2023年6月18日の説教要旨 申命記8:11-20・使徒言行録4:5-12

御名の 権威 」     加藤 秀久牧師

*はじめに

イエス様の弟子たちは、ペンテコステの出来事を通して、彼らの行動を大胆にさせる「聖なる霊」により、力強くイエス様の復活の出来事を話すようになりました。その一方で、そのことを良く思わない人達がいました。それは、祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人達です。祭司は神殿で奉仕する人。神殿守衛長は祭司の業務を監督し、神殿を統率する人で大祭司に次ぐ権力を持っていた人。サドカイ派の人々は、貴族祭司と上流階級の信徒達です。彼らは、聖霊や復活の出来事を信じる人達に反対していました。

*彼らのいらだち

 ペトロとヨハネが民衆にイエス様の復活を宣べ伝えているので、よく思わない彼らはいらだち、近づいてきて二人を捕え、既に日暮れだった為、翌日まで牢に入れてしまいました(4:3)。彼らのいらだちの感情はよほどのものだったと考えられます。なぜならこの言葉は、新約聖書全体を通しても2回だけしか使われていないからです。

 実は私達もいらだつことがあります。相手が自分のして欲しくない言動をして、注意や忠告を聞いてもらえない時、疲れて、我慢の限界が来ると、感情を表に出したり、腹を立て、その場を去るなどすることがあります。

*ペトロとヨハネの行動

彼らをいらだたせたペトロやヨハネの行動は、神様の霊を受けた時から、その霊の力を止めることができず、これまでの自分達の体験を越えた、この素晴らしい出来事を他の人にも伝えたい、教えたいと思い、イエス様のことを話さずにはいられない、イエス様の復活の出来事を聞いてほしいという気持が現れたと思います。ところが、特にペトロとヨハネに近づいてきた祭司逹からすると、この二人の言動は大変迷惑な行為で目障りな存在で、自分達の方が権威者だと思っていますから、堪忍袋の緒が切れたと言えます。けれども他方では、二人の語った言葉を聞いて信じた人の数は、男性が五千人にもなったと聖書は伝えています。

何の権威で、だれの名によって、それをしたのか」(7節) 

翌日、二人は最高法院(議会)で真ん中に立たされて、「何の権威で、だれの名によって・・」と尋問を受けました。ペトロは聖霊に満たされて、大胆に弁明を始めます。 「今、自分が訴えられているのは、足の不自由な人をいやしたこと(3章1節~)と、その人が何によっていやされたか、ということなら民全体の人達も知って欲しい」と前置きして、「あなた方が十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものだ(10節)」と語り、更に、「私達が救われるべき名前は他にはない(12節)」と力強く語りました。そしてイエス様こそ「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石である(詩編118:22)」=イエス様が軽蔑され人々から捨てられたけれども、神様は家(神様と人とが永遠に共に住む家)を建てるためになくてならない「かなめの石」とされたと語りました。イエス様の十字架の死と復活の出来事は人の目には不思議な出来事ですが、神様の救いの計画においてはなくてはならない重要な出来事だったのです。

あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい」(申8:11)

 本日の申命記では、神様がイスラエルの民に、カナンの地の豊かな生活に満足して高慢になり「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えないように警告しています。神様は、今に至るまでの生活の様々な場面を通して自らを現わしておられ、富を築く力を与えたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たした結果の今の生活ですから、神様を忘れず、へりくだり、神様に従っていく心を持ち続けるように促しています。

 わたしたちが神様を信じ、信頼し、へりくだり、神様のみ名の権威に従順になる場所は、私たちの心の中です。私たちはそこで神様と会話し、神様のご計画を知ることができるのです。それは私たちの力となり、ペトロに与えられた大胆さを、私たちも同じように持つことができて、神様を知る機会を与えることもできることを知りましょう。今週一週間、神様の良き導きがありますようにお祈りを致します。

2023年6月4日の説教要旨 出エジプト19:3-8a・使徒言行録2:14-36

「礼 拝」        加藤 秀久牧師     

*はじめに

 先週私達は、イエス様が天に昇られたあと、五旬祭(過越の日か50日目)に、弟子達が心を一つにして祈っていると、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。(2:2)」出来事を学びました。そこに集まって来た人々は、この不思議な出来事と光景を見て驚き怪しみました。本日の使徒言行録には、ペトロと十一人の仲間逹が聖霊を受けて、心を燃やされ、人々に語り始めます。

*酒に酔っているのではない

ペトロは、「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません(14~15節)」と語りかけます。

ペトロや他の弟子達を知る人達にとって、イエス様の十字架の死の後、弟子達が途方に暮れて気が抜けたような姿を見たことでしょう。それが今、前よりもっと違う姿で目の前にいます。私達はその働き(神様の力)を頭で考え理解しようとしてもできません。自分自身の身で受け止めることが出来ず、この世のものとは思えない体験が起こり、私達の身体が神様に支配され、神様が私達の心の中に宿った感覚に捉われるからです。そのため、この聖霊の力を受けたペトロや十一人の弟子たちは、人々の前で大胆に、力強く立ち上がり、振舞うことができたのだと思います。

 ペトロは、聖霊の力を知らない人々が、「お酒を飲み過ぎた」「気が変になった」、或いは「悪魔の仕業」などと誤解しないように、このように、酒に酔っているのではないと言ってから説教を始めます。聖霊の働きは、人々の目から見ると、不思議な出来事、怪しい動きに見えたことでしょう。

*ペトロの説教

ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。(22節)」

聖霊を受けたペトロは、今目の前で起こった出来事は、旧約聖書の「ヨエル書の預言(3章)」が成就した出来事であったと説明してから、イエス様について語り始めます。イエス様こそ、神様から遣わされたお方であり、神様はイエス・キリストを通して多くの不思議なわざやしるしを現して証明されたが、あなた方は律法を知らない人々(異邦人・この場合ローマ人)の手を借りて十字架で殺してしまった。けれども神様は、イエス様を死に支配されたままにしておかず、復活させられた。

だからあなた方は はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエス様を、神様は、主としメシア(救い主)となさったのです(36節)と。この後、ペトロの説教を聞いていた人達が、自分達はどうしたらよいかを尋ね、それに対するペトロ達の答が37節以下に記されています。

*モーセとイスラエルの民

 ペンテコステの日(聖霊降臨)の出来事は、本日の出エジプト記に記されているモーセがシナイ山で神様の言葉(19:3~)を聞いて、その言葉を携えて戻り、民の長老たちを呼び集めて、神様の言葉をすべて彼らの前で語った時の光景を思い浮かべることができます。

神様は、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。(5節)」とイスラエルの人々に語るように言われ、モーセからこの言葉を聞いた人々は、「わたしたちは神様が語られたことをすべて行います(8節)。」と、一斉に答えたことを、聖書は伝えています。

*わたしたち

 わたしたちは、神様の言葉を聞いて応答したイスラエルの人々と同じように、又ペトロの説教を聞いてイエス様について教えられた人々と同じように、イエス様の奇跡と不思議な業(わざ)と、十字架の死とそれに続く復活の預言(詩編16:10)と実現を信じ、毎週持たれる礼拝の中で、イエス様を私の救い主と告白し、約束の聖霊(33節)の働きを信じて(受けて)今週も、主に伺い、主に期待して、共に歩んで参りましょう。

2023年5月28日ペンテコステ礼拝の説教要旨 創世記11:1-9・使徒2:1-11

「聖 霊」       加藤 秀久牧師     

*はじめに

「神様の霊、聖霊」について私達はどのようなイメージを持つでしょうか? 私がイエス様を救い主として受け入れた時、「聖霊」は何か特別な神様からの贈り物の霊のことで、私の心が正しく神様の方へ向かなければ、聖霊を受けることができないだろうと思っていましたし、神様に信仰の告白をして洗礼を受けた後、この聖霊を受けられる資格が与えられると思っていました。けれども神様は、「霊霊」を受けることのできる資格とか権利のようなものが必要であるなど、私達に言っておられません。

五旬祭(五旬節・ギリシャ語はペンテコステ)

 本日の、使徒言行録2章では、始めに「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とあります。この五旬祭は「七週の祭(大麦に鎌を入れ始める時から7週を数えた日)」と呼ばれて、古くは小麦の刈り入れの祭でしたが、後にイスラエルの民がエジプトから逃れた「過越の日」から50日目に、シナイ山で神様と契約を結んだ日を記念する祝祭日となりました。旧約聖書のレビ記23:15-16には次のように記されています。

あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。・・五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる」。その日には収穫した初物の献げものとして上等の小麦粉に酵母を入れて焼いたパン二個を奉納物とすること、小羊・雄牛・雄羊などのささげ物の規定と共に、この日に聖なる集会を開くこと、どこへ住もうとも、「代々にわたって守るべき不変の定めである」。

それだからこそ、イスラエルの民にとってこの五旬祭は、仕事を休み神様を礼拝する聖会の日、神様との出会いを待ち望む日でもあるのです。

*聖霊降臨

 「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。

一人一人にとどまるようなこの現象は、神様の力強さ、心が熱くなる思い、全身に電気が通ったような思いを与えたことでしょう。

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と伝えています。

*バベルの塔

 本日の創世記11章に記されていますように、神様に造られた人達はもともと一つの言語で意志疎通が出来ていました。ところが、神様から祝福を受けていた人々は、建物を建てる素晴らしい技術を、彼ら自らが名を上げるため、神様のおられる天まで届く高い塔を建て始めてしまいました。神様はこの、人間のおごり高ぶりを許さず、それまで用いていた言語を混乱させ、互いに通じないようにされました。

近年高層ビルの建設技術の発展は目まぐるしい進歩をとげています。その中で私達人間は、神様に造られ生かされている恵みを忘れがちです。私達には天地を造られた創造主がおられることを忘れずにいることが大切であり、自分の知恵や名誉を誇るのでなく、神様の素晴らしさ、偉大さを称え、伝えるために生きるべきと思います。

*わたしたちの、心の中にある受信機

 バベルの塔のように人間に何か混乱を招く出来事は、先週お伝えしたように、私達の心の中にある神様との受信器を使うチャンスにもなります。私達はこの受信機で、神様による聖霊の息吹き、炎のような舌を受け入れることができるからです。この「霊の働き」は凄く偉大なもので、私達の心の内を走り巡り、今まで混乱していた言語を再び一つの言語として理解できるように、私達が互いに理解し合える言葉へと導きます。  私達が一つ所に集まり、心を合わせて祈りを献げるならば、私達にもペンテコステで起きた出来事、聖霊の流れ・現われを毎週の礼拝の中で体験できるはずです。「聖霊降臨」は私達神様を信じる者にとってとても重要で、全てを新たにさせる神様からの贈り物、神様からの霊のシャワー、霊の降り注ぎとして考えることができるかと思います。この素晴らしい恵みに感謝して、神様と共に今週の歩みを始めて参りましょう。

2023年1月8日の説教要旨 イザヤ書52:7-10・使徒言行録10:34-48

「全ての人の主」       加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の使徒言行録10章の始めでは、カイサリアにコルネリウスという人がいて「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長でしたが、ユダヤ人ではありませんでした。しかし彼は、ユダヤ人の信じている神様を信じていました。ある日、彼に天使が現れて、ペトロという使徒を招くように、と、お告げを受けました。それで彼は、召使と兵士の3人をペトロの所に送り出しました。翌日、ペトロのところにも、神様は幻を通して語りかけられました。天から大きな布が四方を吊るされて下りてきて、その中にあらゆる獣や、地を這うものや、空の鳥が入っており、「これを屠(ほふ)って食べなさい」と、言われる幻でした。

神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない

ユダヤ人は、神の民として自分達を清く保つために律法を守っていて、ペトロが見たその布の中には、汚れていて食べてはならないと言われている生き物が沢山入っていました。ペトロは、神様から食べなさいとの命令に、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」とこたえました。ペトロにとって律法を守ることは当然のことでした。しかしペトロに神様は、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と三度もくり返され、布は天に引き上げられました。

*聖霊の導きによる異邦人伝道

ペトロが今見た幻のことを考えていると、コルネリウスの使いがペトロの家を捜し当ててやってきました。すると聖霊がペトロに、「ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」と、コルネリウスのところへ行くように促しました。ペトロは使いの者達から、コルネリウスも天使からお告げを受けたことを聞いて、彼らと一緒に出発してカイサリアに到着し、ペトロの話を聞くために大勢の人が集まっていたところで福音を語りました。これまでペトロは、同胞のユダヤ人たちに、「イエス・キリストこそ我々が待ち望み、聖書に預言されていた救い主である」ことを語ってきましたが、今度は、接触(交わり)を拒んできた異邦人(ユダヤ人以外の外国人)に対して初めて福音を伝えたのです。イエス様のことを伝える言葉には力があり、命があり、愛が伴います。そこで聞いていた人達の上に聖霊が降りました。ペトロと一緒に来た人は、聖霊の賜物が異邦人にも注がれるのを見て大いに驚きました(45節)。

 わたしたちもペトロと同じように、このことのためにな自分が用いられる、あるいは遣わされていると感じたことはないでしょうか。特に、新年を迎えたこの時期、多くの人々が神様を求めて神社やお寺にお参りに行く姿を目にしましたが、その人達がある日、何かのきっかけにより、真実の霊、神様の霊に触れる時、彼らは神様の霊に出会い、神様の所へ、神様を礼拝するために、教会へと足を運ぶことになることを私達は知っています。そのことを神様に期待し、信じていきたいと思います。

いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。」イザヤ52:7

神の御子イエス様が人のかたちを取られてこの地上に来られたことは、私達にとって、とても素晴らしい出来事です。そのイエス様の語る神様の言葉や、不思議な業や、奇跡などは多くの人々に大きな影響を与え、それらはイエス様が亡くなられた後では、イエス様の行いや神様の出来事を伝えることになったのが弟子たちであり、ペトロであり、私たち神様を信じる者たちに委ねられています。ですから私達は、神様の言葉に目を向け、神様の霊の中で憩い、歩み、私達に委ねられている福音、神様のこと、イエス様のことをさらに知る必要があると思います。

このことは、わたしたちの心に平和をもたらし、幸福をもたらし、救いをもたらすことを本日の聖書は伝えています。私達は、このイエス様の霊、神様の言葉に胸を弾ませながら、2023年の歩みが祝福されるように祈り、期待をしながら今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2022年10月23日の説教要旨 ヨブ記38:1-18・使徒言行録14:8-17

「創造主の力」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

ヨブは神様を敬う正しい人でした。その彼に不幸な出来事(財産を失い、息子、娘たちの死、さらにはひどい皮膚病による苦しみ)が起こり、自分が生まれたことを悲しむほどに悲惨な状況の中に置かれました。ヨブは神様の前に正しく生きてきたのになぜ神様からこのような苦しみを受けなければならないのかと訴えました。けれども、どんなに訴えても、神様からの応答はなく、そのたびに沈黙する神様の前で、ヨブの苦しみはいっそう深く激しさを増していきました。

*訴え続けたヨブへの応答

 自分自身への嘆きと、見舞いに来た友人達との議論の中でも苦しみは続き、どん底に落とされて、どうすることもできない状態の中で、それでもヨブは沈黙を続ける神様に「答えてください(31:35)」と訴え続けます。

本日のヨブ記38章の初めに、神様は長い間の沈黙を破り、突如として嵐の中からヨブに直接語りかけ、そして問いかけます。

嵐は、人々がコツコツと築いてきたものや経験・知識を一瞬にして吹き飛ばし、破壊してしまう結果をもたらします。人は大自然の力に襲われる時、初めて自分の力の弱さを自覚するかと思います。「嵐の中から」語られた神様の言葉によって、ヨブに今までにない大きな変化が訪れます。

長い苦しみを経て、ヨブの願いはついにかなえられ、神様が現れて下さったのです。たとえ神様がヨブにどんな厳しい言葉を語ろうとも、この神様の現れそのものがヨブにとってはこの上ない恵みへと変わります。

*神様の、ヨブへの語りかけ

神様は、「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたと言うなら 理解していることを言ってみよ。(3~4節)」と問い、又、命じられます。神様は、ヨブが自分の尺度で物事を考え、自分中心に見て自分に過ちが見当たらず、自分を過剰評価していることを指摘します。

神様は、ご自身が天と地を創造された「創造主」であることに目を向けさせます。ヨブが、神様というお方を知り、ヨブに心を改めさせ、へりくだる心を養い、神様との正しい関係を結ぶ信仰を持つためでした。

ヨブは、この神様との出会いによって、全知全能の神様の前に深く悔い改めることを表明します(42章)。

*創造主によるいやしの奇跡

本日の使徒言行録には、パウロとバルナバが宣教旅行中、リストラに来た時、生まれつき足が悪くまだ一度も歩いたことがない男が座っていたことが記されています(14:8)。彼はパウロの話を聞いていました。

パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言いますと、彼は躍り上がって歩きだしました。それを見ていた群衆は「神々が人間の姿をとって、お降りになった」と声を張り上げ、パウロとバルナバに神々の名を付けて、いけにえを献げようとしました。群衆に二人が語ったのは、今も生きて働かれている創造主なる神様の力と、そのわざについてでした。

*二人の宣教

あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。

神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。

*わたしたち

私達が信じる主なる神様は、目にするすべてのもの(空・天体・自然・植物・動物や私達人間)を造り、世界を造られた神様です。わたしたちは神様によって管理され、生かされているのです。今週も、恵みによって生かされている喜びと、感謝の心を持って共に歩んでいきましょう。

2022年7月10日の説教要旨エステル記4:10-5:8・使徒言行録13:13-25

「御手の中に」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

エステル記は、ペルシャ帝国のクセルクセス王の治世 (BC486-465) に、捕囚以来、東部に残ったユダヤ人達がある危険にさらされた時、王妃エステルによってその危機から助け出されたことが記されています。

*モルデカイとエステル

 スサの町にモルデカイという名のユダヤ人が住んでいました。彼の伯父には一人娘がいましたが両親はすでになく、モルデカイが自分の娘として引き取り育てていました。彼女は美しく、やがて王妃エステルとなります。エステルは、モルデカイに命じられた通り、自分がユダヤ人であることを明かしませんでした。

*ハマンの策略

 一方、王宮では、大臣の中で最も高い地位についたハマンに対して、役人たちは、ひざまずいて敬礼するように命じられましたが、モルデカイは敬礼しませんでした。ハマンは自分にひざまずいて敬礼しないモルデカイに腹を立て、彼がユダヤ人であることを知り、彼一人だけでなく、国中のユダヤ人を皆、滅ぼそうと計画し、クセルクセス王を説得しました。その結果、王の名前でユダヤ人を絶滅させる勅書が出され、全国民に交付されましたので、ユダヤ人の間では苦悩に満ちた叫び声があがりました。

*モルデカイの伝言

モルデカイはこの計画を知ると、エステルに「王のもとに行き、自分の民族のために寛大な処置を求めて嘆願するように」と伝言しました。それに対してエステルは、「王の召しがないのに、王に近づく者は法によって死刑になること。但し、王が金の笏(しゃく)を差し伸べた時だけ死を免れること。自分は一か月も王からの召しがないこと」を、モルデカイに返事を送りました。モルデカイは再びエステルに伝言します。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時のためにこそ、あなたは王妃という特別の高い地位に就いたのではないか。」

 さらに、モルデカイは、「エステルがもし口を閉ざしているなら、ユダヤ人の救済は他の所から起こり、エステルの身内は滅ぼされることになるだろう」と伝えました。モルデカイは、この困難な出来事に対して、神様から助けの手が差し伸べられることを確信していたのです。

*エステルの決断

 エステルは、「スサのユダヤ人を集めて、自分の為に三日三晩、断食してほしい。自分も女官達と共に断食します。その後、法に反するけれども自分は王の前に出ます。死なねばならないのなら死ぬ覚悟です。」と伝えました。そして三日三晩の断食後、エステルが王の前に出た時、王は手にした金の笏を差し伸べました。エステルは王にすべてを告げ、王はハマンの策略を知り、ユダヤ人絶滅の勅令は取り消されたのでした。

*アンティオキアの会堂長の依頼に応えたパウロの説教

本日の使徒言行録は、伝道旅行中、「励ましのお言葉を下さい」との依頼に応えたパウロの説教が語られています。内容は神様によるイスラエル民族の選びと歩み、そして、神様はダビデとの約束に従って子孫から「救い主」を送って下さったこと、又、イエス様が来られる前にはバプテスマのヨハネが、イスラエルの民全体に「悔い改めのバプテスマ」を授けて、「わたしは、わたしの後から来られるお方(イエス様)の履物をお脱がせする値打ちもない」と証言したこと、神様は、旧約聖書の約束を成就されたことを語りました。25節以下では、「ところが人々は預言者達の言葉を理解せずイエス様を死刑で殺したこと、しかし神様はイエス様をよみがえらせて下さったこと、そしてイエス様による罪の赦しが告げ知らされ、信じる者は皆、義とされたこと」を語っています。

*わたしたち

神様を語る時、歴史を抜きにして語ることは出来ません。私達は生活の中で神様に声をかけられ、呼び止められ、イエス様に出会いました。私達はイスラエルの歴史と神様のみ業を通し、今も、このお方が変わらずに私達を導いておられること、又、神様との出会いの時には、他の方達とも出会う機会が与えられていることに感謝せずにはいられません。

2021年6月27日の説教要旨 イザヤ49:14-21・使徒言行録4:32-37

「分かち合い」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日のイザヤ書49章では、イスラエルの人々が捕囚の地バビロンから長年待ち望んだ故郷イスラエルへ帰ることが、預言者である第二イザヤ【注】を通して神様から告げられます。<【注】イザヤ書は、1~39章の著者はイザヤ、40~55章の著者は便宜上第二イザヤと呼ばれ、56~66章の著者は第三イザヤと呼ばれており、歴史的背景、文体などが大きく違っている。>エルサレム帰還のニュースは、イスラエルの人達にとってとても嬉しいことでしたが、一方、彼らを不安にさせることでもありました。それは捕囚地へ連行される前、町はバビロンによって完全に破壊されてしまったことでした。

*「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」(14節)

イスラエルの人達は、故郷エルサレムで再び神様を礼拝することを待ち望みつつも、「エルサレム帰還」を信じられず、心のどこかで、「エルサレム」の町はすでに神様に見捨てられたと考えていたのです。

*「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない」(15節)

「見捨てられた」と訴える彼らに、神様は、そのようなことはあり得ず、それよりも、「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」(16節)と語ります。私達が手のひらに何か文字を書くように、神様の手のひらには、イスラエルの名前のみではなく、再建したエルサレムの姿をも刻んでいると言われます。神様は、自らが計画して選んだ民を忘れることがなく、速やかに行動し、かつての征服者たちは遠くへ追いやられ、立ち去り、散らされた民は再びエルサレムの地に呼び集められ、荒れ果てた地・エルサレムは、これから故郷に戻る人々の子供達の「住む場所が狭(せま)すぎます」(20節)との(嬉しい)声を聞くことになるだろうと語っています。

*聖霊降臨後の弟子達

使徒言行録2章では、聖霊が降る出来事(ペンテコステ)を通して弟子達は聖霊に満たされて神様の力を受け、大胆にイエス様のことを語り、聞いていた大勢の人々は、イエス様のなさった話を聞くことにより信じて信仰に入りました。しかし4章では、ペトロとヨハネはイエス様の復活を伝えていたことで投獄され、翌日、議員や律法学者達の前で質問を受けますが、二人の語る大胆な態度や、二人が無学な普通の人であることを知り、さらにペトロに足を癒やしてもらった人がそばに立っていたので、二人は釈放されて仲間たちの所に戻り、これらのすべての出来事を報告しました。集まっていた信徒達は、これから迫り来る出来事に立ち向かえるよう神様に力を与えてくれるように心を合わせて祈りました。祈り終えると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて大胆に神様の言葉を語りだしました。神様は集まっていた使徒達の祈りを聞かれ、大いなる力を表されました。

*「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。(32節)

使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かに注がれた。」(33節・聖書協会共同訳)

「神様の恵み」は、二人でも三人でも主の御名を求める兄弟姉妹、信じる全ての人たちが集まるところ、教会・共同体を作り出します。そこでは、お互いが家族のようであり、同じ使命を持ち、祈り合い、支え合い、持ち物を共有し合うことが自然に行われていきます。そこには、「神様の恵み」、癒やしの源である「聖霊の働き」が起こり、人々に力を与えて下さるのです。私達はこのような全てを満たす神様の恵みに出会いたく、神様の霊に触れたくて、毎週、教会の門をくぐってこの礼拝堂に来るのです。ここでの集まりの中で、私達は神様を感じ、神様に触れ、神様を体験しているでしょうか。神様が私(私達)と共におられなければ、現れて下さらなければ、神様を知ること、感じることはできません。私達はすでに神様の手のひらに私達の名前が刻まれていて、共に祈る場所、礼拝する場所が用意されているのです。ここは、神の家族、神の家です。

2021年6月6日の礼拝説教要旨 エゼキエル書18:25-32・使徒言行録17:22-34

「創 造 主」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日のエゼキエル書18章には、イスラエルの人々が「先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」ということわざを繰り返し口にして、現在、彼らの身の回りに起る幸・不幸の出来事は、先祖が過去に行った様々な行為の結果であると考えていたことが伝えられています。それゆえ、捕囚という悲惨な出来事は、先祖の罪の行いの報いであると受けとり、神様の、自分達に対する扱い方は正しくないと主張しています。

そのようなイスラエルの民に対して、預言者エゼキエルは、現在彼らの身の回りに起っていることは、イスラエルの一人、一人、各個人に責任があるとの神様の言葉を伝えます。すなわち、正しい人が、そこから離れて不正を行なうなら、彼は自分の行った不正によって死ぬのであり、逆に、悪い人が自分の行った悪から離れて、神様の前に正義と恵みの業を行うのなら自分の命を救うことができる、との主の言葉を語ります。

そして主なる神は、「ひとりひとりをその道に従って裁く」(30節)、「悔い改めて、お前たちのすべての背(そむ)きから立ち帰れ」(同)「あらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(31節)わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(32節)と言われたのです!

*パウロのアテネ伝道

 本日の使徒言行録でパウロは、アテネの人々が至る所に人の手で造った神々(偶像)を置いてあるのを見て、この町が「偶像に満ちている」のに憤慨(ふんがい)しました。(原語では、パウロの心の中の霊がしきりに憤りを感じたとの表現)。そこでパウロは、会堂や広場でイエス様の復活の出来事を告げ知らせ、アテネの人々と論じ合っていました。その時、パウロと論じ合っていた人々が「あなたが説いている新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことを私たちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」と、パウロをアレオパゴスという評議所に連れて行きました。

*「知らずに拝んでいる神、それは創造主なる神」

パウロはアレオパゴスの真ん中に立ち、「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなた方が信仰のあつい方であることを私は認めます。道を歩きながら、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなた方が知らずに拝んでいるもの、それをお知らせしましょう。」と言って、彼らの持っている信仰を否定することなく、知らずに拝んでいる神様について説明を始めます。

 パウロは、「神様は世界とその中の万物とを造られた神」であり、「神様は、一人の人からすべての民族を造り出した」こと、「人が神様を探し求めさえすれば、神様を見出すことが出来る」こと、実際、「神様は地上に生きる一人一人から遠く離れているのではなく、近くにいて下さるお方である」ことを語ります。そして、「神様を、自分たちの手で造った像と同じものと考えてはならない」こと、今は、「御子によって正しく裁く日をきめられた」ので、人々が「悔い改めなければ、今までのような生活は長く続かず、必ず裁きの日がある」こと、「神様はこの御子を死者の中から復活させて、人々に証しされた」ことを語りました。

*わたしたち

死者の復活と聞いてあざ笑う者や、「それについては、いずれ又」と立ち去る者たちがいましたが、パウロについて行き、信仰に入った者も何人かいたことが記されています。現代は、昔になかった新約聖書などの良い環境が整っているにもかかわらず、街を行く人々は神様を知ろうとも見ようとも、探し出そうともしないのはなぜなのでしょうか。そして私達はどうでしょうか。私達もひょっとしたら神様以外の人(家族の誰かであったり、友人であったり)や、目に見えないものを「偶像化」しているかもしれません。今日、私達にかかわる人や物のすべてを横に置き、神様に心を向け、神様が私たちの心の中に訪れて下さり、すべての今ある問題、ストレス、重荷を取り除いて下さるようにお祈り致します。

2021年5月23日ペンテコステ礼拝の説教要旨 ヨエル書2:23-3:2 使徒言行録2:1-13

「魂の高鳴り」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日のヨエル書2章12節以下は、主がイスラエルの民に向けて、現在の行いから離れ、悔い改めるようにとの呼びかけから始められています。この悔い改めは、主に対してうわべだけのしるし(衣服を裂くことなど)ではなく、一人一人が主の前に立ち帰り、心から自分のしたことを神様に打ち明けることでした。イスラエルの国の土地や建物は荒れ果てて、見るに堪えないような姿になってしまっているかもしれないが、彼らの悔い改めは、主に対して遅すぎることはないと告げています。そして人々が神様に立ち帰ることでイスラエルの国は回復し、土地は再び、穀物やぶどう酒や油を作り出すことができると述べています。

 この復興の約束は、イスラエルの人々に大きな希望を与えました。そして本日のヨエル書3章で、神様は、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。・・老人は夢を見、若者は幻を見る。」と約束され、しかも「主の名を呼ぶすべての人々が救われる」と約束され、この預言は、ペンテコステの日に成し遂げられることとなりました。

*ペンテコステ(聖霊降臨日)

イエス様は、天に昇られる前に弟子達に、父なる神様の約束されたものをエルサレムで待つように命じました。それは、聖霊が弟子達に降(くだ)り、力を得て、エルサレムばかりでなくユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てに至るまで、イエス様の証人となるということでした(使徒言行録1:3~)。

 本日の使徒言行録2章1-13節では、五旬節の日、エルサレムで弟子達が心を一つにして祈っていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き渡り、炎のような舌が分かれ分かれに現われて、一人一人の上にとどまりました。炎のような舌とは、火の粉のようなものが祈っていた人々に移り、炎を灯すような光景だったのではないでしょうか。すると弟子達は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだしたとあります。この聖霊の光は、始めは小さな光から、やがて弟子達の祈りが、神様に対する願いや思いが強くなればなるほど、輝きが大きくなり、聖霊の力が増し加わって、神様の凄さ、素晴らしさ、圧倒的な存在を感じたことでしょう。

 当時エルサレムには、あらゆる国から帰って来た信仰厚いユダヤ人が住んでいて、又、五旬節のために訪れたユダヤ人やユダヤ教への改宗者がいましたが、この大きな物音で大勢が集まる中、弟子達が、自分達の故郷の言葉で話しているのを聞き、人々は皆驚き、とまどい、「一体これはどういうことなのか」と互いに言いました。その一方で「あの人達は、新しいぶどう酒に酔っている」と言って、あざける者もいました。

*わたしたち

 神様は、聖霊を通して、私たちに様々な出来事について語り、忠告をして下さいます。「私はイエス様とうまく話せなし、聖霊を感じることが出来ないから普通の生活をしている方がいい、このままの自分でいい」と思っていないでしょうか。イエス様は、イエス様を信じるすべての人たちに、神様の霊をお与えになりました。

 この“霊”の注ぎかけは、現在も止むことなく、しかも霊の注ぎかけは水の流れのように、滝の水の流れのように力強く流れているのです。イエス様はこの聖霊を、信じる全ての者達に注ぎやすくするために、私たちの罪を背負い、十字架にかかり亡くなられました。

このイエス様の死を無駄にしないで下さい。

わたしたち信じて生きる者は、イエス様の証し人となるべきです。

イエス様は、今、このペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝の中で、神様の大いなる生きた霊、聖霊をいつもより力強く、激しく、心地よく、私たちに注いで下さっています。私たちは、この霊を思う存分、味わい、憩い、楽しむ必要があります。神様、イエス様は、ここにおられるからです。この素晴らしい日に、神様からの豊かな祝福と守り、導きがあり、今日から一週間の日々、神様が共におられますようにお祈り致します。

2020年11月22日の説教要旨 申命記11:13-21・使徒言行録14:8-18

「喜びで満たす神」     加藤 秀久伝道師

*はじめに 

本日の申命記には、イスラエルの民が存続していくには神様の命じる戒め(=主に聞き従い、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして主に仕える)がありました。この戒めはイスラエルの民の、神様に対する忠誠を尽くす言葉にもなっていました。彼らは、時には神様に不平を言い、神様に背き、しくじり、自分達の存在意義も見失い、途方に暮れた時もありましたが、出エジプト後、 イスラエルの民は,荒れ野を40年間 さ迷いながらも、主に従い続けることによって神様からの守りと導きにより、一つの民族として存続し続けることが出来ました。それは、彼らが神様によって愛され、選ばれた民だからでした。

*カナンの地に住み続け、祝福を受ける道

モーセはカナンの地を目前にして、イスラエルの民に、カナンの地がエジプトと違ってどれほど美しく良い土地であるかを伝えています。そしてイスラエルの民が、このカナンという とても豊かな土地に住み続けるためには、主に誠実であり続けることがどれ程までに重要で、必要なことであるかを伝えています。さらに、民が心変わりして主を離れ、他の神々に仕え それにひれ伏すことのないように警告しています。 彼らの心に刻まなければならない言葉は、主の戒めを守り、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして主に仕えることでした(申命記6章)。そうすることでイスラエルの民は、神様からの沢山の祝福を受けて栄えることが出来たのでした。

*わたしたち

 私達の心の中は、主の戒めを守り、主に聞き従い、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして主を愛しているでしょうか。主の語られる言葉を心に留め、魂に刻み込み、信仰の糧としているでしょうか。どこかで罪の誘惑に負けて、主から目を離してしまっていないでしょうか。

*リストラでの出来事

パウロとバルナバが伝道旅行でリストラに行った時、生まれつき足が悪く一度も歩いたことがない男の人が座っていました。彼はパウロの話すのを聞いていたので、パウロは彼を見つめて、癒されるのにふさわしい、神様を信じる信仰があるのを見定め、彼に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言いました。するとその人は躍り上がって歩きだしました。 群衆はパウロの行為を見て、「神々が人間の姿をとって私達のところにお降りになった」と、いけにえを献げようとしたのです。

この地方の伝説によれば、昔ゼウス神とヘルメス神が変装し、お忍びで地上に来た時、神々をもてなす人はどこにもいませんでした。が、ある老夫婦が神々を家に入れて手厚くもてなしたところ、その後この地方を洪水が襲った時、老夫婦は神々の守りによって救われたという話です。

*パウロとバルナバの説教

パウロとバルナバは、いけにえを捧げようとした彼らに「私達もあなた方と同じ人間にすぎません。あなた方がこのような偶像を離れて生ける神に立ち帰るように、私達は福音を告げ知らせているのです」「この世界を創られた天地創造の神様こそが恵みを下さり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施してリストラの人々の心を喜びで満たして下さっているのです。」と語り、いけにえの行為をやめさせました。

*収穫感謝日

日本キリスト教団では、11月の第4日曜日を収穫感謝日として礼拝を守っています。私達に与えられている全ての恵みは、この世界を創られた神様によって与えられているものです。数え切れないほどの恵みを覚えて主に感謝する。それが収穫感謝日の礼拝です。そして又、私達が覚えるべき一番の恵みであり実りであるのは、イエス様を信じることによって、罪の生活の中から解放されたことだと思います。私達は日々、自由にされて生きることが赦されています。私たちのそばには、いつも喜びで満たして下さる神様がいます。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と言われる言葉の中に、私達は神様の本当の愛を見つけることができると思います。 私たちが主を 愛する時、私たちは主の愛を、主の恵みを見つけることができるのです。