7月1日の説教要旨 「主の僕と主の敵」 平賀真理子牧師

マラキ書3:17-20 ルカ福音書19:11-27

はじめに

エルサレムに向かうイエス様御一行の旅も、いよいよ目的地に近づきました。今日の新約聖書箇所は、直前の段落「徴税人ザアカイの悔い改め」の話が終わった後、それに続いて、イエス様がお語りになった例え話として記されています。

 

民衆の期待「イエス様はエルサレムで神の国を建ててくださる!」

イエス様がエルサレムに近づいておられることは、ユダヤの民衆にとり、期待が膨らむ嬉しいことでした。彼らは、イエス様がエルサレム到着直後に、自分達に圧政を強いてきた異邦人の国であるローマ帝国を追い出し、ユダヤ民族の国を実際に建ててくださると思い込んでいたのです。しかし、今日の箇所の冒頭の11節では、言外に「そうではない。人々が思い込んでいるとおりのことが実現するのではない。」という思いを汲み取ることができます。「ムナのたとえ」を知ると、イエス様が「神の国」について何をおっしゃりたかったかが見えてきます。説教題「主の僕と主の敵」という観点で、見ていきましょう。

 

「ムナのたとえ」の中の「僕」と「国民」

12節以下の例え話で、最初に登場するのは「王の位を受けるために旅に出るという立派な家柄の人」です。その人は、旅の前に、十人の僕に一ムナずつ渡し、これを元手に商売をするように命令します(「1ムナ」とは、100日分の賃金と考えられます)。更に読み進めると、この僕達以外に、「国民」がいて、彼らは、この主人を「王」として受け入れたくないと、人を介して主張したと説明されています(14節)。

 

それぞれの僕への賞罰と、王を受け入れない国民への裁き

王の位を受けて旅から帰ってきた主人は、僕達が自分の留守中に命令を遂行したか尋ね、1番目に報告した僕は10ムナ、2番目に報告した僕は5ムナの利益を上げたと報告しました。この2人に対し、主人は、利益の多寡ではなく、彼らが命令に忠実だったことを大変喜びました。問題は3番目に報告した僕です。主人が厳しい人だと自分で思い込み、失敗して損失を出すのを恐れて、資金の一ムナを布に包んでいたと報告しました。主人は彼を「悪い僕だ」とし、また、3番目の報告者の言葉どおりに「厳しい人」として「厳しい裁き」をしたのです。資金の一ムナを取り上げ、十ムナの利益を上げた僕に与えよと命令しました。主人のこの命令は、僕達にとってはすぐに納得できる内容ではありませんでした。それは、人間の考え方では不平等のように感じます。しかし、この主人は「持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」(26節)と言ったのです。それだけではありません。この主人を王として受け入れたくないと言った「国民」を、自分が治める国から全く排除するのだと、この主人は宣告しました。

 

 「ムナのたとえ」は「神の国」の例え

 この例え話は「神の国」の本質が語られています。イエス様を救い主として受け入れるか否かによって、前者は「主の僕」とされ、恵みを増やすことに忠実かを問われ、後者は「主の敵」とされて排除されると白黒はっきりした結果が示されます。主を信じて従う者の国が「神の国」です。

例え話の謎解きをすると、立派な家柄の人であり、後に王の位を受けて戻ってくる人とは、「神の国」の主人、具体的に言うと、救い主イエス様の例えです。そして、王の位を受けるために遠い国へ旅するとは、イエス様が十字架にかかって、この世を去ることを例えています。一ムナずつ渡される僕達は、当時で言えば「使徒達」の例えですし、後の時代まで広げれば、神の恵みを受ける信徒達を例えていると考えられます。

また、この主人は旅から戻り、命令を忠実に果たしたかを問うことを忘れてはならないでしょう。私達「主の僕」は、救い主イエス様から受けた恵みを増やすために生きたかを必ず問われるという例えだからです。

別のグループ「国民」(14節)とは、イエス様を救い主と認めない者達、具体的には当時のユダヤ教指導者達の例えだと言えますし、主を十字架につけたユダヤの民衆も含まれると言えるでしょう。二千年たった今でも、主を受け入れない人々はおられます。彼らは「主の敵」(27節)と例えられます。しかし、主は「敵」を「僕」に変える「救いの御業」をなさいます。私達もそのことに僅かでも貢献できるよう、祈り求めていきましょう。