6月24日の説教要旨 「失われたものを捜して救う主」 平賀真理子牧師

エゼキエル書34:11-16 ルカ福音書19:1-10

はじめに

十字架にかかる地エルサレムに向かうイエス様御一行の旅も終わりに近づいてきました。今日の新約聖書箇所にある出来事は、エリコという町で起こったこととして、教会では有名な話であり、教会学校でも「ザアカイさんのお話」として度々お伝えしています。

 

イエス様見たさに木に登ることを思いつくザアカイ

イエス様が自分達の町を通り過ぎるということで、エリコの人々はイエス様の周りにひしめき合います。その噂を聞きつけた「徴税人の頭」であるザアカイもイエス様を見たいと思ったのでしょう。けれども、背の低いザアカイは、その周りに人々がいるために、その思いが叶わないことを予想しました。そこで、良いアイデアが浮かびました。木に登れば、人々に取り囲まれているイエス様を、上から見られると気づき、いちじく桑の木に登ったのです。

 

 ユダヤの民衆に除外されていた「徴税人の頭ザアカイ」

 ザアカイの仕事である「徴税人」とは、神の民ユダヤ人から、異邦人の国ローマ帝国への税金を徴収する仕事をする人々のことでした。同胞を痛めつけて異邦人の利益のために働く仕事をしていたのです。しかも、それだけではありません。徴税人の多くは、ローマ帝国から指示された金額に上乗せした金額をユダヤ人から徴収し、その上乗せした額を自分の懐に納めていました。「私腹を肥やす」という不正を行う人々だったのです(十戒の「むさぼってはならない」という掟を破っています)。だから、神の民ユダヤ民族が「神の前に正しく生きるように指導している」(つもりの)ファリサイ派の人々にとって、徴税人という人々は「汚れた罪人」の最たる者達でした。だから、その教えを受けているユダヤの民衆も「徴税人」を軽蔑しました。ザアカイは、徴税人の中でも「頭」だったのですから、一応は肩書や権力があるにも関わらず、だれかが道を譲ってあげるなど、あり得ませんでした。ファリサイ派やユダヤの民衆は、彼を排除すべき人物と見ていたのです。

 

 罪深いとされたザアカイの心の叫び

ザアカイは、イエス様を見てどうするつもりだったのでしょうか。表面的には、単に「イエス様を見たい」という思いだけだったのかもしれません。しかし、本当にそれだけだったのでしょうか。同胞を痛めつけて異邦人の利益のために働いている罪悪感、更には、社会からの疎外感、彼自身も気づいていなかった「心の叫び」が彼を突き動かしたのではないでしょうか。罪人だと言われている自分でも、イエス様との出会いによって、神様の恵みを感じられるのではないか、救われるのではないかという希望が頭をもたげてきたのではないでしょうか。

 

「急いで降りて来なさい」5節)

そんなザアカイの心の叫びを、イエス様は感じ取られたのでしょう。自分のアイデアで木に登っていたザアカイに対して、イエス様は、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(5節)と語りかけてくださいました。自分の思いつきで高みに登り、主を見下ろしているザアカイに、イエス様は急いで降りて来て、御自分の御前に立つようにお命じになりました。ザアカイはそれに従い、イエス様の御前に立ち、主を喜んで迎えることができました。私達も、日頃、自分で高みに登ろうとしているのではないでしょうか。イエス様は、急いで降りて来て、御自分の前にしっかり立つように求められます。

 

「失われたものを捜して救う主」(10)

更に、人々に罪人と呼ばれたザアカイも「『アブラハムの子』なのだから」救われたと明らかにされています。聖書で証しされた神様は、「アブラハム」という信仰深い人に、本人と子孫への祝福を約束なさいました。アブラハムの子孫であるユダヤの民は「神の民」なので、神様の祝福から漏れることはありません。ユダヤ人であるザアカイは、罪深さにより、聖い神様から一度見失われたにも関わらず、一度御自分の民と決めた者を神様は諦めずに、むしろ、捜して救おうと情熱を燃やす御方だと証しされています。実は、私達も新約時代の「神の民」と予め定められています。イエス様の「救いの御業」によって、罪の世から捜し出されて救われたのです!神様の恵みに感謝し、主の御前にしっかりと立ちましょう。