるはずだ。安心して行きなさい」。主イエスはペトロにそう語っています。主イエスはこのようにして「七回までですか」と他者を赦すために歩み出そうとするペトロを励まし、また私たち教会の歩みをも励まし、この世へと遣わそうとしているのです。

 

*赦すことができない私たち

しかし、このたとえの後半にあるように、話はそう簡単にいかない現実があります。この莫大な借金を赦してもらった家来は、その足で、自分に借金をしていた仲間の首を絞め、しまいには牢に入れてしまいます。赦された者が、他者を赦すことができない姿が描かれます。私たちもまた、この家来が犯してしまうような、他者を赦すことができない経験を何度もします。私たち神様の恵みによって罪赦された者の歩みは、すぐには、他者を赦すことができるか問われれば、それはいつまでも未完成だと言わざるを得ません。しかし、このたとえを通して、私たちは、やはり、自分たちの行い、それはどこか不自然なことであるのだ、ということに気づくことはできます。キリストの十字架の恵みを受けている者として、この感覚は大変大切な感覚です。他者を赦せないとき、私たちはキリストの恵みを思い起こさずにはいられません。何度も自分たちに罪を犯す者に出会う時、その者を赦すことができない時、キリストがあの重い十字架をたった一人で背負い歩まれた姿を思い起こさずにはいられません。終わりの日、キリストが再び帰ってくるときに、私たちは堂々と胸を張って神様の御前に立てるのか。それは依然として、私たちが判断することができない、神様の御手に中にある事柄です。しかし、分かっていることがあります。終わりの日、帰ってくるこのキリストこそ、私たち一人一人を命がけで愛してくださった方であるということです。どこまでも神様に、そして隣人に罪を犯しつづける私たちをなお、神様はそのままで見捨てておかれないということです。ここにこそ、私たち教会が立つべき場所があります。キリストの恵みこそ、私たちはいつでも心に刻み、何度でも、自らのあり方を問い続けるべきであるのです。あなたの罪は赦される。神様は今日私たちを無下に放っておくということはいたしません。私たちの傍らにいて、いつも私たち一人一人の手を取り歩んでくださっている。私たちの神は、神我らと共にあり、インマヌエルの神様なのです(マタイ1:23)。神様は、私たちに必ず、他者との和解という恵みをお与えくださる。和解こそ、私たちがこの地上で与えられる、何物にも変えがたい喜び、神様からのプレゼントです。私たち一人一人も、その恵みにあずかる日を期待しつつ、生きることができる。人生とは、神と和解させられた者たちが、他者との和解の喜びに生きることができる、恵みに満ちた時間なのです。私たちは、この喜ばしい和解の福音を一人でも多くの人に届けたいと願います。あなたの罪は、主イエス・キリストの十字架によって担われ、赦されている。あなたは必ず、他者との和解に生きることができる。主イエスが今日も私たちと共にいてくださる。あなたも神の愛の中にあるのです。

1月13日の説教要旨 「約束を守ってくださる神様」 平賀真理子牧師

イザヤ書11:1-5 マタイ福音書2:13-23

 

*はじめに

イエス様が、異邦人に初めて公けに現れてくださった出来事(マタイ福音書2章1-12節)を先週は話しましたが、今日はその続きの箇所です。神様は、ユダヤ人との約束を御言葉で明示し、それを必ず守って、救い主をお送りくださったことが、3つの預言からわかります。

 

*人間の計画ではなく、神様の御計画のみが実現する!

今日の新約聖書の箇所の直前に、異邦人である「東方の占星術の学者達」に夢でお告げが与えられて、彼らはヘロデ王の所には寄らずに、自国へ帰って行ったことが書かれています。「本当のユダヤ人の王」を見つけたら、自分の所へ寄って、報告しなさい」というヘロデ王の命令よりも、夢のお告げを彼らは重んじました。そのようにして、神様は、御自分を知っていながら御言葉を信じない者達(ヘロデ王及びユダヤ教指導者達)ではなく、異邦人に最初に救い主を礼拝させるという御計画を実現なさいました。一方、ヘロデ王を代表とする人間達の計画、救い主を殺してしまう計画は、最初の段階でつまずきました。

 

*残忍で執拗なヘロデから逃れるために、夢でお告げを授けた神様

しかし、東方の占星術の学者達が自分の命令を無視しただけで、自分の地位を脅かす幼子を殺害することを諦めるようなヘロデではありません。だから、神様は、イエス様のこの世での父親であるヨセフに、またもや夢でお告げを授けました。「家族を連れてエジプトへ逃げよ」と。

 

*エジプトに関係する、ユダヤ人のリーダー「モーセ」

神様によって、一度はエジプトへ退いた人物が、そこから導き出されるというストーリーを持ったリーダーと言えば、ユダヤ人は、すぐに「モーセ」を思い起こします。モーセは、エジプトで苦しめられていたユダヤ民族を脱出させるために、神様が用意なさったリーダーです。マタイ福音書の主な読者として想定されたユダヤ人達にとって、モーセこそ、神様が自分達に授けるという約束した救い主のイメージでした。

 

*預言①「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」

15節の聖句「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」は、預言者ホセアの預言(ホセア書11章1節)から引用されていますが、これは、幼子イエス様がモーセと同じであることを証ししようとしているのです。ユダヤ人なら、モーセがそういう歩みをしたことを知っており、ここに書かれた幼子イエス様が同じ運命であれば、イエス様はモーセと同じように神様がくださるリーダーだと連想できるのです。更に、15節後半の「預言者を通して言われていたことが実現する」という、神様への絶対の信頼が、ユダヤ人達にはあるということを、大前提として、この箇所は理解する必要があります。

 

*預言②「ラケルが嘆き悲しむ」という内容の預言

ヘロデ王は、ユダヤ人の王となる幼子を特定できなかったので、ベツレヘム地方の2歳以下の男の子を殺させました。このことは、ユダヤ人にとって大変な悲しみとなりました。だから、ユダヤ民族の母ともいえるラケルという女性が草場の陰から泣いているということを表現しようとして、エレミヤの預言(エレミヤ31:15)を引用しました。更に、深く読むと、救い主の御降誕という神様の喜びの出来事が、人間の罪によって悲しみに変えられたと読めます。後々の主の定めにも、殺害されるという悲しみ(十字架)が潜んでいると暗示されているようにも思えます。

 

*預言③「彼はナザレの人と呼ばれる」

ヘロデ王は紀元前4年に死に、彼の相続者である息子3人のうち、一番ひどい人物が「アルケラオ」で、彼が治めるユダヤ地方を避け、彼よりはましだと言われたヘロデ・アンティパスが治めるガリラヤ地方、その中の「ナザレ」に、イエス様は住むように神様は導かれました。イエス様が生前「ナザレ人イエス」と呼ばれたのは、23節「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言の実現だと証しされているのですが、実は、文字どおりに書かれている預言は聖書にはどこにもなく、「ナザレ」という音がイザヤ書11章1節の「若枝」という言葉「ナーツァレ」に似ているので、ここからの引用だろうと言われています。今日の箇所で「イエス様は預言どおりの救い主だ」と預言を重ねて証しされており、その根底には、私達の信じる神様は、人間との約束を必ず守る御方という絶対的な信頼があります。

1月6日の説教要旨 「主を礼拝する人々」 平賀真理子牧師

イザヤ書60:14-16 マタイ福音書2:1-12

 

*はじめに

 今日は2019年に入って初めての聖日礼拝であり、しかも、1月6日という特別なお祝いの日と重なりました。教会暦では1月6日は公現日といって、異邦人にイエス様の救いが初めて現れた日として、月日が固定されたお祝いの日です。異邦人に初めて救い主イエス様が御姿を現したと記しているのが今日の新約聖書箇所です。(マタイ2:1-12)

 

*聖書における「異邦人」

聖書では、本当の神様は、御自分の民として、アブラハムの子孫であるユダヤ人達を選んだと記しています。従って。ユダヤ人達は、自分達を「神の民」または「神様から神の言葉である律法をいただいた民」と自負していました(これは選民思想と言われます)。一方、それ以外の民族の人々を「異邦人」と呼んで、自分達と区別した上で、神様から選ばれなかった人々として蔑んでいました。

 

*異邦人から救い主誕生の知らせを受けたユダヤ人

今日の箇所に出てくる「占星術の学者達」は、もちろんユダヤ人ではありません。東方から来たとあります。東方とは、恐らくペルシャ、今のイラン辺りと言われています。ペルシャには、その昔、新バビロニア帝国があり、この「異邦人の国」の首都バビロンに、かつてユダヤ人達は不本意にも捕虜となって連れてこられました。ユダヤ人達は、これは、自分達の不信仰が招いた結果だと考えました。この「バビロン捕囚」は約50年間続き、ユダヤ人達は、この出来事を負の歴史と考えています。しかし、神様はこの出来事をも意味あるものに変えてくださいました。その一つが、ユダヤ人達の思想=「救い主が人間として生まれる」という考えが、バビロンにも広まっていたことです。そして、イエス様がお生まれになった頃、この地域一帯で「救い主御誕生」を期待する気運がより一層広まっていたそうです。

また、この「占星術の学者達」は、神様が造られた自然における法則を熟知しており、通常とは違う動きをする星を見つけ、そして、ユダヤ人達から聞いていた話を関連付け、「救い主誕生」と確信したのでしょう。

 

*ヘロデ大王とユダヤ人の学者達の反応

イエス様がお生まれになった頃、エルサレムを治めていたのが、ヘロデ大王です。彼自身はユダヤ人と南隣りのイドマヤ人の混血であったために、統治している生粋のユダヤ人達からは蔑まれていました。おまけに、この地方を治める権威を「異邦人の国ローマ帝国」から策略によって保障されていたのでした。ですから、ユダヤ人達が長い間待望していた「ユダヤ人の王」が生まれることは、彼自身が王位を奪われることとなり、彼は長年これを恐れてきました。とうとう、東方から来た学者達がそのような情報を持って来ました。ヘロデは自己保身のために、彼らを手先として利用し、後々、本当のユダヤ人の王である幼子を殺そうとしました。彼だけでなく、ユダヤ人学者達やユダヤ教の宗教指導者達さえ、「救い主はベツレヘムに生まれるという預言があります」と口先で冷たく答えるだけでした。彼らこそ、本来は「救い主御誕生」の知らせに喜んで救い主の許へ馳せ参じるべきだったのに、そうしていないようです。彼らは、神様のもう一つの御言葉である預言を信頼していなかったのか、もしくは、蔑んでいた異邦人から「救い主誕生」という情報を得るという現実を、プライドが邪魔して容認できなかったのか、でしょう。

 

*救い主に対する「異邦人の初めての礼拝」から示されたこと

人間の様々な思惑の中で、しかし、神様は御自分の御心を確実に実現なさいました。異邦人の学者達を導いた星を消さずに、その星によって彼らが救い主の所にたどり着くよう導かれました。何と、異邦人達が先に、幼子イエス様を「本当のユダヤ人の王」として見つけ、喜びに溢れたのです!その彼らが初めにしたのは、イエス様にひれ伏して拝み、宝物を献げたことです。これは、同じく異邦人である私達の礼拝の初めの形と言えるでしょう。救い主に出会うことは、それ以前の自分を捨て、神様の御前に身を投げ出すことです。私達の礼拝は形式上、そうはしませんが、心の内ではそのような姿勢で臨むべきだと思います。また、彼らは宝物を献げたことも肝に銘じるべきです。自らと自らの持ち物すべてを主に喜んで献げることが、本当の礼拝だと示されているからです。

12月30日の説教要旨 「聖霊に導かれた人々」 平賀真理子牧師

イザヤ書57:14-19   ルカ福音書2:22-38

 *はじめに

 私達の救い主イエス様の御降誕について、今年のアドベント・クリスマスの時期は、ルカによる福音書を読んできました。今日は、そのシリーズの最後です。ルカ福音書1章から2章21節までで、「救い主御降誕」は、この世の人間を本当の意味で救うために、人間を愛してやまない神様が準備なさって実現したものであること、また、それを人間に知らせるために「天使の御告げ」があったと語られていると読み取れます。(「天使の御告げ」は、本当の神様が天使に託した御言葉です。)ところが、今日の箇所以後、暫時、ルカ福音書では、天使の御告げや活動は語られませんし、今日の箇所では、それまでの「天使」ではなく、「聖霊に導かれた人々」が救い主御降誕について語るように用いられています。

 

 *エルサレム神殿で「聖なる者」とされたイエス様

ルカ福音書2章21節―24節では、救い主のこの世での両親に選ばれたヨセフとマリアが、ユダヤ教の律法に従い、イエス様に割礼を施し、命名し、神殿に献げ物をしに来たことが記されています。このような信仰深い家庭を築く心根を持った夫婦に、神様が御子を託したと言えるのではないでしょうか。

また、この箇所で重要なことは、イエス様が、ユダヤ教の総本山であるエルサレム神殿で「聖なる者」とされたことです。イエス様は神の御子ですから、神様の御座所である「天」では勿論「聖なる御方」です。そこから降りて来てくださった「この世」でも、生まれてすぐに「聖なる者」にされたことを、私達は喜びたいものです。

 

 *聖霊に導かれたシメオンが「救い主」に出会う!

2章25節では、神様の前に義とされる生活をしていて、信仰があつい、シメオンという人が「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」とあります。これは「イスラエル民族に救い主が生まれることを切望していた」という決まり文句です。そして、このシメオンには、聖霊がとどまっていたのですから、最強の信仰者と言えるでしょう。

 

 *「聖霊」の働き

「聖霊」に導かれると、人間はどうなるのか?25節―27節で、はっきり示されています。まず、25節でわかることは、聖霊は人間を信仰生活に導く働きをすることです。人間が神様の恵みを受けるのにふさわしいように教育するわけです。次に、26節では、聖霊は信仰者に神様の約束を確信させているとわかります。それに加えて、27節では、聖霊は信仰者を神様の約束どおり「救い主」に出会えるように導いているとわかります。このようにして、聖霊に導かれたシメオンは、神の御子イエス様がエルサレム神殿で「聖なる者」とされる瞬間に立ち会えて、最大の願望であった「救い主に出会う」以上の恵みを得ました。つまり、「救い主」を自分の腕の中に抱くという最高の恵みをいただいたのです。

 

 *聖霊に導かれたシメオンは、天使の御告げ以上のことを語る!

キリスト教界で「シメオンの賛歌」(ルカ2:29-32)と言われる箇所で、実は、天使の御告げ以上のことが言われています。この幼子イエス様はイスラエルの民が願ってきた「イスラエル民族の救い主」以上の存在になるということです。聖霊に導かれた人間シメオンの口を通して発せられた「賛歌」で、救い主イエス様は、「異邦人(ユダヤ人でない、世界中の人々)」をも照らすと謳われ、そのような救い主が生まれたことで、イスラエル民族は「誉れ」とされることがはっきり示されています(32節)。

 

 *喜ばしい「救い主御降誕」を受け止めきれない「この世の人間達」

しかし、同時に、シメオンは、人間がこの喜ばしい出来事を正しく受け止めきれないと預言します(34-35節)。神様が人間を愛する故に実現なさったことを、悲劇に変えてしまうほど、人間の罪は重いのです!

 

 *女預言者アンナも聖霊に導かれて、救い主の証しに用いられる!

36節-38節の「アンナ」は、当時の社会では弱い立場のやもめですが、神の恵みによって聖霊をいただき、神様の御言葉を受ける預言者とされ、救い主イエス様に出会い、主を証しする御業に用いられています。

 

 *私達も聖霊に導かれて、イエス様に出会う恵みを賜っている!

シメオンとアンナは、聖霊に導かれてイエス様に出会いました。イエス様と既に出会っている私達も、実は「聖霊に導かれた人々」です!

 

12月23日の説教要旨 「この世に来られた救い主」 平賀真理子牧師

イザヤ書9:1-6  ルカ福音書2:1-21

 *はじめに

 私達の救い主イエス様について、お生まれになった経緯を具体的に記録しているのは、4つの福音書のうち、マタイによる福音書とルカによる福音書です。そのうち、ルカによる福音書だけが「人間世界の記録」を意識していると言えます。というのは、イエス様がお生まれになった時を、当時のローマ帝国のアウグストゥスという皇帝の治世の時と明記しているからです。更に限定された時と地域が示されます。ローマ帝国の役人「キリニウス」がシリア州の総督だった時と記されています。このように、ルカ福音書では、人間世界の記録で重要な「時と場所」を意識して表記しています。イエス様が本当に「この世に来られた御方」であることを伝えようとしていると読み取れます。

 

 *「救い主についての3つの預言」がすべて実現

この福音書の1章では「天使のお告げ」等があって、幾分「物語」のようでもありますが。2章に入ると、上記の理由で、俄然、この世に本当に起こった出来事、つまり、事実の記録の度合いが高まります。そして、イエス様のこの世における父親役を引き受けるヨセフに焦点が当てられます。イエス様の母に選ばれたマリアの婚約者であるヨセフは、まず、ガリラヤに住んでいながら、しかし、ローマ皇帝の命令によって、先祖であるダビデ王の町ベツレヘムへ一時的に出かけるように設定されなければならなかったのです。というのは、「救い主」についての3つの預言を実現させる必要があったのです。一つは、ダビデ王の預言者だった「ナタン」を通しての預言「ダビデ王の子孫から救い主は生まれる」(歴代誌上17章)ということがイスラエルの人々によく知られていたのです。二つ目は、今日の旧約聖書イザヤ書9章の直前の1行に記されている「異邦人のガリラヤが栄光を受ける」という預言です(ガリラヤはイエス様の育った土地、所謂「故郷」)。三つ目は、ミカ書5章1節にある預言「ベツレヘムからイスラエルを治める者が出る」という内容です。神様は、イスラエルの民に告げた、一見内容の異なる3つの預言を、このように人知を超える形で、実現してくださったのです!ダビデ王の子孫でガリラヤに住むヨセフに、身重の婚約者を伴う旅をさせ(皇帝の命令には逆らえない!)、旅先のベツレヘムで「救い主」として御自分の独り子をこの世に誕生させるように、神様がなさったのです。

 

 *「神様をお迎えする場所を用意しているのか」という問い

神様がイスラエルの人々への預言をこのように守ってくださっているのに、それを受ける側の人間達はどうだったかと言えば、イエス様が待望の救い主だとわからず、最初の時から、救い主の場所は用意されていなかったわけです。7節「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあります。これは、当時の状況を述べているだけではなく、私達も、この世の出来事でいっぱいいっぱいになって、神様のおられる場所を、心の中に確かに開けているかどうかを問われていると受け止めるべきです。

 

 *天からのお告げを受けて信じる者のみ「救い主」を礼拝できる!

ただ、7節までに記された人々は、救い主がこの世に生まれたことを知らされていなかったようですから、そのような態度となったことも仕方なかったのかもしれません。一方、それとは対照的に、8節からは「救い主御降誕」を天使によって知らされた「羊飼いたち」の様子が記されています。羊飼い達は、当時のユダヤ教では、仕事柄、礼拝を守れないダメな人々、「神様の恵みを受ける資格のない人々」とされていました。けれども、人間の基準で低く見られていた彼らに、神様からの大事な知らせ「救い主御降誕」が最初に告げられました。彼らは、天使の言葉(即ち、父なる神様から託された御言葉)を受け入れ、信じ、その内容を確かめに闇夜の中で歩み始めました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」というしるしを目当てに、イエス様を探し当てて拝み、この重要な知らせをくださった神様を賛美する恵みを最初にいただきました。キリスト教では、イエス様は「神様の御言葉としての存在」と申します。神様の御言葉であるイエス様を中心に、天使のお告げを受けたヨセフとマリアと羊飼い達が礼拝するという信仰の形が、既にできていたのです!ここに、私達プロテスタント教会が大事にしている信仰、つまり、御言葉をいただいて礼拝する信仰が示されているのです!