2023年7月30日の説教要旨 列王記上19:9-18・Ⅰペトロ3:13-22

              「苦難の共同体」      加藤 秀久牧師

*はじめに

私達は「預言者」と聞くと、どのような人を思い浮かべるでしょうか。預言者には神様の言葉を預かると同時に政治の面でも指導する者もいましたが、本日学ぶエリヤは、政治に関わることなく、純粋に神様の御前に立ち、神様の霊に満たされてその触れ合いに喜び、霊に導かれながら神様の言葉に従い、語る預言者でした。

当時、北王国のイスラエルのアハブ王の父・オムリは、主の目に悪とされることを誰よりも行なった王でしたが、アハブ王は父よりも更に悪いことを行いました(列王記上16:30)。

*預言者エリヤ

アハブ王は、シドン人の王の娘イゼベルを妻に迎え、妻の信じる「バアル(農産物と家畜の生産を司る自然神・男性)」の神に仕え、バアルの神殿を建て祭壇を築き、「アシェラ(女性神)」像をも造りました。エリヤの使命は、社会の中に入り込んだ異国宗教を取り除きイスラエルの民に、創造主である唯一の神への信仰を告げ知らせることでした。そこでエリヤはアハブ王に、バアルの預言者450人とアシェラの預言者400人をカルメル山に集めることを依頼し、集まったすべての民に、エリヤが伝える創造主なる神を信じるのか、それともバアルを神とするのか決断を迫りましたが、「民はひと言も答えなかった(18:21)」とあります。エリヤはバアルの預言者達に、どちらが本当の神かを祭壇を築いて神を呼び、捧げものに火をもって答える神こそ神であることを互いに確認し(18:24)、その戦いが行なわれました。その結果バアル神からは何の返答もなく、エリヤが神に祈った時、神の火が降り捧げものは焼き尽くされました(18:36~)。民は「主こそ神です」とひれ伏しました。その後エリヤは、バアルの預言者達を捕えて殺し、その事をアハブ王から聞いた妻イゼベルは怒り、エリヤに殺意を抱きます。

エリヤは身の危険を感じて、四十日四十夜歩き続け、神の山・ホレブに着きました。本日の聖書には、その後のことが記されています。

*静かにささやく声

「エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした(19:9」。エリヤが休んでいると、主の「エリヤよ、ここで何をしているのか。」との声がありました。エリヤは、自分はこれまで万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきた。が、イスラエルの人々は主の契約を捨て祭壇を破壊し、預言者達を剣にかけて殺してしまったこと。エリヤ一人だけ残ったが、彼らはエリヤの命をも奪おうとねらっている、と訴えました。主は「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われ、主が通り過ぎて行かれました。神様が通り過ぎた出来事は神様の現れを意味しますが11~12節に「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった」とあります。私達は神様の現れの場所に行けても、神様と直接、顔を合わせて見ることは出来ないことを意味します。しかし「火の後に、静かにささやく声が聞こえた(12節)」とあります。エリヤにとって優しくどこか懐かしい声を、神様との霊の交わりの中で聞いた出来事だったでしょう。これは私達が礼拝の時、讃美している時、心の中に響く神様のささやきに思える体験だと思います。

*エリヤへの使命

神様はエリヤに三つのことを命じます。が、初めの二つは、エリヤの召天後、エリシャの時代に実現します。三つ目の「エリシャに油を注ぎ、エリヤに代る預言者とする」については、この後、畑を耕しているエリシャに出会い、この出会いによってエリシャはエリヤに従い、神に仕えていくことが実現します(19:19)。神様の御計画は必ず実現しますが、私達も又、思い描く計画が私達の世代ではなく信仰の継承により次の世代の人達によって真実の出来事として明らかになることもあるかと思います。同時にエリヤが体験したような、神様への信仰を通しての苦しみ・悲しみ・困難も伴わなければならないかと思います。それは本日のⅠペトロ3:13~22節にある事と同じと思い、もう一度読んで終ります。

2022年2月6日の説教要旨 サムエル記下12:1-13・Ⅰペトロ1:22-25

「あらためる心」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

 本日の旧約聖書には、イスラエル王国の王であったダビデの生涯の中で、大失敗したと言える出来事を、預言者ナタンによって厳しく注意されています。その内容については11章に記されています。

*ダビデの大失敗 (サムエル記下11章)

ダビデは出陣する時期になったので、軍の司令官ヨアブ(8:16)と自分の家臣およびイスラエル全軍を戦いに送りましたが、ダビデ自身はエルサレムにとどまっていました。おそらく勝利を確信して、自分が行く必要はないと考えたのでしょう。ある夕暮れ時、ダビデは王宮の屋上から一人の女性が水浴びをしているのを見て、その女性を召し入れ、床を共にします。彼女は司令官の家来であるウリヤの妻(バト:シェバ)でした。(注:律法では、姦淫の罪は死刑:申22:22)。しかし女性が子供を宿したと知ると、ダビデは夫のウリヤを戦場から呼び戻して妻と過ごすように取り計らいます。ところが戻ったウリヤは、自分だけが家で休むわけにはいかないと、家に帰らず王宮の入り口で家臣達と共に眠りました。ダビデの計画は失敗に終り、ダビデはウリヤを戦場に戻して激しい戦線に送るように司令官に手紙を書き、その結果ウリヤは戦死してしまいました。こうしてダビデは罪を隠そうとして、さらに、主の御心に適わないことを行ったのでした。

*預言者ナタンの叱責(たとえ話を通して)

 神様は、預言者ナタンをダビデのもとに遣わし、ナタンは一つのたとえ話をダビデに聞かせます。<ある町に一人は豊かな者と、一人は貧しい者がいた。豊かな者は非常に多くの羊や牛を持っていたが、貧しい者は自分で買った一匹の雌の小羊しか持っていなかった。ある日、豊かな男に一人の客があり、彼は自分の旅人をもてなすため自分の羊や牛を惜しんで、貧しい者の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。>この「たとえ話」を聞いたダビデは正義感が現れ、この裕福な者の行動に対して激怒し「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。」とナタンに告げました。

その男はあなただ」(7節)

 ナタンはダビデに向かって「その男はあなただ」と言ってから以下の、神様の言葉を伝えました。「あなたに油を注ぎ、イスラエルの国を治めるようにしたのは私であるのに、なぜ、主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。あなたはウリヤを激しい戦地へ送り、ウリヤの妻を奪って自分の妻とした。」この神様の言葉を聞いたダビデは我に返り、「わたしは主に罪を犯した」(13節)と言って自分の犯した罪を認めました。

*詩編51編(ダビデの祈り)

ダビデはこの時の罪の告白と罪の赦しを願って祈りをささげました。「あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています・・」(5-6節)と、神様にそむき、罪はいつもダビデの前に置かれていること、主の言われることは正しく、その裁きに誤りが無いことを告白しています。ダビデの告白は自らの気付きによるのではなく預言者ナタンの口を通して、悔い改めへと導かれました。

*わたしたち

私達はどうでしょうか。主の前に罪を認めたダビデに、預言者ナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」と宣言したように、私達も、神様の元に立ち帰るならば、ダビデと同じように、私達の罪を神様は取り除いて下さいます。私達にはイエス様が下さった罪からの贖いの「十字架の死」があり救いがあります。どんな時にも、どんなことでも、イエス様に頼り、求めるならば、イエス様は私達の祈りと願いを聞いて下さり、赦しも、癒しも、与えて下さいます。

*主の言葉は永遠に変わることがない

本日のペトロ書では、神様を信じるわたし達は、「真理を受け入れて魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」わたし達は、「神様の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた者」であると言われています。私達は神様の霊を受け、聖霊の導きを信じ、互いに助け合い、励まし合い、祈り合い、お互いの徳を高め合いつつ、共に信仰の歩みを進めて参りましょう。

2022年1月23日の説教要旨 申命記30:11-15・Ⅰペトロ1:3-12

「主イエスを見よ」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

 本日の新約聖書の箇所である3節には、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」と、神様を信じた者達が、真の神様がおられることを知り、神様の素晴らしさを体験して深く心を動かされ、感謝の感情が、神様をほめたたえる形で語られています。

ペトロにとって大切なことは、神様がイエス様の父であることでした。

 イエス様は神様の御子としてこの地上に生まれ、人のかたちになることによって(人間の姿で現れ・・フィリピ2:7)、父なる神様の思い・考えを人々に伝えたこと、その出来事が、実際にペトロの目の前で起きて、今もイエス様が「霊」として人々の内に生きていることを教えようとしています。

*憐れみ豊かな神

 3節では、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」と、あります。この「神様の憐れみ」について、エフェソ書2章にこう記されています。「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし―あなた方の救われたのは恵みによるのです―」(4節~)。

 私達は、不正や不法などが存在する正しくない世界に住み、罪のために死んでいました。その私達をイエス様へと向かわせ、イエス様と共に生きるように私達を救いへと導いたのは神様であり、神様の恵みによります。神様の憐れみと恵みにより、私達は、死者の中から復活されたイエス様の出来事を通して、生き生きとした希望が与えられているのです。

*朽ちず、汚れず、しぼまない財産

さらに「また、あなた方のために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(4節)とあります。私達が天に蓄えられている神様の財産を持つことは、すでに私達の心に植えられ、備え付けられています。その財産とは、私達の地上の生活の中で体験する出来事、例えば予期せぬ事件や突然に起こる大災害、貧困による生活苦や、会社からの突然の解雇など・・によって失われ、私達の生活をおびやかすような「物」の財産とは違って、神様から来るものは、輝かしく素晴らしい「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」です。

私達はいつ、「神様の財産」を受け継ぐことができるのでしょうか。

*準備されている救い

聖書は、「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」(5節)と、財産を受け継ぐのは「終わりの時」であることを教えています。これらのことは信仰によって、守られているのです。信仰を持つということは、簡単なようで、実に意味のあるものです。時には、難しい選択を強いられたり、悩ましく、どこかで挫折するような、どこかで背を向けたくなるような時もあるかと思います。けれども・・

*信仰は、試練によって本物と証明される

7節には、信仰は「その試練によって本物と証明される」とあり、8節には「あなたがたは、・・言葉では言い尽くせない喜びに満ちあふれています。」とあります。私達にはイエス様を信じて受け入れた時から心の中に神様の霊が宿っています。このことにより私達は、イエス様を見たことがないのに信じて愛することが出来るのです。どんなことがあろうとも、どんなところを歩もうとも、イエス様に立ち帰ることが出来、それゆえ私達は、言葉では言い尽くせない素晴らしい感謝の気持を神様に対して持ち、喜びに満ちあふれることが出来るのです。

*申命記30:14

 神様は、イスラエルの民(今は、わたしたち)に神様の言葉、聖書の言葉、救いに至らせる言葉を与え、人々の光、力になることを約束しています。そして、神様の御声に聴き従う「祝福の道」と、聞き従わない「呪いの道」を置かれました。神様の戒めは難しすぎるものではないと言われています。なぜなら「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」からです。

1月28日の説教要旨 「希望へと生まれ変わる」 吉田 新 先生(東北学院大学)

詩編41:4-4 Ⅰペトロ1:3-9

はじめに

今日の新約聖書箇所の冒頭で、イエス様がエルサレムを目指して旅を続けておられることを私達は再び想起させられます。思えば、ルカ福音書9章51節からの段落で、イエス様は御自身で天に上げられる時期が近づいたと悟られ、エルサレムへ向かったと書かれています。また、13章33節では、神様の使命を受けた預言者として、イエス様は聖なる都エルサレムで死ぬ定めだと示されています(「主の十字架」)。救おうとするユダヤ人達により、その救いが理解されずに殺される定めです。それは神様の御計画で、その為にこの世に来られたイエス様は、その過酷で孤独な道を従順にたどっていかなければなりませんでした。

重い皮膚病を患っていたユダヤ人とサマリア人が協力し合う

今回の箇所では、ユダヤ人とサマリア人という民族同士としては仲の悪いはずの10人が、重い皮膚病にかかっていたために共に暮らしており、大変な癒しの力があると噂されるイエス様から癒しを受けるべく、呼び止めようと協力し合っています。更に、イエス様に近寄りたい気持ちを抑えつつ、律法に則って距離を取りながら「この病いを癒してください」と願っていたわけです。人の心に何があるかを見抜かれるイエス様は彼らの苦しみを理解し、すぐに救ってあげたいと思われたのでしょう。この後すぐに彼らの身の上に癒しが起こるとわかっておられた上で、彼らに「祭司に体を見せなさい」とお命じになり、実際に彼らはその途上で重い皮膚病から癒されました!

癒された10人の内、サマリア人1人だけが戻ってきた

この癒しを受けた10人の内、癒してくださったイエス様に感謝を献げるために戻ってきたのは1人で、それがサマリア人だったことをルカ福音書は重要視しました。ユダヤ教の中で神の民とされたユダヤ人達が「汚れている」と蔑んだサマリア人、しかも、そんなサマリア人の中でも更に「汚れている」とされた重い皮膚病の人が戻ってきて、癒しの源であるイエス様に感謝を献げたのです。実は、イエス様は御自分はユダヤ人の救い主として遣わされたと自覚されていたようですが、福音宣教の旅でイエス様からの救いを求める異邦人と度々出会うことにより、ユダヤ人か異邦人かは問題ではなく、御自分を救い主として受け入れるかが重要だという思いを深められたのではないかと想像します。

「立ち上がって、行きなさい」(19節)

イエス様の憐れみを受けて救われることのすばらしさを理解し、イエス様を救い主と受け入れ、その恵みに感謝を表そうとひれ伏した、このサマリア人に対して、イエス様は「立ち上がって、行きなさい」という御言葉をかけてくださいました。「立ち上がって」という言葉は、元々の言葉では「よみがえる」という意味を持っています。イエス様と出会うまでは死んだようにしか生きられなかった、このサマリア人に、イエス様は「よみがえって、自分の人生の旅を続けるように!」と励ましてくださいました。

「あなたの信仰があなたを救った」(19節)

イエス様は最後に「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃったのですが、このサマリア人を救った直接の源は、イエス様の癒しの力です。聖書で証しされてきた本当の神様は、へりくだりを愛する御方で、決して御自分が癒したと声高く主張される御方ではありません。そんな神様の御力に対して人間ができることは、主の恵みを信じて、感謝して素直に受け入れることです。そうすることで、人間は神様と豊かに交流でき、ますます満たされていきます。実際、この話の中でも10人の人々が救われるほど、主の憐れみに由来する神様の御力は大きかったのに、その恵みに感謝を献げるために戻ってきて癒された上に、更に主から御言葉を賜るという交流に進んだのは、このサマリア人、たった一人です。

 

「新しい救いの恵み」に感謝を献げましょう!

「神様による人間の救い」は、古い形ではユダヤ人かどうかが問われましたが、新しい形ではイエス様を救い主と信じる信仰が問われます。それは、主の十字架によって自分の罪を肩代わりしていただいたと信じるかどうかです。私達信仰者は、神様の一方的な恵みを受けて「新しい救い」で神の民とされました。その大いなる恵みの素晴らしさを本当に理解しつつ、礼拝等で感謝を献げることを喜べるよう、聖霊の助けを祈り続けましょう。

3月13日の説教要旨 「一粒の麦」 牧師 佐藤 義子

詩編 22:25-31・ヨハネ福音書 12:20-26

 はじめに

今日の聖書は、何人かのギリシャ人が、イエス様にお会いしたいと、弟子のフィリポに申し出たところから始まります。イエス様の伝道はユダヤ社会の人々が対象でしたし、ユダヤ人はユダヤ人以外(異邦人)との交際も禁じられていました。それに対して異邦人の中には、ユダヤ社会の、律法を中心とする倫理的にも高い生活をしていることや、性道徳が一般世界で乱れる中、一夫一婦制を守り、子女の教育などもしっかり行っているユダヤ教徒にひきつけられる異邦人が出てきておりました。この時 応対した弟子のフィリポは、おそらく、異邦人である彼らをイエス様に会わせるという、ことの重大さを考えて、アンデレに相談し二人で、ギリシャ人訪問の件をイエス様に伝えたと思われます。その時、イエス様は次のような言葉を語られました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

 「人の子が栄光を受ける時が来た。」

聖書で「時」という言葉はとても大切な言葉です。「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉3:1)は、良く知られていますが、ヨハネ福音書にも「わたしの時はまだ来ていません」(2:5、7:6)や、「イエスの時はまだ来ていなかった」(8:20)とあります。そして今日の箇所では、イエス様ご自身が、「人の子(イエス様)が栄光を受ける時が来た」と宣言されています。私達の社会で「栄光を受ける」とは、勲章や表彰など、人間が人間の功績を称える時、名誉・栄誉を受けることです。けれどもイエス様がここで言われる「栄光を受ける」とは、人間からではなく、「父である神様」からいただく栄光のことです。

では、イエス様が受け取ろうとする栄光とは、何によって与えられる栄誉なのでしょうか。それは、あとに続く「一粒の麦」のたとえで示されています。

 「一粒の麦」

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12:24)

種は、安全に保存されているだけでは実を結ばず、役に立ちません。しかし土の中に落ちて水分が与えられると、種としての形がなくなっていき、新しい生命活動が始まります。イエス様はこの時の情景を「一粒の麦の種が土に落ちて「死ぬ」と表現され、ご自分を、その「一粒の麦」に、たとえられました。二人の弟子から、数人のギリシャ人がイエス様に会いたいと訪ねて来たことを聞いた時、イエス様はこれまでの伝道が、今や、ユダヤ人には十分知れ渡り、ユダヤ人の枠を超えて、ユダヤ人以外の外国人にまで知られるようになってきたというその事実をもって、ご自身が神様から「栄光を受ける時」、すなわち一粒の麦の種として死ぬための「時」がきたことを悟られたのです。

  死は滅びであり、絶望である

私達人間は神様に似せて創られ、自由意志を与えられ、神様に従って生きていく限り、神様からの祝福をいただいて幸せに生きるように定められています。ところが私達人間は、神様に従うことよりも自分の思いに従うことを選び、神様から離れていきました。神様に従うとは、神様の御意志(御心)に従うこと(イエス様が教えて下さった生き方)です。神様を愛し、隣人を愛し、正義を愛し、不義を憎む生き方です。私達が何か特別に悪いことをしていないと思っても、自分に命を与え、生かして下さっている神様のことを忘れて、自分の思いを何よりも第一にして生きて来たならば、誰も神様の前で「自分には罪はない」とは言えず、その結果、すべての人の行く先には滅びが待っているのです。ロマ書には「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」(3:23)とあります。つまり、すべての人はみんな、その持てる罪のゆえに神様の栄光を受けられない、つまり、死によって滅びるしかありませんでした。「罪が支払う報酬は死です。」(ロマ6:23)。死は絶望そのものでした。

 神様の御計画

しかし私達人間を愛して下さる神様は、罪の結果、滅びるしかなかった人間に対して、「救いの御計画」を立てて下さいました。但しそれは御子の犠牲を伴うものでした。というのは、罪には罰が伴いますが、私達の罪は、この世の服役のように、自分でつぐなうことはできません。この罪を赦していただくためには、罪のない者が、その罪を引き受けて処罰されなければなりません(罪は負債(借金)にたとえられ、借金のない者だけが他の人の負債を負える)。しかし「正しい者はいない。一人もいない」(ロマ3:10)のです。神様の「救いの御計画」とは、神の御子であるイエス様を、地上に送り、全人類の「罪と罰」を、人間に代わって引き受け、その代償として、悔い改めた者には「罪の赦し」が与えられ、滅びの世界ではなく、「神様と共にある世界」に、招き入れられるというものでした。

 「イエス様の死によって、私達に新しい生命活動が始まる」

イエス様は、私達と同じ肉体を持ちながら、生涯、罪を犯されませんでした。そこで神様は、罪を犯されなかったイエス様に、すべての人間の、これまでのすべての罪と、これからの罪のすべてを、十字架上の死という形で、一度限り、断罪される御意志をイエス様に託されたのです。イエス様は、この「罪ある人間を、滅びの世界から救い出す」という壮大な救いの御計画を知り、ご自分がそのご受難の使命を担っていることを、弟子達にも語られました。それは、同時に「死ねば、多くの実を結ぶ」ための歩みの始まりでもあります。

「多くの実を結ぶ」とは、イエス様の尊い犠牲の血(十字架上で流される血)によって、神様から罪の赦しをいただいたことを信じ、離れていた神様のもとに立ち帰り、新しく神の子として歩み始めた(新しい生命活動が始まる)魂が、神様のもとに集められることです。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ3:23-24)。「贖いのわざ」とは、罪を引き受けて死んで

下さったこと、「義とされる」とは、神様から「良し」とされることです。

 「わたしに仕えようとする者は、私に従え。」

「一粒の麦」のたとえに続き、さらにイエス様の言葉は、続きます。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、私に従え。そうすれば、わたしのいるところに、私に仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。

私達は、自分の命を守ろうとする本能的欲求があります。選択する時、

先ず、自分の利益を中心に考えるものです。それに対してイエス様は、先ず、神様を中心に生きることへと転換を求められます。神様に従っていこうとする者は、イエス様のように、神様の御心を優先させることが期待されています。しかし、自己主張する私達の心は、わかっていても従い得ないのです。赦さなくてはと思うけれども赦せない。愛さなければと思うけれども愛せない。深刻な内心の葛藤、戦いが始まります。

イエス様が「自分の命を憎む人は・・」と言われるのは、強烈な決然たる態度無くしては、自分の内心の心を屈服させることは出来ないからです。神様に心から従うためには、この強烈な自己主張との激突を避けることは出来ません。だからと言って自己否定や、自分を押し殺すことでもありません。太陽と北風の話のように、古い自己という上着を、厳しい寒風(自分の義務感)で頑張っても、上着は吹き飛ばされません。けれど、やさしく太陽(神様とイエス様の愛)で、暖められるならば、古い自己という上着は自然と脱げるようになるでしょう。そして、イエス様に従っていくことを決めるならば、イエス様のおられる所に私達もいることが出来るとイエス様は言われます。そして、いつも一緒にいられるだけでなく、イエス様に仕えていくならば、父である神様も、私達を大切にして下さると、イエス様は約束されるのです。

さて、受難節40日間の28日が過ぎました。神様とイエス様の愛が注がれている中で、残る今週と来週、週報にありますように、続けて、克己(内心の衝動と欲望の克服)、修養(精神を磨き、良き人格形成に努める)、「悔い改め」(神様のもとに立ち帰る)を覚えて、歩み続けていきましょう!