9月18日の説教要旨 「主の喜び」 牧師 平賀真理子

イザヤ書25410a ルカ102124

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、直前の段落を受けて、イエス様が語られた御言葉です。72人の弟子達が福音伝道から帰って来て、イエス様の御名を使うと悪霊が屈服するという報告をイエス様はお受けになりました。神の御子イエス様は救い主としてこの世に来られ、神の国の福音を告げ知らせてくださいました。神様のおられる天では、サタンに居場所は無くなったのです。そのように、サタンに勝利したイエス様の権威ある御名を使うことを許された弟子達までもが、サタンやその手下の悪霊に勝利したという報告をイエス様は受けました。それは、愛する弟子達が、神様側の一員としてサタンに勝った勝利宣言であり、弟子達を招き導いてこられたイエス様も本当に嬉しかったに違いないと思われます。

 イエス様の目標「父なる神様の御心に適うことを第一とする」

しかし、それは極めて人間的な見方にすぎません。18-19節にあるように、イエス様は弟子達が悪霊に勝利することは初めからわかっておられました。また、20節にあるように、悪霊の反応に一喜一憂せず、弟子達が神様の救いの御業のために用いられたこと、つまり、神様の弟子達に対する限りない愛に気づき、その恵みに感謝するように、主は導いておられます。つまり、イエス様は、この世での生涯を通して、天におられる父なる神様の御心に適うことを行うのを、まず第一のこととして生きる姿勢を貫き、弟子達の模範となられたのです。

 「聖霊によって喜びにあふれて」

福音伝道に成功して喜んでいる72人もの弟子達を与えてくださった「父なる神様」に、イエス様は大変感謝し、共に喜びたいと願われたのではないでしょうか。21節の「イエスは聖霊によって喜びにあふれて」という箇所は、イエス様と「父なる神様」との心が一つになったので、神様の霊である「聖霊」により、天の喜びがもたらされたと思われます。

「天の喜び」とは、人間の感情を源にした喜びとは別のものです。完全で永遠なる神様からくる喜びですから、平安に満たされて、簡単には覆ったり無くなったりしない、静かで確かな喜びと言えるでしょう(人間の言葉では表現しきれませんが…)。実は、イエス様が喜びにあふれたと書かれた箇所は、ここだけです。大変貴重なところです。

 「父よ」との呼びかけ

21節の主の御言葉は、原語では「父よ、天地の主よ」となっています。

イエス様が確かに神の御子であって、そう呼びかけることを許されていること、そして、私達イエス様を信じる者達は、そのような御方を「主」と仰げることは、本当に大きな恵みであることをもう一度思い起こしましょう。

 「幼子のよう」に、へりくだった心を持つ者への恵み

21節でもう一つわかることは、報告に来た弟子達を「知恵ある者や賢い者」ではなく、「幼子のような者」とおっしゃっていることです。この世において、知識があると言っておごり高ぶる者にではなく、自分のことを誇らない者、ここで言うなら、イエス様の御名によって神様の御業に用いられたことを感謝できるような、神様の御前にへりくだった心を持った者に、神様が御自分を示してくださるのです。神様の御心がへりくだりを愛するものであるからです。

 「イエス様のメシア宣言」

22節全体は、よく読み込むならば、イエス様のメシア宣言と言えるでしょう。

「すべてのことは、父からわたしに任せられています。」とは、父なる神様がこの世に対して持っておられる権利、父なる神様の主権を、イエス様が譲り受けたとの意味です(同じ内容:ルカ22:29)。次の文章「父のほかに…」は、原文では「子がだれか」「父がだれか」と書かれていることを踏まえると、こういう意味です。「天の神様だけが『イエス様を御自分の御子である』と御存じで、また、『天の神様こそがイエス様の本当の父である』と、イエス様御自身と、イエス様が選んだ弟子達だけが理解できるのだ」と。

 この世でイエス様=メシア(救い主)に出会えた幸い

約2000年前に、この世で実際に救い主イエス・キリストに出会えた弟子達は本当に幸いです。しかし、イエス・キリストの救いの御業を知らされた私達も、「イエス様に出会う幸いを得た」と言えます。神様から大きな恵みを受けた私達は、「主の喜び」、つまり、「まず、父なる神様の御心に適うことを行うのが喜び」であるイエス様を見倣って歩めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。

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