2021年9月5日の説教要旨 エゼキエル書37:15-28・ヨハネ福音書10:7-18

「主に養われる羊の群れ」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

 イスラエルの国はかつてサウル王-ダビデ王-ソロモン王が支配した一つの国として存続していましたが、ソロモン王の死後、国は分裂して北王国(10部族)と南王国(2部族)に分かれました。(その後、北王国はアッシリヤによって滅亡し、南王国もバビロニヤに滅ぼされて、バビロンに捕囚の民とされました)。本日の旧約聖書に登場するエゼキエルは、祭司の息子で、自身もエルサレム神殿の祭司をしていましたが、第一回捕囚の時(紀元前597年)、王と共にバビロンに連行され、5年後に主から召命を受けたエゼキエルは、主の言葉を人々に告げ知らせる預言者として神様に仕えました。

*エゼキエルに臨んだ主の言葉

 本日のエゼキエル書には、エゼキエルに臨んだ、主の言葉が記されます。「・・あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために』と書き記しなさい。また、別の木をとり、その上には『エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために』と書き記しなさい。それらを互いに近づけて一本の木としなさい。それらはあなたの手の中で一つとなる」(37:16-17)

 神様からの御命令は、一本の木には、「ユダとイスラエルのために」と書き記し、もう一本の木には、「ヨセフとイスラエルのために」と書き記し、この二本の木を近づけて手の中で一つにする行為でした。

書き記された「ユダ」とは分裂した南王国のことで、「ヨセフ」とは北王国を意味しており、二つの木を手の中で一つにするとは、南王国と北王国の、イスラエルの部族逹が、ダビデの時代のように、再び統一されることを象徴しています。主は、「わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの王国に別れることはない。(22節)」と告げられました。

そして今、イスラエルの人々が過ごしている国々で行われている偶像や憎むべきものによって彼らが身を汚すことは、これ以上ないこと、主は、彼らが過ちを犯した背信から彼らを救い清めて、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(23・27節)と宣言されています。

さらに、「わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う(24)。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ(26節)」と述べています。

*羊飼い(牧者)

今は二つの国に分裂しているイスラエルが、やがてダビデが王であった時のように一つの国に統一され、イスラエル(羊)に一人の羊飼いが現れて、イスラエルの民を導き、民は主に従い、主は彼らと平和の契約を結ぶことを告げています。「わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる」とのみ言葉から、私はダビデの子孫から生まれたイエス様のことを思い浮かべました。

わたしは羊の門である。」(7節)

 本日のヨハネ福音書でイエス様は、「わたしは羊の門」と言われます。イエス様の門にとどまり住むことによって人々は救われ、イエス様が真の神様であるということが分かります。続けてイエス様は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と言われます。良い羊飼いは、滅びに向かう生活、罪の中を歩んでいる生活から人々を救い出すために、自分の命を捨ててまでも羊たちを守り、助け、信じる者に「永遠の命」を与え、神の国に入ることができるようにイエス様自らが陰府(よみ)に降り、悪と死の力を打ち破り、復活されました。

本日の旧約聖書の終りに、「わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれる時、・・わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」とあります。(*旧約聖書の「イスラエル」は、イエス様を信じる私達キリスト者のことでもあります)。私達の心の中には、神様の住まわれる聖所が存在します。私と神様との関係は、イエス様によって永遠のものとされたことを覚え、今週も羊飼いイエス様に従って歩んでまいりましょう。

2021年6月6日の礼拝説教要旨 エゼキエル書18:25-32・使徒言行録17:22-34

「創 造 主」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日のエゼキエル書18章には、イスラエルの人々が「先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」ということわざを繰り返し口にして、現在、彼らの身の回りに起る幸・不幸の出来事は、先祖が過去に行った様々な行為の結果であると考えていたことが伝えられています。それゆえ、捕囚という悲惨な出来事は、先祖の罪の行いの報いであると受けとり、神様の、自分達に対する扱い方は正しくないと主張しています。

そのようなイスラエルの民に対して、預言者エゼキエルは、現在彼らの身の回りに起っていることは、イスラエルの一人、一人、各個人に責任があるとの神様の言葉を伝えます。すなわち、正しい人が、そこから離れて不正を行なうなら、彼は自分の行った不正によって死ぬのであり、逆に、悪い人が自分の行った悪から離れて、神様の前に正義と恵みの業を行うのなら自分の命を救うことができる、との主の言葉を語ります。

そして主なる神は、「ひとりひとりをその道に従って裁く」(30節)、「悔い改めて、お前たちのすべての背(そむ)きから立ち帰れ」(同)「あらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(31節)わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(32節)と言われたのです!

*パウロのアテネ伝道

 本日の使徒言行録でパウロは、アテネの人々が至る所に人の手で造った神々(偶像)を置いてあるのを見て、この町が「偶像に満ちている」のに憤慨(ふんがい)しました。(原語では、パウロの心の中の霊がしきりに憤りを感じたとの表現)。そこでパウロは、会堂や広場でイエス様の復活の出来事を告げ知らせ、アテネの人々と論じ合っていました。その時、パウロと論じ合っていた人々が「あなたが説いている新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことを私たちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」と、パウロをアレオパゴスという評議所に連れて行きました。

*「知らずに拝んでいる神、それは創造主なる神」

パウロはアレオパゴスの真ん中に立ち、「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなた方が信仰のあつい方であることを私は認めます。道を歩きながら、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなた方が知らずに拝んでいるもの、それをお知らせしましょう。」と言って、彼らの持っている信仰を否定することなく、知らずに拝んでいる神様について説明を始めます。

 パウロは、「神様は世界とその中の万物とを造られた神」であり、「神様は、一人の人からすべての民族を造り出した」こと、「人が神様を探し求めさえすれば、神様を見出すことが出来る」こと、実際、「神様は地上に生きる一人一人から遠く離れているのではなく、近くにいて下さるお方である」ことを語ります。そして、「神様を、自分たちの手で造った像と同じものと考えてはならない」こと、今は、「御子によって正しく裁く日をきめられた」ので、人々が「悔い改めなければ、今までのような生活は長く続かず、必ず裁きの日がある」こと、「神様はこの御子を死者の中から復活させて、人々に証しされた」ことを語りました。

*わたしたち

死者の復活と聞いてあざ笑う者や、「それについては、いずれ又」と立ち去る者たちがいましたが、パウロについて行き、信仰に入った者も何人かいたことが記されています。現代は、昔になかった新約聖書などの良い環境が整っているにもかかわらず、街を行く人々は神様を知ろうとも見ようとも、探し出そうともしないのはなぜなのでしょうか。そして私達はどうでしょうか。私達もひょっとしたら神様以外の人(家族の誰かであったり、友人であったり)や、目に見えないものを「偶像化」しているかもしれません。今日、私達にかかわる人や物のすべてを横に置き、神様に心を向け、神様が私たちの心の中に訪れて下さり、すべての今ある問題、ストレス、重荷を取り除いて下さるようにお祈り致します。

2021年5月2日の説教要旨 エゼキエル書36:22-28・ガラテヤ5:13-25

「霊の導きによる神の愛」     加藤秀久伝道師

*はじめに

 エゼキエルは、神様に絶対的な信頼をおき「主の言葉は必ず成る」ことを信じた預言者です。エゼキエルは、第一回のバビロン捕囚(紀元前597年)の時に、王と共にバビロンに連行され、捕囚の地で5年間暮らした後、預言者として召命を受けました。エゼキエルは、神様から告げられる言葉を人々に伝えただけではなく、自ら書物に書き留めていたようです。

*神様への裏切り

 イスラエルの民は、もともとは神様のために礼拝を捧げていた山での場所を、時の流れと共に、偶像(人の形に似せた像や牛の像など)を礼拝する場所へと変えていき、自らの歩みと行いは汚れたものとなってしまいました。

神様は熱情の神であるゆえに、このようなイスラエルの民の裏切り行為は、民を諸国へ追いやる結果(捕囚)となりました。囚われの身となったイスラエルの民は、そこでも尚、神様の名を汚すような行ないをしていたため、そこに住む国の人々は、イスラエルの民が信じる神を見下すようになってしまっていたのです。

*「わが聖なる名」

 主なる神様は、他の全ての被造物から区別されるお方であり、神様と、他の神々との区別を曖昧(あいまい)にすることは、「イスラエルの民をエジプトから導き出した神」の存在を否定することになり、更に神様を侮辱し、神様の名を汚すことになります。22節以下に「わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行(い)った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしはお前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なる者とする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なる者とされる時、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる。」とあります。神様は、「聖なる神の名」を取り戻すため、イスラエルの民を、再び元いた場所イスラエルへ戻すことを告げられました。

*清めの儀式

 イスラエルの民は何よりも偶像礼拝によってその身が汚れていたので、彼らは清められる必要があり、清めの儀式(民数記19章参照)が行なわれました。神様は、この儀式を行うことによってイスラエルの民に、「新しい心」を与え、「新しい霊」を授けると約束されました(25-29節)。これはイスラエルの民が、信仰的にも救われ、霊的にも強くされることを意味していました。神様はこのようにして、民が連行された国々の人々にも、「神様の聖なる御名」の偉大さ、主の存在の偉大さを知らしめ、造られた全ての人に、神様の愛を示されたのでした。

*(肉の欲望によってではなく)、「霊の導きに従って歩みなさい」

 本日のガラテヤ書5章前半には、割礼(かつれい)を受けなければならないと感じている者達は、律法に対して義務を負っていて、その人の中に、主イエス・キリストが住むこと、宿ることは難しいと述べています。 イエス様がこの地上に来られたのは、信じる者達を解放するためであり、信じる者達は、律法の支配と罪の誘惑から自由にされたのであり、もとに戻らせるような誘惑に陥らないように注意することが必要であると教えています。そして本日の後半では、肉の欲望によって生きるのではなく、霊の導きに従って生きるように勧めています。なぜなら、肉の思いは人を、肉の欲望の奴隷として、神様のもとで自由に生きていくことを出来なくするからです。それゆえパウロは、主イエス・キリストにある自由の中で生きるために、霊の導きの中で歩みなさいと勧めます。

*わたしたち

 私達は、考え方次第では、「自分自身」の奴隷になり、神様を信じますと言いながら、これは自分にしかできないと高慢になり、相手のことを思いやることなく自分を第一にしたいと考える心になっていないでしょうか。しかし私達が、イエス様を信じてイエス様の名前を呼ぶ時、神様は私達を全てのしがらみから、引き留めるものから解き放ち、自由な者へと変えて下さるのです。ですから私達は、神様から日々新たにされて、神様に祈る必要がある、神様との交わる時間が必要になるのです。

今週の歩みが、大いなる神様を知る週になりますようにお祈り致します。

6月24日の説教要旨 「失われたものを捜して救う主」 平賀真理子牧師

エゼキエル書34:11-16 ルカ福音書19:1-10

はじめに

十字架にかかる地エルサレムに向かうイエス様御一行の旅も終わりに近づいてきました。今日の新約聖書箇所にある出来事は、エリコという町で起こったこととして、教会では有名な話であり、教会学校でも「ザアカイさんのお話」として度々お伝えしています。

 

イエス様見たさに木に登ることを思いつくザアカイ

イエス様が自分達の町を通り過ぎるということで、エリコの人々はイエス様の周りにひしめき合います。その噂を聞きつけた「徴税人の頭」であるザアカイもイエス様を見たいと思ったのでしょう。けれども、背の低いザアカイは、その周りに人々がいるために、その思いが叶わないことを予想しました。そこで、良いアイデアが浮かびました。木に登れば、人々に取り囲まれているイエス様を、上から見られると気づき、いちじく桑の木に登ったのです。

 

 ユダヤの民衆に除外されていた「徴税人の頭ザアカイ」

 ザアカイの仕事である「徴税人」とは、神の民ユダヤ人から、異邦人の国ローマ帝国への税金を徴収する仕事をする人々のことでした。同胞を痛めつけて異邦人の利益のために働く仕事をしていたのです。しかも、それだけではありません。徴税人の多くは、ローマ帝国から指示された金額に上乗せした金額をユダヤ人から徴収し、その上乗せした額を自分の懐に納めていました。「私腹を肥やす」という不正を行う人々だったのです(十戒の「むさぼってはならない」という掟を破っています)。だから、神の民ユダヤ民族が「神の前に正しく生きるように指導している」(つもりの)ファリサイ派の人々にとって、徴税人という人々は「汚れた罪人」の最たる者達でした。だから、その教えを受けているユダヤの民衆も「徴税人」を軽蔑しました。ザアカイは、徴税人の中でも「頭」だったのですから、一応は肩書や権力があるにも関わらず、だれかが道を譲ってあげるなど、あり得ませんでした。ファリサイ派やユダヤの民衆は、彼を排除すべき人物と見ていたのです。

 

 罪深いとされたザアカイの心の叫び

ザアカイは、イエス様を見てどうするつもりだったのでしょうか。表面的には、単に「イエス様を見たい」という思いだけだったのかもしれません。しかし、本当にそれだけだったのでしょうか。同胞を痛めつけて異邦人の利益のために働いている罪悪感、更には、社会からの疎外感、彼自身も気づいていなかった「心の叫び」が彼を突き動かしたのではないでしょうか。罪人だと言われている自分でも、イエス様との出会いによって、神様の恵みを感じられるのではないか、救われるのではないかという希望が頭をもたげてきたのではないでしょうか。

 

「急いで降りて来なさい」5節)

そんなザアカイの心の叫びを、イエス様は感じ取られたのでしょう。自分のアイデアで木に登っていたザアカイに対して、イエス様は、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(5節)と語りかけてくださいました。自分の思いつきで高みに登り、主を見下ろしているザアカイに、イエス様は急いで降りて来て、御自分の御前に立つようにお命じになりました。ザアカイはそれに従い、イエス様の御前に立ち、主を喜んで迎えることができました。私達も、日頃、自分で高みに登ろうとしているのではないでしょうか。イエス様は、急いで降りて来て、御自分の前にしっかり立つように求められます。

 

「失われたものを捜して救う主」(10)

更に、人々に罪人と呼ばれたザアカイも「『アブラハムの子』なのだから」救われたと明らかにされています。聖書で証しされた神様は、「アブラハム」という信仰深い人に、本人と子孫への祝福を約束なさいました。アブラハムの子孫であるユダヤの民は「神の民」なので、神様の祝福から漏れることはありません。ユダヤ人であるザアカイは、罪深さにより、聖い神様から一度見失われたにも関わらず、一度御自分の民と決めた者を神様は諦めずに、むしろ、捜して救おうと情熱を燃やす御方だと証しされています。実は、私達も新約時代の「神の民」と予め定められています。イエス様の「救いの御業」によって、罪の世から捜し出されて救われたのです!神様の恵みに感謝し、主の御前にしっかりと立ちましょう。

4月15日の説教要旨 「まことの羊飼い」 牧師  平賀真理子

エゼキエル書34:7-16 ヨハネ福音書10:7-18

 

はじめに

今日の新約聖書の箇所は、キリスト教会では有名な箇所の一つで、イエス様が御自分が良い羊飼いであると証しされています。それも重要ですが、読み返すと、それ以外にも大変重要なことが語られていることがわかりました。そのことをお伝えしたいと思います。

 

前の9章を受け、「羊の囲い」(16)の例えを理解する

10章から読み始めると、いきなり「羊の囲い」の話が始まり、この1-6節の段落の話を受けて、今日の箇所の7節からは「羊の門」や「羊飼い」という言葉に続きます。イエス様は、「羊の囲い」に入る時に「門」を通らないでほかの所を乗り越えて来る者を、「盗人」や「強盗」とおっしゃいました。が、これは例えです。「盗人」「強盗」とは、その前の9章に書かれている「ファリサイ派の人々」を例えたものです。

9章では、生まれつき目の見えない人をイエス様が癒して見えるようになさった出来事を通し、ファリサイ派の人々が、その明白な事実を、頑なに否定しようとする様子が記されています。彼らは、イエス様の癒しの御業が神様からの御力をいただいた結果だと認めるのは、イエス様が神様が遣わされた御方だと認めることになると知っていました。だから、癒された本人が「あの方は神のもとから来られた(9:33)」と証ししているにも関わらず、ファリサイ派の人々は、証言者の人格否定をして(9:34)、この証しも否定しました。ファリサイ派はユダヤ教指導者として、ユダヤの民衆(羊と例えられる)を導く使命を神様から与えられているはずなのに、彼らは、民衆を慰めたり導いたりすることに留意せず、弱い立場の人を助けずに無視し、民衆からは利益や尊敬を搾取することだけを主眼にしていたのです。それは、当時の宗教指導者だけの過ちではなく、昔から「牧者」と例えられる宗教指導者が犯してきた罪の姿だと、今日の旧約聖書の箇所からもわかります。ファリサイ派の人々は、民衆を神様に導くはずなのに、自分の方へ導こうとしていました。その姿は、「本当の救い」をもたらすためにこの世に来られたイエス様から見れば、「盗人」「強盗」と同じだったのです。「羊の囲い」とは本当の神様から全権委任されたイエス様の「救いの枠」、または「神の国」とも言えるでしょう。

 

「羊の門」を入った羊(人々)が「良い羊飼い」(イエス様)に導かれる

イエス様は御自分のことを「羊の門」であり、「良い羊飼い」であるとの2種類の言葉で御自分を再び゙例えようとなさいました。「羊の門」とは、具体的には、イエス様を救い主として受け入れることで、神様の救いを受ける基準を満たすことを表しています。「わたしを通って入る者は救われる(9節)」とあるとおりです。また、正しい門から入った羊だけが、牧草を見つけて豊かに生きるとは、イエス様の本当の救いに与る者だけが、神様から永遠の命をいただけることを意味しています。更に、イエス様は、御自分を表現なさるのに「羊の門」という「基準」を表す、旧約的な例えだけでは足りないと思われたのか、「羊飼い」という例えも重ねられました。これは、羊を所有する羊飼いなら、羊の命が危険な時は、自らが自分の命を懸けて羊を守る姿を例えたもので、「良い羊飼い」とはイエス様が、神様から救うべき人々を託され、命を懸けて愛する御姿の例えです。(一方、雇われ羊飼いは、責任を持っていないので、羊の命よりも自分の命を優先すると言われています。ファリサイ派の人々の例えです。)

 

十字架と復活の告知がここにも!

「良い羊飼い」の箇所で、今回の発見の最大のものは、17-18節に「主の十字架と復活」が告知されているということです。イエス様が御自分の命を、再び受けるために、捨てること、それ故に父なる神様がイエス様を愛してくださり、再び命を受けることが、主の御言葉として述べられていて、「十字架と復活」の別の表現がなされていると改めて認識しました。新約聖書の大事な使信がここにもあると驚かされ、感動しました。

 

「囲い」に入っていない ほかの羊も導かなければならない(16節)

最後に、16節から、イエス様が救いたいと願う人々がユダヤ人だけでなく、全世界にいるのだとわかります。主の熱意を受け継いで、私達一人一人が福音伝道に励むようにとの、イエス様からのメッセージが送られています!そのために主によって用いられたいと祈り求めましょう。

10月8日の説教要旨 「天の大きな喜び」 牧師 平賀真理子

 エゼキエル書18:21-23 ルカ福音書15:1-10
*はじめに
ルカによる福音書の15章には、3つの例え話が書かれています。皆、教会の中では有名な例え話です。今回は、その1番目と2番目の例え話を学びたいと思います。それは3番目の例え話にもつながります。
*例え話が語られた状況
1つ目の話「見失った羊のたとえ」の内容に入る前に、どのような状況で語られたかが記されています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」(1節)のです。徴税人とは、当時この地域を支配したローマ帝国のために、同胞であるユダヤ人から税金を取り立てる仕事をした人のことです。それだけでもユダヤ人達は不快な思いを抱くはずですが、更に「徴税人」の多くは税金の金額よりも多くのお金を徴収し、差額を自分の懐に入れるという不正を行っており、「嫌われても仕方ない人」と見なされていたようです。また、「罪人」は、刑法上の罪よりも宗教上の罪を犯す人々のこと、具体的には安息日の礼拝を守れない人々を指します。農業・漁業・牧畜業に携わる人は仕事柄、自然が相手ですから、安息日に休めることは少なかったと思われます。また、それ以外にもその他の理由で安息日に来られない人々、例えば「娼婦」等も含まれていたようです。これらの人々を「ファリサイ派の人々や律法学者たち」(1節)は、「神様から遠い、汚れた人々」と見なし、彼等と接すれば「汚れが移る」と言い、彼等を避けるよう教えました。だから、ファリサイ派や律法学者達から見れば、「ラビ(先生の意味)」と呼ばれたイエス様が、「徴税人や罪人と呼ばれる人々」の中に入っていく姿は、自分達の教えに従わない間違った姿勢、または「自分達への反抗」と判断したのです。しかし、イエス様は神の御子ですから、「聖なる御方」であり、「汚れが移る」ことはありません。
それに、ファリサイ派や律法学者達の教えが間違いだと気づかせたかったのでしょう。3つの例え話を語られました。
*2つの例え話が例えていること
まず、1番目、2番目の例え話の例えが具体的には何を指しているかを見てみましょう。「百匹の羊を持っている人」と「銀貨を十枚持っている女」(以降は「あるじ」とまとめて呼びます)は「神様、もしくはその御子イエス様」の例え、「あるじ」が見失った「1匹の羊」や「1枚の銀貨」が「徴税人や罪人」の例え、「99匹の羊」や「9枚の銀貨」は「あるじ」が見失っていない方ということで「ファリサイ派や律法学者」の例えです。(但し、これは、イエス様がファリサイ派や律法学者の考えに合わせた例えです。)そして、「あるじ」が一緒に喜んでほしい「友達や近所の人々」とは「神の天使たち」(10節)や信仰深く生きて天の国にいる「聖徒達」(13:28参照)とも言えるでしょう。
*見失っていた人間を見つけ出した神様の大いなる喜び
私達が理解しやすくなるように、イエス様は人間が見失った物を見つけた時の態度と、神様の態度は同じだと教えてくださっています。よくよく考えれば、人間は神様に創られたのですから、神様の方が源です。神様がそのような御方だからこそ、人間も喜びを分かち合いたいと思うのです。ただ、神様のスケールは人間のものとは比べ物にならないほど大きいので、「見失った物」と例えた「人間」を見出した時の神様の喜びは本当に大きいのだということを、私達は、ここで、再度思い起こしたいと思います。
*神様が人間を「見失う」ことと「見つけ出す」こと
神様が人間を「見失う」ことと「見つけ出す」ことについて考えたいと思います。神様が過失によって、大事な人間を見失うのでしょうか。そうではありません。人間自らが自己中心の罪に陥ったので、神様から見えなくなってしまったのです。そんな人間を、神様は救い出して御自分との関係
を修復しようとなさった、それが神様の人間に対する「救いの御業」です。
神様が人間を見失ったけれども、御自分から提供してくださった「見つけ出す」方法が、「まず、ユダヤ民族を救い、その救いを世界に広める」ことでした。しかし、それもまた、人間の罪でダメになった時に、神様が新たに救いの方法を考えてくださいました。「救い主をこの世に遣わし、その御業を信じた者が救われ、その救いが全世界に広まる」という方法です。
*「悔い改め」によって、神様に見つけ出された存在の私達
イエス様が福音を宣べ伝えた時の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ4:17)でした。救われるために、人間の方でしなければならないことは「悔い改め」です。「今までの、この世の方法、自己中心でいいじゃない!という生き方では救われない!神様の御心に適う生き方がしたい」と思い始めると、やがて、救い主の恵みによって、罪が赦され、神様に見守ってもらえる存在になります。「ファリサイ派や律法学者達」のように、この世では正しいように見えても、人間は誰もが罪深くて、神様からは見失われています。しかし、私達は救い主の恵みを賜って、罪赦され、「神様に見出された存在」とされていることに感謝を献げましょう。

1月15日の説教要旨 「整えられた我が家に」  平賀真理子牧師

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 はじめに(前段落「ベルゼブル論争」)

イエス様は病いに悩む人々を、多くの場合、彼らに取り憑いた悪霊を追い払うことで癒されました。その偉大な御力の出所につき、イエス様が現われる以前に尊敬を受けていたユダヤ教指導者達は、「ベルゼブル」という悪霊の頭からだと主張しました。彼らは、以前の名誉を保ちたいために、イエス様の御力が神様からくるものと認めるわけにはいきませんでした。しかし、手下の悪霊が人間に取り憑いて病いを引き起こしているのに、そのボスである悪霊の頭が部下の働きを帳消しにするように働くはずはありません。イエス様は、反対派の人々の矛盾点を突かれ、御自分の力は神様からくるのであり、それで悪霊を追い出しており、それは「神の国」が御自分の所に既に来ている証しでもあると宣言されたのです。

 「悪霊」、「汚れた霊」

さて、今日の箇所では、「汚れた霊」について語られているのですが、これは「ベルゼブル論争」の所の「悪霊」と同じと考えていいでしょう。「汚れた霊」とは、元々の言葉から見ても「聖くない霊」という意味で、聖書で語られている「本当の神様」の特性である「聖」という特性を持たない霊のことです。本当の神様を神様として認めない、尊重しない霊です。これが人間に取り憑き、神様を神様として認めさせないように、尊重しないように働きかけ、神様から引き離すという本当の不幸に陥れるのです。

 元の場所に戻ってきたがる「汚れた霊」

聖書の神様の特徴の一つに、「命をあふれさせることがおできになる」ことがあります。だから、この世を命豊かに創造なさったのでしょう。その反対の「汚れた霊」は、イエス様の偉大な御力によって、人から追い出されると自分と同質の「命のない所」=砂漠へ行かざるを得ません。ただ、「汚れた霊」はそこに行ったとしても、新たに取り憑く命を見つけられる確率は低いのです。命がないのですから。すると、「汚れた霊」は、前に取り憑いていた人間を「出てきた我が家」と例え、戻ろうとする性質があると、イエス様が指摘されています。「汚れた霊」が新しい所を開拓するエネルギーもなく、安易に戻りたがるのは、彼らを元々取り憑かせていた人間の心の中は入りやすいと悪霊は知っているからと主は語られています。「汚れた霊」はかつて自分がいた人間の心の中が、一旦自分が抜けて、きれいにされていることを発見し、そこが空間のままならば、再度住み直すのにちょうどよい場所を見つけたことになり、しかも、もっと悪い霊を引き入れる性質もあることが、主の御言葉からわかります。(イエス様がお一人で過酷な十字架に立ち向かったのと対照的です!)「悪いのは自分だけじゃない、みんなやってる!」とは卑怯なワルがよく口にする言い訳です。自分が悪いことを知りながら、悔い改める努力は怠り、悪い状態のまま居続けよう、相手を痛めつけようと努力するのが「汚れた霊」の特徴です。前に述べたように、イエス様に「汚れた霊」を追い払っていただいた人達は多くいたはずです。そういう人は、元々「汚れた霊」がいた場所を、空っぽのままにしないで、本当の神様から来る「聖い霊」で埋めなければ、一層悪い状態に陥ると、イエス様は憐れみによって教えてくださったのです。(主を受け入れなかったユダヤ民族の運命の預言であると見る説もあります。)

 神様から「命の息」を吹き入れられるはずの場所

神様は人間をお造りになった時、最後に、人間の鼻に「命の息」を吹き入れられました(創世記2:7)。これは、人間は「神様の命の息」をいただいて、本来の生き方ができることを意味しています。「息」という言葉は、旧約聖書が書かれた元々の言葉ヘブライ語では、「霊」という意味も持っています。「神の霊」が宿る場所が人間にはあるのです。見えない神様の霊が宿るのですから、見える体の部分ではなく、心、もしくは「霊を受ける場所」が、見えなくても必ず存在していると示されています。そこに、「神の霊」が入っていればいいのですが、神様に逆らう「悪霊」、「汚れた霊」が入ったままだと、人間は神様に逆らい、その結果、神様から祝福されない、罪多き人生、悩み多き人生に陥ることになります。

 「聖霊の宮」

私達も、元々は「この世の汚れた霊」によって罪多き人生を過ごしてきましたが、聖霊の導きで、福音に出会いました!それで「汚れた霊」を主の恵みによって追い出していただき、その場所が「聖霊の宮」となる幸いをいただきました。けれども、「汚れた霊」が戻りたがるのですから、いつも、その宮が空虚になっていないかを吟味しなければなりません。「霊が宿る場所を掃除し、整える」とは、神様に関わることを第一に尊重する思いで満たすことです。礼拝を何よりも大事にし、祈りや聖書の学びを尊重したいものです。「汚れた霊」が、ではなく、「聖霊」が、私達の心を、もしくは「霊を受ける場所」を、「整えられた我が家に」として戻ろうと思ってくださるように成長できることを祈り求めましょう。

10月16日の説教要旨 「祈るときには ①」 牧師 平賀真理子

エゼキエル書204144 ルカ福音書1114

 はじめに

今日の新約聖書の箇所の中心は「主の祈り」です。私達が礼拝の度に共に祈る「主の祈り」は、マタイ福音書6章9節からの御言葉の方が、より近い形です。マタイの方では、イエス様は、それまでのユダヤ教指導者達の祈りは間違った祈りであると語られ、新しい祈りとして「主の祈り」を教えられたとあります。一方、ルカの方では、イエス様の弟子達が、自発的に祈りを教わりたいと申し出たとなっています。

 「主の祈り」についての2つの起源

「主の祈り」で、ルカ福音書とマタイ福音書で、言葉の上で相違があることについて、聖書の研究によると、それぞれに起源があるそうです。主の祈りを教わった弟子達が、その精神を確かに押さえながらも、御言葉はそれぞれに記憶し、それぞれが導いた教会に伝えたようです。イエス様は、ユダヤ教指導者達が律法を形式重視で教えていたことを正そうとされたので、御自分も同じ方針を取られるはずはありません。祈りの言葉を間違わずに言うという形式よりも、「祈りの精神」を弟子達は理解して尊重する姿勢が求められるでしょう。それは、当時の弟子達だけでなく、使徒の教えを継承している私達にも当てはまります。

 「主の祈り」の大きな特徴

「主の祈り」は、前半は神様に関する祈り、後半は人間に関する祈りが示されています。イエス様は、神様の御心が実現されることを第一のこととして歩まれました。十字架につくことが父なる神様の御心と知り、「苦しみは避けたい」という御自分の思いを脇に置き、命を犠牲にされました。その精神が「主の祈り」にも貫かれ、まず、「神様の栄光」を願い、次に、「神の民」としての願望に添った祈りが許されることを教えておられます。

 「父よ」

ルカ福音書に記されている「主の祈り」では、いきなり、「父よ」という呼びかけから始まっています。神様を「父よ」と呼べることこそ、イエス様が「神の御子」たるゆえんです。そう呼ぶことが、イエス様御自身と、イエス様を救い主と信じる者達だけに許されているというのが凄いことです!

 「御名が崇められますように。」

「御名」とは「神様の名前」に敬意を示したものです。聖書を奉じる世界では「名前」とは単なる呼び名ではなく、その方の全人格(本質)を意味します。聖書で証しされる神様がどういう御方か、その本質的な中身=御心を知って、それを第一のこととして尊重するというのが「御名が崇められますように」の意味です。聖書の神様はこの世の全てを造った御方であり、中でも人間を愛してくださる御方です。人間は自ら罪の世界に落ちたのですが、人間の苦しむ姿に、憐れみ深い神様は根本的に助けたいと思い、働きかけてくださる御方です。そのために救い主を送ってくださいました。救われた人間は、救ってくださった神様を賛美して祈ることが、その人間のまず行うべきことであると教えておられます。

 「御国が来ますように。」

「御国」とは「神の国」の尊敬語です。「国」は元々の言葉で「支配」という意味があります。但し、「支配」というと、人間の世界では権力者が力で強引に人々を押さえつけるイメージが強いでしょう。しかし、「神の支配」は違います。そこに入ることを許された「神の民」は、神様を全面的に信じ、神様の掟に喜んで従い、神様の愛に倣って隣人を愛することができる世界です。

 「必要な糧を毎日与えてください。」

この世で、人間として歩まれたイエス様だからこそ、人間が食料をはじめ、衣食住の充足が人間にとって、どんなに切実なことかを良く知っておられ、そのことをまず願うことを許してくださっていることに大きな感謝を覚えます。

 「罪を赦してください。」

「罪の赦し」こそ、神様だけがおできになり、人間は赦しをただ請うのみですが、全知全能の神様でも、人間の罪を支障なく赦せるわけではないことを私達は思い起こすべきです。自分に害を及ぼした人を許す時のような負担を、自分の罪の赦しで神様におかけしていることを思い知って、悔い改める必要があります。

 「誘惑に遭わせないでください。」

信仰者の全人格に挑戦するような出来事=「誘惑」が起こることがあります。人間の弱さを御存じのイエス様は、そうならないように神様に祈れると教えてくださいました。私達は「主の祈り」を祈れる幸いを想起し、益々祈りましょう。