2023年4月2日の説教要旨 ゼカリヤ書9:9-10・ルカ書19:28-44

             「いと高き方」       加藤 秀久牧師     

*はじめに

  本日のルカ福音書の28節に「イエスはこのように話してから」とあり、その内容を見ると、「ムナ」のたとえ話が記されています。「ムナのたとえ話」は、王の位を受ける為に主人が遠い国へ旅立つことになり、10人の僕に1ムナずつお金を渡して、留守中、それで商売をするように言って出かけます。主人が帰ってきた時、そのお金で利益を上げた僕と、布に包んで何もしなかった僕に対して、主人からの裁きが下ったという内容です。

又、たとえ話の初めに、「人々がこれらのことに聞き入っている時」とあり、「これらのこと」をさかのぼって見ると、「ザアカイ」が救われた出来事が記されています。徴税人ザアカイ(税金を徴収する仕事をする人、嫌われ者だった)は、エリコの町に入られたイエス様を一目見ようと、いちじく桑の木に登りました。木の下まで来られたイエス様は、ザアカイの名前を呼び「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたので、ザアカイは喜んでイエス様を彼の家に迎え、イエス様と同じ時を過ごし話をすることで、ザアカイの心に変化が起こりました。ザアカイに救いがもたらされたのです。この出来事に続いて「ムナ」のたとえ話が語られます。

*イエス様の決意と子ろば

ルカによる福音書の9:51には「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と記されています。

その日以来、イエス様は、ご自分の目的、使命をはっきりと意識されて、本日の19章28節に「イエスは、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」と、イエス様が弟子達より先を歩かれたことを伝えています。

そして、エルサレムまでの距離 約三キロ離れた所のオリーブ畑と呼ばれる山のふもとにあるベタニアとベトファゲに近づいた時イエス様は二人の弟子に「まだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて引いて来なさい理由を聞かれたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」と使いに出しました。 誰も乗ったことのない子ろばは、まだ軛(くびき:首に木の枠をはめて、馬車や荷車をつないで引かせる)を負ったことがなく、ゼカリヤ書9:9には「娘エルサレムよ、・・見よ、あなたの王が来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」と預言されています。<くびき:(マタイ11:29-30)イエス様は「わたしのくびき」を負いなさい。イエス様のくびきは軽くて負いやすく、私達の重荷(悩み苦しみ)を生涯、一緒に背負い、担って下さると約束されています。> 

*託宣

ゼカリヤ書9章1節には「託宣」とあります。「託宣」とは、預言者を通して、特に重要な大切な神様の言葉を語る時、声を大にして叫ばざるを得なかった神様からのメッセージを叫ぶような声で語られた言葉で、その内容の重要性を表わしています。この言葉が使われる時は必ず、神様の裁きが語られ、特にゼカリヤ書9:1-8にはイスラエルの人達を取り巻く町々に対して、神様の裁きが語られています。

*イエス様の死と復活の予告

二人の弟子をはじめ他の弟子達も、イエス様がなぜ「誰も乗ったことのない子ろば」を必要とされたのかを理解することは出来ず、おそらくイエス様を歓迎した群衆逹も本当のところは分からずにいたのでした。

イエス様は弟子達にこれまで「人の子は必ず多くの苦しみを受け、指導者達から捨てられ、殺され、三日後によみがえる」ことを述べてきました(ルカ18:31~他)。しかし弟子達がイエス様の言葉を理解することが出来たのは、イエス様が天に昇られ神様の栄光を受けられた後です。

*今日は棕櫚(しゅろ)の日曜日

大勢の群衆はイエス様を出迎えて「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と声高らかに賛美し始めました。私達がザアカイのようにイエス様を迎え入れ、たとえ話の1ムナをふやした僕のように再び来られるイエス様をしっかりと待ち、諦めずに希望を持ち続け信じ続けることが出来る人になることを、イエス様は私達に望んでおられます。神様が計画された私達の歩みには、必ず喜びがあることを信じて、今週の歩みを始めて参りましょう。

2022年4月10日の説教要旨 ゼカリヤ書9:9-10・マルコ 11:1-11

「ホ サ ナ」       加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日は、「しゅろの日曜日」です。

イエス様が子ろばに乗って、エルサレムの町に入られた時、多くの人々は、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」(マルコ11:9) と叫びました。 「ホサナ」とは、ヘブライ語で「おお(どうぞ)お救い下さいいま救って下さい」という意味があります。

私達は日常生活の中で様々な出来事が起こります。中でも問題や困難に出会う時、他の人に頼ることもできず、友人に頼ることが出来たとしても心の底から真実を話せないまま解決しきれないものが残ってしまうことはないでしょうか。しかし私の全てを信頼して委ね、任せることのできる「イエス様」というお方に出会ったら、私達もエルサレムの人々と同じように「ホサナ!いま救って下さい、助けてください」と叫ぶと思います。

*子ろば

 イエス様と弟子達の一行がエルサレムの近くまで来た時、イエス様は、二人の弟子に「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」と、村へ使いに出されました。ここで注目する点は、「まだだれも乗ったことのない子ろば」です。当時のパレスチナ地方ではロバは重要な家畜で、荷物運搬や乗用、農業に用いられていました。「今まで誰も乗ったことがない子ろば」とは、聖なるものに用いられる意味があると思います。さらに本日のゼカリヤ書には、「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」(9:9)とあり、「王が来る。・・雌ろばの子である ろばに乗って」は、救い主イエス様が王としてエルサレムに入ってくる 預言と聞くことが出来ます。

なぜ、そんなことをするのか

 イエス様から「つながれている ろばをほどいて連れて来るように」と使いに出された二人の弟子は、村に入るとすぐの表通りの戸口に、子ろばのつないであるのを見つけました。それをほどくと、居合わせた人々が「ほどいてどうするのか」と聞きました。二人の弟子はイエス様の言われた通り「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と話すと許してくれました。このようにして二人の弟子は、イエス様の言われた通りに行動して、神様の不思議な御業、イエス様の言われた事が現実になったことを体験したのでした。

*わたしたち

 私達が何か問題にぶつかり、現状に本当に困り、どうすることもできない時に神様に祈り、神様の導き、神様の語られる声に従って行動した時に、神様が私達をその問題から助け出して下さったこと、不思議な存在の働きがあったことを体験したことはありませんか。 

私は、家業を継いだ後、その仕事を辞めた時に、弟が中古の家を買い、リフォームの必要がありましたが、十分な蓄えがなく、自分達ですべてやることを決めて近くのホームセンターに材料を買いに行きました。

たまたま訪れたホームセンターでしたが、そこにはアウトレット品の売り場があり材料が格安で販売されて、ほとんどを格安で買った後も時には不思議な人とのつながりによって材料をタダで譲りうけたこともありました。さらに神様はリフォーム終了まで改築のあり方のアドバイスを「あぁしたら良い、こうしたらいいよ」と語って下さっているように感じ、その通り作業を続け、考えていた以上のリフォームとなりました。

*心の中に住まわれる神様

イエス様の言葉通りに行動した弟子達が不思議なみ業を体験したように、神様は信じる者達の心の中におられ、慰め、励ましの言葉を下さいます。私達もイエス様を出迎えた人々と同じように「ホサナ。

主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」(ルカ19:38)と、讃美いたしましょう!

3月25日の説教要旨 「十字架への道」 牧師  平賀真理子

ゼカリヤ書9:9-10 マルコ福音書14:32-42

はじめに

今日から受難週です。受難週は受難節の最後の週ですが、受難節の中にありますから、「克己・修養・悔い改め」という目標は継続されます。教会での礼拝でそのように決意しても、私達はこの世の生活に戻れば、迫りくる仕事や人間関係に埋没して、この目標を忘れることが多いのではないでしょうか。私達は忘れっぽさという弱さを抱えています。

 

エルサレムの人々の忘れっぽさと主の決意

イエス様がこの世を歩まれた約2000年前のユダヤ人達も忘れっぽいようでした。イエス様がエルサレムの都にお入りになった日に、この都の民衆の多くが、イエス様こそ神様が約束なさった「救い主」だと期待し、「大歓迎」の意を表す棕櫚の枝を振って迎えるという出来事がありました(「棕櫚の聖日」の由来)。ところが、その5日後には、彼らは宗教指導者達に扇動されて、イエス様を十字架につけるように叫び出したのです。何という忘れっぽさ、変わり身の早さでしょうか!

一方、イエス様はこれ以前から、一貫して、御自分は「人々の罪の贖いのために死ぬ定め」と弟子達に語り続けてこられ、十字架にかかる都に入る時も、「時が来た!」と決意をもって進まれたと思われます。

 

この時のイエス様御一行の「過ぎ越しの食事」=「最後の晩餐」

この時は、ユダヤ人達が「過ぎ越しの祭り」を祝う週でした。神様がユダヤ達を苦境から救ってくださった「出エジプト」という出来事を覚える祭りを行う時でした。特に、木曜日には「過ぎ越しの食事」を身近な人々と共に取る習慣がありました。イエス様御一行も、その食事をしました。これがいわゆる「最後の晩餐」と言われるものです。

 

ゲツセマネの祈り

この後、「ゲツセマネの祈り」の出来事が起こります。「ゲツセマネ」とはエルサレムの中心から少し離れた園で、イエス様一行はここで度々祈っていたと思われます。「十字架の時」が刻一刻迫る中、イエス様は、十字架の死を受け入れるために、祈りにおいての苦闘をなさいました。

 

模範となる祈り

イエス様は「十字架の死」が神様の御心だと重々御存じでしたが、一方では、神様がそれを避けるようになさってほしいという本心を注ぎ出す祈りを献げるためにゲツセマネに来られました。しかし、祈りを通して、主が最終的にたどり着いたのは、「御心のままに」という御言葉でした。イエス様の神様に対する、この祈りは私達信仰者の模範となる祈りです。本心を隠さず打ち明けていいのです。(これ程に苦しんだ御方に向かって私達は祈れるのです。同じ経験をされた主だから、苦しみをわかってもらえると信頼して思いを注ぎ出せるのです。)しかし、最後には「神様の御心のままに」と神様の御心に自らを委ねる姿勢が必要です。

 

主の必死の祈りに対して、主要な三弟子達は居眠り!

また、ここで注目したいのは、主に伴われた、主要な三弟子「ペトロ・ヤコブ・ヨハネ」の姿です。イエス様は、彼らに単に近くに居てほしいと言うだけでなく、御自分が悲しみ、苦しみ、悶えながらも必死に祈る様子を見せ、今後の出来事の重大性を認識する最後のチャンスをお与えになったと見ることができると思われます。イエス様が大事な祈りの間に3回も彼らの様子をご覧になりに来られたのです。ところが、彼らはこの重大な局面で眠ってしまっており、3回ともイエス様にそのことがばれてしまったのでした。「心は燃えても、肉体は弱い」(38節)とあるように弟子達は疲れていたと想像できます。また、「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい」(38節)の御言葉からわかるのは、霊的に、サタンが彼らを狙い、眠くなるように試みたと見ることもできるでしょう。弟子達が神様の御子を支えることを妨害しようとしたのです。

 

主を支えられない弟子達⇒主の孤独な十字架への道

神様の御計画を前に、地上で主を霊的に支える人が一人もいない、その状況下で、救い主の死が霊的に最終決定し、この世の現実として展開していったと私は思います。主の孤独な十字架への道が決定してしまったのです。しかし、私達はこの三弟子を決して責めらません。自分も同じような愚かさや弱さを抱えていると知っているからです。そのような「私」のために十字架にかかられた主に、更に感謝を献げましょう。

12月31日の説教要旨 「シメオンの賛歌」 牧師 平賀真理子

ゼカリヤ書12:10 ルカ福音書2:25-38

はじめに

主の御降誕を祝う降誕節に入りました。今回、アドベントに入ってから、ルカによる福音書の中にある3つの賛歌(神様をほめたたえる歌)を学んできました。今日は3つめの「シメオンの賛歌」を中心に見ていきたいと存じます。

ご降誕なさった幼子イエス様が神殿に来られるまでのいきさつ

ルカ福音書の2章の前半では、イエス様がこの世に実際に誕生され、その出来事を知らされた羊飼い達が幼子イエス様を探し当てたことが書かれています。続いて、イエス様は天使のお告げどおり、イエス(「ヤハウェは救い」という意味、ヨシュアのギリシア語名)という名が付けられたと記されています。この世での両親であるヨセフとマリアは、ユダヤ教の律法に従い、「生まれた子供を聖なる者」として献げるため、神殿に来たことから、今日の出来事は起こります。

シメオンが神殿で幼子イエス様に出会うまでのいきさつ

イエス様がこの世にお生まれになった頃、イスラエルの民は、異邦人ローマ人が支配する「ローマ帝国」による非情な圧政に苦しんでいました。そんな困難な状況の中、シメオンは信仰深く生きていました。そして、神様が自分にしてくださった約束「救い主を見るまでは死なない約束」を信じ続けたのです。異邦人の武力支配の中、本当の「救い主」がこの世に来られ、本当の救いをもたらす御方としてこの世に生まれたことを、聖書は「聖霊の導き」によるものだと証ししています。

シメオンの賛歌(「万民の救い主」と出会った喜び) 

待ちに待った「救い主」に会えるだけでも恵みですが、シメオンはその腕に抱くことができ、それを神の恵みとして実感としたことでしょう。そして「シメオンの賛歌」が彼の口を通して表わされました。その前半(29節―30節)では、神様が遣わしてくださった「救い主」に出会えたこと、神様が自分との約束を果たしてくださったこと、その恵みを体験できたことを喜び、神様に感謝を献げていると思われます。

「救い主に出会う」という喜びが与えられたことについては、私達信仰者も同じです。私達は思いがけず、福音に出会う機会を神様によって与えられました。救い主の存在を知らされ、その教えに従って生きることを許されています。それでも、教えどおりにできないことは多いかもしれません。けれども、そんな自分を、神様がその都度許してくださり、神の民として必要としてくださる、そのことに大きな喜びを覚えます。

さて、「シメオンの賛歌」の後半(31節-32節)は、30節の「神様が人間のために準備してくださった救い」とは何かを説明しています。救い主イエス様は「万民のための救い」である、更に進んで31節では「異邦人を照らす光」であるとあります。マリアの賛歌もザカリアの賛歌(預言)も、どちらかというと「イスラエル民族の救い」が中心に謳われていました。イエス様はイスラエル民族の男子として生まれて育つので、その民族の救いが期待されるのは勿論ですが、福音が広がれば、「救い主」を産み育てたイスラエル民族の誉れも大きくなります。しかし、シメオンの賛歌では、イエス様はイスラエル民族だけの救い主にとどまらず、異邦人に「本当の神様」を知らしめる御方であると謳われていることが、他にはない特徴です。

救い主イエス様の十字架についての預言

「シメオンの賛歌」については、もう一つ、但し書きのような、付け足しの預言があることも特徴です(34節b-35節)。福音書にもあるとおり、この後、イエス様の御言葉や歩みによって、イスラエルの人々は、それを支持するのか反対するのかで、大きく動揺していきます。権力者は倒され、その権力者から貶められていた人々は、イエス様から立ち上がる力をいただきました。しかし、権力者達の反感は大変大きく、悔い改めない人々の罪により、イエス様は刺し貫かれること(十字架刑)となり、母親であるマリアがそれを見て心を傷める出来事の預言がなされています。

女預言者アンナの役割

この時、「救い主」イエス様に出会った女預言者アンナが人々に幼子イエス様のことを話したことも大事な役割です。シメオンは救い主に出会って神を賛美し、アンナは人々に伝えました。聖霊に満たされた人間の様々な働きを通し、福音伝道は神様主導の出来事として成就されていくのです!

2017・4月9日の礼拝説教要旨 「十字架のキリスト」 佐藤 義子

ゼカリヤ 9910・Ⅰコリント11825

はじめに

本日は「しゅろの日曜日」(パームサンデー)です。2千年以上も前の今日、イエス様がエルサレムの町に子ロバに乗って入られた時、イエス様の名声を聴いていた多くの群衆達が こぞってしゅろの葉を振り、又、枝を道に敷いて大歓迎しました。その5日後にイエス様は十字架で殺されました。

誰が殺したのか

今を生きる私達はイエス様の「死」に直接かかわっていません。しかし、当時の宗教指導者達の、自分の地位や評価を脅かす人達・自分を批判する者(目の上のこぶ・邪魔者)は いなくなれば良いとの感情や自分より優れている者への嫉妬の感情、総督ピラトが「この男に何の罪も見いだせない」と言いながらも大群衆の「十字架につけろ」の叫び声に屈して正義を貫けなかった姿や「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」との脅しに負けて自分の地位を守る姿、又、ペトロの、自分が不利な立場に追い込まれないようにイエス様の弟子であることを否定する姿、あるいは裏切りながら表面では親しそうにイエス様に接吻するユダの姿・・など、彼らの姿の中に、私達は、すべての人間(勿論例外なく自分も含む)の罪・・「自己中心、自己正当化、自己絶対化、自己保身の罪」を見るのです。

十字架のもう一つの意味

今日読んだ聖書には、「十字架の言葉」(18節)という文言が出てきました。目に見える十字架へのプロセスとは別に、もう一つ十字架に隠された深い意味を表している言葉です。十字架の言葉とは、十字架にかけられたキリストの姿から放たれている神様のメッセージです。人間の知恵や知識では到底知ることが出来ない神様の救いの御計画です。

十字架による神様との和解

それまで私達は、神様と敵対する「罪」の奴隷、「罪の支配するこの世の鎖」につながれていました。その行き着く先は滅びと死です。しかし、十字架は、私達を罪の鎖から解放しました。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによるあがないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者の為に罪を償う供え物となさいました。それは神の義をお示しになるためです」(ロマ書3:23-)。 あがなうとは、代価を払って買い取ることです。キリストの十字架で流された血潮(代価)によって、私達は罪の奴隷から神様に買い戻されて、神様との交わりが回復したのです。このことを信じて受け入れた者は、神様の支配される国の民の一員とされるのです。

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなもの

滅んでいく者として例に挙げられたのが、ユダヤ人とギリシャ人です。ユダヤ人とは、「しるし」=「目に見える」を求める人達のことです。神様の力を手でとらえ、目で見ることを要求し、自分が承認出来る奇跡・裏付けを求める人達です。一方、ギリシャ人とは、思想、哲学、観念を重んじる人達です。議論を好み、説明がつかないことは拒否します。自分達の考えに矛盾するものは受け付けようとしない人達です。

十字架の言葉は、救われる者には神の力。

21節に「世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした」とあるように、人間は、どんな知識、知恵、哲学をもってしても神を発見する(知る)ことは出来ませんでした。「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(同)。

宣教を通して語られる「十字架の言葉」を受け取り、信じるキリスト者は、神の力と神の知恵であるキリスト(24節)と共に歩む道が開かれました(そして今も恵みの時として開かれ続けています!)。私達には、日々私達を取り囲むさまざまな苦悩や矛盾や戦いがあります。しかし信仰をもって神の力と神の知恵であるキリストに結ばれている時、私達はそれらに必ず打ち勝つことができます。又、この会堂の土地が与えられたように、人知を超えた神様の知恵と業を見ることが出来ます。受難週を迎えるにあたり、十字架のキリストから放たれているメッセージを、感謝しつつ聞き従うものとして歩みたいと願っています。

3月20日の説教要旨 「エルサレム入城」 牧師 平賀真理子

ゼカリヤ書9:9-10・ヨハネ福音書12:12-19

 はじめに

今週は「受難週」です。その始めの日曜日は「棕櫚の日曜日(主日・聖日)と呼ばれて、キリスト教では特別な日曜日の一つです。

ユダヤ人達が大切にしている宗教行事に「過越祭」というものがあります。かつて、ユダヤ人達がエジプトで奴隷として苦境にあった時、神様に助けを求めたら、エジプト脱出の道を開いて導いてくださったことを感謝し、子孫に伝えてきた祭りでした。その「過越祭」を神殿のある「エルサレム」で祝うことが、ユダヤ人達の大きな願いでした。

 イエス様の「エルサレム入城」

イエス様が最後の過越祭を過ごすためにエルサレムに入られ、大勢の群衆が「なつめやしの枝」を振りながら、イエス様を「救い主」として大歓迎したことを記念する出来事、それが「エルサレム入城」です。「なつめやし」は「しゅろ」の仲間の植物で、口語訳聖書では「しゅろ」と訳されていました。イエス様の十字架という御受難が起こる週が「しゅろの日曜日」から始まります。「十字架」は私達の罪の贖いのためです。主を信じる群れは、代々、この受難週を深く心にとめて、「悔い改めの時」として過ごしてきました。

 「救い主」とは?

実は、群衆の考える「救い主」とイエス様の考えていた「救い主」とは、意味が全然違っていました。群衆は、「救い主」とは、異邦人(ローマ人)から、自分達を救い出してくれる「政治的リーダー」であると考えていました。一方、イエス様は、「救い主」とは、「人々の罪の身代わりとして自分の命を献げる使命のある御自分のこと」であると既にご存知でした。このように、群衆とイエス様とは認識の違いがあるとはいえ、イエス様を「救い主」として人々が大歓迎した出来事は、神様の御計画の一つと言えるでしょう。この後、イエス様は十字架と復活を経て、罪の支配するこの世に勝利されました。「しゅろの日曜日」の群衆の大歓迎は、イエス様の大いなる勝利により、人々が救われて喜ぶ姿を、神様が予め示されたのだと思われます。

また、「救い主」の姿として、ゼカリヤ書9章9-10節もよく知られていました。神の御心に適う「救い主」とは、小さい「ろば」に乗って来る御方です。「ろば」は同じ種族の「馬」に比べて、小さく控えめですが、忍耐強く、人々の生活を助けます。一方、「馬」は体が大きく、足も速いので軍事力として有効です。ユダヤ人達にとって、「馬」は軍隊の強い異邦人達を連想させ、人々の生活を破壊するものと捉えられたでしょう。「ろばに乗る救い主」こそ、神様の御性質を表しています。忍耐強く、謙遜です。強引な武力は用いずに、人間を本当の意味で救い、平和のうちに助けるのです。イエス様は、人々の大歓迎の中で、御自分が聖書で預言された「救い主」であることを示そうとされたのです。

 「イエス様が栄光を受けられたとき」

群衆だけでなく、イエス様の教えを受けた弟子たちさえも、「棕櫚の日曜日」の出来事の意味がすぐには分からなかったことが16節に書かれています。彼らが分かったのは、「イエス様が栄光を受けられたとき」とあります。それは具体的にいつのことでしょうか。それは、イエス様が「十字架」という過酷で屈辱に満ちた犠牲の死を果たされたことによって、父なる神様から「復活」という栄光を授かったときです。そして、その50日後に、弟子たちは「聖霊」を受け、イエス様が本当に「救い主」であると分かるようになったのです。罪のない「神の御子」イエス様が、人間の罪の身代わりとなるために十字架にかかられるほか、人々が救われる道はありませんでした。「十字架」はイエス様の勝利の象徴であり、主に連なる弟子達、ひいてはその流れをくむ私達の救いの源です。

 「ラザロの生き返り」の出来事

イエス様のなさった奇蹟の中で疑いようもないのが、死んで墓に入っていたラザロという若者をイエス様が神様に祈って生き返らせたことです(11章)。命を支配される神様の御子だからこそできる「神様の御業」でした。イエス様こそ、神様からの「救い主」だとユダヤ人達は知りました。それで、群衆がエルサレムでイエス様を大歓迎したのだとヨハネによる福音書は伝えています。

 「何をしても無駄だ。世をあげて あの男(イエス様)について行った!

この反対派の嘆きは、この後、多くの人々がイエス様に従うようになることの預言と受け取れます。神様の救いの御計画の前に、人間が何をしても無駄です。主を信じるように導かれている私達は、十字架の苦しみを思いつつ、復活を希望に、主に従うことが赦されているのです!主の恵みに感謝して歩みましょう。