2023年10月29日の説教要旨 詩編104:19-23・ヨハネ福音書1:1-14

              「創 造」        加藤 秀久牧師

*はじめに

 神様はこの地上を造られた時に、神様が良いと思われる方法で、地上のもの全てを規則ただしく置かれました。そのことは私達がこの地上のもの、特に神様が造られた自然(森や木、水、山や海)に目を向ける時、神様の素晴らしさ、偉大さを見ることができると思います。

 本日の詩編104編19節に「主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている」とあります。神様は月と太陽によって生き物たちの生活を保つための順序や決まりごとを定められていると感じます。例えば、季節の変わりゆく姿、もうすぐ春とか天気が良くなるとか日が暮れるなど、動植物も含め、私達が五感で感じる事柄は神様が与えた特権でもあります。

*光と闇(やみ)

創世記1:14以下で、天地創造において神様は大きな二つの光を造られ、大きな光に昼を、小さな光に夜を治めさせ、光と闇を分けられたとあります。本日の詩編では「あなたが闇(やみ)を置かれると夜になり 森の獣は 忍び出てくる。若獅子は餌食を求めてほえ 神に食べ物を求める。太陽が輝き昇ると彼らはかえって帰って行き それぞれのねぐらにうずくまる。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。(20~23)」とあり、神様は、昼に生きるものと夜に生きるもの、全ての生きもの逹がみ手の業の中にあることを示しています。ヨブ記38章には理由が分からない苦難の中で祈るヨブに、神様は嵐の中から「わたしはお前に尋ねる、私に答えて見よ。私が大地を据(す)えた時、お前はどこにいたのか。知っていたと言うなら言ってみよ(4節)」と答えられています。天地創造の時、あなたはどこにいたのか?との問いは、私達に、神様中心的な考え・想い・態度をもって、ひたすら神様を信じて求めるべきと伝えているようです。

私達は人生のどこかのタイミング(時期)で「自分は、神様の創造の中に、計画の中に、生かされている」ということを知る必要があると思います。

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。

本日のヨハネ福音書の初めの言葉は、私達に、天地創造を思い起こさせる言葉になっていると思います。神様は、言葉を発することで天地を形造られたことを示しています。この言葉は、神様の想い、天の国が地上でもあるようにとの願いが込められていて、「」の中に「イエス様」のことを示していて、神様が告げる言葉は、神様の子供であるイエス様の言葉でもあることがすでに定められていました。

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(4節)」

神は言われた。『光あれ。』(創世記1:1)」とありますように、神様は言葉によって光を現わしたこと、その言葉は初めに神様と共にあったこと、これはイエス様が天地万物の創造以前にすでに神様と共にあったことを告げています。そして「言は肉となって、私達の間に宿られた。(14節)」とあり、イエス様が私達と同じ被造物ではなく、最初から存在していたことが述べられます。イエス様は天地創造の時に神様と共におられ、イエス様の言葉は、生きる者逹に光を照らすことになり、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(5節)」とあります。

*神様に呼び出されたわたしたち

「光あれ」の「あれ」は、命令形ではなく、(光は神様と共にあるので)、天地創造前から存在していて、神様がすでにあった光を闇の中から呼び出したと考えることができます。このことを原語で調べますと、「~があれ」「~せよ」は、本来神様が計画していたものが「目に見える形となって現われるように」という未完了の指示形でした。ですから、この後の「大空」や「水」、「かわいた所」などもみな、神様の命令によってではなく、神様に呼び出されて現れたことを伝えていて、そのことは、私達がこの地上に生まれたことも同じように言えるかもしれません。私達は、神様に呼ばれてこの地上に人として生まれました。それは私達の五感で神様というお方を知り、感じ、味わい、触れるためにあると思います(ヨハネの手紙一1:1参照)。それはきっと、天地を造られた時、神様が「光あれ」と言われたと同じように、私たちは神様に呼び出されて、その神様の光に包まれる喜びを感じることにあるのだと思います。

2023年10月22日の説教要旨 詩編78:1-8・ルカ書19:11-27

            「天国に行く者」      加藤 秀久牧師

*はじめに

私たちが神様の国・天国を思う時、そしてその天国におられる神様のことを思う時、どのような神様を思い浮かべるでしょうか。

本日のルカ福音書では、イエス様は、神様の国とイエス様について、たとえ話を通して、私逹を教えておられます。

イエス様は、旅の目的地でもある「エルサレム」に近づいた時に、このたとえを語られています。弟子達やイエス様を慕う人達は、イエス様がエルサレムに入城した後に「神の国はすぐにも現れるもの」と期待していたのでした。そこで語られた「たとえ」の一つは、「神の国はすぐにも現れる」との期待に対するイエス様の教えであり、もう一つは、イエス様を信じる人々への教えであり、拒む者への戒めです。

*たとえ話の意味(1)

 神の国は、すぐにも現れるものと思っていた人々に、イエス様は譬えの中で、「ある立派な家柄の人が、王の位(くらい)を受けて帰るために遠い国へ旅立つことになった」という表現で、ご自分のことを「旅立った人」、天の国を「遠い国」という言葉で表しています。エルサレムにおけるイエス様の死(と復活)によって神の国がすぐにも現れることはないこと、<イエス様が天国に向けて旅立ち、王位を受けたとしても>すぐには裁きのためにこの地上には戻って来ないことを教えています。

*たとえ話の意味(2)

 もう一つは、信じて従って来た人々に、イエス様が王位を得て、再び地上に戻ってくる時までに、各人に与えられた責任、その任務を忠実に守り、果たすようにとの教えです。これは直前に記されている「徴税人ザアカイ」の話と関連があり、ザアカイに起こった出来事を通して、一人一人に託されているこの世の財産を、イエス様の考えや思いに従って適切に用いるべきであることを教えています。そして再来の日までイエス様を拒否し続けるならイエス様が地上に戻って来た時には「裁き」があるとの警告です。

*イエス様を受け入れられなかったユダヤ人たち

 ユダヤ人およびその指導者達は、なぜイエス様を受け入れることが出来なかったのでしょうか。彼らは神様から約束されて長く待ち望んでいたメシア(救い主)がついに来た時、本来なら神様に感謝して神様を誉め称え、イエス様を歓迎するのは当然と私達は考えます。が、実際は、多くのユダヤ人達はイエス様を拒んでしまいました。それは、神様の国についてのイエス様の教えが、彼らの期待をはるかに超えていたからです。特にファリサイ派の人達は、「律法」に対するイエス様の考え方があまりも違っていたからです。彼らは過去の、神様への不服従さが原因で捕囚の民となり、異国バビロンの地での生活を通して神様への背きを後悔し、悔い改めました。そして今、神の国への唯一の道として「律法」があるので、その律法を厳粛に守り、さらに律法に基づいて作られてきた多くの「言い伝え=口伝律法」を守ること(例えば、祭儀的な手洗い、義務的な断食、安息日遵守の規定、けがれたものをすべて避ける‥等々)で、彼らの清さと信仰を前面に出していました。それに対してイエス様は、人間が作った規則にかかわらず、ユダヤ人の言動が神様のご意志、ご計画の本質から離れていることを指摘したのでした(マタイ5:21-48参照)。

後の世代に語り継ごう 主が成し遂げられた驚くべき御業を」(4節)

 本日の詩編78編は、イスラエルの民の歴史(出エジプトからダビデの選びまで)の神様のみ業(わざ)の歴史が語られます。特に、いにしえからの言い伝えである「主なる神への讃美、主の力の業、主が成し遂げられた驚くべき御業(奇蹟)」を告白しています。その一方で、イスラエルの人々は「神の民」としては失敗の繰り返しの多い民族でした。

信仰が与えられて現代を生きる私達も、神様がご覧になれば失敗を重ねる者達と言えるかもしれません。けれども重要なことは私達が神様との関係を持っており、創造主・唯一の神を知る生き証人であることです。私達が、生きた本当の神様に出会い、真実に向き合うことが出来るなら、「主が成し遂げられた驚くべき御業」に併せて、私達自身の救われた歩みも又、「神様への讃美と主の力」として言い伝えられていくでしょう。

2023年10月1日の説教要旨 詩編73:21-28・ルカ書16:19-31

             「主からの富」      加藤 秀久牧師

*はじめに

 本日の詩編73編の最初に「賛歌。アサフの詩」とあります。ダビデ王の時代、「契約の箱」・・十戒を刻んだ2枚の石の板(神とイスラエルの契約の基礎をなす神の言葉)が収められている箱・・の奉仕に携わっていたレビ人の中から聖歌隊や楽器(竪琴・琴・太鼓・鈴・シンバル)を演奏する人達が選ばれましたが、アサフは73編で、日常生活の視線から、この詩編を書き上げています。神様に背を向けている者達の富と繁栄に目を向けて、彼らが一見、何事もなく落ち着いているような様子に心が痛み、絶望感を感じていました。しかし、本日の21-28節では、神様の聖所に戻ることで、重要なことと、そうでないことを見分ける正しい力、感覚を取り戻すことができること、自分自身と神様との関係が日々の生活の中で重要な位置にあることに気付きました。

*「彼らの行く末を見分けた」(17節)

アサフが思い悩みながら聖所を訪れた時、彼の前に思いがけないことが起こります。それは、神様に逆らう者の行く末が、神様によって「一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされる」姿が幻の中で目に映ったのです。この光景を見ることで彼は、神様のご計画を知ることとなり、本日の21~22節「わたしは心が騒ぎ、はらわたの裂ける思いがする。

わたしは愚かで知識がなく、あなたに対して獣のようにふるまっていた。」と、かつての自分を振り返り、23節からは、自分と神様の関係は定められた事柄に従順であれば良いと思っていた関係性から、血の通った知識、生きている神様に出会うことで、彼は、神様にすべてを任せる信仰を得て、「あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしは御もとに とどまることができる。」と告白しています。

*わたしたち

 日々私達が生活をしている社会は、<正直者が馬鹿を見る>ような、正しさだけでは生活していけないような、悪い環境があるかと思います。

そのような状況を見聞きする時、人々は神様を信じていなくても、それなりに豊かな生活、恵まれた生活をしているように見えてしまいます。そのような感情が起こる時は、私達が多忙で、自分の心に余裕がない時、落ち込んでいる時などかもしれません。神様は平等で正しくおられます。私達が持つ否定的な感情は、神様からではなく、悪魔が私達と神様との良き関係をあの手この手で、私達の心に働きかけて壊していくのです。その時この23節を思い起して下さい。神様は必ず私達の手を離さずに私達の右の手をしっかりと握っていて下さるのです。それは私達が神様を信じる前から(生まれる前から)私達の内に「主が共におられる」という文字を心に刻み込んでいるからです。それだからこそ、私達は神様に出会うことが出来た、いいえ今も、神様に出会うことが出来るのです。

*金持ちと貧しいラザロ

本日のルカ書には、毎日ぜいたくに遊び暮らしている金持ちと、その家の門前に横たわり、捨てられた食べ物で過ごす、できものだらけの貧しいラザロが登場します。お金持ちはラザロを家に招き入れることもせず優雅な生活を続け、やがて貧しい人は死んで、天使達によって宴席にいるアブラハムのそばに連れて行かれました。他方、お金持ちも死んで葬られ、陰府(よみ)でさいなまれていました。

宴席と陰府の間には大きな淵があり、渡ることは出来ません。

富を愛する人は自分が得た知識、能力、技術はかけがえのないもので、それらを用いて、大きな富を得ることは当然と考え、富は彼らにとって大事なものになっています。そのような人達は、神様に全てを委ねて従うことは考えず、助けも必要としていないかもしれません。

けれど万一、全てを失ったとしたら、あるいは多くの財産を残して死んでしまったら、その人達の行先はどこになるのでしょう。

神様は、生きた者の神様です。私達はイエス様に希望を持ち、イエス様から与えられる全てもので満足するのです。イエス様は、私達の道であり、真理であり、命です(ヨハネ14:6)。私達はイエス様の手をしっかりと握りしめて、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2023年7月9日の説教要旨 詩編35:1-10・ルカ福音書7:11-17

            「生命の回復」         加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の詩篇には、心が重くなるような感情の深さや、理解するのが難しく感じられる箇所もあるかと思います。詩編に登場するダビデは、敵から追われる生活が続き、時には命を落としそうになり、又、逆に敵と思える王様に手にかける距離まで近づいたこともあり、王になる前の10年余りの月日を神様から与えられた苦難に対応する訓練の日々を過ごしました。

*主よ、(わたしではなくあなたが)戦ってください。

 そのような状況の中で、ダビデは、1節の「主よ、わたしと争う者と争い、わたしと戦う者と戦ってください」との祈りをしています。これはダビデがいかに主に信頼していたかを見ることができます。 ダビデは「私の為に、敵と戦う力を下さい」とは祈らず「どうか、わたしの魂に言ってください。『お前を救おう』と(3節)」と祈り、ダビデ自身が自ら戦うのでなく、自分の権利を主張せず、すべてを主に任せて委ねています。ここに、主の呼びかけに応えようとする信仰者の姿をみることができます。

*主の使い

「彼らが主の使いに追い払われますように(5節)」「彼らに主の使いが追い迫りますように(6節)」とあるように、ダビデは「主の使い」の存在を信じて、天使達の働きを通して私を敵から守ってほしいとの祈りをささげています。この詩編の前の34:8には「主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。」とあるので「主の使い」は、個人にとっても、イスラエルの民にとっても、時に、一人の御使いとして、時に天の軍勢として、神様に敵対する者達やその勢力に立ち向かい、神様の裁きを行い、神の民や主を畏れる者達を救い助け出して下さる存在です。

聖書に「主の使い」の言及は多くありますが(旧約:213回以上・新約:175回以上)、私達は意識してその存在を知ろうとしていないように思われます。

主の使いは、神様と人とに仕えるために創造された存在であり、私達を危機的状況の中から必ず守ってくださる方であり、存在自体、神様の恵みによるものだと思います。今日(こんにち)、神様を信じる私達に「主の使い」の現われはあるのでしょうか。私は「ある」と信じます(聖霊のような、それに似た存在、としか言い表わすことが出来ませんが・・)。

カファルナウムからナインの町へ

 本日のルカ福音書7章の直前には、カファルナウムにいたイエス様のもとに百人隊長の部下が死にそうな病気のため癒してほしいと長老達が願い出て、癒された出来事が記されています。それから間もなくイエス様は、ナインの町への約30kmの道のりを、弟子達や大勢の群衆も一緒に歩いて行かれました。一行が、希望に満ちた何かを期待するような光景に対し、ナインの町では、母親の一人息子が死んで棺が担ぎ出され、町の人達が大勢そばに付き添い、そこにはどんよりした絶望感、無力感と、混沌とした闇に包まれているような状況だったと思います。特に母親は夫にも先立たれ、生きる希望を見出すことが出来なかったでしょう。

もう泣かなくともよい

しかしそこに希望の光が差し込みます。イエス様は母親を憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われ、近づいて棺に手を触れられて「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。「すると、死人は起き上がってものを言い始めました(15節)」。ここでは「死」にも優るイエス様の権威が表れたのです。「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけて下さったと言った(16節)」。

人々は、イエス様の本質について、又、神様がイスラエルの民を顧みて下さったとの、神様の救いを確信する告白をしました。そこにいた全ての人達が、神様を心から称(たた)え、神様の奇跡を体験したのでした。

*わたしたち

イエス様の働きは、すべての人の人生を180度、良い方向へと変えて下さいます。なぜななら神様は、わたしたちに生きる希望、輝ける未来を生きて欲しいと願っているからです。わたしたちは、イエス様に出会えたことに感謝しながら、今週一週間、主と共に歩んで参りましょう。

2023年7月2日の説教要旨 詩編22:25-32・ルカ福音書17:11-19

「あなたは見つけ出す」    加藤 秀久牧師

*はじめに

聖霊降臨日(ペンテコステの日)に聖霊を受けた弟子達は、イエス様と共にいた頃の弟子とは違って、神様の力・信仰の帯を締めていました。

しかしそこに行くまでに、弟子達は何度も何度もイエス様から神様の話を聞き、奇跡を見て、信仰を持つことの訓練を受けていました。

その訓練の一つになった本日のルカ福音書17章を読む時、その内容は、一見、何の関連性もないように思えますが、じっくりと向き合い、思いを巡らせて読み進めて行くと、イエス様が弟子達に、その教えを通して、神様からの信仰を得るように、神様から与えられた贈り物の信仰について語られているのが分かるかと思います。

*私達の信仰ではなく、神様が与える信仰

その神様からの「贈り物の信仰」は、種がたとえ小さく思える「からし種」ほどのものであったとしても、やがて、その時が来た時に私達の心の中で芽を出して、私たちが想像する以上に大きく成長して働き始めます。それは私達の目には不可能な出来事であり、奇跡と思えることであったとしても、それを行うことができる(可能となる)信仰です。不可能と思えることや奇跡と思えることが実現した時には、これらは神様から与えられた信仰の賜物が用いられたので、その人は「私は神様がするようにしたまでです。神様の力が私を通して働いたまで(結果)です。」と言うことになります。神様から与えられた信仰の働きは、私達を決して誇り高ぶらせることなく、逆に、へりくだった心や態度を持って人々に話したり、応えたりする者になることを、イエス様は弟子達に教えられたように思います。

177節~の教えと、十人の重い皮膚病の人達の癒し

本日の聖書個所の直前に、イエス様が、主人に仕える僕(しもべ)の話をされています。畑を耕すか,羊を飼う仕事を与えられている僕が、仕事を終えて戻った時、先ず主人の夕食の用意と、主人の食事が終るまで仕えた場合、主人は僕に感謝するだろうか、と弟子達に問いつつ「あなた方も、同じことだ。自分に命じられたことを みな果たしたら、『私共は取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」と教えられました。

そして、続く本日の聖書には、イエス様がエルサレムへ上る途中に、サマリアとガリラヤの間を通られて、ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエス様、先生、どうか、私たちを憐れんでください」と言いました。彼らは皮膚病のため、健康な人に近づくことができませんでした。

 イエス様は彼らを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言いました。<注:重い皮膚病にかかった時も、治った時も、祭司からの宣言が必要でした(レビ記13章参照)>。十人の人達はイエス様の言葉に従い、祭司のもとに出かけて行く途中で、自分達の皮膚病が治ったことを知りました。彼らの与えられた信仰(信じて行動する)で、彼らの身体に癒しの奇跡が起こったのでした。

*神様を賛美するために戻った人

その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。(16節)」これが神様から与えられた信仰を神様に感謝する、神様にお返しする行動の現れなのだと思います。イエス様は、「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言われ、その人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。

*わたしたち

  私達は自分の意志で神様に信仰告白をし神様を受け入れたと思いがちですが本当はその歩みの中で神様を信じる信仰の贈り物を神様から与えられていたことに気付いた時、私達は神様を見つけ出したと思います。本日の詩編22:25~32をもう一度読みます。このような心を私達は持ち続け、与えられた恵みに感謝して一週間の歩みを始めて参りましょう。

2023年5月21日の説教要旨 詩編105:12-24・マタイ28:16-20

「キリストの昇天」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

本日の旧約聖書、詩編105編12~24には、神様から選ばれた民(選民)に、神様からの大いなる祝福、守り、導きがあったことが記されています。特に、族長ヤコブの息子のヨセフが用いられて、イスラエルの人達が飢饉という出来事を通してエジプトに住むようになった様子を描いています。

ヨセフは兄たちによって奴隷としてエジプトに売られ、宮廷の役人である侍従長に買い取られましたが、その侍従長の誤解による怒りによって、監獄に入れられてしまいます(創世記39章)。しかしヨセフは王の夢を解き明かしたことがきっかけとなり、王様に次ぐ地位に就くことになります。やがて飢饉が全国に広がり、食料を求めて兄達がカナンの地からエジプトに下ってきた時、ヨセフは兄達と再会し、その後、父ヤコブとその子孫を皆、エジプトに呼び寄せます(創世記46章・総数70名)。

*「主はご自分の民を大いに増やし 敵よりも強くされた。」

こうしてイスラエルの人達は、エジプトで大いに力を増し、ひどい目にあいながらも、彼らの子孫を増やし、神様に信頼する信仰を育てていったのでした。ヨセフは、神様との会話・幼い時から神様の霊に触れ、神様が語られる声に耳を傾けながら、その体験を大切にしてきたように思われます。詩編105編を読む時、これらの歴史的出来事が、天地を創造された神様のご計画であったと受け止めて、自らも追体験し、自分達が選民イスラエルであり神様の救いの御手がある、との告白が伝わってきます。

イスラエルの人々の中には、神様の声を聞くことのできる預言者達たちがいましたが、彼らはどのようにして、その声・神様の霊を感じ取ることができたのでしょうか?

*神様の霊を受け取る受信機

神様の霊は、神様に創造された全ての者たちの心の中に宿っています。

私達は、神様の霊と共に、神様に養われた存在であることで分かると思います。毎日私達が神様やイエス様と話をしたい、との気持はどこで考え、どこから沸き起こるのでしょうか?それは、私達の心の最も奥深くの所で、神様と交信をしているからだと思います。私達には、神様と交信する道具(受信機)が心の中に備え付けられていると考えられます。但しこの受信器は、赤ちゃんの時は頻繁に使っていましたが、地上での生活習慣や生き方を学び、大人になるに従って少しずつ知恵や知識も備わり、いつしか神様との受信器を使わなくなり、必要としなくなり、この受信器を心の片隅に置き去りにしてしまう結果を招いていると思います。

しかし、私達がこの受信器を全く使わなくなったとしても、神様は、この受信器の電源をOFFにせず、一方的に私達に必要な言葉や神様の霊を送り続け、受信器を交信できる周波数に合わせられるように操作して下さり、会話ができるようにして下さっています。

聖霊を受けなさい」 

イエス様の復活の出来事は弟子達や婦人達にとって驚くべき出来事でした。婦人達から聞いた弟子達は、イエス様が指示されたガリラヤの山に登り、イエス様にお会いし、ひれ伏しました。イエス様は、「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。(19~20節」と言われて天に昇られました。他の福音書には、復活のイエス様が弟子達を祝福した後「彼らに息を吹きかけて言われた聖霊を受けなさい(ヨハネ福音書20:19)とあります。

それによって弟子達はイエス様のことを世界中に伝えていくことになりました。霊の吹きかけは、神様に造られた者達に与えられている霊の働きを活発にします。今も、神様と日頃よく会話や祈りをささげている人は、神様のお考えが霊の内で理解することができてイエス様が神様であることを認めています。ところが聖書は、「疑う者もいた」(17節)と伝えています。私達はイエス様を信頼し、日々の歩みの中でイエス様を中心として、心の中に聖霊の炎をともし続ける必要があります。

今週もイエス様の語りかけに耳を傾けながら歩み始めて参りましょう。

2023年4月16日の説教要旨 詩編16編・ルカ福音書24:13-35

「晴れやかな報告」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

先週、私達は、イエス様の復活の出来事を見てきました。イエス様と一緒にガリラヤから来て奉仕していた婦人逹が、お墓に行って見ると、墓の中に納めたはず(23:53)のイエス様の遺体は見当たらず、空でした。その為、婦人達が途方に暮れていると、御使いが現れて、イエス様は復活され生きておられること、かつて語られたイエス様の言葉を思い出すようにと言われます。それで婦人達は思い出して、墓から帰り、弟子達にこの出来事を知らせましたが、弟子達は、婦人達を信じませんでした。

*イエス様を「イエス様」とわからない

三日目のこの日、二人の弟子がエルサレムから約11キロ位離れたエマオという村へ向かって歩きながら この一切の出来事について話し合っていました。そこへ、(復活された)イエス様ご自身が近づいて来て、弟子達と一緒に歩き始めました。しかし、弟子達の目は遮(さえぎ)られていて、イエス様だと気付くことは出来ませんでした。

私達の生活の中でも同じような出来事が起こっているように感じられます。たとえば水の中に顔を付けて目を開くと、どこかぼやけて周りが良く見えず、何か覆いのようなものが掛かっているような状況です。この時、弟子達と一緒に歩いて下さる旅人は見えていても、はっきりとは見えていなかったのでしょう。けれど、イエス様の十字架の出来事や、今起こっている出来事を共感できる仲間として、一緒に歩くことが出来たのではないかと考えられます。ヨハネ福音書20章でも、マリアに現れた復活したイエス様を、彼女は園丁(えんてい・管理人)だと思い込み、会話している様子が記されています。このことから、復活されたイエスの姿は、どこか別の姿・違う様子になっていたと想像できます。

*「二人の目は遮られていて」(24:16)

二人の弟子達が「イエスだとは分からなかった(16節)」とありますが、目の前に何か、覆(おお)いがかけられたような状態については、パウロがコリント書Ⅱ・4:3~4で、次のように記しています。

わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。

パウロは、悪魔の霊的な力が私達人間に働き、イエス様の存在を知ることが出来ないように覆いをかけることがあることを伝えています。その為、私達が暮らす地上での生活には、私達を神様から離れさせようと、誘惑や苦しみ、悩み・悲しみを通して悪の霊的な力が働いています。

*二人の目は開かれた

この二人の弟子達も又、婦人達が、イエス様の遺体を見つけられず、そこで天使達から「イエスは生きておられる」と言われたことを聞いたにもかかわらず、この出来事を、「イエス様の復活」の預言の成就として理解して受けとめることが出来ませんでした。

イエス様は二人の弟子に、次のように言っています。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。(25~26節)」そして、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明しました。この時、二人の弟子にかかっていた覆いは取り除かれ、「私達の心は燃えていた!と、あとで振り返っています。

*わたしたちの信仰

イエス様は、彼らと一緒の食事の席に着き、賛美の祈りを唱えパンを裂いて渡すと、弟子達の目が開かれてイエス様だと分かりました。

本日の詩編16編は、私達を神様から離れさせようする悪の霊の働きによる覆いが取り除かれた私たち信仰者の告白です。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしに命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます(8~11)。」

2023年4月9日・イースターの説教要旨 詩編30編・ルカ福音書24:1-12

「イエス様はどこですか?」   加藤 秀久牧師     

*はじめに

私たちの日々の歩みには様々な事が起こります。心が晴れやかな日もあれば落ち込む日もあります。本日の詩編30編に、私達の心の様々な変化の中にあっても神様は共におられ、私達を見ていて下さる、見守っていて下さることが語られ、特に12節では「主は、わたしの嘆きを踊りに変え粗布(あらぬの)を脱がせ、喜びを帯として下さいました。」とあります。

 神様は、私達の嘆き、悲しみ、苦しみ、重荷を取り去って、私達の魂が喜びに満たされて神様をほめ称える者となり、心から神様の前で踊るものと変えて下さることが述べられています。このことは、本日のルカ福音書で伝えられる、天使からイエス様の復活を聞いて、神様をほめ称えて喜ぶ婦人逹の晴れやかな気持を表現している詩編のようにも感じられます。*ガリラヤから来た婦人たち

 本日のルカ福音書の婦人達については、直前の聖書箇所23:55~56に記されています。そこにはイエス様と一緒にガリラヤから来た婦人たちが、イエス様の、亜麻布で包まれた遺体が納められる様子とお墓を見届けたことや、帰宅後、香料と香油を準備したこと、又、安息日の掟に従って休んだことが記されています。そして本日の箇所には、(三日目の)週の初めの日の明け方早く、婦人たちが準備しておいた香料を持ってお墓に行ったことが記されています。10節には婦人達の名前・・「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」が記されていて、同じルカ書の8:2~3には、この婦人たちが、イエス様のガリラヤでの神様の言葉を宣べ伝えた始めの頃からイエス様に従い、「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」と、伝えています。

この婦人たちは、イエス様と共にエルサレムにまで来て、イエス様が捕えられた時にも、十字架につけられた時にも、イエス様から離れることなく、これらのことを見ていた(23:49)のです。彼女たちは、ずっと、イエス様のことを見守ってきた人達なのでした。

*「あの方は、ここにはおられない」

 週の初めの日の明け方早く、婦人たちがお墓に行ってみると、お墓の入り口に大きな石が置いてあったにもかかわらず、その石がお墓のわきに転がしてあり、中に入って見ても遺体は見当たりませんでした(3節)。途方に暮れていると、「輝く衣を着た二人の人がそばに現れ」ました。

恐れて地に顔を伏せた婦人たちに、二人の御使いは、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」と言いました。そうです!御使い逹はガリラヤでイエス様の言われたこと・・『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』ことを、思い出すようにと言われたのです。そう言われて婦人たちは、イエス様の言葉を思い出しました(8節)。

*復活の知らせは、先ず、婦人たちに告げ知らされた

 本来であれば、この出来事・・「天使から、イエス様の復活の知らせを受け取ること」は、先ず、使徒たちに起こることではなかったのかと思われます。けれどもこの出来事は、イエス様のそばにずっと寄り添い、従い続けてきたガリラヤから来た婦人たちに起こりました。当時の男性中心の社会では有り得ない順序です。ですからこの知らせを聞いた弟子達は、伝えられた内容を受けとめることが出来ず、婦人たちをも信じることが出来ませんでした。ただ一人ペトロは、「立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞき、亜麻布しかなかったので、驚きながら家に帰り」ました。

*死の闇の世界からよみがえられたイエス様

私達が思い悩み、途方に暮れて呆然(ぼうぜん)としている時、神様は救いの御手をのばして私達をそこから救い出して下さいます。イエス様を愛し、寄り添い、真剣に従っていた婦人達と同じように、今日も私達に呼びかけておられる御声に、今週も聴き従って歩んでまいりましょう。

2023年3月19日の説教要旨 詩編29編1-16・ルカ書9:28-36

「栄光に輝く主」     加藤 秀久牧師

*はじめに

先週、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とのイエス様の問いに、ペトロは、「神からのメシアです」と信仰告白したことを学びました。このあとイエス様は、これからご自身が受けようとされる受難(私たちの罪・過ち・負い目を赦すために十字架にかかること)と、復活の予告をされて、さらに、イエス様についていきたい者は、先ず自分を捨てて、日々の生活の中で自分の背負うべき十字架を背負い、イエス様を信じて従がうようにと弟子達におしえられたことを学びました。

本日のルカ福音書には、それから八日後の出来事が記されています。

*イエス様と、モーセとエリヤ

イエス様は、弟子のペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて祈るために山に登られました。イエス様が祈っておられるうち、イエス様の顔の様子が変わり、服は真っ白に輝きました(29節)。そこに、イエス様と語り合う二人の人物 、モーセとエリヤが現れました。

モーセはイスラエルの人々をエジプトから導き出し、神様から「律法」を与えられた人であり、エリヤは、列王記(上)17章から、(下)2章までに登場する預言者です。旧約聖書最後のマラキ書3:19以下には、「来るべき主の日」の預言の中に、モーセとエリヤの名前を見ることが出来ます。

イエス様と語り合うモーセとエリヤは、「栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた(31節)」とあります。この「栄光に包まれて現れ」という表現から、モーセとエリヤが天にいる存在、神様の国にいることを示し、イエス様がこれから十字架にかかり、その死を乗り越えて復活し、天に昇られる旅立ちの予告をしているように考えられます。

これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け

 栄光に輝くイエス様と語り合っていた二人が、イエス様から離れようとした時、ペトロは「仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです(33節)」と言いました。ペトロは自分でも何を言っているのか分からず、おそらく、天にいる存在の現れを見て、この地上でもとどまっていて欲しいという想いから、その可能性を願ってのことでしょう。

やがて雲が現われ、彼らが雲の中に包まれていき、雲の中から声が聞こえます。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と。その声がした時、そこにはイエス様だけがおられました。神様はこうしてイエス様の栄光に満ちた不思議な光景を弟子達に見せられました。イエス様だけが天と地との間を取り持つ存在であることを現わしています。

*神様の栄光

 本日の詩編29編は、神様の栄光を称えています。「主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主の御声は力を持って響き 主の御声は輝きを持って響く(3-4)」。「主の御声は杉の木を砕き 主はレバノンの杉の木を砕き・・(5-6)」

この詩編作者は、天上における神様の栄光と力が地上に現われる時には、神様の声は雷鳴として響き、恐るべき威力をもたらし、名高いレバノン杉が落雷によって引き裂かれるほどであると称えます。神様の御声は聖なる輝きを伴って響く、と、神様の力強さに打たれて神様の栄光を称えています。神様の栄光は、昔も今もこれからも私達の生活する世界の至る所にまでおよびます。 

本日のルカ9:32では、ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると「栄光に輝くイエス」とそばに立っていた二人を見たと記しています。山上で語られたイエス様の、エルサレムで遂げようとしておられる最期が、「受難」の死で終るのではなく、「復活」の出来事へとつながることを、このあとの51節「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」でも知らされます。

すべての創造主であり支配者であられる神様から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言われた御子イエス様を信じて、私達は 今週も、イエス様についていく道を歩んで参りましょう。

2023年2月26日の説教要旨 詩編66編・ルカ福音書4:1-13

「誘惑からの脱出」     加藤 秀久牧師

*はじめに

私たちは、なぜ誘惑を受けるのでしょうか。私達が正しいこと(神様の教え・聖書の教え)をしようとすればするほど、その事から私達を引き離そうとする力が働いてしまう出来事が起こることがあります。

 本日のルカ福音書4章のすぐ前にはイエス様の系図が記され、その系図は、(マタイ福音書のアブラハムからの系図と違い)イエス様から始まってアダムへとさかのぼります。アダムは、エデンの園で罪を犯して園から追放されましたが、その後も人間は絶えず悪魔の誘惑にさらされることになりました。悪魔の誘惑にそそのかされて罪を重ねていく私達のために、神様は、アダムに代わる第二のアダムとして御子イエス様を、私達の生活する地上へ遣わし、悪魔の誘惑を受ける荒れ野へと導き出されました。

*悪魔の最初の誘惑・・神の子なら、石をパンに

 2節で、イエス様が荒れ野で何も食べずに40日間を過ごしたあと空腹を覚えられた時、悪魔の誘惑を受けられます。具体的な内容が3~12節に記されています。悪魔は、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」と言いますが、イエス様は、「『人はパンだけで生きるものではないと書いてある」と答えられました。これは、旧約聖書の申命記8章2~3節にあり、以下の言葉が記されています。

あなたの神、主が導かれたこの40年の旅を思い起しなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めをまもるかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった

*二つ目の誘惑・・わたしを拝むなら、一切の権力と繁栄を与えよう

 6節で悪魔は、「国々の一切の権力と繁栄は私に任されているから私を拝むならあなたに与える」と言って誘惑します。この誘惑は一見、全てのものが悪魔の力によって治められているような錯覚を受けますが、マタイ福音書28:18でイエス様は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」と言われています。悪魔を拝むなら権力と繁栄を与えるとの誘惑に対してイエス様は申命記6:13「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、御名によって誓いなさい」と答えられました。

*三つ目の誘惑・・神が天使に命じて守らせるから、飛び降りてみよ

悪魔は、さらにイエス様を神殿の屋根の端に立たせて、そこから飛び降りるようにと言いました。けれどもイエス様は、再び申命記の言葉を引用して「あなたの神である主を試してはならない」(6:16)と答えられました。この後悪魔は、13節にあるように、「時が来るまでイエス様を離れ」ますが、やがてイエス様が十字架の死を迎えられたあと復活してイエス様が死に勝利される、その時が必ず来ることをここで暗示しているようです。

*「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。御名の栄光をほめ歌え。栄光に賛美を添えよ」(詩編66:1~2)

イスラエルの人達がバビロン捕囚で体験した屈辱的なことは、神様への信頼と悔い改めの心をもたらし、新しい決断(誓い)へと導かれていきました。神様への礼拝は、エルサレムに帰ってきた全ての者達のするべきことであり、同時にこのことは、私達、信じる者が地上で生活する時も同じです。

*わたしたち

 イエス様が悪魔に勝利されたのは、自分の必要を満たすために奇跡などを用いることなく、父なる神様に対する無条件の信頼と悪魔に対して、完全に神様に従う態度を示すことにありました。私たちの日々の生活の中でも、荒野でイエス様が会われたような試練と誘惑が存在し、困難や、いろいろなしがらみもあります。そのような中で私たちは、本当の光である神様を信頼して従い、詩編作者のように神様に向って喜び、ほめ歌い、讃美し、生涯、神様を礼拝して仕えていくことを『最高のささげもの』としていく道を歩み続けていきましょう(66:13~20)。