2021年5月2日の説教要旨 エゼキエル書36:22-28・ガラテヤ5:13-25

「霊の導きによる神の愛」     加藤秀久伝道師

*はじめに

 エゼキエルは、神様に絶対的な信頼をおき「主の言葉は必ず成る」ことを信じた預言者です。エゼキエルは、第一回のバビロン捕囚(紀元前597年)の時に、王と共にバビロンに連行され、捕囚の地で5年間暮らした後、預言者として召命を受けました。エゼキエルは、神様から告げられる言葉を人々に伝えただけではなく、自ら書物に書き留めていたようです。

*神様への裏切り

 イスラエルの民は、もともとは神様のために礼拝を捧げていた山での場所を、時の流れと共に、偶像(人の形に似せた像や牛の像など)を礼拝する場所へと変えていき、自らの歩みと行いは汚れたものとなってしまいました。

神様は熱情の神であるゆえに、このようなイスラエルの民の裏切り行為は、民を諸国へ追いやる結果(捕囚)となりました。囚われの身となったイスラエルの民は、そこでも尚、神様の名を汚すような行ないをしていたため、そこに住む国の人々は、イスラエルの民が信じる神を見下すようになってしまっていたのです。

*「わが聖なる名」

 主なる神様は、他の全ての被造物から区別されるお方であり、神様と、他の神々との区別を曖昧(あいまい)にすることは、「イスラエルの民をエジプトから導き出した神」の存在を否定することになり、更に神様を侮辱し、神様の名を汚すことになります。22節以下に「わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行(い)った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしはお前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なる者とする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なる者とされる時、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる。」とあります。神様は、「聖なる神の名」を取り戻すため、イスラエルの民を、再び元いた場所イスラエルへ戻すことを告げられました。

*清めの儀式

 イスラエルの民は何よりも偶像礼拝によってその身が汚れていたので、彼らは清められる必要があり、清めの儀式(民数記19章参照)が行なわれました。神様は、この儀式を行うことによってイスラエルの民に、「新しい心」を与え、「新しい霊」を授けると約束されました(25-29節)。これはイスラエルの民が、信仰的にも救われ、霊的にも強くされることを意味していました。神様はこのようにして、民が連行された国々の人々にも、「神様の聖なる御名」の偉大さ、主の存在の偉大さを知らしめ、造られた全ての人に、神様の愛を示されたのでした。

*(肉の欲望によってではなく)、「霊の導きに従って歩みなさい」

 本日のガラテヤ書5章前半には、割礼(かつれい)を受けなければならないと感じている者達は、律法に対して義務を負っていて、その人の中に、主イエス・キリストが住むこと、宿ることは難しいと述べています。 イエス様がこの地上に来られたのは、信じる者達を解放するためであり、信じる者達は、律法の支配と罪の誘惑から自由にされたのであり、もとに戻らせるような誘惑に陥らないように注意することが必要であると教えています。そして本日の後半では、肉の欲望によって生きるのではなく、霊の導きに従って生きるように勧めています。なぜなら、肉の思いは人を、肉の欲望の奴隷として、神様のもとで自由に生きていくことを出来なくするからです。それゆえパウロは、主イエス・キリストにある自由の中で生きるために、霊の導きの中で歩みなさいと勧めます。

*わたしたち

 私達は、考え方次第では、「自分自身」の奴隷になり、神様を信じますと言いながら、これは自分にしかできないと高慢になり、相手のことを思いやることなく自分を第一にしたいと考える心になっていないでしょうか。しかし私達が、イエス様を信じてイエス様の名前を呼ぶ時、神様は私達を全てのしがらみから、引き留めるものから解き放ち、自由な者へと変えて下さるのです。ですから私達は、神様から日々新たにされて、神様に祈る必要がある、神様との交わる時間が必要になるのです。

今週の歩みが、大いなる神様を知る週になりますようにお祈り致します。

2021年1月17日の説教要旨 サムエル記上3:1-10・ガラテヤ書1:11-24

「キリストの弟子」    加藤 秀久伝道師

*はじめに 

神様は私達に呼びかけています。私達の心の中にある、心に宿っている霊に向けて、呼びかけています。それはサムエルのように寝ている時かもしれません、もしくは夜明け前かもしれません、それとも私達が静まり、神様に心を向けている時かもしれません。

*主の呼びかけ

サムエルは乳離れのあと、母ハンナから離れて祭司エリに仕えるようになりました。サムエルが少年に成長した時のことです。祭司エリは年をとり、目はかすみ、「神殿」でなく自分の部屋で床に就いて休んでいました。「神の箱(十戒の石板が納められていた)」が置かれている神殿の ともし火は、消えることなく灯しておかねばならず、少年サムエルは神殿で寝ていました。すると、主はサムエルを呼ばれました。サムエルはエリに呼ばれたと思い、エリのもとに走り「お呼びになったので参りました」と言いました。

しかし、「わたしは呼んでいない。戻ってお休み」と言われたので戻って寝ました。が、この後も、主は三度もサムエルを呼ばれました。

*主の語られる言葉を聞き分ける

この当時、主の言葉がイスラエルの人々の間に臨むことは少なく、幻が示されることもまれでした。なぜ主は人々に対して語ることをやめてしまったのでしょうか。それは人々が主の前に悪を行い、主の言葉に耳を傾けず、主が何かを語ったとしても人々の心が閉じてしまっており、主のささやく言葉を無視するようになってしまったからではないでしょうか。

しかし主は、サムエルに呼びかけられたのでした。

私達はどうでしょうか。霊的にも疲れていて神様との関係がおろそかになっている時には、神様のささやかれる言葉を聞き分ける力が低下しています。私達が神様と個人的な関係を保つためには、日々の生活の中で神様の言葉である聖書に向き合い、その語られる言葉に集中し、神様が私に何を伝えようとされているのか、心を神様の方へ向けなければなりません。

*主への応答

エリは、サムエルが三度も自分のもとに来たので、主がサムエルを呼ばれていることを悟り、「又、呼びかけられたら『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」と伝えました。そのため主から再び呼ばれたサムエルは教えられた通り、「どうぞお話し下さい。僕は聞いております」と答え、主からこれから起こることを聞きました。

*パウロの伝道

本日のガラテヤ書は、ガラテヤ教会に偽りの福音が入り込んで影響を受けていたので、パウロは自分が体験した本当の神、真実の神について宣べ伝えているところから始まっています。

パウロとイエス様との出会いは、天からのまばゆい光の中から、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(サウル=パウロ・使徒言行録9:4)と、名前を呼びかけられたことから始まります。それはパウロにとっては思いもよらないイエス様との出会いであり、その時から彼の人生は変わり、伝道者へと導かれていきました。パウロの伝道は、自分が体験し受けた教えを素直に自分自身の言葉で表現して、何が正しく何が悪いかを神様からの霊によって見分け、「神様」と「イエス様」というお方がどのようなお方かを人々に伝えていく、という伝道です。

ガラテヤの人々も、パウロから、救いをもたらす神様の言葉に出会い、信じる者へと変えられていきました。それはガラテヤの人々が、パウロの中に、生きた神様を見たからではないでしょうか。

*わたしたち

私達も又、サムエルやパウロの体験と同じように、人の声ではなく、神様からの語りかけを聞くことから始まり、イエス様を受け入れて信じた時からイエス様が心の中に住んで下さるようになりました。イエス様は今日も私達の名前を呼んで、私達に必要なこと、私達がするべきことを語りかけて下さっています。私達は、聖霊の助けにより頼み、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と、主の語られる言葉を聞き分けて、神様の御心を知ることが出来るように祈り求めて参りましょう。

2019年8月4日の説教要旨

創世記3:20-24・ガラテヤ書3-23-29

「キリストを着ている」      平賀真理子

*はじめに

 福音書に書かれていて、キリスト教会が果たすべき役割は、「イエス・キリストは神の御子・救い主である」と証しすることです。しかし、今日の新約聖書箇所であるガラテヤ書3:26に「あなたがたは、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」とあります。イエス様を救い主と信じる者が「神の子」であると宣言されています。「神の子」がイエス様だけでなく、私達信仰者一人一人も「神の子」と呼ばれ得るのだと言われていることに驚かされるのではないでしょうか。

*ガラテヤ書の著者パウロが直面した問題

この手紙が書かれた頃、著者パウロが悩まされた問題は、自分が去った後にガラテヤの信徒の群れに、ユダヤ人キリスト者(元々はユダヤ教徒で、後にキリスト教徒となった者)が入り込み、ユダヤ教の「律法」をユダヤ人でないキリスト者「異邦人キリスト者」にも守らせようとしたことです。彼らは当時のユダヤ教が教えていた「律法を実行するかしないかで信仰者を評価する」という方法を、キリスト教会にも持ち込もうとしました。異邦人伝道こそ自分の使命だと確信していたパウロは、その「律法」については「主の十字架と復活がもはや成し遂げられた後なので、『律法』の実行を要求される必要はない」と考えていました。しかし、パウロが去った後の教会では、ユダヤ人キリスト者の教えが広がりつつあり、パウロはそれを問題視したのです。パウロは「律法の実行から神の民が解放されたのは、救い主イエス様の救いの恵みである」と再び教えようとしています。

*現代のキリスト教会にもある問題

パウロの時代から約2000年経った現代では、「律法の実行」からは解放されていますから、パウロの方針は正しかったと歴史が証明しています。ただ、似たような問題が、現代の教会にも実際にあると言えると思います。一つは、福音よりも、福音に出会う前の基準(自分が慣れ親しんだ基準)を重要視する傾向です。世間の常識などに苦しんだにもかかわらず、主を見上げることを忘れると、私たちは元の考え方に囚われてしまいがちです。

もう一つは、「信仰」を目で見える形で評価しようとする傾向です。奉仕などは特にそうなりがちです。神様の前に祈り求めて与えられたものだから奉仕するのが本来の姿ですが、他人から評価されたいという思いから奉仕を行うのは、先のユダヤ人キリスト者と同じ罪を犯していることになります。神様の目よりも、周りの人間の目、または自分自身の思いを第一に据えるという罪です。

*「養育係」である律法から「救い主」の福音へ

 今日の新約聖書箇所に戻ると、パウロは「律法」を全く否定しているわけではなく、「律法」によって、人間は、神様の御言葉を守れない自分を認識させられると捉えているとわかります。それで、パウロは「律法」を「養育係」と表現しました。「養育係」と「救い主」の相違点は、前者が人間を裁くことはできでも罪から解放することはできないのに対し、後者は「罪の赦し」を人間に授ける権能がある点です。「救い主」だけが、人間の罪を赦し、そこから解放してくださることができるのです。イエス様は、私達人間の罪の贖いである十字架を成し遂げ、それを父なる神様も祝福して「復活」という栄誉を賜ったばかりでなく、そのことを救いの御業と信じる者にはすべて、罪赦されて「神の子」とされる恵みまでくださるのです。

*洗礼を受け、キリストに結ばれ、キリストを着ているゆえに「神の子」

パウロは、信徒の群れに「あなたがたは神の子」と言える根拠を、「律法を実行したから」ではなく、「洗礼を受けて、キリストに結ばれ、キリストを着ているから」(27節)と記しました。「イエス様は私の救い主です」と信仰告白して洗礼を受けられるのは、神様主導の選びと大いなる愛によって、その人が聖霊に導かれた結果です。元は罪ある身で生まれた者を、洗礼後は、キリストの愛と赦しが覆ってくださることを「キリストを着ている」と例え、それゆえに、罪ある人間が「神の子」と呼ばれることが許されるという恵みが語られています。

*「永遠の命」への道

今日の旧約聖書の箇所に関連して表現するならば、罪に陥って「神様の用意してくださった園」から追放された人間は、神様から「永遠に生きる者となってはいけない」と「永遠の命」の木の実に至る道をふさがれました。そのふさがれた道を通れるようにしてくださったのが、イエス様の十字架と復活の御業です。私達信仰者は「キリストを着ている」ゆえに「永遠の命に至る道」を通れるのです!

1月17日の説教要旨 「恵みによる召命」 牧師 佐藤 義子

サムエル記上 3:1-10・ガラテヤ書 1:11-24

 はじめに

ガラテヤ書の著者パウロが、熱心なユダヤ教徒からキリスト教伝道者へと変えられた大きな出来事については使徒言行録9章に記されています。又、フィリピ書3章にもパウロの自己紹介があります。今日のガラテヤ書では、パウロは以下のように語っています。

しかし、わたしを母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた時、わたしは、すぐ、血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムにのぼって、わたしより先に使徒として召された人達のもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。

 パウロの召命

「血肉に相談」の「血肉」とは、目に見えない神様に対して使う「人間」のことです。パウロは、自分がキリスト教徒になったのは、人から伝道されたのではなく、「天からの光」と、「なぜ、わたしを迫害するのか」との自分に呼びかける天からの声でした(使徒9章)。自分がこれまで正しいと信じて行なってきたキリスト教徒への迫害という過ちと罪に対して、パウロは、そのことを13節で告白します。そして、その自分のやってきた過ちすべてをご存じのお方が、その罪をすべて引き受けて下さり、赦して下さり、深い憐れみをもって、この私を伝道者として選び出して下さったという、<人間の思いや考えを超えた>神様の大きな恵みに目を向けて、次のように告白します。

わたしを母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた

この召命観により、パウロは、キリスト教徒の指導者に挨拶に行くことよりも、エルサレムから離れたアラビアに一時期退くことを選びました。

ガラテヤの教会

この手紙の宛先であるガラテヤ教会は、パウロが伝えた正しい信仰を、後からやってきた別の指導者が、変質させてしまったという状況があり、パウロは、6節で以下のように嘆いています。「キリストの恵みへ招いて下さった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と。

どういうことかと申しますと、ユダヤ教では、人が救われるのは、律法を完全に守ることによってであると教えていました。それに対してパウロが教えたのは、人が救われるのは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰による、というものでした。ところが、ユダヤ教からの改宗者の中には、自分達が幼い時から守って来た律法を、異邦人と呼ばれるユダヤ人以外の外国人にも守らせようとする人達が大勢いて、パウロ自身を正当な使徒として認めようとしない人達が、パウロの、使徒としての「資格」に疑念を持たせるように人々を仕向けたのです。

 恵みによって召し出して下さる神

パウロは自分の召命を、「恵みによって召し出して下さった神の御心による」と、確信をもって告白しています。「恵み」とは、神様から一方的に差し出されるものです。この言葉を借りるならば、ここにおられるすべての方は、恵みによって今日、この礼拝に招かれている者たちです。それゆえ誰一人、ここに自分がいることを誇ることは出来ません。又、クリスチャンになったことも大きな大きな恵みです。誰一人、私はクリスチャンにはならない、とか、なれない、と言うこともできません。パウロは自分の思いをはるかに越えて、神様の御計画の中で選び出され、伝道者として立てられ、その後の苦しく厳しい伝道活動を、神様は最後まで共にいて、全うさせて下さいました。イエス様に出会うまでに身につけたギリシャ的な教養や、ローマの市民権、熱心なユダヤ教徒でファリサイ派に属していたことなど、すべて一切がその後の異邦人伝道で豊かに生かされていきました。私達も又、恵みによって召して下さる神様に捕えられた時、これ迄のすべての歩みが豊かに用いられるのです。