11月5日の説教要旨 「死と復活」 牧師 平賀真理子

詩編16:7-11  Ⅰコリント書15:42-58

*はじめに
今日は召天者記念礼拝の日です。信仰を持って生き、天に召された方々を思い起こし、その信仰を受け継ごうという思いを新たにする日です。この方々の「信仰」とは、一言で言えば、イエス・キリストを自分の救い主として信じる信仰です。彼らは、この世での肉体をいただいて生きている間に福音に出会い、「イエス・キリストは自分の罪を贖ってくださるために十字架に架かって犠牲になられた」と信じ続けました。確かに、それが信仰の第一歩です。しかし、それだけを強調するのは不十分です。信仰者は、主の十字架だけでなく、主の復活を知らされ、信じて生きるのです!

 

*コリントの信徒への手紙一15章
「主の復活」については、今日の箇所、Ⅰコリント書15章も、それを証ししている箇所の一つです。この書の著者パウロは、ここで3つの内容に分けて、信仰者に思い起こしてほしいことを書き送っています。
聖書の小見出しに沿って、最初の段落「キリスト復活」の中で、パウロは、キリストが、聖書に書いてあるとおり自分の罪のために死んだこと(十字架)、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後12人(主要な弟子)に現れたこと、その後、五百人以上の兄弟達(信仰者)に同時に現れ、生きた証人がたくさんいることを証ししています。
次の12節からの段落「死者の復活」では、多くの証人が「主の復活が事実だ」と証言できるのだから、イエス様の復活がなかったとは決して言えない、むしろ、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人々の初穂となられました」(20節)とパウロは宣言しました。そして、人類の祖とされる「アダム」によって、神様を信じないという罪で、すべての人が死ぬことになったという内容(ローマ書5:12-14)を記し、その対比として「キリストによって、すべての人が生かされることになる」(22節)とあります。それは、アダムから累々と流れる人類の罪すべてを贖うために、イエス様が十字架という苛酷な運命に従順に従われたので、父なる神様がそれを祝福して「死からの復活」という栄誉を与えたことを意味します。そして、その恵みがイエス様だけに留まらず、その意味を理解して受け入れる信仰者にも与えられると言われています(ローマ書3:22等)。
更に、15章23-24節では、復活の順番について、「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるとき(キリスト再臨の時)に、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来る」と書かれています。イエス様はすでに復活なさっていますから、主の再臨の時に、イエス様を救い主として信じる者は復活させていただけると宣言されています!

 

*「種」の例え
このようにパウロは説明し、次いで、コリントの集会の人々のために「具体的な『復活の体』」について、具体的な説明を続けます。「種」の例えです。種は、一つの物体のように死んでいるような様子に一度はなりますが、違う姿で生き返ってくるように見えます。死んだような「種」の状態が「この世での肉体上の死の姿」であり、「新しい命が出てきた姿」が「復活の体」のようだと例えています。そして、神様は全能の御方なので、それぞれにふさわしい体を与えてくださるとパウロは説明しています。

 

*死の状態と復活の状態の例え
今日の新約聖書箇所に入りまして、前段落の例えを基本に、パウロは別の表現も試みました。「死の状態」を、蒔かれる時に「朽ちるもの」・「卑しいもの」・「弱いもの」であっても、芽を出す時のような「復活の体」を「朽ちないもの」・「輝かしいもの」・「力強いもの」と表現しています。更に、死んで復活することを「『自然の命の体』が蒔かれて『霊の体』に復活する」とも表現しました。

 

*「アダム」と「イエス様」
次いで、再び、人類の祖「アダム」のことが出てきます。アダムは神様から命の息を鼻に吹き入れられて生きる者となった(創世記2:7)のですが、最後のアダムと例えられているイエス様は十字架と復活を経て「神様」の御姿に戻られたのです。そして、人間は、「土でできた最初の人であるアダム」のように、この世での物質でできた体で生きるようにされていますが、信仰者達は「天に属する第二の人」であるイエス様の似姿になって「復活」することができるとパウロは教えています。

 

*「朽ちないもの」「死なないもの」を着る恵み
私達信仰者は、天に属するために「朽ちないもの」、すなわち「永遠のもの」を着ることが許されていると50節以降に記されています。52節の「最後のラッパが鳴るとき」とは、終末(この世の終わりの時)であり、キリスト再臨の時ですが、この時、信仰者達は「朽ちないもの」「死なないもの」を必ず着るようになるとパウロは語りました。復活の主の恵みを、何の功績もない私達が着ることが許されている恵みに感謝です。

 

*「死」・「罪」・「律法」⇔「命」・「救い」・「信仰」
パウロは、「この世のこと」を表現する時、「死」「罪」という表現を用いますし、救いの古い方法である「律法」が支配する世界と表現しました。そして、これに対抗して、というよりも、これを凌駕するものとして、「(天に属する、永遠の)命」と「救い」とし、そして、救いの新しい方法としての「福音への信仰」という表現を好んで用いています。
54節の後半から、パウロの特徴の、その言葉が出てきます。「罪」の最たるものが「死」であり、罪の虜の人間は「死」を最も恐れて生きざるを得ない状況に置かれてきました。しかし、イエス様の十字架と復活という救いの御業によって、人間の罪が覆われ、憐れみ深い神様は、人間に対して過去の罪は問わないとしてくださいました。「死の世界」が誇っていた「罪」に対して、イエス様が勝利されたのです。「人間の罪を自覚させ、恐怖に陥れ、人間を悪の方へがんじがらめにする」おおもとになっていたのは「律法」でした。イエス様は、それらすべてに打ち勝ってくださったのです。だから、私達はかつて自分の内側に潜んで力を奪っていた「罪意識」、もっとはっきり言うと、「私なんかダメだ!」「私には生きる価値がない」といった絶望から、イエス様を信じる恵みによって、「私は神様が目をかけてくださる存在」「神様の御心に適う生き方ができると期待されている存在」「神様に愛されている存在」だという希望が持てるようになるのです。それが神様に祝福される、本来の人間の姿ではないでしょうか。

 

*復活の主に結ばれて、主の業に励む喜び
今日の箇所の最後に、パウロは主を信じる者達に、主に結ばれて、主の業に励むことを勧めています。それは、すなわち、信仰の先達、この方々が、その人生において行ってきたことです。今日の箇所のパウロの言葉に励まされ、また、これらの先達の生き方に倣いながら、私達は、神様の御前に、再び生かされている恵みを感謝し、主の御用のため、特に、福音伝道のために用いられたいと願います。そして、それを心から感謝し、喜べる信仰者へ成長していけるように、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。

 

8月20日の説教要旨 「異言は己を、預言は人を造り上げる」 野村 信 先生(東北学院大学)

詩編145:8-16 Ⅰコリント書14:1-5
*はじめに
今日の新約聖書箇所から、使徒パウロが二つのことを述べていることがわかります。「①愛を追い求めなさい。②何よりも霊的な賜物を熱心に求めなさい。」ということです。しかし、この二つは実は一つのことです。
*霊的な賜物とは?
体が疲れた時、私達は栄養ドリンクを飲みます。霊的な賜物とは、心の栄養ドリンクのようなものです。かつて、私自身、どん底の状態にあり、沈んでいましたが、霊的な賜物をいただいたおかげで、生き返った体験をしたので、是非語りたいのです。しかし、これは私だけの体験ではなく、大勢のクリスチャンが書き残した物からも読み取ることができます。
*パウロと「異言」
まず、パウロが書いた「今日の聖書箇所」から見てみると、霊的な賜物には2種類あると言っています。異言と預言です。この2つは重なっているけれども、パウロは際立たせて区別しています。「異言」は聖書の元々の言葉であるギリシャ語では「グロッサ」と言い、「舌」とか「言語」という意味の言葉ですが、パウロは以下の2つの意味を含んだものを指していると見ることができます。一つは「異なった言葉」(例:使徒言行録2章にあるペンテコステの出来事)と、もう一つは「神秘を語る」ということです。14章2節でパウロが「異言を語る者は、人に向かってではなく、
神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っています。」と言ったとおりです。異言は聖霊によって語られた「言葉にならない言葉」です。私達は、「神秘」や「異言」を極めて非聖書的と考えがちですが、パウロは違います。同じ書の4章18節で、パウロは自分について「最も異言を語った」と述べています。
*「預言」が重点的に語られてきた末に
また、14章3―4節を見ると、預言は人に向かって語られ、人を造り上げるのであり、異言は自分(=己)を造り上げるとあります。この箇所が説教で語られる場合、多くの牧師は「預言」の方を重点的に語ってきたように思います。歴史的に見て、伝道において未熟な日本で、しっかりした教会を造り上げたいと願って、そのように語られたと言えるでしょう。しかし、21世紀に入った今、立派な建物の教会に、信者達が集まらず、そのために教会を閉めざるを得ない状況が世界中で起こっています。カトリック信者も少なくなっていますが、特に、プロテスタント信者の数の減少に歯止めがかかりません。同様に、私達が所属する日本基督教団の信徒数も減り続けています。何か根本的な
問題があると考えざるを得ないと思います。「預言」だけでいいのでしょうか。
*「異言」によって私達一人一人が活き活きと変えられる
長らく「異言」は不可解で怪しげだから、「預言」を重んじようと教えられてきました。「預言」はとても大切です。なぜなら、人を造り上げ、教会を造り上げるからです。しかし、今、教会に集う私達一人一人が、家庭でも職場でも、キリスト者として活き活きと生きているでしょうか。私自身も、かつては、聖書の教理とか教義、すなわち「預言」を語り続けてきましたが、10年ほど前には、かなりひどく落ち込んでいました。それは精神的な病気と症状は似ていましたが、違います。信仰の問題でした。信仰によって喜びや力が全然湧いてこないという状況でした。数年後に立ち直り、今や、神様のためにずっと働き続けても元気!となりました。己を造り上げることができたからです。しかし、私の周りを見渡しても、牧師や神学者の中に、つまり、「預言」を語る専門家達の中に、燃え尽きて抜け殻のようになっている人々がいることを知っています。(但し、預言=教理や教義は、300~400年かけて生み出されたキリスト教の柱であり、大切なものです!)
*パウロによる教えの再発見
パウロは、今日の聖書箇所で、「異言」を語る大切さを教えていたのです。すなわち、聖霊の働きの中で神様と語り合うこと・神秘を語ることは、「己を造り上げる」ことだと教えてくれます。私達は神様に向かう、または神様と語り合うということの大切さに気付かなくてはなりません。その中には、人間の言葉にはならず、人にはわからないものもあるかもしれませんが、神様に祈る・神様と語り合うことで、自分を造り上げることをおろそかにしてはならないのです。
*「異言」とは? ―歴史を振り返り、数々の著作や著者から―
では、具体的に「異言」とはどのようなものでしょうか。どのように行(おこな)ったらいいのでしょうか。歴史を振り返ると、優れた信仰者達を例として挙げることができます。彼らはしっかり書き残してくれたので、私達が知ることができます。彼らは、異言を存分に語って、力強く、立派な信仰者の生涯を送り、神様と人間に仕えて生きたことがわかります。
その筆頭はパウロです。パウロの書いた手紙の中に、パウロの「異言」と思える箇所がいくつもあります。例えば、「十四年前に第三の天にまで引き上げられた」(Ⅱコリント書12:2)とか、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(ローマ書8:22)等です。
また、今日の旧約聖書箇所に挙げた詩編145編でも、この詩人は「造られたものすべて(万物)」が神様に感謝すると謳っていて、これも「異言」と言えます。
アウグスティヌスというキリスト教の立役者は、『告白』という名著を残し、自分の愚かしい、恥ずかしい過去を美しい文体で書きました。
普通の感覚ならば書けないような、自分の醜い過去を神様に告白する、つまり、神様に向かって語るという「異言」となっているのです。
アンセルムスという人も中世の思想家として名高い人ですが、『モノロギオン』『プロスロギオン』という著作の中で、「異言」が多くあります。
さらに、サン・ビクトールのフーゴーという修道士は、民衆達と一緒に聖書を読むために「絵巻物聖書」を作りましたが、彼の『魂の手付金の独語録』という本は、神様への燃えるような賛美を献げる中で、ほとんどが異言を語っていると言わざるを得ない内容です。
私の専門である宗教改革者のカルヴァンは『キリスト教綱要』という有名な教理的な書物を書き、ほとんど毎日1時間の説教をした人です。この説教を聴いていた、当時の1500人程の人々は、霊的な喜びと感動に満ち溢れていたのです。研究者達でこの説教の翻訳を続けています。
地味で飽きてくる内容ですが、これが「異言」です。よくわからない、あるいはあまりにもありふれたものなのに、実際は、霊的であり、神秘的であり、神の世界が広がっているような一時と言えます。
現代で、私達の知っている日本人では、八木重吉というクリスチャンの詩人がいます。彼は短い生涯の中で二千もの詩を残しましたが、「霊感の人」と言ってもいいでしょう。神秘の中で不思議を語った人です。
20世紀を生きた人に、神谷美恵子という人がいました。彼女は結局キリスト教の洗礼を受けませんでしたが、ほとんどキリスト者であると言えるような天才的な人でした。この人の日記の中には、不思議な神秘的な語りが何度も出てきます。また、著作『生きがいについて』で「変革体験(本当は「神秘体験」と名付けたかったらしい)」という箇所があり、これも「異言」の一種と言えるでしょう。
それから、カトリックの神父で、八ヶ岳で庵を編んでいた 押田成人という方がいましたが、彼の著書『遠いまなざし』も、ほとんど異言と言えるような不思議で神秘的な話です。私は、自分自身が霊的なものに触れて立ち直った後に、この方の本を読んだところ、内容が理解できるようになってきました。
*「異言」によって、己を高め、強めることができる!
今まで述べてきたように、「預言」は建徳的であり、人や教会を造り上げるものですが、「異言」は霊によって語られるもので、自分を造り上げるものです。一人一人が取り組むべきものであり、他人にはわからなくても、自分を高め、強めるものです。だから、パウロは「霊的な賜物を追い求めなさい」と言っているのであり、私達一人一人は、神様との対話の追求を行(おこな)っていきたいものです。
*「神の愛」を追い求める私達に、霊的な賜物が注がれる
今日の聖書箇所の直前のⅠコリント書13章は「愛の賛歌」と呼ばれる、愛についてのパウロの語りが出てきます。そして、14章の初めの第1節で、「愛を追い求めなさい。霊的な賜物を熱心に求めなさい。」とあります。
ここでの「愛」とは、「アガペー」とギリシャ語で呼ばれる愛であり、それは「神の愛」を指しており、神の御子イエス・キリストが十字架で死ぬことによってもたらされた「人間の罪の赦し」に示された「神様の無償の愛」のことです。
ですから、14章1節の「愛を追い求めなさい」とは「神様を・キリストを追い求めなさい」と同じです。神様と愛とは直結しています!だから、「神の愛」を追い求めると、そこから派生して、神様の豊かな、様々な霊的賜物が私達の上に注がれます。神様から賜る私達へのプレゼント、つまり、異言や預言をいただけて、神様に繋がります。実は、Ⅰコリント書の12章から14章までずっと霊的賜物について書かれており、神様を追い求めると、神様との交わりを持てると言えます。言い換えると「証し」です。これが自分にとってのかけがえのない神秘となり、私達一人一人は霊的な力を得て、活き活きと生きていけるのです!

4月16日の説教要旨 「その時、わたしは ―イースターの光に包まれて―」 佐々木勝彦先生

イザヤ書53110  マタイ福音書266975   Ⅰコリント書15111

 はじめに

イースターに因(ちな)んだ聖書箇所で思い出されるのはどこでしょうか。マタイ、マルコ、ヨハネ福音書で共通する最後の御言葉は「出て行きなさい。」、更には「伝えなさい。」ということです。そして、それは「どこに」でしょうか。マタイ福音書を例に挙げれば、「すべての民の所に」であり、そこで具体的に何をするためなのかと言えば、「洗礼を授けるように」ということです。

 「イースター」を考える時

「イースターをどう考えるのか」というテーマを与えられた場合、「主の大宣教令」の中の「すべての民に洗礼を授けなさい」を思い起こすことができるでしょう。洗礼を既に受けた方は、自分が受洗した時、復活の主に出会ったと言えるでしょう。しかし、主との出会いを忘れてしまい、信仰生活から外れていく人もいますし、逆に持続する人もいます。次に、「飲み食い」=(教会では)「聖餐式」において、復活したイエス様に出会います。「聖餐式」の度に、復活したイエス様との出会いを考える機会があるのです。そうでなければ、大事なことを忘れていると言えます。

 ヨハネ福音書でのイエス様とペトロ⇒「語り部」となったペトロ

また、ヨハネ福音書21書15節以降の「復活の主と弟子ペトロ」の話も示唆に富んでいます。断絶した子弟関係を繫ぐ(修復する)ことが記されているからです。今日の新約聖書の箇所にもあるとおり、ペトロはイエス様を三度も知らないといった「ダメ人間」とも言える人物です。この箇所(ヨハネ21:15~)から考えられるのは、ペトロが「十字架にかかったイエス様が、ダメ人間の私を許してくださった!」と感謝し、それを伝えたということです。つまり「語り部」になったという訳です。東日本大震災の後にも「語り部」が現れました。キリスト教もそうだったのではないでしょうか。「語り部」が先に生まれ、その後に文字、つまり「聖書」が書かれていくのです。「語り部」が語ることは二つ、一つはイエス様に何が起こったのかということ(まず、これを正しく語れなければなりません。)、二つ目は「その時、わたしはどう思ったか?」ということです。語る事柄とわたしの気持ち、この二つが「語り部」には必要です。こうして、「語り部」の語ることが、キリスト教の中では「証し」や「説教」となっていったのでしょう。

 パウロとペトロ

私自身は、パウロがいかに素晴らしいかを語る牧師の説教を長年聞いて育ったので、パウロは好きですが、ペトロは好きではありませんでした。しかし、今回「主の復活」をテーマにもう一度、聖書を通読してみた結果、ペトロが「ダメ人間」だった故に、復活したイエス様から許されて受け入れられた喜びがいかに大きかったか、また、その経験によって、ペトロは「語り部」として神様に用いられていったのだということを発見することができました。

 イースターは「死」について考える時

さて、主の復活の讃美歌でも明らかなように、イースターは「死」について考える時でもあります。イエス様の宣教の第一声は「神の国は近づいた」です。神の国が近づくとは、終末のことです。終末とは、時間の死です。人間としての私の死だけでなく、時間の死も考えるべきことが示されています。つまり、イースターは自分を越えたもの、この世の終わりを考えよということです。ペトロの経験から言えば、イエス様の方から現れ、守ってくださり、自分を「語り部」として用いてくださるということです。イエス様は私達に「大丈夫だから、一緒に行きましょう!」と招いてくださり、大変な時には、イエス様が自分を背負ってくださいます。それは「あしあと」という詩に描かれたイエス様の御姿です。ペトロは、まさしく、イエス様に背負われて歩んだのではないかと私は想像します。

 イースターは復活したイエス様に光の中で出会う時

私達が復活したイエス様に出会うのは、洗礼を受けた時、また、聖餐を受ける時、更には、伝道する時や、死の克服(つまり「復活」です。参照:ローマの信徒への手紙6章3-11節)を感謝する時です。今日の説教題は「その時、わたしは―イースターの光に包まれて―」としました。「その時」とは復活した主に出会う時です。きっと明るい光に包まれていることでしょう。イースターの光の中で、私達は、主に背負われているか、共に歩いていただいているのではないでしょうか。その光はどこから来るのでしょうか。きっと後ろから、即ち、後光が指した中での出会いだと私は考えています。

2017・4月9日の礼拝説教要旨 「十字架のキリスト」 佐藤 義子

ゼカリヤ 9910・Ⅰコリント11825

はじめに

本日は「しゅろの日曜日」(パームサンデー)です。2千年以上も前の今日、イエス様がエルサレムの町に子ロバに乗って入られた時、イエス様の名声を聴いていた多くの群衆達が こぞってしゅろの葉を振り、又、枝を道に敷いて大歓迎しました。その5日後にイエス様は十字架で殺されました。

誰が殺したのか

今を生きる私達はイエス様の「死」に直接かかわっていません。しかし、当時の宗教指導者達の、自分の地位や評価を脅かす人達・自分を批判する者(目の上のこぶ・邪魔者)は いなくなれば良いとの感情や自分より優れている者への嫉妬の感情、総督ピラトが「この男に何の罪も見いだせない」と言いながらも大群衆の「十字架につけろ」の叫び声に屈して正義を貫けなかった姿や「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」との脅しに負けて自分の地位を守る姿、又、ペトロの、自分が不利な立場に追い込まれないようにイエス様の弟子であることを否定する姿、あるいは裏切りながら表面では親しそうにイエス様に接吻するユダの姿・・など、彼らの姿の中に、私達は、すべての人間(勿論例外なく自分も含む)の罪・・「自己中心、自己正当化、自己絶対化、自己保身の罪」を見るのです。

十字架のもう一つの意味

今日読んだ聖書には、「十字架の言葉」(18節)という文言が出てきました。目に見える十字架へのプロセスとは別に、もう一つ十字架に隠された深い意味を表している言葉です。十字架の言葉とは、十字架にかけられたキリストの姿から放たれている神様のメッセージです。人間の知恵や知識では到底知ることが出来ない神様の救いの御計画です。

十字架による神様との和解

それまで私達は、神様と敵対する「罪」の奴隷、「罪の支配するこの世の鎖」につながれていました。その行き着く先は滅びと死です。しかし、十字架は、私達を罪の鎖から解放しました。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによるあがないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者の為に罪を償う供え物となさいました。それは神の義をお示しになるためです」(ロマ書3:23-)。 あがなうとは、代価を払って買い取ることです。キリストの十字架で流された血潮(代価)によって、私達は罪の奴隷から神様に買い戻されて、神様との交わりが回復したのです。このことを信じて受け入れた者は、神様の支配される国の民の一員とされるのです。

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなもの

滅んでいく者として例に挙げられたのが、ユダヤ人とギリシャ人です。ユダヤ人とは、「しるし」=「目に見える」を求める人達のことです。神様の力を手でとらえ、目で見ることを要求し、自分が承認出来る奇跡・裏付けを求める人達です。一方、ギリシャ人とは、思想、哲学、観念を重んじる人達です。議論を好み、説明がつかないことは拒否します。自分達の考えに矛盾するものは受け付けようとしない人達です。

十字架の言葉は、救われる者には神の力。

21節に「世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした」とあるように、人間は、どんな知識、知恵、哲学をもってしても神を発見する(知る)ことは出来ませんでした。「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(同)。

宣教を通して語られる「十字架の言葉」を受け取り、信じるキリスト者は、神の力と神の知恵であるキリスト(24節)と共に歩む道が開かれました(そして今も恵みの時として開かれ続けています!)。私達には、日々私達を取り囲むさまざまな苦悩や矛盾や戦いがあります。しかし信仰をもって神の力と神の知恵であるキリストに結ばれている時、私達はそれらに必ず打ち勝つことができます。又、この会堂の土地が与えられたように、人知を超えた神様の知恵と業を見ることが出来ます。受難週を迎えるにあたり、十字架のキリストから放たれているメッセージを、感謝しつつ聞き従うものとして歩みたいと願っています。