1月21日の説教要旨 「新しい救いの恵み」 牧師 平賀真理子

イザヤ書66:18-23 ルカ福音書17:11-19

はじめに

今日の新約聖書箇所の冒頭で、イエス様がエルサレムを目指して旅を続けておられることを私達は再び想起させられます。思えば、ルカ福音書9章51節からの段落で、イエス様は御自身で天に上げられる時期が近づいたと悟られ、エルサレムへ向かったと書かれています。また、13章33節では、神様の使命を受けた預言者として、イエス様は聖なる都エルサレムで死ぬ定めだと示されています(「主の十字架」)。救おうとするユダヤ人達により、その救いが理解されずに殺される定めです。それは神様の御計画で、その為にこの世に来られたイエス様は、その過酷で孤独な道を従順にたどっていかなければなりませんでした。

重い皮膚病を患っていたユダヤ人とサマリア人が協力し合う

今回の箇所では、ユダヤ人とサマリア人という民族同士としては仲の悪いはずの10人が、重い皮膚病にかかっていたために共に暮らしており、大変な癒しの力があると噂されるイエス様から癒しを受けるべく、呼び止めようと協力し合っています。更に、イエス様に近寄りたい気持ちを抑えつつ、律法に則って距離を取りながら「この病いを癒してください」と願っていたわけです。人の心に何があるかを見抜かれるイエス様は彼らの苦しみを理解し、すぐに救ってあげたいと思われたのでしょう。この後すぐに彼らの身の上に癒しが起こるとわかっておられた上で、彼らに「祭司に体を見せなさい」とお命じになり、実際に彼らはその途上で重い皮膚病から癒されました!

癒された10人の内、サマリア人1人だけが戻ってきた

この癒しを受けた10人の内、癒してくださったイエス様に感謝を献げるために戻ってきたのは1人で、それがサマリア人だったことをルカ福音書は重要視しました。ユダヤ教の中で神の民とされたユダヤ人達が「汚れている」と蔑んだサマリア人、しかも、そんなサマリア人の中でも更に「汚れている」とされた重い皮膚病の人が戻ってきて、癒しの源であるイエス様に感謝を献げたのです。実は、イエス様は御自分はユダヤ人の救い主として遣わされたと自覚されていたようですが、福音宣教の旅でイエス様からの救いを求める異邦人と度々出会うことにより、ユダヤ人か異邦人かは問題ではなく、御自分を救い主として受け入れるかが重要だという思いを深められたのではないかと想像します。

「立ち上がって、行きなさい」(19節)

イエス様の憐れみを受けて救われることのすばらしさを理解し、イエス様を救い主と受け入れ、その恵みに感謝を表そうとひれ伏した、このサマリア人に対して、イエス様は「立ち上がって、行きなさい」という御言葉をかけてくださいました。「立ち上がって」という言葉は、元々の言葉では「よみがえる」という意味を持っています。イエス様と出会うまでは死んだようにしか生きられなかった、このサマリア人に、イエス様は「よみがえって、自分の人生の旅を続けるように!」と励ましてくださいました。

「あなたの信仰があなたを救った」(19節)

イエス様は最後に「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃったのですが、このサマリア人を救った直接の源は、イエス様の癒しの力です。聖書で証しされてきた本当の神様は、へりくだりを愛する御方で、決して御自分が癒したと声高く主張される御方ではありません。そんな神様の御力に対して人間ができることは、主の恵みを信じて、感謝して素直に受け入れることです。そうすることで、人間は神様と豊かに交流でき、ますます満たされていきます。実際、この話の中でも10人の人々が救われるほど、主の憐れみに由来する神様の御力は大きかったのに、その恵みに感謝を献げるために戻ってきて癒された上に、更に主から御言葉を賜るという交流に進んだのは、このサマリア人、たった一人です。

「新しい救いの恵み」に感謝を献げましょう!

「神様による人間の救い」は、古い形ではユダヤ人かどうかが問われましたが、新しい形ではイエス様を救い主と信じる信仰が問われます。それは、主の十字架によって自分の罪を肩代わりしていただいたと信じるかどうかです。私達信仰者は、神様の一方的な恵みを受けて「新しい救い」で神の民とされました。その大いなる恵みの素晴らしさを本当に理解しつつ、礼拝等で感謝を献げることを喜べるよう、聖霊の助けを祈り続けましょう。

12月24日の説教要旨 「救い主の御降誕」 牧師 平賀真理子

イザヤ書9:5-6 ルカ福音書2:8-20
*はじめに
クリスマスおめでとうございます。教会のクリスマス礼拝にお越しくださる方々は12月25日が「イエス・キリストの誕生日」とされており、教会ではそれ以前の近い日曜日にクリスマス礼拝を献げるのだと知っておられることと存じます。クリスマスはイエス様のお誕生日が起源なのですが、クリスチャンの少ない日本では、サンタクロースが来る日とだけしか知らない人々もいるようです。是非、本来の意味を知っていただきたいです。
*この世に救い主が実際にお生まれになった!
今日の新約聖書箇所の直前の段落であるルカ福音書2章1-7節には、この世にいよいよイエス様がお生まれになったことが書かれています。待ちに待った救い主誕生ならば、最高の環境で、人々の大歓迎を受けつつ生まれてもよいはずなのに、全く逆の状況であったことが記されています。この世での両親が権力者によって旅を強いられ、その旅先で、しかも、人間の部屋でないところ(聖書には具体的な表記はありませんが、言い伝えによれば「馬小屋」)でお生まれになった上に、幼児用のベッドではなく、家畜のえさを入れる飼い葉桶に寝かされたと書かれています。これは、人間の心が神様を受け入れるスペースを持ちにくいことを暗示しています。
*人間界で低く見られていた羊飼いに、神様は救い主御降誕を知らせた!
人間の状況にかかわりなく、神様の御計画は御心のままに着実に進んでいきます。ルカ福音書1章では、イエス様の先導者として洗礼者ヨハネの誕生も、そして救い主イエス様のご誕生も、神様が主導して起こしてくださった出来事であると示されています。そして、それを素直に受け入れた人物として、この「羊飼いたち」が2章に書かれています。彼らは、職業柄、定期的な礼拝が守れないので、低く見られていました。しかも、労働条件の厳しい割には、それほど収入がたくさんある仕事でもありませんでした。人間社会の中では尊敬されない人々でした。しかし、神様の評価は違います!人間界では一番に恵みをいただくことが決して期待されない羊飼いたちに、神様はまず、御自分が救いの出来事を起こしたことを知らせてくださったのです。「救い主を『ひとりのみどりご・ひとりの男の子』として与える」という預言を実際に実現してくださり、しかも、この羊飼いたちに、そのことを天がどんなに喜んでいるかを見せてくださっています。天使の言葉や天の大軍としての大勢の天使による賛美が、この羊飼いたちをどれほど圧倒したことでしょう。その大きな喜びに押し出されるようにして、羊飼いたちは、その赤ん坊を探し出そうと出かけました。もちろん、イヤイヤではありません。「急いで行って」(16節)という言葉は、元々の言葉では「喜び勇んで」という意味が含まれています。
*「しるし」をたよりに、羊飼いたちは「救い主」を探し当てた!
羊飼いたちは天使の言葉をヒントに「救い主イエス様」を探し当てました。天使の言葉の中で、救い主の「しるし」として「布にくるまって飼い葉桶に寝かされている乳飲み子」であると告げられていました。イエス様は、両親が旅の途中だったので産着の準備もなく、宿屋でもない馬小屋で生まれたので、まさしく、この時、「布にくるまって飼い葉桶に寝かされている」唯一の乳飲み子だったのでしょう。詳細は書いてありませんが、ここには、聖霊の導きがあったのではないかと推測できると思います。神様は選んだ人々には、事前に知らせてくださり、そのとおりのことを実現し、聖霊(神様の霊)によって、彼らを導いてくださる御方だからです。
*神様の出来事を素直に信じられる喜び
羊飼いたちは、天からのお告げが現実になったことを体験しました。彼らの体験した一連の出来事で、神様の出来事は御心のままに確実に進むけれども、人間はただ単に神様の奴隷のように言いなりに働かされるわけではなく、御心に適った人々には、それが神様が主導で起こされる出来事だとわかるようにしてくださること、そして、そのような神様の恵みが自分に降ると素直に信じられる人は、その恵みがわかった後は黙っていられず、話さずにはいられないほどの喜びにあふれることがわかります。
*「神をあがめ、賛美しながら生きる人生」
最終的には羊飼いたちは「帰って行った」(20節)ので、元の持ち場に帰ったわけであり、表面上は彼らは何も変わっていません。けれども、心が変わったのです。この出来事より前には、ただ単に生きていたであろう彼らが、この出来事の後では「自分を・自分の人生を神様が覚えてくださり、神様の出来事に参加させてくださる」ということが実感としてわかり、これ以降の人生において「神をあがめ、賛美する」ように変えられたのです。それが信仰を持つことの醍醐味です。同じ出来事を体験しても、信仰者は、(表面的な幸・不幸にとらわれず)どのような出来事でも神様が共にいてくださることを信じ、「神をあがめ、賛美する」大いなる喜びに導かれていくのです。私達を本当の喜びに導くために、神の御子が「救い主」として、人間の中でも最弱の姿(赤ん坊)となってこの世に降りてきてくださったのです!

12月17日の説教要旨 「ザカリアの預言」 牧師 平賀真理子

イザヤ書40:3-11 ルカ福音書1:67-80
*はじめに
イエス様の御降誕に寄せて、ルカ福音書に記録されている3つの賛歌を学んでいます。今日は2つ目のザカリアの賛歌(聖書の小見出しには「ザカリアの預言」と書かれています)を学んでいきましょう。
*主の御言葉を信じられなかったザカリア
ザカリアは祭司であり、その年、主の神殿の聖所で香をたいている時に、天使の訪問を受けて、主の御言葉をいただくことになりました。
その内容は、不妊の女と言われて老齢になった妻エリサベトが子供を産むということ、そして、その子供は「救い主」の前に来ると預言されていた「先導者」であるということでした。しかし、ザカリアはこれを信じられなかったために、そのことが起こるまで口が利けなくされてしまいました。ザカリアの家庭に子供が授かることは、私的な面でも大きな喜びですが、「救い主の先導者」が生まれるということは、イスラエル民族が待望していた「救い主」誕生が近いということの証しであり、公的にも大きな喜びです。祭司ザカリアはそれを一番に知らされたにもかかわらず、信じられなかったのです。
*主の御言葉を信じなかった人間が許されて聖霊に満たされた!
今日の箇所の直前の段落で、ザカリアに息子が生まれ、先導者として「洗礼者ヨハネ」が本当に生まれたことが書かれています。主の御言葉を信じられず、一時的に罰を受けたザカリアは、主の御計画である子供の誕生の直後に、その罰を許され、聖霊に満たされて、今度は神様を賛美する歌を残す役目を与えられました。ここに、人間の救いの形が表されているように思います。まず、神様の御言葉を人間が信じない罪に陥ります。そして、神様の恵みである才能を制限される罰を受けます。しかし、その間も神様の御計画は着々と進み、不信の人間はその経過を黙って見ているしかできなくなります。その人は、神様の偉大さをしみじみ感じるようにされ、一方、我が身の罪深さを思い知り、悔い改めに導かれるようになります。恐らく、ザカリアもそのような体験をしたと推測することも可能ではないでしょうか。
*ザカリアの預言(賛歌)
神様の恵みによって聖霊に満たされたザカリアの賛歌(預言)も、マリアの賛歌と同じように、神様をほめたたえることから始まっています。そして、イスラエル民族を御自分の民として愛し導いてこられた神様=「主」と呼ばれた神様を賛美しています。この預言は内容から見て、3つの部分に分けられます。
第1部の68節―75節では、ザカリアが祭司として学んできたこと、体験したことが反映されていると見ることができます。マリアの賛歌はマリアの素朴な信仰が表れていますが、ザカリアの預言では、ユダヤ教で教えられている内容で溢れています。神様は人間を通して働いてくださることも多いのですが、用いられる人間の才能を充分に生かしてくださる御方であることも見受けられます。
第2部の76節―78節1行目で、ザカリアの息子「ヨハネ」が、イザヤ書40章やマラキ書3章で預言された「救い主の先導者」=救い主の先を歩んで「主の道」を備える者としての役割を担うことが預言されています。このヨハネは、生まれからして特別で、人々に期待されましが、「いと高き方(神様)の預言者」に過ぎないことを父ザカリアはここで預言しました。(一方、イエス様は「いと高き方の子と言われる(1:32)」と預言されており、二人は明確に区別されています。)
このヨハネの「主の道を備える」役割とは、具体的にどういうことでしょうか。それは、彼自身が人々に「悔い改めにふさわしい実を結べ(3:8)」と述べたことからわかります。これまで当たり前だった自己中心の生き方から、神様の基準(神様がご覧になって喜ばれる生き方)に方向転換するように人々に教え導くという役割です。この神様に心を向ける心の準備ができた人の上に、「救い主」が天から来てくださり、本当の意味で「罪の許し」をなさることができるのです。神様を求める心の上に、神様の恵みが降り注いだ時、その恵みは本当に生かされるのです。準備できていない心の上に神様の恵みが降り注いでも、それは無駄にされ、更には、恨み・つらみ・背きを返すことになります。
第3部の78節2行目―79節では、神様がイスラエル民族になさった救いの約束の最終目的「救い主を遣わすこと」について述べられています。「あけぼのの光」(78節)と比喩された「救い主」が天から来られ、絶望にある人々を照らし、本当の平和へ導くという恵みが明示され、救い主御降誕の希望が謳われています。

12月3日の説教要旨 「主の御降誕の予告」 牧師 平賀真理子

イザヤ書51:4-11 ルカ福音書録1:26-38
*はじめに
今日は、キリスト教会の暦の上では、いわゆる「元日」に値する「歳の初めの日」です。また、私達の仙台南伝道所では、もう一つ記念すべき日です。それは礼拝開始15周年を迎えたということです。この伝道所で礼拝が始まる以前には、その存続を危惧する方々もいたそうですので、人間の予想を越えたこと、つまり、神様が御計画されたことが起こっていると言えると思います。ここで、洗礼を受ける思いを授けられた会員や充実した信仰生活を送っている会員がいること、また、求道者の方々が与えられていること、このことに改めて感謝を献げたいものです。
*「救い主の御降誕」の前に、「洗礼者ヨハネ」を準備された父なる神
さて、今日から「アドベント」「待降節」に入りましたが、主の誕生日とされる12月25日までの期間は、救い主を迎える準備をする時です。今日の新約聖書箇所の一つ前の段落は「洗礼者ヨハネの誕生の予告」について書かれていますが、その中の1章17節では、洗礼者ヨハネは「『準備のできた民』を主のために用意する」者だと天使が告げたと書かれています。神様が救い主イエス様をこの世に送ってくださったことも感謝ですが、その前に、人々が救い主を迎えられるために、その準備をする人物さえも御計画してくださったことに更なる感謝を覚えます。
*御降誕についてのルカによる福音書の特徴
新約聖書では、救い主イエス様の御降誕について、マタイによる福音書とルカによる福音書、この2つに具体的に書かれています。ルカ福音書の特徴として、イエス様だけでなく、その先駆けの「洗礼者ヨハネ」の誕生も、神様の御計画のうちであることが示されていると言えます。
イエス様も洗礼者ヨハネも、主なる神様の御心を、親になる人物に告げられています。洗礼者ヨハネの場合、父親である「祭司ザカリア」に天使ガブリエルが現れます。一方、イエス様の場合は、母親となる「ナザレ町の若い娘マリア」に同じ天使が現れました。ここに、ルカ福音書の特徴が現れています。人間社会で尊重される、男性・身分の高い祭司・年長という要素が揃った「祭司ザカリア」のところではなく、女性・田舎の庶民・若年という、人間社会では軽んじられる要素しかない「マリア」に、神様
は、御自分の御子・愛する人類の救い主を託したのです。これは聖書で証しされてきた神様の特徴と一致します。軽んじられる立場・弱い立場の人間を愛してくだるという特徴です!
*マリアが救い主の母に選ばれた理由
このようなマリアが、「救い主の母」として神様に選ばれたのには、理由があるはずです。たくさんあるのでしょうけれども、今日の箇所から、二つの理由に思い至りました。一つは、マリアがダビデ王の家系の男性ヨセフと婚約していたことです。ダビデ王にナタンという預言者が「あなたの身から出る子孫に跡を継がせる」と神様の預言(サムエル記下7:12)が伝えられていて、それをイスラエルの民全体が知っていたからです。神様が預言を実現される、まさにその時に、神様に導かれて、ダビデ家の男性と婚約していた女性がマリアだったのでしょう。二つ目は、マリアが、思慮深い性格であり、信仰によって物事を肯定的に捉えられる女性だったと思われるところです。29節の天使の祝福の最初の「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」という謎めいた言葉に最初は動揺したものの、その意味を「考え込んだ」とあるからです。この「考え込んだ」という言葉は、元々の言葉では、否定的な意味はなく、「思案を巡らす」です。
*ザカリアの不信とマリアの戸惑い
一つ、気になることがあります。神様の出来事が身に起こった時、通常、人間は驚いて、すぐに信じることは難しいと思われます。実際、ザカリアとマリアも、間髪を入れずに信じるとはならず、両者とも、まず驚いています。ザカリアの方は、天使を見て「不安になり、恐怖の念に襲われた」と1章12節にあります。ここから、ザカリアは祭司なのに、神様の出来事が実現すると100%の思いで信じているわけではないと、不信な思いが透けて見えるように思います。案の定、彼は「主の言葉」を信じなかった罰として、子供の誕生まで口がきけなくされました。一方、マリアの疑いは「戸惑い」と表現され、天使の抽象的な言葉に対して、「どういう意味?」という「信じたい思い」からくる積極的な問いだったと思われます。そのような素直な問いには素直に答えたくなるものです。天使も、マリアの問いに対して答えていき、天使とマリアの間で一問一答のように、会話の形が成立していきます。救い主の母となる人物に対し、その重要な役割を理解してほしいという神様の願いも天使は背負っていたのでしょう。
*「お言葉どおり、この身になりますように。」(38節)
聖書の「神様」は、この世に対し、御自分主導の出来事を起こせる御方であり、救い主を本当にこの世にお送りくださったのです!私達信仰者は、マリアのような素直な信仰によって、主からの出来事を待ち望みましょう。

9月10日の説教要旨 「高ぶる者とへりくだる者」 牧師 平賀真理子

*はじめに
今日の新約聖書箇所は、まず、イエス様が安息日にファリサイ派と呼ばれる人々の有力者の私宅に招かれて病人を癒した出来事が記され、次に、その場での招かれた側と招いた側、各々の立場で垣間見えた人間の問題点をイエス様が指摘して、神の国の民として生きるために、どう
いう姿勢で生きるべきかを教えてくださったことが書かれています。

 

*安息日に病人を癒すこと
「ファリサイ派」の人々は、神様がくださった「律法」を守ることこそ信仰の証しだと教えていました。「律法」は、イスラエル民族の歴史上の指導者モーセが神様からいただいた「十戒」が基になっています。十戒は文字どおり十個の戒めです(出エジプト記20章1節-17節、申命記5章1節-21節)。この中でも、4番目の教え「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」を特に大事な教えとして、ファリサイ派は人々に守るように教えました。旧約聖書の創世記1-2章にありますが、神様は
6日間で天地全てを造ってくださり、次の7日目に「御自分の仕事を離れて、安息なさった」(創世記2:2)ので、人間も神様に倣い、7日目に安息するように教えました。但し、この7日目は、だらだらと休むのではなくて、神様の御業を賛美し、感謝を献げるために礼拝することに集中すべきであり、その集中をそらす労働などが禁止されたのです。「癒し」という医療行為は労働の一種と見なされ、安息日に行うことは、律法違反だとファリサイ派は教えました。
彼らのこの教えの方が間違いだと指摘なさったのがイエス様です。ルカによる福音書によれば、イエス様が安息日に癒しを行ったのは、今回が3回目です(1回目=6:6-11。2回目=13:10-17)。最初の癒しの業の時から、ファリサイ派は、イエス様に対して怒り、イエス様を排除したいと思い始めました。今回も、イエス様が病人を見るように、わざと画策して、彼らが教えている「安息日を守る方法」を、イエス様はやはり守るつもりはないと、再び確かめたかったのかもしれません。

 

*「十戒」「律法」の根底にあるもの
イエス様は神様の御子です。神様が「神の愛」、または「憐れみ」を根底にお持ちで、御自分がお選びになった「神の民」イスラエル民族に「十戒」を授けたことをよくご存じです。「十戒」や「律法」は、神様が人間を愛している証しであって、人間がこれを自分勝手に解釈して、苦しんでいる同胞を救わないでそのままに放っておくことこそ、神様の御心に背くという、重大な背信行為だとご存知でした。だから、イエス様は、安息日であろうがなかろうが、苦しんでいる病人と出会ったならば、その人を憐れんでいる「神様の御心」がわかり、即座に「癒し」を行ってくださったのです。そして、恐らく、イエス様を陥れようと画策したファリサイ派は、逆に、イエス様から自分達の律法適応の矛盾を指摘され、一言も発せられず、また、何もできずに終わらざるを得なかったです。

 

*「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)
更に、イエス様はファリサイ派に代表される「高ぶる」人間の生き方の誤った姿勢を指摘され、「神の国の民」のあるべき理想の姿勢を教えてくださいました。イエス様は「たとえを話され」(7節)、ここで「婚宴」の席での人間の傾向を語っておられます。「婚宴」とは、神の国で神様と人間が親しく心を交わせる状態を例えたものです。まず、8節~11節は「神様に招かれる」神の民ならどうするべきかが書かれています。前の段落にあるようなファリサイ派の人々の現状を観察なさったイエス様は、彼らが自分達こそ神様に高く評価されて、神様に近い上席に案内されるだろうと思っていることを暗に例えています。しかし、本当に神様の御心を知っている「神の民」ならば、自分の働きを高く評価しないで低く評価して、神様から遠い末席に座る性質を持つはずだと教えておられます。
次に、12節~14節で、ファリサイ派のような性質の人が誰かを招く時には、打算を働かせ、自分に高い評価や富をお返しできそうな人だけを招く傾向があることをイエス様は見抜かれました。本当の「神の民」ならば、この世での自分の評価や富を望みにせず、神様からの御褒美である「永遠の命」を望みとするはずだと教えてくださっています。自分で自分の評価を実際以上に高く見積もる(「高ぶる」)人は「神の民」ではなく、へりくだって低く見積もり、全てを神様の御心に任せることのできる人こそ、本当の「神の民」であり、そのようにへりくだる性質の人間を、神様は愛してくださり、神様が高く挙げてくださるのです。

8月13日の説教要旨 「『神の国』の喜び」 牧師 平賀真理子

イザヤ書45:20-25 ルカ福音書13:10-21

*はじめに
今日の新約聖書箇所は3つの段落から成っていますが、特に、一つ目の段落の内容は、単なる奇跡物語だけではないことをお伝えしたいと思います。一つの癒しの出来事を通して、イエス様が示してくださる「神の国」と、「人間」の造る世界の違いが浮き彫りになっています。後者の「人間」とは、イエス様の「反対者」(17節)であり、イエス様が「偽善者たち」(15節)と呼んだ人々で、神様を知っていると言いながら、実は、自分の罪深さにより、神様に背いている者達です。
*安息日とは?
「安息日」とは、ユダヤ教を信じる人々が、安息するように教えられていた、一週間の内の七日目のことです。「安息する」とは、単にだらだらと休むことが目的でなく、神様を賛美することを第一とするために、他に気を取られることを避けるということです。ユダヤ教の中で大事にされる律法の根幹をなすものとして「十戒」という教えがあります。
旧約聖書の中で、2箇所=出エジプト記20章・申命記5章にその教えは書かれています。そこからわかるのですが、週の7日目に安息するのには2つの理由があります。一つは神様の天地創造の御業を賛美するためです。もう一つの理由は、神様が人間を罪から救うためにまず選んだイスラエル民族が大変な苦しみに遭っている時に、神様が様々な働きかけをしてくださって、この民族を苦境から救い出してくださった歴史を思い起こして、神様の救いの御業を賛美するためです。
従って、週の七日目の土曜日にユダヤ教徒は礼拝を献げるのですが、この日には仕事をしてはならないという解釈を指導者側が勝手に作り、「癒し」は、医療行為という「仕事」の一つなのだから、イエス様が安息日に癒しをなさったことに対して、ユダヤ教の指導者達は自分達が大事にしている教えに背いたとして目くじらを立てたのです。
*病の霊に取り憑かれた婦人をすぐに癒された主
18年間も病の霊に取り憑かれていたのに、ユダヤ教指導者達からは存在しないかのように待遇されていた女性に対し、イエス様は出会ってすぐに癒しの手を差し伸べ、「アブラハムの娘」と呼んでくださいました。「アブラハム」とはユダヤ教徒にとって、唯一の神様を信仰し始めた「信仰の祖」として敬愛されている人物です。イエス様はその子孫でもある、この女性=神が選んだ民族の一員である人間が病の霊に取り憑かれていたことに大きな憐れみを禁じえなかったのでしょう。なぜなら、イエス様はこの世に「神の国」を実現するために来られたのですから。イスラエルの民が病の霊に取り憑かれるとは、この世で悪の霊が力を振るう状況を許すことであり、イエス様は神の御子・救い主として、悪の支配を打破する必要がありました。救いを求める人間に目を留め、すぐに働きかけてくださることができる、これが聖書で言われる「神様」の性質の一つです。
*人々を不自由へと束縛する指導者達と、人々を悪から解放して自由にする主
ユダヤ教指導者達は、安息日には仕事を禁じるなら、家畜に水を飲ませる仕事も禁止すべきでした。でも、実際は許されていました。なのに、人々には「安息日」だから、癒しを受けたい場合は別の日にすべきだという指導は、人間を愛して「救いたい」と切望されている神様の御心とは全くかけ離れたもので、人々を不自由にし、悪霊の頭サタンの方へ縛って行っているのです。一方、イエス様がこの婦人に行った癒しは、神の力によって、病の霊から女性を解放し、神様を賛美する方へ導きました。結局、イエス様のお話と御業によって、反対派は皆恥じ入ることとなり、群衆は神様のすばらしい行いを喜ぶこととなったのです。
*「神の国」の喜び
神様の偉大さを益々喜ぶ群衆に対し、イエス様は喜びが大きくなり、「神の国」について、群衆にもっと教えたくなられたようです。神様と人間の本来の関係、互いの交流によって喜びなどの良いもので益々満たされる様子が読み取れます。
そして、「神の国」が広がる様子が2つ目と3つ目の段落の2つの例えに示されています。一つ目は「からし」についてで、とても小さい種が2~3メートル程に成長し、その枝に様々な鳥が巣を作る様子は、福音が世界中に広がり、多くの人々がそこに宿るようになるとの預言であって、実際、2000年の時をかけて、その預言は実現しています。もう一つ、パン種がパン全体に膨らむ例えは、人の心の中に植えられた福音が、その人の心を満たすようになることの例えです。「神の国」は人間を自由にし、神の民は内外で豊かに成長・発展できるのです。

6月18日の説教要旨 「赦してくださる御方」 牧師 平賀真理子

イザヤ書54410 ルカ福音書12812

 はじめに

今日の新約聖書箇所の直前の段落で、イエス様は、人間の目より、悠に重要な「神様の目」を第一に考えるべきだと教えてくださっています。御自身も、父なる神様の御心を成し遂げること(人間に対する救いの御業)を第一として歩まれました。そして、権力はあっても人間に過ぎないファリサイ派などの思惑に左右されることはありませんでした。しかし、同時に、福音がこの世に広まることが神様の御旨であればあるほど、この世の長として人間を利用するサタンの反撃は大変激しくなると予見なさいました。御自分と同じように、弟子達も反対派の反撃を仕掛けられることが、主はお分かりになっていました。権力者や世間が反対する中、神の御子・救い主イエス様の弟子として、自分の立場を公けに発言しなければならない弟子達を、主は事前に励ましておられるのです。

 イエス様の弟子であると公けに信仰告白すること

人々の前でイエス様の弟子であると言う場が与えられて、そのように言えるならば、人の子=イエス様も、その弟子を「神の天使たちの前で」自分の仲間であるとおっしゃいました。そして、逆も真なり、人々の前でイエス様を知らないと言う者は、神の天使たちの前で言われるとおっしゃいました。本当の弟子であるならば、つまり、揺るがぬ信仰を与えられた者は、人の目や人の評価を気にせず、イエス様の弟子であると公けに宣言できるでしょう。そうできれば、人目、つまり、この世を恐れず、本当の救いをくださる神様を第一に生きていることを天地に宣言することになり、神様を喜ばすことができると示されています。

実は、私達はイエス様の弟子であることを、一度は公けに、既に宣言しています。洗礼を受けた時です!まだあります。毎週1回は宣言しています。礼拝で「使徒信条」を高らかに信仰告白しているわけです!しかし、キリスト教の歴史の初めの頃、つまり、直弟子達やそれに続く信仰者達は、命を掛けるような厳しい状況に置かれることを、イエス様はわかっておいでだったと思われます。そのような信仰者達に対して、イエス様御自身や父なる神様、神の天使たちまでが、見守っているから、信仰を告白できるように!と主は励ましておられると思います。

 主を知らないという者は、主に知らないと言われるのか、赦されるのか

それでも、人の子=イエス様を知らないという信仰者もいることを主は御存じでした。そのような者は、神様の御前で知らないと言われるとおっしゃった9節の直後の10節で「人の子の悪口を言う者は皆赦される」と言われました(「悪口を言う」とは、原語ではその関係を否定するという意味があります)。9節と10節では、イエス様への信仰を公けに告白できない者に対し、主が全く逆の対応をなさるとのことです。この流れの中で、何が起こったか、2つ考えられます。

一つは、同じ内容を記したマタイによる福音書と比べてわかることです。今日の段落は、その見出しにあるように、マタイ福音書の10章を中心に3箇所に分かれて書かれています。福音書は、イエス様の直弟子やその次の世代が、主の歩みや御言葉について、後代のために、聖霊に導かれて記録したものです。主の御言葉を弟子達はよく記憶していたとしても、その時の状況については少しずつ記憶が違っていたのかもしれません。ルカによる福音書では、厳しい状況の中、イエス様の弟子であると公言する重要性と、それを乗り超えるためには、聖霊の助けがあるという神様の恵みに焦点をあてて、伝えられていると思われます。

もう一つは、この時に弟子達(特にペトロ)が視界に入り、彼らが御自身との関係を公けに言えないという出来事を、もう既にイエス様はおわかりになっていたのではないかということです。事実、この後、イエス様の裁判の時、ペトロはイエス様の弟子ではないかと人々に問われたのに、その関係を全く否定したことが福音書にあります。信頼に値しないペトロに対し、イエス様は復活された後、彼を赦し、御自身の方から会いに来られ、神様の霊=聖霊を送ってくださいました(使徒言行録2章)。聖霊を受けたペトロは、別人のように変えられ、「人間が十字架で殺したイエス様を、神様が救い主となさった」と証しし、主の復活の証人であると公言して、厳しい状況の中、福音伝道のために、力強く、喜んで働きました。聖霊を受けた者は全く変えられ、神様の御用のために豊かに用いられます。この世に来てくださり、人の心を見抜く御方であるイエス様だからこそ、御自身への信仰告白を望んでおられても、告白できない人間の弱さを知っておられ、赦してくださり、父なる神様に執り成して聖霊をくださる御方なのです!

6月11日の説教要旨 「畏れるべき御方」 牧師 平賀真理子

イザヤ書51714 ルカ福音書1217

 はじめに

教会暦では、聖霊降臨節に入りました。3月1日からの受難節に入る前に読み進めていたルカによる福音書を再び学んでいきたいと存じます。

 ファリサイ派や律法の専門家達の偽善を指摘なさったイエス様

今日は12章からですが、その前の11章では、ファリサイ派や律法の専門家達の間違った生き方をイエス様が明確に指摘なさったと記されていました。彼らは外側だけ清いように見せかけることに熱心でしたが、内側、つまり、心の中では、神様の御心に適ったように生きてはいないと指摘なさいました。内側の心には「強欲と悪意」(39節)が満ちているのに、外見だけ装い、内側が「正義の実行と神への愛」(42節)で満たされているように振舞っていたのです。真の意味で、彼らは、心を神様に明け渡していなかったので、神の御子イエス様を認めることができず、最終的には、救い主を十字架にかける罪を犯すことになりました。

 ファリサイ派と私達プロテスタントの共通点

ファリサイ派は、元々宗教的権威者だったサドカイ派から、神様への信仰を「民衆」が主体的に実践できるようにしようと起こったグループです。その精神は私達プロテスタント教会も同じです。それまでの権威ローマ・カトリック教会が独占した御言葉や礼拝を、プロテスタントの人々は「民衆」が主体的にできるように改革しようとしました。ファリサイ派とプロテスタント教会、共に最初は少数派ですが、やがて認められて、多数派へ発展します。そうなると「腐敗」が始まり、主流派に対抗していた緊張感を失い、内側は怠惰になっていきます。一方、人々からは、最初の精神を求められます。彼らは、外見だけ、宗教的に立派だと見せかけることに熱心になり、「偽善」に染まります。ファリサイ派の偽善は、私達プロテスタント教会の者も、気を付けねばなりません。

 ファリサイ派のパン種=彼らの「偽善」

ファリサイ派への厳しい指摘の直後、イエス様は、まず、弟子達に、彼らのパン種、即ち「偽善」に注意しなさいと教えてくださいました。パン種とは、パンが発酵して豊かに膨らむもとになるものです。良いパン種であれば、食べ物がたくさん増え、「発酵」します。一方、同じような過程を取りながら、逆の結果を生み出すのが「腐敗」です。悪いパン種が食べ物の中に入り込み、食べ物の方が傷み、悪いパン種の方が増えます。イエス様の弟子達は、福音書を読む限り、知識も少なく、純朴な者達が多いようです。注意していなければ、弟子達は、狡猾なファリサイ派の「偽善」を本物の「善」と誤解し、被害に遭うかもしれないとイエス様は配慮されているのだと思います。

 神様を軽視し、人間からの見方にばかり気を取られる罪

もう一つ注意したいことは、ファリサイ派に限らず、人間の逃れ難い罪からくるものです。神様を軽視して、人間からの見方にばかりを気にしてしまうという罪です。罪の長サタンは狡猾に、人間に罪を気付かせないまま、闇に引きずり込むのです。警戒せずに、罪の罠にかかれば、弟子達でさえ、ファリサイ派のように「強欲と悪意」に満ち、かつ、外側だけは「義と愛」に満ちているように偽善的に生きてしまうかもしれない、そんな生き方に染まらないよう、主は、事前に弟子達に教えておられるように思います。

 この世を越えた、すべてを支配する権威をお持ちの「畏れるべき御方」

人間は、なぜ神様の目でなく、人間の目を気にするのでしょうか。それは、人間がわかる範囲=「この世」に在っては、人間の目(権力者の目や世間体)にどう映るかによって、社会的評価が決まり、いい思いをするか、または、ひどい目に遭うかが決まってしまうからでしょう。後者の極致が、罪がないのに有罪とされて殺されてしまうことです(主の十字架がそうです!)。それでも、イエス様は、人間の体を殺せる権威を持つ権力者も、所詮は体を殺す権威しかない人間に過ぎないと勇気づけてくださいます。体を殺されるのは人間には恐いことですが、しかし、私達の主イエス様の御生涯を見れば、この世の人間の支配とは次元の違う御方がこの世を越えた所ですべてを支配しておられることは明らかです。この世で殺されたイエス様が、最高の権威を持つ「父なる神様」によって生き返らされて「復活」なさったのです!父なる神様は偽善者を「地獄に投げ込む権威」(5節)がありますが、一方、御心に従った者には、深い憐れみにより「天の国に迎える」権威をお持ちの御方です。だから、私達は、この御方をただ恐がるのでなく、畏敬の念を持つという意味で「畏れるべき御方」として慕うことが許されています。

4月30日の説教要旨 「主の復活の恵み」 牧師 平賀真理子

イザヤ書651719 コロサイ書3111

 はじめに

今日の新約聖書箇所は「コロサイの信徒への手紙」から与えられました。「コロサイ」の場所は聖書の後ろにある地図9で見ると、真ん中より少し東側であるとわかります。主が十字架にかかったエルサレムから直線距離でも800㎞も離れた この町にも、この手紙が書かれた頃(紀元60年頃)には、主を信じる人々がいたのです。ところが、その群れの中に、当時流行していた「グノーシス主義」という、知識偏重の考え方が入り込んできて、それを心配したパウロが、福音の本来の正しい教えに帰るように、コロサイの信徒達に勧めているわけです。

 「キリストに結ばれて歩みなさい」(2:6)

今日の箇所は、2章20節からの「日々新たにされて」の段落の一部です。一つ前の段落「キリストに結ばれた生活」の段落の冒頭の6節には「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」とあります。これがこの手紙の主題です。更に、その後の12節では(あなたがたは)洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」とあります。これを踏まえ、2章20節からの「日々新たにされて」の段落は、話が進められていきます。

 「キリストと共に死んだのか」

 2章20節から23節は、まず、信徒達がキリストと共に死んだということが大前提になっています。この「死」は、勿論、肉体的に死ぬということではありません。「この世の考え方や教えに支配された人間として、神様から離れた霊的存在の自分が一度死んだのか」と問われています。この手紙の内容から見て、コロサイの信徒達は、この世の考え方や流行していたグノーシス主義に左右され続けていたので、それは違うと著者パウロは言いたかったのでしょう。信仰者となる前と後とが変わらないならば、それはイエス様と共に死んだわけではないということです。これは、コロサイの信徒達だけに言われているのではなく、時空を超え、私達を含む、信徒達全員に問われていると読み取れます。

 「キリストと共に復活させていただける」

ただ、私達、主を信じる者は、イエス様と共に死ぬのであって、孤独に放り出されるわけではありません。この世で霊的に一度死んだ後に、今度は「復活したイエス様」を信じている故に、その恵みをいただいて、「神の国の民」として、霊的に復活させていただけると言えます。「主と共に」です。このことこそが、本当に大きな恵みをいただいていると言えるのだと思います。

 恵みをいただく前に、この世の考え方や生き方を脱ぎ捨てる

イエス様の十字架の意味=「私の罪の贖いのために神の御子・救い主が命を犠牲にされた」ということが本当にわかっているならば、それまでの考え方や生き方すべてを捨てていいと思えるのが、本当に主に出会った人の姿勢だと思います。私達日本人の中には、何かに一生懸命になっていることを見抜かれることを好まず、信仰者となっても以前の姿とあまり変わらないで過ごしたいと考えるクリスチャンが多いように思います。しかし、今日の聖書の箇所では、そうであってはならないと警鐘を鳴らしているのです。

 主と共に復活させられるだけでなく、終末の時には主と共に現れる

 キリストと共に確かに死んだ者は、「キリストと共に復活させられる(3:1)とパウロは語っています。それだけでなく、復活後に天に帰ったイエス様は、今や、神様と同じ存在になっておられ、今、私達には見えないけれども、歴史が終わる終末の時には現れてくださり、その時に、私達信じる者達も神の国の民として共に現れるようになれると、霊的な目を持っているパウロは保証しているのです。

 「古い人」を脱ぎ去り、「新しい人」を身に着け、日々新たにされる

この世では許容される「性的な乱れ」や「自分の欲望に引きずられて他人を軽んじる行為」を、信徒達はやめるように、更には、その源となる、悪い心や悪い言葉さえも、捨て去るように!とパウロは指導します。グノーシス主義では、天の秘密の知識さえあれば、この世で悪い言動をしても構わないとされたので、対照的です。主を信じる者達は、この世の言動と心根を持つ「古い人」を脱ぎ去り、造り主の姿に倣う「新しい人」を身に着けるように教えられています。しかも、洗礼の時の1度きりではなく、日々新たにされることで成長すると言われています。キリストだけを見つめて成長できるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

4月16日の説教要旨 「その時、わたしは ―イースターの光に包まれて―」 佐々木勝彦先生

イザヤ書53110  マタイ福音書266975   Ⅰコリント書15111

 はじめに

イースターに因(ちな)んだ聖書箇所で思い出されるのはどこでしょうか。マタイ、マルコ、ヨハネ福音書で共通する最後の御言葉は「出て行きなさい。」、更には「伝えなさい。」ということです。そして、それは「どこに」でしょうか。マタイ福音書を例に挙げれば、「すべての民の所に」であり、そこで具体的に何をするためなのかと言えば、「洗礼を授けるように」ということです。

 「イースター」を考える時

「イースターをどう考えるのか」というテーマを与えられた場合、「主の大宣教令」の中の「すべての民に洗礼を授けなさい」を思い起こすことができるでしょう。洗礼を既に受けた方は、自分が受洗した時、復活の主に出会ったと言えるでしょう。しかし、主との出会いを忘れてしまい、信仰生活から外れていく人もいますし、逆に持続する人もいます。次に、「飲み食い」=(教会では)「聖餐式」において、復活したイエス様に出会います。「聖餐式」の度に、復活したイエス様との出会いを考える機会があるのです。そうでなければ、大事なことを忘れていると言えます。

 ヨハネ福音書でのイエス様とペトロ⇒「語り部」となったペトロ

また、ヨハネ福音書21書15節以降の「復活の主と弟子ペトロ」の話も示唆に富んでいます。断絶した子弟関係を繫ぐ(修復する)ことが記されているからです。今日の新約聖書の箇所にもあるとおり、ペトロはイエス様を三度も知らないといった「ダメ人間」とも言える人物です。この箇所(ヨハネ21:15~)から考えられるのは、ペトロが「十字架にかかったイエス様が、ダメ人間の私を許してくださった!」と感謝し、それを伝えたということです。つまり「語り部」になったという訳です。東日本大震災の後にも「語り部」が現れました。キリスト教もそうだったのではないでしょうか。「語り部」が先に生まれ、その後に文字、つまり「聖書」が書かれていくのです。「語り部」が語ることは二つ、一つはイエス様に何が起こったのかということ(まず、これを正しく語れなければなりません。)、二つ目は「その時、わたしはどう思ったか?」ということです。語る事柄とわたしの気持ち、この二つが「語り部」には必要です。こうして、「語り部」の語ることが、キリスト教の中では「証し」や「説教」となっていったのでしょう。

 パウロとペトロ

私自身は、パウロがいかに素晴らしいかを語る牧師の説教を長年聞いて育ったので、パウロは好きですが、ペトロは好きではありませんでした。しかし、今回「主の復活」をテーマにもう一度、聖書を通読してみた結果、ペトロが「ダメ人間」だった故に、復活したイエス様から許されて受け入れられた喜びがいかに大きかったか、また、その経験によって、ペトロは「語り部」として神様に用いられていったのだということを発見することができました。

 イースターは「死」について考える時

さて、主の復活の讃美歌でも明らかなように、イースターは「死」について考える時でもあります。イエス様の宣教の第一声は「神の国は近づいた」です。神の国が近づくとは、終末のことです。終末とは、時間の死です。人間としての私の死だけでなく、時間の死も考えるべきことが示されています。つまり、イースターは自分を越えたもの、この世の終わりを考えよということです。ペトロの経験から言えば、イエス様の方から現れ、守ってくださり、自分を「語り部」として用いてくださるということです。イエス様は私達に「大丈夫だから、一緒に行きましょう!」と招いてくださり、大変な時には、イエス様が自分を背負ってくださいます。それは「あしあと」という詩に描かれたイエス様の御姿です。ペトロは、まさしく、イエス様に背負われて歩んだのではないかと私は想像します。

 イースターは復活したイエス様に光の中で出会う時

私達が復活したイエス様に出会うのは、洗礼を受けた時、また、聖餐を受ける時、更には、伝道する時や、死の克服(つまり「復活」です。参照:ローマの信徒への手紙6章3-11節)を感謝する時です。今日の説教題は「その時、わたしは―イースターの光に包まれて―」としました。「その時」とは復活した主に出会う時です。きっと明るい光に包まれていることでしょう。イースターの光の中で、私達は、主に背負われているか、共に歩いていただいているのではないでしょうか。その光はどこから来るのでしょうか。きっと後ろから、即ち、後光が指した中での出会いだと私は考えています。