10月8日の説教要旨 「天の大きな喜び」 牧師 平賀真理子

 エゼキエル書18:21-23 ルカ福音書15:1-10
*はじめに
ルカによる福音書の15章には、3つの例え話が書かれています。皆、教会の中では有名な例え話です。今回は、その1番目と2番目の例え話を学びたいと思います。それは3番目の例え話にもつながります。
*例え話が語られた状況
1つ目の話「見失った羊のたとえ」の内容に入る前に、どのような状況で語られたかが記されています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」(1節)のです。徴税人とは、当時この地域を支配したローマ帝国のために、同胞であるユダヤ人から税金を取り立てる仕事をした人のことです。それだけでもユダヤ人達は不快な思いを抱くはずですが、更に「徴税人」の多くは税金の金額よりも多くのお金を徴収し、差額を自分の懐に入れるという不正を行っており、「嫌われても仕方ない人」と見なされていたようです。また、「罪人」は、刑法上の罪よりも宗教上の罪を犯す人々のこと、具体的には安息日の礼拝を守れない人々を指します。農業・漁業・牧畜業に携わる人は仕事柄、自然が相手ですから、安息日に休めることは少なかったと思われます。また、それ以外にもその他の理由で安息日に来られない人々、例えば「娼婦」等も含まれていたようです。これらの人々を「ファリサイ派の人々や律法学者たち」(1節)は、「神様から遠い、汚れた人々」と見なし、彼等と接すれば「汚れが移る」と言い、彼等を避けるよう教えました。だから、ファリサイ派や律法学者達から見れば、「ラビ(先生の意味)」と呼ばれたイエス様が、「徴税人や罪人と呼ばれる人々」の中に入っていく姿は、自分達の教えに従わない間違った姿勢、または「自分達への反抗」と判断したのです。しかし、イエス様は神の御子ですから、「聖なる御方」であり、「汚れが移る」ことはありません。
それに、ファリサイ派や律法学者達の教えが間違いだと気づかせたかったのでしょう。3つの例え話を語られました。
*2つの例え話が例えていること
まず、1番目、2番目の例え話の例えが具体的には何を指しているかを見てみましょう。「百匹の羊を持っている人」と「銀貨を十枚持っている女」(以降は「あるじ」とまとめて呼びます)は「神様、もしくはその御子イエス様」の例え、「あるじ」が見失った「1匹の羊」や「1枚の銀貨」が「徴税人や罪人」の例え、「99匹の羊」や「9枚の銀貨」は「あるじ」が見失っていない方ということで「ファリサイ派や律法学者」の例えです。(但し、これは、イエス様がファリサイ派や律法学者の考えに合わせた例えです。)そして、「あるじ」が一緒に喜んでほしい「友達や近所の人々」とは「神の天使たち」(10節)や信仰深く生きて天の国にいる「聖徒達」(13:28参照)とも言えるでしょう。
*見失っていた人間を見つけ出した神様の大いなる喜び
私達が理解しやすくなるように、イエス様は人間が見失った物を見つけた時の態度と、神様の態度は同じだと教えてくださっています。よくよく考えれば、人間は神様に創られたのですから、神様の方が源です。神様がそのような御方だからこそ、人間も喜びを分かち合いたいと思うのです。ただ、神様のスケールは人間のものとは比べ物にならないほど大きいので、「見失った物」と例えた「人間」を見出した時の神様の喜びは本当に大きいのだということを、私達は、ここで、再度思い起こしたいと思います。
*神様が人間を「見失う」ことと「見つけ出す」こと
神様が人間を「見失う」ことと「見つけ出す」ことについて考えたいと思います。神様が過失によって、大事な人間を見失うのでしょうか。そうではありません。人間自らが自己中心の罪に陥ったので、神様から見えなくなってしまったのです。そんな人間を、神様は救い出して御自分との関係
を修復しようとなさった、それが神様の人間に対する「救いの御業」です。
神様が人間を見失ったけれども、御自分から提供してくださった「見つけ出す」方法が、「まず、ユダヤ民族を救い、その救いを世界に広める」ことでした。しかし、それもまた、人間の罪でダメになった時に、神様が新たに救いの方法を考えてくださいました。「救い主をこの世に遣わし、その御業を信じた者が救われ、その救いが全世界に広まる」という方法です。
*「悔い改め」によって、神様に見つけ出された存在の私達
イエス様が福音を宣べ伝えた時の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ4:17)でした。救われるために、人間の方でしなければならないことは「悔い改め」です。「今までの、この世の方法、自己中心でいいじゃない!という生き方では救われない!神様の御心に適う生き方がしたい」と思い始めると、やがて、救い主の恵みによって、罪が赦され、神様に見守ってもらえる存在になります。「ファリサイ派や律法学者達」のように、この世では正しいように見えても、人間は誰もが罪深くて、神様からは見失われています。しかし、私達は救い主の恵みを賜って、罪赦され、「神様に見出された存在」とされていることに感謝を献げましょう。

1月15日の説教要旨 「整えられた我が家に」  平賀真理子牧師

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 はじめに(前段落「ベルゼブル論争」)

イエス様は病いに悩む人々を、多くの場合、彼らに取り憑いた悪霊を追い払うことで癒されました。その偉大な御力の出所につき、イエス様が現われる以前に尊敬を受けていたユダヤ教指導者達は、「ベルゼブル」という悪霊の頭からだと主張しました。彼らは、以前の名誉を保ちたいために、イエス様の御力が神様からくるものと認めるわけにはいきませんでした。しかし、手下の悪霊が人間に取り憑いて病いを引き起こしているのに、そのボスである悪霊の頭が部下の働きを帳消しにするように働くはずはありません。イエス様は、反対派の人々の矛盾点を突かれ、御自分の力は神様からくるのであり、それで悪霊を追い出しており、それは「神の国」が御自分の所に既に来ている証しでもあると宣言されたのです。

 「悪霊」、「汚れた霊」

さて、今日の箇所では、「汚れた霊」について語られているのですが、これは「ベルゼブル論争」の所の「悪霊」と同じと考えていいでしょう。「汚れた霊」とは、元々の言葉から見ても「聖くない霊」という意味で、聖書で語られている「本当の神様」の特性である「聖」という特性を持たない霊のことです。本当の神様を神様として認めない、尊重しない霊です。これが人間に取り憑き、神様を神様として認めさせないように、尊重しないように働きかけ、神様から引き離すという本当の不幸に陥れるのです。

 元の場所に戻ってきたがる「汚れた霊」

聖書の神様の特徴の一つに、「命をあふれさせることがおできになる」ことがあります。だから、この世を命豊かに創造なさったのでしょう。その反対の「汚れた霊」は、イエス様の偉大な御力によって、人から追い出されると自分と同質の「命のない所」=砂漠へ行かざるを得ません。ただ、「汚れた霊」はそこに行ったとしても、新たに取り憑く命を見つけられる確率は低いのです。命がないのですから。すると、「汚れた霊」は、前に取り憑いていた人間を「出てきた我が家」と例え、戻ろうとする性質があると、イエス様が指摘されています。「汚れた霊」が新しい所を開拓するエネルギーもなく、安易に戻りたがるのは、彼らを元々取り憑かせていた人間の心の中は入りやすいと悪霊は知っているからと主は語られています。「汚れた霊」はかつて自分がいた人間の心の中が、一旦自分が抜けて、きれいにされていることを発見し、そこが空間のままならば、再度住み直すのにちょうどよい場所を見つけたことになり、しかも、もっと悪い霊を引き入れる性質もあることが、主の御言葉からわかります。(イエス様がお一人で過酷な十字架に立ち向かったのと対照的です!)「悪いのは自分だけじゃない、みんなやってる!」とは卑怯なワルがよく口にする言い訳です。自分が悪いことを知りながら、悔い改める努力は怠り、悪い状態のまま居続けよう、相手を痛めつけようと努力するのが「汚れた霊」の特徴です。前に述べたように、イエス様に「汚れた霊」を追い払っていただいた人達は多くいたはずです。そういう人は、元々「汚れた霊」がいた場所を、空っぽのままにしないで、本当の神様から来る「聖い霊」で埋めなければ、一層悪い状態に陥ると、イエス様は憐れみによって教えてくださったのです。(主を受け入れなかったユダヤ民族の運命の預言であると見る説もあります。)

 神様から「命の息」を吹き入れられるはずの場所

神様は人間をお造りになった時、最後に、人間の鼻に「命の息」を吹き入れられました(創世記2:7)。これは、人間は「神様の命の息」をいただいて、本来の生き方ができることを意味しています。「息」という言葉は、旧約聖書が書かれた元々の言葉ヘブライ語では、「霊」という意味も持っています。「神の霊」が宿る場所が人間にはあるのです。見えない神様の霊が宿るのですから、見える体の部分ではなく、心、もしくは「霊を受ける場所」が、見えなくても必ず存在していると示されています。そこに、「神の霊」が入っていればいいのですが、神様に逆らう「悪霊」、「汚れた霊」が入ったままだと、人間は神様に逆らい、その結果、神様から祝福されない、罪多き人生、悩み多き人生に陥ることになります。

 「聖霊の宮」

私達も、元々は「この世の汚れた霊」によって罪多き人生を過ごしてきましたが、聖霊の導きで、福音に出会いました!それで「汚れた霊」を主の恵みによって追い出していただき、その場所が「聖霊の宮」となる幸いをいただきました。けれども、「汚れた霊」が戻りたがるのですから、いつも、その宮が空虚になっていないかを吟味しなければなりません。「霊が宿る場所を掃除し、整える」とは、神様に関わることを第一に尊重する思いで満たすことです。礼拝を何よりも大事にし、祈りや聖書の学びを尊重したいものです。「汚れた霊」が、ではなく、「聖霊」が、私達の心を、もしくは「霊を受ける場所」を、「整えられた我が家に」として戻ろうと思ってくださるように成長できることを祈り求めましょう。

10月16日の説教要旨 「祈るときには ①」 牧師 平賀真理子

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 はじめに

今日の新約聖書の箇所の中心は「主の祈り」です。私達が礼拝の度に共に祈る「主の祈り」は、マタイ福音書6章9節からの御言葉の方が、より近い形です。マタイの方では、イエス様は、それまでのユダヤ教指導者達の祈りは間違った祈りであると語られ、新しい祈りとして「主の祈り」を教えられたとあります。一方、ルカの方では、イエス様の弟子達が、自発的に祈りを教わりたいと申し出たとなっています。

 「主の祈り」についての2つの起源

「主の祈り」で、ルカ福音書とマタイ福音書で、言葉の上で相違があることについて、聖書の研究によると、それぞれに起源があるそうです。主の祈りを教わった弟子達が、その精神を確かに押さえながらも、御言葉はそれぞれに記憶し、それぞれが導いた教会に伝えたようです。イエス様は、ユダヤ教指導者達が律法を形式重視で教えていたことを正そうとされたので、御自分も同じ方針を取られるはずはありません。祈りの言葉を間違わずに言うという形式よりも、「祈りの精神」を弟子達は理解して尊重する姿勢が求められるでしょう。それは、当時の弟子達だけでなく、使徒の教えを継承している私達にも当てはまります。

 「主の祈り」の大きな特徴

「主の祈り」は、前半は神様に関する祈り、後半は人間に関する祈りが示されています。イエス様は、神様の御心が実現されることを第一のこととして歩まれました。十字架につくことが父なる神様の御心と知り、「苦しみは避けたい」という御自分の思いを脇に置き、命を犠牲にされました。その精神が「主の祈り」にも貫かれ、まず、「神様の栄光」を願い、次に、「神の民」としての願望に添った祈りが許されることを教えておられます。

 「父よ」

ルカ福音書に記されている「主の祈り」では、いきなり、「父よ」という呼びかけから始まっています。神様を「父よ」と呼べることこそ、イエス様が「神の御子」たるゆえんです。そう呼ぶことが、イエス様御自身と、イエス様を救い主と信じる者達だけに許されているというのが凄いことです!

 「御名が崇められますように。」

「御名」とは「神様の名前」に敬意を示したものです。聖書を奉じる世界では「名前」とは単なる呼び名ではなく、その方の全人格(本質)を意味します。聖書で証しされる神様がどういう御方か、その本質的な中身=御心を知って、それを第一のこととして尊重するというのが「御名が崇められますように」の意味です。聖書の神様はこの世の全てを造った御方であり、中でも人間を愛してくださる御方です。人間は自ら罪の世界に落ちたのですが、人間の苦しむ姿に、憐れみ深い神様は根本的に助けたいと思い、働きかけてくださる御方です。そのために救い主を送ってくださいました。救われた人間は、救ってくださった神様を賛美して祈ることが、その人間のまず行うべきことであると教えておられます。

 「御国が来ますように。」

「御国」とは「神の国」の尊敬語です。「国」は元々の言葉で「支配」という意味があります。但し、「支配」というと、人間の世界では権力者が力で強引に人々を押さえつけるイメージが強いでしょう。しかし、「神の支配」は違います。そこに入ることを許された「神の民」は、神様を全面的に信じ、神様の掟に喜んで従い、神様の愛に倣って隣人を愛することができる世界です。

 「必要な糧を毎日与えてください。」

この世で、人間として歩まれたイエス様だからこそ、人間が食料をはじめ、衣食住の充足が人間にとって、どんなに切実なことかを良く知っておられ、そのことをまず願うことを許してくださっていることに大きな感謝を覚えます。

 「罪を赦してください。」

「罪の赦し」こそ、神様だけがおできになり、人間は赦しをただ請うのみですが、全知全能の神様でも、人間の罪を支障なく赦せるわけではないことを私達は思い起こすべきです。自分に害を及ぼした人を許す時のような負担を、自分の罪の赦しで神様におかけしていることを思い知って、悔い改める必要があります。

 「誘惑に遭わせないでください。」

信仰者の全人格に挑戦するような出来事=「誘惑」が起こることがあります。人間の弱さを御存じのイエス様は、そうならないように神様に祈れると教えてくださいました。私達は「主の祈り」を祈れる幸いを想起し、益々祈りましょう。