2023年6月18日の説教要旨 申命記8:11-20・使徒言行録4:5-12

御名の 権威 」     加藤 秀久牧師

*はじめに

イエス様の弟子たちは、ペンテコステの出来事を通して、彼らの行動を大胆にさせる「聖なる霊」により、力強くイエス様の復活の出来事を話すようになりました。その一方で、そのことを良く思わない人達がいました。それは、祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人達です。祭司は神殿で奉仕する人。神殿守衛長は祭司の業務を監督し、神殿を統率する人で大祭司に次ぐ権力を持っていた人。サドカイ派の人々は、貴族祭司と上流階級の信徒達です。彼らは、聖霊や復活の出来事を信じる人達に反対していました。

*彼らのいらだち

 ペトロとヨハネが民衆にイエス様の復活を宣べ伝えているので、よく思わない彼らはいらだち、近づいてきて二人を捕え、既に日暮れだった為、翌日まで牢に入れてしまいました(4:3)。彼らのいらだちの感情はよほどのものだったと考えられます。なぜならこの言葉は、新約聖書全体を通しても2回だけしか使われていないからです。

 実は私達もいらだつことがあります。相手が自分のして欲しくない言動をして、注意や忠告を聞いてもらえない時、疲れて、我慢の限界が来ると、感情を表に出したり、腹を立て、その場を去るなどすることがあります。

*ペトロとヨハネの行動

彼らをいらだたせたペトロやヨハネの行動は、神様の霊を受けた時から、その霊の力を止めることができず、これまでの自分達の体験を越えた、この素晴らしい出来事を他の人にも伝えたい、教えたいと思い、イエス様のことを話さずにはいられない、イエス様の復活の出来事を聞いてほしいという気持が現れたと思います。ところが、特にペトロとヨハネに近づいてきた祭司逹からすると、この二人の言動は大変迷惑な行為で目障りな存在で、自分達の方が権威者だと思っていますから、堪忍袋の緒が切れたと言えます。けれども他方では、二人の語った言葉を聞いて信じた人の数は、男性が五千人にもなったと聖書は伝えています。

何の権威で、だれの名によって、それをしたのか」(7節) 

翌日、二人は最高法院(議会)で真ん中に立たされて、「何の権威で、だれの名によって・・」と尋問を受けました。ペトロは聖霊に満たされて、大胆に弁明を始めます。 「今、自分が訴えられているのは、足の不自由な人をいやしたこと(3章1節~)と、その人が何によっていやされたか、ということなら民全体の人達も知って欲しい」と前置きして、「あなた方が十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものだ(10節)」と語り、更に、「私達が救われるべき名前は他にはない(12節)」と力強く語りました。そしてイエス様こそ「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石である(詩編118:22)」=イエス様が軽蔑され人々から捨てられたけれども、神様は家(神様と人とが永遠に共に住む家)を建てるためになくてならない「かなめの石」とされたと語りました。イエス様の十字架の死と復活の出来事は人の目には不思議な出来事ですが、神様の救いの計画においてはなくてはならない重要な出来事だったのです。

あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい」(申8:11)

 本日の申命記では、神様がイスラエルの民に、カナンの地の豊かな生活に満足して高慢になり「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えないように警告しています。神様は、今に至るまでの生活の様々な場面を通して自らを現わしておられ、富を築く力を与えたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たした結果の今の生活ですから、神様を忘れず、へりくだり、神様に従っていく心を持ち続けるように促しています。

 わたしたちが神様を信じ、信頼し、へりくだり、神様のみ名の権威に従順になる場所は、私たちの心の中です。私たちはそこで神様と会話し、神様のご計画を知ることができるのです。それは私たちの力となり、ペトロに与えられた大胆さを、私たちも同じように持つことができて、神様を知る機会を与えることもできることを知りましょう。今週一週間、神様の良き導きがありますようにお祈りを致します。

2023年5月7日の説教要旨 申命記7:6-11・ガラテヤ3:23-4:7

かけがえのない民」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

ガラテヤ書2章19節でパウロは、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」と記しています。

「律法(ト-ラ-)」は、神様が人間に与えた唯一の基準と規範であり、ユダヤ教では「律法」(旧約聖書の最初のモーセ五書(創世記~申命記)全体を意味するようになった)を守ることが神様に受け入れられることであり、救われる前提でした。ですから人々は律法に縛られて、自由になれない生き方になっていたようです。そのような人々にパウロは、「わたしは、律法に対しては律法によって死んだ」と言いました。

*律法によって死ぬ

それまで長い間、律法を守ること、律法に従うという「行為」が、神様によって「義とされる=ただしいとされる」と考えられてきましたが、パウロは「人は律法の実行ではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした(2:16)」と語り、そのことを可能にしたのは「イエス・キリストの十字架の死」であることを語っています。

旧約の時代には、「罪の赦し」を願う時、動物を屠って祭壇の側面にその血を注ぎました。今や神様が御子イエス・キリストを送って下さったことにより、罪のないイエス様の「十字架による血」によって全人類の罪が赦され、贖(あがな)われました。この出来事により私達はイエス・キリストの十字架を信じる信仰によってバプテスマを受けて救われるのです。

律法の実行によって救われる考えから完全に解放され自由にされました。

*キリストを着る

この福音を信じる信仰によって「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです(3:26~27)」と、パウロは語ります。原語では「あなたがたは皆」の前に「誰一人例外なく」という言葉が記されています。誰一人として例外なくイエス様を信じる信仰によって洗礼を受けた者は、イエス様に結ばれて神様の子供とされたことが告げられています。神様の子供とされることは、イエス様と同じ「相続人」(3:29と4:7)とされることです。「キリストを着る」という表現から、イエス様のたとえ話(ルカ福音書15章)の「放蕩息子」を思い起します。父のもとに帰って来た放蕩息子に、父親は「急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」と言いました。ここで、父親が帰った息子に対して自分の子供としての資格(身分)を回復している姿を見ます。私達はまだ神様も聖書の教えも知らなかった時、悪の存在するこの世界で罪の奴隷とされて生きていました。しかし私達には帰るべき父の家があることを知り、帰った時、このたとえのように父である神様は私達を父の子として迎えて下さり、私達にイエス・キリストを着せて下さいました。「神の子とされたことは、御子の霊を私達の心に送って下さった事実から分かります(4:6)。」「あなたはもはや(罪の)奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです(4:7)。」

*神の宝の民

あなたがたは、もしキリストのものだとするなら・・(信仰によって)アブラハムの子孫であり、約束による相続人です(3:29)」。「あなたは、主の聖なる民である。あなたの神は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなた達を選ばれたのは、あなた達が他のどの民よりも数が多かったからではない。あなた達は他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、先祖に誓われた誓いを守られたゆえに・・奴隷の家から救い出されたのである(申命記7:6~)」。神様を信じる私達は、神様は信頼出来て愛に満ち溢れたお方であると知っています。私達にはいつも、神様から与えられた約束されたものがあり、そこに希望と願いを持って御前に出て祈ることが出来、共に集まれる場所があることを感謝しています。

2022年9月25日の説教要旨 申命記15:1-11・Ⅱコリント書9:6-15

「従順による解放」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

 本日の旧約聖書15章の小見出しには「負債の免除」とあり、1節の「七年目ごとに負債を免除しなさい。」と言う言葉から始められています。

この負債の免除というゆるしの起源は、出エジプト記23章(安息年)と、レビ記25章(安息の年とヨベルの年)にあります。七年目ごとに農地を休ませ休閑地とすることで、土地が神様の所有であることを覚えたことにあり、特にレビ記25章では、6年間に農地をめぐって生じた負債を7年目に、その年の「仮庵の祭り」の時に免除したことが記されています。又、七を7倍にした翌年の50年目は「聖なるヨベルの年(25:12)」として、国中に角笛を吹き鳴らして、全住民に解放の宣言がなされ、人々は先祖伝来の所有地と家族のもとに帰り、債務奴隷も解放されました。

*負債免除の目的

申命記に記される負債免除の目的は、「あなたの神、主は、・・あなたに与える土地において必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる(4節)」という言葉に続き、「あなたはあなたの神、主の御声に必ず聞き従い、今日あなたに命じるこの戒め(5章の十戒)をすべて忠実に守りなさい。」(5節)とあります。

イスラエルの民が十戒を守り、神様を第一にして歩むならば、「あなたの神、主はあなたを祝福されるから、多くの国民に貸すようになるが、借りることはないであろう。(6節)」さらに、「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、 彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」と(7-8節)とあります。

*今を生きる私達

 今、もし私達が「貧しい人に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」と命じられたら、私達はどう応えるでしょうか。多くの場合、自分の生活で精一杯で余裕がないと答えるかもしれません。

ここで神様が私達に教えようとしていることは、神様がすべての人を造られたように、すべての人が同じ立場にあり、子供・大人・男性・女性も関係なく、年齢にも身体の状態にも関係なく、困っている人・助けを必要としている人達に対して、自分の家族に接するようにその人に寄り添うこと、相手の痛みを自分の痛みのように感じる気持が必要であることを伝えようとしているのではないでしょうか。人を思いやる気持が、神様に自由にされ、解放された者となり、神様を愛し、人を愛する者へと変えられていくのだと思います。

*献金

 本日のコリント書では、エルサレム教会の貧しい信徒たちを援助するための献金について語られています。この贈り物をささげることは他の教会の人達にも力や勇気を与え、神様に献げものをすることの大切さや喜びを知ることとなります。贈り物の献金を用意するにあたってパウロは次のように教えます。「惜しんでわずかしか種をまかない者は、借り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

*献げることの祝福から生まれるもの

私達が神様との関係を持つことが深くなるにつれて、ささげものを通して神様に感謝する大きさを気持として表わすことができます。神様にささげられた献金や贈り物は、神様から必要な人へと祝福として届けられ、祝福を受けた人は、神様を讃美する(神様を称える)者となり、「喜び」の献げものという形で表わされていきます。これは不思議なもので、私達が献げもの(自分自身・時間・祈ること・讃美すること・ただ神様の前に静まること・・)を多く持てば持つほど、神様は色々な形を通して私達にも祝福や恵みが廻っていくように働かれます。そして「奉仕の業の結果として、彼ら(受ける側)は、あなた方がキリストの福音を従順に公言していること、自分達や他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえ、あなた方の為に祈る」のです。

2022年1月23日の説教要旨 申命記30:11-15・Ⅰペトロ1:3-12

「主イエスを見よ」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

 本日の新約聖書の箇所である3節には、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」と、神様を信じた者達が、真の神様がおられることを知り、神様の素晴らしさを体験して深く心を動かされ、感謝の感情が、神様をほめたたえる形で語られています。

ペトロにとって大切なことは、神様がイエス様の父であることでした。

 イエス様は神様の御子としてこの地上に生まれ、人のかたちになることによって(人間の姿で現れ・・フィリピ2:7)、父なる神様の思い・考えを人々に伝えたこと、その出来事が、実際にペトロの目の前で起きて、今もイエス様が「霊」として人々の内に生きていることを教えようとしています。

*憐れみ豊かな神

 3節では、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」と、あります。この「神様の憐れみ」について、エフェソ書2章にこう記されています。「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし―あなた方の救われたのは恵みによるのです―」(4節~)。

 私達は、不正や不法などが存在する正しくない世界に住み、罪のために死んでいました。その私達をイエス様へと向かわせ、イエス様と共に生きるように私達を救いへと導いたのは神様であり、神様の恵みによります。神様の憐れみと恵みにより、私達は、死者の中から復活されたイエス様の出来事を通して、生き生きとした希望が与えられているのです。

*朽ちず、汚れず、しぼまない財産

さらに「また、あなた方のために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(4節)とあります。私達が天に蓄えられている神様の財産を持つことは、すでに私達の心に植えられ、備え付けられています。その財産とは、私達の地上の生活の中で体験する出来事、例えば予期せぬ事件や突然に起こる大災害、貧困による生活苦や、会社からの突然の解雇など・・によって失われ、私達の生活をおびやかすような「物」の財産とは違って、神様から来るものは、輝かしく素晴らしい「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」です。

私達はいつ、「神様の財産」を受け継ぐことができるのでしょうか。

*準備されている救い

聖書は、「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」(5節)と、財産を受け継ぐのは「終わりの時」であることを教えています。これらのことは信仰によって、守られているのです。信仰を持つということは、簡単なようで、実に意味のあるものです。時には、難しい選択を強いられたり、悩ましく、どこかで挫折するような、どこかで背を向けたくなるような時もあるかと思います。けれども・・

*信仰は、試練によって本物と証明される

7節には、信仰は「その試練によって本物と証明される」とあり、8節には「あなたがたは、・・言葉では言い尽くせない喜びに満ちあふれています。」とあります。私達にはイエス様を信じて受け入れた時から心の中に神様の霊が宿っています。このことにより私達は、イエス様を見たことがないのに信じて愛することが出来るのです。どんなことがあろうとも、どんなところを歩もうとも、イエス様に立ち帰ることが出来、それゆえ私達は、言葉では言い尽くせない素晴らしい感謝の気持を神様に対して持ち、喜びに満ちあふれることが出来るのです。

*申命記30:14

 神様は、イスラエルの民(今は、わたしたち)に神様の言葉、聖書の言葉、救いに至らせる言葉を与え、人々の光、力になることを約束しています。そして、神様の御声に聴き従う「祝福の道」と、聞き従わない「呪いの道」を置かれました。神様の戒めは難しすぎるものではないと言われています。なぜなら「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」からです。

礼拝開始19周年記念感謝礼拝 2021年12月5日の説教要旨 申命記6:4-9・Ⅰコリントの信徒への手紙15:1-11

「告げ知らされた福音」     協力牧師 佐藤 義子

*はじめに

本日、礼拝開始19周年の感謝礼拝をお捧げすることができることを心から神様に感謝いたします。本日の申命記6章4-5は「聞け(シェマー)」から始まり、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」と続きます。この御言葉は、私の教会学校時代の暗証聖句でもありました。申命記では、これらの言葉を寝ても覚めても心に留めて、子供達にも繰り返し教えるように命じています。今でもユダヤ教徒の方達は、毎日、朝晩2回、このシェマーを唱える他に、18の「祈祷文」に沿って、朝昼夜の3回、立って祈っておられるとのことです。

クリスチャンにとって「御言葉は食べ物、祈りは呼吸」と言われます。多忙な日々の中にあっても、一日の初めと終りに(あるいは毎日のどこかで)、わずかな時間でも、神様と共に過ごす大切な時を持てたらと思います。

*告げ知らされた福音

本日の、Ⅰコリント書15章1節から5節までをもう一度お読みいたします。 「兄弟達、私があなた方に告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなた方が受け入れ、生活の拠り所としている福音にほかなりません。どんな言葉で私が福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなた方はこの福音によって救われます。さもないと、あなた方が信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。

 最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り私達の罪の為に死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後12人に現れたことです。」

 パウロが最も大切なこととして伝えたことは、「イエス様が、私達の罪の為に十字架にかかり、死んで葬られて、三日目に復活された」ことでした。これまで仙台南伝道所で伝えてきた福音も、同じです。

イエス様は、「私達の罪の為に死んで下さった」ということは、本来なら、<自分が今迄、神様を神様とせず、自分を神として歩んできた罪の結果として私達は裁かれ、滅ぼされる定めにあった>ことを知り、にもかかわらず、私達がイエス様を信じることによって罪が赦されて、罪の裁きから解放されたことを意味しています。私達はこのことを信じて、受け入れ、生活の拠り所としています。

誰でも、どのような人生を歩いてこられた方でも自分自身と向き合い自分の人生を振り返る時、自分の罪に気付かされます。その時に十字架による「罪の赦し」がすでに自分に対して用意されていることを私達は聞いて、信じた時(信仰が与えられた時)、私達は救われます。

*古い人と新しい人

 シュネーダー宣教師(元東北学院長)は、「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」との御言葉を引用して、それ迄の「古い人」と「新しく生れた新しい人」との変化を語っています。「古い人」は肉体に必要な物を第一とするが、「新しい人」は神の国と精神上の宝を求めていくこと、試練に会った時も、神の子としての、高尚なる生涯に上がる訓練として耐え忍ぶことが出来ること、「死」も、天国にいます神様と信仰者達との交わりの中に入る幸せなことであり、「世の旅 果てなば、死の河波をも、恐れず越えゆか(讃美歌294)」と歌いつつ世を去ると語っています。

*祈りの共有

私達の伝道所につながるお一人お一人の歩みが、信仰者(新しくされた人)として、良き証し人として、毎日イエス様と共に歩んでいきましょう。愛する家族も教会に導かれるように、愛する友人知人達の名前を挙げて救いの為に祈りましょう。求道者の方々がバプテスマに導かれるように、又、加藤伝道師一家の伝道牧会の働きが益々豊かに守られるように。そして仙台南伝道所が法人格を持つ教会へと成長させていただけるように祈っていきましょう。御心に適(かな)う祈りは必ず聞かれます。信じて希望と確信をもって歩みを続けていきたいと願うものです。

2021年6月20日の説教要旨 申命記26:1-11・Ⅱコリント8:1-15

「主への告白」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

イスラエルの民はエジプトを脱出後、主に導かれながら40年間の荒野での生活を送ってきました。その間、主なる神から天から降ってきた「マナ」によって養われました。しかしこれから入る嗣業(しぎょう・神様から賜った資産)のカナンの土地では、土地を耕し自らが農作物を作り、収穫しなければなりません。神様は、このカナンの地で新しい生活を始めるにあたり、幾つかの注意点を述べています。

*土地から取れた収穫物をささげる時の信仰告白(5節-10節)

先ず「初物」をかごに入れて祭壇に行き、祭司には「約束の土地・カナン」に入ったことを報告して「初物」のかごを祭司に渡す。祭司はそのかごを祭壇に備える。その後、「初物」をささげる者が神様に対して以下のように信仰の告白をする。『わたしの先祖は滅びゆく一(いち)アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこの私たちを虐(しいた)げ、苦しめ、重労働を課(か)しました。私たちが先祖の神、主に助けを求めると、主は私たちの声を聞き、私たちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもって私たちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。 わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。

*嗣業の土地

「信仰告白」で大切なことは、『主がこの所に導き入れて、乳と蜜の流れるこの土地を与えられた、という点にあります。主が約束されて与えられ、主から相続した嗣業の土地で取れた、あらゆる地の産物や彼らの業績などは、彼ら自身の力と手の働きによるものなどと考えてはならず、むしろ主なる神を思い起こし、主の導きや守りによることへの神様への感謝と、彼らの信仰を、後の世代まで継承していくことを教えています。そこに神様に従い続ける忠誠心、献身力が養い育てられていくと思います。では、私達がささげる初物のささげ物とはどういうものなのでしょうか。

*新約時代の献金

本日のⅡコリント書では、コリントの教会に間違った教えが入り込み、信徒達は献金を集めることをやめていたので、パウロは信徒の人々に、献金再開のお願いの手紙を書いています。この献金はエルサレムの聖なる者達の中の貧しい人々を援助するためのものでした。そこでパウロは、マケドニア州の諸教会に与えられた神様の恵みについて書いています。マケドニアの信徒達は、苦しみによる激しい試練を受けていましたが、彼らは喜びに満ち溢れ、極度の貧しさにもかかわらず溢れるばかりに豊かな真心をパウロ達に示しました。彼らは、それぞれ個人に与えられた力、能力に応じて、又、力以上に自ら進んで聖なる者達を助けるための奉仕に加わる恵みに与(あずか)りたいとしきりに願い出て、パウロ達が期待していた以上に自らを献げ、仕えました(8:2~)。彼らはパウロを通して神様の素晴らしさ、凄さを体験したので貧しい生活を送っていた者達でさえも惜しみなく、又、自ら進んで献金を献げました。

*わたしたち

私は日本には数多くの宣教師やクリスチャン達が訪れ、私達日本人のために彼らの時間、生活費を費やして、神様の言葉を伝えている人達のことを思い浮かべました。この方達は一度も顔を見たことも話したこともない人達の為に日本を訪れていますから、神様を信頼し神様の御国の建設のため、教会形成に自分も何かの役に立ちたいという献身の思いがなければ人々に仕え、御言葉を伝えることはできなかったでしょう。

献金は神様に献げられたもので、神様のために働く者達の為、神様を求めて教会に集まって来た人々の為、又、この教会だけに留めるのではなく、神様を信じる全ての者達のために用いられるべきものです。私達はこの伝道所へ神様に呼び出され、集められ、神様の前で罪の告白をし、祈り、讃美し、み言葉を聞き、この神様の愛に感謝して感謝のささげ物の献金をします。この中で私達の信仰を告白しようではありませんか。

2021年2月21日の説教要旨 申命記30:15-20・ヤコブの手紙1:12-18

「罪の誘惑」      加藤秀久伝道師

*はじめに

 本日の申命記には、モーセがイスラエルの人々に2つの選択肢が与えられていることを伝えています。申命記は、モーセとイスラエルの人々が、荒れ野での旅をしている時に与えられた「律法」を、モーセが再度語っていて、もしイスラエルの人々が神様を愛し、戒めを守るならば、イスラエル人の人も増え栄えるけれども、他方、もし、イスラエルの人々が神様に逆らい、神様から離れ、他の神々に仕えるならば、これから得ようとしている約束の地・カナンで長く生きることは出来ないというものでした。

*「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」(15節)

 本日の聖書の中に「今日(きょう)」と言う言葉が4回出てきます。この言葉は、語られた「その時」だけではなく、今日(こんにち)の時代においても語られる「今日」になっています。中でも神様から与えられた「十戒」(出エジプト記20:2-17・申命記5:2-22)の第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」は、イスラエルの民にとって、しっかり心に留めなければならないことであり、誰かに強いられてではなく、自分の意志で自由に選択することができる意味をも含んでいました。

この第一戒は、今の時代にも、後の時代にも、いつの時代にも、神様を信じる者たちにとっては、日々の様々な状況の中で起こる誘惑から逃れて、勝利するために、なくてはならず、守らなければならないものだと思います。それこそが、イスラエルの人々にとって、主の声に従い歩んでいく信仰へとつながり、生きて行くための力・命になることが示されています。神様の約束は、いつの時代も変わることがありません。

*「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(1:2)

 本日のヤコブ書には、試練を受けた時、自分の欲望のままに行動しないように注意が必要であることが述べられています。今日の12節では、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」とあり、神様を信じる者達が、試練や苦難・困難に遭い、耐え忍ぶことは、イエス様の栄光に与(あずか)る「約束された命の冠」をいただくことが出来ると記されています。

この「耐え忍ぶ人は幸い」とは、その人が神様との出会いの中や信仰の歩みの中で、神様の慈しみや憐れみを体験する、神様からの一方的な愛、大きな力に包まれることになるからだと思います。神様からの試練に耐え忍んだ人の中にヨブの存在があることを5章11節で告げています。

*ヨブ(ヨブ記1-2章 参照)

 ヨブには次々と試練や災いが襲いますが、ヨブはどのような状況に置かれようと神様への信仰から目を離さず、神様を畏れ敬う心を持ち続けました。その信仰深いヨブでさえ最後にはあまりの激しい試練、苦難に遭い、自分の生まれた日を呪ってしまいます。私達にも同じような苦しみや悲しみ、困難の生活があるかと思います。神様を信じたから大丈夫と信じても、更に深い悲しみ、苦しみ、痛みが降りかかり、神様がいないのではないかとの経験をしたことはないでしょうか。しかし13節で、誘惑に遭う時、誰も、「神に誘惑されている」と勘違いをしないように告げています。誘惑は人々の歩みを悪へと引きずり込みますが、それは神様からではありません。神様から出るものは良いものであり、天からの贈り物です。神様は定めた範囲以上の悪魔の働きを許可されません。

*救い主、イエス様

 イエス様が荒野で悪魔から誘惑を受けられた時、悪魔は、富や名誉、権力やこの世の全てのものを見せて、自分に従わせようとしました。

しかしイエス様は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』申命記6:13」と、悪魔を去らせました。悪魔は私達のスキを突き、私達の考えや思いの中に簡単に入り込むことが出来、私達が精神的に疲れていればいる程、私達を誘導し、洗脳していきます。 しかし天からの賜物は、私達に新しい命を与えて下さり、イエス様が私達の心の中に入って宿って下さることです。イエス様は私達一人一人を愛し、私達のために苦しまれ、私達の罪のために十字架で死なれました。私達がいろいろな試練に会う時には、大いに喜び(この上ない喜びと思い1:2)、神様の救いと慰めがあることを期待して待ち望みましょう。

2020年11月22日の説教要旨 申命記11:13-21・使徒言行録14:8-18

「喜びで満たす神」     加藤 秀久伝道師

*はじめに 

本日の申命記には、イスラエルの民が存続していくには神様の命じる戒め(=主に聞き従い、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして主に仕える)がありました。この戒めはイスラエルの民の、神様に対する忠誠を尽くす言葉にもなっていました。彼らは、時には神様に不平を言い、神様に背き、しくじり、自分達の存在意義も見失い、途方に暮れた時もありましたが、出エジプト後、 イスラエルの民は,荒れ野を40年間 さ迷いながらも、主に従い続けることによって神様からの守りと導きにより、一つの民族として存続し続けることが出来ました。それは、彼らが神様によって愛され、選ばれた民だからでした。

*カナンの地に住み続け、祝福を受ける道

モーセはカナンの地を目前にして、イスラエルの民に、カナンの地がエジプトと違ってどれほど美しく良い土地であるかを伝えています。そしてイスラエルの民が、このカナンという とても豊かな土地に住み続けるためには、主に誠実であり続けることがどれ程までに重要で、必要なことであるかを伝えています。さらに、民が心変わりして主を離れ、他の神々に仕え それにひれ伏すことのないように警告しています。 彼らの心に刻まなければならない言葉は、主の戒めを守り、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして主に仕えることでした(申命記6章)。そうすることでイスラエルの民は、神様からの沢山の祝福を受けて栄えることが出来たのでした。

*わたしたち

 私達の心の中は、主の戒めを守り、主に聞き従い、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして主を愛しているでしょうか。主の語られる言葉を心に留め、魂に刻み込み、信仰の糧としているでしょうか。どこかで罪の誘惑に負けて、主から目を離してしまっていないでしょうか。

*リストラでの出来事

パウロとバルナバが伝道旅行でリストラに行った時、生まれつき足が悪く一度も歩いたことがない男の人が座っていました。彼はパウロの話すのを聞いていたので、パウロは彼を見つめて、癒されるのにふさわしい、神様を信じる信仰があるのを見定め、彼に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言いました。するとその人は躍り上がって歩きだしました。 群衆はパウロの行為を見て、「神々が人間の姿をとって私達のところにお降りになった」と、いけにえを献げようとしたのです。

この地方の伝説によれば、昔ゼウス神とヘルメス神が変装し、お忍びで地上に来た時、神々をもてなす人はどこにもいませんでした。が、ある老夫婦が神々を家に入れて手厚くもてなしたところ、その後この地方を洪水が襲った時、老夫婦は神々の守りによって救われたという話です。

*パウロとバルナバの説教

パウロとバルナバは、いけにえを捧げようとした彼らに「私達もあなた方と同じ人間にすぎません。あなた方がこのような偶像を離れて生ける神に立ち帰るように、私達は福音を告げ知らせているのです」「この世界を創られた天地創造の神様こそが恵みを下さり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施してリストラの人々の心を喜びで満たして下さっているのです。」と語り、いけにえの行為をやめさせました。

*収穫感謝日

日本キリスト教団では、11月の第4日曜日を収穫感謝日として礼拝を守っています。私達に与えられている全ての恵みは、この世界を創られた神様によって与えられているものです。数え切れないほどの恵みを覚えて主に感謝する。それが収穫感謝日の礼拝です。そして又、私達が覚えるべき一番の恵みであり実りであるのは、イエス様を信じることによって、罪の生活の中から解放されたことだと思います。私達は日々、自由にされて生きることが赦されています。私たちのそばには、いつも喜びで満たして下さる神様がいます。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と言われる言葉の中に、私達は神様の本当の愛を見つけることができると思います。 私たちが主を 愛する時、私たちは主の愛を、主の恵みを見つけることができるのです。

2020年11月15日の説教要旨 申命記18:15-22・使徒言行録3:11-26

「救いの力」       加藤 秀久伝道師

*はじめに 

本日の旧約聖書 申命記は、「モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた」(1:1)とあるように、モーセによってなされた訣別説教(遺言)のかたちで記されています。本日の箇所には「あなたの神、主はあなたの同胞の中からわたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」と、神様がモーセのような預言者をこれからも立てて下さるとの約束が述べられ、イスラエルの民は預言者の言葉に聞き従うように命じられており、預言者に聞き従わない民にはその責任を追及すると警告されます。他方、預言者が自分勝手の預言や他の神々の名によって語るなら、その預言者は死ななければならないと告げています。

*聖霊が降る(使徒言行録2章)

 イエス様が天に昇られ、五旬節に弟子達が心を一つにして祈っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、座っていた家中に響きました。そして炎のような舌が現れ、一人一人の上にとどまりました。すると一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに他の国々の言葉で話し出しました。そうです!弟子達は聖霊を、身体の中に宿したのでした。ペトロはイエス様と一緒にいた時よりも大胆になり、身体の中から聖霊の力を感じながら、周りに来ていた人達に話し始めました。ペトロは聖霊の力により変わりました。人々も神様の力を感じたはずです。

*「キリストの名によって」癒される

本日の新約聖書では、イエス様の「御名」に力があることが記されています。3章の初めには、ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に、神殿に上った時の出来事が記されています。生まれながら足の不自由な人が、神殿の境内に入る人達に施しを乞うため、門のそばまで運ばれて来ました。そして境内に入ろうとするペトロ達に物乞いをしました。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て「わたしたちを見なさい」と言いました。その男は何かもらえると思い、二人を見つめているとペトロは彼に言いました。

わたしには金や銀はないが持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。そして右手を取って彼を立ち上がらせました。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして躍り上がって立ち歩き出しました。そして躍ったりしながら神様を賛美し、二人と一緒に境内に入っていきました(3:1-10)。彼は、身体の中に聖霊が宿ったのを感じて神様をたたえずにはいられなかったのだと思います。民衆は皆驚き、足が治った人が ペテロとヨハネに付きまとって神様を称えているので一斉に集まって来ました。

*ペトロの説教

ペトロは「なぜこのことに驚くのですか。私達がまるで自分の力や信心によってこの人を歩かせたかのように、私達を見つめるのですか。」と言い、この癒しは、イスラエルの民が殺した「イエス・キリストの『み名』を信じる信仰」による癒しであったと証ししたのです。ペトロはさらに、かつてモーセが語った言葉「神は、わたしのような預言者をあなた方の為に立てられる。彼が語りかけることには何でも聞き従え。耳を傾けない者は皆、滅ぼし絶やされる」(3:22-23)と申命記を引用して、イエス・キリストこそ、あなた達を悪から離れさせ、祝福にあずからせるため神様が遣わして下さった方(3:26)であると証ししたのです。

*わたしたち

現代を生きる私達は、毎日、神様の力、聖霊の力を感じながら生活しているでしょうか。日々聖霊に満たされ、聖霊が私達をどのように導き、何を語ろうとしているのか敏感でなければならないと思います。

足の不自由な人が躍りながら神様を賛美したように、私達の生活の中で神様に心を震わせて、神様に感謝を捧げ、神様を称えているでしょうか。又、イエス様の御名を信じて「本当の癒し」が起こるために祈っているでしょうか。イエス様の御名には力があります。 私達の心の中で神様の力、聖霊の力を感じる時、癒された人のように、心の中から溢れるばかりの喜びが沸き起こり、神様に感謝せずにはいられないでしょう。イエス様は私達の助けを求める声を待っておられます。

2020年9月13日の説教要旨 申命記24:14-15・マタイ福音書20:1-16

「全ての人に」     加藤 秀久 伝道師

*はじめに     

本日の申命記には、貧しい人を働かせる場合の規定が記されています。彼らへの賃金は、(同胞イスラエル人であっても在留異国人であっても)日没前に支払いなさいと記されています。彼らはその日に得た収入でその日の食べ物を買い、生活する必要があったからです。神様はすべての人に目をとめ 人々が日ごとの糧(かて)を得られるように守って下さいました。

*ぶどう園の労働者の賃金

本日のマタイ福音書には、ぶどう園の主人に雇われて働いた人達の賃金についての譬え話が記されています。ぶどう園の主人は労働者を雇うために、夜明けに出かけて行き、一日一デナリオンの約束で彼らをぶどう園に送りました。その後、9時、12時、3時、5時と同じように広場に行き、同じ約束で労働者を雇い、ぶどう園に送りました。やがて日が暮れて労働者達がその日の賃金を受け取る時間になると、ぶどう園の主人は、最後に働きに来た人から順に、一デナリオンずつ、同じ金額を渡しました。

*労働者の不平

最初に働きに来た人達は、後に来た人達より多く賃金を貰えると思っていたので、ぶどう園の主人に不平を言いました。この世の常識であれば、朝早くから来て働いていた人は、あとからの人達よりも多く貰えるはずと考えるのは当たり前だと思います。しかしこの譬え話の始めには、「天の国は次のようにたとえられる」と書いてあり、イエス様は弟子達に、「天の国」とは、どのようなものかを教えようとしています。

*ぶどう園の主人

ぶどう園の主人は一日に何回も広場へ出かけて働きたい人達を見つけては声をかけています。ぶどう園の主人が最後に広場を訪れた時にも、まだ人々が立っていました。『なぜ、一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言いました。主人は彼らに、『あなた達もぶどう園に行きなさい』と伝えました。

 主人は、日が暮れて働ける時間まであといくらもない5時にも、仕事を与えるために広場に出かけています。普通に考えればあり得ないことです。ここに、ぶどう園の主人の思いやる憐れみの心、優しさを見ます。

*たとえ話の意味

このたとえ話が、「私達の救い」についてだとしたら、どのような意味をもつでしょうか。父なる神様が何度も何度も私達を救いに導き入れようとしている姿が見えてくるのではないでしょうか。神様は一人でも多くの人々を、罪が存在する世界から導き出して、神の国の一員になれるように救いの手を差し出しているのです。イエス様は、何度も何度も広場へ足を運び、福音(神様の訪れ)を宣べ伝えています。

*夜明け・9時、12時、3時、5時

人々の雇われる時刻が様々であるということは、私達の救われる時期、救いに導かれる時は神様と出会った時期であり、神様の呼びかけに答えた時であるということができると思います。朝早く雇われた人とは幼い時か、若い時にイエス様に出会い、イエス様を救い主として受け入れた人ではないでしょうか。そして5時に雇われた人は、様々な事情により年をとってから、イエス様に出会い、イエス様を自らの救い主として受け入れた人を意味しているように思えます。

*「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(ヨエル書3:5)

神様は、天地創造の始めから人を造り、人に息を吹きかけ、人を生きる者とされました。神様は人に主(神様・イエス様)を知る霊を注いでいるのです。ですから私達人間は、主を求めるならば、主に出会うことができます。神様はすでに私達を招いて下さり、全ての人に「私のもとに来なさい」と呼びかけて待ち続けて下さっています。その招きに応えるかどうか、神様を受け入れる選択をするのは、私です。又、イエス様を受け入れた人であっても、私達の心が神様に向いていなければ、日々神様の霊によって新しくされていなければ、私達は神様の恵みを伝えるものとして働くことはできません。今週も、神様が共におられ、すべてのことにおいて、神様が「私の神」であられますようにお祈りを致します。