2020年4月19日の説教要旨 詩編16:7-11 ヨハネ福音書 20:24-31  

「命を受けるための道」  佐藤義子牧師

*はじめに

私達は、先週の日曜日イースター礼拝をおささげしました。今朝はヨハネ福音書20章を通して、復活されたイエス様が、マグダラのマリアと、弟子達およびトマスと出会われた出来事をご一緒に学びたいと思います。

*マグダラのマリア

イエス様の御遺体に塗るための油と香料を用意して、日曜日の早朝まだ暗い中を、マグダラのマリアはお墓に向かいました。しかしお墓には遺体はなく、マリアからそのことを聞いたペトロともう一人の弟子はすぐお墓にかけつけますが、お墓には、遺体が包まれていた亜麻布と、頭を包んでいた覆いがあっただけでした。二人の弟子はそのことを確認した後、家に帰って行きました。(20:9「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」) 

しかしマリアは、帰ることが出来ず、お墓の外で立って泣いていました。泣きながらお墓の中を見ると、二人の天使が遺体のあった頭の方と足の方に座っていました。マリアは天使とは分からず、イエス様の遺体が取り去られたことを訴えます。遺体に執着(しゅうちゃく)していたマリアは、さらに、復活さたイエス様から声をかけられた時でさえイエス様とはわからず、園の管理人と思いこみ、遺体のことを聞いています。

私達は時々、マリアと同じようなことをしてはいないでしょうか。イエス様がすぐそばにおいでになるのに、自分から探して「遺体」を引き取ろうとする愚かさです。しかしよみがえられたイエス様は、マリアの、この悲しみの涙を放ってはおかれず、弟子達より先にマリアに現れて下さり、そして、弟子達への伝言を託されたのでした。

*弟子達への聖霊授与

 同じ日曜日の夕方、弟子達が迫害を恐れて戸に鍵をかけて集まっていた時、復活されたイエス様は来られて真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われ、十字架による傷口をお見せになりました。そして弟子達に息を吹きかけ、世界伝道へと遣わすために「聖霊を受けなさい」と、「聖霊の賜物」と「罪を赦す権威」(および、赦されない罪への権威)をお与えになりました。この「聖霊の賜物と罪を赦す権威」は、「あなたは生ける神の子です。」との信仰告白を土台として建てられた、「教会」の伝道者及び共同体に託され、2000年来、継承され続けています。

*トマス

弟子達にとって、よみがえられたイエス様との再会はどんなに大きな喜びと励ましとなったことでしょう。ところがその日、弟子達と行動を別にしていたトマスは、復活のイエス様にお会い出来ず、この喜びを共にできず、聞いても信じることが出来ず、イエス様の復活は、自分の目と手で確かめるまで信じないと言いました。復活のイエス様にお会いする素晴らしい恵みのひと時を逃してトマスはどこに行っていたのでしょうか。又、他の弟子達との関係はどうなるのでしょうか。 

*「見ないのに信じる人は幸いである。」

イエス様は、八日間という時間を経たのち、疑いと不信仰の中にいたトマスを弟子仲間に戻すために再び弟子達を訪ねられ、「あなたがたに平和があるように」と言われました(この平和は、神様の業、賜物です)。

そしてトマスに「あなたの指をここに当てて・・あなたの手を伸ばし・わき腹に入れなさい」と、望むことをするように言われた時、トマスの口から出た言葉は「私の主、わたしの神よ」との信仰告白でした。

見ないのに信じる人は幸いである。」とイエス様が言われた通り、2000年を越える今も、教会で、又、私達の伝道所で、イエス様を見ないのに信じる幸いな方々」が起こされています。 *「これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(31節)。信仰は、聖霊が働くことによって私達に届けられ、確信が与えられます。そして信じた者には永遠の命が与えられています。「イエス様を信じる者は死んでも生きる」(11:25)のであり、私達信仰者は「信仰の実りとして魂の救いを受けている」(Ⅰペトロ1:8)のです。

2020年3月29日の説教要旨  詩編119:105・ヨハネ福音書 12:27-36

「光のあるうちに」    佐藤 義子牧師

*はじめに

来週の日曜日は、イエス様がエルサレムの町に入城した棕櫚(しゅろ)の主日であり、受難週に入ります。本日の聖書は、過越祭の礼拝の為、エルサレムの町に入られたイエス様が、群衆に語られている言葉です。12章27節に「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。」とあります。イエス様の心が騒いでおられる。イエス様でも、そのような状態の時を過ごされたことを改めて知らされます。イエス様にはこの時、すでに逮捕状が出されていました。

父よ、私をこの時から救ってください』の、「この時」とは、23節の「人の子が栄光を受ける時が来た」の「時」であり、御自分の命をささげる時です。ですからこの祈りは、ご自分が死ななければならない道とは別の道を祈っているように思われます。が、内村鑑三は、「この時から救って」の『から』は、「その中から」という意味を含む(原語)ので、正確には、「苦痛を免れることではなく、苦痛の中に入り、この道を通過して、その後に、その中から」私を救ってください、と、読んでいます。

*しかし

イエス様の祈りは、このあと、「しかし」という言葉をはさんで、御自分の進むべき道は、神様の御意志に従う道であること、それが受難の道、死へと向かう道であり、それを担うためにイエス様は生れてきたのであり、地上に遣わされてきた、と言われ、祈りは「父よ、み名の栄光を現して下さい」(神様のみ名が崇められ、神様のみ名が輝くように)で終りました。その時、大きな出来事が起こりました。

*天からの声

それは、天からの神様のみ声が聞こえたのです。み声は「わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」です。神様はこれまでイエス様を導き、イエス様が語られた言葉や業により、神様のみ名が崇められてきましたが、これからも続けて神様の御業が行なわれるとの約束の言葉です。「神様が神様であられること」「神様のお名前が崇められていくために、これからの十字架と復活という出来事の中で、神様の御業を行われていく」との約束です。

しかしその場にいた群衆は、この大きな出来事が、ある者は「雷」の音として聞こえ、ある者は「天使の声」と聞きました。しかしイエス様は、このみ声は、その場にいた群衆のためと言われています。イエス様が神の御子であることが分からない、信じていない人達のためでしたが、正しく聞くことが出来た人はいなかったようです。

*「気をつけて、目を覚ましていなさい」(マルコ13:33)

今、世界で起こっている新型コロナウイルスの出来事の中に神様からのメッセージがあるとするなら、それは何かと考えます。多くの方々もそれを聞きたいと神様に祈っていることでしょう。ある人はバベルの塔を例にしながら、人間のおごり高ぶりに対する神様からの警告と考え、ある方々は終末を意識して過ごすといわれます。私達は日常的にいろいろな出来事に遭遇しますが、それらを通しても、今も生きて働いておられる神様からのメッセージがあるように思われます。み声(聖書のみ言葉)を聞くのは、聖霊の働きをキャッチするアンテナが不可欠です。「目を覚ましていなさい」を心に刻みたいと思います。

*「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(36節)

イエス様は、十字架は、神様のこの世に対する裁きであると伝えます。そして信仰を持つようにと語られます。イエス様は、すべての人を照らす光(ヨハネ福音書1章4節)としてこの世に来られました。

イエス様は「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」と呼びかけます。

今しなければならないことは決断であること、今はまだ光がそこにある。だからじっとしていないで行動すること。やがて暗闇がやって来る。もしイエス様によって恵みを得ようとするなら、今、それを得ること。人生においては、すべてのことが時のある時間になされねばならないこと・・をイエス様は教えられます。「光の子」とは闇から解放された者、恐れから解放され、疑いから解放され、誰も取り去ることが出来ない喜びを内に持つ者です。最後に、12章44節~50節をお読みいたします。 「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。

2020年3月22日の説教要旨  詩編119:97-104・ヨハネ福音書 12:1-8

「聖化された愛」      佐藤 義子牧師

*はじめに

 本日の説教題を「聖化された愛」としました。「聖化」とは、「あるものを聖なるものにすること」「聖なるものにされた状態」を言います。

「聖」という言葉は、神が聖であり、神から選ばれた民は聖なる民であることが根底にあります。聖には、俗世間、あるいは日常的なものから引き離すという意味、又、神に献(ささ)げられるために清められたものに使われます。

*イエス様を取り囲む環境

今日の箇所は、イエス様が過越の祭りの6日前にべタニアに行かれた時の出来事が記されています。この出来事のあと、イエス様は過越祭に行くため、エルサレムの町に入られ、弟子達への告別の説教・最後の晩餐・ゲッセマネの祈り・逮捕と大祭司による尋問・続くピラトからの尋問・そして死刑判決・十字架での死・・への道に向かって進んでいかれるのです。

今日の箇所の直前(11章最後)に、こうあります「祭司長とファリサイ派の人々は、イエスの居所が分かれば届け出よと、命令を出していた。

イエスを逮捕するためである。」つまりこの時点で、イエス様には逮捕状が出されていました。逮捕される理由は一つもなく、ただ当時の宗教的指導者達にとってイエス様の存在が自分達に不利益をもたらすこと、権威が脅かされ、群衆の人気がイエス様に向かうことへの妬みにより、神を冒涜しているとの理由をつけてイエス様を殺そうとしていました。このことをイエス様はすべてご存じの上で、弟子達と共に、今、エルサレムの町に近いベタニアに来られたのです。エルサレムの町は、祭りの為に、世界各地から、大勢の人々が巡礼者としてやってきますので、町は人々で溢れるため、近隣のべタニアは巡礼者達の宿泊場所の一つでもありました。

*ナルドの香油

今日の出来事が起こった場所についてヨハネ福音書には記していませんが、マルタが給仕をしており、イエス様によって甦らせてもらった兄弟ラザロも同席していたことから、マルタとマリアの家ではないかと考えることが出来ます。イエス様たち一行が来られることを聞いて食事の会が催(もよお)されました。

この席で、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を持ってきて、イエス様の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。その結果、家は香油の香りでいっぱいになりました(3節)。ナルドは、ヒマラヤやネパールの高地でとれる植物で、イエス様の時代、インドから輸入されていて大変高価なものでした。香油の量は1リトラ(約330g)とあり、ユダの言葉によれば、300デナリオンの価値(当時、1日の労働賃金が1デナリオン)があったようです。通常このような高価な強い香りのする香油は、敬意を表そうとする客の髪の毛に、ほんの一滴注いでいたということですから、この時のマリアの行動は、そこにいたすべての人を驚かせたに違いありません。

*マリアの行為

強い良い香りが部屋中に満ちる中、その場は一瞬、空気が止まったようになったのではないかと想像します。マリアのその行為は、マリアがどんなにイエス様を尊敬し慕っているか、誰の目にも明らかに映ったことでしょう。マリアは、これ迄のイエス様との出会いを通して、イエス様こそ神の御子救い主であられることを確信していたに違いありません。そしてイエス様の今回の訪問、今年の過越祭の時が最後になるかもしれないとの予感が、マリアを、このような大胆な行動へと向かわせたように思います。

 ある神学者(テニイ)は、「マリアは霊的な識別力を備えていた。

イエス様の心に共感した者が持つ洞察力があり、イエス様が自分達と共に長くおられることは出来ないと直感した」と書いています。

同席していた人々の中で、イエス様との地上での別れの時が,もうそこまで来ているとの思いと緊迫感を、マリアと同じようにもっていた人は、どれほどいたのだろうと思いつつ、私もマリアと同じようにイエス様の心を知ることが出来るようになりたいと思いました。

*空気を破ったユダ

マリアの行為から生まれたこの場の空気を破ったのは、弟子の一人、イスカリオテのユダでした。彼は、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施(ほどこ)さなかったのか。」(5節)と言いました。相手を批判し、裁き、その間違いを指摘し、その行為を責めている言葉です。

ユダにとっては、その行為は浪費・無駄使いであり、使われた香油は300デナリオンという大金にしか見えなかったようです。彼は会計係でした。かつて群衆の多くは、イエス様のパンの奇跡などを見てイエス様を王にしようと捜し回ったこともあり、ユダも又、イエス様がこの世に於いて力を行使することを期待していたでしょう。ところがイエス様の生き方は、それとは逆に、御自分を待っているのは「受難と死」であることを弟子達に語っていますので、ユダにとっては自分の期待が裏切られる中、自分の身を守るために、会計係として預かっているおおやけのお金から一部を抜き取っていたことが、ヨハネ福音書の著者によって書き加えられています。高価なナルドの香油を自分に預けてくれたなら、それを高く売りその一部を自分の懐に入れられたのに、と、その悔しさからマリアを詰問する言葉となったと思われます。そのような自分の損得感情を隠してユダはマリアに、「貧しい人々に施す機会をあなたは捨ててしまった」と責めたのです。

*サタンの働き

悪魔サタンの働きは、いかにも人間らしく、信頼出来そうなかたちや言葉をとって近寄って来ます。それゆえ一般社会において、ユダの言い分に同調する人が出てくる可能性は大きいのです。 私達はこのような偽善(サタンの働き)に対して、見破る上よりの知恵を求めていかなければなりません。又、私達は、ユダのマリアへの批判は「おかしい」と感じます。それは、その人が所有している物を、その人が好きなように用いるのは当然であり、他人がそのことに対して批判し、干渉するのは間違っていると考えます。しかし当時は女性の人格は低く、人前で男性に自分の考えを述べることなど出来なかったのでしょう。誰かが助け舟を出さない限り、この場において、マリアは「高価な物を無駄使いする女性」とのレッテルをはられてしまう場面です。

*聖化された愛

イエス様は、ユダの言葉に対してこう言われました。

この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日の為に、それを取っておいたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

イエス様はマリアの行為を、「ご自身の葬りのため、埋葬の準備のための奉仕であり、日常的な来客に敬意を表す香油と区別され、特別な奉仕としてなされた行為」であることを伝えました。

イエス様の、この奉仕の意味づけにより、マリアの行為は、「時宜(じぎ)にかなった行為」であることが、おおやけにされました。マリアの、イエス様への、人目をはばからずに捧げた愛の奉仕は、イエス様によって聖化され、高められました。

この受難節の時に、私達はイエス様に何をささげたいと望むのか、何を喜んで受けていただけるのか、自分に与えられている賜物を思い起こしつつ、ささげるものが、主の御用に用いていただけることを願いつつ、今週一週間を歩みたいと願うものです。

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<参考までに>

*香油の物語については、すべての福音書に記されていますが、少しずつ内容が異なります。この出来事は、古くから初代教会に伝わった伝承の中の一つであり、福音書記者によって伝えたい事柄や強調したいことの違いが、違いとして表れていると考えられます。

○マタイ福音書(26:6-13):場所は、らい病のシモンの家。一人の女がイエス様の頭に香油を注ぎ、これを見て憤慨したのは弟子達。 

○マルコ福音書(14:3-9):マタイ福音書と同じ。憤慨したのはそこにいた何人かの人。

○ルカ福音書(7:36-50):場所は、ファリサイ派の家。香油を注いだのは一人の罪深い女であり、批判者はファリサイ派の人。

2020年3月15日の説教要旨 詩編100編・フィリピ書:3:1-11

「主イエスを知る」     加藤秀久神学生

*はじめに

主にあって喜びなさい」(口語訳フィリピ3:1)。私達は本当に、日々主にあって「喜びの生活」を送っているでしょうか。

本日お読みした詩編100編は、主を感謝すべき方として歌うことを奨励しています。

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。」(100:1) この詩編は、イスラエルにおいて、神殿に入場する時、神殿に集まった人々は主の門に進み出て、賛美を持って祝い歌われたと考えられています。又、礼拝式文の中でこの詩編が朗読され、神さまの「御名」と「恵み」と「真実」とが会衆に知らされました。この詩編は、神さまへの喜びを表し、この喜びこそ、私たちが、心を神さまに向ける信仰の活力になるのです。礼拝は、神さまへの喜びが大きく表現される場であり、同時に、主の民の喜びが湧き上がる場でもあります。

*「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

詩編は、私たちにこのように呼びかけています。礼拝は、神さまをほめ称(たた)え、賛美を歌うことから始まります。そして、神さまへの喜びの叫びは、主の前に集う人々の間だけに留まることなく、全地に、また世界中に響きわたって行くのです。人々は、この呼びかけに導かれて、神さまの御前に集うすべての者と結ばれて、信仰における神の家族としての大きな一体感を味わいます。

また2節の「喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。」との礼拝へのうながしは、神さまの臨在(りんざい) (見えない神が、その場に存在すること。そこにおられること) の素晴らしさと、そこから来る喜びに憩(いこ)い、与(あず)かるようにとの呼びかけが含まれます。礼拝の真の喜びは神様の存在を知り、その場所に立つこと、神さまの臨在に触れることです。神様を礼拝するために集まってきた人々は、神様に心を向けながら喜びと賛美をもって、神様のおられる場所に少しずつ近づいていきます。 礼拝は、私達人間が神様に出会い、神様への喜びに自分自身を委(ゆだ)ねる場であります。

*造り変えられていく喜び

また私たちは礼拝において、私達人間は、確かに「神さまから造られた者」であるとの認識、意識を持つことが出来ます。神さまの前に立つ時、私達はもはや「自分自身がどうありたいか」ではなく、神様が私達一人一人を、それぞれ違う形で造られたことを知らされます。そして私たちは、神さまのご計画に従って造り変えられていくことに、喜びと確信を持つことが出来るのです。 「感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。」(4節)。これが、喜びにあふれる真の礼拝です。

*「主において喜びなさい

 さてパウロは、今日のフィリピ書3章1節で「主において喜びなさい」と言いました。なぜ「主において喜びなさい」と言ったのでしょうか。彼は獄中にいました。パウロはフィリピの教会の人達に直接会って神様のみ言葉を宣べ伝えて共に祈りたかったと思います。しかし出来ませんでした。そのような自分の思いが叶(かな)わないという状況の中で、パウロは「主において喜びなさい」と語っているのです。

私たちは日々の様々な生活・状況の中で、自らをその流れに任せて淡々と毎日の決まりきった行動をしていないでしょうか。そうであれば、私たちは、そのような中で果たして本当に「主において喜ぶ」ことができるのでしょうか。「主において喜ぶ」とは、今日お読みした詩編100編のような礼拝を通して神さまに出会い、神さまに触れることだと思います。一人一人、感じ方の違いがあるかもしれませんが、神様を礼拝する「思い」や「態度」が重要だと思います。

*パウロ(フィリピ書の著者)と神様との出会い

パウロの神さまとの出会いは、彼がキリスト者を迫害するために、ダマスコという場所へ向かう途中、十字架につけられて復活したイエス・キリストの声を聞くことから始まりました。

パウロは三日間、目が見えなくなり、その間、食べることも飲むことも出来ませんでした。しかしその後、パウロはアナニアという弟子によって手を置いて祈られると、目が見えるようになるという経験をしました。そしてパウロは洗礼を受けた時に、神様からの力・聖霊の力を得たような体験しました。これがパウロの、主の霊に満たされた瞬間であったに違いありません。パウロは主イエス・キリストの霊を、身近に体験することによって神様を感じ取り、イエス様を知ることで自らを神様に委ねていく信仰を得ました。それはきっと、不思議な出来事であり、生きたイエス・キリストを見るような感覚であったに違いありません。このような生きた神様と共に歩むことで、すべてにおいて神様に感謝して喜ぶことができました。(使徒言行録9章参照)

主において喜びなさい」と言った後「これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」と続けて言っています。

そうです。「喜ぶ」ことは私達にとって神様から守りを得ることなのです。

*真の割礼

あの犬どもに注意しなさい」(2節)。2節で「犬」という表現が使われています。犬はユダヤ人にとって汚れた動物であるため、異邦人に使われていましたが、パウロはここで「契約のしるしである割礼(かつれい)を強調するユダヤ主義者」を指すために使っています。(割礼=生後八日目に男児の包皮を切る宗教的慣習)。そして肉を頼みとしない「私たちこそ真の割礼を受けた者です。」と宣言しています(3節)。コロサイ書に「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け」(2:11)とあります。つまり私達は、洗礼によってキリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神様の力を信じて、キリストと共に復活させられたことこそが「割礼」なのだと書かれています。パウロは、もし目に見えるしるしや正しい行いが大切なのであれば、パウロ自身も誰にも負けないくらい誇れるものを持っていると言っています。

*肉に頼ろうと思えば・・

 パウロは生まれて8日目に割礼を受けました。これが意味することは、彼が生まれた時から律法を大切にする家系に生まれて、パウロ自身も、生まれた時から律法を守っていると考えることができると思います。「イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人」(5節)は、アブラハム・イサク・ヤコブの流れの正統派家系に属する者であり、その中でも特別な地位を持つとされるベニヤミン族出身であり、純粋な血統を持つだけではなく、旧約聖書の言葉であるヘブル語を話すことができるヘブライ人でもあると言っているのです。

*「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者

ファリサイ派には「分離されたもの」という意味があります。神様の掟を守るために、普通の生活から分離して、律法に従う生活を送っている人々のことです。パウロはその一員であったと語っています。また、旧約聖書の教えでは、熱心であるという事は特に尊敬されるべきことでしたので、その点でも、パウロは律法を守らない教会の人々への迫害に携(たずさ)わるほどに熱心でした。彼は、律法を守ることに関しては非の打ちどころがない者だったと自ら告白しています。

*しかし・・

 しかし7節で、「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった。」とあります。キリストを知ることによって、ほかの全てのものを「損失」とみなしたのです。さらに続けて8節で、「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵(ちり)あくたと見なしています。」と語っています。

この「主キリスト・イエスを知ることの素晴らしさ」とは、どういうものなのでしょうか。そして、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」とは、一体どういうことなのでしょうか。私たちには、パウロのような主キリスト・イエスを知ることが出来るのでしょうか。 私は、出来ると信じています。

*私の体験

少し私のイエス様の体験談をお話したいと思います。

私はかつて、日本基督教団ではない教派に属する教会の礼拝に出席していました。私はその教会で、イエス様を私の救い主として受け入れました。その後は「神様のために何かをしなければならない、神様のために何かをするべきだ」という私自身の感情や考えから、教会の奉仕や仕事に一生懸命に取り組み、毎日の生活を送っていました。私はその日々の生活で、自らを忙しくする中で、次第に教会の礼拝に出席するのにも疲れを覚えていきました。それと同時に、神様に感謝する心を忘れていきました。

なぜそのようになったのか今、想い起こして考えてみますと、神様との交わりの時間、一対一の時間を作り、静まり、祈るということをしないでいたからだと思います。当時の私は、神様との交わりの時間を作ることが、その気になれば簡単に出来たはずでしたが、あえて日々の忙しさの中に身を置き、神様との時間を作るという選択をせずに、神様との関係作りをおろそかにしていました。これは、悪魔に攻撃されやすい、自らを否定しやすい環境に身を寄せていたことでもありました。いつのまにか私は、パウロと同じような習慣、神様との交わり<神様に祈り・委ねて・聞くということ>をしないでいたということでありました。

しかしそのような中で、ある時、私は兄に誘われて、ある伝道集会に出席しました。私はその集会で、集会に参加した人達と共に声を合わせて祈り、神様を賛美していると、今まで体験したことのない「神様がそばにいて下さる」という神様の臨在感を感じました。それは神様の圧倒的な存在感で、神様が一方的に私の方へ迫って来て、神様を拒むことすらできない、一方で、神様を受け入れることが当然のような不思議な感覚があり、神様が大きな愛で私を包んで抱きしめて下さっている、私がその場所に立っていることが出来ないほどの臨在感、その場にやっと立っていることが出来るような神様の臨在体験でした。私は神様が本当に今も生きていて、その生きた神様の大きな愛に触れることができた瞬間・体験でありました。

 私は、この時の神様の臨在体験が、パウロが体験したような、神様に対する感謝の気持や素晴らしさを知ることができた体験だと思います。まるでパウロが言っていた、神様の存在感・ご臨在を味わうことは、この世の中で起こっている出来事がどうでも良いように感じてしまうような同じ体験だったと思います。(「・・すべてを失いましたが、それらを塵(ちり)あくた(くず)と見なしています」(8節)

 それはまさしく、今朝の詩編100編(喜びの叫び)のようでした。私は、この体験がきっかけで、少しずつ神様との交わりの時間を作り、聖書の御言葉に耳を傾けるという時間を作り始めました。

*神から与えられる「義」

 9節後半に「義」と言う言葉が繰り返して使われていますが、簡単に説明しますと、自分が正しいことをするという、自分の行いの正しさではなく、神様との正しい関係を私たちは持っているという信仰によって、神様から「義」が与えられているということです。

*主イエスを知る

最後の10節11節においては、「キリストを知ること、復活の力を知ること、キリストの苦しみにあずかりながら、死者の中からの復活に達したい」と、パウロの熱い思いが溢れ出ているところです。私たち人間は、試練に会えば会うほど全てを投げ出したくなります。しかし、パウロは、イエス様を信頼して、イエス様と共に歩むことで、神様からのゆるぎない力を受けたのだと思います。

私たちも今直面している問題を、主に全て委ねて求めていくことをしたのなら、1節にあるような「主において喜ぶ」ことができて、主による平安を感じることができるのだと思います。 それゆえ、今週一週間、主を覚えつつ、主と共に喜んで歩みましょう。

2020年3月8日の説教要旨 詩編51:3-6・ヨハネ福音書1:29-34

「世の罪を取り除く神の小羊」 佐々木哲夫先生

*はじめに

恥の文化 江戸時代の大阪商人は、商いの契約書に次のような但し書きを書いていました。「この契約書に決して違反いたしません。万が一、背くようなことがありましたら、万座の中でお笑いくださっても少しも恨みとは存じません。」

信用を旨(むね)とする商人にとって万座の中で恥を掻(か)くことは最高の罰でした。但し書きを読むと、単に世間体を気にするという表面的なことではなく、名誉を重んじる商人たちの価値観が伺えます。日本の文化を恥の文化と称し、罪の文化である西洋と対比して論じられることが少なくありません。確かに恥をかかないようにとの気持ちから一生懸命に努力することに私たちは共感できます。日本文化の本質的な特色なのでしょう。

恥の文化にある者が罪の概念を理解することは、心の中の価値観に変革を求める事ですので簡単なことではないと思われます。

*罪の文化  

恥の文化では、人が見ているか見ていないかという外面的な拘束力(こうそくりょく)に行動の動機を見出すのに対し、罪の文化では、誰が見ていなくても神様が見ている、天に恥じることのないようにという内面的な拘束力に基づいて行動します。例えば、モーセの十戒を何故守るのか。社会的秩序を維持するため、とのこともありますが、それ以上に、十戒は、神と人との間に結ばれた契約であり、神との約束であるから守るというのです。

ですから、誰も見ていないから盗む、他に目撃者がいないから自分に都合の良い偽りの証言をするということは、神との約束を破る、すなわち神に対して罪を犯すことになります。

*三つの「つみ」

旧約聖書の原文には「つみ」を表す言葉として主に三つの単語が使われています。「背(そむ)きの罪」「咎(とが)」そして「罪」と邦訳されている単語の三種類です。「罪」は「罪」なのだから「罪」という一つの日本語で表現すれば良いと思われるかもしれません。単語が三種類あるということは、ユダヤ人の罪に対する思い入れがあるからです。

日本人は天から降ってくる雨に思い入れがあります。例えば、春雨(はるさめ)、

五月雨(さみだれ)、梅雨(ばいう)、小糠雨(こぬかあめ)、夕立、秋雨(あきさめ)、時雨(しぐれ)、小雨(こさめ)、涙雨(なみだあめ)など、日本語の雨に関する単語は豊富で400語、もしくは1200語もあると言われております。それは、日本人の雨に対する繊細な感覚の現れでもあります。

*背(そむ)きの罪

本日の旧約聖書箇所の詩編51編3節を見てみます。

神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。

ダビデは「背(そむ)きの罪」を拭(ぬぐ)ってもらいたいと神に嘆願しています。

「背きの罪」とは、主人などを欺(あざむ)き反逆する罪のことです。例えば、牛、ろば、羊、上着、遺失物など巡って所有権を争い、裁判になり、有罪とされた場合の罪もこれに相当します。(出エジプト22:9)

*咎(とが)

4節には「咎(とが)」という表現があります。「咎」は、自分の好き勝手な判断で規則を破ってしまうことを意味しています。衣服を洗うことや沐浴(もくよく)をせよと命じるレビ記の規則に従わない罪を原文では同じ単語なのですが、「咎(とが)」ではなくレビ記では「罪責」と邦訳しています。(17:16)

*罪                       

 4節のもう一つの表現、ただ単に「罪」と記されている単語は、旧約聖書に300回以上も記されています。これは「あるべき道からは外れて不注意にも迷ってしまっている状態」を意味します。例えば、働いた人に賃金の支払いをせずに、働いた人から訴えられた場合の罪も含まれています(申24:15)。

わずか三種類の言葉ですが、私の行為がどの罪に問われるだろうかと考えさせられ、罪に敏感になってしまいます。ダビデは詩編51編において三種類の罪の言葉を13回も使って自分の犯した罪を全部ひっくるめて神に悔い改めを祈っています。

*責任ということ

罪に敏感になると、反面、罪に応じて下される罰はいかなるものかと気になります。旧約聖書を読みますと、例えば、自分の所有している牛が人を突(つ)く癖(くせ)を持っていることを事前に知っていたか、いなかったかで罰の程度が変わります。事件の加害者が、過失か故意かによっても変わります。心の中で自分の兄弟を憎んだか、憎まなかったのか、など内面的な動機も問われます。複雑(ふくざつ)多岐(たき)で詳細(しょうさい)な吟味(ぎんみ)が求められるので、律法の専門家でないと罪の解明(かいめい)が難(むずか)しくなってしまいます。神に対し罪を犯さないためには一体どうしたらよいかと途方に暮れてしまいます。

身近な例によって考えてみたいと思います。小学校6年生教科書『国語(下)』(昭和56年光村図書発行)に小児科医で思想家の松田道雄さんが書いた「責任というもの」という興味深い論説文が載っておりました。

要約して引用してみます。

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小学生の男の子たちが広場で野球をしていました。一人が打ったボールがフェンスを越えて向こうの家の窓ガラスを割ってしまいます。みんな一斉に逃げようとしますが、出口のところで校長先生に出会ってしまいます。そして、誤(あやま)りにせよ物を壊(こわ)したら持ち主に謝(あやま)らないといけないと注意されます。校長先生に言われたので、謝りに行ったとするならば、それは生徒としての義務を果たしたことになる。もし誰にも言われなくとも自分の意思で謝りに行ったのならば、それは壊したことの責任を取ったということです。規則などで縛(しば)られてではなく、自分の威厳(いげん)にふさわしいように振舞(ふるま)うことが責任です。責任は、人間にとって義務よりも大事なものです。

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このような論説文を読むと、規則や定めを熟知(じゅくち)していなくとも、神の似姿である人間の威厳(いげん)にふさわしく責任ある振る舞うことの大事なことが理解できます。人間には、自分の行動が神に喜ばれることか、厭(いと)われることか、を自主的に判断する能力が備わっているのです。

*取り除く=引き取る

 とはいえ、神の前で罪を犯してしまったらどうしたら良いのでしょうか。本日読みました新約聖書の箇所において、バプテスマのヨハネはイエス・キリストが自分の方に歩いてくるのを見て、

見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言っております。すなわち、どんな罪でも取り除くことのできるお方であるとバプテスマのヨハネはイエスキリストの真の姿を見抜いたのです。

「取り除く」という表現には「取り除いてポイと捨てる」というニュアンスだけではなくもう一つ意味があります。それは、「担う、背負う」とのニュアンスです。例えば、復活の朝早く、マグダラのマリアは、イエス・キリストの遺体が収められているはずの墓に行きます。しかし、イエス・キリストの遺体のない空っぽの墓を見て泣き出してしまいます。その時、復活のイエス・キリストが「なぜ泣いているのか。誰を探しているのか」とマリアに声をかけます。その人物がイエス・キリストであることを認識できず、園(その)の管理人と間違えてしまったマリアは、

あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります」と語りかけます。

マリアの最後の言葉「引き取る」が「取り除く」と同じ原語なのです。

バプテスマのヨハネは

見よ、世の罪を引き取る(引き受ける)神の小羊

と言ったのです。それは、世の罪を引き受け、罪の赦しを実現した イエスキリストの十字架を連想させるものでした。

2020年2月23日の説教要旨

詩編95:1-11、ヨハネ福音書 6:1-15

「少しも無駄にならないように」 遠藤尚幸先生(東北学院中学高校)

*大勢の群衆

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」(6:1-2)

 今朝、私たちに与えられたヨハネによる福音書の言葉には、そのようにありました。主イエスの後を追って大勢の群衆が歩いていく。聖書の言葉そのままに読めば、湖を超えて向こう岸までついてきた。そんな、大勢の群衆の姿が目に浮かびます。彼らはどうして主イエスを追いかけたのか。聖書はそれを「イエスが病人たちになさったしるし」を見たからだと語ります。大勢の群衆もまた、自らの病を持ちながら、湖を渡り、主イエスの後を追ってやってきたのです。このような思いは2000年前の聖書の時代も、現代も変わりません。また、病だけではなくて、辛さや苦しみの中で、主イエスを追って来た人もいたでしょう。そのような意味で、私たちもまた、今朝、この大勢の群衆のようでもあります。一人一人それぞれにある思いの中で、今共に、主イエスの語る言葉に耳を傾けています。

*イエスは目を上げ

 主イエスは、大勢の群衆にどのように応えたのでしょうか。

イエスは目を上げ、大勢の群衆が自分の方へ来るのを見て」(5節)

 主イエスは、群衆を見つめます。そのために目を上げます。主イエスの眼差しは、今、この群衆に注がれています。群衆が追いかけて来るというのは、全く聞く耳を持たない方の背中を見つめながら、追いかけるのではありません。彼らが追う主イエスは、彼ら一人一人を見つめている。

群衆はこの眼差しの中を歩みます。この場面、私は、神様と、そこに集おうとする私たち一人一人の姿に重ねることができると感じます。私たちも今日それぞれの思いを抱えながら、この礼拝に集っています。一週間の歩みを終え、それぞれにあった苦労を乗り越えてここに集っています。大勢の群衆は湖を渡ってきたわけですが、それは決して容易な道ではなかったはずです。湖を渡るには準備が必要です。その途上、嵐が起こることもあります。人々は自らの足で主イエスを追いかけます。向こう岸へ渡るというのは容易なことではありません。しかし、それでも主イエスを追いかけて来る。礼拝堂に集う私たちもまた、何よりも主イエスが私たちに目を上げ、待っていてくださっている中で集っている。そのことを忘れたくはないのです。そしてこの眼差しは、今朝この時間だけに注がれているものではありません。振り返れば、この一週間すべてをも包み込むように注がれてきた眼差しです。礼拝は、この神様の眼差しに私たちが気づくときでもあります。ああ、自分の人生は、その歩みは、神様の眼差しの中にあったのかと気づきます。一人で歩んでいたと考えていた時、苦難の中にあった時、その時に、神様は目を上げ、この私を見ていてくださった。大勢の群衆も、主イエスの眼差しに気付いた時、そのことを思い起こしたはずです。主イエスが見ている。もう大丈夫だ。ここに私たちの真の安心があります。

*足りないでしょう

 主イエスはこの群衆に眼差しを注ぎながら、弟子のフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言いました。しかし、主イエスはこの後におこることをご存知の上で、フィリポにこう尋ねたと記されています。フィリポは、主イエスの問いにこう答えます。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。一デナリオンは、当時の一日分の給料と同等の金額です。ですから、二百デナリオンは200日働いた人が手にすることができる金額でした。主イエスの前にいた人々は男だけで5000人とも書かれています。女性や子ども含めれば1万人以上はいたと想像することができます。当然、この人々に食事を与えることなど想像することができないわけです。フィリポにとってみれば、自分の理解を超えた問いに、彼なりに一生懸命計算して出した答えが「200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」という諦めとも取れる言葉でした。そこで出て来るのが、一人の少年です。

*五つのパンと魚二匹

 8節には、続けて主イエスの弟子の一人であったアンデレがこう言ったことが記されています。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。

 一人の少年が大麦のパン五つと、魚二匹を持っている。アンデレは、そのことを主イエスに報告します。しかし先ほどのフィリポ同様、それでこの人数の人に食べさせることなど不可能であることを伝えます。この少年はどうして大麦のパン五つと魚二匹を持っていたのでしょうか。主イエスについてきた人の子どもであったかもしれないし、一人で来た少年だったのかもしれません。自分で自分の分として、彼なりに一生懸命準備して来たものだったかもしれません。アンデレが言うように、大勢の前では意味がないものかもしれません。しかし沢山いる弟子たち、大人たちの中で、よく準備して来た少年であったことは確かです。主イエスはその少年を見逃しませんでした。主イエスの眼差しというのは、こういうところまで行き届いています。弟子が目の前の大勢の群衆にばかり目を奪われ、少年や、少年の持っている持ち物を「足りないでしょう」、「何の役にも立たないでしょう」と言う時に、主イエスはこの少年の持ち物こそ、この5000人以上の人々の空腹を満たすために用いるべきものだと判断するのです。主イエスは人々を座らせました。そして、パンを取り、感謝の祈りを唱え、魚も同じようにし、それを座っている人々に分け与えました。このパンと魚を通して人々は、満たされていきます。そして主イエスはこう言います。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい

*「少しも無駄にならないように」

「少しも無駄にならないように」。これが、主イエスが弟子たちに語った言葉です。人々を満腹にさせ、それでもなお残った分がありました。残った分をどうするか、主イエスはそれもまた丁寧に扱おうとします。考えてみれば今朝与えられた箇所は、最初から最後まで、主イエスの私たち人間に対する心遣いを見て取れる箇所だとも感じます。大勢の群衆を見つめる眼差しから始まり、小さな少年のわずかな持ち物を大切にし、そして、残ったものを一つも無駄にしない。一つ一つを丁寧に扱おうとする、主イエスの姿があります。ここで使われている「無駄にする」という言葉は原文では、ヨハネによる福音書においては「滅びる」とか「失う」とか「朽ちる」という意味で使われる言葉です。有名な言葉で、たとえばヨハネによる福音書3:16で使われています。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。他にも6:27「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」というところにも「朽ちる」という箇所で使われています。どうして、それほど大切に扱うのか。それはそこに集う一人一人が、少年が差し出したパンと魚が、神様ご自身が備え、与えてくださったものだからです。私たちが誰一人として、滅びることのないように、失われることのないように、朽ちることのないように、これが神様の御心です。そのために、主イエスは来てくださり、私たちに目を上げ、その眼差しを注いで下さっているのです。

*教会の姿

 教会は、主イエスを中心として、一人一人が、大切に、神様によって用いられる場所です。私たち人間には何の価値もないように見えるもの、弟子たちだけではなくて、少年も、まさか自分自身の小さな持ち物が、こんなに大きな出来事に用いられるとは考えてはいませんでした。私たちもそういうところがあります。自分の持っているもの、それを自分のものさしで測ってしまうところがある。主イエスがフィリポを試されたというのは、そんな人間のものさしだけで物事を測ることから抜け出させようとするためではなかったのかとも感じます。私たちの頭で考えることには限界があります。5000人以上の人に、食事を与えなさいと言われて、そんなこと無理だと考えてしまうのが私たちです。しかし、聖書は、その先に、神様が共にいるゆえに、道が開かれていくことを教えています。今朝与えられた詩編95:9には「あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した」とありました。「神を試す」とは「人間のものさしだけですべてを測ろうとすること」です。しかし、教会は、その先を見つめます。人間の持っている小さなものを、なお、神様は大胆に用いてくださる。私たち一人ひとりにも、そういうものがあるのではないでしょうか。それは自分から見れば、目の前にある課題を解決するのには十分ではないものに見えるかもしれない。しかし、神様の目には、他ならぬ十分すぎるものであることがあるのです。私が初めて神学校を見学に行った時に、説教台に立って説教を語っている神学生を見て、自分には到底こんなことはできないと感じました。しかし、神様は今、私を、この説教台に立たせてくださっています。人間の目に不十分だと思えることが、しかし、神様の御手の中で用いられる時に、思いもよらない可能性があったのだと気付かされるのです。

私たちのうちに、足りないものは何一つありません。神様が満たしてくださるから、私たちにはそれで十分です。

*世に来られる

 この人間の理解を超えた主イエスの業を通して、人々は変わっていきました。「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。」(6:14)

「世に来られる」とはヨハネによる福音書で重要な言葉です。ヨハネによる福音書は主イエスを世に来られる光であり、神の子であることを証言しています。つまりこの人々も、主イエスが何者であるかを知ったということです。主イエスこそ、この世を照らす光です。そして、私たちの罪を背負い、十字架につけられていく小羊です。私たち人間は、主イエス・キリストが十字架で命を捨ててくださったことを通して、神様の子どもとして今ここに集うことが赦されています。この人々の言葉は、私たち一人一人の言葉です。遠い時代、ガリラヤで始まった主イエスの伝道の果実は、今の時代、私たち一人一人を通して実っています。主イエスは、私たち一人一人を決して見捨てることはありません。

 どこまでも、最後の一人までも決して無駄にすることはしない。私たちがその最後の一人でもあります。私たちのために、キリストはあの十字架で命を捨ててくださいました。

*受難節に向かって

 今週の水曜日、灰の水曜日より受難節に入ります。受難節は主イエス・キリストの十字架の苦しみを覚える期間です。最後の一週間である受難週は、主イエスの十字架までの一週間を想起させる、教会歴の中で最も聖なる一週間と言われます。

どうして、主イエスの苦しみが一年で最も尊いのか。

それは、世に来られた神の子であるイエス・キリストが、私たち一人一人の罪を背負って、十字架の道を歩んで下さったからです。

私たち人間ではどうすることもできなかった、神様の前での罪の問題の一切は、キリストの十字架を通して贖われました。私たちはただひたすら、その恵みを感謝して受け取るだけです。

籠いっぱいになったパンの屑は、今、私たちの集う教会へと託されています。神様の恵みは、この教会を通して、さらに多くの人へと手渡されていきます。5000人を遥かに超える食卓は決して聖書の中だけの「奇跡」ではありません。その「奇跡」は教会を通して、私たち一人一人を通して、今も続いている出来事です。

あなたにも、神様の愛の眼差しが注がれている。安心していい。不安こそが高らかに叫ばれる時代にあって、神様が共にいる恵みをご一緒に伝えていきたいと願います。

教会はキリストの体です。誰一人滅ぶことのないように、朽ちることのないように、「少しも無駄にならないように」、神の恵み、十字架の キリストを私たちは今日、この時代に語り伝えます。

2020年2月16日の説教要旨

詩編32:1-7 ヨハネ福音書 5:1-18

          「起き上がりなさい」     佐藤義子牧師

*はじめに

本日の聖書は、イエス様が祭りの為にエルサレムに来られた時の出来事です。ユダヤの人達が祭りの度ごとにエルサレム神殿での礼拝を守る時、イエス様ご自身も人々と同じように律法に従われて、エルサレムに行かれました(大勢の人達が集まる時を、宣教の機会としても用いられました)。

エルサレム神殿を最初に建てたのは、旧約時代のソロモン王様ですが、その神殿はバビロニア帝国によって破壊され、バビロン捕囚の時代を経て、ペルシャ王によって神殿再建の許可が出され、だいぶ小さくなりましたが、完成の喜びは大きなものでした(エズラ記6:13~、ネヘミヤ記8章参照)。

その後 神殿は、歴史の変遷と共に多くの受難を受けた後、イエス様の時代には、ヘロデ大王が壮大な規模のものに建て直し(ヨハネ福音書2:20)、神殿を含むすべての面積はエルサレムの旧市街の6分の一に当たり、巨大な石垣の名残は、今も、「嘆きの壁」として見ることが出来ます。

このエルサレム神殿から約350メートル北に、「ベトザタ(口語訳聖書はベテスダ)」の池」を囲んで五つの回廊(柱の高さ8,5m、屋根もある)がありました。池から100mほどの所にはローマの軍隊の駐屯地と、総督官邸があり、神殿で何か起こればすぐ駆けつけられるようになっていました。

*横たわる大勢の人々

ベトザタの池を囲んだ回廊には、病気の人、目が見えない人、足の不自由な人、体のマヒした人が大勢横たわっていました。立派な神殿の近くに、大勢の苦しむ人々が集まっていたのは、そこが神殿への通り道で、施しを受けることが出来たという理由の他に、4節(ヨハネ福音書の最後に掲載・212頁)に「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」とあります。(ある注解書では、この池が間欠泉で、時々活性を帯びた水の噴出による治癒作用が起こり、最初に入る者は活性の強い水に触れられたと考えています)。

*「良くなりたいか」

イエス様のまなざしは、その中の一人の人に向けられました。彼が38年間病気のために苦しみ、起きて歩くことが出来ないことをイエス様は知り、彼に「良くなりたいか」と声をかけられたのです。

イエス様の問いかけ「良くなりたいか」とは、「あなたは、今ある状態にとどまっていることに満足しているのか。それとも、本当に変えられたいと思っているのか」との、彼の意志の再確認の言葉として聞くことが出来ます。彼の「「治りたい!良くなる時がいつか来る!」との願いは、38年間も空しく待ち続けたために、いつしか無感覚なあきらめの境地に陥っていたことでしょう。良くなりたいと思っても、良くなる時が来るとは実際には考えていなかったでしょう。彼は、誰も自分を助けてくれる人がいない、と絶望的な状況を訴えることしか出来ませんでした。

*わたしたち

カルヴァン(神学者)は、「私達は、この病人と同じことをやっている」と言いました。以下はその説明です。「この人は、自分の考えに従って、神様の助けに枠(わく)を定め、限界づけをして、自分が受け入れられる範囲を超えることは認めない。しかしキリストはその寛大さのゆえに、彼の不完全さを大目に見て下さっている。私達は、自分に近い手段だけにとどまっているのに、キリストは、すべての期待に反して、人知れないところから手をさしのべられ、私たちの信仰のせまさ、小ささをどんなに上回るものであるかを示される。・・だから私達もさまざまな苦悩に責められながら、どんなに長い間どっちつかずの状態に置かれても、時間の長さに嫌気を起こして、勇気を無くしてはならない」。

*「起き上がりなさい」 

私達が、あることを願いながら、現実の絶望的な状況を前にして、あきらめ、無気力に陥(おちい)り、祈り求めることをやめようとする時、(あるいはやめた時でさえ)「神様の時」が来るとイエス様の愛のまなざしは私に向けられて「良くなりたいか」と尋ねられ、癒(いや)し主(ぬし)イエス様の権威あるお言葉「起き上がりなさい」との声を今も聞くことが出来ます。

2020年2月2日の説教要旨

詩編139:1-10・ヨハネ福音書1:35-42

        「最初の弟子達 ①」     平賀真理子先生

*はじめに

 仙台南伝道所の開設当初からの目標は、イエス・キリストの本当の弟子を目指すことです。私達の主イエス様の弟子と言えば、12弟子のことを連想するでしょう。彼らがイエス様に出会った後、主に従うようになったいきさつは、4つの福音書に書かれていますが、特にヨハネによる福音書を深く読むと、その葛藤を、他の福音書よりも読み取ることができます。

*洗礼者ヨハネの証しによってイエス様の弟子となった2人の弟子達

今日の新約聖書箇所に入る前に、直前の出来事からお話しする方がよいでしょう。神の民として旧約聖書を奉じてきたイスラエルの人々は、神様を大事にすることを何よりも重視し、神様への礼拝を司る祭司達を尊敬しました。この家柄に生まれ、イエス様を「救い主」と証しして洗礼を授ける役目を果たしたのが「洗礼者ヨハネ」でした。彼こそ、「神様が約束なさった救い主」と期待されたのですが、彼自身は「後に現れる救い主を証しする役割だ」と語り、それが実現したことを福音書は記しています。彼はイエス様を「神の小羊」と繰り返し呼びました。これは、イエス様が人々の罪を身代わりとして贖う「贖い主」という面を強調しています。この証しを聞いて真剣に受け止めたのが、元々は洗礼者ヨハネの弟子だった二人でした。人間的に見れば、最初の先生(洗礼者ヨハネ)の目前で、次の先生(イエス様)に従うのは、礼儀に欠けるように思えますが、彼らは人間の思いよりも神様の御心を尊重したことになります。

また、今日の聖書箇所に入ると、洗礼者ヨハネの証しは別の重要な働きもしたとわかります。即ち、旧約から新約への継承です。旧約の完成の象徴と言われる洗礼者ヨハネから、新約の主であるイエス様へ弟子達が引き継がれたということです。

*イエス様の2人の弟子達への最初の問い「何を求めているのか」(38節)

 この2人の弟子達は、しかし、イエス様に直接何か言って従ったのではなかったようです。もしかすると「救い主」を前に緊張して何も言えなかったのかもしれません。そんな彼らに対して、もちろん、イエス様は咎めたりなさらず、まず、「何を求めているのか」(38節)と問われました。この問いは、この2人の弟子達だけでなく、後の時代の私達信仰者への問いかけと受け止めるべき御言葉ではないでしょうか。私達は主のこの問いに対して胸を張って答えられる生き方をしているでしょうか。

*2人の弟子達の答え「どこに泊まっておられるのですか」(38節)

 今日の箇所に戻り、問いを直接受けた2人の弟子達の答えを見てみましょう。「先生、どこに泊まっておられるのですか。」(38節)です。これはイエス様の深い問いの答えとなっているでしょうか?ずれていますね。実は、この「泊まる」と訳された言葉の元々の言葉は、「宿泊する」という意味の根本に、「留まる」「存在し続ける」という意味を持っています。この弟子達は、イエス様の具体的な宿泊先を知りたかったかもしれませんが、彼らの心の奥にはイエス様が「神様と同じ存在として留まり続けておられるのか」、つまり、「本当に神様から遣わされた救い主かどうか」を知りたいと求めていることを、本人達ではなく、イエス様が既にわかっておられたと読み取れます。宿泊先だけなら、それを確認して帰宅させればよいと思えますが、イエス様は「来なさい。そうすれば分かる」とおっしゃった後、彼らと共に泊まったのです(39節)。その間、2人に対して、イエス様は御自分が神様と同じ存在として留まり続ける御方であるという言動をとられたのだと推測できるでしょう。

(ルカ福音書24章の「エマオでの復活の主と2人の弟子達の出来事」を想起させられます)。きっと、彼らは霊的な目が開かれ、「イエス様は救い主」だと確信したのでしょう。

*アンデレ=兄弟シモンや他の人々をイエス様の許に連れてきた弟子

この2人の弟子の内の一人は、初代教会の指導者の一人シモン(後のペトロ)の兄弟アンデレであり、アンデレが先にイエス様に出会い、兄弟を連れてきたと示されています。シモン・ペトロはイエス様の預言どおり、教会の岩=礎となりました。アンデレは、これ以降も様々な人をイエス様の許へ連れてくる働きをしました。私達も、自分自身が主の許に招かれ、主が救い主と分かったのですから、主の許に留まり、周りの人を主の許に連れて来られるように聖霊の助けを祈りましょう。

2020年1月26日の説教要旨

詩編19:2-7 ヨハネ福音書 2:1-11

         「イエス様の宣教の開始」    佐藤 義子牧師

*はじめに

今日の聖書は、イエス様の「最初のしるし」(11節)と言われるガリラヤのカナという町で、イエス様が弟子達と共に村人の婚礼に招かれた時の出来事が記されています。この婚礼の場に、イエス様の母もおりました。カナは、イエス様家族が住むナザレの町からそれほど遠くなかったようで、おそらくマリアは、知人の家での接待を手伝っていたと思われます。

*「ぶどう酒がなくなりました」(3節)

結婚を祝う宴会の席で、飲み物の「ぶどう酒」が途中で尽きてしまったことから今日の聖書は始まります。花婿の実家は庶民の家で、裕福ではなかったようです。裕福であればぶどう酒は豊かに蓄えられていたことでしょう。マリアはぶどう酒が尽きたことに気付き、この状況を何とかしなければ・・と、息子のイエス様に助けを求めてきたことは想像できます。

お祝いで飲むぶどう酒がなくなったことが明らかになれば、主催者側の花婿や家族は恥ずかしい思いをするでしょうし、花嫁側の家族にしても、不本意でありましょう。喜びを共にしようとお祝いに来た人達にとっては興ざめとなるでしょうし、結婚という、人生の中でも最も喜ばしい祝いの席から喜びも半減してしまうかもしれません。マリアはこの窮状をイエス様に伝えることによって、イエス様は何らかの方法で助けてくれるに違いないとの強い信頼があったことを思わされます。ところが、イエス様のマリアへの返事は、期待を裏切るような言葉でした。

*「婦人よ、わたしと どんな関わりがあるのです。」

 イエス様は母マリアに対して「婦人よ」答えます。丁寧な呼びかけですが、親子の関係を絶ち切るような言葉でマリアと向き合われています。なぜでしょうか。それは、イエス様の使命をマリアに正しく伝えることにあったと思われます。イエス様の使命は、母マリアの為に仕えることではありません。マリアの願望ではなく、神の御意志が先行します。

神様から今、地上に遣わされている目的は、神の国の福音を宣べ伝え、人々に悔い改めを求め、神様のもとへと帰るように促す「宣教」です。イエス様はこの使命を果たすために、弟子を選び、これから厳しい道へと歩みを進めていきます。御自分が人々の救いの為に神様の力をいただく時は、いつ、どのような時なのか、イエス様ご自身、神様の御意志を尋ねつつ祈りの中で決断していかれます。母マリアはそのことを理解して、息子との関係を新しい関係へと変えていかねばなりませんでした。

*「この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」(5節)

 母マリアのイエス様に対する信頼と確信は強く、イエス様にすべてを委ねた後、手伝いの人に、イエス様の言葉に従うように指示を出していきました。ユダヤの家庭には、常に自分自身を清く保つための、手を洗う律法のおきてがあり、そのための水が水ガメに用意されていました。

イエス様は手伝いの人に、水ガメに水を一杯入れるように命じました。

次にそこから汲んだものを世話役の所に持っていくように命じました。水が世話役のところに届いた時、水はぶどう酒に変えられていました。

*「喜び」の奉仕者として  

イエス様は、初めはマリアの願いを退けられたように見えます。しかし御自分が何をなさるべきか神様の御意志を仰いだ後、イエス様ご自身の決断でこの「しるし」を行われました。「しるし」とは神様が私達の世界に入ってこられた「しるし」です。イエス様がこのしるしを行われたのは、花婿への同情や母の言葉に仕える為ではなく、花婿の家の人達に対する「喜び」の奉仕者として仕えること、祝宴を全うさせることが御心であったということでしょう。世話役は花婿に「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、,酔いがまわった頃に劣ったものを出すが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれた。」と言いました。私達の社会では初めはみんな良いものを用意しますが、その状態を続けようとはしません。しかし神の国では最初は「ただの水」(私達)でも、神様の自由な裁量で力が働く時にぶどう酒!に変えられていきます。与えられた各自の信仰は、私達に新たな使命を与え、感謝と喜びの生活へと導いていくのです。

1月12日の説教要旨

詩編119:105・使徒言行録 17:10-12

「み言葉と共に歩む」      佐藤義子牧師

*はじめに

 私たちは毎週、礼拝の中で御言葉を聞き、学び、心にとどめ、そして家庭や社会に戻り日々の歩みを続けております。私たちは、時に「つぶやき」の誘惑に襲われます。「なぜ、私が・・」「なぜ、神様はこのような試練を」「私には無理。出来ません」など・・。

神様が遠くにおられるような錯覚に陥る誘惑です。そのような時、先週の礼拝で聞いたイザヤ書の御言葉が響きます。「あなたはなぜ、『私の道は主に隠されている』と、いうのか。あなたは知らないのか。聞いたことはないのか。主は疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。主に望みを置く人は新たな力を得、わしのように翼をはって上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

心が折れそうになった時、この御言葉が浮かぶならば、私達は、このみ言葉によって 励まされ、祈りを新たにすることが出来ます。

*ベレアの町の人々

本日の聖書は、使徒パウロの二回目の伝道旅行の時の出来事です。

パウロの伝道の前には、いつも、反対者、敵対者が立ちはだかり、時に、民間宗教とぶつかり、群衆の反感を買い、市の当局者にムチ打たれ、投獄までされました(パウロの受けた労苦参照:Ⅱコリント11:23-)。

フィリピの町で、教会の基礎が出来たあと、町を去るように言われ、次に訪れたテサロニケの町でも教会の基礎が出来ますが、ユダヤ人の嫉妬による暴動を起こされて追われ、そこから南西に約75キロ離れたベレアの町にパウロとシラスは逃れます。今日の聖書には、このように記されています。 「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。

キリスト教の命は伝道であり、ここにおられる方々も(私も)伝道によって救われ、さらに今は、救いが家族や友人にまで及ぶことを祈り願っております。

*求道者から信仰者へ

信仰は神様が与えて下さるものです。もと神学校の学長であった桑田秀延先生も、次のように書かれています。「罪とは神から離れ、失われていることであり、本当に礼拝すべき神を礼拝せず、神でないものを礼拝し、自己中心になり、物質中心になることである。・・・罪の救いは人間の側からは、なされない。人間は・・全く無力である。救いは神の側からくる。恩寵(*注)としてくるのである。」

(*注)恩寵(おんちょう)とは神の恵み、罪深い人間に神から与えられる無償の賜物のこと。

コリント書にも(12:3)「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えないのです」と、あります。

 以上のことを大前提としながら、今日のベレアの町の人々の、求道者としての姿勢を見て、伝道を考える時、いくつかのヒントを与えられると同時に、救われた後の私たち自身にも語りかけているように思います。

素直」とは、聞く耳を持っていることです。心の中が自分の思いや考えで一杯になっていたら、聞いても心に入らず、逆に、聞いた言葉を自分の考えで跳ね返してしまうでしょう。

又、彼らが「非常に熱心に御言葉を聞く」ことが出来たのは、自分の中に、真理・真実なるものを持ち合わせていないとの「謙虚さ」があり、それゆえにパウロの語る言葉は「聞くに値する言葉」であることを本能的に察知出来たのではないかと想像します。

その通りかどうか、毎日、聖書を調べていた」とは、当時旧約聖書しかありませんでしたから、パウロが語る「十字架にかけられたイエスこそ、メシア(キリスト)である」との宣教が、旧約聖書(イザヤ書53章)の預言の成就であるのかなど調べていたのでは、と推測されています。

*信仰者として生きる

私達も又、救われた時の「素直さ」、「熱心に御言葉を聞く」、「聖書を良く読む」など、御言葉と共に歩む生活を続けていくために必要な栄養を、日々求め、与えられていきたいと願うものです。