9月30日の説教要旨 「主があなたにしてくださったことを」遠藤尚幸師(東北学院中高 聖書科教諭)

詩編103:1-22 マルコ福音書5:1-20

 

 ゲラサ人の地方へ

「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」

今日、私たちに与えられましたマルコによる福音書5章1節には、そのようにありました。何気ない1節です。もし、私たちが聖書の中から好きな聖句を選ぶとして、この1節を選ぶ人はまずいない。そんなふうに読み飛ばしてしまいそうになるような言葉です。しかし、私は、この1節には、聖書が、私たちに伝えようとする良き知らせのメッセージが凝縮されていると感じます。「一行」とあるのは、主イエス・キリストの一行です。「一行」というくらいですから、主イエスの他にも何人かいたわけです。直前の箇所を見てみますと、どうやらそれは、主イエスと主イエスの弟子たちだったことが分かります。前の頁の4章35節にはこう記されています。

「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」

「夕方」ですから日が陰ってくるくらいです。夜の暗闇がすぐそこまで来ている。そんな時に、主イエスは弟子たちに、目の前にあるガリラヤ湖を越えて「向こう岸に渡ろう」と言ったのです。「向こう岸」には何があるのか。それが、「ゲラサ人の地方」と呼ばれている場所です。ゲラサ人は、当時のユダヤの人々から見れば、神様から見捨てられたと考えられていた人々です。ユダヤ人は、汚れを嫌います。もし、そんな土地に足を踏み入れたなら、間違いなく自分たちまでも汚れてしまう。通常なら、誰も近づきたくないと考える土地が「ゲラサ人の地方」と言われる場所です。しかし、今日の箇所では「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。主イエスの呼びかけにしたがって、弟子たちは夜の湖に船を出しました。彼らは、その湖で突風に会いました。船は波を被りました。弟子たちの中には漁師出身の者も複数いました。プロの漁師たちも慌てふためくような突風でした。船は水浸しになりました。主イエスが共にいましたが、自分たちの命を失うかもしれない、そんな経験をしました。そして船はたどり着きました。弟子たちにとって、決して希望満ち溢れる土地に着いたわけではない。彼らが自分たちの命を投げうってまで着いたのは、忌み嫌っていた土地、ゲラサ人の地方でした。

 

悪霊にとりつかれた人

そこには一人の人がいました。主イエスは、この人に会い、この人を救うために、弟子たちを連れてゲラサまで来ました。この人は、主イエスが船から上がるとすぐに「墓場」からやってきました。どうして墓場からやってきたのか。それはこの人が墓場に住んでいたからです。この人は、悪霊に取り憑かれていた人でした。それで、人々は何とか彼をつなぎとめようとしていました。それは家族だったのかもしれませんし、友人だったのかもしれません。しかし、彼は、その鎖や足枷をたびたびはずしてしまいました。「足枷」や「鎖」は否定的な言葉ですが、しかし、裏を返せば、彼をなんとか自分たちの傍につなぎとめておきたい。そんな周りの人々の思いが読み取れる言葉でもあります。しかし、人々にはどうすることもできなかった。それで彼は、人々から離れ、墓場を住処にするしか居場所がありませんでした。この人は、主イエスにかけよると、助けを求めるのではなく、こう言いました。実はこう言わせたのは彼の中にいた悪霊です。

「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないで欲しい」

主イエスは真の神様です。真の神様の前で、悪霊が力をふるうことはできません。なぜなら、神様と悪霊は対等な立場で対立するものではないからです。もう既に勝敗は決まっている。神様が来たならば、悪霊は退かなければならない。聖書において悪霊とはそういう存在です。神様の前では無力です。悪霊はそのことをよく知っていたので、「汚れた霊、この人から出て行け」という主イエスの言葉に、逆らうことなく、「頼むから苦しめないで欲しい」と言いました。主イエスがこの悪霊に名前を尋ねると悪霊は自らを「レギオン」と名乗りました。レギオンとはローマ帝国で最も大きな軍隊の名前です。それほどこの悪霊は力がありました。しかし、キリストの前では、ローマ帝国最大の軍隊をもってしても無力です。

 

弟子たちと共に

主イエスはどうして、このゲラサに弟子たちを連れて来たのでしょうか。神の子ですから、ひとりでも十分だったはずです。その証拠に、この聖書の箇所に弟子たちの活躍の場は初めから終わりまで一つもありません。ではなぜでしょうか。キリストは、弟子たちに教えたかったのだと感じます。あなたがたの知らない世界がある。神様のご支配する世界がある。そしてその世界は、今この地上に実現している。そのことを教えたかったのだと感じます。忌み嫌う存在、汚れがうつるかもしれない存在。本当はそんな人はいないのだということです。主イエスがこの地上に人として生まれ、弟子たちと共に、人々と共に生きられ始めたその時から、もうこのゲラサの人もまた神の国、神様のご支配の中にいるのです。私たちは、この人にとって、神様のご支配は、主イエスが今、このゲラサにたどり着いた時から始まったと考えるかもしれません。しかし、それは違います。この人に対する、神様のご支配は、もっとずっと前から始まっている。キリストがこの地上に小さな赤ちゃんとして生まれ、成人し、そして「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されたそのときから、このゲラサの人もまた主イエスの救いの射程の中に入れられたのです。主イエスはそのことを弟子たちに教えるために、ゲラサに着く前から、「向こう岸に渡ろう」と言って弟子たちをゲラサまで連れてきました。ゲラサにいたこの人だけではありません。この主イエスの救いの射程の中に、私たちもまたいるのです。私たちは、決して、足枷や鎖を引きちぎっているわけではありません。墓場に住んでいる訳でもありません。しかし、私たちだって、墓場を生きるかのような経験をすることがあるはずです。一人ぼっちで、苦しくて、どうしようもない、そんな辛い思いをすることがあるはずです。自分に生きている意味などあるのか、そんな暗闇を経験することがあるはずです。キリストはそういう私たちを、今、救いの射程にきちんと入れてくださっている。私たちの生きているこの生活の中にも、今、主イエスが来てくださっているのです。

 

悪霊の追放

主イエスはこの人から悪霊を追い出しました。その描写は聖書の記述の中でも、忘れることのできない描写です。「レギオン」と呼ばれた悪霊は、2000匹の豚に乗り移ると、その豚の群れは崖をくだっていき、湖になだれ込み、次々とおぼれ死んでいきました。この人の苦しみがどれほど大きかったのかが分かります。キリストはその苦しみを取り除いてくださった。この人はそれで正気になりました。興味深いのは15節の言葉です。

「彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった」

この人はただ悪霊が出ていってそれで正気になったというわけではありません。この人は今「座ってい」ます。どこに「座っている」のか。それは、主イエスの足元に座っています。私たちが真に正気になっていく、重荷から解放されていくということは、主イエスの足元に座る存在になるということです。そこで、主イエスの言葉を聴きつつ生きる。主イエスは神の子です。私たちに命を与え、私たちを愛し守り導きたもう神様の言葉を聴きつつ生きることこそ、私たちが真に正気になるということです。私たちにとって、この悪霊追放の出来事は、主イエス・キリストの十字架の出来事です。主イエスが、神の子でありながらどうして十字架につけられ死ななければならなかったのか。それは私たち人間の罪がそれほど深いものだったからです。私たちは自分のことをそれほど罪深い存在だと考えることがないかもしれません。しかし、キリストが十字架で、私たちの罪を背負い死んだことを知るときに、どれほど私たちの罪が深いのか、私たちは知ることができます。それは、2000匹の豚が、崖をくだり溺れ死ぬことにも勝る、私たち自身ではどうしようもなく深い罪の現実です。しかし、その暗闇に生きている私たちのところに、今日、キリストは来てくださっている。そしてご自身の十字架の死を通して、私たちの罪を豊かに赦し、私たちを神の子としてくださっている。このゲラサの人に起きている救いの出来事が、今私たちにも起きています。

 

主があなたにしてくださったことを

主イエスは人々に追いやられるように、その土地を去ることになりました。主イエスが船に乗りその場を去ろうとすると、この人は「一緒に行きたい」と願いました。主イエスと共に生きたい。この人の素直な思いが溢れています。しかし、主イエスはこの人にこう言いました。

「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことを、ことごとく知らせなさい」。

「自分の家に帰りなさい」。それは、あなたにはあなたのするべき仕事があるということです。主イエスがあなたにしたこと、そのことを、このゲラサの地にあなたが伝えること。それが、この人の新しい生き方です。私たち教会も、するべきことは実はそんなに難しいことではありません。主イエスが自分にしてくださった出来事を、他の人に伝えること。これが、私たちが神様のことを伝えるということの根本です。20節には「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」とあります。福音はこのようにして広まって生きます。一人の人の救いを通して、その人の語る言葉を通して、「ああこんな自分も、神様に愛されていた存在なのか」と、気づかされていくのです。私たちは今日、ここで、その福音の恵みに触れています。主イエスが今日、私たちと出逢っていてくださっていて、今ここに、私たち一人一人の真の救いが実現しています。この美しい信仰の物語を聴いた後で、3節の言葉を読むと、最初に読んだ時とはまるで違った意味の言葉として受け取ることもできると、私は思います。つまり、「主の赦しによって罪から自由にされる人間」が、予兆として、前もって示されていると感じます。

「もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」

主イエスに救われた喜びは、この人を自由にし、足枷、鎖を真の意味でほどいていきました。この人は、もはやどのような鎖でも、どのような足枷でもつなぎとめておくことができないほどに、神様のことを伝える証人として歩み出していきます。キリストとの出逢いは、その人を新しく誕生させました。全く違った世界が、キリストとの出逢いのうちにはあるのです。(私は、使徒パウロの回心した姿を思い起こします。パウロだけでなく、)私たちもまた今日、今ここで、新たに生まれ出ます。どのような罪も、どのような神様に対する不誠実さも、不信仰も、私たちを縛り付けることはもはやできません。私たちは、大胆に、そして自由に、主イエスキリストの十字架の罪の赦しに、生きる者とされているからです。

「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」

今日私たち一人一人にも、主イエス・キリストの福音が届きました。

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