2022年11月20日の説教要旨 詩編11編、エペソ書5:21-33

主の変わらない祝福」        加藤 秀久牧師

*はじめに

本日の詩編1節では「主を、わたしは避けどころとしている。」と信仰の表明があり、危険が迫っていることが伝わってきます。その状況が2~3節で「闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。」と説明し、「世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何ができようか。」と、友人達の言葉が聞こえてきています。本来あるべき社会秩序がくつがえされて、いつしか、しがらみや不正がはびこり闇に閉ざされてしまったような状況に現在、作者は置かれているのです。

主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。」(4節)

しかし、たとえ社会が闇に閉ざされているような状況であっても、主なる神様は人間の世界を越えた天から「御目は人の子らを見渡しそのまぶたは人の子らを調べ(4節)」られます。私達一人ひとりが何を拠り所としているか、誰を頼みとし、どこに隠れ家を置いているかを明らかにされます。

*わたしたち

私達は、神様を信じ、神様に守られているとの確信をしっかり心に刻むことが大切です。作者は「主は正しくいまし、恵みの業を愛し 御顔を心のまっすぐな人にむけてくださる。」と告白しています。神様は正義を行い、信仰生活を正しく送っている者達にはその御顔、御姿を現して下さいます。私達は毎日、神様に目を向けて歩いているでしょうか。 私達は時々、神様によって試される時があります。私達はどんな時でも「主に従う人に御顔を確かに向けて下さる神様」を避けどころとして歩み続けましょう。

*妻と夫

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(21節)

本日のエフェソ書の御言葉は、私達がイエス様に対する畏れをもって、イエス・キリストを主と認めて信仰生活を送り、人々に仕え、支え合っているのかが問われているように感じます。この前の6節以下には、光の子として(光から善意と正義と真実が生じる(8~9節)歩み、霊に満たされ、いつも感謝しながら(18~20節)歩むように勧めています。キリストに仕える者逹がお互いに仕え合うことは、夫婦の関係と同じようなものであり、妻は夫に「主に仕えるように仕えなさい」と、神様に従うことから始まっています。イエス様が教会(信仰者の群れ)の頭(かしら)であり救い主であるように、妻も夫に仕えなさいと教えます。一方 夫には、イエス様が教会を愛し命を捨てるほど愛されたように、妻を愛することを教えています。イエス様がそうされたのは、神様の言葉と洗礼とによって教会を清めて、聖なる汚れのない、栄光に輝く教会を立たせるためです(26~27節)。夫婦も、夫は妻を自分のように愛し、妻は夫を敬うように(33節)教えています。そのことを通して私達の神様との関係も良い方向へと進み、良い実を結ぶことができることを伝えているようです。

*神様とわたしの関係

 私は先日、正教師面接で「あなたはキリストの花嫁として、教会に仕え、キリストに仕えることが神様から与えられた召命であることを信じますか」と問われました。私は、<イエス様に初めて出会い、信仰を告白した時からイエス様と共に歩んでいるのだから、今、再びこの問いに、告白(誓い)は必要なのか?>と考えていた中で、<私はイエス様のことを真剣に受け入れ、イエス様の霊をこの体に身に付けているだろうか。私は本当に神様に耳を傾け、聞いてきたのか・・。そういえば最近、神様の声、神様の霊を感じていないのでは?> <果たしてこのような私が、正教師としてキリストの花嫁として歩むことに誓いをたててよいのか?>など短い時間で思い巡らしていた時、すぅーと、私の身体の中に神様の霊が入ってだんだん大きくなるのを感じました。そして若い時に与えられた「人々に神様の言葉を伝えていきたい」との思いに立ち返り、今、その召命に従うこと、信じることだと思いました。 

今は目に見えず、不安な部分が沢山ありますが、将来、神様の計画が起こり、目で見て体験することになるだろうとも感じました。皆さんも、これから先、神様の御前で何かの誓い(約束)をする時があるかもしれません。神様がいつも共に在り、神様の深い愛と祝福をお祈り致します。

2022年10月16日の説教要旨 詩編146編・マタイ福音書5:1-12

「主の幸いを受ける」    加藤秀久伝道師

*はじめに

詩編146編~150編は「ハレルヤ詩集」と呼ばれ、ハレルヤから始まりハレルヤで終り、神様を讃える歌になっています。本日の146編では詩人(作者)が、「命のある限り、わたしは主を讃美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌おう(2節)」と、全生涯を通して 主をほめたたえることを決意を持って呼びかけています。「ハレルヤ。(主をほめたたえよ!)」と主に叫びかけることで、彼の思いのすべてを神様に向けているのではないでしょうか。この詩人と同じように私達も、神様に心を開いて神様を讃美するなら、神様を体験し、神様を知ることとなるでしょう。

主は見えない人の目を開き」(8節)

5節に「いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人」とあります。神様を見上げ、神様を頼りにし、神様のすること(ご計画)を待ち望む人は幸いである、と、はっきり告げています。そして、「主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる」とあります。「目を開く」は、エデンの園で蛇がエバに、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる・・」と言われてエバが食べ、アダムにも渡して食べたので、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り」と、創世記に記されています(3:5・7)。 蛇の誘惑によって開かれた目は、罪の結果として開かれた目となり、霊的には「盲目」となってしまったと考えることが出来ます。サタンによって人は生まれながらに「盲目」となり、この盲目となった目を再び開けることが出来るのは神様の助け以外にありません。イザヤ書35章には、「心おののく人々に言え。雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。・・そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く』(5節)」とあります。私達は、私達の目を見えなくしている悪魔の支配から解放されて、神様からの幸いを受ける者へと変えられなければなりません。それは、イエス様の救いを受け入れることにあり、イエス様を信じて日々の歩みを生きることを意味します。

*「山上の説教」(マタイ5~7章)

 本日の新約聖書は、イエス様が神様の権威を用い、人々に教えることで、悪魔によって真実を見えなくされていたその目の覆いが取り除かれ、聞く人々は、イエス様が語る言葉によって「目が開かれた」と考えることが出来ると思います。

~人々は幸いである。

 この「~人々は幸いである」は、3~6節では、神様を待ち望む人々の幸いが示され、7~10節では、祝福された人々の幸いが語られています。

前半は、自分が「霊的において貧しい」と悟った者が、初めて神様の深い悲しみを理解する「悲しむ人々」となり、人が「悲しみ」を経験する以前に、神様が悲しんでおられることを知る者を表しています。その「神様の悲しみ」の原因は、私達の内に住む罪にあります。人が罪に支配されて、神様を知ることができず(無知)、神様の御心を行うことができない(無力)現実にあります。罪の横行のため、不条理な現実により打ち砕かれている者が「柔和な人々」となり、神様を求めるようになることが「義に飢え渇く人々」と表しています。

 後半の、「憐れみ深い人々」とは、困っている人達に寄り添うことができる者であり、神様から受けた罪の赦しを理解して、神様との関係を持っている人達です。「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「義のために迫害される人々」は、神様との関係作りの深さによって違いが生じてきます。私達が神様をどれだけ身近に感じているか、神様をどれだけ知っているかにより、人との接し方、信じる者たちとの接し方に違いが出てくることを告げていると思います。

*主の幸いを受ける

 それゆえに、イエス様は「私のもとに来なさい!私の幸いを受けなさい!と招いて言われているのではないしょうか。イエス様は今日も私達と共におられます。 このことに私達は心から神様に感謝し、神様との関係を大事にしながら 今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

2022年8月21日の説教要旨 詩編2編・ヨハネ福音書7:25-31

「真の人」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日の詩編2編1節、2節の冒頭に「なにゆえ、・・人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、・・主の油注がれた方に逆らうのか」とあります。「油注がれた方」とは「王」を指します。「油(オリーブ油)」は神の霊の象徴であり、油を注がれた王は一般の民と異なる「神聖な」身分が保証され、地上における神の主権を代表すると信じられていました。他の、地上の王達がイスラエルに向かって反乱を起こし、結託して攻撃をしてきても、何の結果も生み出せず、意味がないことが述べられます。この「なにゆえ~するのか?」は、「あなた方は、天地創造者である神を畏れないのか?神から油を注がれた王を畏れないのか?」との憤りを含む問いかけです。

*天を王座とする方は笑い

 4節からは、天上の王(神)の宣言です。地上の権力者たちに対して、神様は「わたしは自ら、王を即位させた」(6節)と語られ、ご自分の計画を遂行するとの宣言です。7節の「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」は、王が即位の際、神の子となった(契約的な意味・養子)ことで、特別の守りと祝福、力が加えられたことを表し、後のイエス・キリストの到来も告げられていると考えられています。<ヘブライ書5:5>

*油注がれた方に逆らう人々

 旧約聖書に於いて「油」は、王の他にも「祭司」と「預言者」にも注がれました。私達人間は、弱い部分、弱い気持を持っています。それゆえ、これらの人達は、人々の前に立ち、多くのことを語り、教え、助言していたことを旧約聖書は伝えています。けれども多くのイスラエルの民は、挫折して主につぶやき、主に背いた生活を送りました。彼らは本当の意味で、神様というお方を理解していませんでした。それは人々が心の中に主の霊を宿していなかったからで、神様は、彼らの行動の結果として苦しみを与えました。神様を知って欲しいがためです。その苦しみは、人々にとって闇と言えるような、暗く、明かりが見えない状態でありました。

そのような中で人々が神様に助けを求めた時、神様は一つの光を与えられたのです。その光とは、真の「王」にして「祭司」「預言者」であるメシヤ(油注がれた者)を、私達の地上に送って下さったのです。このお方・イエス様は、私達人間のために、私達の目で見える形として与えられ、神様の救いのご計画はなされました。

うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」(7:24)

 本日のヨハネ福音書は、神殿の境内に祭りのため集まった人達に、イエス様が教え始められた時のことです。イエス様の、ご自分の命がねらわれているにもかかわらず公然と話している姿を見て、議員たちが何も言わないのを不思議の思う人達がいました。彼らは、議員たちが何も言わないのは、イエス様をメシア(救い主)と認めたのではないか。しかしメシアの出身地は誰も知らないはずであるのに、自分達は出身地を知っている、と話していました。その会話を聞いたイエス様は、大声で、「あなた達はわたしのことを知っており、又、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなた達はその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」と言われました。(28~29節)

*わたしたち

イエス様の十字架は、私達地上に生きる全ての者逹のためであることを今一度、想い起こしたいと思います。このイエス様のほかに、救いも、罪の赦しもありません。私達クリスチャンは「主の霊」を注がれた者であり(Ⅰコリ2:12/12:3)、神様から祝福を受けている者達です。神様は多くの奇跡と思えるようなこと、神様にしか出来ないような不思議な出来事を私達に見させ、体験させて下さっています。それにもかかわらず私達はそれらをしっかり見たり、心に止めないまま終ることはないでしょうか。私達は、このお方に仕え、神様と共に生きる者とされています。私達は、日々、神様に祈り、求め、願い、神様中心の生活をしようではありませんか。今週も、神様と共にありますようにお祈りを致します。

2022年8月14日の説教要旨 詩編78:23-39・ヨハネ福音書6:41-59

「いのちのパン」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

 私たちにとっての命のパンとは、どのようなものなのでしょうか。本日の詩編は、旧約聖書の出エジプト記の出来事を思い起させます。イスラエルの民は、荒れ野の旅の中で、モーセに向かって飢えと渇きを訴え(民11~)激しく不満を言いました。神様は民の不平を聞いて下さり、朝には天から「マナ」を、夕べには「うずら」から肉がもたらされました。

*マナ

「マナ」は朝、宿営の周りに降りた露(つゆ)が蒸発して、薄くて壊れやすいものが大地の霜のように残ったものです。民はそれが何か知りませんでしたが、モーセは「これこそ主があなた達に食物として与えられたパンである。」と教えています(出エジプト16:13~)。マナはコエンドロ(水辺に咲く。調味料とされる)の種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味でした(出エジ16:31)。マナにはヘブル語で「何だこれは?」という意味があります。彼らは知らないもの、理解できないものを目にしたのです。

*民の欲望と不信仰

(詩編78:22~29節)。「彼らは神を信じようとせず 御救いにより頼まなかった。それでもなお、神は上から雲に命じ 天の扉を開き 彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。・・神は食べ飽きるほどの糧を送られた。神は東風を・・送り 御力をもって南風を起こし 彼らの上に肉を塵のように降(ふ)らせ 翼(つばさ)ある鳥を海辺の砂のように降らし・・神は彼らの欲望を満たして」下さいました。しかしイスラエルの民は、欲望から離れることはなく、その結果、「神の怒りが・・燃えさかり、肥え太った者を殺し、・・若者達を倒したそれにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し 驚くべき御業を信じなかった。」(31~32節)のです。神様は彼らの不信仰を見て、彼らを滅ぼそうとなさいました。彼らはそれに気付くと立ち帰って神様を捜し求めました。が、彼らの心は定まらず、神様との契約(律法、守りごと)に忠実ではありませんでした。それでも神様は、彼らを滅ぼすことなく繰り返し怒りを静めらました。「神は憐れみ深く、罪を贖われる」(38節)とあり、続いて「人間は肉に過ぎず、過ぎ去って再び戻ってこない風のような 滅びゆく存在である」ことを御心に留められたことが記されています(39節)。

*「わたしは天から降(くだ)って来たパンである。」(41節)

 本日のヨハネ福音書でイエス様は、ご自分のことを「パン」と言われました。それは物質的なパンではなく、心の癒しや生きる力を与えて下さる「霊のパン」です。このパンを食べる者(イエス様を信じる者)は、永遠の命を得たものであり永遠に生きることを教えています。 

しかし「天から降って来たパン」との言葉に、ユダヤ人達はつぶやき始めました。なぜなら彼らは、イエス様の両親を知っていたからです。

 イエス様は、ご自分が天から降ったことを説明するために「(神)」を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見た」と言われ、ご自分が神から遣わされた御子であることを宣言されました。

*「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、その人を終わりの日に復活させる。(54節)」

このイエス様の言葉は、ユダヤ人達の間に大きな議論を起こし、多くの人達がこの言葉につまずきました。けれどもイエス様は十字架で肉を裂かれ、血を流し、亡くなられました。イエス様の肉を食べイエス様の血を飲むとは、イエス様の十字架の死を、自分のこととして信じ受け入れることです。十字架の死は、私達が、自分の罪のゆえに死ななければならなかったのにイエス様が代わって死んで下さった、それにより私達の罪は赦され、永遠の命が与えられた出来事です。これは丁度私達の命をイエス様の命と交換していただいたことと同じです。私達は罪の中に生き、肉体の死と共に滅びゆく存在でした。にもかかわらずイエス様が私達の罪を引き受けて下さったがゆえに、神様の恵みにより信じる信仰によって「永遠の命」と復活が約束されています。私達はイエス様が日々与えて下さる「命のパン」によって生かされ、神様との出会いと交わりが与えられていることを感謝して、今週一週間も歩んで参りましょう。

2022年4月24日の説教要旨 詩編27編・ヨハネ15:1-10

主の内にとどまる」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

一つの事を主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り(住んで・口語訳)主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを

 本日の詩編27編は、神様を信じる者たちが心を静めて、力強い主との深い関係を思い描き、主の素晴らしさに思いを巡らし、主の家に住まわせてほしいと祈り、心を神様に留めることで、神様と会話をする心での詩になっていると思います。又、この詩は、私たちが自分自身を見つめ直し、神様に造られた自分という個人が、神様との関係作りの中にあって、主の内に留まる、主の家に住むことができる、主の考えていることや主の語りかけを理解することができる場所(私と神様との隠れた祈りの場所・拠り所)を持っているかどうかを、私達に考えさせてくれる信仰告白の詩です。

主はわたしの光、わたしの救い」(1節)

この「光」とは、創世記1章の、天地創造の第一日目に、たった一つの出来事として、混沌とした闇の中から「光あれ」と、光とやみを区別され、光だけを良しとされた その光であり、私たち(神様に造られ、神様に愛された者たち)に照らされる光、救いの光です。

この詩編の作者ダビデは、神様に彼の思いを集中させ、沈黙の世界の中に神様との交わりの時を持ちたい、その場に、その空間に、留まりたいと願っていたのです。私達もダビデのように、この光、神様から照らされる場所、その場所を個人的に落ち着く場所、神様に出会い、神様と会話をする所を探し求める必要があります。そしてその主の霊に満たされることによって、主を畏れ、敬い、主の家、主の宮に住みたい、留まりたい、神様が好きで好きでたまらなくなるのです。皆さまは、神様に思いを寄せて特別に出会える場所、その隠れ家はどこにあるのでしょうか。ダビデはまだ若く、羊の世話をしていた頃、神様に選び出されて、羊に対する羊飼いのような恵みと憐れみを豊かに受けて、主の素晴らしさ、主の麗しさを体験しました。神様は、私達をも人々の中から選び出し、神様の霊を注ぎ、この世界に存在する意味を教えて下さっています

*今年度の仙台南伝道所の御言葉 

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 本日の、ヨハネによる福音書15章1-10節には、「つながる」の言葉が10回も出てきます。「つながる」には、他に「とどまる、滞在する,泊まる,居続ける,住み着く,住む」という意味があります。ここには、詩編27編とのカギとなる言葉が使われています。

 イエス様は私たちに、「主の内に留まりなさい、居続けなさい、住み着きなさい、と、ここでも伝えているのです。

ダビデは、主の霊が存在する所に、神様との関係作りが作れる所に、住み続けることを望みました。そしてヨハネ福音書で、イエス様は、イエス様に繋がっていなければ、私たちは良い実を結ぶことはできないし、何もすることが出来ないと、語られています。

*わたしたち

 私達は、「イエス様を信じます」と告白し、受け入れた時に、目には見えない油という主の霊(聖霊)が注がれ、私達の内に神様というお方が住まわれました(「わたしたちは生ける神の神殿なのです」(Ⅱコリ6:16)。

 このようにして、私たちがこのお方の名前を呼ぶ時に、神様は私達の内に現れて下さり、神様との関係作りが始まるのです。それは、私たちがどこかに、神様との関係作りをする特別な建物や部屋を作らなければならないということではありません。私たちが神様に一対一で祈ることのできる環境、空間があればいいのです。ただ、それだけのことです。

 もしくは、私たちが、二人でも三人でも、思いを寄せることのできる、祈りあえる仲間がいれば良いのです。私達が神様に思いを寄せることのできる仲間たちと共に、その場所で、主の御名を呼び、静まり、祈る。その中に神様の現われ、神様の存在を感じ取る空間ができるのです。

今週も、主の霊に満たされて歩んで行けますようにお祈り致します。

2022年4月17日の説教要旨 詩編114:1-8・ヨハネ20:1-18

復 活 の 日」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

イースター、おめでとうございます。イースター(復活祭)は、イエス様が十字架にかかり、死なれ、復活した日をお祝いする日です。

週の初めの日、マグダラのマリアは、朝早く、まだ暗い内にイエス様の身体が納められているお墓に行きました。

「週の初めの日」とは、ユダヤ教では安息日が金曜の日没から土曜の日没までで、イエス様が亡くなられたのは安息日の準備の日(金曜日)でした。「イエスは、ご自分が必ず多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子達に打ち明け始められた。」(マタイ16:21)とありますので、三日目は日曜日にあたります。

*週の初めの日

「週の初め」の「初め」という言葉には、ヘブライ語で「第一、一番目」という意味だけでなく「唯一、たった一つ」という意味もあります。

創世記1章1節~5節に、初めに神様は天地を創造され、地は混沌(こんとん)としていて闇(やみ)が覆っていましたが、神様は、「光あれ」と言われて、光を見て「良し」とされました。混沌としていた闇の中から、光とやみを区別されたのです。神様は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれ、夕べがあり、朝がありました。それが第一の日の出来事、唯一の出来事として記されています。

ここで神様は、光は救いであること、闇は滅びであることを示そうとしたのかもしれません。神様は、神様のことを信じる者と信じない者が混ざり合って混沌としている、この世界・社会を、光と闇、救いと滅びで、はっきりと分けようとしているのだと思います。

神様は、この世界を創造された時から、そして、このお方を信じた時から、受け入れた時から、私達は 神様の照らす光の道を歩くことができるのです。神様は全てのことに計画を立て、神様の「時」に、様々な出来事を、私達の目に見えるように、分かるような形で行なって下さるのです。

*墓の入り口には大きな石を転がしておいた(マタイ27:60)

 イエス様が十字架につけられた所には園があり、そこにはまだ誰も、葬られたことのない新しいお墓があり(ヨハネ19:41)、イエス様の遺体はそこに納められました。マタイ福音書には、アリマタヤ出身のヨセフが、イエス様の遺体を受け取り、きれいな亜麻布に包んで、岩に掘った自分の新しいお墓に納めて、お墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去ったと報告されています。

マグダラのマリアが訪れた時には大きな石は取りのけてありました。朝早く、まだ暗かったのでマリアにとって何とも不思議な光景だったと思います。「お墓」の原語には、「回復する国の計画」・「国王の帰還」との意味があります。イエス様のよみがえり、復活すべき国王が帰還したとの、神様の御計画の実現を伝えています。

地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に 」(詩編114:7)

 さらに注目する点は、お墓の石が取り除かれていたことです。これは本日の詩編「地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に 」とあり、「身もだえせよ」の原語では、ねじまげるとか、ゆすぶる、苦しめるという意味があり、マタイ福音書28:2には、この時、「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」と記されています。神様は、神様のご計画を実行する時に、大地を揺り動かしてまでも、(大地を身もだえさせてでも)、その力を私達人間に現わし、体験させるようになさることが分かります。

*復活の日

 復活の日は、第一日目、週の初めの日に来なくてはなりません。

なぜなら、全ての出来事の中には神様の計画された日があるからです。それらは、私達にとって、唯一の日、たった一つの日になるからです。そして日曜日が、復活したイエス様の日、初めの日の出来事として私達が覚え、集まり、祈る。このことを通して、私達、神様を信じる者達が一週間、神様に導かれ、守られ、神様と共に生きる喜びを知り、イエス様が、私達一人ひとりの心の内におられることを知っていくのです。

2022年1月9日の説教要旨 詩編36:6-10・マタイ福音書3:13-17

「天 が 開 く」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに

(イザヤ書40:3)の、「荒れ野で叫ぶ者」として神様が用意された人でした。人々に、力ある方・イエス様が来られることを宣言しています。「天の国・神様の国が近づいた」・・この預言的な言葉は、神様がまさに訪れようとしていることを告げて、神様を受け入れようか、受け入れまいかと考えている余裕がないことを意味しています。バプテスマのヨハネは、人々に、罪を悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を結ぶようにと、ヨルダン川で洗礼(水につかり身を清め、心を新たにする)を授けていました。

マタイ福音書3章始めには、バプテスマのヨハネが荒れ野で宣教を始めたことが記されています。ヨハネは、預言者イザヤによって預言された『荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。

*水で清める

私達日本人にも「水で清める」という風習や考え方があり、神社やお寺に入る前に手を洗ったり、滝に打たれたり、みそぎなど自分の身を清める行為を思い浮かべます。旧約聖書には、エゼキエル書36:25に、「わたしが清い水をお前たちの上に振りかける時、お前たちは清められる」とあり、人々が過去の行ないから新しい心、新しい霊を持つために、祭司がヒソプ(オレガノに近い低木「マヨナラ・シリアカ」と呼ばれる)に水を浸して、汚れた者にふりかけ、人々の身を清めています。

*イエス様の洗礼(バプテスマ)

ヨハネは人々に水で洗礼を授けているけれども、ヨハネの後から来る方は、ヨハネよりも優れているとヨハネは語っています。イエス様がヨハネのもとに来たのはヨハネから洗礼を受けるためでした。ところがヨハネは「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私の所へ来られたのですか。」と、イエス様の申し出を強く断りました。自分は、神の子イエス様に身を清める儀式を行うことが出来るような者ではないと思っていたからです。しかしイエス様は、はっきりした目的をもって来たことを伝え、「今は、止めないで欲しい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と告げました。イエス様は洗礼を受けられると、すぐに水の中から上がりました。「その時、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。その時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」と言う声が、天から聞こえた」(16~17節)。

このことは私達自身にも起こることを教えようとしているのかもしれません。私達がイエス様を救い主として受け入れ、私達の口からその信仰を言い表した時、「神の天使たちの間に喜びがある」(ルカ福音書15:10)のです。

*バプテスマのヨハネとわたしたち

ヨハネはイエス様と出会った時、自分の使命、宣教の働きが終ったと考えたかもしれません。けれどもヨハネは、イエス様の言われる通り洗礼を授けました。神様の正しさを行う時、私達にも同じようなことをなさる時があります。私はかつて教会で讃美リーダーとして奉仕をしていましたが、まだ20代でしたので、讃美の導き手として奉仕する恥ずかしさ、怖さがありました。しかし回を重ねる内、自分に集中することから会衆へと目を向けられるようになり、神様の霊の働きにも気を配ることが出来るようになっていきました。神様を感じる体験をしたのです。

神様はどんな時も、私達が悩んだり困ったり、人前で何か大きなことをする時など、時にかなった色々な形で私達の中に現れて下さり(時に身近な人を通してなど)生活の中でかかわりを築いて下さいます。本日の詩編「神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ」「命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたし達は光を見る。」)と歌ったダビデは、神様が絶えず、神様の霊をダビデに注ぎ続けて下さることに感謝の心で、神様のまことの光を、その霊の注ぎかけの中で見た(感じた)告白をしたと思います。私達が神様の真理、神様の存在、神様の霊の中に入る時、憩う時、私達にとって神様は尊く計り知れないお方として礼拝する、感謝する、愛することが出来ると思います。

2022年1月2日の説教要旨 詩編89:2-15・ルカ福音書2:41-52

*はじめに

イエス様誕生の喜ばしい知らせを受けたのは、ベツレヘムで人々からあまり良い評価を受けていない立場の羊飼い達であり、神様は、この羊飼いをイエス様誕生の出来事を言い伝える人として選ばれています(ルカ福音書)。

さらに東方では、ユダヤ人の王となる「星」を見つけた異邦人の、占星術の学者達がエルサレムにいるヘロデ王を訪れて、メシア誕生の場所を尋ねました(マタイ福音書)。ヘロデ王は、祭司長達や律法学者達に調べさせ、預言書からユダヤのベツレヘムであることを知り、学者達に伝えました。学者達が出発すると東方で見た星が前を進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。学者達はこうしてイエス様を拝し、贈り物を献げました。

*公現日

このように幼子イエス様はユダヤ人だけではなく、異邦人(ユダヤ人以外の外国人)にも現れて下さいましたので、この時を「公現日」(顕現日)として記念し、クリスマスから12日後にあたる1月6日にお祝いします。

羊飼いや、東方の博士達がイエス様に出会い、喜ばしい知らせ、素晴らしい体験をしたのと同じような喜びが本日の旧約聖書に記されています。『主の慈しみを とこしえに わたしは歌います。 わたしの口は代々に   あなたのまことを告げ知らせます』(詩編89:2)。

告げ知らせます

元の言葉は「知る」、「理性的に知る、経験を通して知る、人格的に知る」という意味があります。人々が神様とのかかわりを通して、神様との体験、神様との出会いによって、神様のことを他者に告げる、知らせる、という意味です。つまり、わたしたち、神様を信じる者達が、神様と実際に出会い、神様が行われる 偶然とも思えるような出来事、素晴らしいわざ(しるしや不思議や奇跡)を、自らが体験する、その場所に入る、出会うことによって、本当の神様、生きたまことの神様、喜ばしい知らせ、聖書の言葉を、他の人にも教える、告げ知らせるということなのです。

 特に2節では、神様から与えられた私の口を使って、神様は真実であること、まことであること、本当で変わることのない絶対的な神様が存在すること、揺るぎなく、昔も今も、これからもずっと続く永遠の神様がいて下さると告白し、宣言することが大事だと記しているのです。

*神殿での少年イエス

 本日のルカ福音書には、イエス様の両親(ヨセフとマリア)は、毎年、過越の祭にエルサレムに行かれていたこと、そしてイエス様が12歳になった時、両親はイエス様を連れてエルサレムに行かれた時のことが記されています。<当時は13歳で大人の仲間入り(神の民の一人となる)をして、掟、律法を守って生きる(聖書に従って歩む)者となります>。

祭りが終りヨセフとマリアが帰路に着いた時、途中でイエス様がいないのに気づき、捜しながらエルサレムに引き返し、神殿の境内でイエス様を見つけました。心配して捜していたマリアに、イエス様は、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われました(49節)。

*父の家

両親にはこの言葉の意味が分かりませんでした。イエス様が父の家にいること、イエス様は父なる神様から生まれ、父が住まわれる聖なる神殿にいるのは当たり前であり、それ以外の場所は考えられないことを両親はまだ気付いていなかったからです。このことからも神様、イエス様は、神様が用意して下さっている場所、神様が備えて下さった礼拝場所には、神様がおられる、宿っていて下さることが分かると思います。

*わたしたちの教会

 私達ひとり一人、神様から造られた者達です。その神様から造られた者たちが一緒に集まる場所、神様がおられる所に集まるのは当然のことです。各々に与えられた場所で、個人的な神様との交わりの時間も必要ですし大事なことです。しかし、共に集まり共に祈る、共に励まし合い、教会「礼拝を共にし、主に在る交わりの場所」ではないかと思います。

クリスマス礼拝・2021年12月19日の説教要旨

詩編2:1-12・ヨハネ福音書1:1-14

              「輝 く 光」         加藤秀久 伝道師

*はじめに

 旧約聖書の創世記の初めには、神様が天地を創造され、その創造は混沌(こんとん)とした地の闇の中から神様の「光あれ」との言葉で始まったことを伝えています。その言葉により、地上は光と闇とに分けられ、神様は光を昼と呼び、闇を「夜」と呼ばれた(5節)とあります。

本日のヨハネ福音書は、「初めに言(ことば)があった」と記されています。

 この神様の言葉によって私達も今ここに存在しています。そして私達は今日、イエス様のお誕生の出来事を聞くために、又、お誕生をお祝いするためにここに集まって来ています。

*イエス様の誕生の出来事

イエス様は、父なる神様から出た「(ことば)」と共にあり、人の姿をした神であり、私達生きる者達に命を与えてくれるお方、輝く光となるお方です。神様はこの「(ことば)」を通して私達人間がお互いに意思や感情、考えを伝え合うことが出来るようにして下さいました。

 イエス様の誕生は、皇帝アウグストゥスの「住民登録をせよ」との命令から始まります。ナザレに住んでいたヨセフとマリアは、登録のために、ベツレヘムへ向かうことになりました。妊娠中のマリアにとってベツレヘムへの道のりはとても大変な移動であったに違いありません(約136km)。しかし神様はこうしてヨセフとマリアをイエス様の誕生の地ベツレヘムへと導いたのでした。そしてベツレヘム滞在中にマリアは月が満ちて、イエス様誕生の時を迎えますが、どこの宿屋もいっぱいだったため、家畜小屋に泊まることとなり、生まれた子供は「飼葉おけ」に寝かせることになりました。これがイエス様の誕生の出来事です。

*神様の定められた時

本日の詩編2編1-12節では、神様の定められた時に、来るべきお方、神様の子、イエス様が生まれることが述べられています。新約聖書の記者達は、この詩編は、神の子の到来を指し示していると考えます。

特に7節の「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」との「今日」は「その日」とも訳すことが出来、神様によって「定められた日」、神様によって「しるし付けられた特定の日」を意味していて、私達人間には変えることの出来ない神様の御計画の中で起こっている、前もって定めた「その日」があることを意味します。

本日のクリスマス礼拝も神様を礼拝する大事な「その日」でもあります。

12節では、「その日」を頼りにし、お祝いし、主を避けどころとする者は幸いであると私達に伝えているのです。

*「今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)

 神様は、初めに私達に何を与えて下さっているのでしょうか。

神様は、神様の栄光をこの地上に輝かせるため、私達を罪から救うため、愛する独り子イエス様をお与えになりました。この救い主の誕生がなければ、私達の救いの出来事や救いの体験も起こりません。

 神様は、ご自身の約束に従って、神である御子をこの時=今日という時間の中へ(歴史の中へ)と送り込まれました。そして御子イエス様は人間として最も弱い立場である赤ちゃんとして生まれ、その生涯の終りには人間としての恥を受け、人々から見下されて、十字架に架かり、死ななければなりませんでした。この出来事はすべて、私たち生きる者のための、神様の御計画の中で起こったことでした。

*「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(5節)

「しかし、言(イエス様)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々  には神の子となる資格を与えた」(12節)

 人々は、この世の忙しさ 楽しさ 誘惑に心が奪われ、光として来られたイエス様を知ろうともしません。けれどもイエス様を受け入れて信じた者は「神によって生れて」(13節)「神の子とされ」ています。神の子とされた私逹の内にはイエス様が宿られていて、私達はイエス様の恵みと真理に満ちている御子の栄光を見ることが許されているのです!

2021年10月17日の説教要旨 詩編86:2-10・マタイ福音書25:1-13

「神の国にいたる者」         加藤秀久 伝道

*はじめに

本日の詩編は、ダビデが悩みの中で神様に助けを求めて祈りをささげています。ダビデはどのような時でも神様を信じ、神様に目を向け、前を向いて歩んでいくことを心掛けていました。ダビデは「神の箱(十戒が納められていた契約の箱・主の箱とも呼ばれ、神様の臨在の象徴)」をダビデの町(エルサレム)に運び入れる時、喜び祝い、力の限り主の御前で踊りました(サムエル記下6:14)。それは主の現れ、神様が存在して下さる所には神様の祝福が伴い、神様の栄光があったからです。神様は偉大な神、揺るがず、絶対的で真実なお方です。私達が深い陰府(よみ)に下ったとしても、その中から救い出して下さるお方であることが86編に記されています。

ダビデはこの神様に、真理を求め、心を尽くして感謝をささげ、神様が与えて下さる確かな道を歩むことを望んだと思います。

主の霊の力は どこからくるのでしょうか?

*讃美歌312番

よく讃美する歌に「いつくしみ深き」があり、2番に「友なるイエスは・・祈りにこたえて慰めたまわん」との歌詞があります。私達人間の心や気持は変わりやすいものですが、イエス様は、私達の弱さを知っていながらも、いつまでも変わらぬ愛をもって私達と関係を持って下さり、「悩み悲しみに沈める時も・世の友がわれらを棄て去る時も」、私達の祈りに耳を傾け、励まし、私達を救い出して下さる唯一のお方であることが記されています。

*10人のおとめたち

本日のマタイ福音書25章には、10人のおとめ逹がランプをつけて花婿の到着を待っていて、その内5人は愚かで、5人は賢かったとあります。「愚か」「賢い」とは、「開いた目」という言葉が背後にあり、賢い者とは、来るべきもの、イエス様が再びこの地上に来ることに対して目を開いて見ている、目を覚ましていることを示し、しっかりと神様に目を向けていた人々のことを記していると思います。愚かなおとめ逹は、花婿が迎えに来た時に、ともし火を持っていましたが、油の用意をしていませんでした。ところが花婿の到着が遅れたので、どちらのおとめ逹も、眠気におそわれて眠り込んでしまいました。

*花婿の到着

真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がしたので、おとめ逹は皆起きて、ともし火を整えました。壺に油を入れていたおとめ逹は、油をつぎ足しましたが、愚かなおとめ逹の火は消えそうでした。そこで賢いおとめ逹に「油を分けてください」と頼みましたが、「分けてあげるほどはありません。店に行って、買ってきなさい」と勧められました。

愚かなおとめ達が買いに行っている間に花婿が到着し、用意のできていた5人は花婿と一緒に婚宴の席に入り戸が閉められました。その後、他の5人も来て「御主人様、開けてください」と頼みましたが、主人は、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と答えています。

だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(13節)

譬えの、「ともし火・油・整える・分ける・消えそう」は、どれも、私達の心、神様との関係、神様の霊、聖霊について話されていると思います。イエス様は、私達が日々霊に満たされて歩んでいけるように、神様の言葉に聞き従い、祈ることを求めていますが、神様を信じる信仰に違いがあることが本日の聖書で述べられています。神様を信じる信仰は、聖霊の働きによって生み出されますが、信仰生活は何かの問題にぶつかったり、身体の疲れからくる気力のうすれ、力の限界を感じた時など様々なことが原因で神様との関係がおろそかになり、愚かなおとめのように、ともし火を整えられず、「霊」である油をたくわえることも、つぎ足すこともしなくなってしまうことがあります。これらは悪魔が私達をイエス様から引き離そう、目を神様より他に向けさせようとしてこの地上にある物を使い私達を攻撃しているに過ぎません。神様の御霊は、私達の生きる源であり、信仰生活を持続、成長させて下さるものです。

今週の歩みが、主の豊かな霊に満たされますようにお祈りを致します。