9月25日の説教要旨 「善いサマリア人」 牧師 平賀真理子

レビ記1918 ルカ102537

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、かつては「善きサマリア人(びと)」と呼ばれ、長年愛されてきた話です。それだけでなく、ルカによる福音書の中で、特に福音の真髄を伝えていることでも、信仰者が心に留めたい箇所です。

 「何をしたら、永遠の生命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)

前半(25節-29節)の律法学者の質問の中の「永遠の生命を受け継ぐ」について、説明が必要だと思います。

聖書の世界では、以下のように考えられてきました。「神様がいらっしゃって、この世や人間を創造なさった。にもかかわらず、サタンが最初の人間達を誘惑して、人間はサタンの支配下に入れられてしまい、サタンの性質と同じく、自己中心で考え、行動し、その結果いがみ合う罪の世界の中に生きるようにされてしまった。神様はそんな人間達をどうしても救いたいと、ユダヤ民族を御自分の民として『律法』を授け、信仰を貫くように導かれた。それでも、人間は信仰を証しできずに、神様が送ってくださる『救い主』を信じて従う者が『神の国に入る』とされるようになった。そのことを別の表現で、「神様の命」、即ち、「永遠の生命を受け継ぐ』と言うようになった」と。私達はイエス様を救い主と信じて歩んでいますが、この律法の専門家のように「永遠の生命を受け継ぐこと」を重要な課題として日々生きているかどうか、各自、吟味する必要があるのではないでしょうか。

 「神様の愛の性質で愛する」とは?

律法の専門家が質問したのは、御自分を試すためとイエス様は判っておられたので、逆に彼に質問し、「全身全霊で神様を愛すること」「隣人を自分のように愛すること」という答えを引き出されました。まず、「愛する」ことですが、ここの「愛する」は、神様の愛し方に倣って愛するという意味で、人間の「単に好きだから愛する」とは違います。27節の「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くし」を元々の言葉の意味に忠実に訳すと「感情すべて、魂すべて、意志力すべて、理解力(知性)すべてを使って」となります。自分の感情だけで好きだから愛するのではありません。愛すべき人だから愛するのです。場合によると、敵対していても「愛する」ことが必要なのです。特に意志力や知性が必要なのは留意すべきです。

この律法の専門家は、神様から賜った律法を研究してきたので、神様を愛してきたつもりだし、神様の民ユダヤ人達に律法を教えてきた点で、彼の中の答えである「隣人=ユダヤ人」をも愛してきたわけで、2つの条件を満たしており、「永遠の生命を受け継ぐ資格がある」とイエス様に言われたかったのでしょう。

 「わたしの隣人とはだれですか」(29節)

イエス様は、この問いを発する律法の専門家の根本的な誤りを指摘されるために、ある例話を話してくださいました。それが30節以下の後半部分です。

強盗によって半殺しの状態の旅人を見かけた3人の対応が書かれています。ユダヤ人が尊敬していた「祭司」や、祭司と一緒に礼拝に携わっていたために尊敬されていた「レビ人」は見て見ぬふりして通り過ぎ、ユダヤ人達が軽蔑してきたサマリア人を、助ける行動をした人としてイエス様は敢えて例えに用いました。神様の「人間を救いたい」という大きな憐れみの前に、人間がこだわる「民族の壁」等は意味がないことを主は示されました。自分を中心に据えて「隣人がだれか」と質問すること自体が神様の御心から離れていて、むしろ「助けの必要な人」を中心にして実際に助ける行動をすることが「隣人を自分のように愛しなさい」の教えに従う人の姿勢であり、神様の御心に適うと教えておられるのです。

 隣人を自分のように愛する

レビ記19章18節は、隣人を愛することの根拠の御言葉として知られています。私を含め、多くの人が、自分を愛する分量と同じだけ隣人を愛すると受け止めてきたと思います。しかし、元々の言葉(ヘブライ語)が含む意味は、神様が自分を愛しているという関係と同じように、神様は隣人も愛している、その関係が同じだという説に出会い、感銘を受けました。神様が自分を愛してくださる恵みを本当に感謝できるなら、同様に神様が愛している隣人をも愛せるはずです。

 本当の癒し主であるイエス様

実は、半殺しにされた旅人が私達、そばに駆け寄って助けたサマリア人こそがイエス様の例えだと見ることもできます。この世でひどく傷ついた私達は、福音によって救われました。私達を本当に癒してくださる主の愛に感謝しましょう。

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