2022年1月2日の説教要旨 詩編89:2-15・ルカ福音書2:41-52

*はじめに

イエス様誕生の喜ばしい知らせを受けたのは、ベツレヘムで人々からあまり良い評価を受けていない立場の羊飼い達であり、神様は、この羊飼いをイエス様誕生の出来事を言い伝える人として選ばれています(ルカ福音書)。

さらに東方では、ユダヤ人の王となる「星」を見つけた異邦人の、占星術の学者達がエルサレムにいるヘロデ王を訪れて、メシア誕生の場所を尋ねました(マタイ福音書)。ヘロデ王は、祭司長達や律法学者達に調べさせ、預言書からユダヤのベツレヘムであることを知り、学者達に伝えました。学者達が出発すると東方で見た星が前を進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。学者達はこうしてイエス様を拝し、贈り物を献げました。

*公現日

このように幼子イエス様はユダヤ人だけではなく、異邦人(ユダヤ人以外の外国人)にも現れて下さいましたので、この時を「公現日」(顕現日)として記念し、クリスマスから12日後にあたる1月6日にお祝いします。

羊飼いや、東方の博士達がイエス様に出会い、喜ばしい知らせ、素晴らしい体験をしたのと同じような喜びが本日の旧約聖書に記されています。『主の慈しみを とこしえに わたしは歌います。 わたしの口は代々に   あなたのまことを告げ知らせます』(詩編89:2)。

告げ知らせます

元の言葉は「知る」、「理性的に知る、経験を通して知る、人格的に知る」という意味があります。人々が神様とのかかわりを通して、神様との体験、神様との出会いによって、神様のことを他者に告げる、知らせる、という意味です。つまり、わたしたち、神様を信じる者達が、神様と実際に出会い、神様が行われる 偶然とも思えるような出来事、素晴らしいわざ(しるしや不思議や奇跡)を、自らが体験する、その場所に入る、出会うことによって、本当の神様、生きたまことの神様、喜ばしい知らせ、聖書の言葉を、他の人にも教える、告げ知らせるということなのです。

 特に2節では、神様から与えられた私の口を使って、神様は真実であること、まことであること、本当で変わることのない絶対的な神様が存在すること、揺るぎなく、昔も今も、これからもずっと続く永遠の神様がいて下さると告白し、宣言することが大事だと記しているのです。

*神殿での少年イエス

 本日のルカ福音書には、イエス様の両親(ヨセフとマリア)は、毎年、過越の祭にエルサレムに行かれていたこと、そしてイエス様が12歳になった時、両親はイエス様を連れてエルサレムに行かれた時のことが記されています。<当時は13歳で大人の仲間入り(神の民の一人となる)をして、掟、律法を守って生きる(聖書に従って歩む)者となります>。

祭りが終りヨセフとマリアが帰路に着いた時、途中でイエス様がいないのに気づき、捜しながらエルサレムに引き返し、神殿の境内でイエス様を見つけました。心配して捜していたマリアに、イエス様は、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われました(49節)。

*父の家

両親にはこの言葉の意味が分かりませんでした。イエス様が父の家にいること、イエス様は父なる神様から生まれ、父が住まわれる聖なる神殿にいるのは当たり前であり、それ以外の場所は考えられないことを両親はまだ気付いていなかったからです。このことからも神様、イエス様は、神様が用意して下さっている場所、神様が備えて下さった礼拝場所には、神様がおられる、宿っていて下さることが分かると思います。

*わたしたちの教会

 私達ひとり一人、神様から造られた者達です。その神様から造られた者たちが一緒に集まる場所、神様がおられる所に集まるのは当然のことです。各々に与えられた場所で、個人的な神様との交わりの時間も必要ですし大事なことです。しかし、共に集まり共に祈る、共に励まし合い、教会「礼拝を共にし、主に在る交わりの場所」ではないかと思います。

12月12日の説教要旨 イザヤ書7:10-17・ルカ福音書1:26-38

「主イエスの誕生の予告」    加藤秀久 伝道師

*はじめに

本日のルカ福音書は、洗礼者ヨハネの誕生予告の続きです。神様は天使ガブリエルを祭司ザカリアのもとに遣わし、妻エリサベトに子供が生まれるとの喜ばしい知らせを伝えました。ザカリア夫婦は長年子供が与えられず祈ってきましたが、今は二人とも年をとっていました。そのような時、天使ガブリエルによって祈りが聞き入れられたことを知らされました。

それは何よりも嬉しいことであったはずでしたが、ザカリアはこの知らせに戸惑い、素直に受け入れられず、しるしを求めたため、子供の誕生まで口が利けなくなりました。

おめでとう

 6か月目に天使ガブリエルは再び遣わされて、マリアのもとに来ました。そして「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げたのです。マリアはこの言葉に戸惑いながらも、この挨拶は何のことかと考え込みます。この「おめでとう」の元の言葉は「ご挨拶申し上げます」「こんにちは」などの挨拶の時の言葉です。しかし私達の聖書も他の日本語訳聖書でも、この言葉は「おめでとう」と意図的に訳されています。

この「おめでとう」の中には、マリアだけに与えられた喜びではなく神様に創造された全ての人々に対しての「喜びの知らせ」、神様を信じる者達にとってかけがえのない、待ちに待った「喜びの知らせ」となるはずです。

*聖書で用いられる「喜び」

 ルカによる福音書10章に、イエス様から派遣された弟子達が戻って、イエス様に報告する場面があります。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します(17節)」と喜ぶ弟子達に、イエス様は、「そのことに喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と答えられています。この言葉の中に、「喜びの根源」があると思います。本当の喜びは、私達の働きや行いによって与えられる喜びではなく、神様を信じる者達が、天に名前が書き記されていることを喜ぶ「喜び」、真実を知ることが出来る「喜び」、又、このような「わたし」でも神の国に入ることができるという信仰が与えてくれる「喜び」です。この喜びの「知らせ」を受けるマリアは、「おめでとう」と呼びかけられました。

*マリアの応答

 天使ガブリエルの言葉を聞いてマリアは戸惑いましたが、その言葉を心に納めて、この出来事の意味を考えようとしています。素直で純粋に、御使いの言葉をそのまま受け入れているように思えます。自分ではよく分からない事柄に対しては、すぐに答えを出さず、それを心の中に一旦納めて、慎重に考えてから答えを出す人物だったようにも考えられます。御使いは続けて「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。・・」と語ります。マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と驚きますと、御使いは、親族エリサベツにも今、胎内に男の子が宿っていると伝え、「神に出来ないことは何一つない」と答えました。そこでマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。

ここにマリアの信仰(神様を畏れ、敬い、御使いの語る言葉を受け入れて、自分の身に成ることを待ち望む)を、私達は見ることが出来ます。

*わたしたち 

さて、私たちはどうでしょうか。主の御使いの「おめでとう」という言葉を、私たちはどのように受け止め、留めることができたでしょうか。

私たちには、イエス様の誕生日に共に集まり、心から「おめでとうございます!」と言い合える仲間や家族・友人がいるでしょうか。

又私達は、本当にイエス様のお誕生を心から待ちわびているでしょうか。

もし、この世界・この地上でイエス様の御誕生の出来事がなければ、私達を罪から救いへと至らせる道、神の国に入る道はなかったでしょう。

すべてはこのお方の登場で始まり、終わりがあります。今週一週間、私達はイエス様のことに思いを巡らせながら、共に歩んで参りましょう。

2021年5月16日の説教要旨 詩編93篇・ルカ福音書24:44-53

「主イエス・キリスト」  加藤 秀久伝道師

*はじめに

私たちが生きる世界や神話の世界では、人の手で作った神々や神格化された権力者達が多く登場します。しかし本日の詩編では、主である神様こそが王であることを宣言します。私達が信じる神様は、威厳と力を身にまとい、その支配は昔から変わることなく固く根を下ろし、決して揺らぐことがないと告白しています(1-2節)。又、潮や大水、海に砕け散る波(3-4節)という表現は、主の正しさを乱し、脅かす神話的な力、混沌とした無秩序な力を指し、しかし主は、その無秩序な力から更に高く、力強く、主の支配があることを告白しています。

 この「主」であり「王」である神様のおきては堅く立ち、人々が神様の律法を守ることにより、神殿の尊厳さは現実のものとなります。神殿には、神様に選ばれた人々の群れがあり、時の続く限り、永遠に神様を礼拝し、神様を称える神の国があることを伝えています。

*“必ず”

 本日のルカ福音書24章は三つの部分に分けることができます。一つは、準備した香料をもって墓に行った婦人達のそばに、二人の御使いが現れて、「イエス様が『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』と言われたではないか」と、婦人達に思い出すようにと言った出来事です。

 二つには、二人の弟子が「エマオ」の村に向かって歩いているとイエス様が近づいて来られた出来事です。しかし弟子達の目がふさがれていたのでイエス様と分からずに、イエス様の十字架での死や、お墓の中の遺体がなくなっていたことなどをイエス様に告げました。それを聞いたイエス様は、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と彼らに告げて、聖書全体にわたりご自分について書かれていることを説明されました。口語訳と新改訳では、「キリストは必ず、これらの苦難を受けて・・」と、“必ず”と言う言葉が入って訳されています。

*「必ずすべて実現する」

 三つめの本日の箇所では、復活されたイエス様が弟子達に現れ、真ん中に立ち、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。(44節)」と言われて、メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活すること、イエス様のお名前によって罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられること、弟子達がこれらの証人となること、を宣言されました。

*すべてが現実に起った!

 以上24章では、三か所にわたり「どうしても~ねばならない(決定的にそうなっていて変えられない)」という意味の“必ず”という言葉が使われ、この中に、すでに神様によって「そうするように定められている、計画されている、一番ふさわしい方法で起って当然」という意味を含ませています。しかも、イエス様が十字架にかかり、死なれ、復活した事実について、イエス様がすでに旧約聖書の言葉を解き明かし、ご自身の身体を通して神様の約束が現実に起ったと告げています。

*証人となった弟子たち

 イエス様はこれらの言葉を語った後、弟子達を祝福しながら昇天されました(50節~・使徒言行録1:3~11)。弟子達は、復活したイエス様を自分達の目で見たのですから、聖書に書かれていることが真実であることの証人となりました。

*わたしたち

 神様は私達にも、神様の告げた言葉や計画は、必ず実現すると約束しておられます。イエス様は、去った神様(の御子)ではなく、今も、いつも、心にすでに宿っているお方、共にいて下さるお方です。

聖書に目を留め、耳を傾け、静まってみて下さい。神様は今も、ここにおられます。神様は私達を一人にせず、たとえ拒んだとしても神様は離れません。なぜなら私達はすでに神様を受け入れ、信じているからです。

神様はそのことをご存じです。ここに希望があり、平安があります。

2020年12月20日の説教要旨     ルカによる福音書 2:8-20

クリスマス礼拝   「喜びの知らせ」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに 

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」天使ガブリエルは、羊飼い達に現れて、こう告げました。

 本日はイエス様の誕生をお祝いする礼拝を守っております。イエス様は、約2000年前、この地上にお生まれになりました。ある宿屋の家畜小屋の一角で産まれ、飼い葉おけの中に寝かされておりました。それはどの宿屋もいっぱいで泊る所がなく、やむを得ず家畜小屋に泊ったのでした。

天使ガブリエルのお告げを聞いた羊飼い達は、ユダヤの町ベツレヘムにごく近い郊外で野宿をしていました。町から離れて、羊の世話をするのが彼らの仕事でした。羊飼い達は、世間からは軽蔑されていて、おそらく存在の薄い者たちだったと考えられます。

*主の栄光が周りを照らした(9節)

 そのような羊飼い達に、主の天使が近づいて主の栄光が彼らの周りを照らして、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言いました。かつて、モーセが神の山シナイ山で神様と出会った時、厚い雲の中から突然強い光が差したような、人が立っていることが出来ないような、霊の力を伴う主の栄光の前で、羊飼い達は、強く押し迫られるような感覚に襲われて、非常な恐れを感じたと思います。

*天使ガブリエル

天使ガブリエル(神の前に立つ者の意)は、イエス様の誕生を知らせる以前にも、洗礼者ヨハネの父・祭司であったザカリアに現れています。

ザカリアが祭司の務めで香をたいていた時でした。ガブリエルは香壇の右に立ち、ザカリアに「ヨハネ誕生」という喜びの知らせを伝えました。しかし、ザカリヤはこの知らせを信じることが出来ませんでした。ザカリア夫婦は年をとっていたからです。その不信仰のためザカリヤはヨハネ誕生まで話すことが出来なかったとルカ福音書は伝えています。

*目に見える「しるし」

民全体に与えられる大きな喜び」を先に知らされたのは、存在の薄いとされる羊飼い達でした。天使は続けて冒頭の言葉(11-12節)を伝えました。メシア(油注がれた者・救い主)が生まれた知らせでした。この神様の言葉を彼らはどうやって信じることが出来たのでしょうか。羊飼いに示されたしるしは「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」でした。 ヨハネの父ザカリアは、天使の言葉を信じることができず、約束の実現まで「口がきけなくなる」しるしを与えられましたが、羊飼い達は、天使に告げられた言葉の後に、突然、この天使に天の大軍が加わり「『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』との賛美を聞きました。羊飼い達はこのことを目の当たりにし、メシア誕生が事実であることを確信することが出来たのではないかと思います。羊飼い達は天使が去った後、主が知らせて下さった出来事を見に、急いでベツレヘムへ向かい、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。そしてこの光景を見て、羊飼い達は天使が話してくれたことを人々に知らせました。

*わたしたち

この知らせを聞いた人達は不思議に思い、理解できない様子でした。しかしマリアは、これらの出来事をすべて心に納めて、いろいろ考えていました。私達もクリスマスの出来事に目を閉じて深く静かに思いを巡らす時、見過ごすことのできない何か大切なものがあること、本当の真理がここにあることに気付かなければならないと思います。羊飼い達は、ことのあまりの素晴らしさに心を踊らされて喜びに満ち、賛美しながら帰って行きました。神様が自分達に目をとめて下さり、救い主の誕生を知らせて下さった喜びこそ、私達に与えられた「クリスマスの喜び」です。この喜びの知らせを信じるか信じないかは生きる者の選択にかかっています。私達はこの喜びの知らせを聞き、イエス様の誕生を待ち望み、この場所へ導かれました。共にこの日を喜び、祝おうではありませんか。

12月29日の説教要旨

エレミヤ書29:11-14a・ルカ福音書18:18-23

わたしのもとに来なさい」 

加藤秀久神学生(東京神学大学)

*はじめに

 イエス様は、「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」と、呼びかけておられます。イエス様の呼びかけに応えること、イエス様に従うことは難しいことでしょうか? いいえ、イエス様に従うことは難しいことではありません。なぜならイエス様は、ただ幼子のように、私を信じ、従いなさい、と言っておられるからです。

*「善い先生、何をすれば・・」

本日の聖書は、この地上に富と財産を多く持つ大変な金持の議員が、イエス様に、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた場面から始まります。どうしてこの議員はイエス様に、「善い先生(優れた先生、価値のある先生)」と言ったのでしょうか。

私達が「善い、優れた、価値のある」との言葉を使う時、私達に出来ないことが、その人には出来る、という意味で使っているかもしれませんが、当時のユダヤ教指導者達の間では、この「善い」は、ほとんど使われていなかったそうです。なぜならこの「善い(優れた、価値のある)」は、神様だけが持っている「特別な性格」を表すと考えられていたからです。

*「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」

これがイエス様の最初のお答です。イエス様はこの議員に「永遠の命を受け継ぐ」ことの質問よりも前に、「善い先生」と呼びかけてきた「善い」は、何を意味しているのかをよく考えるように悟らせようとしました。

はたしてこの議員は、イエス様がまことに神の子であることを信じて善いという言葉を使ったのか? イエス様は、まず始めに「あなたは私が神の子であることを信じているのか?」と投げかけたのだと考えられます。

*永遠の命を受け継ぐ  

この議員は、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるかと尋ねています。この「受け継ぐ・相続する」という言葉は珍しい言葉で、同じルカ福音書にもう一箇所出てきます。「ある律法の専門家が、イエスを試そうとして『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』」(10:25)の場面です。「永遠の命を受け継ぐ」との質問は、律法の専門家の間でも難しい質問でした。今日の聖書の直前には、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(14節)「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(17節)と、語られたイエス様に対して、この議員も、どこか試すような気持を持ちながら質問したのかもしれません。

*「永遠の命を受け継ぐ」ためのイエス様の答え

イエス様は、先ず十戒の教え「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言われました。つまりイエス様は、「神様の恵み」を受け取るための道は既に示されており、「あなたが知っている教えられている道を歩みなさい」と、この議員に告げたのでした。

*十戒の第5戒~第9戒

イエス様は、なぜこの十戒後半を示したのか。それは、議員の返答、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」にあると思います。この議員は、子供の頃から人一倍これらの戒めを大切にして、きちんと守ってきたという自信があり、世間からも良い評判の人であったことを、イエス様はご存じだったのでしょう。

イエス様はこの議員の返答を聞いて、「あなたに欠けているものがまだ一つある」と言われました。この議員の欠けていることは、持ち物を売り払って貧しい人々に施すことだ、と言われたのです。

*イエス様の言葉の意味

イエス様はこの議員に、もっと「善い行い」をすれば、永遠の命を受け継ぐことができる」と言われたのでしょうか。そうではありません。イエス様は、「永遠の命を受け継ぐためには、根本的な考え方、あなたの考えにはない、発想の転換が必要なのですよ。」と議員に告げられたのです。「永遠の命を受け継ぐ」、「神の国に入る」ということは、善い行いをすることでも、自分の富や名誉の為に得るものでもありません。 

「神の国に入る者」とは「子供のように神の国を受け入れる者」です。ただ恵みによって主イエス・キリストの呼びかけに応え、自分の十字架を背負い、神を愛し、人を愛し、皆に仕えて生きる者です。

*議員の悲しみ

イエス様の答えを聞いたこの議員は、非常に悲しみました。なぜならこの議員は沢山のお金を持っていたからです。おそらく彼は、この地上に沢山の財産や富、また名誉や地位を築き上げることに多くの時間と努力を費やし、いつのまにか、それが自分の人生の一番大事なことになっていたのかもしれません。財産や富が悪いのではありません。一生懸命働いて、その富や財産を用いて、神を愛し、人を愛し、皆に仕える人々は大勢います。そのように用いられることは、神様からの祝福です。

 しかしこの議員は「永遠の命」の意味を理解せずに、自分の富や名誉をさらに豊かにするために「永遠の命」を自分の力で手に入れようと思っていたのではないでしょうか。もちろんこの議員は「そのような言葉は受け入れられない」と怒って立ち去ったのではなく、イエス様の答えを聞いて、「非常に悲しんだ」とありますので、イエス様の教えを真剣に受け止めようとした、この人の誠実さが伺えます。しかし彼は、イエス様の言葉を

実践する勇気がありませんでした。全てを主に委ねることができませんでした。この議員は、イエス様の「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」との呼びかけに、応えることができなかったのです。

*もしも・・

もしも、この議員が「永遠の命」が意味していることを十分に理解して

いたのなら、喜んでイエス様の教えに従ったに違いありません。もしこの議員が、イエス様こそ「善い先生」「まことの神」であると信じ、自分には出来ないと思ったならば、自分の弱さを悔い改めて、「天に富を積む道を教えて下さい」「イエス様に従わせて下さい」と、願ったのではないで

しょうか。

しかし、この議員は、イエス様の前から立ち去ってしまいました。この議員は、自分の力や、経験、行い、目に見えるものに心を向けてそれらを手放せませんでした。この議員は、天に目を向けてイエス様の言葉、神様の言葉を信じることができませんでした。

「永遠の命」こそが自分に必要なものであること、そして「イエス様こそが永遠の命を与えて下さるまことの神様」であることを信じることができませんでした。

*イエス様の呼びかけに応える

24節以降には、この悲しむ議員を見たイエス様の言葉が記されています。そして、神の国のために生きる時にこそ、本当の祝福が与えられることを教えて下さっています。

イエス様の呼びかけに応えることは難しいことではありません。

イエス様は、ただ「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」と呼びかけておられるのです。幼子が自分の名前を呼ばれたら、全てを放り投げて、その声がする方へ急いで走っていくように、私達も、ただイエス様のもとに走っていけば良いだけなのです。

*私達は・・

私達はこの一年を振り返った時に、私達の心は天を見上げて歩むことが出来たでしょうか。地上のものに心を奪われず、天に富を積み、天に宝を蓄えて、神の国の為に生きた、と言えるでしょうか。

イエス様は、私達一人一人に「私のもとに来なさい、そして私に従いなさい。」と呼びかけて下さっています。イエス様は、私たちが本当に必要なものを、全て備えてくださっています。私達は、主の声に耳を 傾け、主の呼びかけに応え、幼子のように、主に従うものでありたいと願います。新しく迎えようとしている一年もまた、主の十字架を見上げ、イエス様こそが、まことの神であることを思い、主の溢れるほどの愛を受けて、共に歩んでまいりましょう。共に励まし合い、祈り合いつつ、神の国の為に生きる者として、喜んで主に従ってまいりましょう。

3月31日の説教要旨 

エレミヤ書31:31-34 ルカ福音書24:36-53

「主の十字架と復活と昇天の証人」平賀真理子牧師

 *はじめに

ルカによる福音書の最終章24章の35節までを振り返りましょう。まず、復活なさったイエス様について、天使の証言「あの方(イエス様)は復活なさった」という「御言葉」がありました。しかし、弟子達の多くは、それだけではすぐには信じられませんでした。次に、復活のイエス様は、エマオへ向かう二人の弟子達に現れましたが、彼らも弟子でありながら、「復活の主」にすぐには気づけませんでした。主の死で絶望していた彼らに対し、「復活の主」自らが、聖書の御言葉と生前の御自身の教えを思い起こさせ、「主は復活なさった」と二人を導き、希望を与えられました。エルサレムに引き返した彼らは、自分達だけでなく、一番弟子の「シモン・ペトロ」も「復活の主」に出会ったことを知らされました

*今の御自分は「復活の主」だと弟子達に悟らせようとなさるイエス様

神の都エルサレムで、イエス様の弟子達が「主が復活された」と確信を持ち始めたその時、何と当の「復活なさったイエス様」が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と挨拶なさったことが36節にあります。これは、かつて、72人の弟子達を福音宣教に派遣する時、イエス様が弟子達にまず、そう挨拶しなさいと教えた御言葉です(ルカ10:5)。主がかつて教えた御言葉を聞いて、弟子達は、この現れた人が「復活したイエス様だ」と悟れるはずだったとも思えます。ところが、彼らはすぐには悟れず、「亡霊だ」と恐れおののき、うろたえ、心に疑いを持っているとイエス様に見抜かれました。ここでイエス様は、人間の亡霊に対する「肉も骨もない」という思い込みを逆手に使い、御自分の今の姿には「肉も骨もある」とお見せになりました。更に、「食べ物を食べる」様子をお見せになり、御自分の今の姿は、人間が今まで見たこともない「復活の主の姿だ」と悟らせようと導かれました。

*神様の出来事を悟らせるために弟子達の心の目を開いた「復活の主」

そして、「モーセの律法と預言者の書と詩編」と表現される「旧約聖書」に書かれたことは、神様から派遣された救い主である御自分のことであり、神様の御計画は必ず実現するとお語りになりました。十字架は人間的な目で見れば敗北に見えても、神様の目では勝利であり、それは神様の御栄光を現わす「復活」につながり、今、「復活の姿」でイエス様が現れたことは、これまで実現してきたことが神様の御計画であることの証明だと説明なさいました。けれども、無限なる神様の出来事を理解する知恵を、有限なる人間は持っていません。主から助けていただかなければ、悟れないのです。それで、イエス様は弟子達の「心の目を開いて」(45節)、自ら、聖書の解き明かしをしてくださったのです。

*罪の赦しを得させる悔い改めがイエス様の御名によって広まる

 旧約聖書は「救い主の受難と死と復活」を預言しているが、そのような父なる神様の御心に従ったイエス・キリストの御名のゆえに、悔い改めた全ての人間の罪の赦しが可能になり、それが世界に確実に広がるのだとイエス様は預言なさいました。同時に、「復活の主」に出会った弟子達こそがイエス・キリストの御名による救いの証人となると預言されました。しかし、そのために、弟子達は、人間的な力を出して頑張る必要はありません。イエス様による救いは、神の都エルサレムにいる弟子達が、父なる神様から与えられると約束されたもの「神の霊=聖霊」を受け取った後に広められるようになるとイエス様は預言なさいました。これは、ルカ福音書の続編である「使徒言行録」の1章―2章に証しされています。そして、約二千年かけて福音が世界に広まった歴史、その中でも特に、時間も距離も離れた私達が、イエス様の御名によって救われた事実を見れば、主の預言が確かに実現していると理解できると思います。

*主の十字架と復活と昇天の意味を知り、主の証人として用いられる
最後に、イエス様は天に昇る姿を当時の弟子達に見せ、御自分が「神様と同じ地位に帰る」と示されました。これらの証言を信じる私達皆(みんな)が「主の十字架と復活と昇天の証人」として福音伝道を託された弟子なのです!


 最後に、イエス様は天に昇る姿を当時の弟子達に見せ、御自分が「神様と同じ地位に帰る」と示されました。これらの証言を信じる私達皆(みんな)が「主の十字架と復活と昇天の証人」として福音伝道を託された弟子なのです!

3月24日の説教要旨

詩編34:16-23  ルカ福音書24:28-35

「主の復活③」 平賀真理子牧師

*はじめに

今日の新約聖書の箇所は、13節の前の見出し「(イエス様が)エマオで現れる」の記事の後半部分です。前回の説教で話した前半部分を思い出しましょう。エルサレムから北西に離れたエマオ村への道中で二人の弟子達が「復活の主に出会った」のですが、もったいないことに、彼らはその御方がイエス様だと気づかないままでした。

*エルサレムの出来事への弟子達の無理解

 「主の十字架」「御遺体の埋葬」「3日目の空(から)の墓」「『イエス様は復活なさった』という天使の証言」等の出来事は、その二人の弟子達にとって、大変衝撃的な体験でした。後の時代の私達は、「だからこそ、神の御子救い主イエス様!」と思えます。本当の神様からの救い主であるイエス様は預言どおり「苦難の僕」として歩み、その極致として「十字架」に付けられたこと、更には、御自分の苦難を前にしても、父なる神様に従う従順さを示したので、未だ誰にも与えられなかった「復活の栄誉」を神様からいただいたことを私達は知っています。ところが、エマオへの道中の弟子達はそうとは知らず、「暗い顔をしていた」(17節)のです。生前のイエス様御自身から「受難と死と復活」について3度も聞いたにもかかわらず、彼らはその本当の意味がわかりませんでした。彼らが特別愚かだったのではなく、「意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できないようにされていた」(18:34)とルカ福音書にはあります。

*神様の御業を理解できない弟子達に助けの手を差し伸べる主

 エルサレムでのイエス様にまつわる一連の出来事は、神様がなさった出来事であって、それは、限界のある人間の理解力だけでは、到底理解できないことです。無限の神様のことを有限である人間が理解するためには、神様側からの助けがなければ無理です。それで、「復活の主」が愛する弟子達の所に自ら来てくださり、落胆した彼らが本当の意味を理解できるように、助けの手を差し伸べてくださったのです。

*神様の御業の恵みを理解する助け(一つ目)「主の御言葉」

 その助けの一つが「主の御言葉」です。旧約聖書にある「主の御言葉」=預言者達の預言、及び、先述のイエス様御自身の預言(受難と死と復活)を「復活の主」(彼らはまだ気づいていませんが)自らが解説してくださったことが、神様の特別な助け(一つ目)なのです。

*神様の御業の恵みを理解する助け(二つ目)=「パン裂き=聖餐式」

 食事の時に、イエス様は、二人の弟子達に「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)のです。「すると、二人の心の目が開け、イエスだと分かった」(31節)とあります。「主」がそうなさったと言えるでしょう。同時に、人間的に考えても、彼らが復活の主と気づいたことは説明はできます。祈ってパンを裂くという御様子を見て、彼らは「5千人の給食」(ルカ9:16)や「主の晩餐」(ルカ22:19)での主の御姿を思い起こしたのでしょう。特に、「主の晩餐」で、主は十字架上で裂かれる御自分の肉体を想起させるものとしての「パン」、そして、十字架上で流される血潮を想起させるものとしての「葡萄酒」、これらを味わうことを聖礼典として弟子達が継承するように制定なさいました。この聖礼典、即ち「聖餐式」は、主の十字架だけでなく、主の復活の栄光をも示し、神様の救いの御業の恵みを弟子達が理解するために主が用意なさった助けであると捉えられます。

*「復活の主」との出会いによって、朽ちぬ希望に満たされた弟子達  

ここで、彼らが「復活の主と出会った」と認識した瞬間に、主の御姿は消えたのに、彼らは今度は絶望しなかったことに注目です。彼らは「復活の主」と出会った後は「心が燃えていた」(32節)と自覚し、朽ちぬ希望を得たと感じたのです。それだけでなく、彼らはエルサレムから離れるのを止め、逆に戻りました。180度の方向転換です!更には、一番弟子でありながらイエス様を3度も知らないと否認した、罪深いシモン・ペトロにも「復活の主」が現れてくださった恵みが知らされました。「復活の主に出会った」という弟子達の2つの証言により、「復活の主」が弟子達に現れてくださる恵みが真実だと認識され、弟子達の心は絶望から希望へと変えられました!

3月17日の説教要旨

イザヤ書53:6-12  ルカ福音書24:13-27

「主の復活②」 平賀真理子牧師

*はじめに

ルカによる福音書を読み進めてきて、最終章の24章に入っています。最初の段落では、墓に納められたはずのイエス様の御遺体が消えていたという驚きの記述から始まっていました。しかも、直後には、天使達が「主は復活なさった」と告げたこと、その証言が女性信徒達から使徒をはじめとする男性信徒達に告げられたけれども「たわ言」だと思われたことが記されていました。(しかし、この段階では「復活の主」はまだ誰にも現れておらず、「主は復活された」との証言だけが先に存在しています。)

*エルサレムからエマオ村への道中で「復活の主」が顕現なさった!

 この一連の出来事を体験した男性信徒の内の二人が、エマオ村へ向かう道中で経験した出来事の前半が今日の新約聖書箇所です。約二千年前のエマオ村を、今は特定できないそうですが、候補地は3か所ほどあって、3つ共に、エルサレムから北西の方角に十数キロ、もしくは数十キロといった場所のようです。この二人はエルサレムから北西方面へ歩いていたとイメージできます。そして、ついに15節で、復活なさったイエス様が彼らの目の前に顕現なさったことがわかります。

*「復活の主」だと悟れない弟子達

 ところが、イエス様は御自分が復活してこの二人の弟子達に現れていることを、御自身から言い表さず、彼らが話題にしていることについて第三者として質問なさいました。弟子達も「復活の主」に会っていながら、イエス様だとすぐには気づかず、見知らぬ人の質問に答える形で、エルサレムでイエス様を中心に起こったことを語りました。ここで明らかになったのは、彼らはイエス様を「力ある預言者」(19節)、もしくは「イスラエルを解放してくださる御方」(21節)と解釈していたことです。更に、彼らは、ユダヤの指導者達がイエス様を死刑にしようとしたことに対抗できなかった無力感、希望の星「イエス様」を失った失望感、「主が復活した」という仲間の証言への不信感などのマイナスの感情に捕らわれていたことが想像できます。人間的感覚で言えば、最後の拠り所と考えられるご遺体さえ見当たらないのですから、彼らの絶望の度合いは深かったのでしょう。しかし、このような状態の彼らは、主の弟子とは言えません。彼らはあまりにも人間的な解釈に捕らわれていたので、25節で、主は彼らに向かって「物分かりが悪く、心が鈍く、預言(神様からの御言葉)すべてを信じられない者たち」(25節)とおっしゃったのです。

*預言や旧約聖書全体に証しされていた「苦難の僕」の道を歩む救い主

イエス様の弟子である彼らは、主の生前に、神様からの救い主とは「苦難の僕」の道を歩むということを既に学んでいたはずでした(イザヤ書52:13-53:12)。イエス様御自身の御言葉としての「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだ」(26節)は、弟子達にかつての学びを思い出させようという思いが溢れた表現だと思います。そして、この二人の弟子達に、本当の神様から派遣された救い主は、かつての預言者達の預言や旧約聖書に確かに預言されていて、イエス様の歩みそのものだと、再び気づかせようとなさったのです。それは、人間が思い描く「自分の利益や権威だけを欲する王様」のような救い主ではないし、弟子達もそのように誤解するような心構えでは、「復活の主」が目の前に現れても気づけないと示されています。弟子達(後代の弟子である私達を含む)は、救い主の出来事についての考えが主と一致していなければ、出会いの恵みに気づけないのです。

*「復活の主」に気づくために「御言葉」を学び続ける

イエス様の救いの御業の主要な出来事として、主の十字架をもちろん、挙げることができます。それは、私達の罪を、主が代わりに背負ってくださったという意味があるからです。しかし、そこで終わりではありません。その先に、神様がイエス様に栄光を賜った証しとして「主が復活」があります。「復活なさった主」は御自分が受けた「神様からの栄光」を弟子達と分かち合いたいと願って近くに来られるのです。私達は、神様からの御言葉を学び続けて、復活の主に出会う喜びに目覚め続けていたいものです。

3月10日の説教要旨

箴言2:1-12・ルカ福音書4:1-13

「世に打ち勝つ信仰への道」    佐藤 義子

*はじめに

キリスト教の暦では、先週の水曜日から受難節に入りました。受難節は、日曜日を除く40日間です。私達の伝道所では、この時期、「イエス様が私達の為に受けられたご受難を覚えて、克己、修養、悔改めの特別期間として過ごしましょう!と呼びかけています。皆様は、受難節をどのようにお過ごしになっておられるでしょうか。

*伝道するに先立って起こった出来事

 今日の聖書は、一般に「荒れ野の誘惑」として知られている出来事で、イエス様がバプテスマ(洗礼)を受けられた直後に、荒れ野に導かれて40日間の断食後、悪魔から3つの誘惑を受けられた時の話です。すなわちイエス様がこれから人々に向かって伝道していく、その大事業を始められる直前に、イエス様は悪魔から誘惑を受けるのです。

伝道とは、言い換えれば、神様から離れている人々に、神様の所に戻るように呼びかけることです。イエス様はこの伝道という大事業を始めるにあたり、どのような仕方(姿勢・方法)でなされるべきかを、この悪魔の誘惑への応答を通して私達に明らかにされています。そしてイエス様の昇天後も、この伝道の姿勢は弟子達から全世界の教会へと継承され、私達の伝道所も又、イエス様の教えに従って、伝道を続けていきたいと思います。

*第一の誘惑「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。

「石をパンに」の誘惑は、伝道の手段として食料(物質)を与えるという方法です。震災などで食料が不足していた時、どこかで「パンを配ります」の声が聞こえれば、たちまち多くの人々が押し寄せました。パンに限らず、いつの時代でも人々の関心は衣食住、すなわち物質に向けられています。悪魔はこのことを良く知っており、イエス様に、石をパンに変える奇跡をもって、ご自分を神の子と示せば、あなたは苦労しなくても、人々を神のもとに導ける、と誘惑したのです。この誘惑に対してイエス様は、(申命記8:3)「人はパンだけで生きるものではない」。「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」を引用されました。この言葉は、神様がモーセを通して語られた言葉です。

*生きるのは、肉体だけではない

  私達は「生きる」と言う時「目に見える体の命」を考えます。それ以外に「魂」とか「霊」と呼ばれる目に見えない命があることまでは考えず、教えられなければ知らないままです。それを教えてくれるのが聖書です。ある神学者は「人には肉体の他に霊性が与えられているのに眠らせたままで死んでいく人が多い」と書いています。何ともったいないことでしょう。たとえ病気になり体が動かなくなったとしても、霊の命が健やかであれば、人間として生き生きと生き続けることが出来るのです。

  この霊の命が目覚めて活動するのは、命の与え主である天地創造の神様に出会った時です。聖書を通しイエス様の言葉を通して、私達がイエス様を信じて、それまで離れていた神様の方に向き直り、神様を信じた時に、霊の命は眠りから覚め、私達に大きな変化をもたらしていきます。

 

*霊の命が目覚めると・・

田原米子(たはらよねこ)さんの証しを紹介します。米子さんは母親の死をきっかけとして、生きることに希望を見いだせず高校3年生という若さで、新宿駅のホームから終電車に向かって飛込み、鉄道自殺をしました。その後、救急車で運ばれ、一週間の昏睡状態のあと目覚めます。目覚めて見たのは、自分の両足も左腕もなく、右手の指3本だけでした。「こんな体では生きていけない」と、彼女は、医者から処方される睡眠薬をこっそりためて死ぬことだけを考え続けました。そのような彼女が、担任教師の知人という見知らぬ宣教師と通訳の二人の訪問を受けたことを通して、神様の言葉に触れます。やがて信仰が与えられて、その後に夫も与えられ、さらに娘二人にも恵まれ、家庭を通して、さらに伝道旅行を通して、神様のことを宣べ伝えています。(私も直接、彼女の証しを聞きました)。  

人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4::4)のです。

*第二の誘惑「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。もしわたしを拝むなら」

 もしも悪魔に頭を下げるならば、この世界を自分の支配下におき、自由自在に自分の思い通りに動かすことが出来るようになる、という誘惑は、自分の内にある<神様の居られるべき場所>を、<悪魔に明け渡す>との交換条件を求められています。この誘惑に対してイエス様は、(申命記6:13)「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、そのみ名によって誓いなさい。」を引用されました。この申命記6章は「シェマー」(聞け)から始まっており、神様を唯一の主として日々告白することを命じています。それゆえ悪魔に頭を下げるということは、神様の御支配から抜け出して悪魔に仕えることを意味します。

*「主にのみ仕える

イエス様には神様への無条件の信頼と完全な服従がありました。神様が下さるものは、それが神様の栄光にあずかることであっても、逆に十字架への道であっても、それを「ただ受け取る」という生涯を歩まれました。 

私達日本の国は、数えきれないほど人間の手で作った偶像があります。又、ご先祖様を仏様として拝む対象としています。又、神社の鳥居をくぐる時も手を合わせる風景をテレビなどで見ます。神社では大木などを中心に、神の霊が宿っていると考えるわけですが、そのような文化、習慣の中に、私達日本人は置かれています。又、戦前は天皇も現人神(あらひとがみ)として生きた神として拝むことを強要されましたから、キリスト教徒は「主にのみ仕える者」として官憲からにらまれ、手を合わせないことで不敬罪は成立し逮捕されました。「主にのみ仕える」ことは、天地創造の神様、イエス様の父である神様以外は、神様として礼拝しない。私達の身の回りから、お守りやお札(ふだ)などを遠ざけることも含まれます。

*クリスチャンの戦い

家族の中で自分だけがクリスチャンの場合、悪魔は、あの手、この手で、この世と妥協するように誘惑してきます。そのような時、私達は祈りつつ神様からの知恵をいただかなければなりません。

信仰の決断とは、確信が与えられて決断したら、それ以外のものを捨てることを意味します。むつかしいようですが実はむつかしくないのです。信仰が与えられた時、そこに聖霊の働きも同時に起こります。聖霊が、私達のそれまで持っていたものへの未練や執着を、すべて取り払って下さるからです。パウロも言っています「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」と。いつも共にいて下さるイエス様が、私達にも「主にのみ仕える」道を安心して歩いていけるようにいつも伴い、支えて下さいます。

*第三の誘惑「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。神は守り、支える。」

悪魔はイエス様に、高い所から飛び降りるよう勧めました。というのは、聖書には天使が支えるとの約束(詩編91:11-12)があるからです。悪魔は、あなたが神の子であるなら必ず聖書に約束されている奇跡(飛び降りても守られる)が起こるはずだから、神を信頼して、その奇跡を通して人々を導いたらどうだというわけです。イエス様のお答は、(申命記6:16)「あなた達の神、主を試してはならない。」でした。

 

*伝道の基本

1.神の言葉で生きる:私達の信仰と伝道は、御利益宗教ではないことです。伝道の先には、一人の人が、「新しくされて生きる」ことが待っています。この世の価値観から解放されて新しく生まれ変わることが出来る道が、すでに備えられているのです。

 2.主にのみ仕える:悪魔にひれ伏すことは、大きな見返りを手にするために聖書の言葉を曲げてこの世と妥協することです。悪魔は、巧妙に私達に近づいてきます。私達はいつも目を覚ましていなければなりません。

3.主を試してはならない:全知全能の神様には出来ないことはないのだから、きっと神様はこのように答えて下さるに違いない、と自己流の聖書解釈と信仰理解に陥って行動するようにささやく誘惑があります。  自分の信仰の確信を優先させて、御言葉通りになるように思うのは、主客転倒です。「わたしの願いではなく、御心のままに」です。(ルカ22:42)

3月3日の説教要旨

ホセア書6:1-3  ルカ福音書24:1-12

「主の復活①」 平賀真理子牧師

*はじめに

今週の水曜日6日は「灰の水曜日」で、この日から受難節が始まります。但し、私達は、ルカによる福音書を読み進めてきて、先週の礼拝で既に「主の死と埋葬」の箇所まで終わりました。他の教会の多くは主の御受難をこれから読んでいくと思われますが、私達は、十字架後の「主の復活」という希望に向かって一足早く先取りしていきましょう。

*主の十字架

 主の十字架は、「神様を信じ通せない」という私達の罪を、イエス様が御自分の命を代償にして、私達信仰者が再び神様との絆を回復させるためと先週までにお伝えしました。神の御子の命という、何物にも代えがたい犠牲が献げられたのですから、この世の人間を支配してきたサタンも、文句が言えない、完璧な代償なのです。神の御子イエス様は、父なる神様の御心に従った「救い主」として「苦難の僕」の役割を果たされ、みじめで苛酷な死を遂げました。それが主の十字架です。武力等で押さえつける方法ではサタンは心から屈服はしないでしょう。救い主がみじめに死ぬことこそ「完璧な贖い」であり、サタンもそのような「救い主」には、心から屈服せざるを得なくなるわけです。

*預言されていた「主の死と復活」

 マタイ・マルコ・ルカ福音書では、イエス様が十字架への道が間近になるずっと前から、御自身の「死と復活」について3度預言なさっていたことを記しています。「キリスト教」「イエス様」と言えば、そのシンボルは十字架であり、十字架は人間の贖罪として大変重要ですが、実は、「十字架」の後の「復活」こそ、神様の完璧な勝利の証しと言えます。

*「主の復活」についてのルカ24章

 ルカによる福音書は、最後の章24章全体を使って、「主の復活」について証ししています。そして、その最初の段落1節-12節の小見出しは「復活する」となっています。「誰が」でしょうか?もちろん、イエス様ですね。ところが、1節-12節までは、実は、復活したイエス様が直接御姿をお見せになっているわけではありません。1節―2節で、婦人達が、処刑日の金曜日に確認した「主の御遺体を納めた御墓」に、日曜日の日の出頃来たものの、入り口の大きな石は取り除かれていて、あるはずの御遺体が無いことを発見したとあるだけです。(が、復活の主はまだ現れていません。)

*天使二人の出現とその証言=「主の預言を思い起こしなさい」

 次に現れたのも、復活の主ではなく、「輝く衣を着た人」です。これは、当時の表現で「天使」のことです。しかも、二人です。ユダヤ社会では、一人だけの発言は確かな証言とは見なされません。二人以上の複数の言葉で、証言として認められるのです。彼らの確かな証言は、ガリラヤから主に従ってきた婦人達がかつて聞いたはずの「主の死と復活の預言」を思い起こすようにという内容でした。つまり、様々な出来事で心惑わされている婦人達に、「主の御言葉」をまず思い出すことが重要だと伝えているのです。そして、婦人達はその証言に従い、使徒達に伝える役割を果たしました。

*婦人達の証言を聞いた「使徒」や男性の弟子達の反応 

 天使の証言を聞いた婦人達は、裏切り者「イスカリオテのユダ」を除く使徒11人や男性の弟子達に、「空の墓」や「天使の言葉」を知らせたにも関わらず、彼らは、それを「たわ言」だと思ったのです。当時のユダヤ社会では、女性を一人前の人間と見なさなかったので、仕方のないことだとは思います。ところが、ルカによる福音書では、ただ一人、例外の使徒が居たことを伝えています。それが、一番弟子ペトロです。

*主の御言葉を信じる者達が確信する「主の復活」  ペトロは、自分を愛し育んでくださったイエス様を3度も否認した経験があり、また、十字架の時も主を助けられませんでした。主との絆において、辛く悲しいままで終わりたくなかったでしょう。婦人達の言葉に希望を見出して行動し、証言どおりの様子を見、主の預言の成就を確信したはずです。死を超える「復活」は、主の御言葉を信じる者達に実現するのです。