「創 造」 加藤 秀久牧師
*はじめに
神様はこの地上を造られた時に、神様が良いと思われる方法で、地上のもの全てを規則ただしく置かれました。そのことは私達がこの地上のもの、特に神様が造られた自然(森や木、水、山や海)に目を向ける時、神様の素晴らしさ、偉大さを見ることができると思います。
本日の詩編104編19節に「主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている」とあります。神様は月と太陽によって生き物たちの生活を保つための順序や決まりごとを定められていると感じます。例えば、季節の変わりゆく姿、もうすぐ春とか天気が良くなるとか日が暮れるなど、動植物も含め、私達が五感で感じる事柄は神様が与えた特権でもあります。
*光と闇(やみ)
創世記1:14以下で、天地創造において神様は大きな二つの光を造られ、大きな光に昼を、小さな光に夜を治めさせ、光と闇を分けられたとあります。本日の詩編では「あなたが闇(やみ)を置かれると夜になり 森の獣は 忍び出てくる。若獅子は餌食を求めてほえ 神に食べ物を求める。太陽が輝き昇ると彼らはかえって帰って行き それぞれのねぐらにうずくまる。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。(20~23)」とあり、神様は、昼に生きるものと夜に生きるもの、全ての生きもの逹がみ手の業の中にあることを示しています。ヨブ記38章には理由が分からない苦難の中で祈るヨブに、神様は嵐の中から「わたしはお前に尋ねる、私に答えて見よ。私が大地を据(す)えた時、お前はどこにいたのか。知っていたと言うなら言ってみよ(4節)」と答えられています。天地創造の時、あなたはどこにいたのか?との問いは、私達に、神様中心的な考え・想い・態度をもって、ひたすら神様を信じて求めるべきと伝えているようです。
私達は人生のどこかのタイミング(時期)で「自分は、神様の創造の中に、計画の中に、生かされている」ということを知る必要があると思います。
*「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
本日のヨハネ福音書の初めの言葉は、私達に、天地創造を思い起こさせる言葉になっていると思います。神様は、言葉を発することで天地を形造られたことを示しています。この言葉は、神様の想い、天の国が地上でもあるようにとの願いが込められていて、「言」の中に「イエス様」のことを示していて、神様が告げる言葉は、神様の子供であるイエス様の言葉でもあることがすでに定められていました。
*「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(4節)」
「神は言われた。『光あれ。』(創世記1:1)」とありますように、神様は言葉によって光を現わしたこと、その言葉は初めに神様と共にあったこと、これはイエス様が天地万物の創造以前にすでに神様と共にあったことを告げています。そして「言は肉となって、私達の間に宿られた。(14節)」とあり、イエス様が私達と同じ被造物ではなく、最初から存在していたことが述べられます。イエス様は天地創造の時に神様と共におられ、イエス様の言葉は、生きる者逹に光を照らすことになり、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(5節)」とあります。
*神様に呼び出されたわたしたち
「光あれ」の「あれ」は、命令形ではなく、(光は神様と共にあるので)、天地創造前から存在していて、神様がすでにあった光を闇の中から呼び出したと考えることができます。このことを原語で調べますと、「~があれ」「~せよ」は、本来神様が計画していたものが「目に見える形となって現われるように」という未完了の指示形でした。ですから、この後の「大空」や「水」、「かわいた所」などもみな、神様の命令によってではなく、神様に呼び出されて現れたことを伝えていて、そのことは、私達がこの地上に生まれたことも同じように言えるかもしれません。私達は、神様に呼ばれてこの地上に人として生まれました。それは私達の五感で神様というお方を知り、感じ、味わい、触れるためにあると思います(ヨハネの手紙一1:1参照)。それはきっと、天地を造られた時、神様が「光あれ」と言われたと同じように、私たちは神様に呼び出されて、その神様の光に包まれる喜びを感じることにあるのだと思います。