「いと高き方」 加藤 秀久牧師
*はじめに
本日のルカ福音書の28節に「イエスはこのように話してから」とあり、その内容を見ると、「ムナ」のたとえ話が記されています。「ムナのたとえ話」は、王の位を受ける為に主人が遠い国へ旅立つことになり、10人の僕に1ムナずつお金を渡して、留守中、それで商売をするように言って出かけます。主人が帰ってきた時、そのお金で利益を上げた僕と、布に包んで何もしなかった僕に対して、主人からの裁きが下ったという内容です。
又、たとえ話の初めに、「人々がこれらのことに聞き入っている時」とあり、「これらのこと」をさかのぼって見ると、「ザアカイ」が救われた出来事が記されています。徴税人ザアカイ(税金を徴収する仕事をする人、嫌われ者だった)は、エリコの町に入られたイエス様を一目見ようと、いちじく桑の木に登りました。木の下まで来られたイエス様は、ザアカイの名前を呼び「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたので、ザアカイは喜んでイエス様を彼の家に迎え、イエス様と同じ時を過ごし話をすることで、ザアカイの心に変化が起こりました。ザアカイに救いがもたらされたのです。この出来事に続いて「ムナ」のたとえ話が語られます。
*イエス様の決意と子ろば
ルカによる福音書の9:51には「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と記されています。
その日以来、イエス様は、ご自分の目的、使命をはっきりと意識されて、本日の19章28節に「イエスは、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」と、イエス様が弟子達より先を歩かれたことを伝えています。
そして、エルサレムまでの距離 約三キロ離れた所のオリーブ畑と呼ばれる山のふもとにあるベタニアとベトファゲに近づいた時イエス様は二人の弟子に「まだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて引いて来なさい。理由を聞かれたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」と使いに出しました。 誰も乗ったことのない子ろばは、まだ軛(くびき:首に木の枠をはめて、馬車や荷車をつないで引かせる)を負ったことがなく、ゼカリヤ書9:9には「娘エルサレムよ、・・見よ、あなたの王が来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」と預言されています。<くびき:(マタイ11:29-30)イエス様は「わたしのくびき」を負いなさい。イエス様のくびきは軽くて負いやすく、私達の重荷(悩み苦しみ)を生涯、一緒に背負い、担って下さると約束されています。>
*託宣
ゼカリヤ書9章1節には「託宣」とあります。「託宣」とは、預言者を通して、特に重要な大切な神様の言葉を語る時、声を大にして叫ばざるを得なかった神様からのメッセージを叫ぶような声で語られた言葉で、その内容の重要性を表わしています。この言葉が使われる時は必ず、神様の裁きが語られ、特にゼカリヤ書9:1-8にはイスラエルの人達を取り巻く町々に対して、神様の裁きが語られています。
*イエス様の死と復活の予告
二人の弟子をはじめ他の弟子達も、イエス様がなぜ「誰も乗ったことのない子ろば」を必要とされたのかを理解することは出来ず、おそらくイエス様を歓迎した群衆逹も本当のところは分からずにいたのでした。
イエス様は弟子達にこれまで「人の子は必ず多くの苦しみを受け、指導者達から捨てられ、殺され、三日後によみがえる」ことを述べてきました(ルカ18:31~他)。しかし弟子達がイエス様の言葉を理解することが出来たのは、イエス様が天に昇られ神様の栄光を受けられた後です。
*今日は棕櫚(しゅろ)の日曜日
大勢の群衆はイエス様を出迎えて「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と声高らかに賛美し始めました。私達がザアカイのようにイエス様を迎え入れ、たとえ話の1ムナをふやした僕のように再び来られるイエス様をしっかりと待ち、諦めずに希望を持ち続け信じ続けることが出来る人になることを、イエス様は私達に望んでおられます。神様が計画された私達の歩みには、必ず喜びがあることを信じて、今週の歩みを始めて参りましょう。