2020年8月30日の説教要旨 詩編131編・マタイ18:1-5

「心の清い者」     加藤 秀久 伝道師

*はじめに

本日の 詩編131編は、澄んだ敬虔に満ちた詩で、詩編の中でも最も美しいものの一つに数えられています。夕刻、太陽が谷の上を静かに照らしながら沈みかける情景と共に、それがまるで、夕べの鐘のように響きわたる光景を思い浮かべることが出来ます。その中で著者ダビデは、素直な、まっさらな心を持つ子供のように神の前に跪(ひざまづ)き、祈りを捧げている姿が想像できます。

この祈りは、若い時に苦労を得て大変な状況を乗り越えてきた後に、神様との交わりを通して平安を見出した人の心を表しています。ダビデが神様から与えられた安らぎは、神様と共にある魂の平安によるものでした。

*誰が一番偉いのか

本日の、マタイ福音書での弟子達の質問は、「天国、神の国では 誰が一番、偉いのでしょうか」です。弟子達の「神の国」のイメージは、人が住む社会と同じように、人々に対してそれぞれの地位や順序が与えられて生活していると考えていたのでしょう。そしてイエス様が弟子達の中からペトロ、ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネの3人だけを選んで高い山に連れて行ったり(17章)、神殿税をペトロの分まで納めた(17:27)ことを間近に見て、他の弟子達も、自分達がイエス様から呼ばれる機会があるとの期待感、或は、劣等感のような感情が生まれ、それがきっかけで誰がこの中でより偉いのかという議論に発展したと考えることができます。このような思いは、自分を周りと比べた時に すぐに起こってしまう思いでもあります。

*幼い子供のように

「だれが一番偉いか」の質問に対して、先ずイエス様は「一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて」(2節)とあります。「子供」は、幼い子供を表す原語が用いられています。イエス様は弟子達に自分をまわりの人と比べることが大事ではないことをはっきり示され、心を入れ替えて、幼い子供のように自らを低くすることが大切であることを教えられました。

私にとって幼い子供のイメージは、自己主張が激しく、何かを要求する時、やって貰えるまでは泣き止まないなどの印象があったので、この「子供のようになる」というのは、あまりピンときませんでした。しかし子供がそのようにするのは、自分では出来ないことを知っているので助けを求めるサインとして、手を貸して欲しい人に、自らができる限りの表現で訴えているのだと考えることも出来るでしょう。イエス様が ここで一人の子供を呼び寄せて弟子達の中に立たせて、このたとえ話をしたのは、幼い子供は、与えられる教えや助けを、素直に受ける者だということを伝えようとしているのではないでしょうか。

*神様の願い

神様は私達に、今まで培った経験、知恵や知識、資格や評判などにとらわれずに、ただ子供のように神様に立ち返り、神様の望まれる救いの道へ向きを変え、心から悔い改めることで自分自身を見つめ直すことが必要だと言っているのだと思います。

この方向転換は、この世で生きる者にとっては難しいと思えるかもしれません。しかしイエス様は私達に子供のようになることを求めておられます。幼い子供は失敗するのが当たり前です。できなくても何度もチャレンジをして、そして出来ない時は、素直な気持で誰かに助けを求めます。

*子供を受け入れる者は、イエス様を受け入れる者(5節)

私達はこのような子供を受け入れ、愛していく心の準備はできているでしょうか。イエス様は、弱い小さく見える子供や、弱しく頼りがいのない人、何か助けを必要としている人達を受け入れなければ、神の国に入ることは出来ない、イエス様を受け入れる者にはなれないことを私達に伝えようとしています。私達は今、全てを捨てて神様の願う、神様が私達に与えて下さった本来の場所へ戻り、その道へ歩もうとするならば、素直な目で物事が見えるようになり、清い心で神様が示される、その道を歩んで行くことができると思います。 その一歩として、まずは私達のできることを神様に献げて行きましょう。