2021年6月20日の説教要旨 申命記26:1-11・Ⅱコリント8:1-15

「主への告白」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

イスラエルの民はエジプトを脱出後、主に導かれながら40年間の荒野での生活を送ってきました。その間、主なる神から天から降ってきた「マナ」によって養われました。しかしこれから入る嗣業(しぎょう・神様から賜った資産)のカナンの土地では、土地を耕し自らが農作物を作り、収穫しなければなりません。神様は、このカナンの地で新しい生活を始めるにあたり、幾つかの注意点を述べています。

*土地から取れた収穫物をささげる時の信仰告白(5節-10節)

先ず「初物」をかごに入れて祭壇に行き、祭司には「約束の土地・カナン」に入ったことを報告して「初物」のかごを祭司に渡す。祭司はそのかごを祭壇に備える。その後、「初物」をささげる者が神様に対して以下のように信仰の告白をする。『わたしの先祖は滅びゆく一(いち)アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこの私たちを虐(しいた)げ、苦しめ、重労働を課(か)しました。私たちが先祖の神、主に助けを求めると、主は私たちの声を聞き、私たちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもって私たちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。 わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。

*嗣業の土地

「信仰告白」で大切なことは、『主がこの所に導き入れて、乳と蜜の流れるこの土地を与えられた、という点にあります。主が約束されて与えられ、主から相続した嗣業の土地で取れた、あらゆる地の産物や彼らの業績などは、彼ら自身の力と手の働きによるものなどと考えてはならず、むしろ主なる神を思い起こし、主の導きや守りによることへの神様への感謝と、彼らの信仰を、後の世代まで継承していくことを教えています。そこに神様に従い続ける忠誠心、献身力が養い育てられていくと思います。では、私達がささげる初物のささげ物とはどういうものなのでしょうか。

*新約時代の献金

本日のⅡコリント書では、コリントの教会に間違った教えが入り込み、信徒達は献金を集めることをやめていたので、パウロは信徒の人々に、献金再開のお願いの手紙を書いています。この献金はエルサレムの聖なる者達の中の貧しい人々を援助するためのものでした。そこでパウロは、マケドニア州の諸教会に与えられた神様の恵みについて書いています。マケドニアの信徒達は、苦しみによる激しい試練を受けていましたが、彼らは喜びに満ち溢れ、極度の貧しさにもかかわらず溢れるばかりに豊かな真心をパウロ達に示しました。彼らは、それぞれ個人に与えられた力、能力に応じて、又、力以上に自ら進んで聖なる者達を助けるための奉仕に加わる恵みに与(あずか)りたいとしきりに願い出て、パウロ達が期待していた以上に自らを献げ、仕えました(8:2~)。彼らはパウロを通して神様の素晴らしさ、凄さを体験したので貧しい生活を送っていた者達でさえも惜しみなく、又、自ら進んで献金を献げました。

*わたしたち

私は日本には数多くの宣教師やクリスチャン達が訪れ、私達日本人のために彼らの時間、生活費を費やして、神様の言葉を伝えている人達のことを思い浮かべました。この方達は一度も顔を見たことも話したこともない人達の為に日本を訪れていますから、神様を信頼し神様の御国の建設のため、教会形成に自分も何かの役に立ちたいという献身の思いがなければ人々に仕え、御言葉を伝えることはできなかったでしょう。

献金は神様に献げられたもので、神様のために働く者達の為、神様を求めて教会に集まって来た人々の為、又、この教会だけに留めるのではなく、神様を信じる全ての者達のために用いられるべきものです。私達はこの伝道所へ神様に呼び出され、集められ、神様の前で罪の告白をし、祈り、讃美し、み言葉を聞き、この神様の愛に感謝して感謝のささげ物の献金をします。この中で私達の信仰を告白しようではありませんか。

2021年2月21日の説教要旨 申命記30:15-20・ヤコブの手紙1:12-18

「罪の誘惑」      加藤秀久伝道師

*はじめに

 本日の申命記には、モーセがイスラエルの人々に2つの選択肢が与えられていることを伝えています。申命記は、モーセとイスラエルの人々が、荒れ野での旅をしている時に与えられた「律法」を、モーセが再度語っていて、もしイスラエルの人々が神様を愛し、戒めを守るならば、イスラエル人の人も増え栄えるけれども、他方、もし、イスラエルの人々が神様に逆らい、神様から離れ、他の神々に仕えるならば、これから得ようとしている約束の地・カナンで長く生きることは出来ないというものでした。

*「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」(15節)

 本日の聖書の中に「今日(きょう)」と言う言葉が4回出てきます。この言葉は、語られた「その時」だけではなく、今日(こんにち)の時代においても語られる「今日」になっています。中でも神様から与えられた「十戒」(出エジプト記20:2-17・申命記5:2-22)の第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」は、イスラエルの民にとって、しっかり心に留めなければならないことであり、誰かに強いられてではなく、自分の意志で自由に選択することができる意味をも含んでいました。

この第一戒は、今の時代にも、後の時代にも、いつの時代にも、神様を信じる者たちにとっては、日々の様々な状況の中で起こる誘惑から逃れて、勝利するために、なくてはならず、守らなければならないものだと思います。それこそが、イスラエルの人々にとって、主の声に従い歩んでいく信仰へとつながり、生きて行くための力・命になることが示されています。神様の約束は、いつの時代も変わることがありません。

*「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(1:2)

 本日のヤコブ書には、試練を受けた時、自分の欲望のままに行動しないように注意が必要であることが述べられています。今日の12節では、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」とあり、神様を信じる者達が、試練や苦難・困難に遭い、耐え忍ぶことは、イエス様の栄光に与(あずか)る「約束された命の冠」をいただくことが出来ると記されています。

この「耐え忍ぶ人は幸い」とは、その人が神様との出会いの中や信仰の歩みの中で、神様の慈しみや憐れみを体験する、神様からの一方的な愛、大きな力に包まれることになるからだと思います。神様からの試練に耐え忍んだ人の中にヨブの存在があることを5章11節で告げています。

*ヨブ(ヨブ記1-2章 参照)

 ヨブには次々と試練や災いが襲いますが、ヨブはどのような状況に置かれようと神様への信仰から目を離さず、神様を畏れ敬う心を持ち続けました。その信仰深いヨブでさえ最後にはあまりの激しい試練、苦難に遭い、自分の生まれた日を呪ってしまいます。私達にも同じような苦しみや悲しみ、困難の生活があるかと思います。神様を信じたから大丈夫と信じても、更に深い悲しみ、苦しみ、痛みが降りかかり、神様がいないのではないかとの経験をしたことはないでしょうか。しかし13節で、誘惑に遭う時、誰も、「神に誘惑されている」と勘違いをしないように告げています。誘惑は人々の歩みを悪へと引きずり込みますが、それは神様からではありません。神様から出るものは良いものであり、天からの贈り物です。神様は定めた範囲以上の悪魔の働きを許可されません。

*救い主、イエス様

 イエス様が荒野で悪魔から誘惑を受けられた時、悪魔は、富や名誉、権力やこの世の全てのものを見せて、自分に従わせようとしました。

しかしイエス様は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』申命記6:13」と、悪魔を去らせました。悪魔は私達のスキを突き、私達の考えや思いの中に簡単に入り込むことが出来、私達が精神的に疲れていればいる程、私達を誘導し、洗脳していきます。 しかし天からの賜物は、私達に新しい命を与えて下さり、イエス様が私達の心の中に入って宿って下さることです。イエス様は私達一人一人を愛し、私達のために苦しまれ、私達の罪のために十字架で死なれました。私達がいろいろな試練に会う時には、大いに喜び(この上ない喜びと思い1:2)、神様の救いと慰めがあることを期待して待ち望みましょう。

2020年11月22日の説教要旨 申命記11:13-21・使徒言行録14:8-18

「喜びで満たす神」     加藤 秀久伝道師

*はじめに 

本日の申命記には、イスラエルの民が存続していくには神様の命じる戒め(=主に聞き従い、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして主に仕える)がありました。この戒めはイスラエルの民の、神様に対する忠誠を尽くす言葉にもなっていました。彼らは、時には神様に不平を言い、神様に背き、しくじり、自分達の存在意義も見失い、途方に暮れた時もありましたが、出エジプト後、 イスラエルの民は,荒れ野を40年間 さ迷いながらも、主に従い続けることによって神様からの守りと導きにより、一つの民族として存続し続けることが出来ました。それは、彼らが神様によって愛され、選ばれた民だからでした。

*カナンの地に住み続け、祝福を受ける道

モーセはカナンの地を目前にして、イスラエルの民に、カナンの地がエジプトと違ってどれほど美しく良い土地であるかを伝えています。そしてイスラエルの民が、このカナンという とても豊かな土地に住み続けるためには、主に誠実であり続けることがどれ程までに重要で、必要なことであるかを伝えています。さらに、民が心変わりして主を離れ、他の神々に仕え それにひれ伏すことのないように警告しています。 彼らの心に刻まなければならない言葉は、主の戒めを守り、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして主に仕えることでした(申命記6章)。そうすることでイスラエルの民は、神様からの沢山の祝福を受けて栄えることが出来たのでした。

*わたしたち

 私達の心の中は、主の戒めを守り、主に聞き従い、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして主を愛しているでしょうか。主の語られる言葉を心に留め、魂に刻み込み、信仰の糧としているでしょうか。どこかで罪の誘惑に負けて、主から目を離してしまっていないでしょうか。

*リストラでの出来事

パウロとバルナバが伝道旅行でリストラに行った時、生まれつき足が悪く一度も歩いたことがない男の人が座っていました。彼はパウロの話すのを聞いていたので、パウロは彼を見つめて、癒されるのにふさわしい、神様を信じる信仰があるのを見定め、彼に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言いました。するとその人は躍り上がって歩きだしました。 群衆はパウロの行為を見て、「神々が人間の姿をとって私達のところにお降りになった」と、いけにえを献げようとしたのです。

この地方の伝説によれば、昔ゼウス神とヘルメス神が変装し、お忍びで地上に来た時、神々をもてなす人はどこにもいませんでした。が、ある老夫婦が神々を家に入れて手厚くもてなしたところ、その後この地方を洪水が襲った時、老夫婦は神々の守りによって救われたという話です。

*パウロとバルナバの説教

パウロとバルナバは、いけにえを捧げようとした彼らに「私達もあなた方と同じ人間にすぎません。あなた方がこのような偶像を離れて生ける神に立ち帰るように、私達は福音を告げ知らせているのです」「この世界を創られた天地創造の神様こそが恵みを下さり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施してリストラの人々の心を喜びで満たして下さっているのです。」と語り、いけにえの行為をやめさせました。

*収穫感謝日

日本キリスト教団では、11月の第4日曜日を収穫感謝日として礼拝を守っています。私達に与えられている全ての恵みは、この世界を創られた神様によって与えられているものです。数え切れないほどの恵みを覚えて主に感謝する。それが収穫感謝日の礼拝です。そして又、私達が覚えるべき一番の恵みであり実りであるのは、イエス様を信じることによって、罪の生活の中から解放されたことだと思います。私達は日々、自由にされて生きることが赦されています。私たちのそばには、いつも喜びで満たして下さる神様がいます。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と言われる言葉の中に、私達は神様の本当の愛を見つけることができると思います。 私たちが主を 愛する時、私たちは主の愛を、主の恵みを見つけることができるのです。

2020年11月15日の説教要旨 申命記18:15-22・使徒言行録3:11-26

「救いの力」       加藤 秀久伝道師

*はじめに 

本日の旧約聖書 申命記は、「モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた」(1:1)とあるように、モーセによってなされた訣別説教(遺言)のかたちで記されています。本日の箇所には「あなたの神、主はあなたの同胞の中からわたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」と、神様がモーセのような預言者をこれからも立てて下さるとの約束が述べられ、イスラエルの民は預言者の言葉に聞き従うように命じられており、預言者に聞き従わない民にはその責任を追及すると警告されます。他方、預言者が自分勝手の預言や他の神々の名によって語るなら、その預言者は死ななければならないと告げています。

*聖霊が降る(使徒言行録2章)

 イエス様が天に昇られ、五旬節に弟子達が心を一つにして祈っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、座っていた家中に響きました。そして炎のような舌が現れ、一人一人の上にとどまりました。すると一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに他の国々の言葉で話し出しました。そうです!弟子達は聖霊を、身体の中に宿したのでした。ペトロはイエス様と一緒にいた時よりも大胆になり、身体の中から聖霊の力を感じながら、周りに来ていた人達に話し始めました。ペトロは聖霊の力により変わりました。人々も神様の力を感じたはずです。

*「キリストの名によって」癒される

本日の新約聖書では、イエス様の「御名」に力があることが記されています。3章の初めには、ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に、神殿に上った時の出来事が記されています。生まれながら足の不自由な人が、神殿の境内に入る人達に施しを乞うため、門のそばまで運ばれて来ました。そして境内に入ろうとするペトロ達に物乞いをしました。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て「わたしたちを見なさい」と言いました。その男は何かもらえると思い、二人を見つめているとペトロは彼に言いました。

わたしには金や銀はないが持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。そして右手を取って彼を立ち上がらせました。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして躍り上がって立ち歩き出しました。そして躍ったりしながら神様を賛美し、二人と一緒に境内に入っていきました(3:1-10)。彼は、身体の中に聖霊が宿ったのを感じて神様をたたえずにはいられなかったのだと思います。民衆は皆驚き、足が治った人が ペテロとヨハネに付きまとって神様を称えているので一斉に集まって来ました。

*ペトロの説教

ペトロは「なぜこのことに驚くのですか。私達がまるで自分の力や信心によってこの人を歩かせたかのように、私達を見つめるのですか。」と言い、この癒しは、イスラエルの民が殺した「イエス・キリストの『み名』を信じる信仰」による癒しであったと証ししたのです。ペトロはさらに、かつてモーセが語った言葉「神は、わたしのような預言者をあなた方の為に立てられる。彼が語りかけることには何でも聞き従え。耳を傾けない者は皆、滅ぼし絶やされる」(3:22-23)と申命記を引用して、イエス・キリストこそ、あなた達を悪から離れさせ、祝福にあずからせるため神様が遣わして下さった方(3:26)であると証ししたのです。

*わたしたち

現代を生きる私達は、毎日、神様の力、聖霊の力を感じながら生活しているでしょうか。日々聖霊に満たされ、聖霊が私達をどのように導き、何を語ろうとしているのか敏感でなければならないと思います。

足の不自由な人が躍りながら神様を賛美したように、私達の生活の中で神様に心を震わせて、神様に感謝を捧げ、神様を称えているでしょうか。又、イエス様の御名を信じて「本当の癒し」が起こるために祈っているでしょうか。イエス様の御名には力があります。 私達の心の中で神様の力、聖霊の力を感じる時、癒された人のように、心の中から溢れるばかりの喜びが沸き起こり、神様に感謝せずにはいられないでしょう。イエス様は私達の助けを求める声を待っておられます。

2020年9月13日の説教要旨 申命記24:14-15・マタイ福音書20:1-16

「全ての人に」     加藤 秀久 伝道師

*はじめに     

本日の申命記には、貧しい人を働かせる場合の規定が記されています。彼らへの賃金は、(同胞イスラエル人であっても在留異国人であっても)日没前に支払いなさいと記されています。彼らはその日に得た収入でその日の食べ物を買い、生活する必要があったからです。神様はすべての人に目をとめ 人々が日ごとの糧(かて)を得られるように守って下さいました。

*ぶどう園の労働者の賃金

本日のマタイ福音書には、ぶどう園の主人に雇われて働いた人達の賃金についての譬え話が記されています。ぶどう園の主人は労働者を雇うために、夜明けに出かけて行き、一日一デナリオンの約束で彼らをぶどう園に送りました。その後、9時、12時、3時、5時と同じように広場に行き、同じ約束で労働者を雇い、ぶどう園に送りました。やがて日が暮れて労働者達がその日の賃金を受け取る時間になると、ぶどう園の主人は、最後に働きに来た人から順に、一デナリオンずつ、同じ金額を渡しました。

*労働者の不平

最初に働きに来た人達は、後に来た人達より多く賃金を貰えると思っていたので、ぶどう園の主人に不平を言いました。この世の常識であれば、朝早くから来て働いていた人は、あとからの人達よりも多く貰えるはずと考えるのは当たり前だと思います。しかしこの譬え話の始めには、「天の国は次のようにたとえられる」と書いてあり、イエス様は弟子達に、「天の国」とは、どのようなものかを教えようとしています。

*ぶどう園の主人

ぶどう園の主人は一日に何回も広場へ出かけて働きたい人達を見つけては声をかけています。ぶどう園の主人が最後に広場を訪れた時にも、まだ人々が立っていました。『なぜ、一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言いました。主人は彼らに、『あなた達もぶどう園に行きなさい』と伝えました。

 主人は、日が暮れて働ける時間まであといくらもない5時にも、仕事を与えるために広場に出かけています。普通に考えればあり得ないことです。ここに、ぶどう園の主人の思いやる憐れみの心、優しさを見ます。

*たとえ話の意味

このたとえ話が、「私達の救い」についてだとしたら、どのような意味をもつでしょうか。父なる神様が何度も何度も私達を救いに導き入れようとしている姿が見えてくるのではないでしょうか。神様は一人でも多くの人々を、罪が存在する世界から導き出して、神の国の一員になれるように救いの手を差し出しているのです。イエス様は、何度も何度も広場へ足を運び、福音(神様の訪れ)を宣べ伝えています。

*夜明け・9時、12時、3時、5時

人々の雇われる時刻が様々であるということは、私達の救われる時期、救いに導かれる時は神様と出会った時期であり、神様の呼びかけに答えた時であるということができると思います。朝早く雇われた人とは幼い時か、若い時にイエス様に出会い、イエス様を救い主として受け入れた人ではないでしょうか。そして5時に雇われた人は、様々な事情により年をとってから、イエス様に出会い、イエス様を自らの救い主として受け入れた人を意味しているように思えます。

*「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(ヨエル書3:5)

神様は、天地創造の始めから人を造り、人に息を吹きかけ、人を生きる者とされました。神様は人に主(神様・イエス様)を知る霊を注いでいるのです。ですから私達人間は、主を求めるならば、主に出会うことができます。神様はすでに私達を招いて下さり、全ての人に「私のもとに来なさい」と呼びかけて待ち続けて下さっています。その招きに応えるかどうか、神様を受け入れる選択をするのは、私です。又、イエス様を受け入れた人であっても、私達の心が神様に向いていなければ、日々神様の霊によって新しくされていなければ、私達は神様の恵みを伝えるものとして働くことはできません。今週も、神様が共におられ、すべてのことにおいて、神様が「私の神」であられますようにお祈りを致します。

7月8日の説教要旨 「神の訪れてくださる時」 平賀真理子牧師

申命記32:39-43 ルカ福音書19:28-44

はじめに

イエス様と弟子達一群が、エリコの町からエルサレムに入っていく、そのことが記されているのが、今日の新約聖書の箇所です。

 

「ムナのたとえ」を踏まえた上での「エルサレム入城」

まず、最初に、直前の段落の「ムナのたとえ」をイエス様が語られてから、エルサレムに向かって出発したと、このルカ福音書は前置きしています。イエス様がお建てになる「神の国」は、ユダヤの民が期待したものとは、全く別次元のものであるということを「ムナのたとえ」を想起させつつ、主のエルサレム入城の話が進んでいきます。「ムナのたとえ」で意味されていることは、「神の国」とは、イエス様を憐れみ深い救い主として信じる者達は、主の僕としてその恵みを増やすように働く国であるし、一方、イエス様を救い主として全く受け入れる気のない者は、その恵みから完全に締め出される国であるということです。イエス様を救い主とする信仰があるか否かで分けられる国なのです。例え話にあるように、そこでは、主人が一度不在となり、僕達が恵みを増やす時間が必要です。ここで、イエス様がこの世で人間として生きて歩む「恵みの時」が近々終わることが暗示されています。人々の罪を贖うために、主は命を捨てる定めを全うせねばなりませんでした。

 

ゼカリヤ書の預言どおりのことが実現した!

30節から35節までは、ゼカリヤ書にある「救い主についての預言」が、「エルサレム入城」の時に、本当に実現したということを意味しています。子ろばの手配に選ばれた二人の弟子は、当時は、はっきりと意味がわかって行動したわけではないでしょう。イエス様に命じられたままに行動したら、そのとおりのことが次々と起こり、主の死後に「あれは預言の実現だ!」と思い至り、語り継いだのだと思います。人間には理解できないことも、神の御子であるイエス様には、神様の御計画として、御自分が「子ろばに乗る救い主」としてエルサレムに入っていくとわかっておられ、粛々と実行なさったのだと思われます。

 

 ルカ福音書における「エルサレム入城」の特徴

イエス様が救い主としてエルサレムに入られたことを、教会では「エルサレム入城」と呼び、4つの福音書全てに記されているように、重要視しています。その中でも、ルカ福音書における「エルサレム入城」では、他の福音書の記述とは異なる特徴が2つあります。一つは「弟子達の歓喜と反対派の反感が対比して書かれていること」であり、もう一つは、「結局はイエス様を受け入れなかったエルサレムが近い将来崩壊することをイエス様が預言なさっていること」です。

前者では、他の福音書とは違って、エルサレム入城について、歓喜の声・賛美の声を上げるのは「弟子の群れ」(37節)です。それを止めさせるように、イエス様に要求したのがファリサイ派の人で、彼らは、イエス様が現れる前には民衆の尊敬を受けていた宗教指導者達でした。イエス様に反感を持つ彼らは、エルサレム入城も面白くなかったでしょうし、エルサレムの人々が、主の弟子達の歓喜に影響され、イエス様への人気が燃え上がることは避けたいと思っていたのでしょう。しかし、イエス様は、「エルサレム入城」は神様の御計画の実現だから、天地全体の喜びであり、弟子達を黙らせても、石が叫び出すと表現されたのです。

後者では、ファリサイ派をはじめとする宗教指導者達と、彼らに扇動された民衆とによって、イエス様が救い主として受け入れられなかったことが原因で、エルサレムの町とその住民が滅ぼされるという事態を、イエス様は先取りしてご覧になっていたことが示されています(約40年後、エルサレムはローマ帝国により、預言どおりに徹底的に破壊されました。)。エルサレム崩壊の様子が、大変悲惨だとイエス様は予めおわかりになり、泣き叫ぶほどに悲しまれたのです。

 

「神の訪れてくださる時」をわきまえる

破滅を逃れるには「神の訪れてくださる時をわきまえる」必要があると記されています(44節)。これは時空を超える神様の法則なので、私達にも該当します。信仰者には「神の訪れてくださる時」があります。過去には「洗礼を受けたい思いが与えられた時」、現在では「礼拝を献げる時」です。その恵みを理解して感謝する信仰者となれるよう、祈りましょう。

6月3日の説教要旨 「すべてを捨てて主に従う」 平賀真理子 牧師

申命記5:5b-21 ルカ福音書18:18-34

はじめに

今日の新約聖書箇所の前半の段落は「金持ちの議員の話」として、教会の中ではよく知られた話の一つで、3つの共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ福音書)すべてに書かれています。

 

「善い」という言葉を聞き逃さなかったイエス様

ユダヤ教指導者達が大事だと教えてきた律法順守に忠実だと自負する「金持ちの議員」が、イエス様に向かって、「永遠の命を受け継ぐ方法」を聞いたのです。話の内容に入る前に、イエス様は、御自分への「善い先生」という呼び掛けを聞き逃しませんでした。「善い」という修飾語は、当時は神様にしか使わない言葉だったそうです。これを聞き逃すことは、イエス様が御自分を神様と同列に並べることを許したとして、反対派にイエス様を攻撃させる一因を作ることになったのではないかと思われます。イエス様は質問者の悪い心を一掃なさいました。

 

 律法順守してきた「金持ちの議員」に欠けていたこと

更に、この男の心を見透し、イエス様は彼が律法の大切さを知っているはずだと指摘なさいました。この男の律法順守の姿勢を決して軽んじてはおられませんが、その行動の根本にある心を問題視なさっています。神の民として新しく必要とされる行動をイエス様は指示なさいました。持っている物を売り払い、貧しい人々に分け与えることでした。この世でいただいたものを神に感謝し、それを隣人に分け与える謙虚な心があるかどうか、また、それを命じた御言葉に従えるかどうか、それをイエス様は問われたのです。イエス様は、彼に、そのような心になったら、「わたしに従いなさい」、つまり、「わたしの弟子になりなさい」と「金持ちの議員」に呼び掛けてくださいました。しかし、この「金持ちの議員」はイエス様のこの御言葉に従うどころか、立ち去り(マタイ19:22、マルコ10:22)、救いから遠ざかりました。

 

自分の物やこの世への未練を捨てて主に従う弟子達への報い

このことにより、イエス様は「金持ちが神の国に入ることは難しい」とおっしゃっいました。この世で様々に豊かな人間は、持っている物を捨ててイエス様に従うのは難しいということです。そこで、弟子のペトロが、自分達はそれを行ったと主張し、これに対し、イエス様は、この世での充分な報いと、後の世での永遠の命の授与を約束なさいました。

 

「主の弟子」である私達が、主に従った後に受けた報い

当時の弟子達だけでなく、後の時代の弟子としての私達の多くが、信仰生活に入る前に、自分にとってこの世への未練を生む物を断ち切った経験があると思います。特に、私達が生きる、今の日本では、周りの人と同じであること(「同調圧力」)が幅を利かせています。キリスト教信仰に入ることは、この同調圧力を打破することです。家族や友人から「自分達と考えや行動が同じでない者とは絶縁する」と反対を受けた方も多くおられるでしょう。しかし、それでも、私達は信仰を与えられました。人間的な見方をすれば、実に勇気のいる決断でしたが、イエス様はこの決断を祝して御自分に従う者の気持ちに寄り添ってくださり、この世でも、後の世でも大きな報いを保証してくださっているわけです。また、神様側の視点で捉えるならば、恐らく、神様は信仰者を「神の民」として選んでくださり、聖霊によって「信仰」を与えられたのでしょう。その結果、私達信仰者は今、どうでしょうか。この世だけしか知らなかった時に未練を感じていた物の価値はなくなり、信仰に入った後に神様から与えられたものによって、真の平安が与えられていると実感している方が多いと確信します。この世において「神の民」とされている喜びを知った者こそ、永遠の命を主から授かる喜びもわかるのです。

 

 12弟子さえ「主の死と復活の予告」を理解できないようにされた!

 今日の新約聖書箇所の後半の段落は、イエス様御自身の「死と復活」についての3度目の予告です。34節の説明が特徴的です。「救い主の死と復活」という神様にとって最も重要な御計画を、弟子と言えども、人間はすぐには理解できないように、神様がなさったのです。神様の御心を求めるのは大切ですが、それを人間の知力や心で、すぐには理解できないこともありえます。そんな時も、信仰者の私達は、この世への未練をすべてを捨てて主に従う決意を持ち続けるように求められているのです。

9月11日の説教要旨 「神の民として生きる」 牧師 佐藤 義子

申命記 10:12-14・マタイ福音書 6:6-10

 はじめに

神様から信仰を与えられてバプテスマを受けた私達は「クリスチャン」又は「キリスト者」と呼ばれます。それは同時に、「神の民」・「神の国の民とされた者」と言うことができます。なぜなら、私達は見える世界では、「日本」という国に属して生きていますが、見えない世界では「神の国」に属して生きているからです。見える世界では、日本の国土の中で、国の守るべき法律のもとで日本人として生きていますが、見えない世界では、神様の支配のもとで、「神の国」のルールに従い、(従うことを目標として)生きているからです。

今朝は「神の民」として生きることについてご一緒に考えたいと思います。

 「個人」でなく「民」として生きる

旧約聖書の歴史は、神様とイスラエルの民との契約関係の中で歩んだ、人々の歴史です。「神の民」といえば、神様から選ばれた民(選民)としてのイスラエル民族(ユダヤ人)のことです。神様の救いの御計画は、預言者達の言葉通り、救い主イエス・キリストの誕生によって実現しました。

ところが、イスラエルの人々は一部の人を除いて、イエス様をメシア(救い主)として受け入れませんでした。彼らが待望する「救い主」の期待像と、(富も地位も名誉もない)現実のイエス様が、大きく違っていたからです。

その為、イエス様を受け入れないイスラエル民族(ユダヤ人)に代わり、「神の民」は、新約聖書の時代からイエス様を救い主と信じる「キリスト教徒」をさします(ヘブル書・黙示録)。それゆえ私達キリスト教徒は、個人として信仰生活を過ごすのではなく、「神の民」として歩んでいるのです。

 「神の民」としての教会

「神の民」は、イエス・キリストを「私の救い主」と告白する信仰告白共同体であり、「教会」です。「教会」とは建物を意味するのではなく、イエス様を頭(かしら)とした、イエス様の体を構成している信仰者の群れです。私達が洗礼を受ける時に告白する「信仰告白」は、初代教会以来2000年以上、今日まで告白し続けてきた「教会の信仰告白」です。そして私達もその同じ信仰告白を自分自身の信仰の告白として告白し、キリストの体の一部に組み込まれています。

「天におられる私達の父よ、」

今朝の聖書は、イエス様が教えて下さった「主の祈り」の前半です。日本人の多くは無宗教だと言いながら「祈っています」と良く言います。その場合、誰に向かって祈るのか、その対象は漠然としています。

それに対して私達「神の民」が祈る対象は明確です。対象は、いつも、常に、天におられる私達の父である神様です。天とは私達が手を伸ばしても決して届かない、私達をはるかに越えた高い高い所です。この天におられるお方が、私達の住む世界を創り、私達人間を創られました。

私達はこのお方によって生き、私達が迎える死も、このお方の御計画の中に置かれています。イエス様は私達に、このお方をイエス様と同じように「父よ」と呼ぶことを許されました。何と大きな恵み!でしょうか。

 「御名が崇められますように」

「み名」は、神様のお名前、「崇める」は、「聖とする・聖別する」ことです。聖別するとは、通俗的、日常的なものから引き離す、別扱いにする、区別することです。神様と人間とを混同しない。神様のお名前が神様として取り扱われますように、という祈りです。旧約聖書の中で、人間と神様との関係を「陶器師と陶器」の関係でたとえています。

創った方と、造られたものとの逆転は、決してあり得ません。

 「御国が来ますように」

御国とは目に見えない神の国です。神の国は神様が支配なさるので、その支配に人が服従するところに神の国が存在します。神様の支配は、人間が喜んで従うように求められます。神様に創られた人間は造られたものらしく神様に従う時に初めて幸せになることが約束されています。

今朝の申命記に、「イスラエルよ。あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただあなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。」とありました。

私達は、イスラエルから引き継いだ「神の民」の一員としてふさわしく、神様を畏れつつ、神様に従い、神様を愛し、神様の戒めと掟を守り、神様が下さる幸いへの道を 共に歩んでいきたいと思います。

しかし御国は、毎日、私達のところに来なければなりません。今日ここに神様の支配が行なわれているなら、ここが神の国となります。

私達は毎日、御国がくるように、私は勿論、すべての人が、神様の支配を受け入れるように祈っていくことを、この祈りは教えています。

 「御心が行なわれますように。天におけるように地の上にも。」

第一の祈り、神様の「み名」をすべての人間が崇めるようになれば、第二の祈り、神様の支配は受け入れられ、神様が完全に支配される所では、第三の祈り、神様の御心が行なわれることになるでしょう。「神様の御心が行なわれるように」とは、「神様がお望みになるようになりますように」ということです。私達人間は、罪人です。しかし「神の民」とされた私達は、神様の導きにより罪の世界から引き上げられ、救いの恵みにあずかっています。私達は、神様への感謝として、少しでも神様の愛に報いたいと願い、神様の御心を行う人間になりたいと願っています。それゆえ、この祈りは、「神様が望まれるように私も又、生きることが出来ますように」という祈りにつながります。

神様が望まれることの第一は、罪の支配のもとで苦しんでいる人々を救うことですから、人々が救いの恵みにあずかるために、少しでも自分を用いて下さい、との祈りが、この祈りから生まれてくるように思います。

 御心がわからず悩む時に

私達クリスチャンは、神様を「父」と呼び、いつでもイエス様のお名前によって祈ることが許されている「神の民」の一員ですが、しかし、信仰生活を送る中で、時々、神様が自分に何を求めておられるのか、又、この出来事を通して、神様は私に何を言おうとされているのかわからないことがあります。最後に、S牧師が書いておられたことをご紹介します。

 御心は成る。私達はそれに従う。

S先生が昔アメリカに留学していた時、大学食堂のアルバイト仲間にダン君がいました。彼は誠実な学生で、秋には神学校への入学も決まっていました。夏休みに入った翌日、彼はクリスチャンキャンプで奉仕をするため出かけましたが、途中、道路上の事故で即死してしまいました。

S先生はその時、ダン君の死の衝撃にもまして、キリスト者として「神の御心は何か」という問題が自分に突き付けられたと言います。ダン君は信仰の人で、伝道者になる道も与えられ、その夏を主の為、子供達の為にささげていました。S先生は、「御心は何か」と考える中で「人の心には多くの計らいがある。しかし主のみ旨のみが実現する」(箴言19:21)との御言葉から、「主の御心は必ず成る。」「私達は主の御心に忠実に従わなければならない」との結論の中で、ダン君の死は御心であったことになる。では何の為の御心だったのか?それは、ダン君の死を通して、みんなが、「御心を」「生きる意味を」「死の意味を」深く考えさせられたことではないか。ダン君は自分の死を予期しておらず、知らないまま、主の御心を行わされた。知らないままでも、主は御心を行って下さる。だから御心を知らなければならないという思いの中には人間の傲慢もあり得るのではないかと思ったS先生は、摂理の神様の最善の御計画の中で、主は、自分を御心に従うように位置付けて下さるのではないか、と考えた時、S先生の心に不思議な平安と感謝が与えられたそうです。

  「神の民として生きる」

私達は、自分達の理解をはるかに越えた大きな恵みの中に置かれています。毎週の礼拝で、創り主である父なる神様を称え、懺悔の祈りと主の祈りをささげ、2000年来の使徒信条を自分の信仰として告白しています。それはすなわち、そう祈り、そう告白する者として生きている、(そのように生きようと日々、心がけて歩んでいます)との表明です。

「神の民」として生きる私達は、見える世界での実際の生きる姿勢を御言葉によって軌道修正し、新しく始まる一週間が、礼拝でささげた祈りや信仰告白を反映する誠実な歩みとなりますように、と祈ります。