2023年7月2日の説教要旨 詩編22:25-32・ルカ福音書17:11-19

「あなたは見つけ出す」    加藤 秀久牧師

*はじめに

聖霊降臨日(ペンテコステの日)に聖霊を受けた弟子達は、イエス様と共にいた頃の弟子とは違って、神様の力・信仰の帯を締めていました。

しかしそこに行くまでに、弟子達は何度も何度もイエス様から神様の話を聞き、奇跡を見て、信仰を持つことの訓練を受けていました。

その訓練の一つになった本日のルカ福音書17章を読む時、その内容は、一見、何の関連性もないように思えますが、じっくりと向き合い、思いを巡らせて読み進めて行くと、イエス様が弟子達に、その教えを通して、神様からの信仰を得るように、神様から与えられた贈り物の信仰について語られているのが分かるかと思います。

*私達の信仰ではなく、神様が与える信仰

その神様からの「贈り物の信仰」は、種がたとえ小さく思える「からし種」ほどのものであったとしても、やがて、その時が来た時に私達の心の中で芽を出して、私たちが想像する以上に大きく成長して働き始めます。それは私達の目には不可能な出来事であり、奇跡と思えることであったとしても、それを行うことができる(可能となる)信仰です。不可能と思えることや奇跡と思えることが実現した時には、これらは神様から与えられた信仰の賜物が用いられたので、その人は「私は神様がするようにしたまでです。神様の力が私を通して働いたまで(結果)です。」と言うことになります。神様から与えられた信仰の働きは、私達を決して誇り高ぶらせることなく、逆に、へりくだった心や態度を持って人々に話したり、応えたりする者になることを、イエス様は弟子達に教えられたように思います。

177節~の教えと、十人の重い皮膚病の人達の癒し

本日の聖書個所の直前に、イエス様が、主人に仕える僕(しもべ)の話をされています。畑を耕すか,羊を飼う仕事を与えられている僕が、仕事を終えて戻った時、先ず主人の夕食の用意と、主人の食事が終るまで仕えた場合、主人は僕に感謝するだろうか、と弟子達に問いつつ「あなた方も、同じことだ。自分に命じられたことを みな果たしたら、『私共は取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」と教えられました。

そして、続く本日の聖書には、イエス様がエルサレムへ上る途中に、サマリアとガリラヤの間を通られて、ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエス様、先生、どうか、私たちを憐れんでください」と言いました。彼らは皮膚病のため、健康な人に近づくことができませんでした。

 イエス様は彼らを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言いました。<注:重い皮膚病にかかった時も、治った時も、祭司からの宣言が必要でした(レビ記13章参照)>。十人の人達はイエス様の言葉に従い、祭司のもとに出かけて行く途中で、自分達の皮膚病が治ったことを知りました。彼らの与えられた信仰(信じて行動する)で、彼らの身体に癒しの奇跡が起こったのでした。

*神様を賛美するために戻った人

その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。(16節)」これが神様から与えられた信仰を神様に感謝する、神様にお返しする行動の現れなのだと思います。イエス様は、「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言われ、その人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。

*わたしたち

  私達は自分の意志で神様に信仰告白をし神様を受け入れたと思いがちですが本当はその歩みの中で神様を信じる信仰の贈り物を神様から与えられていたことに気付いた時、私達は神様を見つけ出したと思います。本日の詩編22:25~32をもう一度読みます。このような心を私達は持ち続け、与えられた恵みに感謝して一週間の歩みを始めて参りましょう。