10月2日の説教要旨 「必要なこと」 牧師 平賀真理子

詩編274  ルカ福音書103842

 はじめに

今日の新約聖書の話に出てくるマルタ・マリア姉妹については、ヨハネ福音書11章から12章前半に、別の話が記されています。この姉妹にラザロという兄弟がいて、イエス様が一度死んだラザロをよみがえらせるという奇跡をなさったという内容です。その中で、この姉妹の出身地はベタニアだとあり、その村はエルサレムから15スタディオン(約3㎞)という近さにあると記されています。

 十字架が間近であるという大前提

今日の箇所の少し前(9:51)に書かれているように、イエス様は「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」のです。つまり「十字架にかかる」日が近いということです。この世に存在する日々の終わりが見えてきた中で、イエス様の言動は大事なことに集中しています。それは、福音を一人でも多くの人々に伝え、神様の御心を知って行う「神の国の民」を増やすことです。

 イエス様一行をお迎えしたマルタとマリアの対照的な様子

ベタニア村のマルタという女性が、イエス様一行を迎え入れました。(マルタが姉、マリアが妹と推測されています。)マリアは、姉の決断の恩恵を受け、イエス様のそばでお話を聞くチャンスに恵まれました。

一方、姉のマルタはイエス様だけでなく、弟子達の分までという大勢の人々の接待のためにすることがたくさんありました。旅人の手足を洗うための水の用意、飲み物の用意、調理用の食材や水や火の調達・準備等、一人でも多くの助けを借りたかったでしょう。マルタが、そばにいても手伝わないマリアを見て、苛立ちを感じたのには同情を禁じ得ません。

 マルタの言動の問題点

それでも、マルタの言動には問題点が無いとは言えません。

一つは、大事なお客様であるイエス様に、自分の不満を訴えている点です。マリアに手伝いを直接頼むか、または、お客様が帰った後、注意する行動をとってもよかったのではないでしょうか。マルタは自分でイエス様を迎える決断をしたのに、周りから評価されたくて、もてなしを頑張りすぎていたのでしょう。助けを素直に求めればよかったのに、そうできず、イエス様の権威を借りて、妹を自分の意のままに動かそうとしたのかもしれません。

マルタはイエス様に呼びかけた時、「主よ」と言っています。これは、イエス様を「救い主」と理解していることを表しています。にもかかわらず、畏れ多いことに、イエス様の態度に対しても責めているというのが第2の問題点です。妹が話に聞き入っていることについて、自分の窮状に気づかないように見えたイエス様をも責めています。マルタは、自分で背負い込んだ、目の前の苦労の中で自分を見失い、本当に価値のあるもの=救い主との出会いを与えられたことへの感謝を忘れています。自分の窮状に捕らわれ、神様の恵みを見失い、「自分を助けてくれない」と神様を責めています。罪深い人間の一つの姿と言えます。

第3の問題点は、救い主を第一として行動していないことです。マリアだけでなく、マルタも、実はイエス様のそばに近寄ったのですが、他の用事のついでに、立ったまま、イエス様を見下ろし、自分の言葉を主に押し付けているように読み取れます。十字架に向かう主を理解し、敬愛しているようには思えません。

 良い方を選んだマリア

一方、マリアは、主の十字架への決意を感じ取ったのでしょう。イエス様を仰ぎ、主の御言葉を今後の人生でも守って生きる掟として、心の中に据えようと聞いています。それこそが、十字架を目前にしたイエス様が人々に望まれた働き、「奉仕」です。42節「マリアは良い方を選んだ」の「選んだ」は多くの選択肢から、本人が選び出したという意味です。他のどんなことを差し置いても「主の御言葉を聞く」のを選ぶことこそ、主が信仰者に求めている第一のことです。

 「主の御言葉を聞く」=「全身全霊で神様を愛すること」

この話の直前には「善いサマリア人」の話が置かれています。イエス様のこの例話が素晴らしいので、「自分が隣人となるために、助けの必要な人のところへ行く」ことを信仰者は目指すと思います。しかし、その段落の最初にもあるとおり、信仰者の大前提は「全身全霊で神様を愛すること」です。その具体的な行動として、他のことに惑わされず、「掟として、主の御言葉を聞くこと」を第一のこととすべきであると示されています。礼拝で御言葉を聞き、聖書を読んで御言葉を求める、これこそが、全身全霊で神様を愛することの証しなのです。

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