12月30日の説教要旨 「聖霊に導かれた人々」 平賀真理子牧師

イザヤ書57:14-19   ルカ福音書2:22-38

 *はじめに

 私達の救い主イエス様の御降誕について、今年のアドベント・クリスマスの時期は、ルカによる福音書を読んできました。今日は、そのシリーズの最後です。ルカ福音書1章から2章21節までで、「救い主御降誕」は、この世の人間を本当の意味で救うために、人間を愛してやまない神様が準備なさって実現したものであること、また、それを人間に知らせるために「天使の御告げ」があったと語られていると読み取れます。(「天使の御告げ」は、本当の神様が天使に託した御言葉です。)ところが、今日の箇所以後、暫時、ルカ福音書では、天使の御告げや活動は語られませんし、今日の箇所では、それまでの「天使」ではなく、「聖霊に導かれた人々」が救い主御降誕について語るように用いられています。

 

 *エルサレム神殿で「聖なる者」とされたイエス様

ルカ福音書2章21節―24節では、救い主のこの世での両親に選ばれたヨセフとマリアが、ユダヤ教の律法に従い、イエス様に割礼を施し、命名し、神殿に献げ物をしに来たことが記されています。このような信仰深い家庭を築く心根を持った夫婦に、神様が御子を託したと言えるのではないでしょうか。

また、この箇所で重要なことは、イエス様が、ユダヤ教の総本山であるエルサレム神殿で「聖なる者」とされたことです。イエス様は神の御子ですから、神様の御座所である「天」では勿論「聖なる御方」です。そこから降りて来てくださった「この世」でも、生まれてすぐに「聖なる者」にされたことを、私達は喜びたいものです。

 

 *聖霊に導かれたシメオンが「救い主」に出会う!

2章25節では、神様の前に義とされる生活をしていて、信仰があつい、シメオンという人が「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」とあります。これは「イスラエル民族に救い主が生まれることを切望していた」という決まり文句です。そして、このシメオンには、聖霊がとどまっていたのですから、最強の信仰者と言えるでしょう。

 

 *「聖霊」の働き

「聖霊」に導かれると、人間はどうなるのか?25節―27節で、はっきり示されています。まず、25節でわかることは、聖霊は人間を信仰生活に導く働きをすることです。人間が神様の恵みを受けるのにふさわしいように教育するわけです。次に、26節では、聖霊は信仰者に神様の約束を確信させているとわかります。それに加えて、27節では、聖霊は信仰者を神様の約束どおり「救い主」に出会えるように導いているとわかります。このようにして、聖霊に導かれたシメオンは、神の御子イエス様がエルサレム神殿で「聖なる者」とされる瞬間に立ち会えて、最大の願望であった「救い主に出会う」以上の恵みを得ました。つまり、「救い主」を自分の腕の中に抱くという最高の恵みをいただいたのです。

 

 *聖霊に導かれたシメオンは、天使の御告げ以上のことを語る!

キリスト教界で「シメオンの賛歌」(ルカ2:29-32)と言われる箇所で、実は、天使の御告げ以上のことが言われています。この幼子イエス様はイスラエルの民が願ってきた「イスラエル民族の救い主」以上の存在になるということです。聖霊に導かれた人間シメオンの口を通して発せられた「賛歌」で、救い主イエス様は、「異邦人(ユダヤ人でない、世界中の人々)」をも照らすと謳われ、そのような救い主が生まれたことで、イスラエル民族は「誉れ」とされることがはっきり示されています(32節)。

 

 *喜ばしい「救い主御降誕」を受け止めきれない「この世の人間達」

しかし、同時に、シメオンは、人間がこの喜ばしい出来事を正しく受け止めきれないと預言します(34-35節)。神様が人間を愛する故に実現なさったことを、悲劇に変えてしまうほど、人間の罪は重いのです!

 

 *女預言者アンナも聖霊に導かれて、救い主の証しに用いられる!

36節-38節の「アンナ」は、当時の社会では弱い立場のやもめですが、神の恵みによって聖霊をいただき、神様の御言葉を受ける預言者とされ、救い主イエス様に出会い、主を証しする御業に用いられています。

 

 *私達も聖霊に導かれて、イエス様に出会う恵みを賜っている!

シメオンとアンナは、聖霊に導かれてイエス様に出会いました。イエス様と既に出会っている私達も、実は「聖霊に導かれた人々」です!

 

12月23日の説教要旨 「この世に来られた救い主」 平賀真理子牧師

イザヤ書9:1-6  ルカ福音書2:1-21

 *はじめに

 私達の救い主イエス様について、お生まれになった経緯を具体的に記録しているのは、4つの福音書のうち、マタイによる福音書とルカによる福音書です。そのうち、ルカによる福音書だけが「人間世界の記録」を意識していると言えます。というのは、イエス様がお生まれになった時を、当時のローマ帝国のアウグストゥスという皇帝の治世の時と明記しているからです。更に限定された時と地域が示されます。ローマ帝国の役人「キリニウス」がシリア州の総督だった時と記されています。このように、ルカ福音書では、人間世界の記録で重要な「時と場所」を意識して表記しています。イエス様が本当に「この世に来られた御方」であることを伝えようとしていると読み取れます。

 

 *「救い主についての3つの預言」がすべて実現

この福音書の1章では「天使のお告げ」等があって、幾分「物語」のようでもありますが。2章に入ると、上記の理由で、俄然、この世に本当に起こった出来事、つまり、事実の記録の度合いが高まります。そして、イエス様のこの世における父親役を引き受けるヨセフに焦点が当てられます。イエス様の母に選ばれたマリアの婚約者であるヨセフは、まず、ガリラヤに住んでいながら、しかし、ローマ皇帝の命令によって、先祖であるダビデ王の町ベツレヘムへ一時的に出かけるように設定されなければならなかったのです。というのは、「救い主」についての3つの預言を実現させる必要があったのです。一つは、ダビデ王の預言者だった「ナタン」を通しての預言「ダビデ王の子孫から救い主は生まれる」(歴代誌上17章)ということがイスラエルの人々によく知られていたのです。二つ目は、今日の旧約聖書イザヤ書9章の直前の1行に記されている「異邦人のガリラヤが栄光を受ける」という預言です(ガリラヤはイエス様の育った土地、所謂「故郷」)。三つ目は、ミカ書5章1節にある預言「ベツレヘムからイスラエルを治める者が出る」という内容です。神様は、イスラエルの民に告げた、一見内容の異なる3つの預言を、このように人知を超える形で、実現してくださったのです!ダビデ王の子孫でガリラヤに住むヨセフに、身重の婚約者を伴う旅をさせ(皇帝の命令には逆らえない!)、旅先のベツレヘムで「救い主」として御自分の独り子をこの世に誕生させるように、神様がなさったのです。

 

 *「神様をお迎えする場所を用意しているのか」という問い

神様がイスラエルの人々への預言をこのように守ってくださっているのに、それを受ける側の人間達はどうだったかと言えば、イエス様が待望の救い主だとわからず、最初の時から、救い主の場所は用意されていなかったわけです。7節「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあります。これは、当時の状況を述べているだけではなく、私達も、この世の出来事でいっぱいいっぱいになって、神様のおられる場所を、心の中に確かに開けているかどうかを問われていると受け止めるべきです。

 

 *天からのお告げを受けて信じる者のみ「救い主」を礼拝できる!

ただ、7節までに記された人々は、救い主がこの世に生まれたことを知らされていなかったようですから、そのような態度となったことも仕方なかったのかもしれません。一方、それとは対照的に、8節からは「救い主御降誕」を天使によって知らされた「羊飼いたち」の様子が記されています。羊飼い達は、当時のユダヤ教では、仕事柄、礼拝を守れないダメな人々、「神様の恵みを受ける資格のない人々」とされていました。けれども、人間の基準で低く見られていた彼らに、神様からの大事な知らせ「救い主御降誕」が最初に告げられました。彼らは、天使の言葉(即ち、父なる神様から託された御言葉)を受け入れ、信じ、その内容を確かめに闇夜の中で歩み始めました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」というしるしを目当てに、イエス様を探し当てて拝み、この重要な知らせをくださった神様を賛美する恵みを最初にいただきました。キリスト教では、イエス様は「神様の御言葉としての存在」と申します。神様の御言葉であるイエス様を中心に、天使のお告げを受けたヨセフとマリアと羊飼い達が礼拝するという信仰の形が、既にできていたのです!ここに、私達プロテスタント教会が大事にしている信仰、つまり、御言葉をいただいて礼拝する信仰が示されているのです!

12月16日の説教要旨 「イエス・キリストの誕生の予告」 平賀真理子牧師

イザヤ書7:14  ルカ福音書1:26-38

 *はじめに

 前回、洗礼者ヨハネは、救い主イエス様の先を歩み、「主のために荒れ野に道を備える者(イザヤ40:3)」として、最初から、神様の御計画の重要な一部だったことをお話ししました。このヨハネの父親であるザカリアに対して、息子の誕生を予告したのが、天使ガブリエルでした。

 

 *天使ガブリエルが、イエス様の母親となるマリアへ受胎告知する

その同じ天使ガブリエルが、私達の主イエス様がお生まれになることを、イエス様の母親として選ばれたマリアの所へ受胎告知に来ました。

 

 *洗礼者ヨハネの場合は父親へ、救い主イエス様の場合は母親への告知

洗礼者ヨハネの場合は、お告げを受けたのは、父親ザカリアだとルカによる福音書は記しています。ところが、救い主イエス様の時には、母親として選ばれたマリアがお告げを受けました。一方は父親に、もう一方は母親に、それはなぜでしょうか。

正解は神様だけが御存じですが、それでも想像してみたいと思います。私は四つ想像しました。一つめは「本当の父親の違い」、二つめは「低くされた者を高くするという神様の御心」、三つめは「予想される結果の違い」、四つめは「イエス様を巡る役割の違い」です。

 

 *本当の父親の違い

洗礼者ヨハネの父親は「祭司ザカリア」、つまり、人間です。ところが、イエス様の父親は、本当の神様です。その御方がイエス様をこの世に送るのことをお決めになったのです。だから、その直接の受け手である人間としての母親に選ばれたマリアに、まず告知される必要があったということでしょう。もちろん、この世における父親の役割を引き受けるヨセフも重要な存在です。救い主が生まれるのは、ダビデ王の子孫からという預言がよく知られていました。神様は、この預言を守るために、つまり、民の期待に添うために、マリアの産む子がダビデ王の血統のヨセフの子供とされることを重んじて、実現してくださったのです。

 

 *低くされた者を高くする神様の御心

洗礼者ヨハネの父親ザカリアは祭司であり、当時の社会では最も尊敬される階級でしたし、天使のお告げの時は都にあるエルサレム神殿で一世一代の重要な任務を遂行中で、人間界において最高の立場にいました。一方、イエス様の母マリアは、田舎のガリラヤの一介の年若い女性です。人間的に言えば、重んじられるのはザカリア、軽く見られるのはマリアです。しかし、ザカリアの息子ヨハネは決して救い主ではなく、その露払いとでもいうべき存在です。マリアの息子として生まれるイエス様こそ救い主です。人間界で低くされた者と高くされた者が、神様の御前においては逆になる、本当の神様の御心はそのような御性質をお持ちです。高くされて傲慢になっている人間の心は、神様の御心に合わないのであり、低くされた者の謙遜をこそ、神様は愛されるのです。

 

 *予想される結果の違い

ザカリアの場合、息子の誕生は長年の願いが叶うことであり、ザカリア夫婦や周囲の人々も喜んで受け入れられることです。一方、マリアの方は、婚約中であるとは言え、夫婦生活に入っていないのに身ごもるのは、婚約者や周りに姦通を疑われ、死罪も覚悟せねばなりません。だから、マリアが自分の判断では妊娠するはずがないと言って、天使の言葉を一旦否定するように答えたのに、ザカリアとは異なり、彼女は罰せられず、天使は「それは聖霊(神の霊)の業だ」と丁寧に説明を重ねます。

 

 *イエス様を巡るザカリアとマリアの役割の違い

洗礼者ヨハネは「イエス・キリスト」に対して、人々の心を霊的に準備(悔い改め)させ、また、イエス様が「救い主」としての公生涯を始める時の儀式である洗礼を授けるという重要な任務を課せられていました。つまり、イエス様のこの世における霊的準備を担う存在です。ザカリアはそのヨハネの生育を担ったわけで、イエス様に対しては間接的です。一方、マリアは聖霊を受けて胎内に「神の御子」を宿し、この世での人間という肉体を取らせて生育するという直接的な存在です。だから、母マリアの方に天使が告知したことをルカ福音書は強調したと推測されます。イエス様の母親に選ばれたマリアの「(主の)お言葉どおり、この身になりますように(38節)」という全き従順さを私達は目標にしたいものです。

11月25日の説教要旨 「主によって満たされる」 平賀真理子牧師

イザヤ書61:5-11  フィリピ書4:4-14、19

 *はじめに

 今日は、収穫感謝礼拝の日です。「収穫を感謝する行事」は、他の宗教や文化の中にも数多くあります。食べ物が豊かであれば、生存を保証されて人間は嬉しいわけです。また、人間の力を越えた「偉大な存在」が、自分達のために実りを生み出してくださったと感じ、その偉大な存在に畏敬の念を持つことは、どの人間社会でも見られます。

 

 *キリスト教の神観<その一>

キリスト教における「偉大な存在」である「本当の神様(以下、「神様」と表記)」は、何が特徴なのでしょうか。2つのポイントを押さえる必要があると私は思います。一つは、「神様」を、唯一の神様として、この御方がこの世界全部を無から造り、人間が喜びに満ちて生きる準備を整えてくださった御方、所謂「天地創造の神」だということです。一方、他の宗教などを基盤とする社会では、この世にある(人間が目に見える)全部を神様と捉えることが多いようです。それらは、「太陽」や「大地」を神様と定めたりしますし、また、「水の神様」「風の神様」「田んぼの神様」等、複数いる神様に向かって人間が担当を与えたりします。

 

 *キリスト教の神観<その二>

さて、キリスト教の神観の特徴の二つ目は、先に述べた、天地創造の神である「神様」が、御自分の存在無しで苦しむ人間のために、御子をこの世に送り、更には十字架で犠牲にすることで、人間が再び御自分につながって生きられるように導いてくださる御方だということです。創世記3章にあるように、神様の御言葉を疑って、自ら罪に陥る事件を起こした人間に対し、「神様」は徹底的な愛を示してくださいました。ダメな人間達を見捨てず、再び、御自分に結び付ける方法、即ち、人間の罪を贖う方法を考えてくださり、それを実現するべく、この世に働きかけてくださいました!人間の罪の贖いを担う神様というのが、キリスト教独自の神観です。罪のない「神の御子の命の犠牲(十字架)」という代償を払って、罪を受け継いだ人間を御自分の民として、真剣に取り戻そうとなさいます。これは「神様の愛」の現れです。それに加えて、主の恵みは、「十字架」で終わらないで、その先に「主の復活」があります。主の十字架と復活を信じることで、人間は、生死を越えた「神の国の民」とされるようになりました。これこそ、最大で、徹底的で、完全な「神の恵み」です!だから、キリスト教で証しされている「神様」に対して、私達は、その恵みを深く感謝したいと心から欲するのです。

 

 *「主にあって」=「神様」の御子イエス様と心で一致して

「フィリピの信徒への手紙」の著者パウロは、以上のことを深く理解した上で、「主にあって常に喜びなさい」(4節)と教えました。「主にあって」とは「心の中でイエス様と一致している」ことと言えるでしょう。そのためには、今の時代の信仰者である私達は、福音書や新約聖書全体をよくよく読み込んで、イエス様がどのような御方かを知る必要があります。

 

 *イエス様から受け継がれた「広い心」(5節)

主と一致することで賜るものに「広い心」(5節)があります。イスラエル社会では「律法」が神様の正義を表すとして尊重されましたが、イエス様は、それだけでは救われずにいた多くの人々を「広い心」で実際にお救いになりました。律法の基盤である正義よりも、福音の基盤である「広い心」こそ、「神様の愛」をより明確に証しすると言えます。

 

 *「主によって満たされる」ことを信じて歩む幸い

それだけでなく、「神様」は、フィリピ4:8に書かれた「良きもの全部」の源なので、救い主イエス様に一致する者に、その良きもの全部を「主と共有できる」恵みをくださいます。また、「天地創造の神様」は、この世での必需品をも人間に与える権威があるという信頼により、信仰者は物資の心配から解放され、「神の平和」(7節)が得られます。パウロが証ししたように、信仰者はこの世での状況に左右されずに、「主によって満たされる」と信じ続けられ、この世の物への思い煩いを乗り越えられます。そして、本当の喜びの源である福音の伝道に邁進できるのです。私達信仰者も、フィリピの信徒と同じく、「神様」によって、自分達が求めている物は勿論、それ以上の本質的な恵みをいただくことができます。信仰者は「主によって満たされていく」喜びの生活へ招かれているのです!

11月11日の説教要旨 「実現する預言と弟子の備え」 平賀真理子牧師

イザヤ書53:6-12 ルカ福音書22:31-38

 

 *はじめに

 今日の新約聖書箇所の前半の段落では、残念なことに、イエス様の一番弟子と目されるペトロさえ、サタンからの厳しい試練に遭うというイエス様の預言と、それに対して、ペトロ自身は、イエス様の預言よりも、自分の覚悟を信頼していたことが示されています。人間的に考れば、ペトロにいささか同情したい気もします。しかし、イエス様は、迫り来るサタン(の試練)に対して、弟子達に気づかせて、備えをさせることの大いなる必要に迫られていたのだと気づかされます。

 

 *ルカ福音書22章に度々現れるサタン

ルカ福音書では、4章13節にあるとおり、イエス様に対しても試練を挑んだサタンは「時が来るまでイエスを離れ」ました。そして、再び、イエス様の御許へサタンが来る時がいよいよ来たのです。22章でのサタンの動きは、3節では「十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに入った」とあり、31節では「ペトロや弟子たちをふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とあり、53節ではサタンは「闇」と表現されています。こうして、この世の長サタンがイエス様をこの世から排除し始めたことをイエス様は御存じだったのです。

 

 *神の御子・救い主イエス様や弟子達に必死で試みるサタン

もちろん、イエス様はサタンの支配するこの世に勝利されますが、しかし、サタンは負けまいと必死で抵抗することもイエス様はわかっておられました。その勢いは大変激しく、イスカリオテのユダの裏切り、ペトロの一時的な裏切りだけでなく、イエス様御自身も十字架で死ぬことにならなければ、サタンは納得しないというものでした。

 

 *主が、サタンの試練に弱い弟子達のために祈ってくださる!

すべてがおわかりだったイエス様は、サタンの試練に抗しきれない弟子達を責めるつもりではなく、励まそうとなさっていたと読み取ることができます。ペトロが(弱さ故に)イエス様を知らないと言ってしまう事態になっても、絶望しないでほしいとイエス様は願っておられるのです。なぜなら、「立ち直って、兄弟(信仰における仲間)を力づけてやりなさい」(32節)とペトロに主が期待されているからです。だから、イエス様はペトロのために「信仰が無くならないように祈った」とおっしゃいました。主は弟子のために祈ってくださるのです!実は、これは、時空を超えた弟子たる私達も該当します、つまり、私達は主に祈られているのです!

 

 *主は「弟子達すべてがサタンの試練を受ける」と心配なさった

ペトロと同じような試練が、他の弟子達にもあることを御存じのイエス様が、弟子達に語られたのが、35節以降の(今日の箇所の後半の)段落です。

かつて、サタンがイエス様を離れていた時になされた「弟子達の福音伝道旅行」の恵みを思い起こすように主は語られました。この時にはサタンの妨害はなく、主の恵みや御力が弟子達に及んだのです。ところが、主がこの世に不在となって、サタンの攻勢が激しくなれば、必需品を備えることすらも困難になると、イエス様は心配なさったのでしょう。御自分の救いの御業が完了するまでの間、弟子達は「犯罪人の一味」と見なされ、社会から疎外されて苦難の道を歩むことになると予知なさっていたのです。

 

 *主の御言葉と主の御心と弟子達の備え

もちろん、イエス様は犯罪人ではないし、罪もない御方です。しかし、イザヤ書の「主の僕の苦難と死」の預言(52章13節―53章12節)が、父なる神様の御心にある「救い主の姿」であるとイエス様だけが御存じで、37節にあるとおり、人間の罪を背負って苦難を味わう「救い主」の預言が、御自分の上に実現し、弟子達にその現実が迫り、彼らが試練を受けることを心配なさったのです。弟子達は、36節の主の御言葉を受け、特に、剣に注目して「二振りある」と答えました。イエス様は、弟子達が「主の不在」という不安の中、備えとして剣の所持を許可なさっただけで、その使用は望んでおられなかったはずです。しかし、すぐ後の「主の逮捕」時に使用され、被害者の癒しをイエス様がなさる出来事が起こります。主の御言葉に従うつもりでも、人間は、主の御心を理解できずに、自分の都合のいいように解釈して利用してしまう弱さが示されています。主の預言(御言葉)の奥にある「主の御心」を理解したいと祈り求めつつ、私達は、信仰上の備え(「霊の剣」=神の言葉 など ※参照:エフェソ書6:10-20)を怠りなく進めたいものです。

9月9日の説教要旨 「神の国の到来に備えて」 平賀真理子牧師

イザヤ書24:17-23 ルカ福音書21:29-36

 

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、イエス様による預言の後半部分です。この前にもイエス様は預言なさっていて、その内容は、エルサレムの滅亡と天変地異ということでした。一見恐ろし気な内容ですが、しかし、イエス様を救い主と受け入れて生きた者は、その出来事の果てに、主が再臨なさる希望が持てるという内容で、それを踏まえた上での後半です。

 

 「いちじくの木のたとえ」

小見出しは「いちじくの木のたとえ」とありますが、今日の箇所ではいちじくの木だけでなく、「ほかのすべての木」も30節以下のこと、つまり、木の葉っぱが出始めると、人間は夏が近いと悟るという事実を主は挙げておられます。当時の一般庶民は、暦や時計を持っておらず、自分達の感覚で分かる変化を認識して初めて、時の変化を知ることができました。特に、農業・漁業・林業・牧畜業に従事していた人々は、その現象に敏感であり、その知識を継承していたという背景があります。イエス様は、御自分の最大の関心事「この世に神の国が到来する」前にも、同じように「徴」が現れることを、語っておられるのです。この直前に語られた恐ろし気な現象が起こった時に、信仰者のない人々が怯えても、御自分を救い主と受け入れた信仰者達には、神様の絶対的な守りがあり、かえって希望が持てると主は語られてこられました。なぜなら、都の滅亡と天変地異と主の再臨こそが、地上に「神の国」が到来する「徴」となるからであり、「神の国の到来」こそが、父なる神様と御子なるイエス様の最大の関心事、かつ、喜びであり、「終末」は終わりを意味するのではなく、その先に、信仰者が神様と共に喜べる世界の到来という意味があるのだということを主は教えてくださっているのです。

 

 「この時代は滅びない」(32)

「この時代」とは、イエス様がお語りになった当時だけを指すのではなく、「同じ時代の人々」という意味があります。また、それだけでなく、御自分を救い主と受け入れた人々のことだと思われます。「主と心を同じくする人々」のことです。だから、これは、現代の信仰者である私達も決して滅びないと、主が保証してくださっていることでもあります。

 

 「天地が滅びても、わたしの言葉は決して滅びない」(33)

主が預言なさった「都の滅亡と天変地異」は、「天地が滅びる」ようだと受け取る人もいるでしょう。また、33節を言葉通りに読むと、天地は、神様が造られた被造物なので、滅ぶこともあり得るとも言えます。その一方、永遠なる神様(父なる神様と御子イエス様と「主の御言葉」)は決して滅びることはないのだから、主を信じて結ばれている弟子達も決して滅びないと、イエス様は弟子達に熱心に伝えようとなさっておられます。

 

 「心が鈍くならないように注意しなさい。」(34)

但し、人間をよくご存じのイエス様は私達に宿題を出されていると感じます。34節-36節を見ましょう。人間は、救われたと言われると安心し切ってしまい、放縦や深酒や生活の煩いなど、信仰を持つ前と同じ問題によって、信仰心が鈍ることがあると主は見抜いておられます。だから、信仰者に対し、「終末の日」が不意に罠のように襲うから、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい」と命令なさいました。信仰者として、心の準備が整った状態で「終末=主に出会う日に備えてほしい」という、イエス様の願いが現れています。

 

 「いつも目を覚まして祈りなさい」(36)

ここでの「目を覚ます」とは、もちろん、肉体的に眠らないで起きているということではなく、「信仰において」目覚めているということです。教会生活を続けていると、「洗礼によって、罪の赦しを受けたのだから、その後は教会には行かない」と言って、俗世間に戻ってしまい、教会での信仰の訓練を避けようとする人を時々見かけます。彼らは、信仰的に成長するチャンスを逃しており、それは主の御心ではありません。

また、キリスト教での「祈り」とは「主との対話」で、私達日本人が行う「願い事の羅列」は、「祈り」とは言えません。主に自分の思いを打ち明けても良いのですが、祈りの最後には「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と主の御心を聴いて従う姿勢が求められます。イエス様の「ゲツセマネの祈り」(マタイ26:39)に倣って、私達も祈り続けましょう。

7月22日の説教要旨 「神の御言葉、とこしえに」 野村 信 先生(東北学院大学)

イザヤ書40:6-8 ヨハネ福音書1:14

 はじめに

本日は、皆さんと一緒に、聖書の御言葉を味わいたいと思います。イザヤ書40章6節-8節に集中して、お話をしていきたいと思います。

 

 「草は枯れ、花はしぼむ」→この世の「栄枯盛衰」を表す

砂漠は温度が高い所ですから、朝に草が生えても夕方には焼けて干からびてしまいます。しかし、ここで、イザヤは植物のことを言いたいのではありません。栄えていたものもいずれは衰えます。企業も団体も国もそうです。これは万物の法則と言えるでしょう。栄枯盛衰はこの世界の定めです。この世界に全く変わらずにいつまでもあり続けるものがあれば、それは頼りがいがあるに違いありません。

 

 この世に、本当の意味で頼りがいがあるものがあるのか?

この世で頼りがいのあるものは何でしょうか?答えとして、今も昔も「お金」だったり、「幸福」とか「愛」とか「家庭」とか「健康」等があげられるでしょう。しかし、死にゆく時はすべて捨てていかなければなりません。この世で完全なものはありません。

 

 「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」

今日の旧約聖書の御言葉「神の言葉はとこしえに立つ」は、旧約聖書全般を通しての教えです。いつまでも神の言葉はなくならない、存続すると言っています。それはそれでわかりますが、何か頼りないと私達は感じます。言葉は、言いっぱなしで人をその気にさせますが、私達は手で触れて確かめることのできるものを信頼したいと思ってしまいます。

 

 人間が発するのではなく、神様からいただいた「預言」

このイザヤの預言は約2500年前になされましたが、この時代に頼りになったのは、多くの兵隊や軍隊、大きな要塞、豊かな食料や宝石などだと考えられた時代です。そんな時代に「神の言葉がとこしえに立つ」と宣言した教えは、この時代では、異様なことでした。これは人間には言えないことで、神様が預言者イザヤや民に教えてくださった大切な御言葉だと心に留めたいと思います。

 

 イスラエル民族の歴史を振り返って

イスラエルの民の国家であるイスラエル王国は、ダビデ王やソロモン王の時、大変栄えました。しかし、その王国もやがて北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。そして、北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国だけになりました。それもまた、紀元前586年に、バビロニア帝国に滅ぼされました。南王国の王様と貴族は、バビロニアの都バビロンに連行されました。イスラエルの民にとってつらいことは、国を失っただけでなく、「神から見捨てられた」ことで、大変に絶望しました。アブラハムの時代から、神様にお前達は特別だと言われていた民にとって、ショックだったことでしょう。その時こそ、預言者達が活躍し、彼らは、イスラエルの神様に従わなかったことで不幸がもたらされたと言いました。こういう中で、イスラエル民族は、旧約聖書を巻物として整え、今まで気づかなかったことに気づいていくようになります。

 

 奴隷に自分達の神々の像を拝ませたバビロニア帝国

さて、バビロニアは、征服した敵国の人々を奴隷にして、都バビロンで繁栄しました。そのバビロニア帝国は、年2回のお祭りをして、バビロンの神殿(高さ90m)で、奴隷達をバビロンの神々の巨大な像の前で跪かせて拝ませました。イスラエル民族は神の像を刻まない民なのは幸いだったと言えるでしょう。ところが、約50年後にバビロニア帝国は東から興ったペルシャ帝国に滅ぼされ、イスラエルの民は晴れて故郷に帰れるようになりましたが、故郷は廃墟と化し、復興の苦労が続きました。

 

 バビロンにあった、巨大な神々の像の末路

バビロンから解放される時、イスラエル民族は凄いものを見ました。それまで拝まれていたバビロンの神々の巨大な像を撤去せよということで、家畜を使って、多くの巨大な像が丸太の上を砂漠に向かって転がされ、砂漠の果ての死の世界にまで運ばれる様子です。彼らはこの時、「草は枯れ、花はしぼむ」ことが身に染みてわかったのです。この世の物、地上の物は土くれのように失われると教えられたのです。

 

 「神の言葉を心に刻め」

イザヤ書46章1節以降にそのことが表現されています。ここで言われる「ベル」は「マルドゥーク」というバビロンの最高神の別称ですし、「ネボ」はその息子と言われています。その巨大な神々の像が横たえられて、家畜によって運ばれ、重荷となり、沈んでいく、滅んでいく…。

ここに、繁栄したバビロニア帝国が滅びた様、神々を祭った人々の滅びが描かれています。地上のものを神と祭ってはならないとイスラエルの民は悟ったのです。砂漠で神の像を刻んだ宗教は全部滅びました。十戒にあるように「あなたがたはいかなる像でもって神を刻んではならない」のであり、「神の言葉を心に刻め」と「神の民」は言われていたのです。この戒めを守って生きていくことこそ、神の民に相応しいのです。これがイザヤ書40章になり、それが新約聖書に受け継がれました。

 

 旧約聖書を受け継いだヨハネ福音書:「神の言葉が肉となった」

ヨハネによる福音書1章14節には、「神の言葉」が肉となり、私達の間に宿られた、それが、イエス・キリストであるとあります。そのことをヨハネは感動の思いで記しています。民が長い間待ち望んだ神の言葉が、人間となったことが素晴らしいのです!

「イエス・キリストは偶像じゃないのですか」と問う人がいます。しかし、初期の教会の人々は、イエス・キリストを像に刻まず、偶像化しませんでした。その言葉や教えを心に刻みました。その御言葉を大事にすることを使徒パウロは「信仰」と呼び、ガラテヤ書4章で「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、産みの苦しみをする」という内容を記しました。この「形」は言葉です。この言葉を信仰として心に刻み、愛に満ちて生きていくように言われています。このように、イザヤ40章8節は未来に向けて語られた言葉であり、これがイエス・キリストに集約して、預言が完成して、新約聖書に記されています。

 

 福音書の疑問:主イエスが言葉を発するだけで実現するのはなぜ?

主が言葉が発するだけで、なぜ事実が伴うかという問いが生まれます。癒しにおいて、イエスが「清くなれ」と言うと相手は即刻癒されました。中風の人に床を担いで歩きなさいと言うとその通りになりました。

修辞学者でもあったアウグスティヌスは、言葉は何かを指し示すために使うものであると言っており、だから「言葉が肉を取り、イエスにおいて、言葉と現実が一つになったのだ」と言ってやまないのです。

一つの例として、主イエスが、ナインで一人息子を亡くした母親を見て憐れに思い、その息子に甦(よみがえ)るように言われて、そのとおりに生き返った出来事がありました。イエスの御言葉が素晴らしいだけでなく、現実にその通りになりました!人々は旧約の預言が、現実に肉となってイエス・キリストになったことに感動しているのです。旧約で教えられた「神の言葉」が、私達の中に現れたのが、イエス・キリストです。

 

 今や、「神の言葉」は主イエスの中に現れている!

 「言葉」とは出来事の葉っぱです。旧約聖書の時代では、神の言葉を頭につけたり、衣の裾に書き入れたりしていたのですが、今や、新約時代になりますと、イエス・キリストの中に神の言葉は凝縮されて現れたのです!人々は、この御方を心に受け入れて、生活を始めたのです。

 

 ヨハネ福音書における「主イエスの御言葉」

「真理はあなたがたを自由にする」(8:32)とは、何かの奴隷になっている私達を、真理(キリスト御自身)が解き放ってくださっていると言えます。また、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)の御言葉も挙げたいと思います。主は、私達人間に、何かをしなさいとはおっしゃっていません。わたし(主イエス)自身が道であり、真理であり、命であるから、わたしの上を通っていけ」とおっしゃっいました。その他にも、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)という御言葉もあります。人はその御言葉につながり、そのまま聞いて心に留めるべきであり、イエス御自身が貴い「神の言葉」です。また、死んだラザロも、主イエスに出て来なさいと言われて、甦りました!(11章)主イエス御自身も、3日目の復活を預言し、現実になりました。私達は新しい目や新しい心をもって、聖書を読むべきです。

 

 聖書の読み方

今日の旧約聖書箇所のイザヤの預言が、主イエスに具体的に示されていることが新約聖書に現れており、その恵みに私達は預かっています。私達はそのように受け止めて聖書を読んでいきたいと願います。

7月15日の説教要旨 「祈りの家」 平賀真理子牧師

イザヤ書56:1-8 ルカ福音書19:45-48

 はじめに

イエス様がついに神の都エルサレムに入っていく、いわゆる「エルサレム入城」直後になさったことは、エルサレム神殿に入られたことでした。この神殿は、イスラエルの民にとって大変重要な場所で、イエス様が最初にここに入られたことは、本当の「救い主」として御自分を公けにする証しとなるはずでした。

「救い主」についてのイスラエルの民とイエス様との認識の相違

「主なる神様」は人類の救いの起点として、イスラエルの民を選び、導いてこらました。それは、出エジプトの出来事やバビロン捕囚後の帰還許可の出来事として、歴史の上でも顕著に現れました。イスラエルの民は、あのダビデ王やソロモン王の時に繁栄したイスラエル王国のような国が建てられることが「救い」だと思い込み、「救い主」は国を建てる政治的力のある御方であると期待したのです。ところが、イエス様は、「救い主」の使命は、人間を「主なる神様」を第一として生きるように変えることだと御存じでした。そのために、「神の国の福音」を告げ知らせ、人々を神様へと目を向けさせたのでした。また、「神の国」の先取りとして「神様の御力」が人間に及ぶとどうなるかを知らせるために、癒しなどの奇跡を行ってこられたのでした。「救い主」は、決して政治的権力を求めて働くものではないことを示しておられました。

 

イエス様が「父の家」で見たこと=祭司長達の罪深さ

イエス様は12歳の頃、エルサレム神殿を「自分の父の家」とおっしゃったことがあります(ルカ2:49)。この神殿に祭られている「主なる神様」が送ってくださった「救い主」が「父の家」に帰還した時、それまでに管理を任されていたはずの「祭司長達」は、本来なすべき「主なる神様への祈り」ではなく、この世で権力を持つ金銭を儲ける「商売」に心を奪われ、第一のこととして考えていたのでした。彼らは、神殿税を徴収する時に手数料を必要以上にたくさん要求しましたし、また、罪を肩代わりさせるための犠牲の動物を、神殿内の祭司長一族の経営する店で高値で買わせるように仕向けて暴利をむさぼっていました。神様の名を利用して、自己の利益を図った上に、それを悪いとも思わない、なんと罪深いのでしょう。イエス様は、これは、父なる神様の御心とは全く逆だと、「主なる神様」の独り子として、明確に示す必要がありました。優しいイメージのあるイエス様も、このような不義を見過ごすことはなさいません。

 

「古い救い」から「新しい救い」へ

イエス様がエルサレム神殿で商売人達を激しく追い出されたことは、教会では「宮清め」という呼び名で有名です。祭司長達と、また、彼らと結託した商売人達の不義を明らかにして悔い改めさせるという目的以外に、もう一つ、この「宮清め」には大きな意味があります。それは、イエス様が「古い救い」を終わらせ、「新しい救いの到来」を公けにすることです。神殿を託されていた祭司長達は、結局は罪深さから解放されませんでした。そんな彼らが、民の罪を清めることなどできませんでした。神殿で祭司長が罪人の肩代わりの動物を犠牲にするという「古い救い」は、人間の罪によって実現できませんでした。そこで、罪のない「神の御子」であるイエス様の大いなる命の犠牲によって罪が赦されて神の民とされるという「新しい救い」がイエス様の救いの御業によって、実現されることになったのです。イエス様の十字架が「自分の罪の贖いである」と信じるだけで、何の功績のない私達、後の時代の信仰者までも、救いの恵みをいただけるとは、本当に感謝なことです!

 

今や、私達一人一人が「祈りの家」

私達は、自分の罪の赦しの源である「主の十字架」での受難を想起し、礼拝において、この呼び集められた礼拝堂で、感謝の祈りを より一層熱心に献げる群れとなりたいものです。聖日の礼拝だけでなく、日頃の生活でも、感謝の祈りをもっともっと献げるようになりたいものです。Ⅰコリント書3:16には「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とあります。「新しい救い」では「私達一人一人が祈りの家」なのです!そこに不義が入り込んでいたら、聖霊によって追い出して清めていただき、救い主イエス様への感謝の祈りで満たすことができるよう、祈り求めましょう。

5月13日の説教要旨 「キリストの昇天」 牧師  平賀真理子

イザヤ書45:1-7 ヨハネ福音書17:1-13

 はじめに

先週の木曜日は「主の昇天を記念する日」でした。復活の主が40日間弟子達に現れたと聖書にあります(使徒言行録1:3)。教会暦では今年のイースターは4月1日で、40日後の5月10日が昇天記念日でした。

 

十字架に向けての逮捕直前の「告別説教」とその後の「イエスの祈り」

今日の聖書の直前には、イエス様が十字架へ向けて逮捕される前の「告別説教」があります。ここで、イエス様は弟子達にたくさん語っておきたいことがある!でも、彼らにはなかなか伝わらないという状況だったことがわかります。しかも、弟子の一人が、反対派をイエス様の所へ導いて来る時が迫り、その他の弟子達は不穏な雰囲気を感じ取って不安になっています。そこで、イエス様は、告別説教の内容については、御自分の昇天の後で、天の父なる神様がお遣わしになる「聖霊」が弟子達を悟らせると預言なさいました。(イエス様の死後、その通りでした!)

告別説教の後に、イエス様は「天の父なる神様」に向かって祈りを献げました。その祈りを、今、私達は聖書で知ることができています。これこそ、奇跡です!前述の通り、弟子達は、イエス様の遺言と言える「告別説教」をその瞬間には理解していたとは思えません。後に、聖霊をいただくようになって、「告別説教」と、その直後の「イエスの祈り」の意味を悟ることができるようになり、こうして、後の時代の信仰者のために、大事な御言葉を残したと言えるでしょう。これこそ、イエス様が約束なさった「聖霊」が弟子達に降った証しの一つです。人間の知識や判断を越えた「神様の働き」が起こった、つまり、弟子達に降った「聖霊」が、彼らを通して働いたのです。

 

父なる神様の栄光を何よりも尊重する

イエス様は、今日の箇所の「祈り」において、まず、父なる神様の栄光のために、御自分に栄光を与えてくださいと祈られました。イエス様の生涯は、天の父なる神様を第一の御方とすることで貫かれています。それがここにも表れています。何よりも「自分の栄光」を求めてしまうような罪深い私達人間と、イエス様は全く違う御方なのです。

 

「永遠の命」

この「イエスの祈り」の前半で、「永遠の命」について、イエス様が、はっきり言及なさっていることに驚かされます。3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなた(父なる神)と、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とおっしゃいました!

 

父なる神様と御子イエス様を「深く知る」

3節で、もう一つ注目したいことは、「知る」という単語です。元々の言葉(ギリシア語)では「内面まで深く知ること、または知るようになること」という意味があります。「単に知識として表面的に知っている」ということではありません。その点、イエス様の直弟子さん達はうらやましい限りです。イエス様と寝食を共にしていたのですから、イエス様がどういうお人柄か、「深く知る」ことができたわけです。けれども、後代の信仰者の私達も、イエス様を「深く知る」ことができます。一つは「聖書」によってです。イエス様がどのような御方なのかを深く知るために福音書が読めます!もう一つは「聖霊」によってです。父なる神様と御子イエス様の御心を行う聖霊は、イエス様を深く知りたい、その御心に従いたいと願う信仰者を助けてくださいます。「聖霊の助け」を祈り求めていくのに限界はありません。救い主イエス様の昇天後=イエス様が神様として天におられる今、私達は「聖霊の助け」を賜り、時空を超えて、イエス様を「深く知る」ことに励むことができるのです!

 

 弟子達(まだ見ぬ弟子達=「私達」をも含む!)への愛

この「祈り」で、イエス様は弟子達を父なる神様から与えられた人々であり、父なる神様から御自分に託された御言葉を守った人々であると言って喜び、今度は彼らを御自分の喜び=本当の喜びで満たしたいという愛で溢れておられると感じます。更に、20節「彼らの言葉によってわたしを信じる人々のために」と祈ってくださいました。まさしく私達のために、もっと言えば、私達一人一人が神様に背いていた時からずっと、イエス様は既に私達のために、父なる神様に執り成しの祈りをしてくださっていたのです!その大きな深い愛に心から感謝するものです!

4月1日の説教要旨 「キリストの復活」 牧師  平賀真理子

イザヤ書41:10-17 マルコ福音書16:1-8

はじめに

本日はイースターです。「主の復活」を共に祝えることを、心から感謝いたします。本日は、最初に書かれたと言われている「マルコによる福音書」の中で「主の復活」の証言を読んでいきたいと存じます。

 

マルコによる福音書の本編の最後

今日の新約聖書箇所マルコ福音書16章1節―8節の後に、聖書では「結び」として9節以降の記述がありますが、専門家の研究によって、後の時代の人々の付加だとされています。従って、今日の箇所が、マルコ福音書の本編の最終部分です。そして、この箇所を詳細に読むと、復活の主には、従ってきた者の誰もが、未だ出会っていないとわかります。証言の内容は、十字架上で亡くなったイエス様の御遺体を納めたはずの墓が空っぽだったこと、天使によって「主の復活」が宣言されたこと、そして、それを聞いた女性達が恐ろしいと思ったことです。

 

主の御遺体に香油を塗って差し上げたいと行動した女性達

イエス様が十字架にかかって息を引き取られたのは、過ぎ越し祭の週の金曜日の午後3時でした(マルコ15:34-37)。ユダヤ教では安息日は土曜日で、具体的には、金曜日の日没から土曜日の日没までです。安息日は労働することが禁じられたので、イエス様が亡くなった日の午後3時から夕方までの2時間程度しか、作業する時間がなかったことが想像できます。主の御遺体を十字架から降ろして運んで、横穴式の墓に納めるだけで精一杯の時間だったと思えます。主を信じ従ってきた女性達が香油を塗って差し上げたいと思っても実行不可能だったでしょう。安息日は土曜日の日没に終わりますが、当時のランプの弱い明かりでは、お墓の中での作業は難しいことから、彼女達は、香油を塗る準備を整え、日曜日の日の出を待ち、主のお墓に来たのでしょう。主の十字架を前に逃げた男性の弟子達とは違い、従ってきた女性達の中では、主への敬意を示そうと行動できた者達がいたのです。

 

人間の心配を先んじて取り除いてくださる神様

お墓へ来た女性達の道中での心配は、お墓の入り口にある大きな石を動かす力のある人を見つけねばならないだろうということでした。ところが、これはもう、事前に神様が取り除いてくださっていました。彼女達の望みは、主は死んだままではおられずに復活するという神様の御計画と一致していたため、神様が人間より先に働いてくださったのです。*天使の言葉「預言どおりにイエス様は復活なさった」

彼女達にとっての次の望みは、お墓の中の御遺体に香油を塗ることでしたが、それは叶えられませんでした。なぜなら、その御遺体自体が存在していなかったからです。そこにいたのは、白い長い衣を来た若者でした。これが「復活の主」かと思いきや、この人は天使です。原語では白く輝く上衣という意味があって、これは「天使」を暗に示しています。天使は、彼女達が探しているイエス様は復活なさり、死人のいる墓にはおられず、復活してガリラヤに行かれたので、そこでお目にかかれると弟子達に伝えなさいと告げました。それはイエス様の生前の預言「わたしは復活した後、弟子達より先にガリラヤへ行く」(14:28)の実現でした。(事前に言われた預言が実現することが神様であることの証拠です!)

 

十字架を乗り越えた女性達も「主の復活」の真実を前に圧倒された!

天使から言葉をかけられた女性達は「震え上がり、正気を失って、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)と証言され、ここで、この福音書は終わりです!最初に書かれた大事な福音書が、こんな表現で終わるのかと私は長年疑問でした。しかし、東日本大震災を経験し、7年たって落ち着いた今だから言えることがあります。自分の想定を超える圧倒な出来事について、あの時、本当に恐ろしかった、その思いをすぐには表現できず、平静を装っていたと。次元は違うかもしれませんが、自分の想定を超えた、神様が働かれた圧倒的な出来事に対し、人間はまず恐ろしくて、しかも、誰にも言えないと心を閉ざす反応をするのだと今ならわかります。「恐ろしかった」で終わるのは、この出来事が絵空事でなく、彼女達が本当に体験した事実だという裏付けです。「キリストの復活」は本当に起こりました!人間を圧倒する神様主導の出来事「主の復活」により、後代の私達信仰者も恵みを賜り、救われているのです。