2023年12月31日の説教要旨 イザヤ書11:1-10・マタイ書2:1-12

           「東方の博士たち」     加藤 秀久牧師

*はじめに

 先週の主日のクリスマス礼拝では、羊飼い達が「輝く光」に導かれて、天使が話してくれた通りの飼い葉桶に寝かせてあるイエス様を探し当てたことを学びましたが、本日の聖書では、イエス様にすてきなささげ物をした東方の博士達を見ていきたいと思います。

*東方の博士たち

彼らは占星術の学者で、天文学の知識を持ち、メシアの星が現われた時、その意味を探ろうとした知識階級に属し、さらに長旅をするだけの経済力を持ち、ヘロデ王のいる宮殿で王との面会が許可されたこと。誕生したイエス様に宝ものをささげたことから、羊飼い達とは対照的でありました。

*エルサレムの反応

 東方の博士達はどのようにしてイエス様の誕生に出会えたのでしょう。彼らはエルサレムに来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2:2)と言っています。東の方から来た博士といえばユダヤ社会から見ると異邦人です。その彼らがなぜ星を見て「ユダヤ人の王として生まれた方の星」と分かったのでしょうか。しかも彼らはユダヤ人の「王」として生まれた方に捧げるにふさわしい贈り物を携えて、遠い道を旅してエルサレムにやって来たのです。彼らは、きっと神様の支配に従い、礼拝すべき真の支配者であり王となるメシアの誕生の星を研究し、探し見つけて、礼拝する為に旅に出たのでしょう。

これを聞いて驚いた当時の王・ヘロデは不安を抱き、エルサレムの人々も同様でした。一つの国に二人の王が存在することはあり得ないからです。ヘロデ王は、民の祭司長達や律法学者達を皆、集めて、メシアはどこに生まれるのかと問いただし、預言書から「ベツレヘム」であることを聞いた王は、ひそかに博士達を呼び出して星の現れた時期を確かめました。それは、生まれた幼子を殺そうと考えたからです。

*預言者イザヤによる預言

本日のイザヤ書11:1以下に、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。」とあります。エッサイはダビデの父であり、エッサイの株とはダビデ王朝を指し、その木が倒されて価値の無いように見える切り株から、一つの新芽が生え出て、そこから若枝が育ち、新しく立てられるメシアの上には「神の霊」が臨むこと、そしてその霊とは、「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」であることが記されています。

これは、ダビデの子孫からメシア(救い主)が新芽として生えて成長し、彼は、主を畏れ敬う霊に満たされて、全人類に影響を及ぼす者になるとのイエス様誕生の預言です。10節には「エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」と記されています。イザヤは世界と混乱のただ中で神様の栄光が全世界を覆うことを幻で見ていました。神様の栄光は輝く光、また星のようになり羊飼いや東方の博士達に現れたと思います。

*博士たちの贈り物

東方で見た星が博士たちに先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金・乳香・没薬を贈り物として献げました。黄金は王位の象徴でありイエス様が全てにおいて「王の王」と呼ばれるお方であることを世界に示しました。乳香は崇拝に使われる高価な香料で、祈りの象徴となっており、イエス様が神様から油を注がれた者(キリスト)であり、聖別され称えられ、礼拝される存在であることを現しています。没薬(ミルラ)は遺体の防腐剤として用いられるものであり、イエス様の苦難の生涯を象徴するにはふさわしく、世界の罪を負い神の御子として死ぬ為に生まれ(やがて復活する)ことを意味しています。

わたしたちも、このイエス様の光に照らされて神様との歩みを始めました。わたしたちは、神様の光の輝きを携えて、どんなことにも立ち向かっていく信仰によって、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2023年12月3日の説教要旨 イザヤ書52:1-10・ロマ書11:13-24

           「主の来る日を待つ」      加藤 秀久牧師

*はじめに

待降節 第一週に入りました。

今年も、色々な出来事が私達の身の回りに起こったと思いますが、その中で私達は、しっかりと周りで起こる事柄に目を留め、それらの状況に対応しながら神様に祈り、神様に解決策を聞きながら一年を過ごしてきたかと思います。

本日の旧約聖書のイザヤ書は大きく三つに分けられ、40章から55章までは著者である預言者の名前が知られていないために、第二イザヤと呼ばれています。(56章以降は第三イザヤ)。第二イザヤは、バビロン捕囚時代の終り頃から、故郷エルサレム帰還への先頭に立った預言者であり、本日の52章1節では、異国に荒らされたエルサレムに、今や、主なる神が王として帰って来られるとの預言を語り、「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオン(全エルサレムおよびその住民)よ。輝く衣をまとえ、エルサレムよ。」と、捕囚からの解放へ準備の勧めの言葉となっています。3節には、「ただ同然で売られたあなたたちは 銀によらずに買い戻される」とあり、神様の恵みが告げられます。神様のお働きは、日常的な価値観や判断基準で行われるのではなく、神様独自のご計画、進め方があることを教えられます。

*良い知らせを伝える者の足

7節には、「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」とあります。旧約聖書で「美しい」は、神様の動きの中で示されるものと考えられ、中でも「平和、恵みの良い知らせ、救い」は神様が王となりエルサレムの人々が解放される出来事に繋がり、喜ばしい良い知らせを伝える者の足は美しいと、ロマ書にも引用されています。「主の名を呼び求める者は誰でも救われるところで信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」(10:15)

神様は、「神様の時」に私達の前に現れます。この喜ばしい知らせを聞いた者たちが神様の訪れを伝える者とならなければなりません。遣わされる者たちは、伝えるべき言葉を正しく理解して神様との愛と信頼の良き交わりのもとに、「足」という言葉で捉えているようにも思います。

*折り取られたオリーブの木の枝と、野生のオリーブの接ぎ木

本日のロマ書では「救いの恵み」について、もともと神様から選民として選ばれていたユダヤ人と、それまで神様を知らなかったユダヤ人以外の異邦人との違いについて「オリーブの木」を用いて説明されます。本来救いの恵みにつながる枝であったユダヤ人が、不信仰の為に、枝が切り落とされてしまい、その代わりに野生のオリーブであった異邦人が本来の木に接ぎ木されて、根から豊かな養分を受けるようになっている現状をパウロが語っています。重要なことは、神様が栽培される本来のオリーブの木につながっているか否か、ということです。私たちはこのたとえを通して、神様の「慈しみ」と「厳しさ」を見なければならないことをパウロは告げています。そして、(不信仰の為に)木の枝が切り落とされてしまったユダヤ人でも、もし彼らが悔い改めるならば、野生のオリーブの接ぎ木よりもたやすく接ぎ木されると語っています (23, 24節)。

*主の来る日を待つ

このことから、神様が選ばれたすべての者は、切り落とされてどのような状況にあろうとも、神様のところに戻る時、神様の慈しみは、再びつぎ木によって、根から豊かな養分を受けられることを教えています。私たちはどのような所にいようとも、いつでも神様の所へ、神様のおられるこの伝道所に帰ることができることを心に刻みたいと思います。 イエス様の誕生日を待ち望む待降節のこの時、旧約時代のイスラエルの民が、長かった捕囚から、故郷エルサレム帰還への希望の預言を聞いて、その時を待ち望み続けた日々を思い起しつつ、私たちも、救い主イエス様の誕生の日(=良い知らせ)を伝える者として、心をはずませ、待ちつつ、今週も一週間、共に歩んで参りましょう。

2023年1月8日の説教要旨 イザヤ書52:7-10・使徒言行録10:34-48

「全ての人の主」       加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の使徒言行録10章の始めでは、カイサリアにコルネリウスという人がいて「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長でしたが、ユダヤ人ではありませんでした。しかし彼は、ユダヤ人の信じている神様を信じていました。ある日、彼に天使が現れて、ペトロという使徒を招くように、と、お告げを受けました。それで彼は、召使と兵士の3人をペトロの所に送り出しました。翌日、ペトロのところにも、神様は幻を通して語りかけられました。天から大きな布が四方を吊るされて下りてきて、その中にあらゆる獣や、地を這うものや、空の鳥が入っており、「これを屠(ほふ)って食べなさい」と、言われる幻でした。

神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない

ユダヤ人は、神の民として自分達を清く保つために律法を守っていて、ペトロが見たその布の中には、汚れていて食べてはならないと言われている生き物が沢山入っていました。ペトロは、神様から食べなさいとの命令に、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」とこたえました。ペトロにとって律法を守ることは当然のことでした。しかしペトロに神様は、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と三度もくり返され、布は天に引き上げられました。

*聖霊の導きによる異邦人伝道

ペトロが今見た幻のことを考えていると、コルネリウスの使いがペトロの家を捜し当ててやってきました。すると聖霊がペトロに、「ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」と、コルネリウスのところへ行くように促しました。ペトロは使いの者達から、コルネリウスも天使からお告げを受けたことを聞いて、彼らと一緒に出発してカイサリアに到着し、ペトロの話を聞くために大勢の人が集まっていたところで福音を語りました。これまでペトロは、同胞のユダヤ人たちに、「イエス・キリストこそ我々が待ち望み、聖書に預言されていた救い主である」ことを語ってきましたが、今度は、接触(交わり)を拒んできた異邦人(ユダヤ人以外の外国人)に対して初めて福音を伝えたのです。イエス様のことを伝える言葉には力があり、命があり、愛が伴います。そこで聞いていた人達の上に聖霊が降りました。ペトロと一緒に来た人は、聖霊の賜物が異邦人にも注がれるのを見て大いに驚きました(45節)。

 わたしたちもペトロと同じように、このことのためにな自分が用いられる、あるいは遣わされていると感じたことはないでしょうか。特に、新年を迎えたこの時期、多くの人々が神様を求めて神社やお寺にお参りに行く姿を目にしましたが、その人達がある日、何かのきっかけにより、真実の霊、神様の霊に触れる時、彼らは神様の霊に出会い、神様の所へ、神様を礼拝するために、教会へと足を運ぶことになることを私達は知っています。そのことを神様に期待し、信じていきたいと思います。

いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。」イザヤ52:7

神の御子イエス様が人のかたちを取られてこの地上に来られたことは、私達にとって、とても素晴らしい出来事です。そのイエス様の語る神様の言葉や、不思議な業や、奇跡などは多くの人々に大きな影響を与え、それらはイエス様が亡くなられた後では、イエス様の行いや神様の出来事を伝えることになったのが弟子たちであり、ペトロであり、私たち神様を信じる者たちに委ねられています。ですから私達は、神様の言葉に目を向け、神様の霊の中で憩い、歩み、私達に委ねられている福音、神様のこと、イエス様のことをさらに知る必要があると思います。

このことは、わたしたちの心に平和をもたらし、幸福をもたらし、救いをもたらすことを本日の聖書は伝えています。私達は、このイエス様の霊、神様の言葉に胸を弾ませながら、2023年の歩みが祝福されるように祈り、期待をしながら今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2022年11月27日の説教要旨 イザヤ書7:10-14・マタイ1:18-25

「主の到来の希望」       加藤 秀久牧師

*はじめに

私達には、どんなに偉くても偉くなくても、貧しくてもお金持ちの人にも、生まれた日・誕生日があります。その日を祝うのは、大体その人が生きている時だけかと思います。しかし神様を信じる者の間では、イエス様の誕生日だけは、何年も何十年も何百年も何千年もお祝いされています。なぜでしょうか。それは、イエス様が生まれた時から今に至るまで、変わらぬお方であって生きているからです。

主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(7:11)

本日の旧約聖書は、イスラエル王国が、北イスラエルと南ユダに分裂した後の今から約2700年位前のことで、南王国ユダで活動していたイザヤの時代の話です。当時、アッシリアに対抗してアラムの国と北イスラエルの国が同盟を結んでおり、南王国ユダにも同盟に入るよう打診されていましたが、アハズ王の心は揺れ動いていました。預言者イザヤは神様の言葉を聞き、アハズ王に対して「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」と伝えました。これは「主に願い求める、主を尋ね求める、主に伺う」ことで、神様を第一にすることを意味します。しかしアハズ王は、「わたしは求めない(7:12)」と答えました。それは自分自身の考え方、能力、自分の情熱によって歩み、他の神々を礼拝するような習慣がその人の身に沁みついてしまうこととなります。

*王国の歩みとわたし達

イスラエルの国が人々の要求により王政になった時、神様が選ばれた初代の王はサウルでした。しかし彼は主を尋ね求めて従うことをしなかったため、神様は彼を退けてダビデを選ばれました。ダビデは主を信頼し、主を尋ね求める者の象徴的存在です。ダビデは「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。(詩篇27:4)」と祈り願っています。私達は神様を何よりも第一に主を尋ね求めて主に伺っているでしょうか。

*イザヤの「インマヌエル」預言

本日のマタイ福音書1章23節では、イザヤ書7章14節の「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」が引用されています。「インマヌエル」とは、「神は私達と共におられる」の意味ですが、本来、神様の「神性」と、人間の「人性」が共にある存在の意味で、神様と人間とが一つになった特別な存在であり、その「しるし」は「処女から産まれる男の子」でした。この予告は主の御使いから(マリアと婚約中の)ヨセフに、夢の中で告げられました。ヨセフは結婚前にマリアが妊娠したことを知り、ひそかに縁を切ることを決心します。しかし御使いから、マリアが聖霊によって身ごもったこと、生まれ出る子供は「自分の民を罪から救う(21節)」こと、そして700年前のイザヤの「預言の実現(成就)」であることが告げられたのでした。

*神様の御計画

ヨセフは子供の名前を選ぶことが出来ませんでした。それは神様の霊による誕生であり、神様がすでに名前を付けていたからです。

私達も、神様がすでに私達の為に計画されていることを変えることが出来ないことを知る必要があります。私達はこの地上に生まれ、子供から大人へと成長させられた中で、多くの人達との出会いがあり、それを通して様々な場面で神様の存在を知り、何よりも今、このようにして神様に出会い、信仰生活を送れることの素晴らしさ、嬉しさ、喜びが常にあります。これらは神様の呼びかけによらなければ、「インマヌエル」である主が共におられなければ、与えられなかったものであり、私達は生きることも死ぬこともできない者です。それだからこそ神様のご計画は素晴らしく、偉大なものとして受けとめることができるのです。

もしイエス様の誕生がなければ、私達の罪の贖いの出来事も、聖霊も受けることは出来ず、聖書を見ることも読むことも出来なかったはずです。イエス様は、天に於いても地に於いても神であり、王の王、唯一のお方です。この王様が今日もこの礼拝の中に現れ、私達の真ん中、中心にいることを信じ感謝しつつ、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2022年10月2日の説教要旨 イザヤ書30:15-21・ロマ⒓:1-2

世界宣教の日「神に倣い,キリストに倣い,パウロに倣う。」  佐藤義子

*はじめに

 本日のロマ書12章には、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげなさい」とあり、これこそ、私達のなすべき礼拝であると教えています。私達は毎週礼拝で、神様を讃美し、一週間守られたことを感謝し、懺悔の祈り、今日から始まる新らしい一週間の歩みが神様のみ旨に沿うように、聖書を通して神様からのメッセージを聴き、慰められ力づけられ、神様への感謝のささげものを献げて、再び社会へと送り出されていきます。この礼拝で、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげる」とは、どういうことでしょうか。

*ささげる

神様を礼拝することは「神のものは神にお返しする(マルコ12:17)」こととも言われます。神様の恵みによって与えられたもの・・私達の第一の所有物は自分の体です。礼拝に於いて自分の体をいけにえ(犠牲)としてささげることを考えると、「私は弱く、足りないものだらけで、あなたに救われた者ですが、献げるにはふさわしくありません」と答えなければならないでしょう。しかしロマ書では、もし自分の体から「犠牲の供え物」をささげるならば、それこそ生きた供え物として神様に喜ばれるなすべき礼拝であると教えます。たとえば、自分は悪くないのに攻撃を受けて「怒り」を覚えたとします。その「怒り」は神様への供え物にはなり得ません。しかし私達が誤解され自分を攻撃した人を(神様の教えに従うため)赦せるように祈り、赦せたとします。その赦しが(赦すことが出来た自分が)、神様に喜ばれる供え物になるのではないかと思います。私達が神様への積極的な服従によって礼拝がなされる時、神様の み旨(むね)がなされます。

*世界宣教の日(10月の第一日曜日)                  

教会には毎年、日本から送り出している宣教師の方々の働きを紹介する冊子が送られてきています。本日の説教題を「神に倣い、キリストに倣い、パウロに倣う」としましたのは、宣教師の方々の歩みが、以下の聖句にあるように思い至ったからです。

*あなた方は神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)。私達が神様から愛されていることは、神様が私達に独り子イエス様を送って下さったという事実を自分のこととして深く知ることでわかります。(こんな罪深い私の為に、神様は私を神様の子供とするためにイエス様を送って下さり、私の罪を赦すために十字架の犠牲という大きな代償を払って下さった)。だから、私は神様から愛されている。その神様の愛に倣う者となりたいと願うようになります。

*わたしがキリストに倣う者であるように(コリント11:1)

「倣う」は「見本にする」「模範にする」ことです。ペトロの手紙は私達を励まします。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。・・キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足あとに続くようにと、模範を残されたからです(2:21)」。

あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(コリント11:1)

フィリピ書でもパウロは、「わたしは・・・何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです(フィリピ3:12-16)」と、励ましています。宣教師の方々も、ここにおられる皆様も、私も、神様から同じように信仰を与えられた者達であり、今、信仰の種を蒔かれている方々です。信仰の種は、きれいな空気と澄んだ水、太陽の光を受けて(日毎の御言葉と祈り、礼拝を始めとする教会生活、信仰者たちとの交わり他)ぐんぐん大きく育ち、やがて鳥が来て枝に巣をつくるほどの木になります。成長に必要なすべてのものは、求めさえすれば、神様が必ず豊かに与えて下さることは多くの宣教師の方々が証言されています。福音宣教の為、困難の中、外国の地で働かれている宣教師と御家族のため祈りましょう。同時に私達の宣教の業が用いられていくように祈りましょう。

2022年3月20日の説教要旨 イザヤ書48:・1-8、Ⅱテモテ1:8-14

信頼をおく」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

イザヤ書は大きく三つに分けられ、それぞれ書かれた年代も著者も異なり、本日の48章の著者は、仮の名前で第二イザヤと呼ばれています。

注 (第一イザヤ:1-39章、第二イザヤ:40-55章、第三イザヤ:56-66章)。

B.C.586年、南王国ユダはバビロニア帝国によって滅ぼされ、民の多くは首都バビロンの郊外に連行されていきました。そしてペルシア王キュロスによって解放されるまでの約半世紀を、人々は囚われの民としての生活を送っていたのでした。48章は、バビロン捕囚の末期からエルサレムへ帰還する頃まで活動した第二イザヤが、囚われの民として生きる人々に語った主の言葉です。前半では神様の叱責と警告、後半は祖国イスラエル・神の住む都エルサレムに帰ることができる(解放の時が近づいている)という希望と、第二の出エジプトのように、神様が守り導いて下さる救いを知らせる励ましの言葉が語られています。

ヤコブの家よ」(1節)

神様は「ヤコブの家よ、」と呼びかけられます。これは「族長ヤコブ」の12人の息子達が各々の部族の祖となったことからイスラエルの民全体をさします。呼びかけに続き「まこともなく、恵みの業をすることもないのに 主の名をもって誓い イスラエルの神の名を唱える者よ」と、人々が神様に対して、偽りのない真実な、正しい態度でかかわることをしてこなかった(正しい関係作りをしてこなかった)と指摘し、彼らは口先だけ「主に信頼している」と言い、主の名を呼んだり、誓いを立てたり、祈ったり、と見せかけだけの信仰へと変わってしまい、心は固くなり、素直に神様の言葉に耳を傾けず、他人のことを思いやることなく自己中心主義者になり、不信仰の民になってしまったと言われます。けれども神様は、神様の御栄光が汚されないために「怒りを抑え、耐えて、お前を滅ぼさないようにし(9節)」、「あなたを導いて道を行かせる。わたしの戒めに耳を傾けるなら、平和は大河のように恵みは海の波のようになる(18節)」と約束されました。

*わたしたちの時代

 ヘブライ書には「神はかつて、預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました(1:1-2」と記されています。

 かつて神様が第二イザヤを通して民に語られたように、私達の時代においても、御子イエス様を遣わして語られました。語られた言葉が必ず起こる過程においては、私達の、どこか心の奥に潜めている疑いや、隠した行い、根強い不信仰などが少しずつ明らかにされていきます。

自分が信頼している方を知る」(12節)

本日のⅡテモテへの手紙でパウロは、主を証しすることや主の囚人であることを恥じてはいないし、あなたも恥じてはならないとテモテに告げます。なぜならパウロは、自分が信頼している方を知っているからだと言います。神様を信じる私達がパウロと同じ立場に立つことは、イエス様に対して信仰を告白する者の一人になるということです。パウロと共に苦しむことは、人々に良き知らせである「福音」を伝えるための苦しみであり、たとえどんな苦しみであっても、神様の力を受けてしっかりと立ち向かう“神様の言葉に立つ”能力が与えられるということです。 

9-10節には、「神がわたし達を救い、聖なる招きによって呼び出して下さったのは、わたし達の行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。」とあります。神様は聖なる呼びかけをもって私達に救いを与えて下さいました。その救いが、もし「行い」から来るならば、その救いに与かった人は、何か問題が起きた時に心が揺れ動かされて離れてしまうことになります。しかし救いが,神様の恵みによるものなら、それは永遠に変わることはありません。確かにイエス様は私達の罪のために十字架にかかり、死なれ、三日目に復活され、天に昇られましたが、聖霊を送って下さり、今もこうして神様を信じる私達の心の中におられます。神様の呼びかけと恵みは、ただ主イエス・キリストを通してのみ与えられるものです。救いはこの世に生きるすべての者に向けられている神様の恵みであることを忘れず、今週も歩んでまいりましょう。

12月12日の説教要旨 イザヤ書7:10-17・ルカ福音書1:26-38

「主イエスの誕生の予告」    加藤秀久 伝道師

*はじめに

本日のルカ福音書は、洗礼者ヨハネの誕生予告の続きです。神様は天使ガブリエルを祭司ザカリアのもとに遣わし、妻エリサベトに子供が生まれるとの喜ばしい知らせを伝えました。ザカリア夫婦は長年子供が与えられず祈ってきましたが、今は二人とも年をとっていました。そのような時、天使ガブリエルによって祈りが聞き入れられたことを知らされました。

それは何よりも嬉しいことであったはずでしたが、ザカリアはこの知らせに戸惑い、素直に受け入れられず、しるしを求めたため、子供の誕生まで口が利けなくなりました。

おめでとう

 6か月目に天使ガブリエルは再び遣わされて、マリアのもとに来ました。そして「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げたのです。マリアはこの言葉に戸惑いながらも、この挨拶は何のことかと考え込みます。この「おめでとう」の元の言葉は「ご挨拶申し上げます」「こんにちは」などの挨拶の時の言葉です。しかし私達の聖書も他の日本語訳聖書でも、この言葉は「おめでとう」と意図的に訳されています。

この「おめでとう」の中には、マリアだけに与えられた喜びではなく神様に創造された全ての人々に対しての「喜びの知らせ」、神様を信じる者達にとってかけがえのない、待ちに待った「喜びの知らせ」となるはずです。

*聖書で用いられる「喜び」

 ルカによる福音書10章に、イエス様から派遣された弟子達が戻って、イエス様に報告する場面があります。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します(17節)」と喜ぶ弟子達に、イエス様は、「そのことに喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と答えられています。この言葉の中に、「喜びの根源」があると思います。本当の喜びは、私達の働きや行いによって与えられる喜びではなく、神様を信じる者達が、天に名前が書き記されていることを喜ぶ「喜び」、真実を知ることが出来る「喜び」、又、このような「わたし」でも神の国に入ることができるという信仰が与えてくれる「喜び」です。この喜びの「知らせ」を受けるマリアは、「おめでとう」と呼びかけられました。

*マリアの応答

 天使ガブリエルの言葉を聞いてマリアは戸惑いましたが、その言葉を心に納めて、この出来事の意味を考えようとしています。素直で純粋に、御使いの言葉をそのまま受け入れているように思えます。自分ではよく分からない事柄に対しては、すぐに答えを出さず、それを心の中に一旦納めて、慎重に考えてから答えを出す人物だったようにも考えられます。御使いは続けて「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。・・」と語ります。マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と驚きますと、御使いは、親族エリサベツにも今、胎内に男の子が宿っていると伝え、「神に出来ないことは何一つない」と答えました。そこでマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。

ここにマリアの信仰(神様を畏れ、敬い、御使いの語る言葉を受け入れて、自分の身に成ることを待ち望む)を、私達は見ることが出来ます。

*わたしたち 

さて、私たちはどうでしょうか。主の御使いの「おめでとう」という言葉を、私たちはどのように受け止め、留めることができたでしょうか。

私たちには、イエス様の誕生日に共に集まり、心から「おめでとうございます!」と言い合える仲間や家族・友人がいるでしょうか。

又私達は、本当にイエス様のお誕生を心から待ちわびているでしょうか。

もし、この世界・この地上でイエス様の御誕生の出来事がなければ、私達を罪から救いへと至らせる道、神の国に入る道はなかったでしょう。

すべてはこのお方の登場で始まり、終わりがあります。今週一週間、私達はイエス様のことに思いを巡らせながら、共に歩んで参りましょう。

2021年6月27日の説教要旨 イザヤ49:14-21・使徒言行録4:32-37

「分かち合い」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日のイザヤ書49章では、イスラエルの人々が捕囚の地バビロンから長年待ち望んだ故郷イスラエルへ帰ることが、預言者である第二イザヤ【注】を通して神様から告げられます。<【注】イザヤ書は、1~39章の著者はイザヤ、40~55章の著者は便宜上第二イザヤと呼ばれ、56~66章の著者は第三イザヤと呼ばれており、歴史的背景、文体などが大きく違っている。>エルサレム帰還のニュースは、イスラエルの人達にとってとても嬉しいことでしたが、一方、彼らを不安にさせることでもありました。それは捕囚地へ連行される前、町はバビロンによって完全に破壊されてしまったことでした。

*「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」(14節)

イスラエルの人達は、故郷エルサレムで再び神様を礼拝することを待ち望みつつも、「エルサレム帰還」を信じられず、心のどこかで、「エルサレム」の町はすでに神様に見捨てられたと考えていたのです。

*「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない」(15節)

「見捨てられた」と訴える彼らに、神様は、そのようなことはあり得ず、それよりも、「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」(16節)と語ります。私達が手のひらに何か文字を書くように、神様の手のひらには、イスラエルの名前のみではなく、再建したエルサレムの姿をも刻んでいると言われます。神様は、自らが計画して選んだ民を忘れることがなく、速やかに行動し、かつての征服者たちは遠くへ追いやられ、立ち去り、散らされた民は再びエルサレムの地に呼び集められ、荒れ果てた地・エルサレムは、これから故郷に戻る人々の子供達の「住む場所が狭(せま)すぎます」(20節)との(嬉しい)声を聞くことになるだろうと語っています。

*聖霊降臨後の弟子達

使徒言行録2章では、聖霊が降る出来事(ペンテコステ)を通して弟子達は聖霊に満たされて神様の力を受け、大胆にイエス様のことを語り、聞いていた大勢の人々は、イエス様のなさった話を聞くことにより信じて信仰に入りました。しかし4章では、ペトロとヨハネはイエス様の復活を伝えていたことで投獄され、翌日、議員や律法学者達の前で質問を受けますが、二人の語る大胆な態度や、二人が無学な普通の人であることを知り、さらにペトロに足を癒やしてもらった人がそばに立っていたので、二人は釈放されて仲間たちの所に戻り、これらのすべての出来事を報告しました。集まっていた信徒達は、これから迫り来る出来事に立ち向かえるよう神様に力を与えてくれるように心を合わせて祈りました。祈り終えると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて大胆に神様の言葉を語りだしました。神様は集まっていた使徒達の祈りを聞かれ、大いなる力を表されました。

*「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。(32節)

使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かに注がれた。」(33節・聖書協会共同訳)

「神様の恵み」は、二人でも三人でも主の御名を求める兄弟姉妹、信じる全ての人たちが集まるところ、教会・共同体を作り出します。そこでは、お互いが家族のようであり、同じ使命を持ち、祈り合い、支え合い、持ち物を共有し合うことが自然に行われていきます。そこには、「神様の恵み」、癒やしの源である「聖霊の働き」が起こり、人々に力を与えて下さるのです。私達はこのような全てを満たす神様の恵みに出会いたく、神様の霊に触れたくて、毎週、教会の門をくぐってこの礼拝堂に来るのです。ここでの集まりの中で、私達は神様を感じ、神様に触れ、神様を体験しているでしょうか。神様が私(私達)と共におられなければ、現れて下さらなければ、神様を知ること、感じることはできません。私達はすでに神様の手のひらに私達の名前が刻まれていて、共に祈る場所、礼拝する場所が用意されているのです。ここは、神の家族、神の家です。

2021年6月13日の説教要旨 イザヤ書60:19-22・フィリピ2:12-18

「命の言葉」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

 本日の旧約聖書の少し前に、『主は贖う者として、シオン(エルサレムのこと)に来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる』(59:20)とあります。ヤコブの子孫であるイスラエルの人々が、自分達の罪、神様に対しての背きの罪を認め、罪を悔い改めた時、主は彼らのもとに訪れると述べています。そしてイスラエルの人々が再び神様に立ち返るようになると、エルサレムの街は世界中の国々から注目されることになり、イスラエルの人々は、主の御名のために誉め称えられ、尊敬されるようになることが告げられています。そして彼らは、イスラエルの繁栄は、神様がとこしえに共にいて下さらなければ成り立たないことを知るようになる、と、預言者イザヤは神様の言葉を伝えています。

*主の栄光が輝くエルサレム 

本日のイザヤ書の箇所では、主の栄光がエルサレムに現れる時、イスラエルの近隣、又、他の国々の人達が、その主の照らす眩(まばゆ)い光の呼びかけに答え、その光を求めてエルサレムに集まって来るようになり、エルサレムは主を礼拝する人々の集まる場所、全世界の中心的な場所となる、と語られます。そして主の聖なる都市、新しいエルサレムには、主の栄光が輝き、その輝きの凄(すご)さで、もはや太陽や月の輝きまでもかき消してしまいます。それは、「主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる」(19節)からです。

*「あなたがたも・・わたしと一緒に喜びなさい」(18節)

わたしたちは希望の持てない、失望感に満ちた所に足を踏み入れてはいないでしょうか。本日のフィリピ書には「共に主に在る喜び(18節)」が勧められています。著者パウロは、獄中に入れられながら、神様と良き交わりの時を持ち、絶えず感謝の気持を持つことができています。パウロが投獄された理由は(常に福音宣教のためですが)、使徒言行録16章では、伝道旅行中、占いの霊に取りつかれている女奴隷が後についてきて叫び続けたため、彼女から占いの霊を追い出したことで、彼女の主人逹がお金もうけの手段を失ない、訴えられたことが記されています。しかしパウロは獄中でも、神様を賛美して祈っていました。パウロは全ての出来事に感謝しています。なぜでしょうか。

それは、真実の主イエス・キリストを知っていたからだと思います。その時、突然大地震が起り、牢の扉が全て開き、パウロたちの繋がれていた鎖も外れてしまいました。看守は囚人達が逃げたと思い自害しようとしましたが、パウロ達は逃げず、看守に自害しないように伝え、神様の御言葉を語りました。この時、看守も看守の家族も皆、信じて洗礼を受けたのでした。ここに、神様の凄さ(すごさ)があります。神様の言葉には力があり、神様は人々に、命と生きる力を与えて下さるお方です。

*「自分の救いを達成するように努めなさい。」(12節)

獄中からパウロは、「自分の救いを達成するように努めなさい」と語っています。「神様は、信じている者達の心の中にすでに住んでおられる。共にいて下さるのだから、その神様の力を信じ、神様が働いて下さることを信じて歩みなさい。今ある状況を受け入れ、今ある願いが叶うと信じて祈りなさい。」と励ましているのです。パウロにとって、「捕われたこと」は、主イエス・キリストによってであり、「生きること」は、主イエス・キリストを通してであり、「イエス様のために死ぬ」ことは、とても名誉なことだと感じていました。

*「あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行なわせておられるのは神であるからです。」(13節)

私逹一人一人には神様から与えられた苦難や試練があります。もうこれ以上我慢できない、と思っても、その苦難や試練は、さらにもっと深い奥底まで私達を引きずり込んでしまうことがあります。しかしそのような状況に私達が陥ることを許したのも神様です。なぜでしょうか。

それは、神様は私達を愛し、信頼しているからです。私逹一人一人には神様が立てられたご計画があるからです。そのことを私達は信じますか。

最後にもう一度、本日のフィリピ書をお読み致します。(2:12~18節)

2020年12月6日の説教要旨 イザヤ書43:16-19・フィリピ書2:12-13

<礼拝開始18周年記念感謝礼拝>

      「荒れ野に道を、砂漠に大河を」   佐藤義子牧師

*はじめに 

 教会のないところに教会が生まれる。それは人間の力の及ばない神様のみ業です。神様をこの目で見ることは出来ませんが、神様の み業(わざ)をこの目で見ることが出来ます。仙台南伝道所は2002年12月に佐藤博子姉の応接間をお借りして第一回目の礼拝が捧げられて始まった開拓伝道です。今日は、週報にありますように941回目の礼拝です。この18年間、一度も途切れることなく礼拝を守り続けられたことは、ただただ神様の大きな恵みと導きと深い憐れみがあったことを思い、心から感謝致します。

 神様の天地創造の業(わざ)は「光あれ」との言(ことば)から始まりました。そこには神様の御計画があり、すべては無から有が生み出されていきました。教会も同じです。無から有を生み出される神様は、聖霊を受けた弟子達を通して、御言葉を聞いて信じた人々の群れを生み出し、「教会」という信仰告白共同体がつくられました。

*開拓伝道

私の母教会(東京の大井バプテスト教会)も開拓伝道から始まりました。

軍国主義の時代、暴力団の人達も町をうろうろして伝道の邪魔をしたり、警察もクリスチャンを国賊扱いしていた時代でした。その様な中で牧師は町に出て行き(路傍伝道)、身体を張った命がけの伝道をされました。

説教の中心は「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)であり、又、「神が私達の味方であるならば 誰が私達に敵対できますか」(ロマ8:31)でした。さらに沢山の御言葉を聞いて育てられましたが、本日のフィリピ書「あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行なわせておられるのは神である」もその一つです。これは私達が望む希望は、自らの心で考え出したのではなく、神様の御心(御意志)が私達に、そのような「こころざし」を与えておられる。しかも実現に至らせて下さると言っています。

*神様から与えられる「こころざし」と「実現への道」

 私達は、私達のこころざしが、神様の御意志でもあることを、どのようにして知ることが出来るのでしょうか。それは直前の12節後半に記されています。「従順でいて、おそれおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。「従順」はイエス様がお手本です。「おそれおののく」は、私達の生と死がすべて神様の御手の中にあることを自覚して、神様の前に身をかがめて服従すること。「自分の救いを達成する」は、神様が与えようと用意されている恵みに、すべて与(あずか)ることです。

*神様の言葉

本日のイザヤ書は39章までの著者と区別されて、第二イザヤと呼ばれる無名の預言者(40章から55章までの著者)の預言です。時代はイスラエルの民が戦争に負けて、捕虜として遠い異国の地バビロンに連行され、捕囚民としての不自由な生活を約半世紀近くも強いられていた時です。そのような状況の中で第二イザヤの預言の声が響きます。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる」(18-19)。

これは、イスラエルの民が過去の歴史を持ち出して今ある自分達の置かれた状況を憂えていることに対し、「過去の出来事に執着するのをやめよ。新しいことをわたしは行う」と語っています。予想されることも期待されることもなかった新しいこと。やがて彼らは長い道のりを経て捕囚から解放へ、エルサレム帰還と神殿再建への道へ導かれていきます。

*私達の信仰

私達の中に起こる「こころざし」が神様のお働きからくる時は、それを実現して下さるのは神様です。仙台南伝道所は開拓伝道の志が与えられた時、神様が荒れ野に道を敷き、会員が与えられ、奏楽者が与えられ、会堂が与えられ、さらに献身者も与えられ、思いをはるかに越える多くの恵みと導きが与えられました。神様は今日も「わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる」「今や それは芽生えている。」と私達を,これから起こる神様の御業(みわざ)へ目を向けさせ祈りを起されます。