4月30日の説教要旨 出エジプト16:1-16・Ⅰコリント8:1-13

「良い食べ物」     加藤 秀久牧師     

*はじめに

エジプト王の宮廷の責任者とされたヨセフは、飢饉の為にカナン地方から食料を買いに来た兄達に自分の身を明かして、カナンの地から父ヤコブをはじめすべての家族(総勢70名・46:27)をエジプトに呼び寄せました。彼らは最良の地に住むことが許され食料も豊かに与えられ、子供も増えていきました。しかしヨセフも、その世代の人々も皆亡くなり、ヨセフを知らない新しい王が国を治め始めると、イスラエル人の人口が増して強力になりすぎた為、王は強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待しました。労働はいずれも過酷をきわめ、助けを求める彼らの叫び声は激しさを増し、イスラエルの人々は神様に祈り、助けを求めました。その叫び声は神様に届き、彼らの苦しみを御心に留められた神様は、ミディアン地方でしゅうとの羊の群れを飼っていたモーセを選び、エジプト王のもとへ遣わして、イスラエルの人々を、約束の地カナンに連れ帰るように導かれたのでした。

わたしがあなたたちの神、主である。

 本日の出エジプト記では、エジプトを脱出したイスラエルの人々は無事に荒野に入ることが出来ましたが、脱出後一か月くらいに、シナイの荒れ野に行く途中「シンの荒れ野(聖書のうしろにある地図2)」に向かっていた時、イスラエルの人々の共同体全体が、モーセとアロン(モーセの兄・モーセの語るべき言葉の口の役割を担う・出エジプト4:14~)に向かって不平を述べ立てました。「エジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなた達は我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と言いました。彼らの不平を聞かれた神様は、人々を神様の前に集めさせ、人々が荒れ野の方を見ると、主の栄光が雲の中に現れました。そこでモーセは、神様の語る言葉を伝えました『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。』と。

*夕方にはうずら、朝にはマナ

 私たち人間は、目の前に危険が迫ったり直面すると、普段は冷静に振舞えるにもかかわらず、それが出来ず、心の中にあった本音が現れて言ってしまうことがあります。イスラエルの人々が旅を続ける中、疲れやストレスがたまり、喉の渇きや食料不足による空腹を覚える時、エジプトで食べられたり、飲んだりした時のことを思い出して、荒れ野という過酷な場所で、その不満が一気に表に出てきてしまったのでしょう。 

けれども主なる神様は、夕方には「うずら」に宿営を覆わせ、朝には宿営の周りに「露」を降りさせ、この露が蒸発すると、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていました(16:13~)。それは蜜の入ったウェファースのような味がして、民は「マナ」と名付けました(31節)。彼らは神様がモーセを通して命じた通り、家族に応じてある者は多く、ある者は少なく集め、翌朝まで残しておかないこと、又、六日目には二倍の量を集めて七日目の安息日には休むなどの決まりを守りました。イスラエルの人々は、目的地に着くまでの40年にわたり、この恵みの「マナ」を食べて旅を続けました(16:35)。

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1節)

 本日の、Ⅰコリント書の8章の1-13節には、偶像に供えられた肉について語られています。4節には「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」とあり、続く7節には「しかし、この知識が誰にでもあるわけではありません。」とあるように、偶像になじんできた習慣にとらわれている人にとっては「この肉は偶像に備えられた後、食肉用におろされたもの」と聞くと、食べるか食べないかの葛藤が心に起こることが語られます。そして、自分が正しい知識を持っていると考えている人達の、その人の自由な態度が、弱い人達を罪に誘うことにならないように気を付けなさいと警告しています。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げ」ます。私達は、与えられている聖書の御言葉を通して「良い食べ物」を与えられ、そして、与えていく者になりたいと願っています。

2022年8月7日の説教要旨 民数記11:24-30・Ⅰコリント12:12-26

「神様からの贈り物」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

 私達が信仰を与えられた時、一人ひとりに与えられた神様の霊とはどのようなものであったのでしょうか。又、その後、私達は神様の霊との交わりはどのようになされているでしょうか。本日の旧約聖書では、神様の霊が、信じるリーダー達の上に降(くだ)ったことが記されています。

*モーセの訴え

 本日の民数記には、モーセによってエジプトから導き出された民が、旅の途中でさまざまな不満を訴えてモーセを苦しめました。モーセが、その重荷を一人で担いきれないことを神様に訴えたことから始まります。民たちは実際、神様が共にいて下さる「しるし」を見ているのです。それは、9章15節以下に記されている幕屋での雲の存在です。幕屋を建てた日に「雲」は幕屋を覆(おお)いました。夕方になると、それは朝まで燃える火のように見えました。この雲が天幕を離れて昇ると人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまると、そこに宿営しました。彼ら達はこのように神様の存在と導きを雲によって知ることになり、神様が身近にいて守って下さっていることや、神様の凄さを体験していました。それにもかかわらず民たちはエジプトでの生活を思い出し、食べることで神様につぶやき始めたのでした。神様は私達に、十分すぎるほどの恵みと愛と祝福を与えて下さっています。けれども私達は、神様からの祝福を受けて、満たされているにもかかわらず、あれも、これも、それもありません と、目に見えるもの、感じるものを、イスラエルの民と同じように、欲する気持が出てきて「不満・つぶやき」が生まれるのではないでしょうか。

*神様からの応答

 神様はモーセに、民の長老はじめリーダーになり得る人を70人選ぶように言われ、翌日、彼らが聖別して幕屋の周りに立った時、神様は雲の内にあって降り、モーセに授けられている霊の一部を取って、長老にも授けられました。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になりました。

 このような記述は、サムエル記上10章9-12節にも登場します。イスラエル王国の初代の王・サウルは、祭司であり預言者でもあるサムエルから聖別の油を注がれて、「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされた」と告げられました。そして、この後の出来事(預言者の一団に会い、サウル自身も預言する状態になる)を予告され、その予告は実現し、聖霊が降った時、彼らは預言状態になりました。(が、続くことはなく、サウルの場合、神様はサウルの心を新たにされた・・とあります。サムエル記上10:9 )。

*聖霊の働き

本日のコリント書12章では、聖霊の働きについて記されています。聖霊の賜物は、人々の意識を高め、心を強くし、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるため」(12:7)です。1節には著者パウロが「霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいて欲しい。」と告げ、神の霊によって語る人は「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」と述べています(3節)。

神様から私達に与えられた霊は同じ霊であり、それぞれに与えられた霊の力により、私達はイエス様の身体の一部として働きます。

これらの働きによって教会全体の力や徳が高められていきます。霊の働きが、信じる者一人ひとりに現われる時、私達は、心の内で神様との関係を深め、それぞれが自分に与えられた場で働き、教会全体が良い方向へ進んで行くことが出来、神様の栄光を輝かせる結果となることをパウロは私達に伝えています。

*イエス様を信じた時に

旧約時代と違い、現代を生きる私達には、イエス様の十字架による死によって私達の罪が贖(あがな)われて、イエス様を信じたその時から、神様の霊が私達の心の中に与えられています。それゆえ私達は、神様の声をいつでも、どこででも、聞くことが出来ます。今週も神様との与えられた時を感謝しながら、イエス様と共に歩みを進めて参りましょう。

礼拝開始19周年記念感謝礼拝 2021年12月5日の説教要旨 申命記6:4-9・Ⅰコリントの信徒への手紙15:1-11

「告げ知らされた福音」     協力牧師 佐藤 義子

*はじめに

本日、礼拝開始19周年の感謝礼拝をお捧げすることができることを心から神様に感謝いたします。本日の申命記6章4-5は「聞け(シェマー)」から始まり、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」と続きます。この御言葉は、私の教会学校時代の暗証聖句でもありました。申命記では、これらの言葉を寝ても覚めても心に留めて、子供達にも繰り返し教えるように命じています。今でもユダヤ教徒の方達は、毎日、朝晩2回、このシェマーを唱える他に、18の「祈祷文」に沿って、朝昼夜の3回、立って祈っておられるとのことです。

クリスチャンにとって「御言葉は食べ物、祈りは呼吸」と言われます。多忙な日々の中にあっても、一日の初めと終りに(あるいは毎日のどこかで)、わずかな時間でも、神様と共に過ごす大切な時を持てたらと思います。

*告げ知らされた福音

本日の、Ⅰコリント書15章1節から5節までをもう一度お読みいたします。 「兄弟達、私があなた方に告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなた方が受け入れ、生活の拠り所としている福音にほかなりません。どんな言葉で私が福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなた方はこの福音によって救われます。さもないと、あなた方が信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。

 最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り私達の罪の為に死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後12人に現れたことです。」

 パウロが最も大切なこととして伝えたことは、「イエス様が、私達の罪の為に十字架にかかり、死んで葬られて、三日目に復活された」ことでした。これまで仙台南伝道所で伝えてきた福音も、同じです。

イエス様は、「私達の罪の為に死んで下さった」ということは、本来なら、<自分が今迄、神様を神様とせず、自分を神として歩んできた罪の結果として私達は裁かれ、滅ぼされる定めにあった>ことを知り、にもかかわらず、私達がイエス様を信じることによって罪が赦されて、罪の裁きから解放されたことを意味しています。私達はこのことを信じて、受け入れ、生活の拠り所としています。

誰でも、どのような人生を歩いてこられた方でも自分自身と向き合い自分の人生を振り返る時、自分の罪に気付かされます。その時に十字架による「罪の赦し」がすでに自分に対して用意されていることを私達は聞いて、信じた時(信仰が与えられた時)、私達は救われます。

*古い人と新しい人

 シュネーダー宣教師(元東北学院長)は、「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」との御言葉を引用して、それ迄の「古い人」と「新しく生れた新しい人」との変化を語っています。「古い人」は肉体に必要な物を第一とするが、「新しい人」は神の国と精神上の宝を求めていくこと、試練に会った時も、神の子としての、高尚なる生涯に上がる訓練として耐え忍ぶことが出来ること、「死」も、天国にいます神様と信仰者達との交わりの中に入る幸せなことであり、「世の旅 果てなば、死の河波をも、恐れず越えゆか(讃美歌294)」と歌いつつ世を去ると語っています。

*祈りの共有

私達の伝道所につながるお一人お一人の歩みが、信仰者(新しくされた人)として、良き証し人として、毎日イエス様と共に歩んでいきましょう。愛する家族も教会に導かれるように、愛する友人知人達の名前を挙げて救いの為に祈りましょう。求道者の方々がバプテスマに導かれるように、又、加藤伝道師一家の伝道牧会の働きが益々豊かに守られるように。そして仙台南伝道所が法人格を持つ教会へと成長させていただけるように祈っていきましょう。御心に適(かな)う祈りは必ず聞かれます。信じて希望と確信をもって歩みを続けていきたいと願うものです。

2021年1月31日の説教要旨  列王記上8:22-30・Ⅰコリント3:10-17

「神の神殿」     加藤 秀久伝道師

*はじめに 

ソロモン王は、主の契約の箱(十戒の石板が入っている)を置く住まいとして主の家・エルサレム神殿を建てました。王になって4年目(紀元前966年頃)に始まり7年かけて完成しました。新しい神殿に納められた主の箱は、厳粛な儀式と共に「ダビデの町・シオン」に置かれていた天幕の中から運び出され、主の箱だけではなく臨在の幕屋も、幕屋にあった聖なる祭具もすべて運びだされ、予定されていた所に移されました。

主は、神殿を建てるのは父ダビデではなく、息子ソロモンが神殿を建てると告げられていました(8:17~参照)。 本日の聖書は、その約束が実現して、ソロモン王がイスラエルの全会衆の前で主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして感謝の祈りをささげているところから始まります。

*祈る姿勢

父ダビデは、「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。命のある限り、あなたをたたえ手を高く上げ、御名によって祈ります」(詩編63編)と祈っています。このように神様に両手を上げて祈る行為は、天におられる父なる神様に向けて、私達自身がすべてを明け渡し、従うことを表していると思います。

*神様は地上にお住まいになるか?

ソロモン王は、祈りの中で、神様がこの地上の限られた空間である「神殿」に果たして住まわれるのか(8:27)と問うたことに対して、主は9:3で、「私はあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこに私の名をとこしえに置く」と仰せになっています。(申命記12:11には、礼拝の場所を、「あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれる場所」と記され、イエス様もエルサレム神殿について、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」(マタイ21:13・イザヤ56:7)と引用されていて、神殿のその持ち主は「神様」であることが分かります。

エルサレムの語源には「シャレムの神の基礎」・「平和の基礎」のいずれかの意味があり、ここに神様に向かって礼拝する場所が出来たのです。

*コリントの教会

コリント教会は歴史が浅く、信徒達の信仰や霊的状況が未熟だったため、神様が第一ではなく、イエス様のことを伝えた伝道者に目が注がれ、「私はパウロにつく」「私はアポロにつく」など、信徒の間に分裂が起きていました(1:12)。そこでパウロは、人々の信仰を成長させて下さるのは、伝えた人ではなく神様の言葉に真理があることを述べて、

私達は神のために力を合わせて働く者であり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。」と伝えています(3:9)。

*教会の働き

そうです。教会は一人の力では限界があり、大きな働きは出来ません。私達は神様の畑です。神様は私達に「み言葉」という種を蒔き、育てて下さり、実り豊かな作物を生み出そうとしておられます。私達は神様のために力を合わせて働く者達の群れ、共同体です。

*教会の土台

パウロは、「神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです(10節)」と記しています。パウロは、イエス様が人々の罪のために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に甦って、すでに教会の土台に据えられているのだから変更はできないとしています。そして、12節以下で、主は火によって、私達が土台の上に建てる仕事を吟味されると教えています。

さらに、教会の信徒達は「神様の宮」であること、神様の霊が私達の心に住んでいて下さるので、そのような人々の交わりに、不和、争い、分裂を持ち込む者達は、聖霊の働きを弱め、教会を破壊し、最後には神様によって滅ぼされる(3:17)ことを告げています。

私達は罪赦されて、神の神殿とされた者達です。ですから私達はイエス様のことを告げる、生きた証人として、この世へと出ていきましょう。

11月5日の説教要旨 「死と復活」 牧師 平賀真理子

詩編16:7-11  Ⅰコリント書15:42-58

*はじめに
今日は召天者記念礼拝の日です。信仰を持って生き、天に召された方々を思い起こし、その信仰を受け継ごうという思いを新たにする日です。この方々の「信仰」とは、一言で言えば、イエス・キリストを自分の救い主として信じる信仰です。彼らは、この世での肉体をいただいて生きている間に福音に出会い、「イエス・キリストは自分の罪を贖ってくださるために十字架に架かって犠牲になられた」と信じ続けました。確かに、それが信仰の第一歩です。しかし、それだけを強調するのは不十分です。信仰者は、主の十字架だけでなく、主の復活を知らされ、信じて生きるのです!

 

*コリントの信徒への手紙一15章
「主の復活」については、今日の箇所、Ⅰコリント書15章も、それを証ししている箇所の一つです。この書の著者パウロは、ここで3つの内容に分けて、信仰者に思い起こしてほしいことを書き送っています。
聖書の小見出しに沿って、最初の段落「キリスト復活」の中で、パウロは、キリストが、聖書に書いてあるとおり自分の罪のために死んだこと(十字架)、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後12人(主要な弟子)に現れたこと、その後、五百人以上の兄弟達(信仰者)に同時に現れ、生きた証人がたくさんいることを証ししています。
次の12節からの段落「死者の復活」では、多くの証人が「主の復活が事実だ」と証言できるのだから、イエス様の復活がなかったとは決して言えない、むしろ、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人々の初穂となられました」(20節)とパウロは宣言しました。そして、人類の祖とされる「アダム」によって、神様を信じないという罪で、すべての人が死ぬことになったという内容(ローマ書5:12-14)を記し、その対比として「キリストによって、すべての人が生かされることになる」(22節)とあります。それは、アダムから累々と流れる人類の罪すべてを贖うために、イエス様が十字架という苛酷な運命に従順に従われたので、父なる神様がそれを祝福して「死からの復活」という栄誉を与えたことを意味します。そして、その恵みがイエス様だけに留まらず、その意味を理解して受け入れる信仰者にも与えられると言われています(ローマ書3:22等)。
更に、15章23-24節では、復活の順番について、「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるとき(キリスト再臨の時)に、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来る」と書かれています。イエス様はすでに復活なさっていますから、主の再臨の時に、イエス様を救い主として信じる者は復活させていただけると宣言されています!

 

*「種」の例え
このようにパウロは説明し、次いで、コリントの集会の人々のために「具体的な『復活の体』」について、具体的な説明を続けます。「種」の例えです。種は、一つの物体のように死んでいるような様子に一度はなりますが、違う姿で生き返ってくるように見えます。死んだような「種」の状態が「この世での肉体上の死の姿」であり、「新しい命が出てきた姿」が「復活の体」のようだと例えています。そして、神様は全能の御方なので、それぞれにふさわしい体を与えてくださるとパウロは説明しています。

 

*死の状態と復活の状態の例え
今日の新約聖書箇所に入りまして、前段落の例えを基本に、パウロは別の表現も試みました。「死の状態」を、蒔かれる時に「朽ちるもの」・「卑しいもの」・「弱いもの」であっても、芽を出す時のような「復活の体」を「朽ちないもの」・「輝かしいもの」・「力強いもの」と表現しています。更に、死んで復活することを「『自然の命の体』が蒔かれて『霊の体』に復活する」とも表現しました。

 

*「アダム」と「イエス様」
次いで、再び、人類の祖「アダム」のことが出てきます。アダムは神様から命の息を鼻に吹き入れられて生きる者となった(創世記2:7)のですが、最後のアダムと例えられているイエス様は十字架と復活を経て「神様」の御姿に戻られたのです。そして、人間は、「土でできた最初の人であるアダム」のように、この世での物質でできた体で生きるようにされていますが、信仰者達は「天に属する第二の人」であるイエス様の似姿になって「復活」することができるとパウロは教えています。

 

*「朽ちないもの」「死なないもの」を着る恵み
私達信仰者は、天に属するために「朽ちないもの」、すなわち「永遠のもの」を着ることが許されていると50節以降に記されています。52節の「最後のラッパが鳴るとき」とは、終末(この世の終わりの時)であり、キリスト再臨の時ですが、この時、信仰者達は「朽ちないもの」「死なないもの」を必ず着るようになるとパウロは語りました。復活の主の恵みを、何の功績もない私達が着ることが許されている恵みに感謝です。

 

*「死」・「罪」・「律法」⇔「命」・「救い」・「信仰」
パウロは、「この世のこと」を表現する時、「死」「罪」という表現を用いますし、救いの古い方法である「律法」が支配する世界と表現しました。そして、これに対抗して、というよりも、これを凌駕するものとして、「(天に属する、永遠の)命」と「救い」とし、そして、救いの新しい方法としての「福音への信仰」という表現を好んで用いています。
54節の後半から、パウロの特徴の、その言葉が出てきます。「罪」の最たるものが「死」であり、罪の虜の人間は「死」を最も恐れて生きざるを得ない状況に置かれてきました。しかし、イエス様の十字架と復活という救いの御業によって、人間の罪が覆われ、憐れみ深い神様は、人間に対して過去の罪は問わないとしてくださいました。「死の世界」が誇っていた「罪」に対して、イエス様が勝利されたのです。「人間の罪を自覚させ、恐怖に陥れ、人間を悪の方へがんじがらめにする」おおもとになっていたのは「律法」でした。イエス様は、それらすべてに打ち勝ってくださったのです。だから、私達はかつて自分の内側に潜んで力を奪っていた「罪意識」、もっとはっきり言うと、「私なんかダメだ!」「私には生きる価値がない」といった絶望から、イエス様を信じる恵みによって、「私は神様が目をかけてくださる存在」「神様の御心に適う生き方ができると期待されている存在」「神様に愛されている存在」だという希望が持てるようになるのです。それが神様に祝福される、本来の人間の姿ではないでしょうか。

 

*復活の主に結ばれて、主の業に励む喜び
今日の箇所の最後に、パウロは主を信じる者達に、主に結ばれて、主の業に励むことを勧めています。それは、すなわち、信仰の先達、この方々が、その人生において行ってきたことです。今日の箇所のパウロの言葉に励まされ、また、これらの先達の生き方に倣いながら、私達は、神様の御前に、再び生かされている恵みを感謝し、主の御用のため、特に、福音伝道のために用いられたいと願います。そして、それを心から感謝し、喜べる信仰者へ成長していけるように、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

 

8月20日の説教要旨 「異言は己を、預言は人を造り上げる」 野村 信 先生(東北学院大学)

詩編145:8-16 Ⅰコリント書14:1-5
*はじめに
今日の新約聖書箇所から、使徒パウロが二つのことを述べていることがわかります。「①愛を追い求めなさい。②何よりも霊的な賜物を熱心に求めなさい。」ということです。しかし、この二つは実は一つのことです。
*霊的な賜物とは?
体が疲れた時、私達は栄養ドリンクを飲みます。霊的な賜物とは、心の栄養ドリンクのようなものです。かつて、私自身、どん底の状態にあり、沈んでいましたが、霊的な賜物をいただいたおかげで、生き返った体験をしたので、是非語りたいのです。しかし、これは私だけの体験ではなく、大勢のクリスチャンが書き残した物からも読み取ることができます。
*パウロと「異言」
まず、パウロが書いた「今日の聖書箇所」から見てみると、霊的な賜物には2種類あると言っています。異言と預言です。この2つは重なっているけれども、パウロは際立たせて区別しています。「異言」は聖書の元々の言葉であるギリシャ語では「グロッサ」と言い、「舌」とか「言語」という意味の言葉ですが、パウロは以下の2つの意味を含んだものを指していると見ることができます。一つは「異なった言葉」(例:使徒言行録2章にあるペンテコステの出来事)と、もう一つは「神秘を語る」ということです。14章2節でパウロが「異言を語る者は、人に向かってではなく、
神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っています。」と言ったとおりです。異言は聖霊によって語られた「言葉にならない言葉」です。私達は、「神秘」や「異言」を極めて非聖書的と考えがちですが、パウロは違います。同じ書の4章18節で、パウロは自分について「最も異言を語った」と述べています。
*「預言」が重点的に語られてきた末に
また、14章3―4節を見ると、預言は人に向かって語られ、人を造り上げるのであり、異言は自分(=己)を造り上げるとあります。この箇所が説教で語られる場合、多くの牧師は「預言」の方を重点的に語ってきたように思います。歴史的に見て、伝道において未熟な日本で、しっかりした教会を造り上げたいと願って、そのように語られたと言えるでしょう。しかし、21世紀に入った今、立派な建物の教会に、信者達が集まらず、そのために教会を閉めざるを得ない状況が世界中で起こっています。カトリック信者も少なくなっていますが、特に、プロテスタント信者の数の減少に歯止めがかかりません。同様に、私達が所属する日本基督教団の信徒数も減り続けています。何か根本的な
問題があると考えざるを得ないと思います。「預言」だけでいいのでしょうか。
*「異言」によって私達一人一人が活き活きと変えられる
長らく「異言」は不可解で怪しげだから、「預言」を重んじようと教えられてきました。「預言」はとても大切です。なぜなら、人を造り上げ、教会を造り上げるからです。しかし、今、教会に集う私達一人一人が、家庭でも職場でも、キリスト者として活き活きと生きているでしょうか。私自身も、かつては、聖書の教理とか教義、すなわち「預言」を語り続けてきましたが、10年ほど前には、かなりひどく落ち込んでいました。それは精神的な病気と症状は似ていましたが、違います。信仰の問題でした。信仰によって喜びや力が全然湧いてこないという状況でした。数年後に立ち直り、今や、神様のためにずっと働き続けても元気!となりました。己を造り上げることができたからです。しかし、私の周りを見渡しても、牧師や神学者の中に、つまり、「預言」を語る専門家達の中に、燃え尽きて抜け殻のようになっている人々がいることを知っています。(但し、預言=教理や教義は、300~400年かけて生み出されたキリスト教の柱であり、大切なものです!)
*パウロによる教えの再発見
パウロは、今日の聖書箇所で、「異言」を語る大切さを教えていたのです。すなわち、聖霊の働きの中で神様と語り合うこと・神秘を語ることは、「己を造り上げる」ことだと教えてくれます。私達は神様に向かう、または神様と語り合うということの大切さに気付かなくてはなりません。その中には、人間の言葉にはならず、人にはわからないものもあるかもしれませんが、神様に祈る・神様と語り合うことで、自分を造り上げることをおろそかにしてはならないのです。
*「異言」とは? ―歴史を振り返り、数々の著作や著者から―
では、具体的に「異言」とはどのようなものでしょうか。どのように行(おこな)ったらいいのでしょうか。歴史を振り返ると、優れた信仰者達を例として挙げることができます。彼らはしっかり書き残してくれたので、私達が知ることができます。彼らは、異言を存分に語って、力強く、立派な信仰者の生涯を送り、神様と人間に仕えて生きたことがわかります。
その筆頭はパウロです。パウロの書いた手紙の中に、パウロの「異言」と思える箇所がいくつもあります。例えば、「十四年前に第三の天にまで引き上げられた」(Ⅱコリント書12:2)とか、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(ローマ書8:22)等です。
また、今日の旧約聖書箇所に挙げた詩編145編でも、この詩人は「造られたものすべて(万物)」が神様に感謝すると謳っていて、これも「異言」と言えます。
アウグスティヌスというキリスト教の立役者は、『告白』という名著を残し、自分の愚かしい、恥ずかしい過去を美しい文体で書きました。
普通の感覚ならば書けないような、自分の醜い過去を神様に告白する、つまり、神様に向かって語るという「異言」となっているのです。
アンセルムスという人も中世の思想家として名高い人ですが、『モノロギオン』『プロスロギオン』という著作の中で、「異言」が多くあります。
さらに、サン・ビクトールのフーゴーという修道士は、民衆達と一緒に聖書を読むために「絵巻物聖書」を作りましたが、彼の『魂の手付金の独語録』という本は、神様への燃えるような賛美を献げる中で、ほとんどが異言を語っていると言わざるを得ない内容です。
私の専門である宗教改革者のカルヴァンは『キリスト教綱要』という有名な教理的な書物を書き、ほとんど毎日1時間の説教をした人です。この説教を聴いていた、当時の1500人程の人々は、霊的な喜びと感動に満ち溢れていたのです。研究者達でこの説教の翻訳を続けています。
地味で飽きてくる内容ですが、これが「異言」です。よくわからない、あるいはあまりにもありふれたものなのに、実際は、霊的であり、神秘的であり、神の世界が広がっているような一時と言えます。
現代で、私達の知っている日本人では、八木重吉というクリスチャンの詩人がいます。彼は短い生涯の中で二千もの詩を残しましたが、「霊感の人」と言ってもいいでしょう。神秘の中で不思議を語った人です。
20世紀を生きた人に、神谷美恵子という人がいました。彼女は結局キリスト教の洗礼を受けませんでしたが、ほとんどキリスト者であると言えるような天才的な人でした。この人の日記の中には、不思議な神秘的な語りが何度も出てきます。また、著作『生きがいについて』で「変革体験(本当は「神秘体験」と名付けたかったらしい)」という箇所があり、これも「異言」の一種と言えるでしょう。
それから、カトリックの神父で、八ヶ岳で庵を編んでいた 押田成人という方がいましたが、彼の著書『遠いまなざし』も、ほとんど異言と言えるような不思議で神秘的な話です。私は、自分自身が霊的なものに触れて立ち直った後に、この方の本を読んだところ、内容が理解できるようになってきました。
*「異言」によって、己を高め、強めることができる!
今まで述べてきたように、「預言」は建徳的であり、人や教会を造り上げるものですが、「異言」は霊によって語られるもので、自分を造り上げるものです。一人一人が取り組むべきものであり、他人にはわからなくても、自分を高め、強めるものです。だから、パウロは「霊的な賜物を追い求めなさい」と言っているのであり、私達一人一人は、神様との対話の追求を行(おこな)っていきたいものです。
*「神の愛」を追い求める私達に、霊的な賜物が注がれる
今日の聖書箇所の直前のⅠコリント書13章は「愛の賛歌」と呼ばれる、愛についてのパウロの語りが出てきます。そして、14章の初めの第1節で、「愛を追い求めなさい。霊的な賜物を熱心に求めなさい。」とあります。
ここでの「愛」とは、「アガペー」とギリシャ語で呼ばれる愛であり、それは「神の愛」を指しており、神の御子イエス・キリストが十字架で死ぬことによってもたらされた「人間の罪の赦し」に示された「神様の無償の愛」のことです。
ですから、14章1節の「愛を追い求めなさい」とは「神様を・キリストを追い求めなさい」と同じです。神様と愛とは直結しています!だから、「神の愛」を追い求めると、そこから派生して、神様の豊かな、様々な霊的賜物が私達の上に注がれます。神様から賜る私達へのプレゼント、つまり、異言や預言をいただけて、神様に繋がります。実は、Ⅰコリント書の12章から14章までずっと霊的賜物について書かれており、神様を追い求めると、神様との交わりを持てると言えます。言い換えると「証し」です。これが自分にとってのかけがえのない神秘となり、私達一人一人は霊的な力を得て、活き活きと生きていけるのです!

4月16日の説教要旨 「その時、わたしは ―イースターの光に包まれて―」 佐々木勝彦先生

イザヤ書53110  マタイ福音書266975   Ⅰコリント書15111

 はじめに

イースターに因(ちな)んだ聖書箇所で思い出されるのはどこでしょうか。マタイ、マルコ、ヨハネ福音書で共通する最後の御言葉は「出て行きなさい。」、更には「伝えなさい。」ということです。そして、それは「どこに」でしょうか。マタイ福音書を例に挙げれば、「すべての民の所に」であり、そこで具体的に何をするためなのかと言えば、「洗礼を授けるように」ということです。

 「イースター」を考える時

「イースターをどう考えるのか」というテーマを与えられた場合、「主の大宣教令」の中の「すべての民に洗礼を授けなさい」を思い起こすことができるでしょう。洗礼を既に受けた方は、自分が受洗した時、復活の主に出会ったと言えるでしょう。しかし、主との出会いを忘れてしまい、信仰生活から外れていく人もいますし、逆に持続する人もいます。次に、「飲み食い」=(教会では)「聖餐式」において、復活したイエス様に出会います。「聖餐式」の度に、復活したイエス様との出会いを考える機会があるのです。そうでなければ、大事なことを忘れていると言えます。

 ヨハネ福音書でのイエス様とペトロ⇒「語り部」となったペトロ

また、ヨハネ福音書21書15節以降の「復活の主と弟子ペトロ」の話も示唆に富んでいます。断絶した子弟関係を繫ぐ(修復する)ことが記されているからです。今日の新約聖書の箇所にもあるとおり、ペトロはイエス様を三度も知らないといった「ダメ人間」とも言える人物です。この箇所(ヨハネ21:15~)から考えられるのは、ペトロが「十字架にかかったイエス様が、ダメ人間の私を許してくださった!」と感謝し、それを伝えたということです。つまり「語り部」になったという訳です。東日本大震災の後にも「語り部」が現れました。キリスト教もそうだったのではないでしょうか。「語り部」が先に生まれ、その後に文字、つまり「聖書」が書かれていくのです。「語り部」が語ることは二つ、一つはイエス様に何が起こったのかということ(まず、これを正しく語れなければなりません。)、二つ目は「その時、わたしはどう思ったか?」ということです。語る事柄とわたしの気持ち、この二つが「語り部」には必要です。こうして、「語り部」の語ることが、キリスト教の中では「証し」や「説教」となっていったのでしょう。

 パウロとペトロ

私自身は、パウロがいかに素晴らしいかを語る牧師の説教を長年聞いて育ったので、パウロは好きですが、ペトロは好きではありませんでした。しかし、今回「主の復活」をテーマにもう一度、聖書を通読してみた結果、ペトロが「ダメ人間」だった故に、復活したイエス様から許されて受け入れられた喜びがいかに大きかったか、また、その経験によって、ペトロは「語り部」として神様に用いられていったのだということを発見することができました。

 イースターは「死」について考える時

さて、主の復活の讃美歌でも明らかなように、イースターは「死」について考える時でもあります。イエス様の宣教の第一声は「神の国は近づいた」です。神の国が近づくとは、終末のことです。終末とは、時間の死です。人間としての私の死だけでなく、時間の死も考えるべきことが示されています。つまり、イースターは自分を越えたもの、この世の終わりを考えよということです。ペトロの経験から言えば、イエス様の方から現れ、守ってくださり、自分を「語り部」として用いてくださるということです。イエス様は私達に「大丈夫だから、一緒に行きましょう!」と招いてくださり、大変な時には、イエス様が自分を背負ってくださいます。それは「あしあと」という詩に描かれたイエス様の御姿です。ペトロは、まさしく、イエス様に背負われて歩んだのではないかと私は想像します。

 イースターは復活したイエス様に光の中で出会う時

私達が復活したイエス様に出会うのは、洗礼を受けた時、また、聖餐を受ける時、更には、伝道する時や、死の克服(つまり「復活」です。参照:ローマの信徒への手紙6章3-11節)を感謝する時です。今日の説教題は「その時、わたしは―イースターの光に包まれて―」としました。「その時」とは復活した主に出会う時です。きっと明るい光に包まれていることでしょう。イースターの光の中で、私達は、主に背負われているか、共に歩いていただいているのではないでしょうか。その光はどこから来るのでしょうか。きっと後ろから、即ち、後光が指した中での出会いだと私は考えています。

2017・4月9日の礼拝説教要旨 「十字架のキリスト」 佐藤 義子

ゼカリヤ 9910・Ⅰコリント11825

はじめに

本日は「しゅろの日曜日」(パームサンデー)です。2千年以上も前の今日、イエス様がエルサレムの町に子ロバに乗って入られた時、イエス様の名声を聴いていた多くの群衆達が こぞってしゅろの葉を振り、又、枝を道に敷いて大歓迎しました。その5日後にイエス様は十字架で殺されました。

誰が殺したのか

今を生きる私達はイエス様の「死」に直接かかわっていません。しかし、当時の宗教指導者達の、自分の地位や評価を脅かす人達・自分を批判する者(目の上のこぶ・邪魔者)は いなくなれば良いとの感情や自分より優れている者への嫉妬の感情、総督ピラトが「この男に何の罪も見いだせない」と言いながらも大群衆の「十字架につけろ」の叫び声に屈して正義を貫けなかった姿や「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」との脅しに負けて自分の地位を守る姿、又、ペトロの、自分が不利な立場に追い込まれないようにイエス様の弟子であることを否定する姿、あるいは裏切りながら表面では親しそうにイエス様に接吻するユダの姿・・など、彼らの姿の中に、私達は、すべての人間(勿論例外なく自分も含む)の罪・・「自己中心、自己正当化、自己絶対化、自己保身の罪」を見るのです。

十字架のもう一つの意味

今日読んだ聖書には、「十字架の言葉」(18節)という文言が出てきました。目に見える十字架へのプロセスとは別に、もう一つ十字架に隠された深い意味を表している言葉です。十字架の言葉とは、十字架にかけられたキリストの姿から放たれている神様のメッセージです。人間の知恵や知識では到底知ることが出来ない神様の救いの御計画です。

十字架による神様との和解

それまで私達は、神様と敵対する「罪」の奴隷、「罪の支配するこの世の鎖」につながれていました。その行き着く先は滅びと死です。しかし、十字架は、私達を罪の鎖から解放しました。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによるあがないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者の為に罪を償う供え物となさいました。それは神の義をお示しになるためです」(ロマ書3:23-)。 あがなうとは、代価を払って買い取ることです。キリストの十字架で流された血潮(代価)によって、私達は罪の奴隷から神様に買い戻されて、神様との交わりが回復したのです。このことを信じて受け入れた者は、神様の支配される国の民の一員とされるのです。

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなもの

滅んでいく者として例に挙げられたのが、ユダヤ人とギリシャ人です。ユダヤ人とは、「しるし」=「目に見える」を求める人達のことです。神様の力を手でとらえ、目で見ることを要求し、自分が承認出来る奇跡・裏付けを求める人達です。一方、ギリシャ人とは、思想、哲学、観念を重んじる人達です。議論を好み、説明がつかないことは拒否します。自分達の考えに矛盾するものは受け付けようとしない人達です。

十字架の言葉は、救われる者には神の力。

21節に「世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした」とあるように、人間は、どんな知識、知恵、哲学をもってしても神を発見する(知る)ことは出来ませんでした。「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(同)。

宣教を通して語られる「十字架の言葉」を受け取り、信じるキリスト者は、神の力と神の知恵であるキリスト(24節)と共に歩む道が開かれました(そして今も恵みの時として開かれ続けています!)。私達には、日々私達を取り囲むさまざまな苦悩や矛盾や戦いがあります。しかし信仰をもって神の力と神の知恵であるキリストに結ばれている時、私達はそれらに必ず打ち勝つことができます。又、この会堂の土地が与えられたように、人知を超えた神様の知恵と業を見ることが出来ます。受難週を迎えるにあたり、十字架のキリストから放たれているメッセージを、感謝しつつ聞き従うものとして歩みたいと願っています。