3月13日の説教要旨 「一粒の麦」 牧師 佐藤 義子

詩編 22:25-31・ヨハネ福音書 12:20-26

 はじめに

今日の聖書は、何人かのギリシャ人が、イエス様にお会いしたいと、弟子のフィリポに申し出たところから始まります。イエス様の伝道はユダヤ社会の人々が対象でしたし、ユダヤ人はユダヤ人以外(異邦人)との交際も禁じられていました。それに対して異邦人の中には、ユダヤ社会の、律法を中心とする倫理的にも高い生活をしていることや、性道徳が一般世界で乱れる中、一夫一婦制を守り、子女の教育などもしっかり行っているユダヤ教徒にひきつけられる異邦人が出てきておりました。この時 応対した弟子のフィリポは、おそらく、異邦人である彼らをイエス様に会わせるという、ことの重大さを考えて、アンデレに相談し二人で、ギリシャ人訪問の件をイエス様に伝えたと思われます。その時、イエス様は次のような言葉を語られました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

 「人の子が栄光を受ける時が来た。」

聖書で「時」という言葉はとても大切な言葉です。「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉3:1)は、良く知られていますが、ヨハネ福音書にも「わたしの時はまだ来ていません」(2:5、7:6)や、「イエスの時はまだ来ていなかった」(8:20)とあります。そして今日の箇所では、イエス様ご自身が、「人の子(イエス様)が栄光を受ける時が来た」と宣言されています。私達の社会で「栄光を受ける」とは、勲章や表彰など、人間が人間の功績を称える時、名誉・栄誉を受けることです。けれどもイエス様がここで言われる「栄光を受ける」とは、人間からではなく、「父である神様」からいただく栄光のことです。

では、イエス様が受け取ろうとする栄光とは、何によって与えられる栄誉なのでしょうか。それは、あとに続く「一粒の麦」のたとえで示されています。

 「一粒の麦」

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12:24)

種は、安全に保存されているだけでは実を結ばず、役に立ちません。しかし土の中に落ちて水分が与えられると、種としての形がなくなっていき、新しい生命活動が始まります。イエス様はこの時の情景を「一粒の麦の種が土に落ちて「死ぬ」と表現され、ご自分を、その「一粒の麦」に、たとえられました。二人の弟子から、数人のギリシャ人がイエス様に会いたいと訪ねて来たことを聞いた時、イエス様はこれまでの伝道が、今や、ユダヤ人には十分知れ渡り、ユダヤ人の枠を超えて、ユダヤ人以外の外国人にまで知られるようになってきたというその事実をもって、ご自身が神様から「栄光を受ける時」、すなわち一粒の麦の種として死ぬための「時」がきたことを悟られたのです。

  死は滅びであり、絶望である

私達人間は神様に似せて創られ、自由意志を与えられ、神様に従って生きていく限り、神様からの祝福をいただいて幸せに生きるように定められています。ところが私達人間は、神様に従うことよりも自分の思いに従うことを選び、神様から離れていきました。神様に従うとは、神様の御意志(御心)に従うこと(イエス様が教えて下さった生き方)です。神様を愛し、隣人を愛し、正義を愛し、不義を憎む生き方です。私達が何か特別に悪いことをしていないと思っても、自分に命を与え、生かして下さっている神様のことを忘れて、自分の思いを何よりも第一にして生きて来たならば、誰も神様の前で「自分には罪はない」とは言えず、その結果、すべての人の行く先には滅びが待っているのです。ロマ書には「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」(3:23)とあります。つまり、すべての人はみんな、その持てる罪のゆえに神様の栄光を受けられない、つまり、死によって滅びるしかありませんでした。「罪が支払う報酬は死です。」(ロマ6:23)。死は絶望そのものでした。

 神様の御計画

しかし私達人間を愛して下さる神様は、罪の結果、滅びるしかなかった人間に対して、「救いの御計画」を立てて下さいました。但しそれは御子の犠牲を伴うものでした。というのは、罪には罰が伴いますが、私達の罪は、この世の服役のように、自分でつぐなうことはできません。この罪を赦していただくためには、罪のない者が、その罪を引き受けて処罰されなければなりません(罪は負債(借金)にたとえられ、借金のない者だけが他の人の負債を負える)。しかし「正しい者はいない。一人もいない」(ロマ3:10)のです。神様の「救いの御計画」とは、神の御子であるイエス様を、地上に送り、全人類の「罪と罰」を、人間に代わって引き受け、その代償として、悔い改めた者には「罪の赦し」が与えられ、滅びの世界ではなく、「神様と共にある世界」に、招き入れられるというものでした。

 「イエス様の死によって、私達に新しい生命活動が始まる」

イエス様は、私達と同じ肉体を持ちながら、生涯、罪を犯されませんでした。そこで神様は、罪を犯されなかったイエス様に、すべての人間の、これまでのすべての罪と、これからの罪のすべてを、十字架上の死という形で、一度限り、断罪される御意志をイエス様に託されたのです。イエス様は、この「罪ある人間を、滅びの世界から救い出す」という壮大な救いの御計画を知り、ご自分がそのご受難の使命を担っていることを、弟子達にも語られました。それは、同時に「死ねば、多くの実を結ぶ」ための歩みの始まりでもあります。

「多くの実を結ぶ」とは、イエス様の尊い犠牲の血(十字架上で流される血)によって、神様から罪の赦しをいただいたことを信じ、離れていた神様のもとに立ち帰り、新しく神の子として歩み始めた(新しい生命活動が始まる)魂が、神様のもとに集められることです。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ3:23-24)。「贖いのわざ」とは、罪を引き受けて死んで

下さったこと、「義とされる」とは、神様から「良し」とされることです。

 「わたしに仕えようとする者は、私に従え。」

「一粒の麦」のたとえに続き、さらにイエス様の言葉は、続きます。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、私に従え。そうすれば、わたしのいるところに、私に仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。

私達は、自分の命を守ろうとする本能的欲求があります。選択する時、

先ず、自分の利益を中心に考えるものです。それに対してイエス様は、先ず、神様を中心に生きることへと転換を求められます。神様に従っていこうとする者は、イエス様のように、神様の御心を優先させることが期待されています。しかし、自己主張する私達の心は、わかっていても従い得ないのです。赦さなくてはと思うけれども赦せない。愛さなければと思うけれども愛せない。深刻な内心の葛藤、戦いが始まります。

イエス様が「自分の命を憎む人は・・」と言われるのは、強烈な決然たる態度無くしては、自分の内心の心を屈服させることは出来ないからです。神様に心から従うためには、この強烈な自己主張との激突を避けることは出来ません。だからと言って自己否定や、自分を押し殺すことでもありません。太陽と北風の話のように、古い自己という上着を、厳しい寒風(自分の義務感)で頑張っても、上着は吹き飛ばされません。けれど、やさしく太陽(神様とイエス様の愛)で、暖められるならば、古い自己という上着は自然と脱げるようになるでしょう。そして、イエス様に従っていくことを決めるならば、イエス様のおられる所に私達もいることが出来るとイエス様は言われます。そして、いつも一緒にいられるだけでなく、イエス様に仕えていくならば、父である神様も、私達を大切にして下さると、イエス様は約束されるのです。

さて、受難節40日間の28日が過ぎました。神様とイエス様の愛が注がれている中で、残る今週と来週、週報にありますように、続けて、克己(内心の衝動と欲望の克服)、修養(精神を磨き、良き人格形成に努める)、「悔い改め」(神様のもとに立ち帰る)を覚えて、歩み続けていきましょう!

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