2月11日の説教要旨 「絶えず祈る」 牧師  平賀真理子

詩編88:2-3  ルカ福音書18:1-8

はじめに

今日の新約聖書箇所は、「やもめと裁判官のたとえ」という見出しがついています。また、1行目には「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」とあります。説教題にもあるように、イエス様は弟子達に絶えず祈ることを求めておられるということです。

 

神様の御心が実現されることを喜ぶ「神の民」

「祈らなければならない」という箇所には、元々の言葉では「神様によって、祈るように定められている」という言葉が含まれています。これは私達には、あまり見出せない感覚だと思います。「神の民」ユダヤ人は「何事にも神様の御心が行われている。神様がが願われたことが実現すること」を、この世界の一つ一つを見ても、また、各々の人生を見ても、発見しようとします。そのことと向き合いながら生きていくのが「神の民」であると言えるでしょう。

 

本来の人間は、神様と心を合わせることを喜ぶ

神様が最初に創られた、本来の人間は神様の御心がすべてにおいて実現することを喜べたはずです。神様と心を合わせられるように本来人間は創られました。しかし、神様を心を合わせることに疑いを持ったために、人間は神様からいただくべき本当の幸いを失ったのです。

それは、神様から賜った自由意志を正しく用いられなかった人間の方に罪があるにもかかわらず、神様は人間達を根本から救おうと、御心にお決めになり、そのことが旧約聖書にずっとつづられています。

 

「神の民」として、神様から「祈り」を求められている幸い

神様による「人間の救い」という長い歴史の末に、イエス様がこの世に来てくださり、人々に「神の国」はどのようなものかを教えてくださいました。その御方を信じて受け入れることが新しい救いです。

この「神の御子・救い主」イエス様にとって、御自分の弟子達が、「神の民」として、神様へから祈ることを願われていることが、本当に喜ばしいことだったのです。逆に言えば、実は、罪ある人間はこのようにはなっていないという事実の裏返しでもあります。

 

「神の国」がこの世に実現することを「絶えず祈る」

イエス様は、御自分が「苦難の僕」としてエルサレムで殺される道をたどらねばならないと知りつつ歩んでおられ、もうすぐ目的地へ着こうとされています。その直前に、イエス様は弟子達に、「神の国」をこの世に実現することが一番大事だと伝えようとされています。この世にいる人間一人一人が「神の民」となり、神様からいただく幸い、希望に満ちた生き方をすることを求めておられます。だから、「絶えず祈る」内容としては、「神の国」がこの世に実現すること、広まることです。

 

「やもめと裁判官のたとえ」

とはいえ、神様から離れて過ごしてきた人間は、自分に困りごとがあって初めて、切実に祈るようになれるのかもしれません。今日の例え話の「やもめ」もそうです。彼女は困りごとに直面し、身近な裁判官に切実に訴えました。しかし、この相手である裁判官は、当時よく居た「不正な裁判官」でした。信仰心もなく、人間的に見ても尊敬できないような裁判官に対して、やもめの方は不当な方法はとらず、熱心に訴えることを繰り返すという正当な方法で相手を動かすことに成功しました。

この例え話で、裁判官は神様を、また、やもめは弟子達を比喩しています。この裁判官は神様と正反対の性質を持つ者として例えられています。不当な裁判官でさえ動かされるのだから、ましてや逆の性格の神様=人間を救うべく長い間計画立てて実現なさるような、大いなる愛の持ち主である神様なら、熱心な祈りという訴えを持つ人間の訴えを決して無視なさらないとわからせようとなさっています。

 

「神の国が来ること」を熱心に祈り続ける!

人間の救いに対する御業の時は、父なる神様だけがお決めになれる専権事項で、本来、人間は全く関われないものです。しかし、神様は、主の弟子達の祈りを心から待ってくださり、その祈りの熱心さによって、裁きの時(主の再臨の時)を速やかになさると教えておられます。主の問いかけ=「再臨の時までに神の国が来ることを信じていられるか」に対し、「はい!」と胸を張って言える弟子であり続けたいものです

1月28日の説教要旨 「希望へと生まれ変わる」 吉田 新 先生(東北学院大学)

詩編41:4-4 Ⅰペトロ1:3-9

はじめに

今日の新約聖書箇所の冒頭で、イエス様がエルサレムを目指して旅を続けておられることを私達は再び想起させられます。思えば、ルカ福音書9章51節からの段落で、イエス様は御自身で天に上げられる時期が近づいたと悟られ、エルサレムへ向かったと書かれています。また、13章33節では、神様の使命を受けた預言者として、イエス様は聖なる都エルサレムで死ぬ定めだと示されています(「主の十字架」)。救おうとするユダヤ人達により、その救いが理解されずに殺される定めです。それは神様の御計画で、その為にこの世に来られたイエス様は、その過酷で孤独な道を従順にたどっていかなければなりませんでした。

重い皮膚病を患っていたユダヤ人とサマリア人が協力し合う

今回の箇所では、ユダヤ人とサマリア人という民族同士としては仲の悪いはずの10人が、重い皮膚病にかかっていたために共に暮らしており、大変な癒しの力があると噂されるイエス様から癒しを受けるべく、呼び止めようと協力し合っています。更に、イエス様に近寄りたい気持ちを抑えつつ、律法に則って距離を取りながら「この病いを癒してください」と願っていたわけです。人の心に何があるかを見抜かれるイエス様は彼らの苦しみを理解し、すぐに救ってあげたいと思われたのでしょう。この後すぐに彼らの身の上に癒しが起こるとわかっておられた上で、彼らに「祭司に体を見せなさい」とお命じになり、実際に彼らはその途上で重い皮膚病から癒されました!

癒された10人の内、サマリア人1人だけが戻ってきた

この癒しを受けた10人の内、癒してくださったイエス様に感謝を献げるために戻ってきたのは1人で、それがサマリア人だったことをルカ福音書は重要視しました。ユダヤ教の中で神の民とされたユダヤ人達が「汚れている」と蔑んだサマリア人、しかも、そんなサマリア人の中でも更に「汚れている」とされた重い皮膚病の人が戻ってきて、癒しの源であるイエス様に感謝を献げたのです。実は、イエス様は御自分はユダヤ人の救い主として遣わされたと自覚されていたようですが、福音宣教の旅でイエス様からの救いを求める異邦人と度々出会うことにより、ユダヤ人か異邦人かは問題ではなく、御自分を救い主として受け入れるかが重要だという思いを深められたのではないかと想像します。

「立ち上がって、行きなさい」(19節)

イエス様の憐れみを受けて救われることのすばらしさを理解し、イエス様を救い主と受け入れ、その恵みに感謝を表そうとひれ伏した、このサマリア人に対して、イエス様は「立ち上がって、行きなさい」という御言葉をかけてくださいました。「立ち上がって」という言葉は、元々の言葉では「よみがえる」という意味を持っています。イエス様と出会うまでは死んだようにしか生きられなかった、このサマリア人に、イエス様は「よみがえって、自分の人生の旅を続けるように!」と励ましてくださいました。

「あなたの信仰があなたを救った」(19節)

イエス様は最後に「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃったのですが、このサマリア人を救った直接の源は、イエス様の癒しの力です。聖書で証しされてきた本当の神様は、へりくだりを愛する御方で、決して御自分が癒したと声高く主張される御方ではありません。そんな神様の御力に対して人間ができることは、主の恵みを信じて、感謝して素直に受け入れることです。そうすることで、人間は神様と豊かに交流でき、ますます満たされていきます。実際、この話の中でも10人の人々が救われるほど、主の憐れみに由来する神様の御力は大きかったのに、その恵みに感謝を献げるために戻ってきて癒された上に、更に主から御言葉を賜るという交流に進んだのは、このサマリア人、たった一人です。

 

「新しい救いの恵み」に感謝を献げましょう!

「神様による人間の救い」は、古い形ではユダヤ人かどうかが問われましたが、新しい形ではイエス様を救い主と信じる信仰が問われます。それは、主の十字架によって自分の罪を肩代わりしていただいたと信じるかどうかです。私達信仰者は、神様の一方的な恵みを受けて「新しい救い」で神の民とされました。その大いなる恵みの素晴らしさを本当に理解しつつ、礼拝等で感謝を献げることを喜べるよう、聖霊の助けを祈り続けましょう。

1月7日の説教要旨 「異邦人の救い主」 牧師 平賀真理子

詩編47:2-5  マタイ福音書2:1-12

はじめに

昨日は1月6日で、教会の暦では「公現日」という特別な日でした。イエス様が御降誕され、その栄光が異邦人の世界にまで広まったことを祝う日です。東の方から占星術の学者達(異邦人)が来て、イエス様を礼拝したという出来事(マタイ2:1-12)を覚える日です。

イエス様がお生まれになった時の状況

今日の箇所の冒頭1節で、イエス様がこの世にお生まれになった時と場所が書かれています。ヘロデ王という極めてこの世的な王の支配下にあった時と場所であったというわけです。なぜ、この世的かと言うと、この世の長サタンと性質が似ているからです。自分の利益のためにずる賢く立ち回り、権力を横取りし、しかも心根が冷酷で疑い深いのです。神の民ユダヤ人達が、このような支配に苦しめられていた状況下で、神様は約束どおり、「救い主」イエス様をお送りくださったのです。

「異邦人の国」から来た占星術の学者達

しかし、本来その出来事に一番に気づいて喜ぶべき「神の民」ユダヤ人達よりも、「異邦人」が先にその出来事に気づき、ユダヤ人達に知らせたことを今日の箇所は語っています。「東の方」とはユダヤ地方から見て、ペルシャ(今のイラン)周辺ではないかと言い伝えられています。

「異邦人の国」から異邦人の占星術の学者達が、まずエルサレムに来て、「ユダヤ人の王」の誕生を知らせました。「占星術の学者」とは、当時は、天文学をはじめとする自然科学全般についての専門知識を有する知識人であり、時の権力者に助言を求められる存在です。ユダヤ人達は、自分達が「神の民」として選ばれて神の言葉である「律法」をいただいたという自負があった故に、異邦人については「神様に選ばれておらず、『律法』も知らない、軽蔑すべき人々」とみなしていました。そんな「異邦人」から、ユダヤ人達は一番大事な「救い主誕生」の知らせを受け取ることになったと聖書は示しています。

ユダヤ人の「民の祭司長達や律法学者達」

一方、ユダヤ人の知識人ともいえる「祭司長達や律法学者達」は、この知らせに対し、その預言をヘロデ王に冷静に伝えただけです。本来、彼らこそ、救い主誕生は神の恵みだと、よく知っているはずなのに、その救い主を拝みに行っていません。神様の出来事を無視したのです。

神様の導きに従った「異邦人の占星術の学者達」

一方、異邦人の占星術の学者達は、律法は与えられていなくても、この世に現れた神様の真理=科学的法則を常に求め、その法則とは違う動きを察知し、それを神様からのしるしと悟り、それに従い、旅の危険を顧みずに救い主誕生の出来事に積極的に参加しました。彼らは一度エルサレムに来て、王に頼ったように見えますが、それは彼らが「預言」に出会うためであり、むしろ、彼らの旅を導いたのは、特別な星だったのです。「星」と「預言」=神様の導きを表すものに彼らは従って行動し、救い主との出会いに導かれて喜びに溢れ、礼拝する恵みを得たのです!

イエス様の救い主としての役割を暗示する献げ物

救い主への献げ物は「黄金・乳香・没薬」という3種類だったと記されています(彼らは「東方の3博士」と言われていますが、3名だったという記述は実はありません)。「黄金」はこの世の栄え、つまり、王様を意味します。(イエス様は政治的な王様にはなっていませんが、この世を支配して人間を苦しめていたこの世の長サタンから、この世の支配を取り戻したのですから、この世の新しい王様となられたのです!)「乳香」は、神殿で献げ物をする時に焚く香料なので「祭司」を意味し、「没薬」は死体を包む時の防腐剤なので「死」=「十字架による死」を意味します。後のイエス様の歩みを象徴していると言えます。

異邦人にも届く「救い主」の栄光の証し人として

神様はユダヤ人を救いの起点とされましたが、その救いは全ての民族(異邦人)に及ぶと旧約聖書には幾つも記されています。私達は、肉体的にはユダヤ人ではないので、この占星術の学者達の行動を、同じ「異邦人」として誇らしく感じます。しかし、今や、イエス様を救い主と信じる私達が「神の民」です。当時のユダヤ教宗教指導者達のように「神様のしるし」を無視していないかを留意しつつ、これから「神の民」となる方々のためにも「神の栄光を写し出す証し人」となれるよう、祈り続けましょう。

11月26日の説教要旨 「天地を造られた主」 牧師 平賀真理子

詩編146:1-6  使徒言行録17:22-31
*はじめに(収穫感謝礼拝の由来)
今日は収穫感謝礼拝の日です。その由来は宗教改革が始まった1517年から約100年後の出来事です。ルターが口火を切ることになった宗教改革ですが、プロテスタントの教えはその後いろいろ分かれ発展していきます。その中でも3つの教えが主流となっていきました。ルター派・改革派(カルバンが提唱)・イギリス国教会派(日本では聖公会)です。
16世紀の間にイギリスでは政治的な動きと相まって、カトリック教会を離れて、国王がイギリス国教会を率いることになりました。ところが、イギリスの中で既に改革派のtおいう教えを信じていた人々にとって、それは生き辛い社会となりました。彼らはイギリスを出て、改革派が主流だったオランダに一度移住します。しかし、子供達が自分達の言葉を受け継がなくなっていくことに愕然とし、新天地で自分達の言葉や教えを継承できることを志しました。1620年の夏に2艘の船を手配して、当時の新天地アメリカへ旅立ったのです。ところが、航海は2度失敗し、3度目にやっと1艘だけ(メイフラワー号)、66日かけて、予定地より北のプリマスという町に着いたのです。ここまででも大変ですが、この後は更に大変でした。冬を越すのが厳しく、イギリスで船に乗り込んだ約100名のうち、半数が飢えと寒さで死んだのです。翌春には、この状態を気の毒に思った原住民の人々がトウモロコシの種を彼らに与え、これが秋に実って、待ちに待った「収穫」ができたのだそうです。イギリスから渡った、これらの人々は、助けてくれた原住民の方々をその秋に招き、新天地で実りを与えてくださった神様に感謝を献げました。
これがアメリカで大々的に祝われている収穫感謝祭の由来です。日本基督教団でもこの行事に倣って、アメリカでの収穫感謝の祝日(11月の第4木曜日)に近い日曜日に、収穫感謝礼拝の日を設けています。
*アテネの町で
 今日の新約聖書の箇所は、イエス様の死後、福音を全世界に告げ知らせることに貢献した「使徒パウロ」が、アテネで行った説教を記したところです。アテネはギリシア哲学の中心地と言ってよいでしょう。
この町の人々は、広場で論じ合う習慣があり、また、何か新しいことを見聞きすることが大好きだったことが、前の段落からわかります。人知の粋や目新しい情報を求めて一喜一憂する姿は、都市生活をする者、即ち、私達にも共通する性質だと思います。
もう一つ、この町についてパウロが嘆いているのは、アテネの町に偶像が溢れていることでした。パウロは人間が手で作る神様や維持するために人間の働きが必要な神殿は、本当の神様でもないし、そのような神殿も神様の住まいとはなりえないとパウロは主張しています。そして、アテネの人々が何となく感じてはいても名前すら付けられない「知られざる神」について、パウロは説明を始めたのです。まさしく新しい情報です!
*「本当の神様」=天地を造られた主
ユダヤ人が奉じていた聖書には「本当の神様」のことが知らされています。しかし、ユダヤ人でない人々(異邦人)は、聖書で証しされている「本当の神様」を知りません。そこで、パウロは異邦人であるアテネの人々に「本当の神様」が天地を造ったところから説明を始めました。天地のものすべてを造った「本当の神様」は、人間を造られ、「命」や「息」や「必要な物」すべてを与えてくださったと語りました。それだけではなく、「本当の神様」は人間それぞれに相応しい「時」と「場所」を設定して、この地に人間を配置して、その中に示されている神様を、人間がわかるようにされていると述べました。それは、アテネを含むギリシアの人々も漠然と感じていることが詩に示されていると例証しています(28節)。そして、人間の働きや技巧によって作られる偶像礼拝は、神様を決して表していないことを29節で重ねて論じています。
*「本当の神様」が新たになさったこと=「イエス様の復活」
これまでは、異邦人には漠然としか感じられなかった「本当の神様」、即ち、異邦人には「天地を造られた神様」としかかわからなかった「本当の神様」について、もはや「知らない」では済まされないことを、パウロは主張します。それは、イエス様が復活されるという出来事が起こったからです。そして、それが言葉によって述べ伝えられるようになったからです。人知を越えた神様が、人知では理解の範囲を越えた「死からの復活」という栄誉を、「救い主イエス様」に与えたからです。人知を越えたものは、神様のなさったこととしか言いようがありません。イエス様の復活によって、神様が人間を御自分の方へ導いていると言えるのです。だから、アテネの人々だけではなく、私達も、今やはっきり知らされた「本当の神様」に心を向け(悔い改め)、「神の国の福音」を受け入れて、新しい「神の国の民」として歩むように神様から求められているのです。私達は、復活のイエス様によって御自分を啓示なさる神様から大きな恵みを受けているのです。

11月5日の説教要旨 「死と復活」 牧師 平賀真理子

詩編16:7-11  Ⅰコリント書15:42-58

*はじめに
今日は召天者記念礼拝の日です。信仰を持って生き、天に召された方々を思い起こし、その信仰を受け継ごうという思いを新たにする日です。この方々の「信仰」とは、一言で言えば、イエス・キリストを自分の救い主として信じる信仰です。彼らは、この世での肉体をいただいて生きている間に福音に出会い、「イエス・キリストは自分の罪を贖ってくださるために十字架に架かって犠牲になられた」と信じ続けました。確かに、それが信仰の第一歩です。しかし、それだけを強調するのは不十分です。信仰者は、主の十字架だけでなく、主の復活を知らされ、信じて生きるのです!

 

*コリントの信徒への手紙一15章
「主の復活」については、今日の箇所、Ⅰコリント書15章も、それを証ししている箇所の一つです。この書の著者パウロは、ここで3つの内容に分けて、信仰者に思い起こしてほしいことを書き送っています。
聖書の小見出しに沿って、最初の段落「キリスト復活」の中で、パウロは、キリストが、聖書に書いてあるとおり自分の罪のために死んだこと(十字架)、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後12人(主要な弟子)に現れたこと、その後、五百人以上の兄弟達(信仰者)に同時に現れ、生きた証人がたくさんいることを証ししています。
次の12節からの段落「死者の復活」では、多くの証人が「主の復活が事実だ」と証言できるのだから、イエス様の復活がなかったとは決して言えない、むしろ、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人々の初穂となられました」(20節)とパウロは宣言しました。そして、人類の祖とされる「アダム」によって、神様を信じないという罪で、すべての人が死ぬことになったという内容(ローマ書5:12-14)を記し、その対比として「キリストによって、すべての人が生かされることになる」(22節)とあります。それは、アダムから累々と流れる人類の罪すべてを贖うために、イエス様が十字架という苛酷な運命に従順に従われたので、父なる神様がそれを祝福して「死からの復活」という栄誉を与えたことを意味します。そして、その恵みがイエス様だけに留まらず、その意味を理解して受け入れる信仰者にも与えられると言われています(ローマ書3:22等)。
更に、15章23-24節では、復活の順番について、「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるとき(キリスト再臨の時)に、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来る」と書かれています。イエス様はすでに復活なさっていますから、主の再臨の時に、イエス様を救い主として信じる者は復活させていただけると宣言されています!

 

*「種」の例え
このようにパウロは説明し、次いで、コリントの集会の人々のために「具体的な『復活の体』」について、具体的な説明を続けます。「種」の例えです。種は、一つの物体のように死んでいるような様子に一度はなりますが、違う姿で生き返ってくるように見えます。死んだような「種」の状態が「この世での肉体上の死の姿」であり、「新しい命が出てきた姿」が「復活の体」のようだと例えています。そして、神様は全能の御方なので、それぞれにふさわしい体を与えてくださるとパウロは説明しています。

 

*死の状態と復活の状態の例え
今日の新約聖書箇所に入りまして、前段落の例えを基本に、パウロは別の表現も試みました。「死の状態」を、蒔かれる時に「朽ちるもの」・「卑しいもの」・「弱いもの」であっても、芽を出す時のような「復活の体」を「朽ちないもの」・「輝かしいもの」・「力強いもの」と表現しています。更に、死んで復活することを「『自然の命の体』が蒔かれて『霊の体』に復活する」とも表現しました。

 

*「アダム」と「イエス様」
次いで、再び、人類の祖「アダム」のことが出てきます。アダムは神様から命の息を鼻に吹き入れられて生きる者となった(創世記2:7)のですが、最後のアダムと例えられているイエス様は十字架と復活を経て「神様」の御姿に戻られたのです。そして、人間は、「土でできた最初の人であるアダム」のように、この世での物質でできた体で生きるようにされていますが、信仰者達は「天に属する第二の人」であるイエス様の似姿になって「復活」することができるとパウロは教えています。

 

*「朽ちないもの」「死なないもの」を着る恵み
私達信仰者は、天に属するために「朽ちないもの」、すなわち「永遠のもの」を着ることが許されていると50節以降に記されています。52節の「最後のラッパが鳴るとき」とは、終末(この世の終わりの時)であり、キリスト再臨の時ですが、この時、信仰者達は「朽ちないもの」「死なないもの」を必ず着るようになるとパウロは語りました。復活の主の恵みを、何の功績もない私達が着ることが許されている恵みに感謝です。

 

*「死」・「罪」・「律法」⇔「命」・「救い」・「信仰」
パウロは、「この世のこと」を表現する時、「死」「罪」という表現を用いますし、救いの古い方法である「律法」が支配する世界と表現しました。そして、これに対抗して、というよりも、これを凌駕するものとして、「(天に属する、永遠の)命」と「救い」とし、そして、救いの新しい方法としての「福音への信仰」という表現を好んで用いています。
54節の後半から、パウロの特徴の、その言葉が出てきます。「罪」の最たるものが「死」であり、罪の虜の人間は「死」を最も恐れて生きざるを得ない状況に置かれてきました。しかし、イエス様の十字架と復活という救いの御業によって、人間の罪が覆われ、憐れみ深い神様は、人間に対して過去の罪は問わないとしてくださいました。「死の世界」が誇っていた「罪」に対して、イエス様が勝利されたのです。「人間の罪を自覚させ、恐怖に陥れ、人間を悪の方へがんじがらめにする」おおもとになっていたのは「律法」でした。イエス様は、それらすべてに打ち勝ってくださったのです。だから、私達はかつて自分の内側に潜んで力を奪っていた「罪意識」、もっとはっきり言うと、「私なんかダメだ!」「私には生きる価値がない」といった絶望から、イエス様を信じる恵みによって、「私は神様が目をかけてくださる存在」「神様の御心に適う生き方ができると期待されている存在」「神様に愛されている存在」だという希望が持てるようになるのです。それが神様に祝福される、本来の人間の姿ではないでしょうか。

 

*復活の主に結ばれて、主の業に励む喜び
今日の箇所の最後に、パウロは主を信じる者達に、主に結ばれて、主の業に励むことを勧めています。それは、すなわち、信仰の先達、この方々が、その人生において行ってきたことです。今日の箇所のパウロの言葉に励まされ、また、これらの先達の生き方に倣いながら、私達は、神様の御前に、再び生かされている恵みを感謝し、主の御用のため、特に、福音伝道のために用いられたいと願います。そして、それを心から感謝し、喜べる信仰者へ成長していけるように、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

 

2017・10月15日の礼拝説教要旨 「私の助けはどこから?」 佐藤 義子

詩編121:1-2・ヨハネ福音書3:16
*はじめに
今日は、一年に一度の子供と大人の合同礼拝です。教会学校では、旧約聖書ではアブラハムさんなど、聖書に出てくる人達がどのように生きたのかについて学んできましたし、新約聖書ではイエス様についてやイエス様がして下さった「たとえ話」などを学んできました。今日は、旧約聖書の詩編の言葉、そして新約聖書ではヨハネ福音書の有名な言葉のお話です。
*「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」
これは今、読んだ詩編の1節です。この時、これを書いた人は「助けてほしい」と思っていますね。私達が誰かに助けてほしいと思う時は、私達が困った時です。子供の時は、大人の人に助けてもらうことが多いですが、大人になっても困ることはいろいろ起こります。そういう時は誰かに助けてもらわなければなりません。この詩編を書いた人は、何に困っているのかというと、これから長い旅に出ることになり、その旅には沢山の危険が予想されていたからです。たとえば山の向こうまでいく道には、でこぼこ道や、急な坂、深い谷間があるだろう。沼や川や、途中でへびとかクマが出るかもしれない。又、強盗が待ち伏せして襲われるような危険な目に会うかもしれない・・などと考えたのでしょう。そのような心配が心の中に広がってきて、「わたしの助けはどこから来るのでしょう」と、誰かに聞いているようです。あるいは、自分の心に聞いているのかもしれません。
私達が今、生きている時代は大変な時代です。「テロ」とか「ミサイル」という言葉を何回も聞くようになりましたし、地震や津波や火山の爆発などの自然災害も多く起こっています。そのほか事件や事故も多く、そして、大人であれば、自分の健康のこと、仕事のこと、家族のこと、人間関係や将来の進路などなど、先が良くわからないことについての心配や不安などを持っている人は、きっと沢山いることでしょう。それらを心配している人と、今、この詩編を書いた人・・遠くて長い、危険をともなうこれからの旅を前にして、山々を見上げ、不安な気持でいる人と、とても良く似ていますね。
*「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」
「わたしの助けはどこから?」という質問の答えが、2節「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」です。「どこから?」と聞いている人が、この答えを出したのなら、この人は神様からの声を聞いたに違いありません。又、もし誰かに質問したのであれば、答えを返した人は、当時の「祭司」と呼ばれた信仰のリーダーでしょう。
*天地を造られた主
「主」とは神様のことです。なぜ助けは、天地を造られた神様から来るのでしょうか。それは、天と地上を造られただけでなく、世界中の人達すべて(私達も!)皆、神様が命を与えて生かして下さっているから、だから、人間を救う力も、もちろん持っておられるからです。
3節以下には、神様は、私達が生きていく上で足がよろめかないように(ふらふらしないように)助けて下さるお方であり昼も夜も眠ることなくいつも見守って下さるお方であり、いろいろな災いを遠ざけて下さるお方であり、どこに行っても守って下さるお方であると書かれています。この神様への信頼を持ち続けている限り、私達は決して倒れません。
*「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
神様の独り子はイエス様です。神様はイエス様を、私達の住むこの地上に遣わして下さったことによって、私達は神様のことを正しく知ることが出来るようになりました。そして、それまで神様を正しく知らないで生きてきた「罪」を悔い改めて、イエス様を信じることにより、永遠の命をいただけることが、(ヨハネ福音書)3章16節に記されています。
私達が、「神様、助けて下さい」とお祈りする、そのお祈りは、実は、イエス様が、神様に伝えて下さっているのです。私達のお祈りが神様に届くようになったのは、イエス様が十字架で死んでくださって、神様が私達の罪を赦して下さったからなのです。神様は、イエス様を3日目に復活させて下さり、今は、神様の元に戻られています。そして毎日の私達の祈りを神様に伝えて下さり、聖霊を送って下さっています。
それで、私達は、お祈りの最後に、必ず、「イエス様のお名前を通して」とか、「イエス様のみ名によってお祈りします」と祈るのです。
*讃美歌301番
「山辺(やまべ)に向かいて我(われ)、目を開(あ)ぐ、助けは何処方(いずかた)より来(きた)るか、天地(あめつち)の御神より 助けぞ 我に来(きた)る」
今朝、歌った讃美歌301番は、121篇の「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」が もとになって作られました。最後に、この御言葉と共に歩まれた「山本つち先生」についてお話したいと思います。
山本先生は、私が卒業した女子学院という中学高校の女の院長先生です。先生は学校のすぐそばに住んでおられました。学校では毎朝「礼拝」があり、礼拝前にはいつも301番の讃美歌のチャイムが流れていました。ある朝の礼拝で山本先生は、詩編121篇を読まれて、学校が火事になった時のことを話されました。その後、火事について書かれた本なども読む機会がありました。それによると火事は1949年5月に起こりました(私の入学前です)。午後10時、先生が寝ようとしたその時、不意に聞こえて来た女の人の叫び声と窓ガラスにうつる炎に、先生の家にいた皆が燃える校舎に駆けつけました。その後,近所の方々や消防や警察の方々にも助けられ、ピアノや机いすなど出してもらったそうですが、あとはすべて焼けてしまいました。焼けた校舎は、以前、戦争で焼けた後に一年前、苦労してようやく建った新しい校舎でした。その校舎が再び今度は不審火による火事で失われてしまったのです。翌朝何も知らずに登校してきた生徒達はショックで泣いたりしていたそうですが、先生は、火事以後、祈られた夜を過ごし、朝には、凛として焼け跡に立ち、礼拝で詩編121篇を全員で読み301番を歌い、目には見えない神様への信仰を語り、火事によって一人のけが人も出なかったことに感謝の祈りを捧げたとのことでした。
ここに、121篇「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」を確信して、自分に与えられた重荷を担って前に進む信仰者の姿を見ます。
この伝道所にも礼拝を知らせるチャイムを求めていたところ、幸いにも、女子学院の鵜﨑院長のご紹介で、女子学院チャイムと同じ音源を使用する許可をいただきました。このチャイムを聴きながら、私達はこれから何が起ころうとも、ゆるぎない神様への信頼をもって歩み続けていきましょう。

10月1日の説教要旨 「主の弟子として」 牧師 平賀真理子

詩編51:9-19 ルカ福音書14:25-35
*はじめに
本日の新約聖書箇所の大前提を確認したいと存じます。それは14章の1節にあるとおり、イエス様がファリサイ派と呼ばれる有力者の家へ招かれて、その宴会の席で語られた話であるということです。
*ファリサイ派の人々
ファリサイ派の人々は、神様からいただいた「律法」という決まりを守ることこそ、自分達ユダヤ人がなすべきことで、そのことで神様から「聖なる者」とされると信じ、人々にもそう教えていました。彼らはその律法の中で、特に「安息日に仕事をしてはならない」という教えを強調しました。安息日とは、一週間の内の七日目に神様を賛美する礼拝を行う日のことです。律法の大本である「十戒」には、「主の安息日にはいかなる仕事もしてはならない」とあります(出エジプト記20:10)。ファリサイ派の人々はその「仕事」の中に医療行為も入れ、病人を見ても、それが安息日なら、仕事の一種である医療行為をしてはならないと信じていたのです。だから、彼らは14節の2節以下に記された水腫の病人を癒したイエス様を、律法違反の罪で裁こうと考えました。一方、イエス様は、この病人を癒すことを第一とし、安息日かどうかは二の次だったのです。
*神の御子イエス様の教えによって明示されたファリサイ派の誤り
イエス様は神様の御子なので、神様の御性質を受け継いでおられ、苦しむ人々を目の前にするとすぐに救いたいと熱望し、そのように働いてくださる御方です。それに、神様の御心をこの世に為すことを第一にされていました。イエス様は、ファリサイ派の律法第一主義からくる弊害、つまり、自分達の教えを守らせることが第一で、人々を救うのは二の次という誤りを指摘されたのです。そして、ファリサイ派の人々は、その指摘に対して、反論が全くできなかったのです。
*「神の国の食事を受ける幸い」をほめたたえた客人
更に、イエス様はこの宴席で、招待する側と招待される側の問題点を見抜かれ、例え話をなさいました(14:7-14)。そこで、15章に出てくる一人の客人が、イエス様は「神の国での食事、宴会」について語っておられるとわかり、神の国で食事できる人の幸いをほめたたえました。この人は恐らく、ファリサイ派か、その教えに同調する人であったでしょう。
ファリサイ派はユダヤ教の一派ですが、このユダヤ教では、神様がこの世に「救い主」を遣わされて、それで人間は救われると教えていました。そのようにして「救われた人間」が神様と親しく心の交流ができる関係を、「神の国の宴会」と例える伝統がユダヤ教にはありました。その基本的な表現を知っていたと思われる、この客人は、今回のイエス様のお話の奥底には「神の国の宴会」へ人々を招きたいという熱い思いがあるとわかったのでしょう。ただ、彼の心の中には、招かれるのはユダヤ人、更に絞って、自分達ファリサイ派の人間であるに違いないという自負があり、それを見抜いたイエス様はその誤りを新たな「例え話」で指摘なさいました。
*「大宴会」の例え
16節以下の例え話が、何を例えておるのかを見ていきたいと思います。16節の「ある人」とは、聖書で言われている「神様」、つまり、イエス様を「救い主」としてこの世に派遣してくださった「父なる神様」です。そして、最初に招かれていた大勢の人というのが「ユダヤ人達」です。「ある人が大勢の人を招いた」というのは、神様が最初にユダヤ民族を選んで救い主派遣の預言をしてくださっていたことの例えです。そして、17節「宴会の時刻になったので」とは、「人々を救って神の国の交わりをさせる準備ができた」ことを例えています。そして、「僕(しもべ)」というのが、イエス様御自身を例えたものです。この話では、父なる神様の御計画に従って、この世に来られたイエス様は多くの人々に「神の国」に来るように招いてくださったけれども、ほとんどの人々が断ったことが例えられているわけです。
*神様の招きよりも自分の事柄や時を優先させる人間
「神の国の宴会」の招きを断る理由が、ここでは3つ、具体例が書かれていますが、まとめると、この世での仕事や富や人間関係を人々が優先しているのです。更に言えば、神様が「救いの時」と定めた時を尊重せず、自分が大事だと判断した事柄に、まず、自分の時を割いています。ユダヤ人の多くは、神様を尊重することが一番大事と教育されていたにもかかわらず、「神の時」を尊重しないで、「自分の時」を尊重している、そんな態度では、神の怒りを招くと、イエス様ははっきりと警告されています。
*「神の国の宴会」の招きを受けた私達
神様の招きをユダヤ人達が断ったので、神様は、「貧しい人々や体の不自由な人々」を招き、その次には、ユダヤ人でない「異邦人」が招くのだとイエス様は語られました。ファリサイ派から見たら想定外です。しかし、確かに、異邦人である私達が招かれ、救われました!私達は、神様から招かれた幸いを再確認し、周りの人々に伝えられるよう、用いられたいものです。

9月24日の説教要旨 「神の国への招き」 牧師 平賀真理子

詩編111:1-10 ルカ福音書14:15-24
*はじめに
本日の新約聖書箇所の大前提を確認したいと存じます。それは14章の1節にあるとおり、イエス様がファリサイ派と呼ばれる有力者の家へ招かれて、その宴会の席で語られた話であるということです。
*ファリサイ派の人々
 ファリサイ派の人々は、神様からいただいた「律法」という決まりを守ることこそ、自分達ユダヤ人がなすべきことで、そのことで神様から「聖なる者」とされると信じ、人々にもそう教えていました。彼らはその律法の中で、特に「安息日に仕事をしてはならない」という教えを強調しました。安息日とは、一週間の内の七日目に神様を賛美する礼拝を行う日のことです。律法の大本である「十戒」には、「主の安息日にはいかなる仕事もしてはならない」とあります(出エジプト20:10)。ファリサイ派の人々はその「仕事」の中に医療行為も入れ、病人を見ても、それが安息日なら、仕事の一種である医療行為をしてはならないと信じていたのです。だから、彼らは14節の2節以下に記された水腫の病人を癒したイエス様を、律法違反の罪で裁こうと考えました。一方、イエス様は、この病人を癒すことを第一とし、安息日かどうかは二の次だったのです。
*神の御子イエス様の教えによって明示されたファリサイ派の誤り
イエス様は神様の御子なので、神様の御性質を受け継いでおられ、苦しむ人々を目の前にするとすぐに救いたいと熱望し、そのように働いてくださる御方です。それに、神様の御心をこの世に為すことを第一にされていました。イエス様は、ファリサイ派の律法第一主義からくる弊害、つまり、自分達の教えを守らせることが第一で、人々を救うのは二の次という誤りを指摘されたのです。そして、ファリサイ派の人々は、その指摘に対して、反論が全くできなかったのです。
*「神の国の食事を受ける幸い」をほめたたえた客人
更に、イエス様はこの宴席で、招待する側と招待される側の問題点を見抜かれ、例え話をなさいました(14:7-14)。そこで、15章に出てくる一人の客人が、イエス様は「神の国での食事、宴会」について語っておられるとわかり、神の国で食事できる人の幸いをほめたたえました。この人は恐らく、ファリサイ派か、その教えに同調する人であったでしょう。
ファリサイ派はユダヤ教の一派ですが、このユダヤ教では、神様がこの世に「救い主」を遣わされて、それで人間は救われると教えていました。そのようにして「救われた人間」が神様と親しく心の交流ができる関係を、「神の国の宴会」と例える伝統がユダヤ教にはありました。その基本的な表現を知っていたと思われる、この客人は、今回のイエス様のお話の奥底には「神の国の宴会」へ人々を招きたいという熱い思いがあるとわかったのでしょう。ただ、彼の心の中には、招かれるのはユダヤ人、更に絞って、自分達ファリサイ派の人間であるに違いないという自負があり、それを見抜いたイエス様はその誤りを新たな「例え話」で指摘なさいました。
*「大宴会」の例え
16節以下の例え話が、何を例えておるのかを見ていきたいと思います。16節の「ある人」とは、聖書で言われている「神様」、つまり、イエス様を「救い主」としてこの世に派遣してくださった「父なる神様」です。そして、最初に招かれていた大勢の人というのが「ユダヤ人達」です。「ある人が大勢の人を招いた」というのは、神様が最初にユダヤ民族を選んで救い主派遣の預言をしてくださっていたことの例えです。そして、17節「宴会の時刻になったので」とは、「人々を救って神の国の交わりをさせる準備ができた」ことを例えています。そして、「僕(しもべ)」というのが、イエス様御自身を例えたものです。この話では、父なる神様の御計画に従って、この世に来られたイエス様は多くの人々に「神の国」に来るように招いてくださったけれども、ほとんどの人々が断ったことが例えられているわけです。
*神様の招きよりも自分の事柄や時を優先させる人間
「神の国の宴会」の招きを断る理由が、ここでは3つ、具体例が書かれていますが、まとめると、この世での仕事や富や人間関係を人々が優先しているのです。更に言えば、神様が「救いの時」と定めた時を尊重せず、自分が大事だと判断した事柄に、まず、自分の時を割いています。ユダヤ人の多くは、神様を尊重することが一番大事と教育されていたにもかかわらず、「神の時」を尊重しないで、「自分の時」を尊重している、そんな態度では、神の怒りを招くと、イエス様ははっきりと警告されています。
*「神の国の宴会」の招きを受けた私達
神様の招きをユダヤ人達が断ったので、神様は、「貧しい人々や体の不自由な人々」を招き、その次には、ユダヤ人でない「異邦人」が招くのだとイエス様は語られました。ファリサイ派から見たら想定外です。しかし、確かに、異邦人である私達が招かれ、救われました!私達は、神様から招かれた幸いを再確認し、周りの人々に伝えられるよう、用いられたいものです。

8月27日の説教要旨 「救われる者」 牧師 平賀真理子

詩編107:1-9 ルカ福音書13:22-30

*はじめに
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。(22節)」エルサレムで十字架にかかる、つまり、人々の罪を贖うという過酷なゴールに向かいつつ、イエス様は人々に「神の国とはどういうものか」を教える、宣教の旅を続けられたのです。

 

*「救われる者は少ないのでしょうか」(23節)
そこへ「救われる者は少ないのでしょうか。」という質問をする人が現れました。「救われる」とは、教会ではよく使われますが、「何から」救われると言うのでしょうか。それは「罪に染まり切っている状態から」です。更に言えば、「全知全能で良いもの全ての源であり、本当の愛を注いでくださる神様から離れている状態から」救われるということです

 

*神様が最初に造った姿とはかけ離れてしまった人間

聖書で言われている「神様」と人間とは、本来なら、人格的な交流ができるはずでした。ところが、人間の側で、神様の教えへの信頼よりも自分達だけの判断を優先したため、神様と交流できなくなる状態に自ら陥りました(参照:創世記3章)。本来、神様に繋がって生きることで幸いを感じるように造られた人間なのに、神様に繋がることをやめたなら、どんなにあがいても、本当の幸いには到達できません。様々な面で限界だらけの人間同士が自己中心で生き、限りある利益を自分の方へと奪い合う競争の世界、これが「罪の世界」「罪に染まり切っている状態」です。そして、人間は「罪のない世界」があることさえも知らされなければ、罪の世界を抜け出そうとさえ思えません。人間は知恵の上でも限界ある存在だと思い知らされます。

 

 

*人間が「救われて」、神様との本来の関係に戻るためには?
イエス様は、神の御子として「罪の世界」ではない世界=「本来、人間が置かれるべき、神様と繋がった世界、本当の幸いな状態」が確かにあると教えてくださったのです。罪の世界から人間が「救われて」本来の状態へ戻ることが起こりうると。それはイエス様を救い主として受け入れ、主の「十字架と復活」の恵みをいただいて神様に繋がれるということです。

 

*「狭い戸口から入るように努めなさい」(24節)

イエス様は23節の質問を受けて一同に対して「『救い』に入る戸口は狭い」と言われ、「救われる者」が少ないことを暗示なさいました。そして、その狭い戸口から入るように「努めなさい」と言われました。この「努める」という言葉は、元々は「苦闘する、戦いをくぐり抜ける」という意味を持っています。確かに、罪の状態で生きることが当たり前のこの世の中で、「神の国」の基準で生きるのは容易ではないと信仰者の多くが実感されているでしょう。まさしく「入ろうとしても入れない人が多い(24節)」のです。しかし、人間の罪深さにもかかわらず、神様が「救いの道」を用意してくださった、その深い愛に応えたいものです。

 

*神様が定めた「救い」のための時と方法に従える者は少ない!
25節―27節の話は、人々を救うためにこの世に来られたイエス様と、イエス様に出会った人々の例え話です。救い主イエス様は多くの人々が「救われる」ために町や村を巡り歩いて「神の国」に招いたが、いよいよ、十字架と復活の時になり、戸口を閉めると例えられる時になって初めて、事の重大さがわかり、「神の国」に入りたがる人が多いという例えです。彼らは、「主と一緒に食事をした」とか「教えを受けた」とか言い、知り合いだからと特別な温情をあてにして訴えます。しかし、救いの戸口を閉める時を決め、入る許可を出す権利は「主」にのみあるのです。「救い」のために神様が定めた時と方法に従える者は少ないのです。

 

*イエス様を救い主と受け入れた、新たな「神のイスラエル」として
主の御降誕以前の歴史では、神様からの召命を受けて信仰を貫いたアブラハム・イサク・ヤコブや預言者達は「神の国」にいるとイエス様はおっしゃいました。しかし、主の御降誕の後では、神様が先に救おうとされたイスラエル民族は、イエス様を「救い主」と受け入れなかったために、「救われる者」としては後になってしまい、神様の最初の計画では後回しになっていた異邦人が先に救われるようになる(30節)と、主は預言され、それは本当に実現しています!そして、今(新約時代)や、「イスラエル」とは、血統上の民族のことではなく、イエス様を救い主と受け入れる信仰を与えられた信仰者達を指すようになりました。主を信じる私達は、「神のイスラエル」(ガラテヤ書6:16)という名にふさわしく、主の恵みを受けて、信仰の戦いに勝利し続けられるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

 

8月20日の説教要旨 「異言は己を、預言は人を造り上げる」 野村 信 先生(東北学院大学)

詩編145:8-16 Ⅰコリント書14:1-5
*はじめに
今日の新約聖書箇所から、使徒パウロが二つのことを述べていることがわかります。「①愛を追い求めなさい。②何よりも霊的な賜物を熱心に求めなさい。」ということです。しかし、この二つは実は一つのことです。
*霊的な賜物とは?
体が疲れた時、私達は栄養ドリンクを飲みます。霊的な賜物とは、心の栄養ドリンクのようなものです。かつて、私自身、どん底の状態にあり、沈んでいましたが、霊的な賜物をいただいたおかげで、生き返った体験をしたので、是非語りたいのです。しかし、これは私だけの体験ではなく、大勢のクリスチャンが書き残した物からも読み取ることができます。
*パウロと「異言」
まず、パウロが書いた「今日の聖書箇所」から見てみると、霊的な賜物には2種類あると言っています。異言と預言です。この2つは重なっているけれども、パウロは際立たせて区別しています。「異言」は聖書の元々の言葉であるギリシャ語では「グロッサ」と言い、「舌」とか「言語」という意味の言葉ですが、パウロは以下の2つの意味を含んだものを指していると見ることができます。一つは「異なった言葉」(例:使徒言行録2章にあるペンテコステの出来事)と、もう一つは「神秘を語る」ということです。14章2節でパウロが「異言を語る者は、人に向かってではなく、
神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っています。」と言ったとおりです。異言は聖霊によって語られた「言葉にならない言葉」です。私達は、「神秘」や「異言」を極めて非聖書的と考えがちですが、パウロは違います。同じ書の4章18節で、パウロは自分について「最も異言を語った」と述べています。
*「預言」が重点的に語られてきた末に
また、14章3―4節を見ると、預言は人に向かって語られ、人を造り上げるのであり、異言は自分(=己)を造り上げるとあります。この箇所が説教で語られる場合、多くの牧師は「預言」の方を重点的に語ってきたように思います。歴史的に見て、伝道において未熟な日本で、しっかりした教会を造り上げたいと願って、そのように語られたと言えるでしょう。しかし、21世紀に入った今、立派な建物の教会に、信者達が集まらず、そのために教会を閉めざるを得ない状況が世界中で起こっています。カトリック信者も少なくなっていますが、特に、プロテスタント信者の数の減少に歯止めがかかりません。同様に、私達が所属する日本基督教団の信徒数も減り続けています。何か根本的な
問題があると考えざるを得ないと思います。「預言」だけでいいのでしょうか。
*「異言」によって私達一人一人が活き活きと変えられる
長らく「異言」は不可解で怪しげだから、「預言」を重んじようと教えられてきました。「預言」はとても大切です。なぜなら、人を造り上げ、教会を造り上げるからです。しかし、今、教会に集う私達一人一人が、家庭でも職場でも、キリスト者として活き活きと生きているでしょうか。私自身も、かつては、聖書の教理とか教義、すなわち「預言」を語り続けてきましたが、10年ほど前には、かなりひどく落ち込んでいました。それは精神的な病気と症状は似ていましたが、違います。信仰の問題でした。信仰によって喜びや力が全然湧いてこないという状況でした。数年後に立ち直り、今や、神様のためにずっと働き続けても元気!となりました。己を造り上げることができたからです。しかし、私の周りを見渡しても、牧師や神学者の中に、つまり、「預言」を語る専門家達の中に、燃え尽きて抜け殻のようになっている人々がいることを知っています。(但し、預言=教理や教義は、300~400年かけて生み出されたキリスト教の柱であり、大切なものです!)
*パウロによる教えの再発見
パウロは、今日の聖書箇所で、「異言」を語る大切さを教えていたのです。すなわち、聖霊の働きの中で神様と語り合うこと・神秘を語ることは、「己を造り上げる」ことだと教えてくれます。私達は神様に向かう、または神様と語り合うということの大切さに気付かなくてはなりません。その中には、人間の言葉にはならず、人にはわからないものもあるかもしれませんが、神様に祈る・神様と語り合うことで、自分を造り上げることをおろそかにしてはならないのです。
*「異言」とは? ―歴史を振り返り、数々の著作や著者から―
では、具体的に「異言」とはどのようなものでしょうか。どのように行(おこな)ったらいいのでしょうか。歴史を振り返ると、優れた信仰者達を例として挙げることができます。彼らはしっかり書き残してくれたので、私達が知ることができます。彼らは、異言を存分に語って、力強く、立派な信仰者の生涯を送り、神様と人間に仕えて生きたことがわかります。
その筆頭はパウロです。パウロの書いた手紙の中に、パウロの「異言」と思える箇所がいくつもあります。例えば、「十四年前に第三の天にまで引き上げられた」(Ⅱコリント書12:2)とか、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(ローマ書8:22)等です。
また、今日の旧約聖書箇所に挙げた詩編145編でも、この詩人は「造られたものすべて(万物)」が神様に感謝すると謳っていて、これも「異言」と言えます。
アウグスティヌスというキリスト教の立役者は、『告白』という名著を残し、自分の愚かしい、恥ずかしい過去を美しい文体で書きました。
普通の感覚ならば書けないような、自分の醜い過去を神様に告白する、つまり、神様に向かって語るという「異言」となっているのです。
アンセルムスという人も中世の思想家として名高い人ですが、『モノロギオン』『プロスロギオン』という著作の中で、「異言」が多くあります。
さらに、サン・ビクトールのフーゴーという修道士は、民衆達と一緒に聖書を読むために「絵巻物聖書」を作りましたが、彼の『魂の手付金の独語録』という本は、神様への燃えるような賛美を献げる中で、ほとんどが異言を語っていると言わざるを得ない内容です。
私の専門である宗教改革者のカルヴァンは『キリスト教綱要』という有名な教理的な書物を書き、ほとんど毎日1時間の説教をした人です。この説教を聴いていた、当時の1500人程の人々は、霊的な喜びと感動に満ち溢れていたのです。研究者達でこの説教の翻訳を続けています。
地味で飽きてくる内容ですが、これが「異言」です。よくわからない、あるいはあまりにもありふれたものなのに、実際は、霊的であり、神秘的であり、神の世界が広がっているような一時と言えます。
現代で、私達の知っている日本人では、八木重吉というクリスチャンの詩人がいます。彼は短い生涯の中で二千もの詩を残しましたが、「霊感の人」と言ってもいいでしょう。神秘の中で不思議を語った人です。
20世紀を生きた人に、神谷美恵子という人がいました。彼女は結局キリスト教の洗礼を受けませんでしたが、ほとんどキリスト者であると言えるような天才的な人でした。この人の日記の中には、不思議な神秘的な語りが何度も出てきます。また、著作『生きがいについて』で「変革体験(本当は「神秘体験」と名付けたかったらしい)」という箇所があり、これも「異言」の一種と言えるでしょう。
それから、カトリックの神父で、八ヶ岳で庵を編んでいた 押田成人という方がいましたが、彼の著書『遠いまなざし』も、ほとんど異言と言えるような不思議で神秘的な話です。私は、自分自身が霊的なものに触れて立ち直った後に、この方の本を読んだところ、内容が理解できるようになってきました。
*「異言」によって、己を高め、強めることができる!
今まで述べてきたように、「預言」は建徳的であり、人や教会を造り上げるものですが、「異言」は霊によって語られるもので、自分を造り上げるものです。一人一人が取り組むべきものであり、他人にはわからなくても、自分を高め、強めるものです。だから、パウロは「霊的な賜物を追い求めなさい」と言っているのであり、私達一人一人は、神様との対話の追求を行(おこな)っていきたいものです。
*「神の愛」を追い求める私達に、霊的な賜物が注がれる
今日の聖書箇所の直前のⅠコリント書13章は「愛の賛歌」と呼ばれる、愛についてのパウロの語りが出てきます。そして、14章の初めの第1節で、「愛を追い求めなさい。霊的な賜物を熱心に求めなさい。」とあります。
ここでの「愛」とは、「アガペー」とギリシャ語で呼ばれる愛であり、それは「神の愛」を指しており、神の御子イエス・キリストが十字架で死ぬことによってもたらされた「人間の罪の赦し」に示された「神様の無償の愛」のことです。
ですから、14章1節の「愛を追い求めなさい」とは「神様を・キリストを追い求めなさい」と同じです。神様と愛とは直結しています!だから、「神の愛」を追い求めると、そこから派生して、神様の豊かな、様々な霊的賜物が私達の上に注がれます。神様から賜る私達へのプレゼント、つまり、異言や預言をいただけて、神様に繋がります。実は、Ⅰコリント書の12章から14章までずっと霊的賜物について書かれており、神様を追い求めると、神様との交わりを持てると言えます。言い換えると「証し」です。これが自分にとってのかけがえのない神秘となり、私達一人一人は霊的な力を得て、活き活きと生きていけるのです!