9月11日の説教要旨 「神の民として生きる」 牧師 佐藤 義子

申命記 10:12-14・マタイ福音書 6:6-10

 はじめに

神様から信仰を与えられてバプテスマを受けた私達は「クリスチャン」又は「キリスト者」と呼ばれます。それは同時に、「神の民」・「神の国の民とされた者」と言うことができます。なぜなら、私達は見える世界では、「日本」という国に属して生きていますが、見えない世界では「神の国」に属して生きているからです。見える世界では、日本の国土の中で、国の守るべき法律のもとで日本人として生きていますが、見えない世界では、神様の支配のもとで、「神の国」のルールに従い、(従うことを目標として)生きているからです。

今朝は「神の民」として生きることについてご一緒に考えたいと思います。

 「個人」でなく「民」として生きる

旧約聖書の歴史は、神様とイスラエルの民との契約関係の中で歩んだ、人々の歴史です。「神の民」といえば、神様から選ばれた民(選民)としてのイスラエル民族(ユダヤ人)のことです。神様の救いの御計画は、預言者達の言葉通り、救い主イエス・キリストの誕生によって実現しました。

ところが、イスラエルの人々は一部の人を除いて、イエス様をメシア(救い主)として受け入れませんでした。彼らが待望する「救い主」の期待像と、(富も地位も名誉もない)現実のイエス様が、大きく違っていたからです。

その為、イエス様を受け入れないイスラエル民族(ユダヤ人)に代わり、「神の民」は、新約聖書の時代からイエス様を救い主と信じる「キリスト教徒」をさします(ヘブル書・黙示録)。それゆえ私達キリスト教徒は、個人として信仰生活を過ごすのではなく、「神の民」として歩んでいるのです。

 「神の民」としての教会

「神の民」は、イエス・キリストを「私の救い主」と告白する信仰告白共同体であり、「教会」です。「教会」とは建物を意味するのではなく、イエス様を頭(かしら)とした、イエス様の体を構成している信仰者の群れです。私達が洗礼を受ける時に告白する「信仰告白」は、初代教会以来2000年以上、今日まで告白し続けてきた「教会の信仰告白」です。そして私達もその同じ信仰告白を自分自身の信仰の告白として告白し、キリストの体の一部に組み込まれています。

「天におられる私達の父よ、」

今朝の聖書は、イエス様が教えて下さった「主の祈り」の前半です。日本人の多くは無宗教だと言いながら「祈っています」と良く言います。その場合、誰に向かって祈るのか、その対象は漠然としています。

それに対して私達「神の民」が祈る対象は明確です。対象は、いつも、常に、天におられる私達の父である神様です。天とは私達が手を伸ばしても決して届かない、私達をはるかに越えた高い高い所です。この天におられるお方が、私達の住む世界を創り、私達人間を創られました。

私達はこのお方によって生き、私達が迎える死も、このお方の御計画の中に置かれています。イエス様は私達に、このお方をイエス様と同じように「父よ」と呼ぶことを許されました。何と大きな恵み!でしょうか。

 「御名が崇められますように」

「み名」は、神様のお名前、「崇める」は、「聖とする・聖別する」ことです。聖別するとは、通俗的、日常的なものから引き離す、別扱いにする、区別することです。神様と人間とを混同しない。神様のお名前が神様として取り扱われますように、という祈りです。旧約聖書の中で、人間と神様との関係を「陶器師と陶器」の関係でたとえています。

創った方と、造られたものとの逆転は、決してあり得ません。

 「御国が来ますように」

御国とは目に見えない神の国です。神の国は神様が支配なさるので、その支配に人が服従するところに神の国が存在します。神様の支配は、人間が喜んで従うように求められます。神様に創られた人間は造られたものらしく神様に従う時に初めて幸せになることが約束されています。

今朝の申命記に、「イスラエルよ。あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただあなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。」とありました。

私達は、イスラエルから引き継いだ「神の民」の一員としてふさわしく、神様を畏れつつ、神様に従い、神様を愛し、神様の戒めと掟を守り、神様が下さる幸いへの道を 共に歩んでいきたいと思います。

しかし御国は、毎日、私達のところに来なければなりません。今日ここに神様の支配が行なわれているなら、ここが神の国となります。

私達は毎日、御国がくるように、私は勿論、すべての人が、神様の支配を受け入れるように祈っていくことを、この祈りは教えています。

 「御心が行なわれますように。天におけるように地の上にも。」

第一の祈り、神様の「み名」をすべての人間が崇めるようになれば、第二の祈り、神様の支配は受け入れられ、神様が完全に支配される所では、第三の祈り、神様の御心が行なわれることになるでしょう。「神様の御心が行なわれるように」とは、「神様がお望みになるようになりますように」ということです。私達人間は、罪人です。しかし「神の民」とされた私達は、神様の導きにより罪の世界から引き上げられ、救いの恵みにあずかっています。私達は、神様への感謝として、少しでも神様の愛に報いたいと願い、神様の御心を行う人間になりたいと願っています。それゆえ、この祈りは、「神様が望まれるように私も又、生きることが出来ますように」という祈りにつながります。

神様が望まれることの第一は、罪の支配のもとで苦しんでいる人々を救うことですから、人々が救いの恵みにあずかるために、少しでも自分を用いて下さい、との祈りが、この祈りから生まれてくるように思います。

 御心がわからず悩む時に

私達クリスチャンは、神様を「父」と呼び、いつでもイエス様のお名前によって祈ることが許されている「神の民」の一員ですが、しかし、信仰生活を送る中で、時々、神様が自分に何を求めておられるのか、又、この出来事を通して、神様は私に何を言おうとされているのかわからないことがあります。最後に、S牧師が書いておられたことをご紹介します。

 御心は成る。私達はそれに従う。

S先生が昔アメリカに留学していた時、大学食堂のアルバイト仲間にダン君がいました。彼は誠実な学生で、秋には神学校への入学も決まっていました。夏休みに入った翌日、彼はクリスチャンキャンプで奉仕をするため出かけましたが、途中、道路上の事故で即死してしまいました。

S先生はその時、ダン君の死の衝撃にもまして、キリスト者として「神の御心は何か」という問題が自分に突き付けられたと言います。ダン君は信仰の人で、伝道者になる道も与えられ、その夏を主の為、子供達の為にささげていました。S先生は、「御心は何か」と考える中で「人の心には多くの計らいがある。しかし主のみ旨のみが実現する」(箴言19:21)との御言葉から、「主の御心は必ず成る。」「私達は主の御心に忠実に従わなければならない」との結論の中で、ダン君の死は御心であったことになる。では何の為の御心だったのか?それは、ダン君の死を通して、みんなが、「御心を」「生きる意味を」「死の意味を」深く考えさせられたことではないか。ダン君は自分の死を予期しておらず、知らないまま、主の御心を行わされた。知らないままでも、主は御心を行って下さる。だから御心を知らなければならないという思いの中には人間の傲慢もあり得るのではないかと思ったS先生は、摂理の神様の最善の御計画の中で、主は、自分を御心に従うように位置付けて下さるのではないか、と考えた時、S先生の心に不思議な平安と感謝が与えられたそうです。

  「神の民として生きる」

私達は、自分達の理解をはるかに越えた大きな恵みの中に置かれています。毎週の礼拝で、創り主である父なる神様を称え、懺悔の祈りと主の祈りをささげ、2000年来の使徒信条を自分の信仰として告白しています。それはすなわち、そう祈り、そう告白する者として生きている、(そのように生きようと日々、心がけて歩んでいます)との表明です。

「神の民」として生きる私達は、見える世界での実際の生きる姿勢を御言葉によって軌道修正し、新しく始まる一週間が、礼拝でささげた祈りや信仰告白を反映する誠実な歩みとなりますように、と祈ります。