2023年4月16日の説教要旨 詩編16編・ルカ福音書24:13-35

「晴れやかな報告」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

先週、私達は、イエス様の復活の出来事を見てきました。イエス様と一緒にガリラヤから来て奉仕していた婦人逹が、お墓に行って見ると、墓の中に納めたはず(23:53)のイエス様の遺体は見当たらず、空でした。その為、婦人達が途方に暮れていると、御使いが現れて、イエス様は復活され生きておられること、かつて語られたイエス様の言葉を思い出すようにと言われます。それで婦人達は思い出して、墓から帰り、弟子達にこの出来事を知らせましたが、弟子達は、婦人達を信じませんでした。

*イエス様を「イエス様」とわからない

三日目のこの日、二人の弟子がエルサレムから約11キロ位離れたエマオという村へ向かって歩きながら この一切の出来事について話し合っていました。そこへ、(復活された)イエス様ご自身が近づいて来て、弟子達と一緒に歩き始めました。しかし、弟子達の目は遮(さえぎ)られていて、イエス様だと気付くことは出来ませんでした。

私達の生活の中でも同じような出来事が起こっているように感じられます。たとえば水の中に顔を付けて目を開くと、どこかぼやけて周りが良く見えず、何か覆いのようなものが掛かっているような状況です。この時、弟子達と一緒に歩いて下さる旅人は見えていても、はっきりとは見えていなかったのでしょう。けれど、イエス様の十字架の出来事や、今起こっている出来事を共感できる仲間として、一緒に歩くことが出来たのではないかと考えられます。ヨハネ福音書20章でも、マリアに現れた復活したイエス様を、彼女は園丁(えんてい・管理人)だと思い込み、会話している様子が記されています。このことから、復活されたイエスの姿は、どこか別の姿・違う様子になっていたと想像できます。

*「二人の目は遮られていて」(24:16)

二人の弟子達が「イエスだとは分からなかった(16節)」とありますが、目の前に何か、覆(おお)いがかけられたような状態については、パウロがコリント書Ⅱ・4:3~4で、次のように記しています。

わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。

パウロは、悪魔の霊的な力が私達人間に働き、イエス様の存在を知ることが出来ないように覆いをかけることがあることを伝えています。その為、私達が暮らす地上での生活には、私達を神様から離れさせようと、誘惑や苦しみ、悩み・悲しみを通して悪の霊的な力が働いています。

*二人の目は開かれた

この二人の弟子達も又、婦人達が、イエス様の遺体を見つけられず、そこで天使達から「イエスは生きておられる」と言われたことを聞いたにもかかわらず、この出来事を、「イエス様の復活」の預言の成就として理解して受けとめることが出来ませんでした。

イエス様は二人の弟子に、次のように言っています。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。(25~26節)」そして、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明しました。この時、二人の弟子にかかっていた覆いは取り除かれ、「私達の心は燃えていた!と、あとで振り返っています。

*わたしたちの信仰

イエス様は、彼らと一緒の食事の席に着き、賛美の祈りを唱えパンを裂いて渡すと、弟子達の目が開かれてイエス様だと分かりました。

本日の詩編16編は、私達を神様から離れさせようする悪の霊の働きによる覆いが取り除かれた私たち信仰者の告白です。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしに命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます(8~11)。」