2020年9月27日の説教要旨 イザヤ書56:1-8・マタイ21:12-17

「まことの家」   加藤 秀久 伝道師

*はじめに                  

本日のイザヤ書の、この預言は、将来、捕囚の地バビロンから解放されて、故郷エルサレムに帰って来た時に、イスラエルの共同体が行うべき一連の規定を記しています。イスラエルの民が主の祝福を受けるためには、主との契約に忠実であり続ける必要があることが強調されています。

*「私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(7節)。

この56章では、主からの祝福はイスラエルの民だけにではなく異邦人を含む全ての民に注がれると告げられます。つまり、イスラエルの人々は、諸国の人々に主のことを告げ知らせることにより、全ての人々が主の祝福を受けるようになり、その使命を担う必要があることを主は示しました。

ところがイスラエルの民は、本来、神様の律法を世界に向けて明らかに示さなければならないにもかかわらず逆に、神様から与えられた恵みを自分達ユダヤ人の、民族的特権として考えるようになってしまいました。

 私達はどうでしょうか。神様の存在が本当であることを他の人に伝えたり、神様から与えられている祝福を、他の人達にも分け与えようとしているでしょうか。 神様は人を造られ、身分に関係なく神様を求めたい、知りたいと思う人達を受け入れて、平安を与えて下さいます。又、私達が一つの所に集まり、聖(きよ)い心で祈ることを望んでおられます。その所には神の霊、聖霊が宿り、人々の上に留まります。それは神様が私達に教えようとしている「祈りの家」かもしれません。

*宮きよめ

 本日のマタイ福音書は、イエス様がエルサレム神殿の境内に入った時のことです。神殿の中にはユダヤ人ではない人々も入ることが許されている「異邦人の庭」がありました(注:婦人の庭・イスラエル男子の庭、と分かれていた)。「異邦人の庭」は、異邦人が神様を礼拝する場所でした。しかし、そこでは商売人や買い物をしている人達がいました。神殿はすべてが神様に献げられた神聖な場所です。イエス様はこの神殿の境内を、本来の姿に戻すために、商売人や買物をしている人達を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒しました。そして「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』と書いてある。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている。」と言いました。(イザヤ56:7)・エレミヤ7:11参照)

 神殿は、ユダヤ人が行いを正す場所として用いられ、正義を行なうことができるように心を改める場所でもありました。「正義を行う」とは、彼らが他国人、孤児、未亡人を虐待せず、罪のない人を罪に定めず、異教の神々に従うことなく、自分に不幸を招く行動はしないなどの意味も含んでいました。しかしイエス様は、彼らがその聖なる場所を汚し、「主の神殿、主の神殿」と言ってはいるが、その行動が伴っていないことを指摘され、まるで「強盗の巣」と預言者の言葉を用いられました。

*癒しと賛美

イエス様は施しを求めてその庭にいた目の見えない人や足の不自由な人達を癒され、子供達の賛美の声を喜ばれました。イエス様が神殿で行いたかったのは人々が神様を褒(ほ)め称(たた)え合うことでした。弱い人や病気の人達が癒される場でもあるべき神殿の姿から、人間はいつのまにか弱い立場にある人達を隅の方へ追いやり、力ある人、裕福な人、人脈がある人が神殿の境内を占領していました。同じような危険性が教会にあるかもしれません。私達を罪の誘惑へと陥れ、私達は思いやりや、へりくだる心を忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。

*「祈りの家」

 神様は、私達が心を込めて祈る祈りに、耳を傾け、その存在を私達に分かるように表して下さいます。祈りの時間がたとえ短くても、心を込めて祈り、神様に全てを委ねるのなら、神様はその祈りの中に存在して、その祈りに耳を傾け、その祈りの願いを叶えようとして下さいます。

神様は、私達の身分に関係なく全ての人に愛を示して下さるお方です。それゆえ神様の神殿は聖(きよ)く、全ての者の「祈りの家」でなくてはならないのです。私達の心の内に何か思い煩い、迷いの気持があるのなら、今、全てを主に委ね、信頼して、今週も共に歩んで参りましょう。