9月30日の説教要旨 「主があなたにしてくださったことを」遠藤尚幸師(東北学院中高 聖書科教諭)

詩編103:1-22 マルコ福音書5:1-20

 

 ゲラサ人の地方へ

「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」

今日、私たちに与えられましたマルコによる福音書5章1節には、そのようにありました。何気ない1節です。もし、私たちが聖書の中から好きな聖句を選ぶとして、この1節を選ぶ人はまずいない。そんなふうに読み飛ばしてしまいそうになるような言葉です。しかし、私は、この1節には、聖書が、私たちに伝えようとする良き知らせのメッセージが凝縮されていると感じます。「一行」とあるのは、主イエス・キリストの一行です。「一行」というくらいですから、主イエスの他にも何人かいたわけです。直前の箇所を見てみますと、どうやらそれは、主イエスと主イエスの弟子たちだったことが分かります。前の頁の4章35節にはこう記されています。

「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」

「夕方」ですから日が陰ってくるくらいです。夜の暗闇がすぐそこまで来ている。そんな時に、主イエスは弟子たちに、目の前にあるガリラヤ湖を越えて「向こう岸に渡ろう」と言ったのです。「向こう岸」には何があるのか。それが、「ゲラサ人の地方」と呼ばれている場所です。ゲラサ人は、当時のユダヤの人々から見れば、神様から見捨てられたと考えられていた人々です。ユダヤ人は、汚れを嫌います。もし、そんな土地に足を踏み入れたなら、間違いなく自分たちまでも汚れてしまう。通常なら、誰も近づきたくないと考える土地が「ゲラサ人の地方」と言われる場所です。しかし、今日の箇所では「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。主イエスの呼びかけにしたがって、弟子たちは夜の湖に船を出しました。彼らは、その湖で突風に会いました。船は波を被りました。弟子たちの中には漁師出身の者も複数いました。プロの漁師たちも慌てふためくような突風でした。船は水浸しになりました。主イエスが共にいましたが、自分たちの命を失うかもしれない、そんな経験をしました。そして船はたどり着きました。弟子たちにとって、決して希望満ち溢れる土地に着いたわけではない。彼らが自分たちの命を投げうってまで着いたのは、忌み嫌っていた土地、ゲラサ人の地方でした。

 

悪霊にとりつかれた人

そこには一人の人がいました。主イエスは、この人に会い、この人を救うために、弟子たちを連れてゲラサまで来ました。この人は、主イエスが船から上がるとすぐに「墓場」からやってきました。どうして墓場からやってきたのか。それはこの人が墓場に住んでいたからです。この人は、悪霊に取り憑かれていた人でした。それで、人々は何とか彼をつなぎとめようとしていました。それは家族だったのかもしれませんし、友人だったのかもしれません。しかし、彼は、その鎖や足枷をたびたびはずしてしまいました。「足枷」や「鎖」は否定的な言葉ですが、しかし、裏を返せば、彼をなんとか自分たちの傍につなぎとめておきたい。そんな周りの人々の思いが読み取れる言葉でもあります。しかし、人々にはどうすることもできなかった。それで彼は、人々から離れ、墓場を住処にするしか居場所がありませんでした。この人は、主イエスにかけよると、助けを求めるのではなく、こう言いました。実はこう言わせたのは彼の中にいた悪霊です。

「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないで欲しい」

主イエスは真の神様です。真の神様の前で、悪霊が力をふるうことはできません。なぜなら、神様と悪霊は対等な立場で対立するものではないからです。もう既に勝敗は決まっている。神様が来たならば、悪霊は退かなければならない。聖書において悪霊とはそういう存在です。神様の前では無力です。悪霊はそのことをよく知っていたので、「汚れた霊、この人から出て行け」という主イエスの言葉に、逆らうことなく、「頼むから苦しめないで欲しい」と言いました。主イエスがこの悪霊に名前を尋ねると悪霊は自らを「レギオン」と名乗りました。レギオンとはローマ帝国で最も大きな軍隊の名前です。それほどこの悪霊は力がありました。しかし、キリストの前では、ローマ帝国最大の軍隊をもってしても無力です。

 

弟子たちと共に

主イエスはどうして、このゲラサに弟子たちを連れて来たのでしょうか。神の子ですから、ひとりでも十分だったはずです。その証拠に、この聖書の箇所に弟子たちの活躍の場は初めから終わりまで一つもありません。ではなぜでしょうか。キリストは、弟子たちに教えたかったのだと感じます。あなたがたの知らない世界がある。神様のご支配する世界がある。そしてその世界は、今この地上に実現している。そのことを教えたかったのだと感じます。忌み嫌う存在、汚れがうつるかもしれない存在。本当はそんな人はいないのだということです。主イエスがこの地上に人として生まれ、弟子たちと共に、人々と共に生きられ始めたその時から、もうこのゲラサの人もまた神の国、神様のご支配の中にいるのです。私たちは、この人にとって、神様のご支配は、主イエスが今、このゲラサにたどり着いた時から始まったと考えるかもしれません。しかし、それは違います。この人に対する、神様のご支配は、もっとずっと前から始まっている。キリストがこの地上に小さな赤ちゃんとして生まれ、成人し、そして「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されたそのときから、このゲラサの人もまた主イエスの救いの射程の中に入れられたのです。主イエスはそのことを弟子たちに教えるために、ゲラサに着く前から、「向こう岸に渡ろう」と言って弟子たちをゲラサまで連れてきました。ゲラサにいたこの人だけではありません。この主イエスの救いの射程の中に、私たちもまたいるのです。私たちは、決して、足枷や鎖を引きちぎっているわけではありません。墓場に住んでいる訳でもありません。しかし、私たちだって、墓場を生きるかのような経験をすることがあるはずです。一人ぼっちで、苦しくて、どうしようもない、そんな辛い思いをすることがあるはずです。自分に生きている意味などあるのか、そんな暗闇を経験することがあるはずです。キリストはそういう私たちを、今、救いの射程にきちんと入れてくださっている。私たちの生きているこの生活の中にも、今、主イエスが来てくださっているのです。

 

悪霊の追放

主イエスはこの人から悪霊を追い出しました。その描写は聖書の記述の中でも、忘れることのできない描写です。「レギオン」と呼ばれた悪霊は、2000匹の豚に乗り移ると、その豚の群れは崖をくだっていき、湖になだれ込み、次々とおぼれ死んでいきました。この人の苦しみがどれほど大きかったのかが分かります。キリストはその苦しみを取り除いてくださった。この人はそれで正気になりました。興味深いのは15節の言葉です。

「彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった」

この人はただ悪霊が出ていってそれで正気になったというわけではありません。この人は今「座ってい」ます。どこに「座っている」のか。それは、主イエスの足元に座っています。私たちが真に正気になっていく、重荷から解放されていくということは、主イエスの足元に座る存在になるということです。そこで、主イエスの言葉を聴きつつ生きる。主イエスは神の子です。私たちに命を与え、私たちを愛し守り導きたもう神様の言葉を聴きつつ生きることこそ、私たちが真に正気になるということです。私たちにとって、この悪霊追放の出来事は、主イエス・キリストの十字架の出来事です。主イエスが、神の子でありながらどうして十字架につけられ死ななければならなかったのか。それは私たち人間の罪がそれほど深いものだったからです。私たちは自分のことをそれほど罪深い存在だと考えることがないかもしれません。しかし、キリストが十字架で、私たちの罪を背負い死んだことを知るときに、どれほど私たちの罪が深いのか、私たちは知ることができます。それは、2000匹の豚が、崖をくだり溺れ死ぬことにも勝る、私たち自身ではどうしようもなく深い罪の現実です。しかし、その暗闇に生きている私たちのところに、今日、キリストは来てくださっている。そしてご自身の十字架の死を通して、私たちの罪を豊かに赦し、私たちを神の子としてくださっている。このゲラサの人に起きている救いの出来事が、今私たちにも起きています。

 

主があなたにしてくださったことを

主イエスは人々に追いやられるように、その土地を去ることになりました。主イエスが船に乗りその場を去ろうとすると、この人は「一緒に行きたい」と願いました。主イエスと共に生きたい。この人の素直な思いが溢れています。しかし、主イエスはこの人にこう言いました。

「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことを、ことごとく知らせなさい」。

「自分の家に帰りなさい」。それは、あなたにはあなたのするべき仕事があるということです。主イエスがあなたにしたこと、そのことを、このゲラサの地にあなたが伝えること。それが、この人の新しい生き方です。私たち教会も、するべきことは実はそんなに難しいことではありません。主イエスが自分にしてくださった出来事を、他の人に伝えること。これが、私たちが神様のことを伝えるということの根本です。20節には「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」とあります。福音はこのようにして広まって生きます。一人の人の救いを通して、その人の語る言葉を通して、「ああこんな自分も、神様に愛されていた存在なのか」と、気づかされていくのです。私たちは今日、ここで、その福音の恵みに触れています。主イエスが今日、私たちと出逢っていてくださっていて、今ここに、私たち一人一人の真の救いが実現しています。この美しい信仰の物語を聴いた後で、3節の言葉を読むと、最初に読んだ時とはまるで違った意味の言葉として受け取ることもできると、私は思います。つまり、「主の赦しによって罪から自由にされる人間」が、予兆として、前もって示されていると感じます。

「もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」

主イエスに救われた喜びは、この人を自由にし、足枷、鎖を真の意味でほどいていきました。この人は、もはやどのような鎖でも、どのような足枷でもつなぎとめておくことができないほどに、神様のことを伝える証人として歩み出していきます。キリストとの出逢いは、その人を新しく誕生させました。全く違った世界が、キリストとの出逢いのうちにはあるのです。(私は、使徒パウロの回心した姿を思い起こします。パウロだけでなく、)私たちもまた今日、今ここで、新たに生まれ出ます。どのような罪も、どのような神様に対する不誠実さも、不信仰も、私たちを縛り付けることはもはやできません。私たちは、大胆に、そして自由に、主イエスキリストの十字架の罪の赦しに、生きる者とされているからです。

「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」

今日私たち一人一人にも、主イエス・キリストの福音が届きました。

9月23日の説教要旨 「主の支持者達と反対者達」 平賀真理子牧師

詩編70:2-6 ルカ福音書21:37-22:6

 

はじめに

今日の新約聖書箇所の前半である21章37節と38節では、それ以前の様々な出来事を経た後でも、イエス様が相変わらず、民衆の支持を受けておられたとわかります。反対派から論争を仕掛けられたり、終末の徴を知りたがる人々を教え導いたりしながら、実は、イエス様は為すべきことを粛々と続けておられました。それは、神の御子として神殿で民衆に教えることです。また、夜は、エルサレムの町を出て「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされたとあります。イエス様がよく祈っておられたことは福音書の随所に出てきます。救い主としての使命である「十字架」が迫る中、主は益々熱心に父なる神様に祈りを献げられたのでしょう。

 

反対派に同調し、主を十字架に導いてしまった「イスカリオテのユダ」

一方、22章に入ると、エルサレムの実力者達は、相変わらず、イエス様を受け入れようとはせず、反対派のままだったとわかります。人々の面前で論争に負けたこともあり、ついに、彼らはイエス様の存在を消すこと、つまり、イエス様を殺すことを明確に目指すようになりました。しかし、表立って「ナザレ人イエス」を殺したのでは、イエス様を支持していた民衆の反感を買います。彼らはそれを一番恐れました。ユダヤ教指導者層が中心の反対派は、本来は神様の眼差しを第一に考えるべきでしたが、それを怠り、民衆が自分達をどう考えるか(「民衆受け」)を第一に考えていました。だから、民意に合わない「イエス殺害」を、民衆から隠れた所でコソコソと企てようとしたのです。彼らは、最初から反対派であり、イエス様の教えや知恵に出会っても、頑なに反対派に留まり続けたので、彼らの決意と企ては想定内です。しかし、想定外のことが起こりました。反対派に同意して手助けする役割をしてしまったのが、主の支持者の中にいたことです。その中でも、別格の存在、本来はイエス様と一体であるべき弟子、特に、その中でも、イエス様御自身が「使徒」と名付けて愛し育んだ中心的弟子の一人が、反対派に同調して、主を裏切る行動をしたのです。悪い意味で有名な「イスカリオテのユダ」です。

ルカ福音書では、どうしてそんなことが起きたのか、ユダの心理的原因を追究していません。ただ一言、「ユダの中に、サタンが入った」と記しています(22:3)。主の愛の中で慢心したのでしょうか。ユダは、自らの中にサタンが入り込む隙を与え、反対派の罪の中に巻き込まれ、主を裏切った末、後悔して自らの手で自らを裁くという罪を重ねていくのです。

 

主の支持者(神様の愛する者)を狙うサタン

振り返れば、サタンは、人間の始祖であるアダムとエバを誘惑して神様から引き離しました。それ以降、サタンは、神様が創造なさったこの世の主権を横取りし、神様が最も愛する人間達を支配してきました。そして、神様がいよいよ御自分の御子をこの世に送られて、その御子が福音伝道を始めようとするや否や現れて、神の御子を不遜にも誘惑しようとしました。これが「荒れ野の誘惑」(ルカ4:1-13)であり、この時、イエス様の誘惑に失敗したサタンは、「時が来るまでイエスを離れた」と書かれています(13節)。それで、サタンは、救い主イエス様の歩みの上にそれからは手出しできなかったのですが、エルサレムのユダヤ教指導者達がイエス様を受け入れない現実の中で、再び活動できる時が来ました。こんな時、私達人間は、反対派の中にサタンが入るのではないかと予想しがちですが、サタンはそうしません。反対派はサタンが支配しているので、そういった人々の中に入らなくても、彼らはサタンの思うままに動くはずです。そうではなく、神の御子イエス様の愛する弟子の中にサタンが入ったことに、私達は注目し、留意する必要があります。

 

「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(Ⅰペトロ59)

サタンは、神様から主権を横取りしたこの世に、神様の愛の世界が広がることを一番嫌がり、イエス様を救い主として受け入れて「神の国の民」となった私達信仰者を、自分の方に取り返そうと必死に誘惑を仕掛けます。だから、教会生活を重んじることは有効です。「洗礼を受けて救われたのだから、それ以上は望まない」と言って、教会生活を軽んじる人は、サタンの攻撃の威力を知らず、備えるべき戦いの道具「武器」の手入れを怠る兵士に例えられます。祈り・御言葉の学び・礼拝を共にする信仰の友との交わり、これらによって、信仰の戦いに備え続けましょう。

9月3日の説教要旨 「苦難の道をたどられる主」 牧師 平賀真理子

詩編132:10-18 ルカ福音書13:31-35

 

*はじめに

ルカ福音書の9章で、イエス様は「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた(51節)」とありますので、人々の罪の贖いのために十字架にかかる場所「エルサレム」へ行く定めにあることを御自身は自覚なさっていたのでしょう。その途上で、イエス様御一行は、ヘロデ・アンティパスという領主の領地に入りました(31節から推測)。

 

 

*イエス様の反対派として結託していくヘロデとファリサイ派
ファリサイ派の人々は、ヘロデという領主の権威を笠に着て、イエス様を追放しようとしています。本当にヘロデが命令したのか、ファリサイ派がヘロデの意向を汲み取って先回りしているのか今やわかりません。
また、ファリサイ派の人々の中には、イエス様の身を本当に案じた人もいたのかもしれませんが、ここでは、イエス様の反対者達が次第に結託していき、勢力を強める際の、その端緒を見ることができると思います。

 

*ヘロデへのイエス様の伝言
イエス様は、そんな悪意に満ちた報告をしてきたファリサイ派の人々に対して、ヘロデへの伝言を頼みました。「あの狐」とはヘロデのことです。(狐は、当時のこの地方で、最も狡猾で、凶暴で、役に立たない動物と思われていて、それがまるでヘロデそのものだったからです。)伝言の中心「悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」(32節)とは、イエス様の「救い主」としての御業を自らまとめ、それは神様が定めたものであり、決して変えられないとの思いが込められていると読み取れます。

 

*「悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」(32節)
イエス様が悪霊を追い出す権威を与えられており、相手方の悪霊達がイエス様を「神の御子」と認めて去ったことは福音書に証しされています。病人の癒しでは、病いに苦しんでいる人々を目の当たりにした イエス様は憐れみを禁じ得ず、父なる神様から癒しの力をいただいて、彼らを救ったのです。この2つの内容は、イエス様が神様からの力をいただける「神の御子」であることの証しです。次に「三日目にすべてを終える」という御言葉に注目しましょう。「三日目に」とは、旧約聖書においても、神様の御心に適った人の「よみがえり」「復活」を暗示するものです(ホセア6:2、ヨナ2章)。後の時代の信仰者にとっては、「三日目に」とは、「主の十字架」の後の三日目の「主の復活」を想起させる言葉です。イエス様の救い主としての中心的な役割「十字架と復活」を果たすことは神様によって定められているという意味が隠されています。また、「終える」という言葉の元々の単語には「成し遂げる」という意味があり、「十字架と復活」を果たし、神様から託された救い主としての責務「すべてを成し遂げる」という意味を示しています。また、同時に、「三日目にすべてを終える」とは、ヘロデに都合のいい解釈もできます。それは、「領地に御自分(イエス様)が来て、領主ヘロデの勢力を脅かすような出来事は、あとわずか三日程で終わりますよ」という意味にも取れる言葉を用いておられるからです。

 

*「今日も明日もその次の日も、自分の道を進まねばならない」(33節)
イエス様は、ヘロデやファリサイ派などの反対派の人々に御自分の使命を語られたのですが、「十字架」にかかるにあたっては、人間として受けるならば、壮絶な苦痛があることを予め理解された上で、その役割を引き受けられたことがわかります。「進まねばならない」という御言葉の中に、主の苦しい思いがにじみ出ていると感じられます。(だから、説教題を「苦難の道をたどられる主」としました!)しかし、それが神様のご計画なので、イエス様は何よりも優先なさったのです!

 

*神様の恵みを受け続けるために
34節以降で、イエス様はイスラエル民族の中心都市エルサレムが、神様から遣わされた預言者を数多く殺した都であり、御自分も預言者の一人として、エルサレムで死ぬと預言され、神様の御気持ちを慮って嘆かれました(イエス様は「救い主」で、他の預言者とは別格ですが、神様から御言葉を賜って人々に伝える働きもされたので「預言者」とも言えます。)。イスラエルの民は、神様からの一方的な愛を受けて「神の民」として恵みを受けてきたにもかかわらず、神の御子である御自分を「救い主」とは受け入れず、これからも受け入れる人は本当に少ないとイエス様は見通し、そのため、イスラエルの民は、御自分の再臨の時まで、神様から見捨てられると預言なさいました。イエス様を「救い主」と受け入れない民は、神様から見捨てられるのです。私達は、神様の恵みを受け続けられるよう、イエス様を「救い主」として受け入れ、賛美する思いを新たにしましょう。

1月8日の説教要旨 「異邦人の主」  平賀真理子牧師

詩編1021323 マタイ福音書2112

 はじめに

今年の暦で言えば先週の金曜日だった「1月6日」は、キリスト教会にとって重要な日です。「イエス様がおおやけに現れた日」として「公現日」と名付けられ、今日の新約聖書の箇所を覚える日として大切な日です。イエス様が神の民ユダヤ人達だけでなく、それ以外の民である「異邦人」達にも「救い主」として現れてくださったことを感謝し、祝うのです。

 

 「東の方からやって来た占星術の学者たち」

1節にある「東の方からやって来た占星術の学者たち」というのが、その「異邦人」達を象徴する人々です。東の方というのが、具体的にはアラビアかペルシャらしいのですが、大事なのは、彼らが異邦人だということです。また、占星術の学者と言っても、主な仕事は占いではなく、太陽や月や星などの天体の動きを客観的に観測して、農業などに助言することでした。今で言う「天文学者」とか「気象予報士」などと想像していいと思います。ユダヤ人達が「神様の御言葉を知らない」と蔑んだ「異邦人」ではあっても、彼らは客観的な真理に従う準備のできていた人々でした。

 

 もう一人の異邦人「ヘロデ大王」

さて、今日の箇所では、この学者たちの他に、「異邦人」である人物がいます。「ヘロデ大王」です(後々聖書に出てくる息子のヘロデ・アンティパス王と区別するため、今回は「ヘロデ大王」と記します。)。ヘロデ大王は、ユダヤ人の領地の南隣のイドマヤ出身者であり、ユダヤ人と見なされませんでした。つまり、ユダヤ人にとって、異邦人支配者だったわけです。唯一の神様を信じて生きるユダヤ人達を知っていながら、ヘロデ大王の関心事は、自分の欲望を満たすためにこの世での権力を増大させることだけでした。

 

 ユダヤ人でありながら、救い主の誕生を喜べなかった人々

一方、ヘロデ大王のお膝元に居たユダヤ人達は「救い主御降誕」の知らせを聞いてどう反応したのか、2種類書かれています。一つは、ユダヤ教指導者達(「民の祭司長たちや律法学者たち」)であり、もう一つはエルサレムの人々です(3節)。前者は、救い主の誕生地を預言書ミカ書5章を通して知っていてヘロデ大王に教えていますが、彼ら自身は知識はあっても、動きませんでした。また、後者は、ヘロデ大王の下で都にいられる人々であり、すぐに政権交代が起これば、自分達の運命はどうなるのかわからず、不安になったのです。「神の国」が来るために即行動することよりも、今の自分達の生活を守ることが大事な人々と言えるでしょう。そういう意味では、ヘロデ王とユダヤ教指導者とエルサレムの人々は同じだと思われます。

 

 神様と人間 -「救い主誕生」という事実をめぐって-

神様は、愛する人間に預言までしてくださり、実際にこの世に働きかけてきださって、救い主を誕生させてくださいました。にもかかわらず、神様が期待して選んだ人々(ユダヤ人)とその地域の支配者だったヘロデ大王(異邦人ですが)は、その救い主を最初から受け入れる準備ができていないことが示されています。イエス様の苦難は、もうここから始まっていると見ることができます。

 

 「ユダヤ人の王」から「異邦人の主」へ

一方、東方からやって来た占星術の学者たちは、「異邦人」とはいえ、ユダヤ人達の信じる神様の偉大さや、その神様が「ユダヤ人の王」を生まれさせるという預言を知っていたと思われます。そして、星の動きという客観的な事実を見て、ユダヤ人達の話を肯定的に受け止め、自分達を預言と事実の前に従わせ、旅へと出かけました。自分の命の危険を顧みず、救い主に出会う喜びを選んだのです。

ここに、ユダヤ教からキリスト教の萌芽を見て取れます。神様の揺るがしがたい選びによって、ユダヤ人達が神の民として救われるように、神様が導いていることがユダヤ教の根本にあります。けれども、神様はユダヤ人だけが救われればいいと思っておられるわけではなく、ユダヤ人を初めに救い、その後は「異邦人」も救われてほしいと願っておられるのです。詩編にもそれが現れた箇所が幾つかあり、今日の旧約聖書の箇所もその一つです。また、イザヤ書49章1節―6節には、救いの光がイスラエルから地の果てにまでもたらされることを、主が望んでおられることが明らかにされています。

ユダヤ人としてユダヤ人の只中に誕生されたイエス様ですが、今日の箇所では、そのイエス様を「救い主」として拝んで尊い宝を献げて喜んだのは、ユダヤ人達でなく、異邦人達だったと示されています。神様は最初のご計画にこだわらず(「ユダヤ人から救う」)、準備のできた「異邦人」にイエス様を救い主として啓示なさいました。ここに、民族を超えたキリスト教の救いが示されています。私達も肉の上では異邦人ですが、「異邦人の主」の救いを既に受けています。今週は「公現日」直後の週なので、特に、「異邦人の主」の救いの光を受けていることを充分に感じつつ、主への感謝をもって歩めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

10月2日の説教要旨 「必要なこと」 牧師 平賀真理子

詩編274  ルカ福音書103842

 はじめに

今日の新約聖書の話に出てくるマルタ・マリア姉妹については、ヨハネ福音書11章から12章前半に、別の話が記されています。この姉妹にラザロという兄弟がいて、イエス様が一度死んだラザロをよみがえらせるという奇跡をなさったという内容です。その中で、この姉妹の出身地はベタニアだとあり、その村はエルサレムから15スタディオン(約3㎞)という近さにあると記されています。

 十字架が間近であるという大前提

今日の箇所の少し前(9:51)に書かれているように、イエス様は「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」のです。つまり「十字架にかかる」日が近いということです。この世に存在する日々の終わりが見えてきた中で、イエス様の言動は大事なことに集中しています。それは、福音を一人でも多くの人々に伝え、神様の御心を知って行う「神の国の民」を増やすことです。

 イエス様一行をお迎えしたマルタとマリアの対照的な様子

ベタニア村のマルタという女性が、イエス様一行を迎え入れました。(マルタが姉、マリアが妹と推測されています。)マリアは、姉の決断の恩恵を受け、イエス様のそばでお話を聞くチャンスに恵まれました。

一方、姉のマルタはイエス様だけでなく、弟子達の分までという大勢の人々の接待のためにすることがたくさんありました。旅人の手足を洗うための水の用意、飲み物の用意、調理用の食材や水や火の調達・準備等、一人でも多くの助けを借りたかったでしょう。マルタが、そばにいても手伝わないマリアを見て、苛立ちを感じたのには同情を禁じ得ません。

 マルタの言動の問題点

それでも、マルタの言動には問題点が無いとは言えません。

一つは、大事なお客様であるイエス様に、自分の不満を訴えている点です。マリアに手伝いを直接頼むか、または、お客様が帰った後、注意する行動をとってもよかったのではないでしょうか。マルタは自分でイエス様を迎える決断をしたのに、周りから評価されたくて、もてなしを頑張りすぎていたのでしょう。助けを素直に求めればよかったのに、そうできず、イエス様の権威を借りて、妹を自分の意のままに動かそうとしたのかもしれません。

マルタはイエス様に呼びかけた時、「主よ」と言っています。これは、イエス様を「救い主」と理解していることを表しています。にもかかわらず、畏れ多いことに、イエス様の態度に対しても責めているというのが第2の問題点です。妹が話に聞き入っていることについて、自分の窮状に気づかないように見えたイエス様をも責めています。マルタは、自分で背負い込んだ、目の前の苦労の中で自分を見失い、本当に価値のあるもの=救い主との出会いを与えられたことへの感謝を忘れています。自分の窮状に捕らわれ、神様の恵みを見失い、「自分を助けてくれない」と神様を責めています。罪深い人間の一つの姿と言えます。

第3の問題点は、救い主を第一として行動していないことです。マリアだけでなく、マルタも、実はイエス様のそばに近寄ったのですが、他の用事のついでに、立ったまま、イエス様を見下ろし、自分の言葉を主に押し付けているように読み取れます。十字架に向かう主を理解し、敬愛しているようには思えません。

 良い方を選んだマリア

一方、マリアは、主の十字架への決意を感じ取ったのでしょう。イエス様を仰ぎ、主の御言葉を今後の人生でも守って生きる掟として、心の中に据えようと聞いています。それこそが、十字架を目前にしたイエス様が人々に望まれた働き、「奉仕」です。42節「マリアは良い方を選んだ」の「選んだ」は多くの選択肢から、本人が選び出したという意味です。他のどんなことを差し置いても「主の御言葉を聞く」のを選ぶことこそ、主が信仰者に求めている第一のことです。

 「主の御言葉を聞く」=「全身全霊で神様を愛すること」

この話の直前には「善いサマリア人」の話が置かれています。イエス様のこの例話が素晴らしいので、「自分が隣人となるために、助けの必要な人のところへ行く」ことを信仰者は目指すと思います。しかし、その段落の最初にもあるとおり、信仰者の大前提は「全身全霊で神様を愛すること」です。その具体的な行動として、他のことに惑わされず、「掟として、主の御言葉を聞くこと」を第一のこととすべきであると示されています。礼拝で御言葉を聞き、聖書を読んで御言葉を求める、これこそが、全身全霊で神様を愛することの証しなのです。

7月3日の説教要旨 「主との信頼関係」 牧師 平賀真理子

詩編116 ルカ9:1827

 はじめに

イエス様は、御自分には この世での時が多く残されていないことを思い、御自分の福音宣教と癒しの業を使徒達が引き継げるよう、御力と権能をお授けになりました。使徒達は派遣された所で、実際に福音宣教でき、癒しの業を行うことができました(9:6)。イエス様からの恵みが使徒達に有り余るほど豊かに注がれていたからでしょう。使徒達にとり、大きな喜びだったことでしょう。また、「五千人の給食」のような奇蹟によっても様々なことを学べて、充実した日々だったことでしょう。

 神の御子・救い主「イエス・キリスト」だけに課せられる使命

しかし、神の御子・救い主イエス様だけの使命が課せられる日が近づいていました。人々の罪を贖うために十字架にかかることです。その前に、イエス様は御自分のことを本当の意味で理解している人間と信頼関係を作りたいと願われていたのです。それこそが、本当の意味で、この世で神の国を作ることの礎となるからです。

 群衆ではなく、弟子達への信頼

イエス様の周りには、「群衆」がいつもいました。イエス様は、まず、群衆は御自分のことを何者だと言っているかを弟子達に問い、その後、弟子達自身の答えを求められました。イエス様からの恵みだけを求める群衆と、自分の持っているものを捨ててイエス様に従った弟子達の、それぞれの答えは違っているはずだと願われたのだと思います。

 一番弟子ペトロの信仰告白

ここで、一番弟子のペトロが弟子としての使命を果たします。イエス様のことを「神からのメシアです。」と答えました(9:20)。マタイ福音書16章には、このペトロの信仰告白をイエス様は大変祝福されたことが記されています。これで、主との信頼関係を結べる相手としてペトロが立てられることを天地に宣言することになりました。神の御子・救い主イエス様が、この世で神の国を作るための人間側の基盤ができていることの証しです。ペトロの信仰告白の功績に感謝です!

 弟子達への受難予告

しかし、ルカ福音書では、ペトロの信仰告白の後は、この正しい答えを弟子達の外には話さないようにイエス様が話されたと続きます。イエス様の定めは、人間の考えではとても受け入れがたいと言えるでしょう。「救い主」なのに、「多くの苦しみを受け、権力者達から排斥されて殺される」ということも、「三日目に復活する」ということも普通の人間の理解の範囲を超えています。たとえ、理解できた弟子がいたとしても、ただただびっくりし、イエス様と従っている自分達の運命がどうなっていくのかを心配することしかできなかったでしょう。

 弟子達の取るべき姿勢

イエス様は、動揺する弟子達に配慮してくださり、今度どうすべきかを教えてくださいました。23節以降です。23節では「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とおっしゃいました。イエス様は、御自分の厳しい定めを打ち明けた上で、弟子達に、まず、御自分に従いたいと思っているかを問いかけておられます。というのは、御自分に従う者は、主と同じ厳しい定めが待ち受けていることを教えなければならなかったのです。主が命を捨てられたように、主に従う者は自分の欲望を捨てることを要求されます。主が十字架を背負って歩まれたように、主に従う者も自分の十字架を背負うことが求められます。ルカ福音書で特徴的なのは、「日々」という言葉です(マタイ・マルコ福音書の同じ内容の記事には無い言葉です。)それぞれの日常生活において、神の民としてふさわしくない自分の罪を滅ぼすように努める姿勢が求められるのです。洗礼を受けて一度救われたのだから、後の生活は変えなくてもいいと誤解する信仰者もいるように思いますが、そうではないと示されています。もちろん、イエス様は人間の弱さをよく御存じで、人間が常に思ったとおりに行動できないと御存じですが、それでも、主に従いたいと願う者は、イエス様の定めと同じものを背負うだけの覚悟を求められています。

 最高の恵みである「永遠の命」

そんな高い基準の信仰は、自分には無理かも?と不安に思う方もおられるでしょう。しかし、十字架の先に、最高の恵み「永遠の命」をいただけると24節以降に記されています。それは「復活の主」だからこその恵みです。私達も主との信頼関係を結ぶ者として選ばれました!主の期待に応えて歩みたいものです。

6月19日の説教要旨 「この世へ派遣される」 牧師 平賀真理子

詩編183246 ルカ9:19

 はじめに

 イエス様が12人を呼び集めたことから、今日の箇所は始まっています。この12人とは、ルカ福音書6章12-16節にあるように、イエス様が祈りの後で選んだ「使徒達」のことです。

 「悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能」

使徒達は「悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能」をイエス様から授けられました。悪霊に打ち勝ち、病気を癒すことは、イエス様御自身がなさっていました。イエス様は十字架で死ぬという御自分の定めを予めおわかりになり、「使徒達」に御自分の力と権能を与え、大事な御業の一部を引き継がせるために、弟子教育を始めようとされたと思われます。

ここで「権能」という、なじみの薄い言葉について、説明が必要でしょう。日頃の言葉で言うなら「権威」ということです。「権能」の語源には「合法的である」という意味が含まれています。決まりに従って、正しいことであるという権威が与えられているということです。その決まりとは、全く正しい権威の下にある決まりです。それは、神様から与えられた権威しかありえません。イエス様が使徒達にお授けになった「力と権能」とは、父なる神様から授けられたのだと理解できます。

 「神の国を宣べ伝えるため」「病人を癒すため」

また、次の2節には、使徒達が各地へ派遣されるのは、「神の国を宣べ伝えること」「病人を癒すこと」であるとも書かれています。「病人の癒し」では、人々は神様の力を目の当たりにできます。ルカ福音書4章18節以降に「救い主に期待されていた御業」が書かれており、病人の癒しも勿論ですが、何かに捕らわれている人や圧迫されている人を解放することも救い主に期待されています。使徒達が神の国を宣べ伝え、それを聞いた人々は、イエス様の教え(神様が自分を愛してくださり、救おうとされていること)を知り、この世での苦しみから本当の意味で解放されるのです。

 福音伝道の旅に派遣されるにあたっての3つの教え

使徒達を派遣するにあたり、主は3つの具体的な教えを語られました。

1つ目では、「必需品さえ、余分に持って行かない」ということでした。使徒達には、この世への依存をやめ、イエス様と同じように、神様のために働く者に必ず与えられる「神様からの助け」に絶対の信頼を置くよう、求められたのです。2つ目では、神様が備えてくださる人々ときちんと信頼関係を築くことを勧めておられます。この姿勢は、イエス様亡き後の使徒達の伝道の姿勢につながっていくのです。3つ目では、使徒達を拒絶する人々には、「足の埃を払い落す」というユダヤ人の風習を敢えて許されました。神様の方から「救い」を与えようとされているのに、それを拒絶する人々は、神様とは何の関係もないことが明示されるのです。私達は神様からの恵みを理解して受け取れたことに感謝しましょう。

 イエス様の御命令に従った使徒達

6節で、使徒達はイエス様の御命令に従った結果、福音宣教ができ、病人も癒すことに成功したことが記されています。それは、使徒達が、神様の力と権能を授けられたからであり、また、イエス様の祈りのお支えがあったからでしょう。使徒達はそれまでのイエス様と一緒の旅から、自分達だけの旅になり、大変心細かったでしょう。それでも、彼らはイエス様の御言葉に従いました。そして、頼りない我が身に、神様の力と権能が託される喜びを体験したと思われます。

 この世の権力者ヘロデの姿

一方、7節から9節には、この世の権力者として、ガリラヤ地方の領主ヘロデの姿が書かれています。この人はヘロデ大王の息子ですが、使徒達を派遣していたイエス様についての噂が相当気になっていたようです。その中で、ヘロデを戸惑わせたのは、イエス様は過去の偉大な預言者達の生まれ変わりだという噂、特に、自分が殺す命令を出した洗礼者ヨハネの生まれ変わりだという噂でした。自分の罪におびえる人間としてヘロデの姿を見ることができるかもしれません。また、この世の人々が、イエス様に対して、興味を持ち続けつつも、なかなか信じるところまで至らない象徴として受け取ることもできるでしょう。

 神様がイエス様を信じる人々を興(おこ)し、この世に派遣される

そんな この世から、全知全能の神様は、イエス様を信じる人々を興し、「神の国」を拡げることがおできになる御方です。使徒達に連なる私達も、神様から信じる者として興されたのです!その大きな恵みを思い起こし、「使徒達のように、今度は私達をこの世に派遣してください。」と祈れるようになりたいものです。

5月22日の説教要旨 「使徒ペトロの説教」 牧師 平賀真理子

詩編16711・使徒言行録222243236

 はじめに

今日の箇所の直前には「ペンテコステの出来事」が記されています。

「イエス様を信じる者達が心を一つに集まっていると、聖霊が降った。それはイエス様が事前に約束されたとおりだった。そして、聖霊を受けた者達は、自分の知らない外国語で、神の偉大な業を語っていた。」のでした。その「神の偉大な業」という話の内容は具体的に何だったのか、それが、今日の箇所「ペトロの説教」に集約されていると思われます。

 預言されていたとおりの「聖霊降臨」

自分でもわからない外国語で信徒達が語っているという現象は、酔っ払いの戯言ではなく、旧約聖書のヨエル書で神様が預言者を通して預言してくださったことの実現であり、それが本当に起こっているのですよ、そして、それには大きな意味があるのですよとペトロは説明していくのです。

 「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」(22節)

このペトロの説教の聴衆は、エルサレムの町に住んでいて、「聖霊降臨の出来事」に驚いて集まった人々です。彼らの多くが、イエス様を「ナザレの人イエス」と呼んでいました。病人の癒しや自然現象を越えた奇蹟等、人間の力ではありえない、神様の御力をいただかなければできない出来事を数多く行い、噂になっていた御方です。それを妬んだユダヤ教指導者が政治的権力を持つローマ人に訴え、イエス様を十字架に付けたことも聴衆の多くが知っていたはずです。十字架の時に起こった様々な不思議な出来事もよく知られていました。でも、それだけではありません。

 「神はこのイエスを死の苦しみから解放し、復活させられました」(24節)

24節は、神様が愛する者を死の世界に閉じ込めたままにしない(「復活」)と述べていますが、それを詩編16章10節から裏付けています。この詩は、ユダヤ人達が敬愛するダビデ王が神様に向かって謳った詩です。詩編16章10節では「わたしの魂を陰府(死者の行く世界)に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」となっており、それを引用した使徒言行録2章27節では、「わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」となっています。どちらの方も、ここで謳われた「わたし」が誰なのかが問題です。ペトロが話したように、ダビデ王の詩とはいえ、ダビデは死んでお墓もあるので、この詩の「わたし」には該当しません。それが、ダビデの子孫でもあったイエス様を指しているとペトロは説明しているのです。だから、イエス様は、ユダヤ人が敬愛するダビデ王が預言した「神様が復活させてくださった方」なのだとペトロは語ります。そして、この説教前に立ち上がった使徒達(2:14)は、復活の主に40日間出会い、教えを受けたことも事実だ(1:3)と証しできるとペトロは彼らを代表して堂々と語ったのです。

 十字架、復活、そして高挙

33節にあるように、十字架に付けられた主は、死の世界に勝利して復活されただけでなく、神がおられるという「天」に引き上げられ、神の右に座られています。これを「高挙」と言います。天に高く挙げられたのです。だから、神の霊である「聖霊」を父なる神様から受けて信じる者達に注いでくださることができるのです。

(「高挙」は、ルカによる福音書とその続編と言われる使徒言行録で特に明確にされています。)

 「あなたがたが十字架に付けて殺したイエスを、神は主とし、メシアとなさった」

ペトロの説教の結びの36節の御言葉を通して、人間の罪深さにもかかわらず、それでもなお、神様は人間を救おうとしてくださっている、そのような神様の愛の大きさとその御業の確かさを思い起こすことができると思います。その救いの御業とは、具体的には、イエス様の宣教と十字架と復活と高挙ですが、その先には、イエス様を信じる者達に聖霊が注がれて、自分では思ってもいない力が与えられるという望みを感じることのできる説教だと思います。

 聖霊を受けた後に「使徒」にふさわしい説教をするように用いられたペトロ

この説教をしたペトロは、人間的な考えによって様々な失敗をして、イエス様から度々指導を受けた人物として、福音書に記されています。生前イエス様が、そばに置いて、宣教できるよう教育し、この世の悪霊を追い出す権能を授けようと「使徒」に選ばれたのですけれども、聖霊を受けた後になって初めて、ペトロは「使徒」にふさわしい説教ができたと示されています。聖霊を受けると、このように、自分を越えた所で神の御業の一部を担わせていただく働きに用いられます。私達も「使徒」の流れの中に置かれる者達です。「使徒」に倣い、聖霊を受けて神の御業のために用いられるよう、聖霊の助けを更に祈り求めましょう。

5月8日の説教要旨 「主の御力④」 牧師 平賀真理子

詩編13:2-6・ルカ福音書8:42b-48

 はじめに

イエス様は大きな御力で「救い主」としての様々な御業をなさいました。

今日の箇所では、人の力では癒せない、長年の病いを癒してくださる御力です。新共同訳聖書では、「イエスの服に触れる女」とありますが、一時代前は「長血の女」と呼ばれていた、この女性の上に起こった出来事が、主の御力を証ししています。この女性は12年間も出血が止まらない病いにかかっていました。恐らく、婦人科系の病いだろうと想像されています。

 「出血が止まらない」病いによって

まず、私達は、出血が続けば、ふらふらして元気が出ないことを経験しています。この女性も日常生活を送るのがとても辛かったでしょう。次に、今日の箇所の43節にあるように、この女性は病いが治りたいと願っては医者にかかったので、治療代を払い、全財産を使い果たしたことが書かれています。この女性は経済的にも困窮していたわけです。

それだけではありません。更に、別の理由がこの女性を悩ませました。ユダヤ人社会における考え方です。ユダヤ人達は、旧約聖書のレビ記の「生き物の命は血の中にある(17:11)」の教えに基づき、血を神様からいただく大事なものと考えたのです。そのような大事な血が外に出て行く病いは、「神の民」ユダヤ民族の中にあってはならない病いと思われ、そんな病いにかかる人は、個人的に神様に背いたために神様から罰を受けた人、つまり、神様から見放された「汚れた」人と見なされ、社会から疎外されていたのです。この「長血の女」は、長い間、身体的苦悩・経済的苦悩・社会的苦悩という三重苦の中で打ちひしがれていた人間と言えます。

 後ろからイエス様の服の房に触れた女性

そんな状況の女性が、多くの人が集まるイエス様の所に来たこと自体、勇気のいることだったでしょう。更に、彼女は、自分の限界を超えた勇気を振り絞って、イエス様の服の房に触れました。女性が男性に触れるのは礼儀上失礼とされていましたし、「汚れた女」と人に蔑まれている自分が「神の御子・救い主」と呼ばれているイエス様の、その服の中で最も神聖な房に触れることも、宗教上よくないと思っていたでしょう。だから、この女性は遠慮して、イエス様の後ろからいただくわずかな御力でもいいからいただきたいと願ったのでしょう。

 イエス様の御力は心から救いを求める人間を救う

イエス様によって癒された人の多くは、イエス様に面と向かって懇願し、イエス様もその人の心をご覧になって、癒されました。しかし、この女性は、イエス様の知らない間に、イエス様の後ろからその服の房に触れたのです。相手はわからないものの、御自分から御力が出て行ったことを知ったイエス様は、神様からの御力がどんなものかよくご存じでした。イエス様を心から信頼して救われたいと手を指し伸ばした人間には、その御力が流れ出て、救いの御業が必ず起こることを確信しておられました!

 イエス様に促され、救いの御業を証しした女性

御自分に触れた人間を捜したイエス様の御言葉に促され、この「長血の女」は触れた理由と癒された次第を多くの群衆の前で証ししました。長年の病いが癒されたことも大きな恵みですが、更に、イエス様の「救い主」としての御力を群衆の前で証しするという働きをも、主によって与えられたと見ることができます。三重苦で打ちひしがれていた人間が180度変えられました。主の御力をいただくことで、癒されて元気になりました。更に、その救いの恵みを証しする役割を与えられ、社会から除け者にされていた人間が、喜びを持って神様を賛美する人間として、新たに生まれ変わらせていただいたのです。

 「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(48節)

実は、この女性を救ったのは、主の御力です。「へりくだり」の特性をお持ちの主は、御自分の「人間を救いたい」と思う真剣さと同じように、神様からの救いを真剣に受けたいと願う人間の信仰を、御自分の御力と同じものとして喜んで受け取る御方であると示されています。そして、救いを受けた人間に対して、神様に繋がって得られる平安の中で生き続けるよう、主は励ましておられるのです。

5月1日の説教要旨 「主の御力③」 牧師 平賀真理子

詩編30:2-6・ルカ福音書8:40-42a、49-56

 はじめに

イエス様は大きな御力で「救い主」としての様々な御業をなさいました。今日の箇所では、少女を死の世界から呼び戻した御力について語られています。その出来事の直前に、ガリラヤ湖東岸の異邦人の地方で、悪霊に取りつかれて苦しんでいた男に対して、イエス様は、その御力により、悪霊を追い出すという救いの御業をなされました。このことは、大変な噂となって、ガリラヤ湖周辺の町々を駆け巡ったことでしょう。

 ヤイロの願いを聞いてくださったイエス様

その出来事の後、イエス様はガリラヤ湖を船で渡り、対岸に戻って来られました。偉大な御力をお持ちであるというイエス様を一目見たいと群衆が集まったのでしょう。その中に、危機的状況で、本当に救いを求めていたヤイロという男がいました。ヤイロの12歳の一人娘が、瀕死の状態になっていて、娘がふせっている自宅へ来てくださるよう、ヤイロはひれ伏して懇願し、イエス様はヤイロの家へ向かいました。

 ヤイロの娘の死の知らせに際して

その途中で(別の女性が癒しの恵みを受けますが、それは次週お話しします)、 瀕死の娘がとうとう亡くなったという知らせが来ました。周りの人々は、イエス様の御力によっても、その娘は「死」の世界から生き返らないと思っていましたし、もしかするとヤイロさえも、希望を失いかけていたかもしれません。せっかく、イエス様の御力で助けていただけると希望を持ったのに、娘の死の知らせは、ヤイロを絶望に突き落としたことでしょう。ところが、イエス様御自身だけは、神様からいただいている御力を絶対的に信じておられました。そして、御自分と同じように、神様を信じることを求めて「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」(50節)とおっしゃったのです。人間は、「死の恐怖」「愛する者の死による絶望」にいとも簡単に捕らわれます。けれども、イエス様と共に居る者は、「死や絶望に捕らわれる心を、主なる神への信頼へ向けなさい!そうすれば、主があなたを救い出す」と主御自身が宣言されているのです。

 イエス様を信じたヤイロに起こった「救い」

そして、ヤイロとその妻(娘の母)は、イエス様の御言葉に従って、イエス様を信じる方を選ぶことにしたのでしょう。それは51節からわかります。人々がもう死んでしまったという娘のいるところに、イエス様はお入りになり、命を呼び戻す御業をなさいました。それは、主の御業の中でも、一番大変な御業の一つだったと思われます。神様の御力を最もいただかなくてはならない時に、一番重要なのは、「ただ信じること」のできる人々と共に、神様の御業が必ず実現することを待ち望むことです。だから、弟子達の中でも、主が一番信頼された3人、ペトロ、ヨハネ、ヤコブしか同席を許されませんでした。そして「娘の父母」であるヤイロとその妻も同席を許されました。この夫婦は、共に「娘の死」という絶望を目前にして、主を信じたいという気持ちしかなかったでしょう。そして、生き返りの御業がなされ、娘は生き返りました!

 この世だけでなく、陰府(よみ)をも治める権威をお持ちのイエス様

「娘よ、起きなさい。」(54節)という主の御言葉によって、娘は「霊が戻って、すぐに起き上がった」(55節)とあります。「死から生へ」という実現不可能なことが 実現しました。人間の言葉は実現できない場合がほとんどですが、神様の御言葉は必ず実現します。ここにも、イエス様が神様の御子であることが証しされています。そして、食べ物を与えるように指図されたのは、生き返った娘が幻ではなく、肉体もこの世に確かに戻ったことを意味します。イエス様は、死んだ人間を よみがえらせることがおできになる、つまり、この世だけでなく、陰府(よみ)(死者が集められる場所)をも治める権威をお持ちだということも証しされています。

 イエス様の御言葉に従い、御力を信じる

イエス様は、心から救いを求め、主にすがったヤイロとその家族を救われました。私達もヤイロと同じように、様々な困難に出会い、主の救いを信じて求める者達です。「ただ信じなさい。」イエス様の御言葉を素直に信頼して歩みましょう