「生命の回復」 加藤 秀久牧師
*はじめに
本日の詩篇には、心が重くなるような感情の深さや、理解するのが難しく感じられる箇所もあるかと思います。詩編に登場するダビデは、敵から追われる生活が続き、時には命を落としそうになり、又、逆に敵と思える王様に手にかける距離まで近づいたこともあり、王になる前の10年余りの月日を神様から与えられた苦難に対応する訓練の日々を過ごしました。
*主よ、(わたしではなくあなたが)戦ってください。
そのような状況の中で、ダビデは、1節の「主よ、わたしと争う者と争い、わたしと戦う者と戦ってください」との祈りをしています。これはダビデがいかに主に信頼していたかを見ることができます。 ダビデは「私の為に、敵と戦う力を下さい」とは祈らず「どうか、わたしの魂に言ってください。『お前を救おう』と(3節)」と祈り、ダビデ自身が自ら戦うのでなく、自分の権利を主張せず、すべてを主に任せて委ねています。ここに、主の呼びかけに応えようとする信仰者の姿をみることができます。
*主の使い
「彼らが主の使いに追い払われますように(5節)」「彼らに主の使いが追い迫りますように(6節)」とあるように、ダビデは「主の使い」の存在を信じて、天使達の働きを通して私を敵から守ってほしいとの祈りをささげています。この詩編の前の34:8には「主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。」とあるので「主の使い」は、個人にとっても、イスラエルの民にとっても、時に、一人の御使いとして、時に天の軍勢として、神様に敵対する者達やその勢力に立ち向かい、神様の裁きを行い、神の民や主を畏れる者達を救い助け出して下さる存在です。
聖書に「主の使い」の言及は多くありますが(旧約:213回以上・新約:175回以上)、私達は意識してその存在を知ろうとしていないように思われます。
主の使いは、神様と人とに仕えるために創造された存在であり、私達を危機的状況の中から必ず守ってくださる方であり、存在自体、神様の恵みによるものだと思います。今日(こんにち)、神様を信じる私達に「主の使い」の現われはあるのでしょうか。私は「ある」と信じます(聖霊のような、それに似た存在、としか言い表わすことが出来ませんが・・)。
*「カファルナウム」から「ナイン」の町へ
本日のルカ福音書7章の直前には、カファルナウムにいたイエス様のもとに百人隊長の部下が死にそうな病気のため癒してほしいと長老達が願い出て、癒された出来事が記されています。それから間もなくイエス様は、ナインの町への約30kmの道のりを、弟子達や大勢の群衆も一緒に歩いて行かれました。一行が、希望に満ちた何かを期待するような光景に対し、ナインの町では、母親の一人息子が死んで棺が担ぎ出され、町の人達が大勢そばに付き添い、そこにはどんよりした絶望感、無力感と、混沌とした闇に包まれているような状況だったと思います。特に母親は夫にも先立たれ、生きる希望を見出すことが出来なかったでしょう。
*「もう泣かなくともよい」
しかしそこに希望の光が差し込みます。イエス様は母親を憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われ、近づいて棺に手を触れられて「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。「すると、死人は起き上がってものを言い始めました(15節)」。ここでは「死」にも優るイエス様の権威が表れたのです。「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけて下さった』と言った(16節)」。
人々は、イエス様の本質について、又、神様がイスラエルの民を顧みて下さったとの、神様の救いを確信する告白をしました。そこにいた全ての人達が、神様を心から称(たた)え、神様の奇跡を体験したのでした。
*わたしたち
イエス様の働きは、すべての人の人生を180度、良い方向へと変えて下さいます。なぜななら神様は、わたしたちに生きる希望、輝ける未来を生きて欲しいと願っているからです。わたしたちは、イエス様に出会えたことに感謝しながら、今週一週間、主と共に歩んで参りましょう。