3月31日の説教要旨 

エレミヤ書31:31-34 ルカ福音書24:36-53

「主の十字架と復活と昇天の証人」平賀真理子牧師

 *はじめに

ルカによる福音書の最終章24章の35節までを振り返りましょう。まず、復活なさったイエス様について、天使の証言「あの方(イエス様)は復活なさった」という「御言葉」がありました。しかし、弟子達の多くは、それだけではすぐには信じられませんでした。次に、復活のイエス様は、エマオへ向かう二人の弟子達に現れましたが、彼らも弟子でありながら、「復活の主」にすぐには気づけませんでした。主の死で絶望していた彼らに対し、「復活の主」自らが、聖書の御言葉と生前の御自身の教えを思い起こさせ、「主は復活なさった」と二人を導き、希望を与えられました。エルサレムに引き返した彼らは、自分達だけでなく、一番弟子の「シモン・ペトロ」も「復活の主」に出会ったことを知らされました

*今の御自分は「復活の主」だと弟子達に悟らせようとなさるイエス様

神の都エルサレムで、イエス様の弟子達が「主が復活された」と確信を持ち始めたその時、何と当の「復活なさったイエス様」が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と挨拶なさったことが36節にあります。これは、かつて、72人の弟子達を福音宣教に派遣する時、イエス様が弟子達にまず、そう挨拶しなさいと教えた御言葉です(ルカ10:5)。主がかつて教えた御言葉を聞いて、弟子達は、この現れた人が「復活したイエス様だ」と悟れるはずだったとも思えます。ところが、彼らはすぐには悟れず、「亡霊だ」と恐れおののき、うろたえ、心に疑いを持っているとイエス様に見抜かれました。ここでイエス様は、人間の亡霊に対する「肉も骨もない」という思い込みを逆手に使い、御自分の今の姿には「肉も骨もある」とお見せになりました。更に、「食べ物を食べる」様子をお見せになり、御自分の今の姿は、人間が今まで見たこともない「復活の主の姿だ」と悟らせようと導かれました。

*神様の出来事を悟らせるために弟子達の心の目を開いた「復活の主」

そして、「モーセの律法と預言者の書と詩編」と表現される「旧約聖書」に書かれたことは、神様から派遣された救い主である御自分のことであり、神様の御計画は必ず実現するとお語りになりました。十字架は人間的な目で見れば敗北に見えても、神様の目では勝利であり、それは神様の御栄光を現わす「復活」につながり、今、「復活の姿」でイエス様が現れたことは、これまで実現してきたことが神様の御計画であることの証明だと説明なさいました。けれども、無限なる神様の出来事を理解する知恵を、有限なる人間は持っていません。主から助けていただかなければ、悟れないのです。それで、イエス様は弟子達の「心の目を開いて」(45節)、自ら、聖書の解き明かしをしてくださったのです。

*罪の赦しを得させる悔い改めがイエス様の御名によって広まる

 旧約聖書は「救い主の受難と死と復活」を預言しているが、そのような父なる神様の御心に従ったイエス・キリストの御名のゆえに、悔い改めた全ての人間の罪の赦しが可能になり、それが世界に確実に広がるのだとイエス様は預言なさいました。同時に、「復活の主」に出会った弟子達こそがイエス・キリストの御名による救いの証人となると預言されました。しかし、そのために、弟子達は、人間的な力を出して頑張る必要はありません。イエス様による救いは、神の都エルサレムにいる弟子達が、父なる神様から与えられると約束されたもの「神の霊=聖霊」を受け取った後に広められるようになるとイエス様は預言なさいました。これは、ルカ福音書の続編である「使徒言行録」の1章―2章に証しされています。そして、約二千年かけて福音が世界に広まった歴史、その中でも特に、時間も距離も離れた私達が、イエス様の御名によって救われた事実を見れば、主の預言が確かに実現していると理解できると思います。

*主の十字架と復活と昇天の意味を知り、主の証人として用いられる
最後に、イエス様は天に昇る姿を当時の弟子達に見せ、御自分が「神様と同じ地位に帰る」と示されました。これらの証言を信じる私達皆(みんな)が「主の十字架と復活と昇天の証人」として福音伝道を託された弟子なのです!


 最後に、イエス様は天に昇る姿を当時の弟子達に見せ、御自分が「神様と同じ地位に帰る」と示されました。これらの証言を信じる私達皆(みんな)が「主の十字架と復活と昇天の証人」として福音伝道を託された弟子なのです!

3月24日の説教要旨

詩編34:16-23  ルカ福音書24:28-35

「主の復活③」 平賀真理子牧師

*はじめに

今日の新約聖書の箇所は、13節の前の見出し「(イエス様が)エマオで現れる」の記事の後半部分です。前回の説教で話した前半部分を思い出しましょう。エルサレムから北西に離れたエマオ村への道中で二人の弟子達が「復活の主に出会った」のですが、もったいないことに、彼らはその御方がイエス様だと気づかないままでした。

*エルサレムの出来事への弟子達の無理解

 「主の十字架」「御遺体の埋葬」「3日目の空(から)の墓」「『イエス様は復活なさった』という天使の証言」等の出来事は、その二人の弟子達にとって、大変衝撃的な体験でした。後の時代の私達は、「だからこそ、神の御子救い主イエス様!」と思えます。本当の神様からの救い主であるイエス様は預言どおり「苦難の僕」として歩み、その極致として「十字架」に付けられたこと、更には、御自分の苦難を前にしても、父なる神様に従う従順さを示したので、未だ誰にも与えられなかった「復活の栄誉」を神様からいただいたことを私達は知っています。ところが、エマオへの道中の弟子達はそうとは知らず、「暗い顔をしていた」(17節)のです。生前のイエス様御自身から「受難と死と復活」について3度も聞いたにもかかわらず、彼らはその本当の意味がわかりませんでした。彼らが特別愚かだったのではなく、「意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できないようにされていた」(18:34)とルカ福音書にはあります。

*神様の御業を理解できない弟子達に助けの手を差し伸べる主

 エルサレムでのイエス様にまつわる一連の出来事は、神様がなさった出来事であって、それは、限界のある人間の理解力だけでは、到底理解できないことです。無限の神様のことを有限である人間が理解するためには、神様側からの助けがなければ無理です。それで、「復活の主」が愛する弟子達の所に自ら来てくださり、落胆した彼らが本当の意味を理解できるように、助けの手を差し伸べてくださったのです。

*神様の御業の恵みを理解する助け(一つ目)「主の御言葉」

 その助けの一つが「主の御言葉」です。旧約聖書にある「主の御言葉」=預言者達の預言、及び、先述のイエス様御自身の預言(受難と死と復活)を「復活の主」(彼らはまだ気づいていませんが)自らが解説してくださったことが、神様の特別な助け(一つ目)なのです。

*神様の御業の恵みを理解する助け(二つ目)=「パン裂き=聖餐式」

 食事の時に、イエス様は、二人の弟子達に「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)のです。「すると、二人の心の目が開け、イエスだと分かった」(31節)とあります。「主」がそうなさったと言えるでしょう。同時に、人間的に考えても、彼らが復活の主と気づいたことは説明はできます。祈ってパンを裂くという御様子を見て、彼らは「5千人の給食」(ルカ9:16)や「主の晩餐」(ルカ22:19)での主の御姿を思い起こしたのでしょう。特に、「主の晩餐」で、主は十字架上で裂かれる御自分の肉体を想起させるものとしての「パン」、そして、十字架上で流される血潮を想起させるものとしての「葡萄酒」、これらを味わうことを聖礼典として弟子達が継承するように制定なさいました。この聖礼典、即ち「聖餐式」は、主の十字架だけでなく、主の復活の栄光をも示し、神様の救いの御業の恵みを弟子達が理解するために主が用意なさった助けであると捉えられます。

*「復活の主」との出会いによって、朽ちぬ希望に満たされた弟子達  

ここで、彼らが「復活の主と出会った」と認識した瞬間に、主の御姿は消えたのに、彼らは今度は絶望しなかったことに注目です。彼らは「復活の主」と出会った後は「心が燃えていた」(32節)と自覚し、朽ちぬ希望を得たと感じたのです。それだけでなく、彼らはエルサレムから離れるのを止め、逆に戻りました。180度の方向転換です!更には、一番弟子でありながらイエス様を3度も知らないと否認した、罪深いシモン・ペトロにも「復活の主」が現れてくださった恵みが知らされました。「復活の主に出会った」という弟子達の2つの証言により、「復活の主」が弟子達に現れてくださる恵みが真実だと認識され、弟子達の心は絶望から希望へと変えられました!

3月17日の説教要旨

イザヤ書53:6-12  ルカ福音書24:13-27

「主の復活②」 平賀真理子牧師

*はじめに

ルカによる福音書を読み進めてきて、最終章の24章に入っています。最初の段落では、墓に納められたはずのイエス様の御遺体が消えていたという驚きの記述から始まっていました。しかも、直後には、天使達が「主は復活なさった」と告げたこと、その証言が女性信徒達から使徒をはじめとする男性信徒達に告げられたけれども「たわ言」だと思われたことが記されていました。(しかし、この段階では「復活の主」はまだ誰にも現れておらず、「主は復活された」との証言だけが先に存在しています。)

*エルサレムからエマオ村への道中で「復活の主」が顕現なさった!

 この一連の出来事を体験した男性信徒の内の二人が、エマオ村へ向かう道中で経験した出来事の前半が今日の新約聖書箇所です。約二千年前のエマオ村を、今は特定できないそうですが、候補地は3か所ほどあって、3つ共に、エルサレムから北西の方角に十数キロ、もしくは数十キロといった場所のようです。この二人はエルサレムから北西方面へ歩いていたとイメージできます。そして、ついに15節で、復活なさったイエス様が彼らの目の前に顕現なさったことがわかります。

*「復活の主」だと悟れない弟子達

 ところが、イエス様は御自分が復活してこの二人の弟子達に現れていることを、御自身から言い表さず、彼らが話題にしていることについて第三者として質問なさいました。弟子達も「復活の主」に会っていながら、イエス様だとすぐには気づかず、見知らぬ人の質問に答える形で、エルサレムでイエス様を中心に起こったことを語りました。ここで明らかになったのは、彼らはイエス様を「力ある預言者」(19節)、もしくは「イスラエルを解放してくださる御方」(21節)と解釈していたことです。更に、彼らは、ユダヤの指導者達がイエス様を死刑にしようとしたことに対抗できなかった無力感、希望の星「イエス様」を失った失望感、「主が復活した」という仲間の証言への不信感などのマイナスの感情に捕らわれていたことが想像できます。人間的感覚で言えば、最後の拠り所と考えられるご遺体さえ見当たらないのですから、彼らの絶望の度合いは深かったのでしょう。しかし、このような状態の彼らは、主の弟子とは言えません。彼らはあまりにも人間的な解釈に捕らわれていたので、25節で、主は彼らに向かって「物分かりが悪く、心が鈍く、預言(神様からの御言葉)すべてを信じられない者たち」(25節)とおっしゃったのです。

*預言や旧約聖書全体に証しされていた「苦難の僕」の道を歩む救い主

イエス様の弟子である彼らは、主の生前に、神様からの救い主とは「苦難の僕」の道を歩むということを既に学んでいたはずでした(イザヤ書52:13-53:12)。イエス様御自身の御言葉としての「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだ」(26節)は、弟子達にかつての学びを思い出させようという思いが溢れた表現だと思います。そして、この二人の弟子達に、本当の神様から派遣された救い主は、かつての預言者達の預言や旧約聖書に確かに預言されていて、イエス様の歩みそのものだと、再び気づかせようとなさったのです。それは、人間が思い描く「自分の利益や権威だけを欲する王様」のような救い主ではないし、弟子達もそのように誤解するような心構えでは、「復活の主」が目の前に現れても気づけないと示されています。弟子達(後代の弟子である私達を含む)は、救い主の出来事についての考えが主と一致していなければ、出会いの恵みに気づけないのです。

*「復活の主」に気づくために「御言葉」を学び続ける

イエス様の救いの御業の主要な出来事として、主の十字架をもちろん、挙げることができます。それは、私達の罪を、主が代わりに背負ってくださったという意味があるからです。しかし、そこで終わりではありません。その先に、神様がイエス様に栄光を賜った証しとして「主が復活」があります。「復活なさった主」は御自分が受けた「神様からの栄光」を弟子達と分かち合いたいと願って近くに来られるのです。私達は、神様からの御言葉を学び続けて、復活の主に出会う喜びに目覚め続けていたいものです。

3月10日の説教要旨

箴言2:1-12・ルカ福音書4:1-13

「世に打ち勝つ信仰への道」    佐藤 義子

*はじめに

キリスト教の暦では、先週の水曜日から受難節に入りました。受難節は、日曜日を除く40日間です。私達の伝道所では、この時期、「イエス様が私達の為に受けられたご受難を覚えて、克己、修養、悔改めの特別期間として過ごしましょう!と呼びかけています。皆様は、受難節をどのようにお過ごしになっておられるでしょうか。

*伝道するに先立って起こった出来事

 今日の聖書は、一般に「荒れ野の誘惑」として知られている出来事で、イエス様がバプテスマ(洗礼)を受けられた直後に、荒れ野に導かれて40日間の断食後、悪魔から3つの誘惑を受けられた時の話です。すなわちイエス様がこれから人々に向かって伝道していく、その大事業を始められる直前に、イエス様は悪魔から誘惑を受けるのです。

伝道とは、言い換えれば、神様から離れている人々に、神様の所に戻るように呼びかけることです。イエス様はこの伝道という大事業を始めるにあたり、どのような仕方(姿勢・方法)でなされるべきかを、この悪魔の誘惑への応答を通して私達に明らかにされています。そしてイエス様の昇天後も、この伝道の姿勢は弟子達から全世界の教会へと継承され、私達の伝道所も又、イエス様の教えに従って、伝道を続けていきたいと思います。

*第一の誘惑「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。

「石をパンに」の誘惑は、伝道の手段として食料(物質)を与えるという方法です。震災などで食料が不足していた時、どこかで「パンを配ります」の声が聞こえれば、たちまち多くの人々が押し寄せました。パンに限らず、いつの時代でも人々の関心は衣食住、すなわち物質に向けられています。悪魔はこのことを良く知っており、イエス様に、石をパンに変える奇跡をもって、ご自分を神の子と示せば、あなたは苦労しなくても、人々を神のもとに導ける、と誘惑したのです。この誘惑に対してイエス様は、(申命記8:3)「人はパンだけで生きるものではない」。「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」を引用されました。この言葉は、神様がモーセを通して語られた言葉です。

*生きるのは、肉体だけではない

  私達は「生きる」と言う時「目に見える体の命」を考えます。それ以外に「魂」とか「霊」と呼ばれる目に見えない命があることまでは考えず、教えられなければ知らないままです。それを教えてくれるのが聖書です。ある神学者は「人には肉体の他に霊性が与えられているのに眠らせたままで死んでいく人が多い」と書いています。何ともったいないことでしょう。たとえ病気になり体が動かなくなったとしても、霊の命が健やかであれば、人間として生き生きと生き続けることが出来るのです。

  この霊の命が目覚めて活動するのは、命の与え主である天地創造の神様に出会った時です。聖書を通しイエス様の言葉を通して、私達がイエス様を信じて、それまで離れていた神様の方に向き直り、神様を信じた時に、霊の命は眠りから覚め、私達に大きな変化をもたらしていきます。

 

*霊の命が目覚めると・・

田原米子(たはらよねこ)さんの証しを紹介します。米子さんは母親の死をきっかけとして、生きることに希望を見いだせず高校3年生という若さで、新宿駅のホームから終電車に向かって飛込み、鉄道自殺をしました。その後、救急車で運ばれ、一週間の昏睡状態のあと目覚めます。目覚めて見たのは、自分の両足も左腕もなく、右手の指3本だけでした。「こんな体では生きていけない」と、彼女は、医者から処方される睡眠薬をこっそりためて死ぬことだけを考え続けました。そのような彼女が、担任教師の知人という見知らぬ宣教師と通訳の二人の訪問を受けたことを通して、神様の言葉に触れます。やがて信仰が与えられて、その後に夫も与えられ、さらに娘二人にも恵まれ、家庭を通して、さらに伝道旅行を通して、神様のことを宣べ伝えています。(私も直接、彼女の証しを聞きました)。  

人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4::4)のです。

*第二の誘惑「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。もしわたしを拝むなら」

 もしも悪魔に頭を下げるならば、この世界を自分の支配下におき、自由自在に自分の思い通りに動かすことが出来るようになる、という誘惑は、自分の内にある<神様の居られるべき場所>を、<悪魔に明け渡す>との交換条件を求められています。この誘惑に対してイエス様は、(申命記6:13)「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、そのみ名によって誓いなさい。」を引用されました。この申命記6章は「シェマー」(聞け)から始まっており、神様を唯一の主として日々告白することを命じています。それゆえ悪魔に頭を下げるということは、神様の御支配から抜け出して悪魔に仕えることを意味します。

*「主にのみ仕える

イエス様には神様への無条件の信頼と完全な服従がありました。神様が下さるものは、それが神様の栄光にあずかることであっても、逆に十字架への道であっても、それを「ただ受け取る」という生涯を歩まれました。 

私達日本の国は、数えきれないほど人間の手で作った偶像があります。又、ご先祖様を仏様として拝む対象としています。又、神社の鳥居をくぐる時も手を合わせる風景をテレビなどで見ます。神社では大木などを中心に、神の霊が宿っていると考えるわけですが、そのような文化、習慣の中に、私達日本人は置かれています。又、戦前は天皇も現人神(あらひとがみ)として生きた神として拝むことを強要されましたから、キリスト教徒は「主にのみ仕える者」として官憲からにらまれ、手を合わせないことで不敬罪は成立し逮捕されました。「主にのみ仕える」ことは、天地創造の神様、イエス様の父である神様以外は、神様として礼拝しない。私達の身の回りから、お守りやお札(ふだ)などを遠ざけることも含まれます。

*クリスチャンの戦い

家族の中で自分だけがクリスチャンの場合、悪魔は、あの手、この手で、この世と妥協するように誘惑してきます。そのような時、私達は祈りつつ神様からの知恵をいただかなければなりません。

信仰の決断とは、確信が与えられて決断したら、それ以外のものを捨てることを意味します。むつかしいようですが実はむつかしくないのです。信仰が与えられた時、そこに聖霊の働きも同時に起こります。聖霊が、私達のそれまで持っていたものへの未練や執着を、すべて取り払って下さるからです。パウロも言っています「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」と。いつも共にいて下さるイエス様が、私達にも「主にのみ仕える」道を安心して歩いていけるようにいつも伴い、支えて下さいます。

*第三の誘惑「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。神は守り、支える。」

悪魔はイエス様に、高い所から飛び降りるよう勧めました。というのは、聖書には天使が支えるとの約束(詩編91:11-12)があるからです。悪魔は、あなたが神の子であるなら必ず聖書に約束されている奇跡(飛び降りても守られる)が起こるはずだから、神を信頼して、その奇跡を通して人々を導いたらどうだというわけです。イエス様のお答は、(申命記6:16)「あなた達の神、主を試してはならない。」でした。

 

*伝道の基本

1.神の言葉で生きる:私達の信仰と伝道は、御利益宗教ではないことです。伝道の先には、一人の人が、「新しくされて生きる」ことが待っています。この世の価値観から解放されて新しく生まれ変わることが出来る道が、すでに備えられているのです。

 2.主にのみ仕える:悪魔にひれ伏すことは、大きな見返りを手にするために聖書の言葉を曲げてこの世と妥協することです。悪魔は、巧妙に私達に近づいてきます。私達はいつも目を覚ましていなければなりません。

3.主を試してはならない:全知全能の神様には出来ないことはないのだから、きっと神様はこのように答えて下さるに違いない、と自己流の聖書解釈と信仰理解に陥って行動するようにささやく誘惑があります。  自分の信仰の確信を優先させて、御言葉通りになるように思うのは、主客転倒です。「わたしの願いではなく、御心のままに」です。(ルカ22:42)

3月3日の説教要旨

ホセア書6:1-3  ルカ福音書24:1-12

「主の復活①」 平賀真理子牧師

*はじめに

今週の水曜日6日は「灰の水曜日」で、この日から受難節が始まります。但し、私達は、ルカによる福音書を読み進めてきて、先週の礼拝で既に「主の死と埋葬」の箇所まで終わりました。他の教会の多くは主の御受難をこれから読んでいくと思われますが、私達は、十字架後の「主の復活」という希望に向かって一足早く先取りしていきましょう。

*主の十字架

 主の十字架は、「神様を信じ通せない」という私達の罪を、イエス様が御自分の命を代償にして、私達信仰者が再び神様との絆を回復させるためと先週までにお伝えしました。神の御子の命という、何物にも代えがたい犠牲が献げられたのですから、この世の人間を支配してきたサタンも、文句が言えない、完璧な代償なのです。神の御子イエス様は、父なる神様の御心に従った「救い主」として「苦難の僕」の役割を果たされ、みじめで苛酷な死を遂げました。それが主の十字架です。武力等で押さえつける方法ではサタンは心から屈服はしないでしょう。救い主がみじめに死ぬことこそ「完璧な贖い」であり、サタンもそのような「救い主」には、心から屈服せざるを得なくなるわけです。

*預言されていた「主の死と復活」

 マタイ・マルコ・ルカ福音書では、イエス様が十字架への道が間近になるずっと前から、御自身の「死と復活」について3度預言なさっていたことを記しています。「キリスト教」「イエス様」と言えば、そのシンボルは十字架であり、十字架は人間の贖罪として大変重要ですが、実は、「十字架」の後の「復活」こそ、神様の完璧な勝利の証しと言えます。

*「主の復活」についてのルカ24章

 ルカによる福音書は、最後の章24章全体を使って、「主の復活」について証ししています。そして、その最初の段落1節-12節の小見出しは「復活する」となっています。「誰が」でしょうか?もちろん、イエス様ですね。ところが、1節-12節までは、実は、復活したイエス様が直接御姿をお見せになっているわけではありません。1節―2節で、婦人達が、処刑日の金曜日に確認した「主の御遺体を納めた御墓」に、日曜日の日の出頃来たものの、入り口の大きな石は取り除かれていて、あるはずの御遺体が無いことを発見したとあるだけです。(が、復活の主はまだ現れていません。)

*天使二人の出現とその証言=「主の預言を思い起こしなさい」

 次に現れたのも、復活の主ではなく、「輝く衣を着た人」です。これは、当時の表現で「天使」のことです。しかも、二人です。ユダヤ社会では、一人だけの発言は確かな証言とは見なされません。二人以上の複数の言葉で、証言として認められるのです。彼らの確かな証言は、ガリラヤから主に従ってきた婦人達がかつて聞いたはずの「主の死と復活の預言」を思い起こすようにという内容でした。つまり、様々な出来事で心惑わされている婦人達に、「主の御言葉」をまず思い出すことが重要だと伝えているのです。そして、婦人達はその証言に従い、使徒達に伝える役割を果たしました。

*婦人達の証言を聞いた「使徒」や男性の弟子達の反応 

 天使の証言を聞いた婦人達は、裏切り者「イスカリオテのユダ」を除く使徒11人や男性の弟子達に、「空の墓」や「天使の言葉」を知らせたにも関わらず、彼らは、それを「たわ言」だと思ったのです。当時のユダヤ社会では、女性を一人前の人間と見なさなかったので、仕方のないことだとは思います。ところが、ルカによる福音書では、ただ一人、例外の使徒が居たことを伝えています。それが、一番弟子ペトロです。

*主の御言葉を信じる者達が確信する「主の復活」  ペトロは、自分を愛し育んでくださったイエス様を3度も否認した経験があり、また、十字架の時も主を助けられませんでした。主との絆において、辛く悲しいままで終わりたくなかったでしょう。婦人達の言葉に希望を見出して行動し、証言どおりの様子を見、主の預言の成就を確信したはずです。死を超える「復活」は、主の御言葉を信じる者達に実現するのです。

2月24日の説教要旨

イザヤ書52:13-15  ルカ福音書23:44-56

「主の死と埋葬」 平賀真理子牧師

*はじめに

今日の新約聖書箇所で、主がこの世での生、つまり、人間としての生を十字架上で終えたことが書かれています。私達人間が神様に絶対の信頼を決して寄せられないという深い罪を肩代わりなさるため、イエス様は御自分の命を犠牲にせざるを得なかったわけです。神の御子が御自分の命を献げるほどに、父なる神様に従順に従う、その御姿は、本来は、最初の人間アダムに求められていたことでした。しかし、「蛇」と称される「悪霊の頭サタン」の罠に陥り、人間は主なる神様とその御言葉を信じ通せず、「神様に従えない」という罪を継承するようになったのです。しかし、神様はそんな人間を見捨てず、まず、「神の民」に選ばれたイスラエル民族が、神様とその御言葉を信じることで、人間の信仰を回復させようと御計画なさいました。その深い愛にも関わらず、人間の罪は重すぎて、悪魔の追及を寄せ付けないほどの信仰を示すことができなかったことを旧約聖書は証ししています。

*救い主が「苦難の僕」とならざるを得ないほど、人間の罪は重い!

 だから、神様は人間を救うための新しい方法として「救い主への信仰」を示した者が救われるという御計画を立ててくださいました。が、ここでも難問が立ちはだかります。人間は「救い主」と言うと、この世の「王」の延長で、最高の権威を顕示する権力者をイメージします。一方、本当の神様は「救い主」を「苦難の僕」の歩みをするように定められた(参照:イザヤ書52:13-53:12)ので、「救い主」について、神様と人間では、全く違う様相を想定していたわけです。イエス様は勿論、父なる神様の御心に従われます。この世の権力を横取りしたサタンが告発できないほどに、イエス様は苛酷な苦難の道を歩んだ上で、その命を犠牲にする、それでも、父なる神様への従順を貫く、このような御計画を成就するために、主の十字架という苦難が必要だったのです!私達自身を含む「人間の罪」は、それほどまでに重いのです。

*十字架で息を引き取ったイエス様の最後の御言葉

 イエス様が十字架に架かって数時間で、太陽の光が失われ、また、エルサレム神殿の至聖所と聖所を分ける垂れ幕が真ん中から裂けました。めったに起きない2つの現象が同時に起きたのです。本当の神様がお造りになった自然の中でも、最大の明るさを持つ太陽が光を失ったことは、神様の御心も光を失い、大変な悲しみに沈まれたと読み取れます。また、ユダヤ教の総本山の大事な垂れ幕の破損を通して、ユダヤ教の役割(神の民を教え導くこと)の終了が示されたと思えます。この直後に、イエス様は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(46節)と叫んで息を引き取られました。神の御手によって、イエス様の救いの御業こそが、次の時代の救いとなるとルカ福音書は証ししていると思えます。46節の御言葉は、イエス様の御生涯を貫く、父なる神様への絶対の従順の姿を表した御言葉であり、この姿勢こそ、人間が神様に向かって献げるべき、本来の信仰の姿勢です。

*ローマ兵の証しは、イエス様の救いの御業が異邦人中心へと向かう暗示

主の死の直後、異邦人であるローマ軍の百人隊長が、イエス様を「正しい人だった」と証ししたと書かれています。ユダヤ人指導者達が扇動して十字架に付けた「救い主」に対して、異邦人がまず最初に、本当の価値を理解したわけです。イエス様の救いの御業は、ユダヤ人の救いよりも、異邦人の救いへ向かうことの象徴的な出来事ではないでしょうか。

*主の埋葬のために用いられた「アリマタヤのヨセフ」

 金曜日の午後3時頃に息を引き取ったイエス様の埋葬のため、神様に用いられたのが「アリマタヤのヨセフ」です。彼は議員でしたが、イエス様を有罪とした決議や同僚の行動に同意しませんでした。神様は、そのような彼を、主の御遺体の尊厳を守るべく埋葬する働きに用いられたことをルカ福音書は証ししています。神様は、その御用のために、私達信仰者一人一人の信仰に応じて豊かに用いてくださるという証しと言えます。神様は、御子の死という大変な悲しみの中でも、信仰者への愛を注がれる御方です。

2月17日の説教要旨

イザヤ書53:1-5  ルカ福音書23:26-43

「十字架における主と立ち会った人々」  平賀真理子牧師

*はじめに

ルカによる福音書を読み進めておりまして、とうとう、私達の主イエス様の十字架への道について書かれている所まで来ました。十字架刑の執行にあたり、当時は、刑を受ける本人が、「されこうべ」(ヘブライ語の一種のアラム語で「ゴルゴタ」、ラテン語で「カルバリ」)と呼ばれる刑場まで、自分が架かる十字架を背負わされることになっていました。成人男子が架かる十字架は大変重いことは容易に想像できます。しかも、イエス様は、長い宣教の旅のお疲れがあった中、逮捕や裁判に際しての疲労が重なり、十字架を途中で背負えない状況になりました。

*主の十字架を背負って従うことになった異邦人シモン

それで、通りがかりのキレネ人シモンが、恐らくローマ兵の命令で、イエス様の十字架を代わりに背負うことになったのでしょう。ルカ福音書では、特に、彼が「主の十字架を代わりに背負い、しかも後ろから従う姿」を描写しています。それは、一番弟子であったペトロと呼ばれたシモンに、本来求められる姿だったのに、彼は、前日にイエス様を知らないと3度否認しました。ユダヤ人シモン・ペトロが主に従えなかった一方、異邦人(キレネ人)シモンが主に従ったという証しとなっています。マルコ福音書に、キレネ人シモンは「アレクサンドロとルフォスの父」とあります(15:21)。それは、初代教会の中で、この兄弟は既に名の知れた信仰者であったことを示しています。キレネ人シモンは、神の選びにより、十字架に向かう主に出会い、理想の信仰者の姿を表す役割を担い、それを契機に、本人と家族は救いの恵みをいただいたと想像できます。

*救い主を殺す大罪を犯す「神の都エルサレム」への裁きについての預言

イエス様の十字架への道について行った多くの人の中でも、嘆き悲しむ婦人達に向かい、27節―31節にはイエス様がおっしゃった御言葉が記録されています。当時は、子供を持つ婦人が幸せで、そうでない婦人は不幸であるという考え方がありましたが、イエス様は、それを覆す出来事が起こると預言されたのです。子供を持つ婦人が不幸になること、それは子供が殺されること、悲惨な目に遭うことです。つまり、神様が派遣された救い主イエス様を殺す「神の民」には、救い主に対して行ったこと、いや、それ以上の悲惨な裁きを神様がせざるを得ないと、イエス様が予見なさり、悲しまれたのです。(実際、これから約40年後に、エルサレムはローマによって徹底的に破壊されるという「ユダヤ戦争」が起こりました。)

*救い主イエス様のとりなしの祈り(34節の[ ]内)

 その後、いよいよ、本当にイエス様は十字架の上に釘打たれることになりました。そこでおっしゃった御言葉(34節の[ ]内)こそ、イエス様が救い主としての姿勢を貫いた御姿を見ることができます。この御言葉は、まずは、御自分を十字架に付けているローマ兵達に向けられたと思われます。彼らは、救い主を殺すことに加担しているとは知らないのですから、イエス様が父なる神様に彼らの罪の赦しを彼らに代わって祈ってくださったのです。何と憐れみ深いのだろうと感謝ですが、その対象は彼らだけでなく、イエス様の十字架刑を主張したユダヤ教指導者達や権力者達、それに追従したエルサレムの民衆までを含み、主は彼らの罪をとりなそうとしてくだっさったと思われます。この、主の「とりなしの祈り」こそ、自己を犠牲にしても、相手の救いや赦しを願う、本当の神様とその御子の憐れみ深い御性質が示されていると私達は思い知るべきです。

*神を恐れ、自分の罪を悔い改め、救い主に素直に近づく

主と同時に十字架刑になる2人の犯罪人の内、一人は、主に対して「自分自身と我々(2人の犯罪人)を救ってみろ」とののしりました(「自分を救え」という主張は、ユダヤ人議員達やローマ兵達も発言していて、この発言で3回目)。一方、もう一人の犯罪人は、イエス様には罪が無いと宣言し、一方、自分には罪があるが、主に自分を思い出してほしいと願いました。神を恐れ、自分の罪を悔い改め、救い主に素直に近づく、という理想の信仰者の姿が示されています。私達信仰者もこの姿勢を貫いて歩めるよう、祈りましょう。

「十字架における主と立ち会った人々」   平賀真理子牧師

2月10日の説教要旨

イザヤ書53:6-12  ルカ福音書23:13-23:25

「罪無き御方への死刑判決」 平賀真理子牧師

*はじめに

私達の主イエス様が、救い主としての主要な定めである「十字架刑(死刑)」を前に3つの階層の人々から裁判(尋問)を受けたことを、前回学びました。1つめの階層であるユダヤ人の指導者達はイエス様を最初から有罪にしようとし、最高権力機関である「最高法院」で、「瀆神罪(神を冒瀆する罪)」を犯したと判決を出しました。しかし、2つめの階層であるシリア総督ピラトと3つめの階層であるガリラヤ地方(イエス様の出身地)の領主ヘロデ・アンティパスは、諸事情からイエス様を有罪とする判決を決して出そうとはしませんでした。

*ローマ帝国の総督ピラトのイエス様に対する「無罪宣言」

 ヘロデ・アンティパスは、自分の前で何も語らないイエス様をローマ帝国の総督ピラトの所に送り返しました。ピラトは、自分にとって、面倒な判決をとうとう自分が出さなければならないと悟ったのでしょう。ピラトは、ユダヤ人社会のあらゆる階層の人々(宗教上の指導者である祭司長達、政治上の指導者である議員達、民衆)を呼び集めて、「ナザレ人イエスには何の罪も見つからない」と宣言しました。ルカ福音書では、ピラトのイエス様に対する無罪宣言を、ここで3回も繰り返しています。「神の民」であるユダヤ人のあらゆる階層に向かって、神を知らないはずの異邦人の権力者ピラトが「イエス様は罪が無い」と宣言したのです!

*3度の無罪宣言の理由

 3度の無罪宣言をルカ福音書はなぜ記述したのか?2つの理由に思い至りました。一つは、ルカ福音書記者の篤い信仰心が溢れ出ているからと言えるでしょう。イエス様に対して「十字架」という死刑になったけれども、御自分には決して罪は無く、頑なに神を拒む人間達の罪を肩代わりなさった御方であると証ししたいという信仰の表れだと感じられます。

もう一つの理由は、3度という数字から思い浮かぶものです。それは、この直前に起こった「ペトロのイエス様の3度の否認」と対比させて、ルカ福音書はイエス様の無罪を強調しようとしていたからということです。イエス様に愛され、教え導かれた一番弟子ペトロが、死への恐怖などからイエス様の仲間であることを否定するために、「イエス様を知らない」と言ってしまったのです。ユダヤ人の中でも一番イエス様に恩義のあるペトロさえ、サタンの試みを受け、イエス様を否定したわけです。一方、ピラトはローマ皇帝という人間を神と崇めることに抵抗のない異邦人でありながら、イエス様の無罪を宣言する役割を果たしています。更に深読みするならば、ルカ福音書は、この後、ユダヤ人よりも異邦人の方に、イエス様の福音が広まっていくのを暗示しようとしたのかもしれません。それにしても、神様を知っているはずのユダヤ人はイエス様を否定し、本当の神様の存在を知らない異邦人が「神からのメシアであるイエス様は罪が無い」という真実を宣言する役割を果たした、これは、実に不思議な現象です。

*神の御前の真理を悟りながら、従い得ない人間の罪から来る悲劇

さて、もう一つ、不思議な現象が起こります。それは、権力者ピラトが3度も無罪宣言したイエス様が結局は有罪判決を受けて十字架刑に処せられ、暴動と殺人という大罪を犯したバラバという罪人が釈放される結果になったことです。本当にありえないことです。(まさしく、サタンが働いたとしか言いようがないでしょう。)このねじれ現象の直接の原因は、ピラトがユダヤ人達の「イエスを十字架につけろ」という要求に圧倒されたからです。支配国の権力者が被支配民の要求に屈する理由は、お役人ゆえの事なかれ主義(領地でもめ事を起こさないこと)か、ユダヤ人に握られていた弱みか、推測の域を出ません。とにかく、イエス様を無罪と宣言したピラトは皇帝や領民からの評価を得たいという欲望に負けました。イエス様を十字架へ扇動したユダヤ人指導者達もピラトも、神様の御前における真理追求を第一とせず、人間(多勢の民衆や皇帝等の権力者)の要求を第一としてしまいました。実は、私達もその罪に陥る危険があります。本当の神様、主から啓示される真理を第一とできるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

2月3日の説教要旨

詩編38:16-23 ルカ福音書22:66-23:12

「権力者達による裁判」 平賀真理子牧師

*はじめに

イエス様は、救い主の役割を果たすための「十字架」という死刑判決を受けるにあたり、3つの階層の人々から裁判を受けたことが記されています。1つめの階層の人々は、ユダヤ教指導者を含む最高法院の議員達、2つめは、ローマ帝国から派遣された「総督」であるピラト、3つめは、ガリラヤの領主であるヘロデ(ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパス)です。2つめと3つめは、権力者一人からの尋問であり、現代の裁判で言うなら、裁判前の「検察官の尋問」という感じだと想像できるでしょう。

*イエス様を受け入れることを拒否したユダヤ人指導者層による裁判

1つめの裁判においては、最高法院の複数の議員達が、イエス様から証言を引き出そうと質問攻めにしているようです。彼らの関心事はただ一つ、「ナザレ人イエス」が、待ちに待った「メシア(救い主)」なのかを本人の口から聞くことです。ところが、イエス様は、彼らの本心、つまり、「ナザレ人イエス」がメシアであっては困る、メシアであるはずがないと思い込んでいる、その心を見抜いておられたのです。イエス様を救い主と信じる気持ちが最初から無い人々に対して、イエス様は「御自分がメシアである」という真実を語られませんでした。それでも、その一言を引き出そうとする人々を前にイエス様が真実を語っても「あなたたちは決して信じないだろう」と預言なさいました。更に、その次の御言葉「わたしが尋ねても、決して答えないだろう」については、「イエス様がメシアである」と聞いた人間は、イエス様に従う覚悟を尋ねられると知っていることで理解できるようになります。。父なる神様から派遣されたメシアである御自分に聞き従う覚悟があるかと尋ねても、最初から信じる気持ちのない最高法院の議員達は、従うとは決して答えないとイエス様は預言されたのです。なぜなら、22章53節にあるように、その当時は闇(サタン)が御自分を殺そうと力を振るうだろうとイエス様は御存じだったからです。神の民であるユダヤ人の指導者層は、本来真っ先に救い主たるイエス様を受け入れることを神様から期待されていたはずなのに、彼らの心をサタンが狙ったのでしょう。彼らは、既得権益保持の願望やイエス様人気に対する嫉妬に捕らわれて、神様からの啓示を受け入れない罪に陥り、サタンに利用されました。一方、罪深い議員達の中に立たされたイエス様だけは、父なる神様に従い続け、十字架の先に用意された栄光を信じる姿が際立っています。「今から後、人の子は全能の神の右に座る」(60節)には、十字架という苦難を前にしても揺るがず、父なる神様とその御言葉を信じ続けるというイエス様の覚悟が込められています。

*「わたしがそう(メシア)だとはあなた(たち)が言っていることです」

上記の小見出しの御言葉とそれに似た表現の言葉(22:70と23:3)をイエス様は語られましたが、聞き手により、全く反対の意味に取られました。前者では、質問者達が「イエス様がメシアか」という問いを本人が肯定したとし、イエス様有罪の自白としました。一方、ピラトの「あなたはユダヤ人の王か」という問いに対し、イエス様は「それは、あなたが言っていることです」と答え、ピラトはイエス様がユダヤ人の王を自称したわけではないとし、ローマ帝国への反逆について無罪と定めようとしたのです。

*父なる神様に従い続けたイエス様とサタンに支配された人間達

ユダヤ人達から反抗されることも、イエス様に関わることも避けたいピラトは、イエス様の出身地ガリラヤの領主ヘロデにもイエス様を尋問させました。日頃お互いの権力拡充を巡って敵対する二人が、ナザレ人イエスを重視しないという共通項で親しくなりました。神様が願われる人間同士の関係の本来の姿は、神様への信仰を基盤にした信頼関係です。ピラトとヘロデは、主への不信仰、つまり、神様抜きで人間関係を結ぼうとしたわけで、神様の御心に反しています。これも、サタンの支配を裏付ける証拠だと言えるでしょう。サタンとその支配下の人間達が蠢(うごめ)く中にあって、神の御子・救い主イエス様だけが神様につながる(垂直の)線をしっかり保ち、静かに泰然と神様の御心に適った言動を取り続けておられたのです。

1月27日の説教要旨 「闇が力を振るう時」 平賀真理子牧師

詩編14:1-7 ルカ福音書22:47-65

 

*はじめに

アドベント前に読み進めていた「ルカによる福音書」に戻りましょう。

22章39節-46節「オリーブ山での祈り」(「ゲツセマネの祈り」)まで読み終わっています。最後の晩餐に続いて「十字架への道」が粛々と行われている中で、イエス様は、十字架の過酷さを予感され、それは出来れば無くしてほしいと御自分のお気持ちを父なる神様に祈られました。ルカ福音書によれば、その祈りが終わり、恐らく、弟子達とまだ話されている内に、イエス様を逮捕しようとする人々が来たようです。

 

12人の弟子の一人「イスカリオテのユダ」の裏切り

イエス様の主要な12弟子の一人、イスカリオテのユダが、イエス様を裏切ることがここで明らかになっています。その場にいた他の人々は何が起こったのか、すぐにはわからなかったかもしれませんが、イエス様お一人だけは、事態の深刻さがお分かりになり、親しい間柄で行われる接吻の挨拶が、敵への合図に用いられたと残念に思われたのでしょう。「接吻で人の子を裏切るのか」という御言葉の「人の子」という語に注目しましょう。これは、イエス様が御自分を救い主として客観的に表現なさる時に使われた言葉です。弟子ならば、そのことを知っていたはずです。イエス様は、このユダに「あなたは救い主を裏切ろうとしている。その罪の重さをわかっているのか.。裏切りはやめなさい。」と伝えたかったのではないかと思われます。

 

*取り巻きの人々の反応とイエス様の姿勢

一方、取り巻きの人々は、武器を持った人々に取り囲まれて、本能的にも、この場を切り抜けたいと思い、剣を用いて、抵抗することを提案し、実際、敵方の一人を傷つけたことが記されています。この事態を受け、イエス様は暴力沙汰を止めさせ、傷ついた人の癒しをなさいました。人間の様々な思惑や暴力の中、イエス様だけが「癒し主」として、神様から与えられた使命に忠実であり続けられておられます。

 

*「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(53)

主の逮捕を巡って右往左往する人間達を、イエス様は決して彼らのせいだと責めておられません。なぜなら、ユダを含む逮捕に来た人々は、かつては、イエス様と共にいた人々であり、むしろ、それが本来の姿であるとイエス様は思ってくださっていて、状況が変わってしまった今は、闇と表現されるサタンが人々を「救い主」に歯向かわせている、と受け止めてくださっていることが53節から読み取れるからです。ルカ福音書では、4章13節で「悪魔(サタン)は時が来るまでイエスを離れた」とあり、その後は姿を見せず、22章3節で再びサタンが現れ、イスカリオテのユダに入ったと記されています。そこからイエス様が十字架にかかって復活なさる前まで、サタンは最後の悪あがきで暴れ回ることを許され、主に対して人間が反抗するように画策することを、イエス様はよく知っておられたのです。

私達人間は、短絡的に、サタンなんか、神様が力で負かしてくださればいいのに!と思ってしまいますが、それこそが、力で押さえつけるサタンの方法です。神様は、サタンやサタン側についた人々さえも自ら神様に従いたいと思えるように取り計らわれます。それが神様の方法です。

 

*「主の憐れみ」と、サタンが誘発した「ペトロの否認」と主への暴力

ユダだけはなく、一番弟子と言われたペトロもサタンに利用され、「イエス様を知らない」と3度も言う「ペトロの否認」が起こりました。これは、イエス様の預言の実現でもあります。イエス様は、それもサタンの仕業であり、その後にペトロが信仰を失わないように祈ったと語られました(ルカ22:31-34)。恐れのためにイエス様を裏切ることになったペトロに対し、罪無き主は憐れみの眼差しを向け、それによって、ペトロは自分の罪深さに気づかされ、激しく泣くことになりました。更には、弟子達だけでなく、逮捕したイエス様を見張る番人達も、サタンに利用されて、主を侮辱し、暴力などを振るいました。ここに、サタンに支配されている人間の罪深さが現れており、だからこそ、神の御子による救いが必要だと悟らされます。