6月10日の説教要旨 「本当の喜びを知る」 有馬味付子牧師(成増キリスト教会協力牧師)

ヨブ記19:25-27 ヨハネ福音書3:1-21

 はじめに

本日は仙台南伝道所の開設14周年記念感謝礼拝です。神様によって、仙台南伝道所に集められた方々と共に礼拝できることを感謝します。

 

イエス様を信じる者達は死んだ先に希望を持てる

一昨年、この伝道所の佐藤博子姉が亡くなられました。彼女の笑顔は多くの人々を魅了しましたが、そんな博子姉も亡くなりました。人間は誰でも死にます。しかし、私達には死んだ先に大きな希望があります。イエス様を知らない人は「死んだら終わり」と考え、希望がありませんが、私達、イエス様を信じる者には希望があります。

 

ヨブの希望「死んだら神様に会える!」

 今日の旧約聖書箇所「ヨブ記」に書かれたヨブは、絶望の中で語っています。「死んで肉体は滅びても、必ず神様に会う」と信じていました。ヨブは神様に誠実に歩んでいましたが、サタン(神様から人間を引き離そうとする力)は、ヨブを神様から引き離そうとしました。サタンは、神様に「あなたがヨブに多くの祝福を与えているから、ヨブはあなたを敬うのです。ヨブの全ての物を奪えば、あなたを呪うに違いありません。」と言いました。神様は、サタンがヨブを打つのを許したので、ヨブは7人の息子と3人の娘と財産である家畜や奴隷を全て失うことになりました。こんな目に遭っても、ヨブは神様を呪わなかったので、サタンは、ヨブを更に苦しめました。大変なかゆみを伴う、ひどい皮膚病でヨブを覆いました。ヨブの妻は「神様を呪って死ねばいい」とまで言い、3人の友人も「あなたには自分の知らない、隠れた罪があるのだ」と責めました。更には、周りの人々にもヨブは馬鹿にされる状態でした。猛烈な痛みや苦しみの中でも、ヨブは「死んだ後に神様に会える」、しかも、「私の敵ではなく、味方として神様に会える」と信じていました。ヨブを救った、この希望は私達の希望です。

 

イエス様とニコデモとの会話

これと同じ希望を、新約聖書のイエス様とニコデモとの会話から見ることができます。ニコデモは神様の国を求めていました。ニコデモは、イエス様の業を見て「神様の業だ」と思い、イエス様なら神の国について知っているだろうと思いました。しかし、イエス様のおっしゃることはちんぷんかんぷんで、わかりませんでした。ニコデモは、イエス様を信じる前の私達の状態、また、イエス様の言うことがさっぱりわからないという人の代表でもあると言えると思います。

 

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3)

そんなニコデモにイエス様は、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」とおっしゃいました。「神の国を見る」とは「神の国に入る」「永遠の命を得る」という言葉と同じ意味で、これこそが私達、イエス様を信じる者達のたった一つの希望であり、目的です。

 

「永遠の命とは、イエス・キリストを知ることです」

「神の国」は、イエス様が2千年前にこの世に来てくださって十字架で死なれた時から始まっています。イエス様を救い主として信じている私達は、先取りして「神の国」に入れられていると言えます。「イエス様を知ることが永遠の命を得られることだ」と聖書にあります(ヨハネ17:3)。そして、イエス様が再びこの世に来られる時(再臨の時)に、「神の国」は完全に実現します。「神の国」とは場所のことではなく、「神様主権が確立しているところ」「神の支配が隅々まで行き渡っているところ」と言えます。

 

 「神の国」では、神の御心を行うことが感謝であり、喜び!

「神の国」では、人間は、神の御心を行うことがうれしくてたまらないのです。感謝と喜びがそこにあります。ところが、今、私達は神様の御心に従うには努力がいります。わかっていてもなかなか出来ません。周りの人を愛すべきだと知っていても家族を愛せない、神様が第一と知っていても自分を第一にしてしまうといったことがよくあります。神の御心を行うことは、今は、自分との戦いを意味します。しかし、「神の国」では自分の意志で神の御心を行うことが喜びです。一人一人がそうなのですから、そんな人々で喜びに溢れているのが「神の国」です。死もなく、悲しみもなく、嘆きもなく、まさに平安な国が「神の国」です。ヨブは神の国に入って神様に出会うことを腹の底から願ったのです。

 

「新しく生まれ変わる」には聖霊の助けが必要

「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とのイエス様の御言葉は、ニコデモの言うように「もう一度母親の胎内に入って生まれる」ことではありません。「新しく生まれる」としか言いようのない、徹底的な変化を言います。それは、私達の心の奥の魂が揺り動かされること、人格が変革されること、生き方が根本的に変えられるようなことです。「自己中心」を捨てて「神様が第一」に変えられること、「神様に従順に従うことが最大の喜び」となることです。「新しく生まれる」のは自分では出来ず、「聖霊の助け」によってしか出来ません。ニコデモは聖霊の助けが自分に関係があると理解できませんでした。

 

「水と聖霊とによって生まれなければ」(5節)

水と聖霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とイエス様は言われました。「水と聖霊とによって」とは聖霊の導きと聖霊の助けによって「洗礼」を受けることです。「洗礼を受けたい」と思う志を人間に起こすのが聖霊であり、洗礼にまで導くのも聖霊です。「イエス様を救い主と信じられる」のも聖霊の力です。「洗礼を受ける」とは聖霊を与えられている証拠です。水による洗礼は、悔い改め、つまり、一度水に沈んで死に、新しく生まれ変わることを意味します。これが「水と聖霊とによらなければ」ということです。

 

 聖霊は「風」に例えられる

 イエス様は「聖霊」がわからないニコデモに対し、聖霊を「風」に例えて語られました。風が存在しないと言う人はいません。「聖霊」も同じです。「聖霊」を見せることも触ることもできません。しかし、「聖霊の力」を与えられた人は、それを体中に感じます。聖霊の助けがなければ生きていけないと感じます。聖霊に満たされると喜びに満たされ、元気になります。聖霊によって自分に出来ないことが出来ます。

 

聖霊の力を実感できるように祈り求める

ペンテコステは、イエス様の弟子達に、聖霊が見聞きできる形で与えられた出来事です。それにより、弟子達は猛烈に伝道に励みました。聖霊の力を実感できるのは一人一人違います。洗礼の時にわかる人もいるし、20年かかって実感できる人もいます。聖霊を実感できていない人は、聖霊がわかるように祈り求めれば、必ず与えられます。

 

「神の愛」を知る

16節17節が、今日のメッセージの締めくくりの言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」なんという、ありがたい言葉でしょう!

私達は、神様に反抗したり、裏切ったりします。イエス様を神の御子、キリストと信じない人々もまだまだいます。そんな罪と汚れに満ちた この世に、神様はイエス様を送ってくださり、イエス様を神の御子と信じる人を誰でも救ってくださいます。人間が一人でも滅ぶことを望まないのが神様です。それが「神の愛」です。神様の独り子を十字架につけるまでに、神様は人間達を愛された、この愛を知ることが本当の喜びです。

 

神様の愛を知るしか立ち直れない

つい最近も、親に虐待されて死亡した女児の事件が報道されました。かわいそうで言葉もありませんが、虐待された子は愛されたことがないので、愛を知りません。自尊感情や自己肯定感がありません。こういう人は、どうやって立ち直るか、それは、神様の愛を知ることしかありません。神様は私達を尊い宝物として愛してくださる、このことを知ることによってしか、立ち直れません。

 

神様の愛を知って、神様の御許(みもと)へ帰りましょう!

イエス様を神の御子と認めないことは、神様の愛を知らないことです。神様の愛を知らないのは、この虐待された子と同じです。この世で力があっても、成功しても、神様の愛を知らなければ、満たされない思いを抱えたままです。貧困、人間関係の問題等の様々な問題がありますが、その問題による絶望や孤独、これが一番辛いことです。人に愛されない、人に大切にされない、神様は、このような時こそ、「私の許(もと)に帰って来なさい!」と手を広げて待ってくださっています。神様の御許に帰ることこそ本当の喜びです。神様の愛を知ることこそ本当の喜びです。

 

1月14日の説教要旨 「赦し、信仰、奉仕」 牧師 平賀真理子

ヨブ記22:21-23 ルカ福音書17:1-10

はじめに

今日の新約聖書箇所は3つの段落から成っていますが、それらは、連なっていると思われますので、その内容をお伝えしたいと思います。

「ファリサイ派や律法学者達」の態度

今日の聖書箇所に入るまでに、イエス様のおっしゃってきたことの一つを振り返りましょう。イエス様を「救い主」と認めない「ファリサイ派や律法学者達」の態度が間違っていることを指摘し、正しい態度(イエス様を救い主としてこの世に派遣したという神様の愛の業を受け入れること)になるように導こうとなさいました。特に、直前の16章の例え話「不正な管理人」や「陰府でさいなまれる金持ち」などは、まさしく、反対派の者達(ファリサイ派や律法学者達)を例えたものとも読み取れます。

主の弟子達であっても

今日の箇所は、弟子達に語っておられることを念頭に置くべきです。イエス様は弟子達には、新しい教え=福音を知る者として、ファリサイ派や律法学者達と同じ轍を踏ませたくなかったのでしょう。しかし、人間の集団である以上、弟子達の群れの中にも、つまずきを起こす者が入ってくること、また、弟子の中につまずきを起こすものが入ってくることは避けられないとイエス様は見通しておられました。これは、近い将来で言えば、使徒とされたイスカリオテのユダが主を裏切る預言とも言えますし、遠い将来では、教会の中でも罪が起こるのは避けられないと預言されていると読み取れます。

「小さな者」をつまずかせることへの警告

弟子達は主の招きを受けて早々に弟子になる恵みを得ましたが、その後で、イエス様の御言葉や御業に出会って、イエス様を救い主として従おうとしている「群衆」を、主は「小さな者」と表現なさっています。信仰が芽生えつつあり、信仰という道において、小さな者(群衆)を、先に歩む弟子達が罪に導くことがあるとイエス様は見抜いておられます。実は、これは、ファリサイ派や律法学者達と同じ罪です。自分達の知識や経験を、人々を育てるために用いないで、自分達と同じようにはできない人々を裁いたり、ダメ人間と貶めることで、結局は自分達を高く見なす、つまり、憐れみがなく、傲慢だという罪に陥っています。だから、弟子達に「あなたがたも気をつけなさい」と主は警告なさったのです。

人間を何度でも赦してくださった神様にならって

弟子達同士は、罪は罪と率直に言える関係であること、そして、罪を指摘されたら、素直に悔い改めるべきこと、また、相手も大きな心で赦すような間柄であることという主の願いが示されていると思います。

主は根拠なしに「赦しなさい」とおっしゃったのではありません。神様御自身が、このように人間を赦してくださっているからです。人間の神様に背く罪を、神様は大変嘆かれるのですが、人間が心から悔い改めたのをご覧になると、いつまでも罰に縛りつけたりせず、今までの罪を無かったことにしてくださるわけです。そのことを根拠に、同じ神様を信じる信仰者同士(「兄弟」)も赦し合えるはず、神様と同様に何度でも赦せるはずだと主は教えてくださったのです。(参照=マタイ18:23-35)

主からいただく信仰が増し加わることを願う弟子達

しかし、弟子達は自分の心に正直になるならば、「赦し合えない」と気づきます。(それは私達も同じではないでしょうか。)だから、弟子達は自分達の信仰が弱いのであり、それをイエス様に補っていただきたいと思ったのでしょう。その望みに対し、ほんの小さなからし種のような信仰があれば、神様は御自分の大きな力をくださり、人間には不可能なこともできるようにしてくださるとイエス様は教えておられます。

主の恵みによって罪を赦され、信仰の中で奉仕できる幸い

ところが、弟子達は自分にはそんな僅かな信仰さえないことに気づきます。その原因をイエス様は7-10節の箇所で教えておられます。弟子達は神の国で働ける恵みを既に得たのに、主人から感謝されたいと願っていることが原因だと示されたのです。私達も含め、主の弟子達は救い主イエス様の恵みを賜り、罪を赦されたのです!現実の生活に流されて主の恵みを忘れたら、弟子達同士で指摘し合って悔い改めることを励行し、主への信仰の中で奉仕できる恵みにある幸いを想起しましょう。

12月10日の説教要旨 「マリアの賛歌」 牧師 平賀真理子

ヨブ記5:8-16 ルカ福音書1:46-55
*はじめに
救い主の母として選ばれたマリアが神様を賛美して謳ったと伝えられ、ルカ福音書に記録された「マリアの賛歌」を今日は学びましょう。
*「聖霊によって」
1章26-38節「イエスの誕生が予告される」の段落と今日の箇所では、決定的に違うことがあります。それは、マリアが神の御子イエス様を宿す前と後、つまり、おなかに「救い主」を宿しているかいないかです。
この2つの段落の間にある「マリア、エリサベトを訪ねる」(39―45節)の段落で、エリサベトの言葉から、マリアがイエス様を既に身ごもったことがわかります。ルカ福音書の記者は、ここで「聖霊に満たされたエリサベト」(41節)が、胎内の子=洗礼者ヨハネが喜び踊ったことから、主と主の母が来てくださり、それがどんなにうれしいことかを述べました。
マリアは「聖霊によって」イエス様を身ごもり、それ以降、母子ともに聖霊に満たされていると言えるので、聖霊に満たされた二人の母親が出会って、祝福し合ったわけです。なんと美しい状況でしょうか!人間の世界、特に当時のユダヤ社会では重んじられていなかった女性二人を、神様が重く用いてくださったことを賛美します!
*「主の言葉は必ず実現する」ことを信じる
エリサベトがマリアに言った言葉の最後の箇所「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いなのでしょう」(45節)という言葉、これこそが信仰の真髄を表す言葉だと思います。実は、この点において、逆=「主の言葉を信じなかった」ために、一時の罰を受けたと言えるのが、ほかならぬエリサベトの夫ザカリアです。祭司であるザカリアと一介の年若い町娘マリア、両者を比べると、人間社会の中では、当然ザカリアの方が重んじられたはずです。ところが、主の言葉を信じるか信じないか、その1点で逆転が起こりうるのです。これこそが神様における希望です。人間社会での地位や功績など関係なく、「主の言葉が必ず実現する」と信じるか信じないかが重要な分岐点、これさえ、間違わなければ、どんな形であれ、神様に祝福されるのは確かだということが、この箇所の大前提です。これは私達にも当てはまることです。
*イエス様御降誕における3つの賛歌の共通点
ルカ福音書では、主の御降誕の前後の3つの賛歌を大事に記録しています。今日の箇所の「マリアの賛歌」、来週の箇所「ザカリアの賛歌(聖書では「預言」)」、12月31日の箇所「シメオンの賛歌」です。この3つの共通点、それは、3人とも賛歌を謳う前に「聖霊に満たされている」ことです。聖霊に満たされ、信仰の言葉を謳う、実は、これも人間の口を通して行われる、聖霊の御業です。私達は「賛歌」により、信仰の粋を学べるのです。
*初めに、「神様を心の底からあがめ、喜びたたえる」
この賛歌の最初は、神様を直接賛美することから始まっています。46節後半から48節において、神様を心の底から賛美する思いが溢れています。「あがめる」(46節)という動詞は「偉大さをはっきりさせる」という意味を、「喜びたたえます」(47節)という動詞は、「喜びのあまり、踊る」という意味を持ちます。神様の偉大さをたたえずにいられない、踊りたいくらい、うれしい気持ちが溢れているのです。それほどうれしいのは、「身分が低い、卑しい」と言われ続けた自分が、ある日突然、神様の大きな恵みを受け、希望を持てたからです。神様が、いつ、だれに働いてくださるのかは、まさしく、「神のみぞ知る」です。だからこそ、だれでも、いつでも、それに備えて希望を失わずに、生きていくことが重要なのだと思います。
*「本当の幸いをくださる御方・力ある方・絶対的信頼の置ける御方」
48節で、マリアは自分を「幸いな者」と言いました。私達が信仰者とされる前に思い描いた幸せと、ここで語られる幸せとは全く違います。聖書の語る「幸い=幸せ」とは、「神様に祝福され、神様のために用いられること」です。マリアは、これを良く知っていた信仰者なのだとわかります。
また、49節で、マリアは神様のことを「力ある方」と呼び、自分に働きかけてくださったことを賛美しました。イスラエル民族は、自分達の歴史の中で、実際に神様の力が働いたことを子孫に語り継いできました。だから、マリアも「神様が自分を御子の母として用いる」ことをすぐに受け入れられたのでしょう。神様の恵みを語り継ぐ伝統、この貴重な奉仕のおかげもあって、マリアは神様の出来事を自分のこととして受容できたのです。
51節-53節で再び、「神様」は、御自分の御前では、人間をこの世の状況とは全く逆になさると謳われています。これは、後に、御子イエス様がなさった「平地の説教」(ルカ6:20-26)の内容の先取りとも言われています。
54-55節で、「神様」はイスラエル民族との約束を必ず実現する御方だという絶対的信頼が謳われ、この賛歌は締めくくられています。今や、私達、イエス様を主と信じる者達こそ、新しい「神のイスラエル」(ガラテヤ書6:16)と言われています。この「神様」が私達に救い主を贈ってくださったのです。