2023年5月7日の説教要旨 申命記7:6-11・ガラテヤ3:23-4:7

かけがえのない民」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

ガラテヤ書2章19節でパウロは、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」と記しています。

「律法(ト-ラ-)」は、神様が人間に与えた唯一の基準と規範であり、ユダヤ教では「律法」(旧約聖書の最初のモーセ五書(創世記~申命記)全体を意味するようになった)を守ることが神様に受け入れられることであり、救われる前提でした。ですから人々は律法に縛られて、自由になれない生き方になっていたようです。そのような人々にパウロは、「わたしは、律法に対しては律法によって死んだ」と言いました。

*律法によって死ぬ

それまで長い間、律法を守ること、律法に従うという「行為」が、神様によって「義とされる=ただしいとされる」と考えられてきましたが、パウロは「人は律法の実行ではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした(2:16)」と語り、そのことを可能にしたのは「イエス・キリストの十字架の死」であることを語っています。

旧約の時代には、「罪の赦し」を願う時、動物を屠って祭壇の側面にその血を注ぎました。今や神様が御子イエス・キリストを送って下さったことにより、罪のないイエス様の「十字架による血」によって全人類の罪が赦され、贖(あがな)われました。この出来事により私達はイエス・キリストの十字架を信じる信仰によってバプテスマを受けて救われるのです。

律法の実行によって救われる考えから完全に解放され自由にされました。

*キリストを着る

この福音を信じる信仰によって「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです(3:26~27)」と、パウロは語ります。原語では「あなたがたは皆」の前に「誰一人例外なく」という言葉が記されています。誰一人として例外なくイエス様を信じる信仰によって洗礼を受けた者は、イエス様に結ばれて神様の子供とされたことが告げられています。神様の子供とされることは、イエス様と同じ「相続人」(3:29と4:7)とされることです。「キリストを着る」という表現から、イエス様のたとえ話(ルカ福音書15章)の「放蕩息子」を思い起します。父のもとに帰って来た放蕩息子に、父親は「急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」と言いました。ここで、父親が帰った息子に対して自分の子供としての資格(身分)を回復している姿を見ます。私達はまだ神様も聖書の教えも知らなかった時、悪の存在するこの世界で罪の奴隷とされて生きていました。しかし私達には帰るべき父の家があることを知り、帰った時、このたとえのように父である神様は私達を父の子として迎えて下さり、私達にイエス・キリストを着せて下さいました。「神の子とされたことは、御子の霊を私達の心に送って下さった事実から分かります(4:6)。」「あなたはもはや(罪の)奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです(4:7)。」

*神の宝の民

あなたがたは、もしキリストのものだとするなら・・(信仰によって)アブラハムの子孫であり、約束による相続人です(3:29)」。「あなたは、主の聖なる民である。あなたの神は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなた達を選ばれたのは、あなた達が他のどの民よりも数が多かったからではない。あなた達は他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、先祖に誓われた誓いを守られたゆえに・・奴隷の家から救い出されたのである(申命記7:6~)」。神様を信じる私達は、神様は信頼出来て愛に満ち溢れたお方であると知っています。私達にはいつも、神様から与えられた約束されたものがあり、そこに希望と願いを持って御前に出て祈ることが出来、共に集まれる場所があることを感謝しています。