2024年2月4日の説教要旨 ヨブ記23:1-10・ヨハネ書5:1-18

           「信仰の投げかけ」       加藤 秀久牧師

*はじめに

私達は聖書の言葉を通して神様の言葉に耳を傾け、神様が私に語りかけていることを信じて神様の業が行われるまで待ち望むことが出来ているでしょうか。本日のヨブ記23章は、ヨブに降りかかった災難を聞いて、親しい友人達(2:11/エリファズ・ビルダド・ツォファル)が見舞い慰めようとやってきてヨブの訴えを聞き、エリファズが述べた意見(勧め・22章)に対してヨブが答えている箇所です。

*直接神に訴えるヨブ

3人の友人達は代わる代わるヨブの苦しみの根源をさぐり、4章以降(エリファズ:4~5章・15章・22章、ビルダド:8章・18章、ツォファル:11章・20章)で、ヨブと議論しつつ解決の道を示そうとしています。エリファズは22章で、ヨブの苦しみはヨブ自身に原因があり、ヨブの心が曲がっていることで不幸を招いているので、「神の教えを受けて、神の言葉を心に納め、神のもとに立ち帰り、不正を遠ざけるなら、あなたは元どおりにしていただける」と説得を試みます。これに対するヨブの答えは、人生の謎に焦点を当てて話をしています。ヨブはこれまで友人達の言葉に耳を傾けてきましたが納得出来ず、友人達との直接的な議論はやめて真剣に神様と言葉を交わしたいと思うようになります。しかし神様は沈黙を続けていて話をすることができない。だからといって神様は何もしてくれないかと言えばそうではなく、神様の計画するその時その場所で、神様の良しとされることを行なわれる・・。23章はヨブの心からの叫び・嘆きとなり、彼の強い想いを打ち明けて、ヨブの素直な気持が現われているようです。「どうしたら神様を見つけることが出来るか?神様と出会うことが出来たなら沢山色々なことを告げたい、話をしたい・・。神様の声を直接聞くことが出来たら、その言葉を受け入れられるのに・・。「そうすれば、わたしは神の前に正しいとされ、わたしの訴えはとこしえに解決できるだろう(7節)。」「わたしの足はその方に従って歩み、その道を守って離れたことはない(11節)」。」

*安息日のベトザタの池での奇跡

本日のヨハネ福音書には38年間病気で苦しんでいた人が癒された出来事が記されています。この奇跡は、ユダヤ教で床を担ぐことは律法で禁止されている安息日に行われました。なぜ安息日にイエス様は病人を癒したのでしょうか。それは安息日が「~してはいけない日」という 捉(とら)え方の違いを明らかにしようとしたからだと思います。

*「ベトザタ」(ヘブライ語)

ヘブライ語で「ベトザタ」は「恵みの家」の意味があります。そこでは病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていました。ヨハネ福音書の最後に抜けている4節が記されています。「彼らは、水の動くのを待っていた。主の使いが時々池に降りて来て、水が動くことがあり、動いた時、真っ先に水に入る者は癒された」とあり、ここにいる人々の背景には異教の神々の宗教の影響を強く受けて「恵みの家」と呼ばれていたことで大勢集って来ていたと考えられます。けれどもイエス様は、38年もの間、病気にかかっている人に声をかけました。彼はヨブのように神様を求めていたように思えます。

*神様のみわざ

イエス様は彼に、「良くなりたいか」と尋ねられ、答えた彼に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われました。「床」は「親密な交わりの場」をも意味し、神様と人とが親密な交わりのできる神様の国と考えられます。イエス様は彼に、俗なる社会、偽りの神々の情報のある社会との交わりを断ち切り、神様と交わりのできる場所に行くように言われたのです。私達も又、ヨブや池のそばで横たわっていた彼と同じように、この社会の中で、神様の働き・現れ、み業を待ち望んでいるのではないでしょうか。 本日もイエス様は、私達のいるこの地上、この社会、この礼拝の場所に来られています。イエス様が来られたということは、神様の国と同じような場所がこの所に現れて、体験することが出来るということです。だからこそ、この時、この場所で、神様を感じてほしい、知って欲しいと願っています。

神様に全てを委ねて、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2022年10月23日の説教要旨 ヨブ記38:1-18・使徒言行録14:8-17

「創造主の力」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

ヨブは神様を敬う正しい人でした。その彼に不幸な出来事(財産を失い、息子、娘たちの死、さらにはひどい皮膚病による苦しみ)が起こり、自分が生まれたことを悲しむほどに悲惨な状況の中に置かれました。ヨブは神様の前に正しく生きてきたのになぜ神様からこのような苦しみを受けなければならないのかと訴えました。けれども、どんなに訴えても、神様からの応答はなく、そのたびに沈黙する神様の前で、ヨブの苦しみはいっそう深く激しさを増していきました。

*訴え続けたヨブへの応答

 自分自身への嘆きと、見舞いに来た友人達との議論の中でも苦しみは続き、どん底に落とされて、どうすることもできない状態の中で、それでもヨブは沈黙を続ける神様に「答えてください(31:35)」と訴え続けます。

本日のヨブ記38章の初めに、神様は長い間の沈黙を破り、突如として嵐の中からヨブに直接語りかけ、そして問いかけます。

嵐は、人々がコツコツと築いてきたものや経験・知識を一瞬にして吹き飛ばし、破壊してしまう結果をもたらします。人は大自然の力に襲われる時、初めて自分の力の弱さを自覚するかと思います。「嵐の中から」語られた神様の言葉によって、ヨブに今までにない大きな変化が訪れます。

長い苦しみを経て、ヨブの願いはついにかなえられ、神様が現れて下さったのです。たとえ神様がヨブにどんな厳しい言葉を語ろうとも、この神様の現れそのものがヨブにとってはこの上ない恵みへと変わります。

*神様の、ヨブへの語りかけ

神様は、「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたと言うなら 理解していることを言ってみよ。(3~4節)」と問い、又、命じられます。神様は、ヨブが自分の尺度で物事を考え、自分中心に見て自分に過ちが見当たらず、自分を過剰評価していることを指摘します。

神様は、ご自身が天と地を創造された「創造主」であることに目を向けさせます。ヨブが、神様というお方を知り、ヨブに心を改めさせ、へりくだる心を養い、神様との正しい関係を結ぶ信仰を持つためでした。

ヨブは、この神様との出会いによって、全知全能の神様の前に深く悔い改めることを表明します(42章)。

*創造主によるいやしの奇跡

本日の使徒言行録には、パウロとバルナバが宣教旅行中、リストラに来た時、生まれつき足が悪くまだ一度も歩いたことがない男が座っていたことが記されています(14:8)。彼はパウロの話を聞いていました。

パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言いますと、彼は躍り上がって歩きだしました。それを見ていた群衆は「神々が人間の姿をとって、お降りになった」と声を張り上げ、パウロとバルナバに神々の名を付けて、いけにえを献げようとしました。群衆に二人が語ったのは、今も生きて働かれている創造主なる神様の力と、そのわざについてでした。

*二人の宣教

あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。

神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。

*わたしたち

私達が信じる主なる神様は、目にするすべてのもの(空・天体・自然・植物・動物や私達人間)を造り、世界を造られた神様です。わたしたちは神様によって管理され、生かされているのです。今週も、恵みによって生かされている喜びと、感謝の心を持って共に歩んでいきましょう。

2020年7月19日の説教要旨 ヨブ記9:2-13・マタイ福音書14:22-33

「神への信頼」     加藤秀久伝道師

*はじめに

ヨブという人物は、長い間、神様から祝福された生活をしてきました。家族が祝福され、財産も豊かに与えられていました。しかしヨブはある日突然にすべてを失い、苦しみの中で、なぜ、このような状況にあるのかが分からず、その答を見出したいと求め続けていました。ヨブはそのような葛藤の中にあっても、神様がこの天地を支配する方であることを思い起こしています。「山も、大地も、太陽も、星々も、そして海の高波さえも、神様の命令に従う」と語ります。(ヨブ記9:5-8)

しかしまた同時に、ヨブは、神様がそばを通られても気づくことがなく、過ぎゆかれても悟らない、自分の愚かさを嘆きます(同11節)。

なぜ人は、神様が計りがたいほどの大きな業をなされ、数々の不思議な業を成し遂げられていることに気づくことができないのでしょうか。

*気付けなかった弟子達

弟子達は、舟で湖の向こう岸へ向かっていました。夜になる頃、舟は岸から何キロメートルも離れていました。しかし強い向かい風だったので、彼らは、波に悩まされていました。夜明け頃、イエス様は湖の上を歩いて弟子達のところに近づいて来ました。弟子達は、イエス様が湖の上を歩いてくるのを見て、「あれは幽霊だぁ」と言っておびえてしまいます。

彼らは恐ろしさのあまり、大声で叫んでしまいました。

彼らは、イエス様は「何でも出来る本当の神の子」であることを知っていたはずですが、イエス様が湖を歩いてくる姿を見ても、人が湖を歩けるはずが無いと思い込み、イエス様に気づくことができませんでした。

イエス様は弟子達に「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と、怖がっている彼らの気持を落ち着かせ、励まし、安心させて下さったのです。その時イエス様に気づくことが出来たペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と言いました。ペトロも水の上を歩いてイエス様の所へ行けるようにして欲しいと頼んだのです。イエス様は、「来なさい」と言いました。ペトロは、その言葉を信頼し、水の上に立つと、イエス様だけを見つめて、歩いて行きました。

*「主よ、助けてください」

ところがペトロは、イエス様から目をはなし、風によって大きな波が立つのを見た時、又、恐ろしくなり、イエス様を信じる心が弱ってしまいました。その瞬間、ペトロの体は、水に沈み始めました。ペトロは、大慌てで「主よ、助けてください」と叫びました。そこでイエス様は、すぐに手を伸ばしてペトロをつかんで助けて下さり、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。そしてイエス様がペトロを連れて、舟に上がられた、その時、風がやみました。舟にいた弟子達は みな、イエス様を礼拝して言いました「確かにあなたは神の子です」と。

*主を求める

弟子達は、イエス様の奇跡をたくさん見て、イエス様が何でも出来るお方だということをよく知っていたはずです。この日もイエス様の奇跡を見たばかりでした(14:13~参照)。そのイエス様が、弟子達の舟がうまく前へ進むことが出来ないのを見て心配して近づいて来て下さったのに、弟子達は「幽霊だ」といって怖がり、ペトロも、始めはイエス様の力を信頼していましたが、波を見て怖くなってしまったのです。

私達の心もガリラヤ湖の湖のように、波のない、穏やかな時もあれば、荒れ狂う波が立ち、どうすることも出来ない感情の時があると思います。その私達の心に、平安、落ち着き、安らぎを下さるのは、神の子であるイエス様のほかに誰もいません。

私達がイエス様に対する信仰が弱いと感じる時こそ、「主よ、助けてください」と叫ぼうではありませんか。弟子のペトロでさえ、信仰が弱く、溺れかけました。しかしイエス様は、すぐに手を伸ばしてペトロを助けて下さいました。 イエス様は、信仰の弱い私達を助けて下さる 優しいお方です。イエス様は、私達が困っている時、そのことを一緒に悩み、悲しみ、側にいて、私たちを助けたいと願っているお方です。

1月19日の説教要旨 

ヨブ記38:4-6・使徒言行録 17:22-29

「神は天地の主」   佐々木哲夫先生

*はじめに:世界宗教人口

 世界の宗教人口は約60億と言われております。その中でキリスト教は20億、イスラム教は12億 ヒンドゥー教は8億、仏教は3億6,000万です。ユダヤ教を起源とする一神教のキリスト・イスラムは合わせると32億。他方、バラモン教をルーツとするヒンズー・シーク・仏教系は約12億です。世界宗教か民族宗教かという分類もありますが、何れにせよ、今日において、一神教の神と自然神の神が宗教の双璧(そうへき)になっています。

今朝は、聖書を通して私たちに知らされている神とはどのような神かについてご一緒に思いを巡らしたいと思います。

*アレオパゴスの説教 

使徒パウロは、第二次伝道旅行においてアテネを訪れております。アテネには、貴族たちの会議所が置かれていた小高い丘アレオパゴスがあります。パウロはその丘の中央に立って演説を行いました。というのはアテネの道を歩いている時に見たのですが、至るところに偶像があり、その中に『知られざる神に』と刻まれている祭壇を見つけたからです。パウロは、「あなたがたが知らずに拝んでいる『知られざる神』についてお知らせしましょう」と語っています。アテネの聴衆は、ギリシア神話に登場する神々に親しみ、哲学者の議論する学説に心惹(ひ)かれていた人々で、耳が肥えていました。そのような人々に向かって本当に信ずべき神を紹介したのです。

*聖書の神

パウロは、聖書の神について二つの点を強調しています。

第一は、世界とその中の万物を造られた神であって、この天地を超越していることです。すなわち、人間の手で造られた神殿に安置され、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要がないのです。『知られざる神に』と刻まれた祭壇に納まる神ではないのです。

第二は、すべての人に命と息とその他すべてのものを与えてくださる神であることです。聖書の神は、人間の魂と身体の存在の根本原因、換言するならば、人間が寄って立つべき基盤であるのです。そのような関係が神と人とにあるのですが、人間は、この世で学ぶにつれ、また、身の回りの出来事を上手に対応管理するにつれ、神と人との関係を逆転させてしまいます。神を『知られざる神に』と刻んだ祭壇に納めて相対化し、他方、自らを自律する存在と考えてしまうのです。

*主客転倒

旧約聖書のヨブに向かって天地万物の創造主なる神は問います。

本日の旧約聖書の箇所です。「わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。 基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか」と問います。主客転倒の思いを問いただしたのです。

ヨブは、自分の存在起源である創造主なる神を再認識し「私は取るに足りない者、何を言い返せましょうか。私は自分の口に手を置きます(40:4)。私は自分を退け塵(ちり)と灰の上で悔い改めます(42:6)」と語っています。

*インダス文明の神

 他方、インダス文明の宗教であるバラモン教の神は、紀元前5世紀頃にヒンズー教の神として整えられました。インダス文明の担い手である人々は、世界と人間の存在に驚きと恐れを持ち、宇宙に偏在(へんざい)する神をあがめました。そして、自己の中にも存在するその神と自分(自我)とを同一化しようとします。禁欲と出家による修行によって、神と同一化しようと試みます。それは、人間の短い一生の間にはなかなか実現できない事なので、「同一化、悟り」は、輪廻(りんね)転生(てんせい)という永遠の中で試みられることになります。

*ヒンズー教・仏教

その流れの中から釈尊(しゃくそん)の仏教が出てきます。涅槃(ねはん)の境地に至った存在者である阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)、大日如来(だいにちにょらい)、薬師(やくし)如来(にょらい)などが住む極楽(ごくらく)浄土(じょうど)は、十万億土の彼方(かなた)に存在すると考えられました。

インドでは、仏教はやがてヒンズー教に戻り吸収されます。ですから仏教にも梵天(ぼんてん)や帝釈天(たいしゃくてん)などの神が存在します。仏教での神は六道の世界にある存在で、如来よりかなり低い存在です。

このような歴史を概観するならば、日本に仏教が伝来した後に、日本古来の民族宗教の八百万(やおよろず)の神を仏の化身(けしん)であるとする本地(ほんち)垂迹説(すいじゃくせつ)が出てきた理由を見出す思いがいたします。

*シュメールの神

 ところで、創造神は、古代オリエントの神話やギリシャ神話においても登場しています。それら神は、すべて、人間から遠く離れた世界にいます。遠くから人間を眺め、人間世界に影響を及ぼしました。

例えば、古代シュメール神話の人間創造は、農作業などの雑務に追われた神々にかわって労働する者として創造されました。

次のような記載があります。

神々が集い、互いに言う。「…偉大な神アヌンナキたちよ。そなたたちは一体何を変革しようとするのかね。」 

その中の二人がエンリルに答えて言う。「 …あなた方は二人のラム神を殺して、彼らの血でもって人間を造るのです。 … (今まで)神々が(になってきた)仕事は(今や)彼ら(人間)の仕事でありますように。」

畑仕事、土木工事、家畜の増殖、神々の祭りの執行など、神のために働く人間が創造されたのです。

*ヒンズー教の原人

他方、ヒンズー教の教えでは、原人プルシャの身体から太陽神々 や人間など世界の全てが生まれたといいます。

古代インドの聖典の一つ『リグ・ヴェーダ』に次のように歌われています。

神々が原人を切り分かちたる時 その口はバラモン(司祭)となり。その両腕はラージャニヤ(武人)となり。その両腿(りょうもも)からはヴァイシャ(農民、商人)が、その両足からはシュードラ(奴隷)が生じた。 

これが人間を4つの身分に分類するカースト制度の由来です

*共にいます神

さて、第28代 日銀総裁(平成10年〜15年に在職)の速水(はやみ)優(まさる)さんという方がおられました。縁がありまして2004年(平成16年)に東北学院の教職員修養会の講演を担当しております。

基督者(きりすとしゃ)の速水さんは、日銀総裁人事の独立性、マクロ経済における円高基調の重要性などの難しい話をされました。

そしてもう一つ、日本の国の行く末を左右するとも言って過言でない重要な会議の連続において、いつも執務室から会議室に赴く時、壁に掲げられていた聖書の言葉「恐れるな。私はあなたと共にいる」(イザヤ43:5)の聖句を心に刻み、祈ってから出かけたことを話してくれました。

速水さんのお話は、知られざる神ではなく、命と息とその他すべてのものを与えてくださる神が、今なお私たちと共に近くおられ、私たちの歩みを導いてくださる方であることを証(あかし)するものでした。

聖書を通して知らされている三位一体の神が私たちに近くある神であることを再認識したいと思います。

6月10日の説教要旨 「本当の喜びを知る」 有馬味付子牧師(成増キリスト教会協力牧師)

ヨブ記19:25-27 ヨハネ福音書3:1-21

 はじめに

本日は仙台南伝道所の開設14周年記念感謝礼拝です。神様によって、仙台南伝道所に集められた方々と共に礼拝できることを感謝します。

 

イエス様を信じる者達は死んだ先に希望を持てる

一昨年、この伝道所の佐藤博子姉が亡くなられました。彼女の笑顔は多くの人々を魅了しましたが、そんな博子姉も亡くなりました。人間は誰でも死にます。しかし、私達には死んだ先に大きな希望があります。イエス様を知らない人は「死んだら終わり」と考え、希望がありませんが、私達、イエス様を信じる者には希望があります。

 

ヨブの希望「死んだら神様に会える!」

 今日の旧約聖書箇所「ヨブ記」に書かれたヨブは、絶望の中で語っています。「死んで肉体は滅びても、必ず神様に会う」と信じていました。ヨブは神様に誠実に歩んでいましたが、サタン(神様から人間を引き離そうとする力)は、ヨブを神様から引き離そうとしました。サタンは、神様に「あなたがヨブに多くの祝福を与えているから、ヨブはあなたを敬うのです。ヨブの全ての物を奪えば、あなたを呪うに違いありません。」と言いました。神様は、サタンがヨブを打つのを許したので、ヨブは7人の息子と3人の娘と財産である家畜や奴隷を全て失うことになりました。こんな目に遭っても、ヨブは神様を呪わなかったので、サタンは、ヨブを更に苦しめました。大変なかゆみを伴う、ひどい皮膚病でヨブを覆いました。ヨブの妻は「神様を呪って死ねばいい」とまで言い、3人の友人も「あなたには自分の知らない、隠れた罪があるのだ」と責めました。更には、周りの人々にもヨブは馬鹿にされる状態でした。猛烈な痛みや苦しみの中でも、ヨブは「死んだ後に神様に会える」、しかも、「私の敵ではなく、味方として神様に会える」と信じていました。ヨブを救った、この希望は私達の希望です。

 

イエス様とニコデモとの会話

これと同じ希望を、新約聖書のイエス様とニコデモとの会話から見ることができます。ニコデモは神様の国を求めていました。ニコデモは、イエス様の業を見て「神様の業だ」と思い、イエス様なら神の国について知っているだろうと思いました。しかし、イエス様のおっしゃることはちんぷんかんぷんで、わかりませんでした。ニコデモは、イエス様を信じる前の私達の状態、また、イエス様の言うことがさっぱりわからないという人の代表でもあると言えると思います。

 

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3)

そんなニコデモにイエス様は、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」とおっしゃいました。「神の国を見る」とは「神の国に入る」「永遠の命を得る」という言葉と同じ意味で、これこそが私達、イエス様を信じる者達のたった一つの希望であり、目的です。

 

「永遠の命とは、イエス・キリストを知ることです」

「神の国」は、イエス様が2千年前にこの世に来てくださって十字架で死なれた時から始まっています。イエス様を救い主として信じている私達は、先取りして「神の国」に入れられていると言えます。「イエス様を知ることが永遠の命を得られることだ」と聖書にあります(ヨハネ17:3)。そして、イエス様が再びこの世に来られる時(再臨の時)に、「神の国」は完全に実現します。「神の国」とは場所のことではなく、「神様主権が確立しているところ」「神の支配が隅々まで行き渡っているところ」と言えます。

 

 「神の国」では、神の御心を行うことが感謝であり、喜び!

「神の国」では、人間は、神の御心を行うことがうれしくてたまらないのです。感謝と喜びがそこにあります。ところが、今、私達は神様の御心に従うには努力がいります。わかっていてもなかなか出来ません。周りの人を愛すべきだと知っていても家族を愛せない、神様が第一と知っていても自分を第一にしてしまうといったことがよくあります。神の御心を行うことは、今は、自分との戦いを意味します。しかし、「神の国」では自分の意志で神の御心を行うことが喜びです。一人一人がそうなのですから、そんな人々で喜びに溢れているのが「神の国」です。死もなく、悲しみもなく、嘆きもなく、まさに平安な国が「神の国」です。ヨブは神の国に入って神様に出会うことを腹の底から願ったのです。

 

「新しく生まれ変わる」には聖霊の助けが必要

「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とのイエス様の御言葉は、ニコデモの言うように「もう一度母親の胎内に入って生まれる」ことではありません。「新しく生まれる」としか言いようのない、徹底的な変化を言います。それは、私達の心の奥の魂が揺り動かされること、人格が変革されること、生き方が根本的に変えられるようなことです。「自己中心」を捨てて「神様が第一」に変えられること、「神様に従順に従うことが最大の喜び」となることです。「新しく生まれる」のは自分では出来ず、「聖霊の助け」によってしか出来ません。ニコデモは聖霊の助けが自分に関係があると理解できませんでした。

 

「水と聖霊とによって生まれなければ」(5節)

水と聖霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とイエス様は言われました。「水と聖霊とによって」とは聖霊の導きと聖霊の助けによって「洗礼」を受けることです。「洗礼を受けたい」と思う志を人間に起こすのが聖霊であり、洗礼にまで導くのも聖霊です。「イエス様を救い主と信じられる」のも聖霊の力です。「洗礼を受ける」とは聖霊を与えられている証拠です。水による洗礼は、悔い改め、つまり、一度水に沈んで死に、新しく生まれ変わることを意味します。これが「水と聖霊とによらなければ」ということです。

 

 聖霊は「風」に例えられる

 イエス様は「聖霊」がわからないニコデモに対し、聖霊を「風」に例えて語られました。風が存在しないと言う人はいません。「聖霊」も同じです。「聖霊」を見せることも触ることもできません。しかし、「聖霊の力」を与えられた人は、それを体中に感じます。聖霊の助けがなければ生きていけないと感じます。聖霊に満たされると喜びに満たされ、元気になります。聖霊によって自分に出来ないことが出来ます。

 

聖霊の力を実感できるように祈り求める

ペンテコステは、イエス様の弟子達に、聖霊が見聞きできる形で与えられた出来事です。それにより、弟子達は猛烈に伝道に励みました。聖霊の力を実感できるのは一人一人違います。洗礼の時にわかる人もいるし、20年かかって実感できる人もいます。聖霊を実感できていない人は、聖霊がわかるように祈り求めれば、必ず与えられます。

 

「神の愛」を知る

16節17節が、今日のメッセージの締めくくりの言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」なんという、ありがたい言葉でしょう!

私達は、神様に反抗したり、裏切ったりします。イエス様を神の御子、キリストと信じない人々もまだまだいます。そんな罪と汚れに満ちた この世に、神様はイエス様を送ってくださり、イエス様を神の御子と信じる人を誰でも救ってくださいます。人間が一人でも滅ぶことを望まないのが神様です。それが「神の愛」です。神様の独り子を十字架につけるまでに、神様は人間達を愛された、この愛を知ることが本当の喜びです。

 

神様の愛を知るしか立ち直れない

つい最近も、親に虐待されて死亡した女児の事件が報道されました。かわいそうで言葉もありませんが、虐待された子は愛されたことがないので、愛を知りません。自尊感情や自己肯定感がありません。こういう人は、どうやって立ち直るか、それは、神様の愛を知ることしかありません。神様は私達を尊い宝物として愛してくださる、このことを知ることによってしか、立ち直れません。

 

神様の愛を知って、神様の御許(みもと)へ帰りましょう!

イエス様を神の御子と認めないことは、神様の愛を知らないことです。神様の愛を知らないのは、この虐待された子と同じです。この世で力があっても、成功しても、神様の愛を知らなければ、満たされない思いを抱えたままです。貧困、人間関係の問題等の様々な問題がありますが、その問題による絶望や孤独、これが一番辛いことです。人に愛されない、人に大切にされない、神様は、このような時こそ、「私の許(もと)に帰って来なさい!」と手を広げて待ってくださっています。神様の御許に帰ることこそ本当の喜びです。神様の愛を知ることこそ本当の喜びです。

 

1月14日の説教要旨 「赦し、信仰、奉仕」 牧師 平賀真理子

ヨブ記22:21-23 ルカ福音書17:1-10

はじめに

今日の新約聖書箇所は3つの段落から成っていますが、それらは、連なっていると思われますので、その内容をお伝えしたいと思います。

「ファリサイ派や律法学者達」の態度

今日の聖書箇所に入るまでに、イエス様のおっしゃってきたことの一つを振り返りましょう。イエス様を「救い主」と認めない「ファリサイ派や律法学者達」の態度が間違っていることを指摘し、正しい態度(イエス様を救い主としてこの世に派遣したという神様の愛の業を受け入れること)になるように導こうとなさいました。特に、直前の16章の例え話「不正な管理人」や「陰府でさいなまれる金持ち」などは、まさしく、反対派の者達(ファリサイ派や律法学者達)を例えたものとも読み取れます。

主の弟子達であっても

今日の箇所は、弟子達に語っておられることを念頭に置くべきです。イエス様は弟子達には、新しい教え=福音を知る者として、ファリサイ派や律法学者達と同じ轍を踏ませたくなかったのでしょう。しかし、人間の集団である以上、弟子達の群れの中にも、つまずきを起こす者が入ってくること、また、弟子の中につまずきを起こすものが入ってくることは避けられないとイエス様は見通しておられました。これは、近い将来で言えば、使徒とされたイスカリオテのユダが主を裏切る預言とも言えますし、遠い将来では、教会の中でも罪が起こるのは避けられないと預言されていると読み取れます。

「小さな者」をつまずかせることへの警告

弟子達は主の招きを受けて早々に弟子になる恵みを得ましたが、その後で、イエス様の御言葉や御業に出会って、イエス様を救い主として従おうとしている「群衆」を、主は「小さな者」と表現なさっています。信仰が芽生えつつあり、信仰という道において、小さな者(群衆)を、先に歩む弟子達が罪に導くことがあるとイエス様は見抜いておられます。実は、これは、ファリサイ派や律法学者達と同じ罪です。自分達の知識や経験を、人々を育てるために用いないで、自分達と同じようにはできない人々を裁いたり、ダメ人間と貶めることで、結局は自分達を高く見なす、つまり、憐れみがなく、傲慢だという罪に陥っています。だから、弟子達に「あなたがたも気をつけなさい」と主は警告なさったのです。

人間を何度でも赦してくださった神様にならって

弟子達同士は、罪は罪と率直に言える関係であること、そして、罪を指摘されたら、素直に悔い改めるべきこと、また、相手も大きな心で赦すような間柄であることという主の願いが示されていると思います。

主は根拠なしに「赦しなさい」とおっしゃったのではありません。神様御自身が、このように人間を赦してくださっているからです。人間の神様に背く罪を、神様は大変嘆かれるのですが、人間が心から悔い改めたのをご覧になると、いつまでも罰に縛りつけたりせず、今までの罪を無かったことにしてくださるわけです。そのことを根拠に、同じ神様を信じる信仰者同士(「兄弟」)も赦し合えるはず、神様と同様に何度でも赦せるはずだと主は教えてくださったのです。(参照=マタイ18:23-35)

主からいただく信仰が増し加わることを願う弟子達

しかし、弟子達は自分の心に正直になるならば、「赦し合えない」と気づきます。(それは私達も同じではないでしょうか。)だから、弟子達は自分達の信仰が弱いのであり、それをイエス様に補っていただきたいと思ったのでしょう。その望みに対し、ほんの小さなからし種のような信仰があれば、神様は御自分の大きな力をくださり、人間には不可能なこともできるようにしてくださるとイエス様は教えておられます。

主の恵みによって罪を赦され、信仰の中で奉仕できる幸い

ところが、弟子達は自分にはそんな僅かな信仰さえないことに気づきます。その原因をイエス様は7-10節の箇所で教えておられます。弟子達は神の国で働ける恵みを既に得たのに、主人から感謝されたいと願っていることが原因だと示されたのです。私達も含め、主の弟子達は救い主イエス様の恵みを賜り、罪を赦されたのです!現実の生活に流されて主の恵みを忘れたら、弟子達同士で指摘し合って悔い改めることを励行し、主への信仰の中で奉仕できる恵みにある幸いを想起しましょう。

12月10日の説教要旨 「マリアの賛歌」 牧師 平賀真理子

ヨブ記5:8-16 ルカ福音書1:46-55
*はじめに
救い主の母として選ばれたマリアが神様を賛美して謳ったと伝えられ、ルカ福音書に記録された「マリアの賛歌」を今日は学びましょう。
*「聖霊によって」
1章26-38節「イエスの誕生が予告される」の段落と今日の箇所では、決定的に違うことがあります。それは、マリアが神の御子イエス様を宿す前と後、つまり、おなかに「救い主」を宿しているかいないかです。
この2つの段落の間にある「マリア、エリサベトを訪ねる」(39―45節)の段落で、エリサベトの言葉から、マリアがイエス様を既に身ごもったことがわかります。ルカ福音書の記者は、ここで「聖霊に満たされたエリサベト」(41節)が、胎内の子=洗礼者ヨハネが喜び踊ったことから、主と主の母が来てくださり、それがどんなにうれしいことかを述べました。
マリアは「聖霊によって」イエス様を身ごもり、それ以降、母子ともに聖霊に満たされていると言えるので、聖霊に満たされた二人の母親が出会って、祝福し合ったわけです。なんと美しい状況でしょうか!人間の世界、特に当時のユダヤ社会では重んじられていなかった女性二人を、神様が重く用いてくださったことを賛美します!
*「主の言葉は必ず実現する」ことを信じる
エリサベトがマリアに言った言葉の最後の箇所「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いなのでしょう」(45節)という言葉、これこそが信仰の真髄を表す言葉だと思います。実は、この点において、逆=「主の言葉を信じなかった」ために、一時の罰を受けたと言えるのが、ほかならぬエリサベトの夫ザカリアです。祭司であるザカリアと一介の年若い町娘マリア、両者を比べると、人間社会の中では、当然ザカリアの方が重んじられたはずです。ところが、主の言葉を信じるか信じないか、その1点で逆転が起こりうるのです。これこそが神様における希望です。人間社会での地位や功績など関係なく、「主の言葉が必ず実現する」と信じるか信じないかが重要な分岐点、これさえ、間違わなければ、どんな形であれ、神様に祝福されるのは確かだということが、この箇所の大前提です。これは私達にも当てはまることです。
*イエス様御降誕における3つの賛歌の共通点
ルカ福音書では、主の御降誕の前後の3つの賛歌を大事に記録しています。今日の箇所の「マリアの賛歌」、来週の箇所「ザカリアの賛歌(聖書では「預言」)」、12月31日の箇所「シメオンの賛歌」です。この3つの共通点、それは、3人とも賛歌を謳う前に「聖霊に満たされている」ことです。聖霊に満たされ、信仰の言葉を謳う、実は、これも人間の口を通して行われる、聖霊の御業です。私達は「賛歌」により、信仰の粋を学べるのです。
*初めに、「神様を心の底からあがめ、喜びたたえる」
この賛歌の最初は、神様を直接賛美することから始まっています。46節後半から48節において、神様を心の底から賛美する思いが溢れています。「あがめる」(46節)という動詞は「偉大さをはっきりさせる」という意味を、「喜びたたえます」(47節)という動詞は、「喜びのあまり、踊る」という意味を持ちます。神様の偉大さをたたえずにいられない、踊りたいくらい、うれしい気持ちが溢れているのです。それほどうれしいのは、「身分が低い、卑しい」と言われ続けた自分が、ある日突然、神様の大きな恵みを受け、希望を持てたからです。神様が、いつ、だれに働いてくださるのかは、まさしく、「神のみぞ知る」です。だからこそ、だれでも、いつでも、それに備えて希望を失わずに、生きていくことが重要なのだと思います。
*「本当の幸いをくださる御方・力ある方・絶対的信頼の置ける御方」
48節で、マリアは自分を「幸いな者」と言いました。私達が信仰者とされる前に思い描いた幸せと、ここで語られる幸せとは全く違います。聖書の語る「幸い=幸せ」とは、「神様に祝福され、神様のために用いられること」です。マリアは、これを良く知っていた信仰者なのだとわかります。
また、49節で、マリアは神様のことを「力ある方」と呼び、自分に働きかけてくださったことを賛美しました。イスラエル民族は、自分達の歴史の中で、実際に神様の力が働いたことを子孫に語り継いできました。だから、マリアも「神様が自分を御子の母として用いる」ことをすぐに受け入れられたのでしょう。神様の恵みを語り継ぐ伝統、この貴重な奉仕のおかげもあって、マリアは神様の出来事を自分のこととして受容できたのです。
51節-53節で再び、「神様」は、御自分の御前では、人間をこの世の状況とは全く逆になさると謳われています。これは、後に、御子イエス様がなさった「平地の説教」(ルカ6:20-26)の内容の先取りとも言われています。
54-55節で、「神様」はイスラエル民族との約束を必ず実現する御方だという絶対的信頼が謳われ、この賛歌は締めくくられています。今や、私達、イエス様を主と信じる者達こそ、新しい「神のイスラエル」(ガラテヤ書6:16)と言われています。この「神様」が私達に救い主を贈ってくださったのです。