2022年1月2日の説教要旨 詩編89:2-15・ルカ福音書2:41-52

*はじめに

イエス様誕生の喜ばしい知らせを受けたのは、ベツレヘムで人々からあまり良い評価を受けていない立場の羊飼い達であり、神様は、この羊飼いをイエス様誕生の出来事を言い伝える人として選ばれています(ルカ福音書)。

さらに東方では、ユダヤ人の王となる「星」を見つけた異邦人の、占星術の学者達がエルサレムにいるヘロデ王を訪れて、メシア誕生の場所を尋ねました(マタイ福音書)。ヘロデ王は、祭司長達や律法学者達に調べさせ、預言書からユダヤのベツレヘムであることを知り、学者達に伝えました。学者達が出発すると東方で見た星が前を進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。学者達はこうしてイエス様を拝し、贈り物を献げました。

*公現日

このように幼子イエス様はユダヤ人だけではなく、異邦人(ユダヤ人以外の外国人)にも現れて下さいましたので、この時を「公現日」(顕現日)として記念し、クリスマスから12日後にあたる1月6日にお祝いします。

羊飼いや、東方の博士達がイエス様に出会い、喜ばしい知らせ、素晴らしい体験をしたのと同じような喜びが本日の旧約聖書に記されています。『主の慈しみを とこしえに わたしは歌います。 わたしの口は代々に   あなたのまことを告げ知らせます』(詩編89:2)。

告げ知らせます

元の言葉は「知る」、「理性的に知る、経験を通して知る、人格的に知る」という意味があります。人々が神様とのかかわりを通して、神様との体験、神様との出会いによって、神様のことを他者に告げる、知らせる、という意味です。つまり、わたしたち、神様を信じる者達が、神様と実際に出会い、神様が行われる 偶然とも思えるような出来事、素晴らしいわざ(しるしや不思議や奇跡)を、自らが体験する、その場所に入る、出会うことによって、本当の神様、生きたまことの神様、喜ばしい知らせ、聖書の言葉を、他の人にも教える、告げ知らせるということなのです。

 特に2節では、神様から与えられた私の口を使って、神様は真実であること、まことであること、本当で変わることのない絶対的な神様が存在すること、揺るぎなく、昔も今も、これからもずっと続く永遠の神様がいて下さると告白し、宣言することが大事だと記しているのです。

*神殿での少年イエス

 本日のルカ福音書には、イエス様の両親(ヨセフとマリア)は、毎年、過越の祭にエルサレムに行かれていたこと、そしてイエス様が12歳になった時、両親はイエス様を連れてエルサレムに行かれた時のことが記されています。<当時は13歳で大人の仲間入り(神の民の一人となる)をして、掟、律法を守って生きる(聖書に従って歩む)者となります>。

祭りが終りヨセフとマリアが帰路に着いた時、途中でイエス様がいないのに気づき、捜しながらエルサレムに引き返し、神殿の境内でイエス様を見つけました。心配して捜していたマリアに、イエス様は、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われました(49節)。

*父の家

両親にはこの言葉の意味が分かりませんでした。イエス様が父の家にいること、イエス様は父なる神様から生まれ、父が住まわれる聖なる神殿にいるのは当たり前であり、それ以外の場所は考えられないことを両親はまだ気付いていなかったからです。このことからも神様、イエス様は、神様が用意して下さっている場所、神様が備えて下さった礼拝場所には、神様がおられる、宿っていて下さることが分かると思います。

*わたしたちの教会

 私達ひとり一人、神様から造られた者達です。その神様から造られた者たちが一緒に集まる場所、神様がおられる所に集まるのは当然のことです。各々に与えられた場所で、個人的な神様との交わりの時間も必要ですし大事なことです。しかし、共に集まり共に祈る、共に励まし合い、教会「礼拝を共にし、主に在る交わりの場所」ではないかと思います。

クリスマス礼拝・2021年12月19日の説教要旨

詩編2:1-12・ヨハネ福音書1:1-14

              「輝 く 光」         加藤秀久 伝道師

*はじめに

 旧約聖書の創世記の初めには、神様が天地を創造され、その創造は混沌(こんとん)とした地の闇の中から神様の「光あれ」との言葉で始まったことを伝えています。その言葉により、地上は光と闇とに分けられ、神様は光を昼と呼び、闇を「夜」と呼ばれた(5節)とあります。

本日のヨハネ福音書は、「初めに言(ことば)があった」と記されています。

 この神様の言葉によって私達も今ここに存在しています。そして私達は今日、イエス様のお誕生の出来事を聞くために、又、お誕生をお祝いするためにここに集まって来ています。

*イエス様の誕生の出来事

イエス様は、父なる神様から出た「(ことば)」と共にあり、人の姿をした神であり、私達生きる者達に命を与えてくれるお方、輝く光となるお方です。神様はこの「(ことば)」を通して私達人間がお互いに意思や感情、考えを伝え合うことが出来るようにして下さいました。

 イエス様の誕生は、皇帝アウグストゥスの「住民登録をせよ」との命令から始まります。ナザレに住んでいたヨセフとマリアは、登録のために、ベツレヘムへ向かうことになりました。妊娠中のマリアにとってベツレヘムへの道のりはとても大変な移動であったに違いありません(約136km)。しかし神様はこうしてヨセフとマリアをイエス様の誕生の地ベツレヘムへと導いたのでした。そしてベツレヘム滞在中にマリアは月が満ちて、イエス様誕生の時を迎えますが、どこの宿屋もいっぱいだったため、家畜小屋に泊まることとなり、生まれた子供は「飼葉おけ」に寝かせることになりました。これがイエス様の誕生の出来事です。

*神様の定められた時

本日の詩編2編1-12節では、神様の定められた時に、来るべきお方、神様の子、イエス様が生まれることが述べられています。新約聖書の記者達は、この詩編は、神の子の到来を指し示していると考えます。

特に7節の「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」との「今日」は「その日」とも訳すことが出来、神様によって「定められた日」、神様によって「しるし付けられた特定の日」を意味していて、私達人間には変えることの出来ない神様の御計画の中で起こっている、前もって定めた「その日」があることを意味します。

本日のクリスマス礼拝も神様を礼拝する大事な「その日」でもあります。

12節では、「その日」を頼りにし、お祝いし、主を避けどころとする者は幸いであると私達に伝えているのです。

*「今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)

 神様は、初めに私達に何を与えて下さっているのでしょうか。

神様は、神様の栄光をこの地上に輝かせるため、私達を罪から救うため、愛する独り子イエス様をお与えになりました。この救い主の誕生がなければ、私達の救いの出来事や救いの体験も起こりません。

 神様は、ご自身の約束に従って、神である御子をこの時=今日という時間の中へ(歴史の中へ)と送り込まれました。そして御子イエス様は人間として最も弱い立場である赤ちゃんとして生まれ、その生涯の終りには人間としての恥を受け、人々から見下されて、十字架に架かり、死ななければなりませんでした。この出来事はすべて、私たち生きる者のための、神様の御計画の中で起こったことでした。

*「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(5節)

「しかし、言(イエス様)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々  には神の子となる資格を与えた」(12節)

 人々は、この世の忙しさ 楽しさ 誘惑に心が奪われ、光として来られたイエス様を知ろうともしません。けれどもイエス様を受け入れて信じた者は「神によって生れて」(13節)「神の子とされ」ています。神の子とされた私逹の内にはイエス様が宿られていて、私達はイエス様の恵みと真理に満ちている御子の栄光を見ることが許されているのです!

2021年10月17日の説教要旨 詩編86:2-10・マタイ福音書25:1-13

「神の国にいたる者」         加藤秀久 伝道

*はじめに

本日の詩編は、ダビデが悩みの中で神様に助けを求めて祈りをささげています。ダビデはどのような時でも神様を信じ、神様に目を向け、前を向いて歩んでいくことを心掛けていました。ダビデは「神の箱(十戒が納められていた契約の箱・主の箱とも呼ばれ、神様の臨在の象徴)」をダビデの町(エルサレム)に運び入れる時、喜び祝い、力の限り主の御前で踊りました(サムエル記下6:14)。それは主の現れ、神様が存在して下さる所には神様の祝福が伴い、神様の栄光があったからです。神様は偉大な神、揺るがず、絶対的で真実なお方です。私達が深い陰府(よみ)に下ったとしても、その中から救い出して下さるお方であることが86編に記されています。

ダビデはこの神様に、真理を求め、心を尽くして感謝をささげ、神様が与えて下さる確かな道を歩むことを望んだと思います。

主の霊の力は どこからくるのでしょうか?

*讃美歌312番

よく讃美する歌に「いつくしみ深き」があり、2番に「友なるイエスは・・祈りにこたえて慰めたまわん」との歌詞があります。私達人間の心や気持は変わりやすいものですが、イエス様は、私達の弱さを知っていながらも、いつまでも変わらぬ愛をもって私達と関係を持って下さり、「悩み悲しみに沈める時も・世の友がわれらを棄て去る時も」、私達の祈りに耳を傾け、励まし、私達を救い出して下さる唯一のお方であることが記されています。

*10人のおとめたち

本日のマタイ福音書25章には、10人のおとめ逹がランプをつけて花婿の到着を待っていて、その内5人は愚かで、5人は賢かったとあります。「愚か」「賢い」とは、「開いた目」という言葉が背後にあり、賢い者とは、来るべきもの、イエス様が再びこの地上に来ることに対して目を開いて見ている、目を覚ましていることを示し、しっかりと神様に目を向けていた人々のことを記していると思います。愚かなおとめ逹は、花婿が迎えに来た時に、ともし火を持っていましたが、油の用意をしていませんでした。ところが花婿の到着が遅れたので、どちらのおとめ逹も、眠気におそわれて眠り込んでしまいました。

*花婿の到着

真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がしたので、おとめ逹は皆起きて、ともし火を整えました。壺に油を入れていたおとめ逹は、油をつぎ足しましたが、愚かなおとめ逹の火は消えそうでした。そこで賢いおとめ逹に「油を分けてください」と頼みましたが、「分けてあげるほどはありません。店に行って、買ってきなさい」と勧められました。

愚かなおとめ達が買いに行っている間に花婿が到着し、用意のできていた5人は花婿と一緒に婚宴の席に入り戸が閉められました。その後、他の5人も来て「御主人様、開けてください」と頼みましたが、主人は、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と答えています。

だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(13節)

譬えの、「ともし火・油・整える・分ける・消えそう」は、どれも、私達の心、神様との関係、神様の霊、聖霊について話されていると思います。イエス様は、私達が日々霊に満たされて歩んでいけるように、神様の言葉に聞き従い、祈ることを求めていますが、神様を信じる信仰に違いがあることが本日の聖書で述べられています。神様を信じる信仰は、聖霊の働きによって生み出されますが、信仰生活は何かの問題にぶつかったり、身体の疲れからくる気力のうすれ、力の限界を感じた時など様々なことが原因で神様との関係がおろそかになり、愚かなおとめのように、ともし火を整えられず、「霊」である油をたくわえることも、つぎ足すこともしなくなってしまうことがあります。これらは悪魔が私達をイエス様から引き離そう、目を神様より他に向けさせようとしてこの地上にある物を使い私達を攻撃しているに過ぎません。神様の御霊は、私達の生きる源であり、信仰生活を持続、成長させて下さるものです。

今週の歩みが、主の豊かな霊に満たされますようにお祈りを致します。

2021年8月15日の説教要旨 詩編15編・ヨハネ福音書7:40-52

「真実なお方」   加藤 秀久伝道師

*はじめに

詩編15編には、神様の家には誰が住むことができるのか、どのような人が聖なる山に住むことができるのかという問いかけから始まり、その条件が2節以下に記されています。「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり 舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人をあざけらない人。主の目にかなわないものは退け 主を畏れる人を尊び 悪事をしないとの誓いを守る人。金を貸しても利息を取らず 賄賂を受けて無実の人をおとしいれたりしない人。

これらの事柄は、礼拝するにあたり、ただ各自の態度や姿勢についての要求がなされています。すなわち私達が神様に礼拝することは、神様に犠牲の捧げ物を献げるよりも、自らが「献げ物」となる、「私自らを神様の教えに従わせる」ことが大事だと強調しています。

つまり私達は、神様に正しいとされる生活を送り、人の悪口を言わず、うわさ話に耳を傾けず、隣人を傷つけるような態度をとらず、悪とされるものから足を遠のけ、主に従う人達を大切にする。そして相手から損を受けたとしても、立てた誓いは変えない、賄賂を受け取って無実の人に不利な証言を間違ってもしない・・ならば、その人は神様から多くの祝福を得ることになるでしょう。

旧約時代の礼拝者は、この基準に沿って、神様の言われることを行ない、祭司に聖所の立ち入りを認められて、神様の前に出て礼拝をすることが許されたのでした。私達は、神様に近づく時、どのような態度、心構えで神様に礼拝を献げているのでしょうか?

*信じる者は、生きた水が川となって流れ出る(7:37~)

 本日読んだヨハネ福音書の少し前の37節に、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」とありますが、この祭りはユダヤ人の三大祝祭日の一つであり、一週間続く「仮庵(かりいお)の祭り」(申命記16:13:小麦の収穫が終り、穀物収納の感謝祭)のことで、ユダヤ人達は特別な儀式を行います。

それは「水を汲む祝い」と呼ばれ、神殿に仕える祭司達はシロアムという名の池に下りて水を運び神殿に持ち帰ります。人々はこの祭司達の後に従って楽器を鳴らし喜び歌いながら歩いて行くのです。そして祭司達はその水を祭壇に注ぎかけます。その時人々は祭壇の周りを歩きながら「ホサナ」と叫びます。これはヘブライ語で「どうか救って下さい」という意味です。祭壇の傍らには一本の柳の木の枝が置かれ、切り取られた柳の枝がすぐに水分を失い、わずかな時間で枯れてしまう様子を自分達に当てはめながら、柳の枝が水を必要としているように「私達にも神様の救い・助けが必要です。どうぞ私達の必要を満たして下さい」との願いを込めてこの儀式を行なっていました。この儀式の最中にイエス様は大声で、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と叫ばれたのでした。

信じる者信じない者

 この言葉を聞いた人々は、「この人は、本当にあの預言者だ」とか「この人はメシアだ」と言う者と、「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫でベツレヘムから出ると聖書にあるではないか」との対立が生まれ、この対立は人々を神様を信じる者と信じない者とに分けました。信じない者は、神様はイスラエルの独立と栄光と義を回復するために人間を遣わすのであり、神様が人の姿でこの地上に現れるとは考えていませんでした。

イエス様は、私達人間を罪や悩み、様々な問題など神様との間に壁を作っている事柄から救い出す為に、この世に来て下さり、十字架にかかり、死なれ、甦られました。イエス様は「わたしを信じる(た)者は、その人の心の奥底から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われています。イエス様を一度受け入れたらイエス様から離れることは出来ません。イエス様はそれだけ、私達・あなたを愛しているからです。

なぜならわたしがイエス様を選んだのではありません。 イエス様が、あなたを形造り、あなたを選んだのですから…。

2021年7月4日の説教要旨 詩編143:1-6・マタイ福音書7:1-14

「神に祈ること」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日の詩編143編では、ダビデは様々な苦難や試練に会い、追い詰められた状況の中で神様に助けを求めています。自分の命をねらう人達から逃げなければならない放浪生活は、まるで出口の見えない暗闇に閉じ込められたような日々の中での苦しみや悩みでした。そのため4節で「わたしの霊はなえ果て 心は胸の中で挫(くじ)けます。」と訴えます。ダビデの神様へ向けた訴え、祈りは非常に切実なものでした。

1節「主よ、私の祈りを聞いてください。嘆き願う声に耳を傾けてください。あなたの真実、あなたの義によって、わたしに答えてください。

2節「あなたの僕を裁きにかけないでください。生ける者の中であなたの前に正しい者はいないからです。」(聖書協会共同訳)

 私達もダビデのように、苦しみ・悩みから助け出して下さるように神様にお祈りをしたことはないでしょうか。

*祈る中で・・

ダビデは祈り続ける中で、心の中に変化が訪れます。それは神様から受けた昔の日々の出来事に思い巡らして祈ることで、神様の御手の業、神様の働きを考え始めたからです(5節)。ダビデは静かに心を落ちつかせて祈ることで、神様の優しさ・偉大さを思い起こすことが出来たのでしょう。そして6節で「あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます」と祈り、ダビデは自分の身を隠すことのできる祈りの場に身を置くことで、神様を信頼するようになりました。

 私達も又、神様に思いを寄せて祈る時、神様のして下さった業、出来事を思い起こして神様に希望を置くことができ、神様を信じる道へと歩み出す力、進み出す力が与えられると思います。

*神様の国に入る心構え

 本日のマタイ福音書7章では、イエス様に従い、神様の国に入る者達の心構え、呼びかけの言葉としての締めくくる言葉が告げられています。

裁くな」と「求めなさい」です。「裁くな」には自分は裁かれている(批判されている)かもしれないという「恐れ」の思いや、自己嫌悪の気持が強いほど、逆に人を裁いてしまう傾向があるようです。「裁く」の元の言葉には「見下げる、判断する」意味があり、人のことをあれこれ考え、見下して評価してしまうような態度をとることです。

イエス様は、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」と言われました。私達は自分の価値基準で人を量るのではなく、神様と聖書の言葉に目をとめて従うべきであり、神様がなさろうとすることに注意をはらうべきです。それは主にある私達が神様を仰ぎ、祈り求めていく一途な心を身につけることではないでしょうか。

*「求めなさい」

神様が教えようとされているのは、山上の説教で語った話を心に留め、それらを守り行なうことができるように求めて、探して、門をたたきなさい、と言われていると思います。「求め、探し、たたく」は、神様の国を求める人々にとって、とても重要な言葉です。「私は人を裁いてしまうし、ふさわしくないから、神様の言葉を守ることができない」と感じるかもしれません。しかし神様はそのような人を救いの道へと導き入れ、神の国に入るのにふさわしいと者と考えておられます。なぜならその人は、すでに神様に対してへりくだりの心を身につけて、神様の国のことを考えているからです。「求める、探す、たたく」の元の言葉は「求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい」と、諦めず何度も何度も求め続ける、探し続ける、たたき続けることが求められています。

*神の国

神の国は、喜びの源が私達の外側ではなく、内側にあることをいいます。私達の内側から生命の水・生ける水の川が流れ出るような世界であり(ヨハネ 7:38)、それによって神様に造られた者全てが活気づく世界なのです。<ダビデの詩編16:9-11を読みましょう。>人は、神様の力、神様の霊を受ける時、又、神様を感じる時、その心は喜び魂は躍ります。そして私達の身体は神様の霊の中で安心して休むことができるのです。

2021年5月16日の説教要旨 詩編93篇・ルカ福音書24:44-53

「主イエス・キリスト」  加藤 秀久伝道師

*はじめに

私たちが生きる世界や神話の世界では、人の手で作った神々や神格化された権力者達が多く登場します。しかし本日の詩編では、主である神様こそが王であることを宣言します。私達が信じる神様は、威厳と力を身にまとい、その支配は昔から変わることなく固く根を下ろし、決して揺らぐことがないと告白しています(1-2節)。又、潮や大水、海に砕け散る波(3-4節)という表現は、主の正しさを乱し、脅かす神話的な力、混沌とした無秩序な力を指し、しかし主は、その無秩序な力から更に高く、力強く、主の支配があることを告白しています。

 この「主」であり「王」である神様のおきては堅く立ち、人々が神様の律法を守ることにより、神殿の尊厳さは現実のものとなります。神殿には、神様に選ばれた人々の群れがあり、時の続く限り、永遠に神様を礼拝し、神様を称える神の国があることを伝えています。

*“必ず”

 本日のルカ福音書24章は三つの部分に分けることができます。一つは、準備した香料をもって墓に行った婦人達のそばに、二人の御使いが現れて、「イエス様が『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』と言われたではないか」と、婦人達に思い出すようにと言った出来事です。

 二つには、二人の弟子が「エマオ」の村に向かって歩いているとイエス様が近づいて来られた出来事です。しかし弟子達の目がふさがれていたのでイエス様と分からずに、イエス様の十字架での死や、お墓の中の遺体がなくなっていたことなどをイエス様に告げました。それを聞いたイエス様は、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と彼らに告げて、聖書全体にわたりご自分について書かれていることを説明されました。口語訳と新改訳では、「キリストは必ず、これらの苦難を受けて・・」と、“必ず”と言う言葉が入って訳されています。

*「必ずすべて実現する」

 三つめの本日の箇所では、復活されたイエス様が弟子達に現れ、真ん中に立ち、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。(44節)」と言われて、メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活すること、イエス様のお名前によって罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられること、弟子達がこれらの証人となること、を宣言されました。

*すべてが現実に起った!

 以上24章では、三か所にわたり「どうしても~ねばならない(決定的にそうなっていて変えられない)」という意味の“必ず”という言葉が使われ、この中に、すでに神様によって「そうするように定められている、計画されている、一番ふさわしい方法で起って当然」という意味を含ませています。しかも、イエス様が十字架にかかり、死なれ、復活した事実について、イエス様がすでに旧約聖書の言葉を解き明かし、ご自身の身体を通して神様の約束が現実に起ったと告げています。

*証人となった弟子たち

 イエス様はこれらの言葉を語った後、弟子達を祝福しながら昇天されました(50節~・使徒言行録1:3~11)。弟子達は、復活したイエス様を自分達の目で見たのですから、聖書に書かれていることが真実であることの証人となりました。

*わたしたち

 神様は私達にも、神様の告げた言葉や計画は、必ず実現すると約束しておられます。イエス様は、去った神様(の御子)ではなく、今も、いつも、心にすでに宿っているお方、共にいて下さるお方です。

聖書に目を留め、耳を傾け、静まってみて下さい。神様は今も、ここにおられます。神様は私達を一人にせず、たとえ拒んだとしても神様は離れません。なぜなら私達はすでに神様を受け入れ、信じているからです。

神様はそのことをご存じです。ここに希望があり、平安があります。

2021年4月11日の説教要旨 詩編118:13-25・ヨハネ福音書20:19-31

「主イエスの現れ」   加藤秀久伝道師

*はじめに

本日の詩編118編は、詩編113~-118編の、「ハレルヤ詩編」と言われている中にあり、ユダヤ教の礼拝において、巡礼祭、過越の祭り、仮庵の祭りと新月や神殿奉献の際の礼拝文として読まれています。118編13節には「激しく攻められて倒れそうになったわたしを主は助けてくださった。」とあり、神様を信じる者達は、たとえ他国の人々がエルサレムに来てユダヤ人を取り囲み、消し去ろうとしても、主の御名を呼び求めることによって、神様は彼らの声を聞き、救いの道へ導いて下さることが述べられています。又、25-26節に「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。」と歌われています。

*エルサレム入城

イエス様がエルサレム入城をされた時、人々は「ホサナ(どうぞ救って下さい)。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫び、歓迎しました(ヨハネ12:13参照)。しかし最終的にはユダヤ人に受け入れてもらえず、十字架につけられ亡くなりました。イエス様は、エルサレムのユダヤ人に対して、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、主の名によって来られる方に、祝福があるようにと言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」(マタイ23:38-39)と嘆かれました。ユダヤ人が主の御名を呼び求め、心から主の御名を称える日が来るまでは、神様に出会うことはないと言っています。

*「主イエスの現れ」

 十字架の死のあと、イエス様はどのようにして弟子達の前にその姿を現されたのでしょうか。本日のヨハネ福音書には、弟子達が、自分達の主・イエス様を十字架で失ってしまったとの絶望感に加え、自分達もやがては逮捕されるかもしれないと、週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていた時のことが記されています。そこへイエス様が来られ、「あなたがたに平和があるように」と、弟子達に挨拶されたのです。

イエス様は鍵のかかっているドアから家の中へ入ってくることがなぜ出来たのでしょうか。それはイエス様の「自然の命の体」が復活することにより、「霊の体」になっていたからです(参照:コリント書Ⅰ、15:46)。

イエス様は弟子達に、ご自身の手とわき腹の傷跡をお見せになりました。

*「聖霊を受けなさい。」

 イエス様は弟子達に重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」と告げました。この聖霊は、弟子達に全てのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせて下さる霊です。弟子の一人トマスはその場にいませんでした。彼は、「主を見た」と他の弟子達が言っても、自分で直接触ってみなければ決して信じないと言いました。

その八日後、再び復活したイエス様が現れて、トマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と、イエス様に答えています。イエス様は「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と告げました。

*わたしたち

私達はイエス様に直接会い、その姿を見たことはありません。しかし、そのイエス様がここで私達に「見ないのに信じる人は、幸いである。」と告げています。私達を、イエス様を信じる者として下さったイエス様は、弟子達に姿を現した後も、多くのしるしを行いました。私達はこの聖書に記されている言葉を通して、神様に出会うことが出来、神様のすばらしさや力強さを感じることができます。イエス様は、今日も私達の前に現れて下さいます。神の御子イエス様は光り輝き、神様を信じる私達に、その輝く光を与えて下さいます。イエス様を信じて、主の御名を呼ぶ者達は、神様から永遠の命を与えられ、平安を持つことができるのです。

2021年4月4日の説教要旨 詩編30:2-6・ヨハネ福音書20:1-18

「復活の日」     加藤秀久伝道師

*はじめに

 詩編30-32編には、病を癒された人の歌が取り上げられています。

2節の「あなたをあがめます」の元の言葉では「高くする」の意味があり、詩編作者は、自分自身が苦しみの中から「引き上げ」られたと、主を高くしています。「引き上げて」は本来井戸から水を引き上げる、救い上げる時に使う言葉です。神様を讃美することは、神様を高くする、崇める、礼拝する行為であり、神様は私達を苦難の中から、まるで井戸から水をくみ上げるように、一人一人を救い上げ助け出して下さることが述べられます。

 私達は神様を信じることにより、どんな時にでも神様の名前を呼び、助けを求めることが出来ます。そして私達が神様の名前を呼び、助けを求めることで、神様は私達の方へと近づいて来て下さり、苦しみや悲しみの中にある者達を日の当たる明るい世界へと導き、救い出して下さるお方です。

墓穴に下ることを免れさせ 私に命を得させて」(4節)

元の言葉では、「墓穴に下る者達の中から、あなたはわたしを生かした」となります。詩編の作者は、自らが墓穴に下るべき者であることを自覚していました。そして「ひと時、お怒りになっても命を得させることを御旨として下さる」(6節)と、作者自身の行為が神様の怒りを招いたことも認めます。さらに私達の命は、神様の御心、お考えの中にあることを述べて、神様は「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(同)お方で、私逹にとって、かけがえのない存在になっています。私達は、神様を信じて、受け入れ、罪赦されて救われなければ、神様に対する喜びの心と感謝の心は持てないと思います。

*マグダラのマリアとペトロともう一人の弟子

本日のヨハネ福音書では、週の初め、イエス様がお墓に埋葬されて三日目の日曜日朝早く、ようやく辺りが暗闇から光が照らし始め、明るくなりかけた頃、マグダラのマリアがイエス様の遺体が納められているお墓に行き、封印されていた石が取りのけられ、遺体がなくなっていることを知り、走ってペトロともう一人の弟子に知らせたことが記されています。二人の弟子も一緒に走り、お墓から遺体がなくなっていることを確かめます。かつてイエス様が、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(ヨハネ16:16)との御言葉が実現しようとしていました。しかし二人の弟子達は、「イエスが必ず死者の中から復活されることになっている」という聖書の言葉をまだ理解していなかったとあります(9節)。それは、弟子達にはまだ聖霊が注がれておらず、彼らの内に聖霊が働いていないので理解出来なかったと思われます。

*復活されたイエス様

弟子達が家に帰った後もマリアはお墓の外で泣いていました。そしてお墓の中を見ると、イエス様の遺体があった所に白い衣を着た二人の天使がいました。「なぜ泣いているのか」と天使から聞かれたマリアは、「私の主が取り去られました」と答えながら後ろを振り向くと、そこに立っておられたイエス様を見ます。しかしマリアは園丁だと思い、遺体場所を聞きます。イエス様はマリアに、「マリア」と呼びかけ、マリアはその声でイエス様だと知ります。イエス様はマリアに、これからご自身は父なる神様の所に上(のぼ)られることを告げ、そのことを弟子達にも知らせるように命じられました。マリアは誰よりも先に復活したイエス様に出会い、イエス様のことを宣べ伝える証人となったのでした。

*私達とイエス様

私達にも今日、復活したイエス様が現れて下さっています。神様は、私達罪人だった者を 罪の生活の中から救い出すために、愛する一人子イエス様を陰府へと下らせ、そこから救い上げ、助け出して下さいました。このイエス様に私達は希望を持つことが出来るのです。 神様は、私達がイエス様を信じて、受け入れ、従う決心をした時、私達を進まなければならない方向へ誘導し、私達を神様の計画した道へと導き、歩ませて下さいます。今日、復活したイエス様があなたの前に立ち、あなたの名前を呼んでおられます。あなたはこのことを信じますか。

2021年3月7日の説教要旨 詩編90:1-12・ヨハネ福音書6:60-71

「命の言葉」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

今、お読みした詩編90編は、1節に「祈り。神の人モーセの詩」とあり、人は、神様の戒めから離れることで罪深い者となり、神様なしの生活が無力で空しいものとなり、特に人に与えられた命のはかなさ、短かさを語っています。神の人モーセは神様との出会いを通して変えられ、導かれ、守られました。なぜなら「山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神」(2節)だからです。

神様を信じる者に主は、今もこれから先も、いつまでも変わらぬお方であり、主は「わたしたちの宿るところ」(1節)、私達の住まいであると告白し、さらに神様にとって千年は、きのうから今日へと移る夜のひとときにすぎず、「朝が来れば花を咲かせ、夕べにはしおれ・・・(6節)と、人間の生は、永遠に生きる神様とは比べることができないと告白します。人の命のはかなさは、私達人間が神に背を向けて罪を犯した結果の神様からの怒りによるものであり、神様は、人が心の中に隠した罪さえも明らかにされます。それゆえ私達人間は、神様を畏れ、神様を敬い、神様の前にへりくだることです。90編の終りには、「私達の神、主の喜びが 私達の上にありますように。私達の手の働きを 私達のために確かなものとし 私達の手の働きをどうか確かなものにして下さい。」(17節)と祈っています。

私達も与えられた人生の日々を、このように祈りつつ歩みたいと思います。

*「わたしは命のパンである」(6:48)

本日のヨハネ福音書には、イエス様の話を聞こうと集まった群衆に、イエス様がご自身のことについて譬えを用いて語った、その話の後の出来事が記されています。イエス様は「神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである。」(33節)と教えたので、群衆はそれを聞き「主よ、そのパンをいつも私達に下さい」と頼みました。それに対するイエス様のお答えは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6:35)です。

 イエス様は続いて、人々がイエス様を見てはいるものの永遠に続く命のパンを食べようともせず、信じようともしないことを指摘し、“天から降り、生きたパンである”イエス様を食べる(=イエス様を信じて信仰を持つ)者は、永遠の命を得て終わりの日に復活させられると、伝えました。

*「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6:56)

この言葉を聞いた人々は「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言い、そこにいたユダヤ人だけではなくイエス様に惹かれてきた人達(広い意味での弟子達)も、この言葉につまずき、イエス様から離れ去って、共に歩むことをやめてしまいました。

イエス様は、イエス様を信じる信仰は人間の決心や努力ではないことを明らかにしています。イエス様は人々に、「わたしが命のパンである」と言っただけであり、又、出エジプト記では、神様はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言っただけでした。どちらの場合も神様が告げた言葉、真実の言葉がそこにあります。しかし人はその言葉を聞くと驚きや恐れを抱き、真実の言葉、命の言葉がそこにあることに思いを寄せず、ためらい、その意味を理解せずに、つぶやきました。

イエス様の言葉は“霊”であり、“命”(63節)

イエス様は彼らを戒めるように、“肉”は何の役にも立たないと言われます。私達はどうでしょうか。私達の想いや口では「イエス様を信じて従います」と言いながら、どこかでイエス様にではなくこの世の生活に身を任せてイエス様との関係を疎(おろそ)かにしていないでしょうか。神様はこの世を造られ、イエス様というお方を私達の犯した罪を取り除くために地上に人として遣わされ、私達に永遠の命を与えるために十字架にかかり亡くなられました。私達はどのようにしてこの言葉に答えをだしますか。私達がイエス様を信じて一歩前に踏み出さない限り神様は心の中に入って来ることができません。私達は聞いて信じて従う者となりましょう。私達のどんなに小さな願いや思いでも聞いて下さる神様がここにおられます。私達には命の言葉が与えられているのです。

2020年10月18日の説教要旨 詩編90:1-12・Ⅱコリント書5:1-10

「聖霊の守り」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに 

詩編90編1節に「祈り、神の人モーセの詩」とあります。モーセは、「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」と告白ました。人間にとって神様は、私達を守って下さる場所、避難所であることを確認しています。そのことは、「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々変わりなく、永遠に至るまで」私達の神であられることを意味しています。そして神様は、人を、元の塵に返すことで、人は はかない存在であることを述べています。朝に花を咲かせ、夕べにはしおれて枯れていくように、私達の人生は短く、苦労に満ちた生活となっていることを告白し、神様の目からすれば、千年といえども一日が過ぎ去るようでしかなく、人生はほんの一瞬にしか過ぎないゆえに、神様の慈しみを願い祈っています。

さらに人は、神様の前に罪を犯し、その犯した罪を隠そうとしても、神様は明らかにすると告げます。私達生きる者はアダムとエバが罪を犯した時から罪の呪いの生活の中に入れられました。人は神様のかたちに造られ、永遠に生きることのできる者であったにもかかわらず、蛇の誘惑を得て、善悪を知る知識の木から実を食べ、神様に従わなかった罪の代償として「死」がこの世界に入り込みました。私達は、彼らの犯した罪を受け継ぐ結果となり、神様の怒りの中で生活していると言えると思います。

*「生涯の日を正しく数え、知恵ある心を得ることができますように」

この罪からの脱出の道は、私達の過去に犯した罪(神様から離れた生活)を告白して神様の赦しを得ることです。それは、私達が神様の前に自らを低くして、へりくだることから始まります。

このモーセの祈りは、私達も又、生かされている日々を正しく数え、キリストにある生活を歩めるように、「神様からの知恵ある心」を得ることができるように、主と共に歩み続けることができるように、と願い祈る大切さを教えてくれるのです。

*地上の住みかと天の住みか

 「私達の地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」と、本日のコリントの手紙5章は始まります。私達の身体は、この地上において、やがて衰え朽ちていき、塵にかえります。ヨブ記では「人は塵の中に基(もとい)を置く土の家に住む者」(4:19)とあり、私達の身体が塵(土)から造られている住み家であることが分かります。

しかし天にある住みかは、永遠の住みかであることが記されています。

*保証としての“霊”

パウロは、彼の証の中で、イエス様を信じる者達には天にある住みかが用意されていることを伝え、信仰を与えられた者はその保証として、生きた神の霊が与えられていることを力強く述べました(5節)。そしてパウロにとって自分自身の霊が肉体から離れることは喜びであり(8節)、今ある身体は一時的な仮住まいの場所(地上の幕屋)であり、復活の身体においては、永遠の栄光の希望の光があることを記しています。

裁きの座の前に立つ

私達すべての人間は、必ず神様の裁きの座の前に立つことになります。地上での生活が、人を傷つけたままの状態であったり、悔い改めようとしない者が、クリスチャンの中にいるかもしれません。自分は救われているから、神様に会えるから、天国に行けるから・・と、自分の過ちや弱さから目を背ける人々に、この手紙は、「それぞれが身体、肉体によって行ったことに応じて神様からの報いを受けねばならない」と告げています。

パウロは、地上を住みかとしていても、天にある住みかであっても、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と切望しています(9節)。

 神様は、今日も真実なお方です。今日、私達の心の中に祈らなければならないこと、悔い改めなければならないことが思い浮かんだのなら、神様に赦していただけるように祈りましょう。 私達が信じて祈り求めるのなら、その答えを必ず与えて下さいます。