2020年9月13日の説教要旨 申命記24:14-15・マタイ福音書20:1-16

「全ての人に」     加藤 秀久 伝道師

*はじめに     

本日の申命記には、貧しい人を働かせる場合の規定が記されています。彼らへの賃金は、(同胞イスラエル人であっても在留異国人であっても)日没前に支払いなさいと記されています。彼らはその日に得た収入でその日の食べ物を買い、生活する必要があったからです。神様はすべての人に目をとめ 人々が日ごとの糧(かて)を得られるように守って下さいました。

*ぶどう園の労働者の賃金

本日のマタイ福音書には、ぶどう園の主人に雇われて働いた人達の賃金についての譬え話が記されています。ぶどう園の主人は労働者を雇うために、夜明けに出かけて行き、一日一デナリオンの約束で彼らをぶどう園に送りました。その後、9時、12時、3時、5時と同じように広場に行き、同じ約束で労働者を雇い、ぶどう園に送りました。やがて日が暮れて労働者達がその日の賃金を受け取る時間になると、ぶどう園の主人は、最後に働きに来た人から順に、一デナリオンずつ、同じ金額を渡しました。

*労働者の不平

最初に働きに来た人達は、後に来た人達より多く賃金を貰えると思っていたので、ぶどう園の主人に不平を言いました。この世の常識であれば、朝早くから来て働いていた人は、あとからの人達よりも多く貰えるはずと考えるのは当たり前だと思います。しかしこの譬え話の始めには、「天の国は次のようにたとえられる」と書いてあり、イエス様は弟子達に、「天の国」とは、どのようなものかを教えようとしています。

*ぶどう園の主人

ぶどう園の主人は一日に何回も広場へ出かけて働きたい人達を見つけては声をかけています。ぶどう園の主人が最後に広場を訪れた時にも、まだ人々が立っていました。『なぜ、一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言いました。主人は彼らに、『あなた達もぶどう園に行きなさい』と伝えました。

 主人は、日が暮れて働ける時間まであといくらもない5時にも、仕事を与えるために広場に出かけています。普通に考えればあり得ないことです。ここに、ぶどう園の主人の思いやる憐れみの心、優しさを見ます。

*たとえ話の意味

このたとえ話が、「私達の救い」についてだとしたら、どのような意味をもつでしょうか。父なる神様が何度も何度も私達を救いに導き入れようとしている姿が見えてくるのではないでしょうか。神様は一人でも多くの人々を、罪が存在する世界から導き出して、神の国の一員になれるように救いの手を差し出しているのです。イエス様は、何度も何度も広場へ足を運び、福音(神様の訪れ)を宣べ伝えています。

*夜明け・9時、12時、3時、5時

人々の雇われる時刻が様々であるということは、私達の救われる時期、救いに導かれる時は神様と出会った時期であり、神様の呼びかけに答えた時であるということができると思います。朝早く雇われた人とは幼い時か、若い時にイエス様に出会い、イエス様を救い主として受け入れた人ではないでしょうか。そして5時に雇われた人は、様々な事情により年をとってから、イエス様に出会い、イエス様を自らの救い主として受け入れた人を意味しているように思えます。

*「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(ヨエル書3:5)

神様は、天地創造の始めから人を造り、人に息を吹きかけ、人を生きる者とされました。神様は人に主(神様・イエス様)を知る霊を注いでいるのです。ですから私達人間は、主を求めるならば、主に出会うことができます。神様はすでに私達を招いて下さり、全ての人に「私のもとに来なさい」と呼びかけて待ち続けて下さっています。その招きに応えるかどうか、神様を受け入れる選択をするのは、私です。又、イエス様を受け入れた人であっても、私達の心が神様に向いていなければ、日々神様の霊によって新しくされていなければ、私達は神様の恵みを伝えるものとして働くことはできません。今週も、神様が共におられ、すべてのことにおいて、神様が「私の神」であられますようにお祈りを致します。