3月20日の説教要旨 「エルサレム入城」 牧師 平賀真理子

ゼカリヤ書9:9-10・ヨハネ福音書12:12-19

 はじめに

今週は「受難週」です。その始めの日曜日は「棕櫚の日曜日(主日・聖日)と呼ばれて、キリスト教では特別な日曜日の一つです。

ユダヤ人達が大切にしている宗教行事に「過越祭」というものがあります。かつて、ユダヤ人達がエジプトで奴隷として苦境にあった時、神様に助けを求めたら、エジプト脱出の道を開いて導いてくださったことを感謝し、子孫に伝えてきた祭りでした。その「過越祭」を神殿のある「エルサレム」で祝うことが、ユダヤ人達の大きな願いでした。

 イエス様の「エルサレム入城」

イエス様が最後の過越祭を過ごすためにエルサレムに入られ、大勢の群衆が「なつめやしの枝」を振りながら、イエス様を「救い主」として大歓迎したことを記念する出来事、それが「エルサレム入城」です。「なつめやし」は「しゅろ」の仲間の植物で、口語訳聖書では「しゅろ」と訳されていました。イエス様の十字架という御受難が起こる週が「しゅろの日曜日」から始まります。「十字架」は私達の罪の贖いのためです。主を信じる群れは、代々、この受難週を深く心にとめて、「悔い改めの時」として過ごしてきました。

 「救い主」とは?

実は、群衆の考える「救い主」とイエス様の考えていた「救い主」とは、意味が全然違っていました。群衆は、「救い主」とは、異邦人(ローマ人)から、自分達を救い出してくれる「政治的リーダー」であると考えていました。一方、イエス様は、「救い主」とは、「人々の罪の身代わりとして自分の命を献げる使命のある御自分のこと」であると既にご存知でした。このように、群衆とイエス様とは認識の違いがあるとはいえ、イエス様を「救い主」として人々が大歓迎した出来事は、神様の御計画の一つと言えるでしょう。この後、イエス様は十字架と復活を経て、罪の支配するこの世に勝利されました。「しゅろの日曜日」の群衆の大歓迎は、イエス様の大いなる勝利により、人々が救われて喜ぶ姿を、神様が予め示されたのだと思われます。

また、「救い主」の姿として、ゼカリヤ書9章9-10節もよく知られていました。神の御心に適う「救い主」とは、小さい「ろば」に乗って来る御方です。「ろば」は同じ種族の「馬」に比べて、小さく控えめですが、忍耐強く、人々の生活を助けます。一方、「馬」は体が大きく、足も速いので軍事力として有効です。ユダヤ人達にとって、「馬」は軍隊の強い異邦人達を連想させ、人々の生活を破壊するものと捉えられたでしょう。「ろばに乗る救い主」こそ、神様の御性質を表しています。忍耐強く、謙遜です。強引な武力は用いずに、人間を本当の意味で救い、平和のうちに助けるのです。イエス様は、人々の大歓迎の中で、御自分が聖書で預言された「救い主」であることを示そうとされたのです。

 「イエス様が栄光を受けられたとき」

群衆だけでなく、イエス様の教えを受けた弟子たちさえも、「棕櫚の日曜日」の出来事の意味がすぐには分からなかったことが16節に書かれています。彼らが分かったのは、「イエス様が栄光を受けられたとき」とあります。それは具体的にいつのことでしょうか。それは、イエス様が「十字架」という過酷で屈辱に満ちた犠牲の死を果たされたことによって、父なる神様から「復活」という栄光を授かったときです。そして、その50日後に、弟子たちは「聖霊」を受け、イエス様が本当に「救い主」であると分かるようになったのです。罪のない「神の御子」イエス様が、人間の罪の身代わりとなるために十字架にかかられるほか、人々が救われる道はありませんでした。「十字架」はイエス様の勝利の象徴であり、主に連なる弟子達、ひいてはその流れをくむ私達の救いの源です。

 「ラザロの生き返り」の出来事

イエス様のなさった奇蹟の中で疑いようもないのが、死んで墓に入っていたラザロという若者をイエス様が神様に祈って生き返らせたことです(11章)。命を支配される神様の御子だからこそできる「神様の御業」でした。イエス様こそ、神様からの「救い主」だとユダヤ人達は知りました。それで、群衆がエルサレムでイエス様を大歓迎したのだとヨハネによる福音書は伝えています。

 「何をしても無駄だ。世をあげて あの男(イエス様)について行った!

この反対派の嘆きは、この後、多くの人々がイエス様に従うようになることの預言と受け取れます。神様の救いの御計画の前に、人間が何をしても無駄です。主を信じるように導かれている私達は、十字架の苦しみを思いつつ、復活を希望に、主に従うことが赦されているのです!主の恵みに感謝して歩みましょう。

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