2021年4月11日の説教要旨 詩編118:13-25・ヨハネ福音書20:19-31

「主イエスの現れ」   加藤秀久伝道師

*はじめに

本日の詩編118編は、詩編113~-118編の、「ハレルヤ詩編」と言われている中にあり、ユダヤ教の礼拝において、巡礼祭、過越の祭り、仮庵の祭りと新月や神殿奉献の際の礼拝文として読まれています。118編13節には「激しく攻められて倒れそうになったわたしを主は助けてくださった。」とあり、神様を信じる者達は、たとえ他国の人々がエルサレムに来てユダヤ人を取り囲み、消し去ろうとしても、主の御名を呼び求めることによって、神様は彼らの声を聞き、救いの道へ導いて下さることが述べられています。又、25-26節に「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。」と歌われています。

*エルサレム入城

イエス様がエルサレム入城をされた時、人々は「ホサナ(どうぞ救って下さい)。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫び、歓迎しました(ヨハネ12:13参照)。しかし最終的にはユダヤ人に受け入れてもらえず、十字架につけられ亡くなりました。イエス様は、エルサレムのユダヤ人に対して、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、主の名によって来られる方に、祝福があるようにと言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」(マタイ23:38-39)と嘆かれました。ユダヤ人が主の御名を呼び求め、心から主の御名を称える日が来るまでは、神様に出会うことはないと言っています。

*「主イエスの現れ」

 十字架の死のあと、イエス様はどのようにして弟子達の前にその姿を現されたのでしょうか。本日のヨハネ福音書には、弟子達が、自分達の主・イエス様を十字架で失ってしまったとの絶望感に加え、自分達もやがては逮捕されるかもしれないと、週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていた時のことが記されています。そこへイエス様が来られ、「あなたがたに平和があるように」と、弟子達に挨拶されたのです。

イエス様は鍵のかかっているドアから家の中へ入ってくることがなぜ出来たのでしょうか。それはイエス様の「自然の命の体」が復活することにより、「霊の体」になっていたからです(参照:コリント書Ⅰ、15:46)。

イエス様は弟子達に、ご自身の手とわき腹の傷跡をお見せになりました。

*「聖霊を受けなさい。」

 イエス様は弟子達に重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」と告げました。この聖霊は、弟子達に全てのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせて下さる霊です。弟子の一人トマスはその場にいませんでした。彼は、「主を見た」と他の弟子達が言っても、自分で直接触ってみなければ決して信じないと言いました。

その八日後、再び復活したイエス様が現れて、トマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と、イエス様に答えています。イエス様は「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と告げました。

*わたしたち

私達はイエス様に直接会い、その姿を見たことはありません。しかし、そのイエス様がここで私達に「見ないのに信じる人は、幸いである。」と告げています。私達を、イエス様を信じる者として下さったイエス様は、弟子達に姿を現した後も、多くのしるしを行いました。私達はこの聖書に記されている言葉を通して、神様に出会うことが出来、神様のすばらしさや力強さを感じることができます。イエス様は、今日も私達の前に現れて下さいます。神の御子イエス様は光り輝き、神様を信じる私達に、その輝く光を与えて下さいます。イエス様を信じて、主の御名を呼ぶ者達は、神様から永遠の命を与えられ、平安を持つことができるのです。

2021年4月4日の説教要旨 詩編30:2-6・ヨハネ福音書20:1-18

「復活の日」     加藤秀久伝道師

*はじめに

 詩編30-32編には、病を癒された人の歌が取り上げられています。

2節の「あなたをあがめます」の元の言葉では「高くする」の意味があり、詩編作者は、自分自身が苦しみの中から「引き上げ」られたと、主を高くしています。「引き上げて」は本来井戸から水を引き上げる、救い上げる時に使う言葉です。神様を讃美することは、神様を高くする、崇める、礼拝する行為であり、神様は私達を苦難の中から、まるで井戸から水をくみ上げるように、一人一人を救い上げ助け出して下さることが述べられます。

 私達は神様を信じることにより、どんな時にでも神様の名前を呼び、助けを求めることが出来ます。そして私達が神様の名前を呼び、助けを求めることで、神様は私達の方へと近づいて来て下さり、苦しみや悲しみの中にある者達を日の当たる明るい世界へと導き、救い出して下さるお方です。

墓穴に下ることを免れさせ 私に命を得させて」(4節)

元の言葉では、「墓穴に下る者達の中から、あなたはわたしを生かした」となります。詩編の作者は、自らが墓穴に下るべき者であることを自覚していました。そして「ひと時、お怒りになっても命を得させることを御旨として下さる」(6節)と、作者自身の行為が神様の怒りを招いたことも認めます。さらに私達の命は、神様の御心、お考えの中にあることを述べて、神様は「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(同)お方で、私逹にとって、かけがえのない存在になっています。私達は、神様を信じて、受け入れ、罪赦されて救われなければ、神様に対する喜びの心と感謝の心は持てないと思います。

*マグダラのマリアとペトロともう一人の弟子

本日のヨハネ福音書では、週の初め、イエス様がお墓に埋葬されて三日目の日曜日朝早く、ようやく辺りが暗闇から光が照らし始め、明るくなりかけた頃、マグダラのマリアがイエス様の遺体が納められているお墓に行き、封印されていた石が取りのけられ、遺体がなくなっていることを知り、走ってペトロともう一人の弟子に知らせたことが記されています。二人の弟子も一緒に走り、お墓から遺体がなくなっていることを確かめます。かつてイエス様が、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(ヨハネ16:16)との御言葉が実現しようとしていました。しかし二人の弟子達は、「イエスが必ず死者の中から復活されることになっている」という聖書の言葉をまだ理解していなかったとあります(9節)。それは、弟子達にはまだ聖霊が注がれておらず、彼らの内に聖霊が働いていないので理解出来なかったと思われます。

*復活されたイエス様

弟子達が家に帰った後もマリアはお墓の外で泣いていました。そしてお墓の中を見ると、イエス様の遺体があった所に白い衣を着た二人の天使がいました。「なぜ泣いているのか」と天使から聞かれたマリアは、「私の主が取り去られました」と答えながら後ろを振り向くと、そこに立っておられたイエス様を見ます。しかしマリアは園丁だと思い、遺体場所を聞きます。イエス様はマリアに、「マリア」と呼びかけ、マリアはその声でイエス様だと知ります。イエス様はマリアに、これからご自身は父なる神様の所に上(のぼ)られることを告げ、そのことを弟子達にも知らせるように命じられました。マリアは誰よりも先に復活したイエス様に出会い、イエス様のことを宣べ伝える証人となったのでした。

*私達とイエス様

私達にも今日、復活したイエス様が現れて下さっています。神様は、私達罪人だった者を 罪の生活の中から救い出すために、愛する一人子イエス様を陰府へと下らせ、そこから救い上げ、助け出して下さいました。このイエス様に私達は希望を持つことが出来るのです。 神様は、私達がイエス様を信じて、受け入れ、従う決心をした時、私達を進まなければならない方向へ誘導し、私達を神様の計画した道へと導き、歩ませて下さいます。今日、復活したイエス様があなたの前に立ち、あなたの名前を呼んでおられます。あなたはこのことを信じますか。

2021年3月7日の説教要旨 詩編90:1-12・ヨハネ福音書6:60-71

「命の言葉」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

今、お読みした詩編90編は、1節に「祈り。神の人モーセの詩」とあり、人は、神様の戒めから離れることで罪深い者となり、神様なしの生活が無力で空しいものとなり、特に人に与えられた命のはかなさ、短かさを語っています。神の人モーセは神様との出会いを通して変えられ、導かれ、守られました。なぜなら「山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神」(2節)だからです。

神様を信じる者に主は、今もこれから先も、いつまでも変わらぬお方であり、主は「わたしたちの宿るところ」(1節)、私達の住まいであると告白し、さらに神様にとって千年は、きのうから今日へと移る夜のひとときにすぎず、「朝が来れば花を咲かせ、夕べにはしおれ・・・(6節)と、人間の生は、永遠に生きる神様とは比べることができないと告白します。人の命のはかなさは、私達人間が神に背を向けて罪を犯した結果の神様からの怒りによるものであり、神様は、人が心の中に隠した罪さえも明らかにされます。それゆえ私達人間は、神様を畏れ、神様を敬い、神様の前にへりくだることです。90編の終りには、「私達の神、主の喜びが 私達の上にありますように。私達の手の働きを 私達のために確かなものとし 私達の手の働きをどうか確かなものにして下さい。」(17節)と祈っています。

私達も与えられた人生の日々を、このように祈りつつ歩みたいと思います。

*「わたしは命のパンである」(6:48)

本日のヨハネ福音書には、イエス様の話を聞こうと集まった群衆に、イエス様がご自身のことについて譬えを用いて語った、その話の後の出来事が記されています。イエス様は「神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである。」(33節)と教えたので、群衆はそれを聞き「主よ、そのパンをいつも私達に下さい」と頼みました。それに対するイエス様のお答えは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6:35)です。

 イエス様は続いて、人々がイエス様を見てはいるものの永遠に続く命のパンを食べようともせず、信じようともしないことを指摘し、“天から降り、生きたパンである”イエス様を食べる(=イエス様を信じて信仰を持つ)者は、永遠の命を得て終わりの日に復活させられると、伝えました。

*「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6:56)

この言葉を聞いた人々は「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言い、そこにいたユダヤ人だけではなくイエス様に惹かれてきた人達(広い意味での弟子達)も、この言葉につまずき、イエス様から離れ去って、共に歩むことをやめてしまいました。

イエス様は、イエス様を信じる信仰は人間の決心や努力ではないことを明らかにしています。イエス様は人々に、「わたしが命のパンである」と言っただけであり、又、出エジプト記では、神様はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言っただけでした。どちらの場合も神様が告げた言葉、真実の言葉がそこにあります。しかし人はその言葉を聞くと驚きや恐れを抱き、真実の言葉、命の言葉がそこにあることに思いを寄せず、ためらい、その意味を理解せずに、つぶやきました。

イエス様の言葉は“霊”であり、“命”(63節)

イエス様は彼らを戒めるように、“肉”は何の役にも立たないと言われます。私達はどうでしょうか。私達の想いや口では「イエス様を信じて従います」と言いながら、どこかでイエス様にではなくこの世の生活に身を任せてイエス様との関係を疎(おろそ)かにしていないでしょうか。神様はこの世を造られ、イエス様というお方を私達の犯した罪を取り除くために地上に人として遣わされ、私達に永遠の命を与えるために十字架にかかり亡くなられました。私達はどのようにしてこの言葉に答えをだしますか。私達がイエス様を信じて一歩前に踏み出さない限り神様は心の中に入って来ることができません。私達は聞いて信じて従う者となりましょう。私達のどんなに小さな願いや思いでも聞いて下さる神様がここにおられます。私達には命の言葉が与えられているのです。

2020年10月18日の説教要旨 詩編90:1-12・Ⅱコリント書5:1-10

「聖霊の守り」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに 

詩編90編1節に「祈り、神の人モーセの詩」とあります。モーセは、「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」と告白ました。人間にとって神様は、私達を守って下さる場所、避難所であることを確認しています。そのことは、「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々変わりなく、永遠に至るまで」私達の神であられることを意味しています。そして神様は、人を、元の塵に返すことで、人は はかない存在であることを述べています。朝に花を咲かせ、夕べにはしおれて枯れていくように、私達の人生は短く、苦労に満ちた生活となっていることを告白し、神様の目からすれば、千年といえども一日が過ぎ去るようでしかなく、人生はほんの一瞬にしか過ぎないゆえに、神様の慈しみを願い祈っています。

さらに人は、神様の前に罪を犯し、その犯した罪を隠そうとしても、神様は明らかにすると告げます。私達生きる者はアダムとエバが罪を犯した時から罪の呪いの生活の中に入れられました。人は神様のかたちに造られ、永遠に生きることのできる者であったにもかかわらず、蛇の誘惑を得て、善悪を知る知識の木から実を食べ、神様に従わなかった罪の代償として「死」がこの世界に入り込みました。私達は、彼らの犯した罪を受け継ぐ結果となり、神様の怒りの中で生活していると言えると思います。

*「生涯の日を正しく数え、知恵ある心を得ることができますように」

この罪からの脱出の道は、私達の過去に犯した罪(神様から離れた生活)を告白して神様の赦しを得ることです。それは、私達が神様の前に自らを低くして、へりくだることから始まります。

このモーセの祈りは、私達も又、生かされている日々を正しく数え、キリストにある生活を歩めるように、「神様からの知恵ある心」を得ることができるように、主と共に歩み続けることができるように、と願い祈る大切さを教えてくれるのです。

*地上の住みかと天の住みか

 「私達の地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」と、本日のコリントの手紙5章は始まります。私達の身体は、この地上において、やがて衰え朽ちていき、塵にかえります。ヨブ記では「人は塵の中に基(もとい)を置く土の家に住む者」(4:19)とあり、私達の身体が塵(土)から造られている住み家であることが分かります。

しかし天にある住みかは、永遠の住みかであることが記されています。

*保証としての“霊”

パウロは、彼の証の中で、イエス様を信じる者達には天にある住みかが用意されていることを伝え、信仰を与えられた者はその保証として、生きた神の霊が与えられていることを力強く述べました(5節)。そしてパウロにとって自分自身の霊が肉体から離れることは喜びであり(8節)、今ある身体は一時的な仮住まいの場所(地上の幕屋)であり、復活の身体においては、永遠の栄光の希望の光があることを記しています。

裁きの座の前に立つ

私達すべての人間は、必ず神様の裁きの座の前に立つことになります。地上での生活が、人を傷つけたままの状態であったり、悔い改めようとしない者が、クリスチャンの中にいるかもしれません。自分は救われているから、神様に会えるから、天国に行けるから・・と、自分の過ちや弱さから目を背ける人々に、この手紙は、「それぞれが身体、肉体によって行ったことに応じて神様からの報いを受けねばならない」と告げています。

パウロは、地上を住みかとしていても、天にある住みかであっても、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と切望しています(9節)。

 神様は、今日も真実なお方です。今日、私達の心の中に祈らなければならないこと、悔い改めなければならないことが思い浮かんだのなら、神様に赦していただけるように祈りましょう。 私達が信じて祈り求めるのなら、その答えを必ず与えて下さいます。

2020年8月30日の説教要旨 詩編131編・マタイ18:1-5

「心の清い者」     加藤 秀久 伝道師

*はじめに

本日の 詩編131編は、澄んだ敬虔に満ちた詩で、詩編の中でも最も美しいものの一つに数えられています。夕刻、太陽が谷の上を静かに照らしながら沈みかける情景と共に、それがまるで、夕べの鐘のように響きわたる光景を思い浮かべることが出来ます。その中で著者ダビデは、素直な、まっさらな心を持つ子供のように神の前に跪(ひざまづ)き、祈りを捧げている姿が想像できます。

この祈りは、若い時に苦労を得て大変な状況を乗り越えてきた後に、神様との交わりを通して平安を見出した人の心を表しています。ダビデが神様から与えられた安らぎは、神様と共にある魂の平安によるものでした。

*誰が一番偉いのか

本日の、マタイ福音書での弟子達の質問は、「天国、神の国では 誰が一番、偉いのでしょうか」です。弟子達の「神の国」のイメージは、人が住む社会と同じように、人々に対してそれぞれの地位や順序が与えられて生活していると考えていたのでしょう。そしてイエス様が弟子達の中からペトロ、ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネの3人だけを選んで高い山に連れて行ったり(17章)、神殿税をペトロの分まで納めた(17:27)ことを間近に見て、他の弟子達も、自分達がイエス様から呼ばれる機会があるとの期待感、或は、劣等感のような感情が生まれ、それがきっかけで誰がこの中でより偉いのかという議論に発展したと考えることができます。このような思いは、自分を周りと比べた時に すぐに起こってしまう思いでもあります。

*幼い子供のように

「だれが一番偉いか」の質問に対して、先ずイエス様は「一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて」(2節)とあります。「子供」は、幼い子供を表す原語が用いられています。イエス様は弟子達に自分をまわりの人と比べることが大事ではないことをはっきり示され、心を入れ替えて、幼い子供のように自らを低くすることが大切であることを教えられました。

私にとって幼い子供のイメージは、自己主張が激しく、何かを要求する時、やって貰えるまでは泣き止まないなどの印象があったので、この「子供のようになる」というのは、あまりピンときませんでした。しかし子供がそのようにするのは、自分では出来ないことを知っているので助けを求めるサインとして、手を貸して欲しい人に、自らができる限りの表現で訴えているのだと考えることも出来るでしょう。イエス様が ここで一人の子供を呼び寄せて弟子達の中に立たせて、このたとえ話をしたのは、幼い子供は、与えられる教えや助けを、素直に受ける者だということを伝えようとしているのではないでしょうか。

*神様の願い

神様は私達に、今まで培った経験、知恵や知識、資格や評判などにとらわれずに、ただ子供のように神様に立ち返り、神様の望まれる救いの道へ向きを変え、心から悔い改めることで自分自身を見つめ直すことが必要だと言っているのだと思います。

この方向転換は、この世で生きる者にとっては難しいと思えるかもしれません。しかしイエス様は私達に子供のようになることを求めておられます。幼い子供は失敗するのが当たり前です。できなくても何度もチャレンジをして、そして出来ない時は、素直な気持で誰かに助けを求めます。

*子供を受け入れる者は、イエス様を受け入れる者(5節)

私達はこのような子供を受け入れ、愛していく心の準備はできているでしょうか。イエス様は、弱い小さく見える子供や、弱しく頼りがいのない人、何か助けを必要としている人達を受け入れなければ、神の国に入ることは出来ない、イエス様を受け入れる者にはなれないことを私達に伝えようとしています。私達は今、全てを捨てて神様の願う、神様が私達に与えて下さった本来の場所へ戻り、その道へ歩もうとするならば、素直な目で物事が見えるようになり、清い心で神様が示される、その道を歩んで行くことができると思います。 その一歩として、まずは私達のできることを神様に献げて行きましょう。

2020年8月2日の説教要旨 詩編2編・マタイ福音書17:1-13

「主イエスの変貌」     加藤秀久伝道師

*はじめに

詩編2編は、ダビデがイスラエルの王として、油を注がれた出来事(*)を思い起こさせています。(*油はオリーブ油。油注ぎ=油は神の霊の象徴でもあり、王や祭司の聖別、献身のしるしともなる)。7節の「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」は、イエス様が洗礼を受けられた時に聞こえた神様の言葉「あなたはわたしの愛する子、私の心に適う者」、又、本日の、雲の中から聞こえた言葉「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」(5節)と共通点がある言葉です。又ヘブライ書でも「キリストも、大祭司となる栄誉を・・『あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ』と言われた方が、それをお与えになったのです」(5:5)との言及があり、大きな意味を持つ言葉であると言えます。

*弟子達と高い山

今日の聖書の「高い山」(マタイ17:1)は、神様ご自身が重要な啓示を表す場所、神様と出会う場所として用いられています。例えばモーセはホレブの山で「柴が火で燃えているのに燃え尽きない柴」を見て神様と出会い(出3章)、その場所で「十戒」を受け取りました(同19:20)。預言者エリヤも命を狙われていた時、み使いに励まされてホレブの山に着き、そこで神様に出会い(列王記19:3~)、彼の後継者エリシャに油を注ぐように告げられました。そして本日の聖書は、イエス様がペトロ・ヤコブ・ヨハネを連れて登られたこの高い山に、モーセとエリヤが登場し、神様の啓示がなされています。イスラエルの人々は、モーセを通して与えられた教えを守り続け、主の日(マラキ書3:19~・終末の神様の裁きの日、イスラエルの人々にとっては救いと希望の日)が訪れる前に、エリヤが再び現れるという約束(同23節)を待ち望んでいました。ペトロ達は自分達の主であり師であるイエス様がこの二人と語り合っている姿に、どれほどの驚きをもって見つめたことでしょうか。

*ペトロの反応

 ペトロは、余りにもその光景が素晴らしかったので、イエス様達三人の為に仮小屋を建てたいと申し出ました。中近東の世界では大切なお客様をもてなすために仮庵(仮小屋)を建てる習慣があったようです。ペトロは突然の出来事に混乱しながらも、仮小屋を建てて歓迎し、そして少しでも長く、この素晴らしい出来事が続いて欲しいと願ったのでしょう。

*弟子達の恐れ

弟子達は、光り輝く雲の中から神様の声が聞こえた時、ひれ伏し、非常に恐れました。父なる神様は今弟子達に、父なる神様ご自身がイエス様と共にいて、イエス様を愛していることをお示しになり、「これに聞け」と語ります。イエス様が語る言葉は、まさに父なる神様の御心であり、神様の言葉であることを宣言したのです。

弟子達は、この神様の声に、神様の臨在に、非常に恐れて顔をあげることさえ出来なくなったのでした。するとイエス様は弟子達に近づき、彼らに手を触れて「起きなさい。恐れることはない」と言いました。

弟子達が顔を上げて見ると、イエス様のほかには誰もいませんでした。イエス様は山を下りる時、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と、弟子達に命じられました。

*神様の現れ

私達は、今、この主の栄光を見ることが赦されています。弟子達が神様の栄光、イエス様の真っ白く輝くその姿を見たように、私達にもご自身の姿を現わそうとして下さっています。

達の心の中には、聖霊が宿っています。その聖霊の助けによって、私達は、心の目で、霊の目でイエス様の姿を見ることが出来、感じ取ることが出来るのです。それは、日々の生活の中の祈りや、口ずさむ讃美の中で、又、礼拝の中や、心を合わせてお互いのことを祈る時に、神様の栄光や素晴らしさを感じ取ることが出来るのかもしれません。 私達が神様の前に静まり、心を向け祈る時、私達がどこの場所にいても、イエス様の姿や栄光、その現れ、その力を感じ取ることができるのです。

2020年6月7日の説教要旨 詩編 89:6-15・マルコ福音書 4:35-41

「主イエスを信じて進め」   加藤 秀久伝道師

*はじめに

皆さんにとっての奇跡とは、どういうものですか。

今日の箇所から5章の終りまでは奇跡について書いてあります。

本日はその最初の奇跡の出来事を共に聞きましょう。

*「向こう岸」

この日、イエス様はガリラヤ湖のほとりで教えていました(4:1)。夕方になってイエス様は弟子達に、「向こう岸に渡ろう」と言われました。

5章1節には「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とありますので、「向こう岸」とは異邦人が住んでいる所でした。又、この地方の人々は豚を飼っていました(同:11節)。豚は、ユダヤ人から見れば、汚れたものとされていました。ですから、イエス様が示した「向こう岸」は、汚れた土地・場所を指していると言えます。

*「その日の夕方」

イエス様は御言葉を語ることが連日続き、疲れがたまっていたのでしょう。そのため夕方になってイエス様は、あまりの疲れからか群衆を避けて、弟子達に「向こう岸に渡ろう」と告げたと思います。ガリラヤ湖は、海抜マイナス213mの地点にあり、昼間強烈な直射日光を受け、湖面の水温が24度位まで上昇します。ところが夕方になると、東側の上空の空気が急に冷えて、それが絶壁の切れ目から突風となり、湖面に吹き付けてくる特徴を持っていました。突然荒れ狂うガラリヤ湖のことは、元漁師のペトロも知っており、夕方、沖へ出す危険も承知の上で舟を出したのでした。

*「イエスは、・・眠っておられた」

ペトロにとって、イエス様のお言葉は絶対的で、向こう岸に渡ることは何か意味があり、同時に、無事に岸に着くことも信じて安心していたと思います。一方イエス様は、お疲れになって『(とも)の方で枕をして眠っておられた』(38節)とあります。そんな中、突然の突風が起きました。

まるで私達が「近い内に地震が来るよ」と聞いているものの、まだ大丈夫と、安心仕切っている時に、突然、大地震に襲われるような状況だと想像できます。突然の激しい突風により弟子達はすぐさま反応して舟の舵を取ったことでしょう。しかし舟の揺れが激しくなり、波は高くなり、辺りの光景は凄まじさを増していきました。どうにもならないと判断した弟子達は、イエス様を起こして助けを求めたのでした。

*「清い生活の場所」から「世俗の場所」へ

「向こう岸」には汚れた町が待っていました。仮に弟子達の舟が「清い生活をする場所」としたら「向こう岸」は悪のはびこる町「世俗の生活の場所」と言ってもいいでしょう。だからこそイエス様は人々にたとえ話や、病の人を癒すことを弟子達に見せて、弟子達が信仰をしっかりと持つように教えられたのだと思います。

波が穏やかな時は、弟子達の心は平安に包まれ、ゆっくりのんびりした気持で、奇跡やたとえ話を思い起こしていたでしょう。しかし突風で、舟が波に飲まれそうになった時、弟子達はパニックに陥りました。それは丁度、私達の信仰生活にも照らし合わせることができると思います。不安な出来事や問題が起きた時、我を忘れて冷静な判断が出来なくなり、周りが見えなくなり、その問題だけに気が向いてしまう。そのような動揺した感情に、イエス様は「黙れ、静まれ」と言ったと思います。

黙れ」は、「ものを言うことをやめる、無言になる、自分の意見を主張しない」意味があります。イエス様は弟子達の感情を乱す原因になった嵐に対して「黙れ、静まれ」と命令することで、穏やかな湖に戻し、弟子達の心にも落ち着きを与えることができたと思います。

嵐を静めた後、イエス様は弟子達に「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか」、他の福音書では、「信仰の薄い者たちよ(マタイ8:26)」「あなたがたの信仰はどこにあるのか(ルカ8:25」と言われています。どれもイエス様は弟子達に、信仰の弱さ、足りなさを指摘し、「しっかり信仰を持ちなさい」と励ましていると思います。 私達も、嵐のような忙しい毎日の生活の中でイエス様の力強い助けがあることを信じ、祈り求めて一週間の歩みを進めて行きたいと思います。

2020年5月24日の説教要旨 詩編103:1-5 マルコ福音書2:1-12

「主によって自由になる」   加藤秀久伝道師

*はじめに

本日の聖書は、直前の、重い皮膚病の人の癒しから幾日かが過ぎて、イエス様が再びカファルナウムを訪れた時のことです。イエス様が、再び村にやって来たことが人々の間で広まり、数日前になされた癒しを見聞きした人々がこの癒しを求め、又、権威ある教えや話を聞くために、その家に集まって来ました。その家は戸口の辺りまで、隙間のないほどに大勢の人々が集まり、人々の中には奇跡を期待する人達や、直接話を聞きたい人達、又、イエス様の話に感動している人達など、その場はいろいろな思いで一杯だったに違いありません。

*4人の男と、中風の人

そのようなところに、4人の男が中風の人を運んできました。イエス様の所に近づこうとしましたが、群衆にはばまれて近づくことが出来ません。しかし4人の男達はあきらめたくありませんでした。なぜならイエス様なら、この人をきっと助けて下さる、イエス様は必ず何とかして下さると信じていたからです。彼らは、イエス様がおられるあたりの屋根をはがして屋根の上から中に入ろうとしました。当時の家屋の屋根は、おそらく横梁の上に角材を並べて、その上に木の枝や柴を編み、粘土で塗り固めた平屋根と思われますので、屋根をはがそうと思えば簡単にできたと考えられます。そこで4人の男達は屋根に上りイエス様がおられるあたりの屋根をはがし、病人の寝ている床をイエス様の所へ、つり下ろしました。

*「子よ、あなたの罪は赦される」

 イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言いました。なぜ、「あなたの罪は赦される」と中風の人に言ったのでしょうか。この言葉を聞いた全ての人達は、イエス様の言われた言葉に戸惑いを感じたのではないでしょうか。人々は、イエス様の癒しの業を期待していたはずです。しかしイエス様は、人々の期待を裏切る形で、「罪の赦しの宣言」を行なっています。

つまり、人間は、「目に見える癒し」を求めていますが、本当に必要な癒やしは「罪の赦し」であることをイエス様はここで明らかにしているのです。人間を縛りつけているものは「病」ではなく「罪」であることを指摘しているのです。人々に、本当の「癒しと自由」を与える為には、何よりも「罪の赦し」が必要であり、「罪からの解放」が必要であることを、イエス様はここで告げていると考えることができます。

*私達にも必要な「罪の赦しの宣言」

 私達の罪とは何でしょうか。どのような罪が原因で、イエス様のもとに近づくことを妨げているのでしょうか。それは、忙しさからくる神様との交わりのなさか、それとも知らずに行なってしまった隣人に対する無関心・無反応なのか、あるいは家族とのいざこざからくる自己中心的態度からなのか・・。どのような罪であるにしても、罪を犯し続けることは、身体の器官に病を冒すことになり、最終的には身体が不自由になってしまうというのです。それゆえイエス様は、病に対しての「癒しの宣言」ではなく、「罪の赦し」を宣言されたのだと思います。中風の人は皆の見ている前で立ち上がりました。そして床を自らの手で担ぎ、その場を去って行きました。人々はこの出来事に驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って神様を賛美しました。

*私達もイエス様の十字架により自由にされた者

 神であるイエス様は、2000年前に私達と同じ人となり地上に来られました。それは私達人間の中にある罪を取り去り、自由にして下さるためです。この罪を取り去るために、イエス様は、ご自身で十字架に架かる必要がありました。罪のない方が、罪ある私達のために死なれる必要があったのです。それはイエス様が私達一人一人を大切に想い愛しているからです。罪は、絶えず私達の周りにあり、私達の心の隙間を見つけて入り込もうとしています。ですから私達は、悪い行いや考え、習慣があったとしても、日々、イエス様に赦しを求めてイエス様と共に歩んで参りましょう。イエス様は、今日も私達のそばにいて下さいます。 イエス様を求める その心を、神様は喜んで下さいます。

2020年5月17日の説教要旨 詩編107:17-21 マタイ福音書8:5-13

「御言葉の力」   加藤秀久伝道師

*はじめに

皆さんにとってイエス様の言葉、聖書の言葉とは、どのようなものですか。私にとっては、時に厳しいと感じることもありますが、やはり優しく、温かいものであり、励まし、慰め、安らぎを与えて下さる言葉です。

詩編107編では、私達の愚かさ(無知、背き、罪)は、時に肉体にまで及び、病を起こすと警告しています。しかし主の癒しの言葉が人々の萎えた心、病人の病を癒します。主の言葉は癒しをもたらすと約束されているのです。そして私達がこの驚くべき御業を喜び、主の慈しみと憐みに感謝して主を称えようと呼びかけます。私達が信じる御言葉には力があります。なぜなら、御言葉には癒しをもたらす力があるからです。

*百人隊長の願い

本日の聖書は、カファルナウムの町で、一人の百人隊長がイエス様に助けを求めに来た時のことです。百人隊長は100人の兵士を統率するローマの将校で、彼は異邦人でした。ルカ福音書7章では、彼がユダヤ教の求道者であり、地域の人達のために会堂を建てるなど人格的に信頼されていたことが伝えられています。百人隊長はイエス様に近づいて「主よ、私の僕が中風で寝込んで、ひどく苦しんでいます。」と癒しを求めました。

「中風」は、身体的な機能を麻痺させる脳の疾患で、動きが制限されて、人の手を借りなければならず、生きる意欲を無くしてしまうほどの病です。「ひどく苦しんでいる」とは身体上だけでなく精神的な苦しみも含まれていると考えられます。隊長は動けなくなった僕の為に、癒やされる道を探していたのでしょう。そしてイエス様の噂を聞き、自ら町へ出向き自分が異邦人であることを承知の上で、イエス様のもとを訪れたのだと思います。

*イエス様の応答と百人隊長

 イエス様は百人隊長の願いに「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。すぐに百人隊長の家に行き、僕の病気を治そうとされたのです。ところが百人隊長は、イエス様と一緒に家に帰ることを拒みました。

なぜでしょうか。百人隊長は何を考えていたのでしょうか。

彼はユダヤ人が異邦人を「汚れた者」と考えていることを知っていました。そのため、イエス様を自宅の中にまで入っていただくことなど、とんでもないことだと思ったのでした。

*百人隊長の信仰

百人隊長は、権威ある者の言葉には人を従わせる力があることを承知していました。百人隊長自身も権威の下、命令には絶対服従であったのでしょう。そこで百人隊長は「ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」とイエス様に答えました。

イエス様も権威のあるお方ですから「治れ」といえば、どんな病気でも治る。イエス様のお言葉さえあれば、すべてのものはそれに従う…ということをよく理解していました。「ひと言おっしゃってください」は、イエス様に対する絶対的な信仰によるものでした。

*「あなたが信じたとおりになるように。」

この言葉を聞いてイエス様は「ユダヤ人の中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と感心されました。百人隊長の信仰は感嘆と賞賛に値するものでした。イエス様は百人長に「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」と言われ、その時、僕の病気は癒されました。

今日の詩編、20節に「主は御言葉を遣わして彼らを癒し 破滅から彼らを救い出された。」とあり、33編9節には「主が仰せになると、そのようになり、主が命じられると、そのように立つ」とあります。

イエス様が、確かに父なる神様からの力を持って地上で活動され、 神様の約束を実現されることに気付かされます。そして11節に「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」とある「大勢の人」とは、おそらく百人隊長のようなイエス様を信じる信仰を持つ異邦人のことを指していると考えます。死に勝利したイエス様は、人の病をも癒す力を持ったお方です。そしてイエス様の癒やしは御言葉によってなされます。私達がこの御言葉を信じるとき、その御言葉は、確かに力をもって働いて下さるのです。

2020年4月19日の説教要旨 詩編16:7-11 ヨハネ福音書 20:24-31  

「命を受けるための道」  佐藤義子牧師

*はじめに

私達は、先週の日曜日イースター礼拝をおささげしました。今朝はヨハネ福音書20章を通して、復活されたイエス様が、マグダラのマリアと、弟子達およびトマスと出会われた出来事をご一緒に学びたいと思います。

*マグダラのマリア

イエス様の御遺体に塗るための油と香料を用意して、日曜日の早朝まだ暗い中を、マグダラのマリアはお墓に向かいました。しかしお墓には遺体はなく、マリアからそのことを聞いたペトロともう一人の弟子はすぐお墓にかけつけますが、お墓には、遺体が包まれていた亜麻布と、頭を包んでいた覆いがあっただけでした。二人の弟子はそのことを確認した後、家に帰って行きました。(20:9「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」) 

しかしマリアは、帰ることが出来ず、お墓の外で立って泣いていました。泣きながらお墓の中を見ると、二人の天使が遺体のあった頭の方と足の方に座っていました。マリアは天使とは分からず、イエス様の遺体が取り去られたことを訴えます。遺体に執着(しゅうちゃく)していたマリアは、さらに、復活さたイエス様から声をかけられた時でさえイエス様とはわからず、園の管理人と思いこみ、遺体のことを聞いています。

私達は時々、マリアと同じようなことをしてはいないでしょうか。イエス様がすぐそばにおいでになるのに、自分から探して「遺体」を引き取ろうとする愚かさです。しかしよみがえられたイエス様は、マリアの、この悲しみの涙を放ってはおかれず、弟子達より先にマリアに現れて下さり、そして、弟子達への伝言を託されたのでした。

*弟子達への聖霊授与

 同じ日曜日の夕方、弟子達が迫害を恐れて戸に鍵をかけて集まっていた時、復活されたイエス様は来られて真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われ、十字架による傷口をお見せになりました。そして弟子達に息を吹きかけ、世界伝道へと遣わすために「聖霊を受けなさい」と、「聖霊の賜物」と「罪を赦す権威」(および、赦されない罪への権威)をお与えになりました。この「聖霊の賜物と罪を赦す権威」は、「あなたは生ける神の子です。」との信仰告白を土台として建てられた、「教会」の伝道者及び共同体に託され、2000年来、継承され続けています。

*トマス

弟子達にとって、よみがえられたイエス様との再会はどんなに大きな喜びと励ましとなったことでしょう。ところがその日、弟子達と行動を別にしていたトマスは、復活のイエス様にお会い出来ず、この喜びを共にできず、聞いても信じることが出来ず、イエス様の復活は、自分の目と手で確かめるまで信じないと言いました。復活のイエス様にお会いする素晴らしい恵みのひと時を逃してトマスはどこに行っていたのでしょうか。又、他の弟子達との関係はどうなるのでしょうか。 

*「見ないのに信じる人は幸いである。」

イエス様は、八日間という時間を経たのち、疑いと不信仰の中にいたトマスを弟子仲間に戻すために再び弟子達を訪ねられ、「あなたがたに平和があるように」と言われました(この平和は、神様の業、賜物です)。

そしてトマスに「あなたの指をここに当てて・・あなたの手を伸ばし・わき腹に入れなさい」と、望むことをするように言われた時、トマスの口から出た言葉は「私の主、わたしの神よ」との信仰告白でした。

見ないのに信じる人は幸いである。」とイエス様が言われた通り、2000年を越える今も、教会で、又、私達の伝道所で、イエス様を見ないのに信じる幸いな方々」が起こされています。 *「これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(31節)。信仰は、聖霊が働くことによって私達に届けられ、確信が与えられます。そして信じた者には永遠の命が与えられています。「イエス様を信じる者は死んでも生きる」(11:25)のであり、私達信仰者は「信仰の実りとして魂の救いを受けている」(Ⅰペトロ1:8)のです。