「 御名の 権威 」 加藤 秀久牧師
*はじめに
イエス様の弟子たちは、ペンテコステの出来事を通して、彼らの行動を大胆にさせる「聖なる霊」により、力強くイエス様の復活の出来事を話すようになりました。その一方で、そのことを良く思わない人達がいました。それは、祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人達です。祭司は神殿で奉仕する人。神殿守衛長は祭司の業務を監督し、神殿を統率する人で大祭司に次ぐ権力を持っていた人。サドカイ派の人々は、貴族祭司と上流階級の信徒達です。彼らは、聖霊や復活の出来事を信じる人達に反対していました。
*彼らのいらだち
ペトロとヨハネが民衆にイエス様の復活を宣べ伝えているので、よく思わない彼らはいらだち、近づいてきて二人を捕え、既に日暮れだった為、翌日まで牢に入れてしまいました(4:3)。彼らのいらだちの感情はよほどのものだったと考えられます。なぜならこの言葉は、新約聖書全体を通しても2回だけしか使われていないからです。
実は私達もいらだつことがあります。相手が自分のして欲しくない言動をして、注意や忠告を聞いてもらえない時、疲れて、我慢の限界が来ると、感情を表に出したり、腹を立て、その場を去るなどすることがあります。
*ペトロとヨハネの行動
彼らをいらだたせたペトロやヨハネの行動は、神様の霊を受けた時から、その霊の力を止めることができず、これまでの自分達の体験を越えた、この素晴らしい出来事を他の人にも伝えたい、教えたいと思い、イエス様のことを話さずにはいられない、イエス様の復活の出来事を聞いてほしいという気持が現れたと思います。ところが、特にペトロとヨハネに近づいてきた祭司逹からすると、この二人の言動は大変迷惑な行為で目障りな存在で、自分達の方が権威者だと思っていますから、堪忍袋の緒が切れたと言えます。けれども他方では、二人の語った言葉を聞いて信じた人の数は、男性が五千人にもなったと聖書は伝えています。
*「何の権威で、だれの名によって、それをしたのか」(7節)
翌日、二人は最高法院(議会)で真ん中に立たされて、「何の権威で、だれの名によって・・」と尋問を受けました。ペトロは聖霊に満たされて、大胆に弁明を始めます。 「今、自分が訴えられているのは、足の不自由な人をいやしたこと(3章1節~)と、その人が何によっていやされたか、ということなら民全体の人達も知って欲しい」と前置きして、「あなた方が十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものだ(10節)」と語り、更に、「私達が救われるべき名前は他にはない(12節)」と力強く語りました。そしてイエス様こそ「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石である(詩編118:22)」=イエス様が軽蔑され人々から捨てられたけれども、神様は家(神様と人とが永遠に共に住む家)を建てるためになくてならない「かなめの石」とされたと語りました。イエス様の十字架の死と復活の出来事は人の目には不思議な出来事ですが、神様の救いの計画においてはなくてはならない重要な出来事だったのです。
*「あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい」(申8:11)
本日の申命記では、神様がイスラエルの民に、カナンの地の豊かな生活に満足して高慢になり「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えないように警告しています。神様は、今に至るまでの生活の様々な場面を通して自らを現わしておられ、富を築く力を与えたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たした結果の今の生活ですから、神様を忘れず、へりくだり、神様に従っていく心を持ち続けるように促しています。
わたしたちが神様を信じ、信頼し、へりくだり、神様のみ名の権威に従順になる場所は、私たちの心の中です。私たちはそこで神様と会話し、神様のご計画を知ることができるのです。それは私たちの力となり、ペトロに与えられた大胆さを、私たちも同じように持つことができて、神様を知る機会を与えることもできることを知りましょう。今週一週間、神様の良き導きがありますようにお祈りを致します。