「キリストの昇天」 加藤 秀久牧師
*はじめに
本日の旧約聖書、詩編105編12~24には、神様から選ばれた民(選民)に、神様からの大いなる祝福、守り、導きがあったことが記されています。特に、族長ヤコブの息子のヨセフが用いられて、イスラエルの人達が飢饉という出来事を通してエジプトに住むようになった様子を描いています。
ヨセフは兄たちによって奴隷としてエジプトに売られ、宮廷の役人である侍従長に買い取られましたが、その侍従長の誤解による怒りによって、監獄に入れられてしまいます(創世記39章)。しかしヨセフは王の夢を解き明かしたことがきっかけとなり、王様に次ぐ地位に就くことになります。やがて飢饉が全国に広がり、食料を求めて兄達がカナンの地からエジプトに下ってきた時、ヨセフは兄達と再会し、その後、父ヤコブとその子孫を皆、エジプトに呼び寄せます(創世記46章・総数70名)。
*「主はご自分の民を大いに増やし 敵よりも強くされた。」
こうしてイスラエルの人達は、エジプトで大いに力を増し、ひどい目にあいながらも、彼らの子孫を増やし、神様に信頼する信仰を育てていったのでした。ヨセフは、神様との会話・幼い時から神様の霊に触れ、神様が語られる声に耳を傾けながら、その体験を大切にしてきたように思われます。詩編105編を読む時、これらの歴史的出来事が、天地を創造された神様のご計画であったと受け止めて、自らも追体験し、自分達が選民イスラエルであり神様の救いの御手がある、との告白が伝わってきます。
イスラエルの人々の中には、神様の声を聞くことのできる預言者達たちがいましたが、彼らはどのようにして、その声・神様の霊を感じ取ることができたのでしょうか?
*神様の霊を受け取る受信機
神様の霊は、神様に創造された全ての者たちの心の中に宿っています。
私達は、神様の霊と共に、神様に養われた存在であることで分かると思います。毎日私達が神様やイエス様と話をしたい、との気持はどこで考え、どこから沸き起こるのでしょうか?それは、私達の心の最も奥深くの所で、神様と交信をしているからだと思います。私達には、神様と交信する道具(受信機)が心の中に備え付けられていると考えられます。但しこの受信器は、赤ちゃんの時は頻繁に使っていましたが、地上での生活習慣や生き方を学び、大人になるに従って少しずつ知恵や知識も備わり、いつしか神様との受信器を使わなくなり、必要としなくなり、この受信器を心の片隅に置き去りにしてしまう結果を招いていると思います。
しかし、私達がこの受信器を全く使わなくなったとしても、神様は、この受信器の電源をOFFにせず、一方的に私達に必要な言葉や神様の霊を送り続け、受信器を交信できる周波数に合わせられるように操作して下さり、会話ができるようにして下さっています。
*「聖霊を受けなさい」
イエス様の復活の出来事は弟子達や婦人達にとって驚くべき出来事でした。婦人達から聞いた弟子達は、イエス様が指示されたガリラヤの山に登り、イエス様にお会いし、ひれ伏しました。イエス様は、「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。(19~20節」と言われて天に昇られました。他の福音書には、復活のイエス様が弟子達を祝福した後「彼らに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けなさい』」(ヨハネ福音書20:19)とあります。
それによって弟子達はイエス様のことを世界中に伝えていくことになりました。霊の吹きかけは、神様に造られた者達に与えられている霊の働きを活発にします。今も、神様と日頃よく会話や祈りをささげている人は、神様のお考えが霊の内で理解することができてイエス様が神様であることを認めています。ところが聖書は、「疑う者もいた」(17節)と伝えています。私達はイエス様を信頼し、日々の歩みの中でイエス様を中心として、心の中に聖霊の炎をともし続ける必要があります。
今週もイエス様の語りかけに耳を傾けながら歩み始めて参りましょう。