1月20日の説教要旨 「あなたも神の愛の中にいる」 遠藤尚幸先生 (東北学院中・高 聖書科教諭)

イザヤ書40:1-11 マタイ福音書18:21-35

 

*ペトロの問い

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

今朝、私たちに与えられた聖書の言葉には、そのようにありました。主イエスの一番弟子のペトロが、主イエスに対して、問いかけています。彼はなぜ、突然このような問いを投げかけたのでしょうか。それは、直前の箇所と関係があります。今朝お読みしました箇所の一つ前、私たちが読んでいる新共同訳の聖書では、「兄弟の忠告」とタイトルがつけられている箇所です。実はこの18章全体は、主イエスに結ばれた共同体であるキリスト教会の交わりについて書かれている、一つのまとまった箇所です。18:1では弟子たちが、だれが天の国でいちばん偉いのか議論しています。すると、主イエスが弟子たちに語り始めた、という文脈にある箇所です。主イエスは弟子たちに、あなたがたの共同体は、「小さな者」を受け入れる共同体であるということを語っていきます。第一に子供を受け入れること(18:5)、そして、教会に来る者たちをつまずかせないこと(18:6)。そして、教会から迷い出る者を、きちんと自分の群れに受け入れていくこと(18:14)。主イエスは、私たち教会の群れのあり方を、一つ一つ丁寧に教えてくださっています。そして、18:15にさしかかると、私たち教会の中で一番議論されるかもしれない事柄へと話を移していくのです。それは、18:15にある通り「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という事柄です。子供を受け入れること、つまずかせないこと、迷い出た者を探し出すこと、これらは、特に私たち自身に何か具体的な危害が与えられるということは語られていません。しかし、どの話も背後には、あなたがた教会は、あなたがた自身に罪を犯す者をどうするのか、このことによく注意しなければならない、ということが語られていたのです。もちろん、話し合い、和解できることが一番良いはずです。しかし、私たちの生活の中で、実はそのことが、大変よくあることでありながら、なかなか解決し難い課題ではないかと感じます。「自分に罪を犯す者を赦す」。言葉にすれば短いものですが、いざ自分がその現実に向き合うときに、驚くほど困難を覚える。私たちにも、そういう人物が一人や二人いるのではないでしょうか。手を伸ばし、本当は和解すべきだと分かっている。しかし、それをすることができないのが私たちです。主イエスは単に教会とはこうあるべきだということをこの18章で語っているだけではないことが分かります。主イエスはこれらの話を通して、私たちの最も深いところにある悩みに、触れてくださっている。私たちは主イエスの投げかける問いの前に立たされながら、主の御声によって、「赦す」とはどういうことか、その問いに立たされているのです。

 

*ペトロの答え

私たちと同じように、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という問いに、このペトロという人も立たされています。ペトロはその問いに、こんなふうに答えています。もう一度21節をお読みます。

「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

彼は決して、赦すべき回数を聞いているわけではないことは明らかです。なぜなら彼は、この18章の一つ一つの言葉を聴きながら、教会は自分に罪を犯す者をきちんとその群れに受け入れなければならない、ということを聞いているからです。その彼が、赦しを「七回」と限定するはずはありません。実は、この「七」という数字は、ユダヤにおいては、たとえば、祭司が罪の赦しの儀式をするときに、イスラエルの人々の汚れを聖別するため、祭壇に血を振りまく回数として出てきます(レビ記16:19)。つまり、それは特別な意味を持った数字であり、「どこまでも赦す」という意味を持つ数字です。

 

*主イエスの答え

主イエスは、ペトロに対してこう答えました。

「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」

「七の七十倍赦しなさい」。これが主イエスの答えです。先ほどの「七」という数字が持つ特別な意味を考えるならば、これは「490回赦せばそれでよい」と言っているわけではないことが分かります。「どこまでも、計り知れないほど、永遠に赦し続けなさい」。これが主イエスの答えです。ペトロの答えが、私たち教会を代表する声であるなら、主イエスの声は、まさに、私たち人間の想いを超えたところにある神様の声そのものです。「どこまでも、計り知れないほど、永遠に赦し続けなさい」。そして主イエスは、その言葉に続くように、23節以下のたとえ話を話し始めました。それはこういう話です。

 

王と家来

あるところに王様がいました。王様は、自分が家来たちに貸したお金の決済をしようとしています。王が決済をし始めると、そこに一人の家来がやってきました。この家来は「一万タラントン借金をしている」と紹介されています。一万タラントンとは、聞きなれない金額です。現在の金額にしてだいたい10億〜1兆円くらいだと考えられています。普通の人間が、一生かかっても使いきれないほどの金額をこの家来は王様から借りていました。実はこのたとえは、聞いている人にしてみれば、現実離れし、かなり異様なたとえです。しかし、この莫大な金額の意味が続く話の展開で明らかになっていきます。この家来は、到底この金額を返済できるはずはありません。それで、王様から「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」命じられました。この家来は26節で「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と願います。すると、その王様は、この家来を憐れに思い、彼を赦し、その借金を帳消しにします。主イエスがどうして、こんな現実離れした金額のたとえ話をしたのか。それは、今、主イエスの言葉を聴き、罪の赦しに歩みだそうとするペトロに対して、その前に、まずあなたがたが与えられているものがどれほど大きいのか、そのことに目を留めることこそ大切なことなのだということを教えたかったからです。

 

*王と家来とは

このたとえに出て来る王様は神様です。そして、この借金を帳消しにされた家来が、私たちです。神様は、何よりも、この私たちの負債を赦してくださっている。それは、この莫大な借金が表す通り、私たちの途方も無い罪の現実を赦してくださっているということです。これは主イエスの宣言です。「あなたの罪は赦される」と、主イエスはここでペトロに向かって語ってくださっている。私は、主イエスがここでペトロに向かって罪の赦しを語ってくださっていることに、後にペトロが犯す、主イエスに対する裏切り、不信仰な姿を憶えずにはいられません。主イエスは彼が、これからの歩みの中で、ご自身に背いていく。そのあなたの罪を赦すために、そのために、私はあなたの傍らにきたのだと、宣言されているのです。

 

*王が損失を被る

どうしてそんなことが言えるのか。それは、この王様の姿に現れています。王様は、確かにこの家来の借金を帳消しにしました。家来の方からしてみれば、それは突如訪れた幸運です。しかし、王様にしてみればどうでしょうか。王様は借金を帳消しにしたところで、その損失はゼロになったわけではありません。ですから、このたとえの本質は、実は、この家来の借金を、王が代わりに背負ってくださったというところにあると言えます。神様の私たちを愛する愛。それは私たちの方から見れば、徹底して無償の愛です。しかし、神様の方には大いなる痛みがある。ペトロの弱さ、不信仰、私たちの弱さ、不信仰は、その身代わりとなった存在によって、担われ、そして赦されているということです。ではその私たちの計り知れない罪を、私たちの代わりに背負ってくださったのは誰か。それが主イエス・キリストです。主イエスこそ、罪人であった私たちの身代わりとなって、その罪を一身に受けてくださったお方です。この方が、真の神でありながら、罪人としてあの十字架につけられていくのです。キリストの十字架は、痛みと悲しみに満ちています。主イエスは、祭司長、律法学者たちに苦しめられ、引き渡され、鞭打たれ、そしてユダヤの人々、弟子たち、私たちすべての人間に見捨てられ、遂には「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、十字架でその命を捨てました。主イエスの十字架は、実は、本来、私たち自身が受けるべき十字架であったのです。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙2:19-20でこう語っています。

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」

あの2000年前に起こった十字架の出来事によって、私たちの自身の罪の赦しが成し遂げられました。そして、キリストが罪を背負い死ぬことによって、その代わりに、私たち一人一人が、全き神の子として生きることができるようになりました。私たちはもはや、罪という奴隷の軛につながれているわけではない。神様の豊かな、そして大いなる恵みの中で、神の子となる資格をあたえられているのです。主イエスはここで、その恵みをも先取りしてペトロに語っています。だから、「この大いなる恵みを受けた者として、当然、同じように、他者を赦すことがあなたはできるはずだ。安心して行きなさい」。主イエスはペトロにそう語っています。主イエスはこのようにして「七回までですか」と他者を赦すために歩み出そうとするペトロを励まし、また私たち教会の歩みをも励まし、この世へと遣わそうとしているのです。

 

*赦すことができない私たち

しかし、このたとえの後半にあるように、話はそう簡単にいかない現実があります。この莫大な借金を赦してもらった家来は、その足で、自分に借金をしていた仲間の首を絞め、しまいには牢に入れてしまいます。赦された者が、他者を赦すことができない姿が描かれます。私たちもまた、この家来が犯してしまうような、他者を赦すことができない経験を何度もします。私たち神様の恵みによって罪赦された者の歩みは、すぐには、他者を赦すことができるか問われれば、それはいつまでも未完成だと言わざるを得ません。しかし、このたとえを通して、私たちは、やはり、自分たちの行い、それはどこか不自然なことであるのだ、ということに気づくことはできます。キリストの十字架の恵みを受けている者として、この感覚は大変大切な感覚です。他者を赦せないとき、私たちはキリストの恵みを思い起こさずにはいられません。何度も自分たちに罪を犯す者に出会う時、その者を赦すことができない時、キリストがあの重い十字架をたった一人で背負い歩まれた姿を思い起こさずにはいられません。終わりの日、キリストが再び帰ってくるときに、私たちは堂々と胸を張って神様の御前に立てるのか。それは依然として、私たちが判断することができない、神様の御手に中にある事柄です。しかし、分かっていることがあります。終わりの日、帰ってくるこのキリストこそ、私たち一人一人を命がけで愛してくださった方であるということです。どこまでも神様に、そして隣人に罪を犯しつづける私たちをなお、神様はそのままで見捨てておかれないということです。ここにこそ、私たち教会が立つべき場所があります。キリストの恵みこそ、私たちはいつでも心に刻み、何度でも、自らのあり方を問い続けるべきであるのです。あなたの罪は赦される。神様は今日私たちを無下に放っておくということはいたしません。私たちの傍らにいて、いつも私たち一人一人の手を取り歩んでくださっている。私たちの神は、神我らと共にあり、インマヌエルの神様なのです(マタイ1:23)。神様は、私たちに必ず、他者との和解という恵みをお与えくださる。和解こそ、私たちがこの地上で与えられる、何物にも変えがたい喜び、神様からのプレゼントです。私たち一人一人も、その恵みにあずかる日を期待しつつ、生きることができる。人生とは、神と和解させられた者たちが、他者との和解の喜びに生きることができる、恵みに満ちた時間なのです。私たちは、この喜ばしい和解の福音を一人でも多くの人に届けたいと願います。あなたの罪は、主イエス・キリストの十字架によって担われ、赦されている。あなたは必ず、他者との和解に生きることができる。主イエスが今日も私たちと共にいてくださる。あなたも神の愛の中にあるのです。

1月13日の説教要旨 「約束を守ってくださる神様」 平賀真理子牧師

イザヤ書11:1-5 マタイ福音書2:13-23

 

*はじめに

イエス様が、異邦人に初めて公けに現れてくださった出来事(マタイ福音書2章1-12節)を先週は話しましたが、今日はその続きの箇所です。神様は、ユダヤ人との約束を御言葉で明示し、それを必ず守って、救い主をお送りくださったことが、3つの預言からわかります。

 

*人間の計画ではなく、神様の御計画のみが実現する!

今日の新約聖書の箇所の直前に、異邦人である「東方の占星術の学者達」に夢でお告げが与えられて、彼らはヘロデ王の所には寄らずに、自国へ帰って行ったことが書かれています。「本当のユダヤ人の王」を見つけたら、自分の所へ寄って、報告しなさい」というヘロデ王の命令よりも、夢のお告げを彼らは重んじました。そのようにして、神様は、御自分を知っていながら御言葉を信じない者達(ヘロデ王及びユダヤ教指導者達)ではなく、異邦人に最初に救い主を礼拝させるという御計画を実現なさいました。一方、ヘロデ王を代表とする人間達の計画、救い主を殺してしまう計画は、最初の段階でつまずきました。

 

*残忍で執拗なヘロデから逃れるために、夢でお告げを授けた神様

しかし、東方の占星術の学者達が自分の命令を無視しただけで、自分の地位を脅かす幼子を殺害することを諦めるようなヘロデではありません。だから、神様は、イエス様のこの世での父親であるヨセフに、またもや夢でお告げを授けました。「家族を連れてエジプトへ逃げよ」と。

 

*エジプトに関係する、ユダヤ人のリーダー「モーセ」

神様によって、一度はエジプトへ退いた人物が、そこから導き出されるというストーリーを持ったリーダーと言えば、ユダヤ人は、すぐに「モーセ」を思い起こします。モーセは、エジプトで苦しめられていたユダヤ民族を脱出させるために、神様が用意なさったリーダーです。マタイ福音書の主な読者として想定されたユダヤ人達にとって、モーセこそ、神様が自分達に授けるという約束した救い主のイメージでした。

 

*預言①「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」

15節の聖句「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」は、預言者ホセアの預言(ホセア書11章1節)から引用されていますが、これは、幼子イエス様がモーセと同じであることを証ししようとしているのです。ユダヤ人なら、モーセがそういう歩みをしたことを知っており、ここに書かれた幼子イエス様が同じ運命であれば、イエス様はモーセと同じように神様がくださるリーダーだと連想できるのです。更に、15節後半の「預言者を通して言われていたことが実現する」という、神様への絶対の信頼が、ユダヤ人達にはあるということを、大前提として、この箇所は理解する必要があります。

 

*預言②「ラケルが嘆き悲しむ」という内容の預言

ヘロデ王は、ユダヤ人の王となる幼子を特定できなかったので、ベツレヘム地方の2歳以下の男の子を殺させました。このことは、ユダヤ人にとって大変な悲しみとなりました。だから、ユダヤ民族の母ともいえるラケルという女性が草場の陰から泣いているということを表現しようとして、エレミヤの預言(エレミヤ31:15)を引用しました。更に、深く読むと、救い主の御降誕という神様の喜びの出来事が、人間の罪によって悲しみに変えられたと読めます。後々の主の定めにも、殺害されるという悲しみ(十字架)が潜んでいると暗示されているようにも思えます。

 

*預言③「彼はナザレの人と呼ばれる」

ヘロデ王は紀元前4年に死に、彼の相続者である息子3人のうち、一番ひどい人物が「アルケラオ」で、彼が治めるユダヤ地方を避け、彼よりはましだと言われたヘロデ・アンティパスが治めるガリラヤ地方、その中の「ナザレ」に、イエス様は住むように神様は導かれました。イエス様が生前「ナザレ人イエス」と呼ばれたのは、23節「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言の実現だと証しされているのですが、実は、文字どおりに書かれている預言は聖書にはどこにもなく、「ナザレ」という音がイザヤ書11章1節の「若枝」という言葉「ナーツァレ」に似ているので、ここからの引用だろうと言われています。今日の箇所で「イエス様は預言どおりの救い主だ」と預言を重ねて証しされており、その根底には、私達の信じる神様は、人間との約束を必ず守る御方という絶対的な信頼があります。

1月6日の説教要旨 「主を礼拝する人々」 平賀真理子牧師

イザヤ書60:14-16 マタイ福音書2:1-12

 

*はじめに

 今日は2019年に入って初めての聖日礼拝であり、しかも、1月6日という特別なお祝いの日と重なりました。教会暦では1月6日は公現日といって、異邦人にイエス様の救いが初めて現れた日として、月日が固定されたお祝いの日です。異邦人に初めて救い主イエス様が御姿を現したと記しているのが今日の新約聖書箇所です。(マタイ2:1-12)

 

*聖書における「異邦人」

聖書では、本当の神様は、御自分の民として、アブラハムの子孫であるユダヤ人達を選んだと記しています。従って。ユダヤ人達は、自分達を「神の民」または「神様から神の言葉である律法をいただいた民」と自負していました(これは選民思想と言われます)。一方、それ以外の民族の人々を「異邦人」と呼んで、自分達と区別した上で、神様から選ばれなかった人々として蔑んでいました。

 

*異邦人から救い主誕生の知らせを受けたユダヤ人

今日の箇所に出てくる「占星術の学者達」は、もちろんユダヤ人ではありません。東方から来たとあります。東方とは、恐らくペルシャ、今のイラン辺りと言われています。ペルシャには、その昔、新バビロニア帝国があり、この「異邦人の国」の首都バビロンに、かつてユダヤ人達は不本意にも捕虜となって連れてこられました。ユダヤ人達は、これは、自分達の不信仰が招いた結果だと考えました。この「バビロン捕囚」は約50年間続き、ユダヤ人達は、この出来事を負の歴史と考えています。しかし、神様はこの出来事をも意味あるものに変えてくださいました。その一つが、ユダヤ人達の思想=「救い主が人間として生まれる」という考えが、バビロンにも広まっていたことです。そして、イエス様がお生まれになった頃、この地域一帯で「救い主御誕生」を期待する気運がより一層広まっていたそうです。

また、この「占星術の学者達」は、神様が造られた自然における法則を熟知しており、通常とは違う動きをする星を見つけ、そして、ユダヤ人達から聞いていた話を関連付け、「救い主誕生」と確信したのでしょう。

 

*ヘロデ大王とユダヤ人の学者達の反応

イエス様がお生まれになった頃、エルサレムを治めていたのが、ヘロデ大王です。彼自身はユダヤ人と南隣りのイドマヤ人の混血であったために、統治している生粋のユダヤ人達からは蔑まれていました。おまけに、この地方を治める権威を「異邦人の国ローマ帝国」から策略によって保障されていたのでした。ですから、ユダヤ人達が長い間待望していた「ユダヤ人の王」が生まれることは、彼自身が王位を奪われることとなり、彼は長年これを恐れてきました。とうとう、東方から来た学者達がそのような情報を持って来ました。ヘロデは自己保身のために、彼らを手先として利用し、後々、本当のユダヤ人の王である幼子を殺そうとしました。彼だけでなく、ユダヤ人学者達やユダヤ教の宗教指導者達さえ、「救い主はベツレヘムに生まれるという預言があります」と口先で冷たく答えるだけでした。彼らこそ、本来は「救い主御誕生」の知らせに喜んで救い主の許へ馳せ参じるべきだったのに、そうしていないようです。彼らは、神様のもう一つの御言葉である預言を信頼していなかったのか、もしくは、蔑んでいた異邦人から「救い主誕生」という情報を得るという現実を、プライドが邪魔して容認できなかったのか、でしょう。

 

*救い主に対する「異邦人の初めての礼拝」から示されたこと

人間の様々な思惑の中で、しかし、神様は御自分の御心を確実に実現なさいました。異邦人の学者達を導いた星を消さずに、その星によって彼らが救い主の所にたどり着くよう導かれました。何と、異邦人達が先に、幼子イエス様を「本当のユダヤ人の王」として見つけ、喜びに溢れたのです!その彼らが初めにしたのは、イエス様にひれ伏して拝み、宝物を献げたことです。これは、同じく異邦人である私達の礼拝の初めの形と言えるでしょう。救い主に出会うことは、それ以前の自分を捨て、神様の御前に身を投げ出すことです。私達の礼拝は形式上、そうはしませんが、心の内ではそのような姿勢で臨むべきだと思います。また、彼らは宝物を献げたことも肝に銘じるべきです。自らと自らの持ち物すべてを主に喜んで献げることが、本当の礼拝だと示されているからです。

12月30日の説教要旨 「聖霊に導かれた人々」 平賀真理子牧師

イザヤ書57:14-19   ルカ福音書2:22-38

 *はじめに

 私達の救い主イエス様の御降誕について、今年のアドベント・クリスマスの時期は、ルカによる福音書を読んできました。今日は、そのシリーズの最後です。ルカ福音書1章から2章21節までで、「救い主御降誕」は、この世の人間を本当の意味で救うために、人間を愛してやまない神様が準備なさって実現したものであること、また、それを人間に知らせるために「天使の御告げ」があったと語られていると読み取れます。(「天使の御告げ」は、本当の神様が天使に託した御言葉です。)ところが、今日の箇所以後、暫時、ルカ福音書では、天使の御告げや活動は語られませんし、今日の箇所では、それまでの「天使」ではなく、「聖霊に導かれた人々」が救い主御降誕について語るように用いられています。

 

 *エルサレム神殿で「聖なる者」とされたイエス様

ルカ福音書2章21節―24節では、救い主のこの世での両親に選ばれたヨセフとマリアが、ユダヤ教の律法に従い、イエス様に割礼を施し、命名し、神殿に献げ物をしに来たことが記されています。このような信仰深い家庭を築く心根を持った夫婦に、神様が御子を託したと言えるのではないでしょうか。

また、この箇所で重要なことは、イエス様が、ユダヤ教の総本山であるエルサレム神殿で「聖なる者」とされたことです。イエス様は神の御子ですから、神様の御座所である「天」では勿論「聖なる御方」です。そこから降りて来てくださった「この世」でも、生まれてすぐに「聖なる者」にされたことを、私達は喜びたいものです。

 

 *聖霊に導かれたシメオンが「救い主」に出会う!

2章25節では、神様の前に義とされる生活をしていて、信仰があつい、シメオンという人が「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」とあります。これは「イスラエル民族に救い主が生まれることを切望していた」という決まり文句です。そして、このシメオンには、聖霊がとどまっていたのですから、最強の信仰者と言えるでしょう。

 

 *「聖霊」の働き

「聖霊」に導かれると、人間はどうなるのか?25節―27節で、はっきり示されています。まず、25節でわかることは、聖霊は人間を信仰生活に導く働きをすることです。人間が神様の恵みを受けるのにふさわしいように教育するわけです。次に、26節では、聖霊は信仰者に神様の約束を確信させているとわかります。それに加えて、27節では、聖霊は信仰者を神様の約束どおり「救い主」に出会えるように導いているとわかります。このようにして、聖霊に導かれたシメオンは、神の御子イエス様がエルサレム神殿で「聖なる者」とされる瞬間に立ち会えて、最大の願望であった「救い主に出会う」以上の恵みを得ました。つまり、「救い主」を自分の腕の中に抱くという最高の恵みをいただいたのです。

 

 *聖霊に導かれたシメオンは、天使の御告げ以上のことを語る!

キリスト教界で「シメオンの賛歌」(ルカ2:29-32)と言われる箇所で、実は、天使の御告げ以上のことが言われています。この幼子イエス様はイスラエルの民が願ってきた「イスラエル民族の救い主」以上の存在になるということです。聖霊に導かれた人間シメオンの口を通して発せられた「賛歌」で、救い主イエス様は、「異邦人(ユダヤ人でない、世界中の人々)」をも照らすと謳われ、そのような救い主が生まれたことで、イスラエル民族は「誉れ」とされることがはっきり示されています(32節)。

 

 *喜ばしい「救い主御降誕」を受け止めきれない「この世の人間達」

しかし、同時に、シメオンは、人間がこの喜ばしい出来事を正しく受け止めきれないと預言します(34-35節)。神様が人間を愛する故に実現なさったことを、悲劇に変えてしまうほど、人間の罪は重いのです!

 

 *女預言者アンナも聖霊に導かれて、救い主の証しに用いられる!

36節-38節の「アンナ」は、当時の社会では弱い立場のやもめですが、神の恵みによって聖霊をいただき、神様の御言葉を受ける預言者とされ、救い主イエス様に出会い、主を証しする御業に用いられています。

 

 *私達も聖霊に導かれて、イエス様に出会う恵みを賜っている!

シメオンとアンナは、聖霊に導かれてイエス様に出会いました。イエス様と既に出会っている私達も、実は「聖霊に導かれた人々」です!

 

12月23日の説教要旨 「この世に来られた救い主」 平賀真理子牧師

イザヤ書9:1-6  ルカ福音書2:1-21

 *はじめに

 私達の救い主イエス様について、お生まれになった経緯を具体的に記録しているのは、4つの福音書のうち、マタイによる福音書とルカによる福音書です。そのうち、ルカによる福音書だけが「人間世界の記録」を意識していると言えます。というのは、イエス様がお生まれになった時を、当時のローマ帝国のアウグストゥスという皇帝の治世の時と明記しているからです。更に限定された時と地域が示されます。ローマ帝国の役人「キリニウス」がシリア州の総督だった時と記されています。このように、ルカ福音書では、人間世界の記録で重要な「時と場所」を意識して表記しています。イエス様が本当に「この世に来られた御方」であることを伝えようとしていると読み取れます。

 

 *「救い主についての3つの預言」がすべて実現

この福音書の1章では「天使のお告げ」等があって、幾分「物語」のようでもありますが。2章に入ると、上記の理由で、俄然、この世に本当に起こった出来事、つまり、事実の記録の度合いが高まります。そして、イエス様のこの世における父親役を引き受けるヨセフに焦点が当てられます。イエス様の母に選ばれたマリアの婚約者であるヨセフは、まず、ガリラヤに住んでいながら、しかし、ローマ皇帝の命令によって、先祖であるダビデ王の町ベツレヘムへ一時的に出かけるように設定されなければならなかったのです。というのは、「救い主」についての3つの預言を実現させる必要があったのです。一つは、ダビデ王の預言者だった「ナタン」を通しての預言「ダビデ王の子孫から救い主は生まれる」(歴代誌上17章)ということがイスラエルの人々によく知られていたのです。二つ目は、今日の旧約聖書イザヤ書9章の直前の1行に記されている「異邦人のガリラヤが栄光を受ける」という預言です(ガリラヤはイエス様の育った土地、所謂「故郷」)。三つ目は、ミカ書5章1節にある預言「ベツレヘムからイスラエルを治める者が出る」という内容です。神様は、イスラエルの民に告げた、一見内容の異なる3つの預言を、このように人知を超える形で、実現してくださったのです!ダビデ王の子孫でガリラヤに住むヨセフに、身重の婚約者を伴う旅をさせ(皇帝の命令には逆らえない!)、旅先のベツレヘムで「救い主」として御自分の独り子をこの世に誕生させるように、神様がなさったのです。

 

 *「神様をお迎えする場所を用意しているのか」という問い

神様がイスラエルの人々への預言をこのように守ってくださっているのに、それを受ける側の人間達はどうだったかと言えば、イエス様が待望の救い主だとわからず、最初の時から、救い主の場所は用意されていなかったわけです。7節「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあります。これは、当時の状況を述べているだけではなく、私達も、この世の出来事でいっぱいいっぱいになって、神様のおられる場所を、心の中に確かに開けているかどうかを問われていると受け止めるべきです。

 

 *天からのお告げを受けて信じる者のみ「救い主」を礼拝できる!

ただ、7節までに記された人々は、救い主がこの世に生まれたことを知らされていなかったようですから、そのような態度となったことも仕方なかったのかもしれません。一方、それとは対照的に、8節からは「救い主御降誕」を天使によって知らされた「羊飼いたち」の様子が記されています。羊飼い達は、当時のユダヤ教では、仕事柄、礼拝を守れないダメな人々、「神様の恵みを受ける資格のない人々」とされていました。けれども、人間の基準で低く見られていた彼らに、神様からの大事な知らせ「救い主御降誕」が最初に告げられました。彼らは、天使の言葉(即ち、父なる神様から託された御言葉)を受け入れ、信じ、その内容を確かめに闇夜の中で歩み始めました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」というしるしを目当てに、イエス様を探し当てて拝み、この重要な知らせをくださった神様を賛美する恵みを最初にいただきました。キリスト教では、イエス様は「神様の御言葉としての存在」と申します。神様の御言葉であるイエス様を中心に、天使のお告げを受けたヨセフとマリアと羊飼い達が礼拝するという信仰の形が、既にできていたのです!ここに、私達プロテスタント教会が大事にしている信仰、つまり、御言葉をいただいて礼拝する信仰が示されているのです!

12月16日の説教要旨 「イエス・キリストの誕生の予告」 平賀真理子牧師

イザヤ書7:14  ルカ福音書1:26-38

 *はじめに

 前回、洗礼者ヨハネは、救い主イエス様の先を歩み、「主のために荒れ野に道を備える者(イザヤ40:3)」として、最初から、神様の御計画の重要な一部だったことをお話ししました。このヨハネの父親であるザカリアに対して、息子の誕生を予告したのが、天使ガブリエルでした。

 

 *天使ガブリエルが、イエス様の母親となるマリアへ受胎告知する

その同じ天使ガブリエルが、私達の主イエス様がお生まれになることを、イエス様の母親として選ばれたマリアの所へ受胎告知に来ました。

 

 *洗礼者ヨハネの場合は父親へ、救い主イエス様の場合は母親への告知

洗礼者ヨハネの場合は、お告げを受けたのは、父親ザカリアだとルカによる福音書は記しています。ところが、救い主イエス様の時には、母親として選ばれたマリアがお告げを受けました。一方は父親に、もう一方は母親に、それはなぜでしょうか。

正解は神様だけが御存じですが、それでも想像してみたいと思います。私は四つ想像しました。一つめは「本当の父親の違い」、二つめは「低くされた者を高くするという神様の御心」、三つめは「予想される結果の違い」、四つめは「イエス様を巡る役割の違い」です。

 

 *本当の父親の違い

洗礼者ヨハネの父親は「祭司ザカリア」、つまり、人間です。ところが、イエス様の父親は、本当の神様です。その御方がイエス様をこの世に送るのことをお決めになったのです。だから、その直接の受け手である人間としての母親に選ばれたマリアに、まず告知される必要があったということでしょう。もちろん、この世における父親の役割を引き受けるヨセフも重要な存在です。救い主が生まれるのは、ダビデ王の子孫からという預言がよく知られていました。神様は、この預言を守るために、つまり、民の期待に添うために、マリアの産む子がダビデ王の血統のヨセフの子供とされることを重んじて、実現してくださったのです。

 

 *低くされた者を高くする神様の御心

洗礼者ヨハネの父親ザカリアは祭司であり、当時の社会では最も尊敬される階級でしたし、天使のお告げの時は都にあるエルサレム神殿で一世一代の重要な任務を遂行中で、人間界において最高の立場にいました。一方、イエス様の母マリアは、田舎のガリラヤの一介の年若い女性です。人間的に言えば、重んじられるのはザカリア、軽く見られるのはマリアです。しかし、ザカリアの息子ヨハネは決して救い主ではなく、その露払いとでもいうべき存在です。マリアの息子として生まれるイエス様こそ救い主です。人間界で低くされた者と高くされた者が、神様の御前においては逆になる、本当の神様の御心はそのような御性質をお持ちです。高くされて傲慢になっている人間の心は、神様の御心に合わないのであり、低くされた者の謙遜をこそ、神様は愛されるのです。

 

 *予想される結果の違い

ザカリアの場合、息子の誕生は長年の願いが叶うことであり、ザカリア夫婦や周囲の人々も喜んで受け入れられることです。一方、マリアの方は、婚約中であるとは言え、夫婦生活に入っていないのに身ごもるのは、婚約者や周りに姦通を疑われ、死罪も覚悟せねばなりません。だから、マリアが自分の判断では妊娠するはずがないと言って、天使の言葉を一旦否定するように答えたのに、ザカリアとは異なり、彼女は罰せられず、天使は「それは聖霊(神の霊)の業だ」と丁寧に説明を重ねます。

 

 *イエス様を巡るザカリアとマリアの役割の違い

洗礼者ヨハネは「イエス・キリスト」に対して、人々の心を霊的に準備(悔い改め)させ、また、イエス様が「救い主」としての公生涯を始める時の儀式である洗礼を授けるという重要な任務を課せられていました。つまり、イエス様のこの世における霊的準備を担う存在です。ザカリアはそのヨハネの生育を担ったわけで、イエス様に対しては間接的です。一方、マリアは聖霊を受けて胎内に「神の御子」を宿し、この世での人間という肉体を取らせて生育するという直接的な存在です。だから、母マリアの方に天使が告知したことをルカ福音書は強調したと推測されます。イエス様の母親に選ばれたマリアの「(主の)お言葉どおり、この身になりますように(38節)」という全き従順さを私達は目標にしたいものです。

11月25日の説教要旨 「主によって満たされる」 平賀真理子牧師

イザヤ書61:5-11  フィリピ書4:4-14、19

 *はじめに

 今日は、収穫感謝礼拝の日です。「収穫を感謝する行事」は、他の宗教や文化の中にも数多くあります。食べ物が豊かであれば、生存を保証されて人間は嬉しいわけです。また、人間の力を越えた「偉大な存在」が、自分達のために実りを生み出してくださったと感じ、その偉大な存在に畏敬の念を持つことは、どの人間社会でも見られます。

 

 *キリスト教の神観<その一>

キリスト教における「偉大な存在」である「本当の神様(以下、「神様」と表記)」は、何が特徴なのでしょうか。2つのポイントを押さえる必要があると私は思います。一つは、「神様」を、唯一の神様として、この御方がこの世界全部を無から造り、人間が喜びに満ちて生きる準備を整えてくださった御方、所謂「天地創造の神」だということです。一方、他の宗教などを基盤とする社会では、この世にある(人間が目に見える)全部を神様と捉えることが多いようです。それらは、「太陽」や「大地」を神様と定めたりしますし、また、「水の神様」「風の神様」「田んぼの神様」等、複数いる神様に向かって人間が担当を与えたりします。

 

 *キリスト教の神観<その二>

さて、キリスト教の神観の特徴の二つ目は、先に述べた、天地創造の神である「神様」が、御自分の存在無しで苦しむ人間のために、御子をこの世に送り、更には十字架で犠牲にすることで、人間が再び御自分につながって生きられるように導いてくださる御方だということです。創世記3章にあるように、神様の御言葉を疑って、自ら罪に陥る事件を起こした人間に対し、「神様」は徹底的な愛を示してくださいました。ダメな人間達を見捨てず、再び、御自分に結び付ける方法、即ち、人間の罪を贖う方法を考えてくださり、それを実現するべく、この世に働きかけてくださいました!人間の罪の贖いを担う神様というのが、キリスト教独自の神観です。罪のない「神の御子の命の犠牲(十字架)」という代償を払って、罪を受け継いだ人間を御自分の民として、真剣に取り戻そうとなさいます。これは「神様の愛」の現れです。それに加えて、主の恵みは、「十字架」で終わらないで、その先に「主の復活」があります。主の十字架と復活を信じることで、人間は、生死を越えた「神の国の民」とされるようになりました。これこそ、最大で、徹底的で、完全な「神の恵み」です!だから、キリスト教で証しされている「神様」に対して、私達は、その恵みを深く感謝したいと心から欲するのです。

 

 *「主にあって」=「神様」の御子イエス様と心で一致して

「フィリピの信徒への手紙」の著者パウロは、以上のことを深く理解した上で、「主にあって常に喜びなさい」(4節)と教えました。「主にあって」とは「心の中でイエス様と一致している」ことと言えるでしょう。そのためには、今の時代の信仰者である私達は、福音書や新約聖書全体をよくよく読み込んで、イエス様がどのような御方かを知る必要があります。

 

 *イエス様から受け継がれた「広い心」(5節)

主と一致することで賜るものに「広い心」(5節)があります。イスラエル社会では「律法」が神様の正義を表すとして尊重されましたが、イエス様は、それだけでは救われずにいた多くの人々を「広い心」で実際にお救いになりました。律法の基盤である正義よりも、福音の基盤である「広い心」こそ、「神様の愛」をより明確に証しすると言えます。

 

 *「主によって満たされる」ことを信じて歩む幸い

それだけでなく、「神様」は、フィリピ4:8に書かれた「良きもの全部」の源なので、救い主イエス様に一致する者に、その良きもの全部を「主と共有できる」恵みをくださいます。また、「天地創造の神様」は、この世での必需品をも人間に与える権威があるという信頼により、信仰者は物資の心配から解放され、「神の平和」(7節)が得られます。パウロが証ししたように、信仰者はこの世での状況に左右されずに、「主によって満たされる」と信じ続けられ、この世の物への思い煩いを乗り越えられます。そして、本当の喜びの源である福音の伝道に邁進できるのです。私達信仰者も、フィリピの信徒と同じく、「神様」によって、自分達が求めている物は勿論、それ以上の本質的な恵みをいただくことができます。信仰者は「主によって満たされていく」喜びの生活へ招かれているのです!

11月11日の説教要旨 「実現する預言と弟子の備え」 平賀真理子牧師

イザヤ書53:6-12 ルカ福音書22:31-38

 

 *はじめに

 今日の新約聖書箇所の前半の段落では、残念なことに、イエス様の一番弟子と目されるペトロさえ、サタンからの厳しい試練に遭うというイエス様の預言と、それに対して、ペトロ自身は、イエス様の預言よりも、自分の覚悟を信頼していたことが示されています。人間的に考れば、ペトロにいささか同情したい気もします。しかし、イエス様は、迫り来るサタン(の試練)に対して、弟子達に気づかせて、備えをさせることの大いなる必要に迫られていたのだと気づかされます。

 

 *ルカ福音書22章に度々現れるサタン

ルカ福音書では、4章13節にあるとおり、イエス様に対しても試練を挑んだサタンは「時が来るまでイエスを離れ」ました。そして、再び、イエス様の御許へサタンが来る時がいよいよ来たのです。22章でのサタンの動きは、3節では「十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに入った」とあり、31節では「ペトロや弟子たちをふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とあり、53節ではサタンは「闇」と表現されています。こうして、この世の長サタンがイエス様をこの世から排除し始めたことをイエス様は御存じだったのです。

 

 *神の御子・救い主イエス様や弟子達に必死で試みるサタン

もちろん、イエス様はサタンの支配するこの世に勝利されますが、しかし、サタンは負けまいと必死で抵抗することもイエス様はわかっておられました。その勢いは大変激しく、イスカリオテのユダの裏切り、ペトロの一時的な裏切りだけでなく、イエス様御自身も十字架で死ぬことにならなければ、サタンは納得しないというものでした。

 

 *主が、サタンの試練に弱い弟子達のために祈ってくださる!

すべてがおわかりだったイエス様は、サタンの試練に抗しきれない弟子達を責めるつもりではなく、励まそうとなさっていたと読み取ることができます。ペトロが(弱さ故に)イエス様を知らないと言ってしまう事態になっても、絶望しないでほしいとイエス様は願っておられるのです。なぜなら、「立ち直って、兄弟(信仰における仲間)を力づけてやりなさい」(32節)とペトロに主が期待されているからです。だから、イエス様はペトロのために「信仰が無くならないように祈った」とおっしゃいました。主は弟子のために祈ってくださるのです!実は、これは、時空を超えた弟子たる私達も該当します、つまり、私達は主に祈られているのです!

 

 *主は「弟子達すべてがサタンの試練を受ける」と心配なさった

ペトロと同じような試練が、他の弟子達にもあることを御存じのイエス様が、弟子達に語られたのが、35節以降の(今日の箇所の後半の)段落です。

かつて、サタンがイエス様を離れていた時になされた「弟子達の福音伝道旅行」の恵みを思い起こすように主は語られました。この時にはサタンの妨害はなく、主の恵みや御力が弟子達に及んだのです。ところが、主がこの世に不在となって、サタンの攻勢が激しくなれば、必需品を備えることすらも困難になると、イエス様は心配なさったのでしょう。御自分の救いの御業が完了するまでの間、弟子達は「犯罪人の一味」と見なされ、社会から疎外されて苦難の道を歩むことになると予知なさっていたのです。

 

 *主の御言葉と主の御心と弟子達の備え

もちろん、イエス様は犯罪人ではないし、罪もない御方です。しかし、イザヤ書の「主の僕の苦難と死」の預言(52章13節―53章12節)が、父なる神様の御心にある「救い主の姿」であるとイエス様だけが御存じで、37節にあるとおり、人間の罪を背負って苦難を味わう「救い主」の預言が、御自分の上に実現し、弟子達にその現実が迫り、彼らが試練を受けることを心配なさったのです。弟子達は、36節の主の御言葉を受け、特に、剣に注目して「二振りある」と答えました。イエス様は、弟子達が「主の不在」という不安の中、備えとして剣の所持を許可なさっただけで、その使用は望んでおられなかったはずです。しかし、すぐ後の「主の逮捕」時に使用され、被害者の癒しをイエス様がなさる出来事が起こります。主の御言葉に従うつもりでも、人間は、主の御心を理解できずに、自分の都合のいいように解釈して利用してしまう弱さが示されています。主の預言(御言葉)の奥にある「主の御心」を理解したいと祈り求めつつ、私達は、信仰上の備え(「霊の剣」=神の言葉 など ※参照:エフェソ書6:10-20)を怠りなく進めたいものです。

9月9日の説教要旨 「神の国の到来に備えて」 平賀真理子牧師

イザヤ書24:17-23 ルカ福音書21:29-36

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、イエス様による預言の後半部分です。この前にもイエス様は預言なさっていて、その内容は、エルサレムの滅亡と天変地異ということでした。一見恐ろし気な内容ですが、しかし、イエス様を救い主と受け入れて生きた者は、その出来事の果てに、主が再臨なさる希望が持てるという内容で、それを踏まえた上での後半です。

 

 「いちじくの木のたとえ」

小見出しは「いちじくの木のたとえ」とありますが、今日の箇所ではいちじくの木だけでなく、「ほかのすべての木」も30節以下のこと、つまり、木の葉っぱが出始めると、人間は夏が近いと悟るという事実を主は挙げておられます。当時の一般庶民は、暦や時計を持っておらず、自分達の感覚で分かる変化を認識して初めて、時の変化を知ることができました。特に、農業・漁業・林業・牧畜業に従事していた人々は、その現象に敏感であり、その知識を継承していたという背景があります。イエス様は、御自分の最大の関心事「この世に神の国が到来する」前にも、同じように「徴」が現れることを、語っておられるのです。この直前に語られた恐ろし気な現象が起こった時に、信仰者のない人々が怯えても、御自分を救い主と受け入れた信仰者達には、神様の絶対的な守りがあり、かえって希望が持てると主は語られてこられました。なぜなら、都の滅亡と天変地異と主の再臨こそが、地上に「神の国」が到来する「徴」となるからであり、「神の国の到来」こそが、父なる神様と御子なるイエス様の最大の関心事、かつ、喜びであり、「終末」は終わりを意味するのではなく、その先に、信仰者が神様と共に喜べる世界の到来という意味があるのだということを主は教えてくださっているのです。

 

 「この時代は滅びない」(32)

「この時代」とは、イエス様がお語りになった当時だけを指すのではなく、「同じ時代の人々」という意味があります。また、それだけでなく、御自分を救い主と受け入れた人々のことだと思われます。「主と心を同じくする人々」のことです。だから、これは、現代の信仰者である私達も決して滅びないと、主が保証してくださっていることでもあります。

 

 「天地が滅びても、わたしの言葉は決して滅びない」(33)

主が預言なさった「都の滅亡と天変地異」は、「天地が滅びる」ようだと受け取る人もいるでしょう。また、33節を言葉通りに読むと、天地は、神様が造られた被造物なので、滅ぶこともあり得るとも言えます。その一方、永遠なる神様(父なる神様と御子イエス様と「主の御言葉」)は決して滅びることはないのだから、主を信じて結ばれている弟子達も決して滅びないと、イエス様は弟子達に熱心に伝えようとなさっておられます。

 

 「心が鈍くならないように注意しなさい。」(34)

但し、人間をよくご存じのイエス様は私達に宿題を出されていると感じます。34節-36節を見ましょう。人間は、救われたと言われると安心し切ってしまい、放縦や深酒や生活の煩いなど、信仰を持つ前と同じ問題によって、信仰心が鈍ることがあると主は見抜いておられます。だから、信仰者に対し、「終末の日」が不意に罠のように襲うから、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい」と命令なさいました。信仰者として、心の準備が整った状態で「終末=主に出会う日に備えてほしい」という、イエス様の願いが現れています。

 

 「いつも目を覚まして祈りなさい」(36)

ここでの「目を覚ます」とは、もちろん、肉体的に眠らないで起きているということではなく、「信仰において」目覚めているということです。教会生活を続けていると、「洗礼によって、罪の赦しを受けたのだから、その後は教会には行かない」と言って、俗世間に戻ってしまい、教会での信仰の訓練を避けようとする人を時々見かけます。彼らは、信仰的に成長するチャンスを逃しており、それは主の御心ではありません。

また、キリスト教での「祈り」とは「主との対話」で、私達日本人が行う「願い事の羅列」は、「祈り」とは言えません。主に自分の思いを打ち明けても良いのですが、祈りの最後には「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と主の御心を聴いて従う姿勢が求められます。イエス様の「ゲツセマネの祈り」(マタイ26:39)に倣って、私達も祈り続けましょう。

7月22日の説教要旨 「神の御言葉、とこしえに」 野村 信 先生(東北学院大学)

イザヤ書40:6-8 ヨハネ福音書1:14

 はじめに

本日は、皆さんと一緒に、聖書の御言葉を味わいたいと思います。イザヤ書40章6節-8節に集中して、お話をしていきたいと思います。

 

 「草は枯れ、花はしぼむ」→この世の「栄枯盛衰」を表す

砂漠は温度が高い所ですから、朝に草が生えても夕方には焼けて干からびてしまいます。しかし、ここで、イザヤは植物のことを言いたいのではありません。栄えていたものもいずれは衰えます。企業も団体も国もそうです。これは万物の法則と言えるでしょう。栄枯盛衰はこの世界の定めです。この世界に全く変わらずにいつまでもあり続けるものがあれば、それは頼りがいがあるに違いありません。

 

 この世に、本当の意味で頼りがいがあるものがあるのか?

この世で頼りがいのあるものは何でしょうか?答えとして、今も昔も「お金」だったり、「幸福」とか「愛」とか「家庭」とか「健康」等があげられるでしょう。しかし、死にゆく時はすべて捨てていかなければなりません。この世で完全なものはありません。

 

 「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」

今日の旧約聖書の御言葉「神の言葉はとこしえに立つ」は、旧約聖書全般を通しての教えです。いつまでも神の言葉はなくならない、存続すると言っています。それはそれでわかりますが、何か頼りないと私達は感じます。言葉は、言いっぱなしで人をその気にさせますが、私達は手で触れて確かめることのできるものを信頼したいと思ってしまいます。

 

 人間が発するのではなく、神様からいただいた「預言」

このイザヤの預言は約2500年前になされましたが、この時代に頼りになったのは、多くの兵隊や軍隊、大きな要塞、豊かな食料や宝石などだと考えられた時代です。そんな時代に「神の言葉がとこしえに立つ」と宣言した教えは、この時代では、異様なことでした。これは人間には言えないことで、神様が預言者イザヤや民に教えてくださった大切な御言葉だと心に留めたいと思います。

 

 イスラエル民族の歴史を振り返って

イスラエルの民の国家であるイスラエル王国は、ダビデ王やソロモン王の時、大変栄えました。しかし、その王国もやがて北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。そして、北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国だけになりました。それもまた、紀元前586年に、バビロニア帝国に滅ぼされました。南王国の王様と貴族は、バビロニアの都バビロンに連行されました。イスラエルの民にとってつらいことは、国を失っただけでなく、「神から見捨てられた」ことで、大変に絶望しました。アブラハムの時代から、神様にお前達は特別だと言われていた民にとって、ショックだったことでしょう。その時こそ、預言者達が活躍し、彼らは、イスラエルの神様に従わなかったことで不幸がもたらされたと言いました。こういう中で、イスラエル民族は、旧約聖書を巻物として整え、今まで気づかなかったことに気づいていくようになります。

 

 奴隷に自分達の神々の像を拝ませたバビロニア帝国

さて、バビロニアは、征服した敵国の人々を奴隷にして、都バビロンで繁栄しました。そのバビロニア帝国は、年2回のお祭りをして、バビロンの神殿(高さ90m)で、奴隷達をバビロンの神々の巨大な像の前で跪かせて拝ませました。イスラエル民族は神の像を刻まない民なのは幸いだったと言えるでしょう。ところが、約50年後にバビロニア帝国は東から興ったペルシャ帝国に滅ぼされ、イスラエルの民は晴れて故郷に帰れるようになりましたが、故郷は廃墟と化し、復興の苦労が続きました。

 

 バビロンにあった、巨大な神々の像の末路

バビロンから解放される時、イスラエル民族は凄いものを見ました。それまで拝まれていたバビロンの神々の巨大な像を撤去せよということで、家畜を使って、多くの巨大な像が丸太の上を砂漠に向かって転がされ、砂漠の果ての死の世界にまで運ばれる様子です。彼らはこの時、「草は枯れ、花はしぼむ」ことが身に染みてわかったのです。この世の物、地上の物は土くれのように失われると教えられたのです。

 

 「神の言葉を心に刻め」

イザヤ書46章1節以降にそのことが表現されています。ここで言われる「ベル」は「マルドゥーク」というバビロンの最高神の別称ですし、「ネボ」はその息子と言われています。その巨大な神々の像が横たえられて、家畜によって運ばれ、重荷となり、沈んでいく、滅んでいく…。

ここに、繁栄したバビロニア帝国が滅びた様、神々を祭った人々の滅びが描かれています。地上のものを神と祭ってはならないとイスラエルの民は悟ったのです。砂漠で神の像を刻んだ宗教は全部滅びました。十戒にあるように「あなたがたはいかなる像でもって神を刻んではならない」のであり、「神の言葉を心に刻め」と「神の民」は言われていたのです。この戒めを守って生きていくことこそ、神の民に相応しいのです。これがイザヤ書40章になり、それが新約聖書に受け継がれました。

 

 旧約聖書を受け継いだヨハネ福音書:「神の言葉が肉となった」

ヨハネによる福音書1章14節には、「神の言葉」が肉となり、私達の間に宿られた、それが、イエス・キリストであるとあります。そのことをヨハネは感動の思いで記しています。民が長い間待ち望んだ神の言葉が、人間となったことが素晴らしいのです!

「イエス・キリストは偶像じゃないのですか」と問う人がいます。しかし、初期の教会の人々は、イエス・キリストを像に刻まず、偶像化しませんでした。その言葉や教えを心に刻みました。その御言葉を大事にすることを使徒パウロは「信仰」と呼び、ガラテヤ書4章で「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、産みの苦しみをする」という内容を記しました。この「形」は言葉です。この言葉を信仰として心に刻み、愛に満ちて生きていくように言われています。このように、イザヤ40章8節は未来に向けて語られた言葉であり、これがイエス・キリストに集約して、預言が完成して、新約聖書に記されています。

 

 福音書の疑問:主イエスが言葉を発するだけで実現するのはなぜ?

主が言葉が発するだけで、なぜ事実が伴うかという問いが生まれます。癒しにおいて、イエスが「清くなれ」と言うと相手は即刻癒されました。中風の人に床を担いで歩きなさいと言うとその通りになりました。

修辞学者でもあったアウグスティヌスは、言葉は何かを指し示すために使うものであると言っており、だから「言葉が肉を取り、イエスにおいて、言葉と現実が一つになったのだ」と言ってやまないのです。

一つの例として、主イエスが、ナインで一人息子を亡くした母親を見て憐れに思い、その息子に甦(よみがえ)るように言われて、そのとおりに生き返った出来事がありました。イエスの御言葉が素晴らしいだけでなく、現実にその通りになりました!人々は旧約の預言が、現実に肉となってイエス・キリストになったことに感動しているのです。旧約で教えられた「神の言葉」が、私達の中に現れたのが、イエス・キリストです。

 

 今や、「神の言葉」は主イエスの中に現れている!

 「言葉」とは出来事の葉っぱです。旧約聖書の時代では、神の言葉を頭につけたり、衣の裾に書き入れたりしていたのですが、今や、新約時代になりますと、イエス・キリストの中に神の言葉は凝縮されて現れたのです!人々は、この御方を心に受け入れて、生活を始めたのです。

 

 ヨハネ福音書における「主イエスの御言葉」

「真理はあなたがたを自由にする」(8:32)とは、何かの奴隷になっている私達を、真理(キリスト御自身)が解き放ってくださっていると言えます。また、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)の御言葉も挙げたいと思います。主は、私達人間に、何かをしなさいとはおっしゃっていません。わたし(主イエス)自身が道であり、真理であり、命であるから、わたしの上を通っていけ」とおっしゃっいました。その他にも、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)という御言葉もあります。人はその御言葉につながり、そのまま聞いて心に留めるべきであり、イエス御自身が貴い「神の言葉」です。また、死んだラザロも、主イエスに出て来なさいと言われて、甦りました!(11章)主イエス御自身も、3日目の復活を預言し、現実になりました。私達は新しい目や新しい心をもって、聖書を読むべきです。

 

 聖書の読み方

今日の旧約聖書箇所のイザヤの預言が、主イエスに具体的に示されていることが新約聖書に現れており、その恵みに私達は預かっています。私達はそのように受け止めて聖書を読んでいきたいと願います。