12月15日待降節第3主日の説教要旨  

マラキ書3:19-24・ヨハネ福音書 1:19-28

「荒れ野で叫ぶ声」  遠藤尚幸先生(東北学院中高 )

洗礼者ヨハネ

 今朝私たちに与えられている聖書の言葉は、「ヨハネ」という一人の人について書かれていました。ここで「ヨハネ」として登場する人物は「洗礼者ヨハネ」とも呼ばれる人です。この人は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書すべてに登場する人物でもあります。たとえば、マタイ福音書3:1-6ではこんな書き方をされています。

「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 ヨハネによる福音書1:26でヨハネが「わたしは水で洗礼を授けるが」という言葉の背景にあるのは、まさにこの福音書が伝えるヨハネの姿です。彼は、当時のユダヤの人々に悔い改めを迫りました。それは、神様の前で自らの罪を告白し、神様の方を向き直しなさい、という呼びかけでした。当時の人々は、荒れ野で叫ぶ彼の声に導かれ、彼から悔い改めのしるしとして洗礼を授けられました。これが、ヨハネが「洗礼者」と呼ばれた所以です。興味深いことは、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書はどれも、この洗礼者ヨハネから、主イエス・キリストが洗礼を授けられた場面を記していることです。主イエスは神の子です。本来、神様の前で罪を告白する必要のない方が、ヨハネから洗礼を受けて下さった。神の子が 最も低い姿で、私たち人間のところまで降りて来てくださった。

この大きな喜びを三つの福音書は伝えています。

しかし、それらと比較して気づくことは、このヨハネによる福音書だけが、この大いなる喜びとも言える主イエスの洗礼の出来事を記していないということです。ですから私達はむしろ、このヨハネ福音書を通して、洗礼者ヨハネという人を知る時に、他の福音書とは少し異なる形で、このヨハネの姿を見ている、ということができます。

福音書が四つあるというのは、このような豊かさを知る時でもあります。

 

*光を証する者

 では、ヨハネによる福音書において「洗礼者ヨハネ」はどのように描かれているのか。それが、1:19にある「証し」という言葉です。ヨハネの役割はヨハネ福音書において、この一点に集約されると言っても過言ではありません。ヨハネは証しをするために来た。彼は何を証するために来たのか。それは、少し前の、1:6以下に記されています。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」

 ヨハネの役割は、光について証しをすることであった。これが、ヨハネによる福音書が伝えるヨハネの姿です。光とは、この世界すべてを照らす光である主イエス・キリストを指します。主イエスの到来に先立って、ヨハネは現れた。そしてこのヨハネが、主イエス・キリスト到来の道備えをした。光を指し示した。ヨハネは、当時影響力のあった人物でした。 彼は人々から、来るべき救い主、もしくは、当時 救い主到来の直前に来ると言われていた預言者エリヤの再来、もしくは民を導く指導者的な預言者かと噂されていた人物でした。19節後半に「祭司やレビ人たちをヨハネのもとに遣わして」とあるのは、エルサレムの権力者たちが、彼のもとへ使者を遣わしたということです。ヨハネはこの人々から、「あなたは、どなたですか」と問われ、メシアか、エリヤか、預言者かと質問されていきます。

*わたしはキリストではない

 ヨハネは、「あなたは、どなたですか」と問われた時に、「わたしはメシアではない」と言い表しました。「メシア」とは、原文では「キリスト」です。「わたしはキリストではない」。言い換えれば、「私は救い主ではない」ということです。ヨハネの証の第一声は、自らがキリストではないと言い表すことにありました。「わたしはキリストではない」「わたしの後から来る方、ナザレ出身のイエスこそキリストである」。これは彼の信仰告白そのものです。私は救い主ではない。それは、目の前にいる祭司やレビ人、その他のユダヤ人に対して、ということでもあるでしょうけれども、ヨハネ自身についてもそうだということができます。

私自身を救う者も、私ではない。神様の前に罪を告白する。神様の方を向き直す。悔い改める。これらの出来事を、真の意味で完成してくださるのは、わたしではなく、主イエス・キリスト その方のみである、ということです。神様ご自身の御手によって、私自身の救いが成し遂げられるということです。私自身が神様から最も遠い状況にあるときですら、神様は私たちを決して見捨てず、私たちを救うことができる。私たちは、神様の御手の中に、自らの不誠実さ、弱さ、欠けを委ねることができる。

この恵みの内に生きることができる幸いこそ、私たち一人一人に与えられた信仰であり、喜びです。そういう意味で、ヨハネは、自らの内ではなくて、神様ご自身にのみ、救いがあることを ここで大胆に語っています。

彼が生きているのは、律法第一主義のユダヤの社会でした。律法を忠実に守らない者は救われないと考えられていた社会です。罪人は、神様に近づくことなど決して不可能だと考えられていた社会です。その社会のただ中で、ヨハネは大胆に、主イエス・キリストその方の恵みを、恐れず公言するのです。救いは主イエス、その方にこそある。 私たちもまた、自らの手の内に救いがあるのではありません。主イエスが私たちを救ってくださる。何の功(いさお)のない私たちを愛し、十字架でその命を捧げ、ただ一方的な恵みによって私たちを神の子とし、救いに入れてくださった方が主イエス・キリストその方です。

この方の恵みのうちに、私たち一人一人の人生はあります。

誰一人、この恵みからこぼれ落ちる者はいません。

*主イエスとの出会い

 今日、私たちは、ヨハネの証を通して、主イエス・キリスト その方と出会います。ヨハネだけではありません。あの主イエスを裏切り、見捨てた弟子たちもまた、後に、ヨハネと同じように、ただ主イエス・キリストを伝える「声」としての働きを始めました。皆、主イエスが十字架につけられる時には、主など知らないと言って逃げ去った弟子たちです。ユダヤの指導者たちに、まっすぐに、主イエスを証したヨハネの足元にも及ばない、弱さ、欠けをもった弟子たちです。しかし、彼らもまた、主イエスとの出会いを通して、ヨハネと共に「わたしはキリストではない」ということを知りました。弟子たちもまた、主イエスの十字架の恵みを知り、この罪深い自分もまた、ただ一方的な恵みによって救われていることを知り、全世界に、主イエス・キリストの福音を伝え始めたのです。彼らだけではありません。弟子たちの次の世代も、その次の世代も、2000年後の今の私たちの世代も、皆、ヨハネや、主イエスの弟子たちと同じように、それぞれの時代に、主イエス・キリストの証人として立たされているのです。

*共に礼拝を守る

 共に礼拝を守る時、私たち一人一人が主イエスの証人です。私たちは、今日、一人一人がこの時代に、ヨハネのように、主の弟子たちのように、公言して隠さず「わたしはメシアではない」と、この世界に言い表しています。たとえ明日、自らの地上の生涯が終わろうとも、私たちはキリストの証人としてここに立つのです。私たちが誰かを救うのではない。私たちが自らを救うのでもない。あの方が、クリスマスの夜ベツレヘムの飼い葉桶の中で、この地上の誰よりも低く生まれ、十字架の死に至るまで、徹底して、私たち一人一人を愛し抜いてくださったキリストが、私たちを救います。主イエスが来られます。今、私たち一人一人は、 この方の証人として生かされているのです。

12月9日の説教要旨 「洗礼者ヨハネの誕生の予告」 平賀真理子牧師

マラキ書3:19-24  ルカ福音書1:5-25

 *はじめに

 先週の主日から待降節(アドベント)に入っています。今年のアドベントとクリスマスの時期に与えられたのは、ルカによる福音書の中のイエス様の御降誕に関わる箇所です。この福音書の特徴の一つに挙げられることは、イエス様の御降誕だけではなく、救い主の道を整えるために先を歩む者として用いられた「洗礼者ヨハネ」の誕生についても大変詳しく記されていることです。

 

 *最高の預言者エリヤの再来としての「洗礼者ヨハネ」

救い主をこの世に送るという神様の約束が、預言者を通してイスラエル民族に与えられていましたが、預言者マラキは、主の御降誕の前に「預言者エリヤを遣わす」と告げていたことが、旧約聖書マラキ書3章23節に書かれています。預言者エリヤは、数々いた預言者の中でも最高に力のあった預言者としてイスラエルの民に尊敬されていました。マラキ書の「主の前に送られる預言者エリヤ」とは、かつて存在したエリヤそのものではなく、まさしく「エリヤの霊と力」を受けた人物のことです。神様は約束どおり、人間として最高の霊と力を授けられる人物の誕生を、「救い主の誕生」の事前に、確かに御自身でご用意してくださったことを、ルカによる福音書は証ししようとしています。

 

 *父親となる祭司ザカリアに天使が喜ばしい御言葉を告げる

エルサレム神殿で特別任務をしていた祭司ザカリアのもとに、天使が来て、待望の男子が与えられると告げます。けれども、人間の常識から見て、不妊だった夫婦がもはや高齢となった末に子が授かるなど、ありえないことです。ザカリアの心に、主の御言葉への不信仰を感じた天使は、「神様の出来事=洗礼者ヨハネの誕生」が実現するまでは、ザカリアは口がきけなくなるという罰を下しました。

 

 *夫ザカリアの不信仰を補った妻エリサベトの「神への賛美」

このような状況で、ザカリアの妻エリサベトは、神様の御計画を実際に身に受け、「主が目を留めてくださり、『不妊の女』(1:36)という恥から救ってくださった」と賛美したのです。祭司である夫ザカリアの頼りない態度と対比すると、当時の社会で、夫よりも低く見られていた妻、しかも汚名で苦しんでいたエリサベトこそ、主の先駆けとなるべき大事な子供の親としてふさわしい信仰を示せたと言えるでしょう。

 

 *「洗礼者ヨハネ」の役割

洗礼者ヨハネは、祭司の家系出身であり、成長過程も立派だったので(1:80)、彼こそが救い主ではないかと人々に期待されたのです。人間の知恵なら、生まれも育ちも最高の人間を救い主としたでしょう。ところが、神様の知恵ではそうならず、むしろ、人間の社会で最高レベルの人間を証し人に立てることで、後に来る神の御子・救い主イエス様が、人間より確かに優れている証しを立てさせようとされたと思われます。

生まれる前から神様に用意された「洗礼者ヨハネ」は、主の前にその道を整える者として、大きな役割が3つあったと言えるでしょう。一つめは、民衆の心を本当の神様へと立ち帰らせることでです(悔い改め)。二つめは、救い主イエス様に洗礼を授けたことです。神の御子であるイエス様ですが、公生涯を始めるにあたり、ヨハネから洗礼を受けた直後、天から父なる神様の祝福の声が降ったことが、マタイ・マルコ・ルカ福音書に記されています。特に、マタイ福音書では、ヨハネから洗礼を受けることが正しいことだとイエス様はおっしゃいました。神様の御心に適っていたのです。三つめは、無実の死の先駆けです。不義を行う領主によって逮捕されたヨハネは、酒席の戯言のために、無実の身でありながら死刑になります。この姿は、罪なきイエス様が十字架刑で死ぬ定めの先駆けとも受け取れます。現に、マタイ福音書では、ヨハネの死を受けて御自分の行く末を予感なさったであろうイエス様が、恐らく祈るために、人里離れた所に退いたことが書かれています(マタイ14章)。

 

 *「人間への全き愛」から、救い主の先駆けさえも準備なさった神様

「救い主御降誕」のため、神様は、その先駆けとなり、この世での霊的な準備をする役割の人間(洗礼者ヨハネ)を最初から準備なさいました。それは、人間の救いを心から願う「神様の全き愛」から生じたのです。私達も、主の御降誕に備え、心を込めた準備ができるよう、祈りましょう。

7月1日の説教要旨 「主の僕と主の敵」 平賀真理子牧師

マラキ書3:17-20 ルカ福音書19:11-27

はじめに

エルサレムに向かうイエス様御一行の旅も、いよいよ目的地に近づきました。今日の新約聖書箇所は、直前の段落「徴税人ザアカイの悔い改め」の話が終わった後、それに続いて、イエス様がお語りになった例え話として記されています。

 

民衆の期待「イエス様はエルサレムで神の国を建ててくださる!」

イエス様がエルサレムに近づいておられることは、ユダヤの民衆にとり、期待が膨らむ嬉しいことでした。彼らは、イエス様がエルサレム到着直後に、自分達に圧政を強いてきた異邦人の国であるローマ帝国を追い出し、ユダヤ民族の国を実際に建ててくださると思い込んでいたのです。しかし、今日の箇所の冒頭の11節では、言外に「そうではない。人々が思い込んでいるとおりのことが実現するのではない。」という思いを汲み取ることができます。「ムナのたとえ」を知ると、イエス様が「神の国」について何をおっしゃりたかったかが見えてきます。説教題「主の僕と主の敵」という観点で、見ていきましょう。

 

「ムナのたとえ」の中の「僕」と「国民」

12節以下の例え話で、最初に登場するのは「王の位を受けるために旅に出るという立派な家柄の人」です。その人は、旅の前に、十人の僕に一ムナずつ渡し、これを元手に商売をするように命令します(「1ムナ」とは、100日分の賃金と考えられます)。更に読み進めると、この僕達以外に、「国民」がいて、彼らは、この主人を「王」として受け入れたくないと、人を介して主張したと説明されています(14節)。

 

それぞれの僕への賞罰と、王を受け入れない国民への裁き

王の位を受けて旅から帰ってきた主人は、僕達が自分の留守中に命令を遂行したか尋ね、1番目に報告した僕は10ムナ、2番目に報告した僕は5ムナの利益を上げたと報告しました。この2人に対し、主人は、利益の多寡ではなく、彼らが命令に忠実だったことを大変喜びました。問題は3番目に報告した僕です。主人が厳しい人だと自分で思い込み、失敗して損失を出すのを恐れて、資金の一ムナを布に包んでいたと報告しました。主人は彼を「悪い僕だ」とし、また、3番目の報告者の言葉どおりに「厳しい人」として「厳しい裁き」をしたのです。資金の一ムナを取り上げ、十ムナの利益を上げた僕に与えよと命令しました。主人のこの命令は、僕達にとってはすぐに納得できる内容ではありませんでした。それは、人間の考え方では不平等のように感じます。しかし、この主人は「持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」(26節)と言ったのです。それだけではありません。この主人を王として受け入れたくないと言った「国民」を、自分が治める国から全く排除するのだと、この主人は宣告しました。

 

 「ムナのたとえ」は「神の国」の例え

 この例え話は「神の国」の本質が語られています。イエス様を救い主として受け入れるか否かによって、前者は「主の僕」とされ、恵みを増やすことに忠実かを問われ、後者は「主の敵」とされて排除されると白黒はっきりした結果が示されます。主を信じて従う者の国が「神の国」です。

例え話の謎解きをすると、立派な家柄の人であり、後に王の位を受けて戻ってくる人とは、「神の国」の主人、具体的に言うと、救い主イエス様の例えです。そして、王の位を受けるために遠い国へ旅するとは、イエス様が十字架にかかって、この世を去ることを例えています。一ムナずつ渡される僕達は、当時で言えば「使徒達」の例えですし、後の時代まで広げれば、神の恵みを受ける信徒達を例えていると考えられます。

また、この主人は旅から戻り、命令を忠実に果たしたかを問うことを忘れてはならないでしょう。私達「主の僕」は、救い主イエス様から受けた恵みを増やすために生きたかを必ず問われるという例えだからです。

別のグループ「国民」(14節)とは、イエス様を救い主と認めない者達、具体的には当時のユダヤ教指導者達の例えだと言えますし、主を十字架につけたユダヤの民衆も含まれると言えるでしょう。二千年たった今でも、主を受け入れない人々はおられます。彼らは「主の敵」(27節)と例えられます。しかし、主は「敵」を「僕」に変える「救いの御業」をなさいます。私達もそのことに僅かでも貢献できるよう、祈り求めていきましょう。

2月26日の説教要旨 「正しい教えを語らない人々」 平賀真理子牧師

マラキ書2:5-9 ルカ福音書114554

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、イエス様が、神様の御心に適わない人々に対して語られたことの後半です。前半(37節-44節)で、イエス様は、ファリサイ派の人々の誤った姿勢を指摘なさいましたが、それを聞いていた「律法の専門家」の一人が、ファリサイ派の教えの根拠となる「律法の解釈」を教えているのは自分達だから、イエス様のファリサイ派への指摘は自分達への指摘でもあると気づきました。

 「律法の専門家」=「律法学者」

53節を除いて、今日の箇所は「律法の専門家」と書かれています。似た言葉として「律法学者」を思い出す方も多いでしょう。元々の言葉に従い、この2つの言葉は訳し分けられているようですが、意味の上で大きな違いはないと思われるので、以下は「律法学者」と述べていきます。

 人々に重荷を負わせても助けようともしない律法学者

イエス様は、まず、律法学者達が「人に背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」(46節)と指摘なさいました。「重荷を負わせる」とは「律法で細かいことを決めて、それを人々に守ることを押し付ける」ことであり、「自分では指一本もその重荷に触れようとしない」とは「人々が細かく定められた律法の決まりを行うのが大変だと気づいても、人々に寄り添って助けようとしない」ことをおっしゃっているのでしょう。律法学者は、悩んで相談に来た人々に寄り添おうともしない、そのような心の冷たさは神様の御心に適っていないと指摘されたのです。

 預言者の墓の建設と巡礼を推奨していた律法学者への指摘

次に、イエス様は、律法学者が当時、推奨していた「預言者の墓の建設と巡礼」に対する態度の誤りを指摘なさいました(47節-51節)。「預言者」の多くは、ユダヤ人達が神様から離れた時に、それではいけないと警告し,神様に立ち帰るように告げるように定められました。自分達の罪を素直に認められない人間の頑なさゆえに、ユダヤ人達は、預言者を殺したり、迫害したりして、神様からの預言をなかったことにしようと努めました。

律法学者が呼びかけて民衆が従った「預言者の墓の建設と巡礼」は、一見、信仰深いように見えます。しかし、よく考えると、預言者の墓ができるということは、ユダヤ人達の先祖が預言者をそこで殺したり迫害したりしたことの証明です。先祖の不信仰の証明を、子孫がいそいそとしているわけです。その不信仰を悔い改めなければ、いくら巡礼しても、ユダヤ人達は先祖の過ちを繰り返していることになります。神様に選ばれて御言葉を告げる人を殺すとか、迫害する、そのような大きな罪を悔い改めることこそ、神様の御心です。心の底から悔い改めるならば、「灰をかぶり、粗末な衣をまとい、ひれ伏して、神様に罪の赦しを祈り求めるものだ」とイエス様は伝えたかったのではないでしょうか。

 「今の時代の者たち」の罪深い行いについての預言

先祖の罪の証人となっているだけでなく、「今の時代の者たちはその責任を問われる」とイエス様は2回重ねて語られました(50節、51節)。神様が選んだ預言者も偉大な人物ですが、イエス様御自身は「救い主」として、比べ物にならないほど偉大な御方であり、「今の時代の者たち」は気づかなくても、もう既に彼らの目の前に来てくださっているのです。旧約聖書には、神様が愛し、この世に派遣された人を、受け入れるべき人が受け入れずに殺す、というユダヤ人達の歴史が綴られています。最初の犠牲者アベル(創世記4:1-12)と最後の犠牲者となった預言者ゼカルヤ(歴代誌下24:17―22)の名前を挙げて、イエス様はユダヤ人達にわかるように話されました。「神様側の人間が、罪深い人々に殺される」という、幾度となく繰り返された出来事が、神様が遣わしてくださった「救い主イエス様」御自身にも起こるであろうと預言されています。十字架の預言です。

 プロテスタント教会の私達が、神様から期待されていること

最後に、イエス様は、律法学者について、神様から賜った「律法」についての細かい知識を駆使して、自分をも、他の人をも「神の国」に入るのを妨げていると言われました。彼らは、律法の知識を、愛ではなく、裁きの道具にしたのです。

イエス様は、宣教の第一声で「悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)と宣言されました。プロテスタント教会に属する私達は、神様の掟を形式的に守るというより、神様の御心を知って、悔い改め、神の国の民としての生き方に励むよう、また、各々が、そのリーダーとなるよう、神様から期待されています。

11月29日の説教要旨 「洗礼者ヨハネの誕生の予告」 牧師 平賀真理子

マラキ32324 ルカ福音書1520

 はじめに

神様は、御自分から離れた人間達との関係を取り戻すために、救い主をこの世に送り、その御方を救い主と信じる者達を救う御計画を立て、預言者に御言葉を託されました(イザヤ書7:14等)。また、救い主が来られる前に「道を備える者」をこの世に送る御計画さえも預言をとおして知らせてくださっていました(マラキ3:1、23)。神様から離れたがる罪深い人間を相手に、神様は御計画を教えてくださり、その御言葉の約束を必ず実行してくださる御方です。

 「道を備える者」の誕生の前に

「道を備える者」と預言されていたのが、「洗礼者ヨハネ」でした。それはマラキ書3:23にある「預言者エリヤ」の霊と力で、洗礼者ヨハネが主に先立つ者になると天使が言っていることからもわかります(ルカ福音書1:17)。神様は救い主の前に私達の心を準備させるために、長い時間をかけ、大いなる熱情を持って、洗礼者ヨハネを前々から準備してくださっていたのです。今日の新約聖書箇所では、「洗礼者ヨハネ」の両親の話から始まります。ザカリアと妻エリサベトは神様の御前に正しく生きていて「非の打ちどころがなかった」夫婦でした。彼らが血筋も行いも正しい人として歩み続けたのに、神様の祝福の証しと考えられていた子供に恵まれませんでした。それは、どんなに苦しいとげだったでしょうか。この苦しい状況の中でも、彼らは神様から与えられた律法に従い、神様の前に正しく生きていくことをやめずに続けました。人間の考えでは祝福されているように見えなかったザカリア夫婦は、長い忍耐の末、神様の御計画の中で重要な使命を担う子供を与えられました。自分の願いだけにとどまらず、神様を信頼して「本当の救い」を待ち続けるという、更なる信頼を神様に献げるよう、神様は願っておられるのではないでしょうか。大変過酷な運命の下に置かれても、神様を信じ続けるという忍耐をとおして、神様に用いられる信仰者の典型が示されています。

 天使ガブリエルをとおしての御言葉

ザカリアは祭司で、エルサレム神殿で大事な務めを果たしている時に、天使に出会って主の御言葉をいただきました。それは、元々の言葉では「詩」の形で書かれています。「詩」は、欧米では、尊敬されているものの一つです。それは真実で、美しい言葉として研ぎ澄まされたものだからです。ザカリアが天使の「真実で美しい、主の御言葉」を聞くことができたのは、彼がそれにふさわしく整えられていたからでしょう。本当は主の御言葉はもっと惜しみなく与えられているのかもしれません。ただ、それを受け取る私達が、神様に心を合わせようとしていないのかもしれません。私達は、主の御言葉を受け取れるように、真実で、美しく、清められたいと本当に願っているかが問われていると思います。

 3つのキーワード

天使ガブリエルの言葉は、主と呼ばれる神様が、天使に託した、神様の御言葉です。その中から、3つのキーワードについて、お伝えします。一つ目は、15節「(洗礼者ヨハネは)既に母の胎にいる時から聖霊に満たされていて」の「聖霊に満たされて」という言葉です。ルカによる福音書とその続編と言われる使徒言行録は、特に「聖霊(神の霊)に満たされ」とか「聖霊に導かれて」といった表現がよく出てきます。神様が直接この世に働きかけてくださり、神様の御心どおりに福音が広まっていくことを証ししているのです。

二つ目は、17節「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ」というところです。左欄の「『道を整える者』の前に」というところで書いたように、洗礼者ヨハネが、預言者マラキの預言の実現として、エリヤの再来としてこの世に遣わされていることを証ししています。

三つ目は、17節の最後「準備のできた民を主のために用意する」という御言葉です。救い主イエス様に導かれるために、洗礼者ヨハネが何をしたのかが、ルカ福音書の3章の初めにあります。「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」のです。「罪の赦し」は救い主イエス様のみの権能ですが、その前段階として、「悔い改め」が必要とされます。それを洗礼者ヨハネは、ユダヤの人々に呼びかけました。自分の欲望や利益のためだけに生きていた人々を、神様の御前で正しく生きるように方向転換するように勧めたのです。罪を悔い改めたいと願う心の準備をした者に、救い主による罪の赦しの恵みが充分にもたらされるのです。