2月3日の説教要旨 「権力者達による裁判」 平賀真理子牧師

詩編38:16-23 ルカ福音書22:66-23:12

 

*はじめに

イエス様は、救い主の役割を果たすための「十字架」という死刑判決を受けるにあたり、3つの階層の人々から裁判を受けたことが記されています。1つめの階層の人々は、ユダヤ教指導者を含む最高法院の議員達、2つめは、ローマ帝国から派遣された「総督」であるピラト、3つめは、ガリラヤの領主であるヘロデ(ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパス)です。2つめと3つめは、権力者一人からの尋問であり、現代の裁判で言うなら、裁判前の「検察官の尋問」という感じだと想像できるでしょう。

 

*イエス様を受け入れることを拒否したユダヤ人指導者層による裁判

1つめの裁判においては、最高法院の複数の議員達が、イエス様から証言を引き出そうと質問攻めにしているようです。彼らの関心事はただ一つ、「ナザレ人イエス」が、待ちに待った「メシア(救い主)」なのかを本人の口から聞くことです。ところが、イエス様は、彼らの本心、つまり、「ナザレ人イエス」がメシアであっては困る、メシアであるはずがないと思い込んでいる、その心を見抜いておられたのです。イエス様を救い主と信じる気持ちが最初から無い人々に対して、イエス様は「御自分がメシアである」という真実を語られませんでした。それでも、その一言を引き出そうとする人々を前にイエス様が真実を語っても「あなたたちは決して信じないだろう」と預言なさいました。更に、その次の御言葉「わたしが尋ねても、決して答えないだろう」については、「イエス様がメシアである」と聞いた人間は、イエス様に従う覚悟を尋ねられると知っていることで理解できるようになります。。父なる神様から派遣されたメシアである御自分に聞き従う覚悟があるかと尋ねても、最初から信じる気持ちのない最高法院の議員達は、従うとは決して答えないとイエス様は預言されたのです。なぜなら、22章53節にあるように、その当時は闇(サタン)が御自分を殺そうと力を振るうだろうとイエス様は御存じだったからです。神の民であるユダヤ人の指導者層は、本来真っ先に救い主たるイエス様を受け入れることを神様から期待されていたはずなのに、彼らの心をサタンが狙ったのでしょう。彼らは、既得権益保持の願望やイエス様人気に対する嫉妬に捕らわれて、神様からの啓示を受け入れない罪に陥り、サタンに利用されました。一方、罪深い議員達の中に立たされたイエス様だけは、父なる神様に従い続け、十字架の先に用意された栄光を信じる姿が際立っています。「今から後、人の子は全能の神の右に座る」(60節)には、十字架という苦難を前にしても揺るがず、父なる神様とその御言葉を信じ続けるというイエス様の覚悟が込められています。

 

*「わたしがそう(メシア)だとはあなた(たち)が言っていることです」

上記の小見出しの御言葉とそれに似た表現の言葉(22:70と23:3)をイエス様は語られましたが、聞き手により、全く反対の意味に取られました。前者では、質問者達が「イエス様がメシアか」という問いを本人が肯定したとし、イエス様有罪の自白としました。一方、ピラトの「あなたはユダヤ人の王か」という問いに対し、イエス様は「それは、あなたが言っていることです」と答え、ピラトはイエス様がユダヤ人の王を自称したわけではないとし、ローマ帝国への反逆について無罪と定めようとしたのです。

 

*父なる神様に従い続けたイエス様とサタンに支配された人間達

ユダヤ人達から反抗されることも、イエス様に関わることも避けたいピラトは、イエス様の出身地ガリラヤの領主ヘロデにもイエス様を尋問させました。日頃お互いの権力拡充を巡って敵対する二人が、ナザレ人イエスを重視しないという共通項で親しくなりました。神様が願われる人間同士の関係の本来の姿は、神様への信仰を基盤にした信頼関係です。ピラトとヘロデは、主への不信仰、つまり、神様抜きで人間関係を結ぼうとしたわけで、神様の御心に反しています。これも、サタンの支配を裏付ける証拠だと言えるでしょう。サタンとその支配下の人間達が蠢(うごめ)く中にあって、神の御子・救い主イエス様だけが神様につながる(垂直の)線をしっかり保ち、静かに泰然と神様の御心に適った言動を取り続けておられたのです。

1月27日の説教要旨 「闇が力を振るう時」 平賀真理子牧師

詩編14:1-7 ルカ福音書22:47-65

 

*はじめに

アドベント前に読み進めていた「ルカによる福音書」に戻りましょう。

22章39節-46節「オリーブ山での祈り」(「ゲツセマネの祈り」)まで読み終わっています。最後の晩餐に続いて「十字架への道」が粛々と行われている中で、イエス様は、十字架の過酷さを予感され、それは出来れば無くしてほしいと御自分のお気持ちを父なる神様に祈られました。ルカ福音書によれば、その祈りが終わり、恐らく、弟子達とまだ話されている内に、イエス様を逮捕しようとする人々が来たようです。

 

12人の弟子の一人「イスカリオテのユダ」の裏切り

イエス様の主要な12弟子の一人、イスカリオテのユダが、イエス様を裏切ることがここで明らかになっています。その場にいた他の人々は何が起こったのか、すぐにはわからなかったかもしれませんが、イエス様お一人だけは、事態の深刻さがお分かりになり、親しい間柄で行われる接吻の挨拶が、敵への合図に用いられたと残念に思われたのでしょう。「接吻で人の子を裏切るのか」という御言葉の「人の子」という語に注目しましょう。これは、イエス様が御自分を救い主として客観的に表現なさる時に使われた言葉です。弟子ならば、そのことを知っていたはずです。イエス様は、このユダに「あなたは救い主を裏切ろうとしている。その罪の重さをわかっているのか.。裏切りはやめなさい。」と伝えたかったのではないかと思われます。

 

*取り巻きの人々の反応とイエス様の姿勢

一方、取り巻きの人々は、武器を持った人々に取り囲まれて、本能的にも、この場を切り抜けたいと思い、剣を用いて、抵抗することを提案し、実際、敵方の一人を傷つけたことが記されています。この事態を受け、イエス様は暴力沙汰を止めさせ、傷ついた人の癒しをなさいました。人間の様々な思惑や暴力の中、イエス様だけが「癒し主」として、神様から与えられた使命に忠実であり続けられておられます。

 

*「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(53)

主の逮捕を巡って右往左往する人間達を、イエス様は決して彼らのせいだと責めておられません。なぜなら、ユダを含む逮捕に来た人々は、かつては、イエス様と共にいた人々であり、むしろ、それが本来の姿であるとイエス様は思ってくださっていて、状況が変わってしまった今は、闇と表現されるサタンが人々を「救い主」に歯向かわせている、と受け止めてくださっていることが53節から読み取れるからです。ルカ福音書では、4章13節で「悪魔(サタン)は時が来るまでイエスを離れた」とあり、その後は姿を見せず、22章3節で再びサタンが現れ、イスカリオテのユダに入ったと記されています。そこからイエス様が十字架にかかって復活なさる前まで、サタンは最後の悪あがきで暴れ回ることを許され、主に対して人間が反抗するように画策することを、イエス様はよく知っておられたのです。

私達人間は、短絡的に、サタンなんか、神様が力で負かしてくださればいいのに!と思ってしまいますが、それこそが、力で押さえつけるサタンの方法です。神様は、サタンやサタン側についた人々さえも自ら神様に従いたいと思えるように取り計らわれます。それが神様の方法です。

 

*「主の憐れみ」と、サタンが誘発した「ペトロの否認」と主への暴力

ユダだけはなく、一番弟子と言われたペトロもサタンに利用され、「イエス様を知らない」と3度も言う「ペトロの否認」が起こりました。これは、イエス様の預言の実現でもあります。イエス様は、それもサタンの仕業であり、その後にペトロが信仰を失わないように祈ったと語られました(ルカ22:31-34)。恐れのためにイエス様を裏切ることになったペトロに対し、罪無き主は憐れみの眼差しを向け、それによって、ペトロは自分の罪深さに気づかされ、激しく泣くことになりました。更には、弟子達だけでなく、逮捕したイエス様を見張る番人達も、サタンに利用されて、主を侮辱し、暴力などを振るいました。ここに、サタンに支配されている人間の罪深さが現れており、だからこそ、神の御子による救いが必要だと悟らされます。

12月30日の説教要旨 「聖霊に導かれた人々」 平賀真理子牧師

イザヤ書57:14-19   ルカ福音書2:22-38

 *はじめに

 私達の救い主イエス様の御降誕について、今年のアドベント・クリスマスの時期は、ルカによる福音書を読んできました。今日は、そのシリーズの最後です。ルカ福音書1章から2章21節までで、「救い主御降誕」は、この世の人間を本当の意味で救うために、人間を愛してやまない神様が準備なさって実現したものであること、また、それを人間に知らせるために「天使の御告げ」があったと語られていると読み取れます。(「天使の御告げ」は、本当の神様が天使に託した御言葉です。)ところが、今日の箇所以後、暫時、ルカ福音書では、天使の御告げや活動は語られませんし、今日の箇所では、それまでの「天使」ではなく、「聖霊に導かれた人々」が救い主御降誕について語るように用いられています。

 

 *エルサレム神殿で「聖なる者」とされたイエス様

ルカ福音書2章21節―24節では、救い主のこの世での両親に選ばれたヨセフとマリアが、ユダヤ教の律法に従い、イエス様に割礼を施し、命名し、神殿に献げ物をしに来たことが記されています。このような信仰深い家庭を築く心根を持った夫婦に、神様が御子を託したと言えるのではないでしょうか。

また、この箇所で重要なことは、イエス様が、ユダヤ教の総本山であるエルサレム神殿で「聖なる者」とされたことです。イエス様は神の御子ですから、神様の御座所である「天」では勿論「聖なる御方」です。そこから降りて来てくださった「この世」でも、生まれてすぐに「聖なる者」にされたことを、私達は喜びたいものです。

 

 *聖霊に導かれたシメオンが「救い主」に出会う!

2章25節では、神様の前に義とされる生活をしていて、信仰があつい、シメオンという人が「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」とあります。これは「イスラエル民族に救い主が生まれることを切望していた」という決まり文句です。そして、このシメオンには、聖霊がとどまっていたのですから、最強の信仰者と言えるでしょう。

 

 *「聖霊」の働き

「聖霊」に導かれると、人間はどうなるのか?25節―27節で、はっきり示されています。まず、25節でわかることは、聖霊は人間を信仰生活に導く働きをすることです。人間が神様の恵みを受けるのにふさわしいように教育するわけです。次に、26節では、聖霊は信仰者に神様の約束を確信させているとわかります。それに加えて、27節では、聖霊は信仰者を神様の約束どおり「救い主」に出会えるように導いているとわかります。このようにして、聖霊に導かれたシメオンは、神の御子イエス様がエルサレム神殿で「聖なる者」とされる瞬間に立ち会えて、最大の願望であった「救い主に出会う」以上の恵みを得ました。つまり、「救い主」を自分の腕の中に抱くという最高の恵みをいただいたのです。

 

 *聖霊に導かれたシメオンは、天使の御告げ以上のことを語る!

キリスト教界で「シメオンの賛歌」(ルカ2:29-32)と言われる箇所で、実は、天使の御告げ以上のことが言われています。この幼子イエス様はイスラエルの民が願ってきた「イスラエル民族の救い主」以上の存在になるということです。聖霊に導かれた人間シメオンの口を通して発せられた「賛歌」で、救い主イエス様は、「異邦人(ユダヤ人でない、世界中の人々)」をも照らすと謳われ、そのような救い主が生まれたことで、イスラエル民族は「誉れ」とされることがはっきり示されています(32節)。

 

 *喜ばしい「救い主御降誕」を受け止めきれない「この世の人間達」

しかし、同時に、シメオンは、人間がこの喜ばしい出来事を正しく受け止めきれないと預言します(34-35節)。神様が人間を愛する故に実現なさったことを、悲劇に変えてしまうほど、人間の罪は重いのです!

 

 *女預言者アンナも聖霊に導かれて、救い主の証しに用いられる!

36節-38節の「アンナ」は、当時の社会では弱い立場のやもめですが、神の恵みによって聖霊をいただき、神様の御言葉を受ける預言者とされ、救い主イエス様に出会い、主を証しする御業に用いられています。

 

 *私達も聖霊に導かれて、イエス様に出会う恵みを賜っている!

シメオンとアンナは、聖霊に導かれてイエス様に出会いました。イエス様と既に出会っている私達も、実は「聖霊に導かれた人々」です!

 

12月23日の説教要旨 「この世に来られた救い主」 平賀真理子牧師

イザヤ書9:1-6  ルカ福音書2:1-21

 *はじめに

 私達の救い主イエス様について、お生まれになった経緯を具体的に記録しているのは、4つの福音書のうち、マタイによる福音書とルカによる福音書です。そのうち、ルカによる福音書だけが「人間世界の記録」を意識していると言えます。というのは、イエス様がお生まれになった時を、当時のローマ帝国のアウグストゥスという皇帝の治世の時と明記しているからです。更に限定された時と地域が示されます。ローマ帝国の役人「キリニウス」がシリア州の総督だった時と記されています。このように、ルカ福音書では、人間世界の記録で重要な「時と場所」を意識して表記しています。イエス様が本当に「この世に来られた御方」であることを伝えようとしていると読み取れます。

 

 *「救い主についての3つの預言」がすべて実現

この福音書の1章では「天使のお告げ」等があって、幾分「物語」のようでもありますが。2章に入ると、上記の理由で、俄然、この世に本当に起こった出来事、つまり、事実の記録の度合いが高まります。そして、イエス様のこの世における父親役を引き受けるヨセフに焦点が当てられます。イエス様の母に選ばれたマリアの婚約者であるヨセフは、まず、ガリラヤに住んでいながら、しかし、ローマ皇帝の命令によって、先祖であるダビデ王の町ベツレヘムへ一時的に出かけるように設定されなければならなかったのです。というのは、「救い主」についての3つの預言を実現させる必要があったのです。一つは、ダビデ王の預言者だった「ナタン」を通しての預言「ダビデ王の子孫から救い主は生まれる」(歴代誌上17章)ということがイスラエルの人々によく知られていたのです。二つ目は、今日の旧約聖書イザヤ書9章の直前の1行に記されている「異邦人のガリラヤが栄光を受ける」という預言です(ガリラヤはイエス様の育った土地、所謂「故郷」)。三つ目は、ミカ書5章1節にある預言「ベツレヘムからイスラエルを治める者が出る」という内容です。神様は、イスラエルの民に告げた、一見内容の異なる3つの預言を、このように人知を超える形で、実現してくださったのです!ダビデ王の子孫でガリラヤに住むヨセフに、身重の婚約者を伴う旅をさせ(皇帝の命令には逆らえない!)、旅先のベツレヘムで「救い主」として御自分の独り子をこの世に誕生させるように、神様がなさったのです。

 

 *「神様をお迎えする場所を用意しているのか」という問い

神様がイスラエルの人々への預言をこのように守ってくださっているのに、それを受ける側の人間達はどうだったかと言えば、イエス様が待望の救い主だとわからず、最初の時から、救い主の場所は用意されていなかったわけです。7節「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあります。これは、当時の状況を述べているだけではなく、私達も、この世の出来事でいっぱいいっぱいになって、神様のおられる場所を、心の中に確かに開けているかどうかを問われていると受け止めるべきです。

 

 *天からのお告げを受けて信じる者のみ「救い主」を礼拝できる!

ただ、7節までに記された人々は、救い主がこの世に生まれたことを知らされていなかったようですから、そのような態度となったことも仕方なかったのかもしれません。一方、それとは対照的に、8節からは「救い主御降誕」を天使によって知らされた「羊飼いたち」の様子が記されています。羊飼い達は、当時のユダヤ教では、仕事柄、礼拝を守れないダメな人々、「神様の恵みを受ける資格のない人々」とされていました。けれども、人間の基準で低く見られていた彼らに、神様からの大事な知らせ「救い主御降誕」が最初に告げられました。彼らは、天使の言葉(即ち、父なる神様から託された御言葉)を受け入れ、信じ、その内容を確かめに闇夜の中で歩み始めました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」というしるしを目当てに、イエス様を探し当てて拝み、この重要な知らせをくださった神様を賛美する恵みを最初にいただきました。キリスト教では、イエス様は「神様の御言葉としての存在」と申します。神様の御言葉であるイエス様を中心に、天使のお告げを受けたヨセフとマリアと羊飼い達が礼拝するという信仰の形が、既にできていたのです!ここに、私達プロテスタント教会が大事にしている信仰、つまり、御言葉をいただいて礼拝する信仰が示されているのです!

12月16日の説教要旨 「イエス・キリストの誕生の予告」 平賀真理子牧師

イザヤ書7:14  ルカ福音書1:26-38

 *はじめに

 前回、洗礼者ヨハネは、救い主イエス様の先を歩み、「主のために荒れ野に道を備える者(イザヤ40:3)」として、最初から、神様の御計画の重要な一部だったことをお話ししました。このヨハネの父親であるザカリアに対して、息子の誕生を予告したのが、天使ガブリエルでした。

 

 *天使ガブリエルが、イエス様の母親となるマリアへ受胎告知する

その同じ天使ガブリエルが、私達の主イエス様がお生まれになることを、イエス様の母親として選ばれたマリアの所へ受胎告知に来ました。

 

 *洗礼者ヨハネの場合は父親へ、救い主イエス様の場合は母親への告知

洗礼者ヨハネの場合は、お告げを受けたのは、父親ザカリアだとルカによる福音書は記しています。ところが、救い主イエス様の時には、母親として選ばれたマリアがお告げを受けました。一方は父親に、もう一方は母親に、それはなぜでしょうか。

正解は神様だけが御存じですが、それでも想像してみたいと思います。私は四つ想像しました。一つめは「本当の父親の違い」、二つめは「低くされた者を高くするという神様の御心」、三つめは「予想される結果の違い」、四つめは「イエス様を巡る役割の違い」です。

 

 *本当の父親の違い

洗礼者ヨハネの父親は「祭司ザカリア」、つまり、人間です。ところが、イエス様の父親は、本当の神様です。その御方がイエス様をこの世に送るのことをお決めになったのです。だから、その直接の受け手である人間としての母親に選ばれたマリアに、まず告知される必要があったということでしょう。もちろん、この世における父親の役割を引き受けるヨセフも重要な存在です。救い主が生まれるのは、ダビデ王の子孫からという預言がよく知られていました。神様は、この預言を守るために、つまり、民の期待に添うために、マリアの産む子がダビデ王の血統のヨセフの子供とされることを重んじて、実現してくださったのです。

 

 *低くされた者を高くする神様の御心

洗礼者ヨハネの父親ザカリアは祭司であり、当時の社会では最も尊敬される階級でしたし、天使のお告げの時は都にあるエルサレム神殿で一世一代の重要な任務を遂行中で、人間界において最高の立場にいました。一方、イエス様の母マリアは、田舎のガリラヤの一介の年若い女性です。人間的に言えば、重んじられるのはザカリア、軽く見られるのはマリアです。しかし、ザカリアの息子ヨハネは決して救い主ではなく、その露払いとでもいうべき存在です。マリアの息子として生まれるイエス様こそ救い主です。人間界で低くされた者と高くされた者が、神様の御前においては逆になる、本当の神様の御心はそのような御性質をお持ちです。高くされて傲慢になっている人間の心は、神様の御心に合わないのであり、低くされた者の謙遜をこそ、神様は愛されるのです。

 

 *予想される結果の違い

ザカリアの場合、息子の誕生は長年の願いが叶うことであり、ザカリア夫婦や周囲の人々も喜んで受け入れられることです。一方、マリアの方は、婚約中であるとは言え、夫婦生活に入っていないのに身ごもるのは、婚約者や周りに姦通を疑われ、死罪も覚悟せねばなりません。だから、マリアが自分の判断では妊娠するはずがないと言って、天使の言葉を一旦否定するように答えたのに、ザカリアとは異なり、彼女は罰せられず、天使は「それは聖霊(神の霊)の業だ」と丁寧に説明を重ねます。

 

 *イエス様を巡るザカリアとマリアの役割の違い

洗礼者ヨハネは「イエス・キリスト」に対して、人々の心を霊的に準備(悔い改め)させ、また、イエス様が「救い主」としての公生涯を始める時の儀式である洗礼を授けるという重要な任務を課せられていました。つまり、イエス様のこの世における霊的準備を担う存在です。ザカリアはそのヨハネの生育を担ったわけで、イエス様に対しては間接的です。一方、マリアは聖霊を受けて胎内に「神の御子」を宿し、この世での人間という肉体を取らせて生育するという直接的な存在です。だから、母マリアの方に天使が告知したことをルカ福音書は強調したと推測されます。イエス様の母親に選ばれたマリアの「(主の)お言葉どおり、この身になりますように(38節)」という全き従順さを私達は目標にしたいものです。

12月9日の説教要旨 「洗礼者ヨハネの誕生の予告」 平賀真理子牧師

マラキ書3:19-24  ルカ福音書1:5-25

 *はじめに

 先週の主日から待降節(アドベント)に入っています。今年のアドベントとクリスマスの時期に与えられたのは、ルカによる福音書の中のイエス様の御降誕に関わる箇所です。この福音書の特徴の一つに挙げられることは、イエス様の御降誕だけではなく、救い主の道を整えるために先を歩む者として用いられた「洗礼者ヨハネ」の誕生についても大変詳しく記されていることです。

 

 *最高の預言者エリヤの再来としての「洗礼者ヨハネ」

救い主をこの世に送るという神様の約束が、預言者を通してイスラエル民族に与えられていましたが、預言者マラキは、主の御降誕の前に「預言者エリヤを遣わす」と告げていたことが、旧約聖書マラキ書3章23節に書かれています。預言者エリヤは、数々いた預言者の中でも最高に力のあった預言者としてイスラエルの民に尊敬されていました。マラキ書の「主の前に送られる預言者エリヤ」とは、かつて存在したエリヤそのものではなく、まさしく「エリヤの霊と力」を受けた人物のことです。神様は約束どおり、人間として最高の霊と力を授けられる人物の誕生を、「救い主の誕生」の事前に、確かに御自身でご用意してくださったことを、ルカによる福音書は証ししようとしています。

 

 *父親となる祭司ザカリアに天使が喜ばしい御言葉を告げる

エルサレム神殿で特別任務をしていた祭司ザカリアのもとに、天使が来て、待望の男子が与えられると告げます。けれども、人間の常識から見て、不妊だった夫婦がもはや高齢となった末に子が授かるなど、ありえないことです。ザカリアの心に、主の御言葉への不信仰を感じた天使は、「神様の出来事=洗礼者ヨハネの誕生」が実現するまでは、ザカリアは口がきけなくなるという罰を下しました。

 

 *夫ザカリアの不信仰を補った妻エリサベトの「神への賛美」

このような状況で、ザカリアの妻エリサベトは、神様の御計画を実際に身に受け、「主が目を留めてくださり、『不妊の女』(1:36)という恥から救ってくださった」と賛美したのです。祭司である夫ザカリアの頼りない態度と対比すると、当時の社会で、夫よりも低く見られていた妻、しかも汚名で苦しんでいたエリサベトこそ、主の先駆けとなるべき大事な子供の親としてふさわしい信仰を示せたと言えるでしょう。

 

 *「洗礼者ヨハネ」の役割

洗礼者ヨハネは、祭司の家系出身であり、成長過程も立派だったので(1:80)、彼こそが救い主ではないかと人々に期待されたのです。人間の知恵なら、生まれも育ちも最高の人間を救い主としたでしょう。ところが、神様の知恵ではそうならず、むしろ、人間の社会で最高レベルの人間を証し人に立てることで、後に来る神の御子・救い主イエス様が、人間より確かに優れている証しを立てさせようとされたと思われます。

生まれる前から神様に用意された「洗礼者ヨハネ」は、主の前にその道を整える者として、大きな役割が3つあったと言えるでしょう。一つめは、民衆の心を本当の神様へと立ち帰らせることでです(悔い改め)。二つめは、救い主イエス様に洗礼を授けたことです。神の御子であるイエス様ですが、公生涯を始めるにあたり、ヨハネから洗礼を受けた直後、天から父なる神様の祝福の声が降ったことが、マタイ・マルコ・ルカ福音書に記されています。特に、マタイ福音書では、ヨハネから洗礼を受けることが正しいことだとイエス様はおっしゃいました。神様の御心に適っていたのです。三つめは、無実の死の先駆けです。不義を行う領主によって逮捕されたヨハネは、酒席の戯言のために、無実の身でありながら死刑になります。この姿は、罪なきイエス様が十字架刑で死ぬ定めの先駆けとも受け取れます。現に、マタイ福音書では、ヨハネの死を受けて御自分の行く末を予感なさったであろうイエス様が、恐らく祈るために、人里離れた所に退いたことが書かれています(マタイ14章)。

 

 *「人間への全き愛」から、救い主の先駆けさえも準備なさった神様

「救い主御降誕」のため、神様は、その先駆けとなり、この世での霊的な準備をする役割の人間(洗礼者ヨハネ)を最初から準備なさいました。それは、人間の救いを心から願う「神様の全き愛」から生じたのです。私達も、主の御降誕に備え、心を込めた準備ができるよう、祈りましょう。

11月18日の説教要旨 「オリーブ山での祈り」 平賀真理子牧師

詩編75:2-11 ルカ福音書22:39-46

 *はじめに

 今日の新約聖書箇所は、マタイ福音書とマルコ福音書で語られている「ゲツセマネの祈り」の出来事が記されています。エルサレムの東の方の郊外に「オリーブ山」があり、恐らく、その一画が「ゲツセマネ」と言われ、イエス様はエルサレム滞在中は、そこを祈りの場として、よく用いられたということでしょう。イエス様が十字架にかけられる直前、弟子達を連れ、ここで熱心にお祈りなさったと、ルカ福音書を含めた3つの福音書は大事に語り継ごうとしています。

 

 *ルカ福音書の「オリーブ山での祈り」の特徴(他の福音書との違い)

上記の他の2つの福音書での「ゲツセマネの祈り」では、「3人の弟子の選び」や「3弟子の疲れによる居眠りを主が3度発見すること」などが記されています。しかし、ルカ福音書ではそれには触れず、別のことを伝えようとしているようです。それは、イエス様の祈りの真剣な御様子と、「弟子達が眠り込んだのが、悲しみの果てだったこと」です。

 

 *御自分の使命を悟りつつも、弟子達と共に祈ることを望まれた主

弟子達との最後の晩餐が済み、いよいよ十字架への定めが間近となった中で、イエス様はオリーブ山のいつもの場所へイエス様は行き、弟子達も従っていきました。そこで、イエス様は、弟子達に「誘惑に陥らないように祈りなさい」と指示なさり、御自分は石を投げて届く距離で、一人で祈り始められたのです、イエス様は、天の父なる神様に、まず「父よ」と呼び掛け、迫る「十字架の定め」を取りのけてほしいと祈られました。十字架にかかることは、救い主としての御自分の大いなる使命で、 人々の罪を肩代わりすることです。しかし、この世で人間の肉体を持って歩まれていたイエス様にとって、十字架上で刺し貫かれることは想像するだけでも恐ろしく、できれば避けたいと思われたことでしょう。こんなギリギリの状況を、弟子達と一緒に祈りつつ、乗り切れたら!とどんなにか望んでおられたことでしょうか。

 

 *サタンの誘惑に陥り、主と共に祈り続けられなかった弟子達

しかし、弟子達は、イエス様の預言どおり、サタンの誘惑に陥りました。ルカ福音書では「悲しみの果てに眠り込んでいた」とあります。彼らは、イエス様の祈りや御様子から、近い将来の危機を察知し、「大きな悲しみ」=「自分の思い」に捕らわれ、神様に頼ることを忘れたために、サタンの仕組んだ「睡魔」に負け、大事な時に眠り込む失敗をしたと言えるでしょう。イエス様と弟子達とのこの世での最後の祈りの場面で、サタンは、主と弟子達の一致を邪魔し、その間を裂く試みにおいて、一時期成功したのです!

 

 *「わたしの願いではなく、御心のままに」 

イエス様は逮捕される直前、父なる神様に「御自分の杯」=「十字架という苛酷な定め」を取り除いてほしいとの自分の願いを表明しつつも、一番大事なことは父なる神様の御心の実現だと祈ったことは、3つの福音書共に書かれています。この祈りは、私達信仰者の祈りの模範です。神様への祈りの中で、自分の願いを勿論打ち明けてよいのですが、最終的には、父なる神様の御心が実現されるように!という姿勢が重要です。なぜなら、これこそが、自分が一番でなければ許せないサタンには決してできない祈りであり、神様最優先のイエス様と弟子達だけができる姿勢だからです!

 

 *「天使の出現」と「イエス様の苦悶」

イエス様の祈りの御言葉と謙虚な姿勢を、天の父なる神様がどんなに喜ばれたかが、ルカ福音書だけに明示されています。それが43節です。「天使が天から現れて、力づけた」とは、天の父なる神様が御自分の御心に適った祈りをしたイエス様を応援なさったこと示しています。これだけ考えれば喜ばしいのですが、実は、同時に、イエス様の十字架への道の確定を父なる神様が示されたわけです。天使の出現でそれを悟ったイエス様だから、44節にあるように、御自分の身の上に起こる十字架刑の現実を前に、より一層苦悶し、だからこそ、神様に頼って、より一層切実に祈られたのです。

 

 *「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」

イエス様は、弟子達と歩んだ御経験から、人間の弱さをよくご存じの上で、それでも「(霊的に)起きて祈っていなさい」とおっしゃいました。十字架と復活によって既にこの世に勝利したイエス様が、弟子たる私達に期待してくださっているのですから、この御言葉を守ることに励みましょう。

11月11日の説教要旨 「実現する預言と弟子の備え」 平賀真理子牧師

イザヤ書53:6-12 ルカ福音書22:31-38

 

 *はじめに

 今日の新約聖書箇所の前半の段落では、残念なことに、イエス様の一番弟子と目されるペトロさえ、サタンからの厳しい試練に遭うというイエス様の預言と、それに対して、ペトロ自身は、イエス様の預言よりも、自分の覚悟を信頼していたことが示されています。人間的に考れば、ペトロにいささか同情したい気もします。しかし、イエス様は、迫り来るサタン(の試練)に対して、弟子達に気づかせて、備えをさせることの大いなる必要に迫られていたのだと気づかされます。

 

 *ルカ福音書22章に度々現れるサタン

ルカ福音書では、4章13節にあるとおり、イエス様に対しても試練を挑んだサタンは「時が来るまでイエスを離れ」ました。そして、再び、イエス様の御許へサタンが来る時がいよいよ来たのです。22章でのサタンの動きは、3節では「十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに入った」とあり、31節では「ペトロや弟子たちをふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とあり、53節ではサタンは「闇」と表現されています。こうして、この世の長サタンがイエス様をこの世から排除し始めたことをイエス様は御存じだったのです。

 

 *神の御子・救い主イエス様や弟子達に必死で試みるサタン

もちろん、イエス様はサタンの支配するこの世に勝利されますが、しかし、サタンは負けまいと必死で抵抗することもイエス様はわかっておられました。その勢いは大変激しく、イスカリオテのユダの裏切り、ペトロの一時的な裏切りだけでなく、イエス様御自身も十字架で死ぬことにならなければ、サタンは納得しないというものでした。

 

 *主が、サタンの試練に弱い弟子達のために祈ってくださる!

すべてがおわかりだったイエス様は、サタンの試練に抗しきれない弟子達を責めるつもりではなく、励まそうとなさっていたと読み取ることができます。ペトロが(弱さ故に)イエス様を知らないと言ってしまう事態になっても、絶望しないでほしいとイエス様は願っておられるのです。なぜなら、「立ち直って、兄弟(信仰における仲間)を力づけてやりなさい」(32節)とペトロに主が期待されているからです。だから、イエス様はペトロのために「信仰が無くならないように祈った」とおっしゃいました。主は弟子のために祈ってくださるのです!実は、これは、時空を超えた弟子たる私達も該当します、つまり、私達は主に祈られているのです!

 

 *主は「弟子達すべてがサタンの試練を受ける」と心配なさった

ペトロと同じような試練が、他の弟子達にもあることを御存じのイエス様が、弟子達に語られたのが、35節以降の(今日の箇所の後半の)段落です。

かつて、サタンがイエス様を離れていた時になされた「弟子達の福音伝道旅行」の恵みを思い起こすように主は語られました。この時にはサタンの妨害はなく、主の恵みや御力が弟子達に及んだのです。ところが、主がこの世に不在となって、サタンの攻勢が激しくなれば、必需品を備えることすらも困難になると、イエス様は心配なさったのでしょう。御自分の救いの御業が完了するまでの間、弟子達は「犯罪人の一味」と見なされ、社会から疎外されて苦難の道を歩むことになると予知なさっていたのです。

 

 *主の御言葉と主の御心と弟子達の備え

もちろん、イエス様は犯罪人ではないし、罪もない御方です。しかし、イザヤ書の「主の僕の苦難と死」の預言(52章13節―53章12節)が、父なる神様の御心にある「救い主の姿」であるとイエス様だけが御存じで、37節にあるとおり、人間の罪を背負って苦難を味わう「救い主」の預言が、御自分の上に実現し、弟子達にその現実が迫り、彼らが試練を受けることを心配なさったのです。弟子達は、36節の主の御言葉を受け、特に、剣に注目して「二振りある」と答えました。イエス様は、弟子達が「主の不在」という不安の中、備えとして剣の所持を許可なさっただけで、その使用は望んでおられなかったはずです。しかし、すぐ後の「主の逮捕」時に使用され、被害者の癒しをイエス様がなさる出来事が起こります。主の御言葉に従うつもりでも、人間は、主の御心を理解できずに、自分の都合のいいように解釈して利用してしまう弱さが示されています。主の預言(御言葉)の奥にある「主の御心」を理解したいと祈り求めつつ、私達は、信仰上の備え(「霊の剣」=神の言葉 など ※参照:エフェソ書6:10-20)を怠りなく進めたいものです。

10月14日の説教要旨 「使徒たちへの愛」 平賀真理子牧師

民数記12:1-8 ルカ福音書22:24-34

 

 はじめに

 イエス様は、「最後の晩餐」の時には、御自分の十字架の使命を悟っておられました。それで、御自分の亡き後、信仰者たちが この時の「晩餐」の記念(「聖餐式」)を受け継いでいけるように示していかれました。それまで、イスラエル民族は「過越祭」を継承していましたが、新しい「過越の食事」として、イエス様御自らが「聖餐式」を定めてくださったのです。ここで注目したいことは、イエス様は使徒たちに、1つのパンを裂いて与え、1つの杯から葡萄酒を回し飲みするように、給仕なさったことです。

 

 一つになるべきなのに、早速、分裂し始める使徒たち

十字架で犠牲になった一人の主であるイエス様から恵みを分かち合うという意味を持つ「聖餐式」の制定時に、ルカ福音書では、主は使徒たちの中から裏切り者が出ると告げられたと記します。言われた使徒たちは、誰が主を裏切ろうとしているかについて論争を始めましたが、次第に脱線していきます。常日頃からの疑問「12使徒の内、誰が一番偉いのか」という問題です。「聖餐式」がこの世で行われるようになって、神様にとって喜ばしいことが始まったのに、この世の長であるサタンが早速、神様側の出来事を妨げ始めたのでしょう。1つの主から分かち合う喜びを味わったはずなのに、使徒たちは「競争心」に付け込まれ、もはや分裂の危機にあるのです。このことにイエス様はお気づきになり、そうであってはならない理由を新たに教えてくださったのです。

 

 「一番に偉くなりたい動議」

私達人間は「偉くなりたい!一番になりたい!」という願望を持ちやすいものです。偉くなって、世の中のために粉骨砕身頑張るつもりでしょうか?多くの人がそうではなく、偉くなって、自分の欲望どおりの生活をして、自分の力を示したいと考えるのではないでしょうか。しかし、欲望まみれの人間が次々と現われ、先にその座についている人を蹴落とそうとし、そのグループの団結は崩壊します。だから、ふつうは「偉くなろうと思うな!」という教えになりそうですが、イエス様はそうではなく、偉くなりたいという動機を神の民として正しい方向へ導かれたのです。つまり、偉くなるのは、周りの他の人々に仕えるためであると教えてくださったのです。そのように語るイエス様御自身が、「聖餐式制定」の時、御自分でパンを割き、杯を回す奉仕をなさって、模範を示されました。更には、「十字架上での死」こそが、究極の奉仕と言えます。自分の命を犠牲にして、私達のような罪深き人間に奉仕されたのです。

 

 「神の国の民」は分かち合ったり、仕え合ったりする喜びで満たされる

更に、イエス様は、神の国の偉くなりたいルールに従う者には、御自分と共に食事の席に着き、イスラエルを治める王座に座る権利をくださると約束してくださいました。しかし、ここで誤解してはなりません。神の国で欲望まみれの暮らしができるということではありません。イエス様の十字架と復活の恵みの素晴らしさを理解している信仰者は、イエス様と同じように、神の国のために何か奉仕をしたいと思う人間であるというのが大前提になっています。将来、好き勝手な生活が保証されるから信じるというのでは「御利益宗教」の域を出ませんし、イエス様の伝えた「神の国の素晴らしさ」は、そんな欲望に由来するものではありません。他の人々に奉仕したいと願う者が集まる群れで「主において一つ」となり、分かち合ったり、互いに仕えたりする喜びで満たされるのが「神の国」です。

 

 使徒たちに、謙遜で、限りない愛を示されたイエス様

「神の国」の民として、別の言い方では、「謙遜」という姿勢が求められると言えます。聖書での「謙遜」とは、ただ「腰が低い」というものではありません。悩み苦しむ者と同じ立場になり、そのような人々を救い出そうとする「本当の神様」が居てくださり、そのような神様なくして自分は存在しない、そのような信仰が「謙遜」と言われるのです。そのような神様を仰ぎ、そこから自らを省みてへりくだるのが、真の信仰者です。

先の問答の直後に、イエス様はサタンが使徒たちを試みるし、その一人シモン・ペトロもその試練を受けると預言なさいました。ペトロは、主の御言葉より、自分の言葉を信じようとしましたが、実際は、主の御言葉が実現しました。そんなペトロのために、主は祈り、励ましてくださいました。主は使徒たちに、謙遜で、限りない愛を注いでくださる御方なのです。

10月7日の説教要旨 「世界に広がる『主の晩餐』」 平賀真理子牧師

出エジプト記24:3-8 ルカ福音書22:7-23

 はじめに

 今日の新約聖書の箇所として、2つの段落が与えられました。1つ目が「過越の食事を準備する」、2つ目が「主の晩餐」と見出しがついた段落です。

 

「過越の小羊」

まず、1つ目の段落「過越の食事を準備するという段落を読みましょう。イエス様と弟子達一行は、イスラエル民族の大事な宗教行事である「過越祭」に合わせて、神殿のあるエルサレムに来られました。「過越祭」は、イスラエル民族が神様の助けによって救われた出来事を記念するお祭りです。彼らの祖先がかつてエジプトで奴隷として苦役を強いられていた時、神様の助けを祈っていたところ、実際に神様がモーセというリーダーを立て、数々の奇跡を起こし、イスラエル民族をエジプトから脱出させてくださったことを記念するお祭りで、代々伝えられていました。

その奇跡の中で、エジプト脱出直前の奇跡こそ、最も印象深い奇跡です。それは、「本当の神様」が、イスラエル民族の脱出を拒むエジプトの地で、初子が死ぬという災いを起こす計画を立て、モーセを通して事前に知らされたイスラエル民族だけが、「小羊の血の印」によって、「初子の死という災い」を過ぎ越したという奇跡です。エジプト人の方は、王様の初子である世継ぎの王子から庶民の初子まで、死ぬという災いを過ぎ越せずに、死んでしまったのです。エジプト王は「過ぎ越しの奇跡」を体験して、とうとうイスラエル民族が自国から出て行くことを許さざるを得なくなりました。イスラエル民族は、この時の出来事を象徴する物(食事など)を再現しながら、神様による救いを毎年思い起こしていたのです。

「過越祭」の際には、親しい人々と「過越の食事」をして、出エジプトの出来事を思い起こし、神様に感謝を献げます。イエス様も、この世における最後の「過越の食事」を愛する弟子達と共にすることを本当に望んでおられたようです。そして、この「最後の晩餐」がどのように行われるか、その様子が具体的に、既に見えておられたようで、その準備をどうすべきかを、二人の弟子に、確信をもって指示することがおできになったのです。そして、実際、そのとおりのことが実現したことが、1つ目の段落に証しされているわけです。将来のことを言ってそのとおりのことが実現していくのは、言った御方が神様である証拠となります。

 

「主の晩餐」

イエス様はこの「最後の晩餐」の挨拶で、まず、御自分が苦難に遭うことを告げておられます(ここでも「十字架の予告」)。その上で、使徒たちとの「最後の晩餐」を「切に願っていた」(15節)のです。主は、この「最後の晩餐」がこの地上における「神の国の食事」の最初として、とても意味があると思っておられたからです。それと同時にイエス様は、この世での「神の国の完成」の時に、弟子達との晩餐を味わおうと決心なさっておられ、それまでは「過越の食事は摂らない」と決意されている、それほど、神の国の完成を待ち望んでおられるということが16節と18節の御言葉から分かります。

更に、19節20節は、私達が「聖餐式」の時に宣言される式文の源の御言葉で、「主の記念」として聖餐式は行われるべきだと再確認させられます。

この意味を正しく理解する弟子達が晩餐に与(あず)かるのに相応(ふさわ)しい者達です。

 

わたし(イエス様)の血による新しい契約,

20節で、イエス様は御自分の血を表す葡萄酒が「新しい契約」を意味すると語られました。古い契約では、過越の小羊の血が、神様の救いの印と受け取られました。しかし、神様が新しく立てられた契約では、神の御子イエス様が十字架で流される血を、神様の救いの印として受け入れるように、神様は人間に期待なさっていると受け取れると思います。

 

 「聖餐式」に与かる人々が増えるようにという願い

 御言葉の理解も大事ですが、人間として生きたイエス様は、主の恵みを人間が感覚でも味わえるように「聖餐式」を制定なさいました。この大事な席で、使徒の中に裏切り者がいると主は語られました。それはイスカリオテのユダであり(22:3)、直接的には彼のせいで、主は捕まって殺されました。罪の頑なさに悲しさを禁じ得ませんが、そんな人間に対する主の愛は無限です。主は御自分の犠牲をも厭わず、神の国の完成を熱望しておられます。主の御心を実現するために「聖餐式」に与かれる人々が増えるように、また、私達信仰者がそのために用いられるように、祈り求めて参りましょう。