12月15日待降節第3主日の説教要旨  

マラキ書3:19-24・ヨハネ福音書 1:19-28

「荒れ野で叫ぶ声」  遠藤尚幸先生(東北学院中高 )

洗礼者ヨハネ

 今朝私たちに与えられている聖書の言葉は、「ヨハネ」という一人の人について書かれていました。ここで「ヨハネ」として登場する人物は「洗礼者ヨハネ」とも呼ばれる人です。この人は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書すべてに登場する人物でもあります。たとえば、マタイ福音書3:1-6ではこんな書き方をされています。

「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 ヨハネによる福音書1:26でヨハネが「わたしは水で洗礼を授けるが」という言葉の背景にあるのは、まさにこの福音書が伝えるヨハネの姿です。彼は、当時のユダヤの人々に悔い改めを迫りました。それは、神様の前で自らの罪を告白し、神様の方を向き直しなさい、という呼びかけでした。当時の人々は、荒れ野で叫ぶ彼の声に導かれ、彼から悔い改めのしるしとして洗礼を授けられました。これが、ヨハネが「洗礼者」と呼ばれた所以です。興味深いことは、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書はどれも、この洗礼者ヨハネから、主イエス・キリストが洗礼を授けられた場面を記していることです。主イエスは神の子です。本来、神様の前で罪を告白する必要のない方が、ヨハネから洗礼を受けて下さった。神の子が 最も低い姿で、私たち人間のところまで降りて来てくださった。

この大きな喜びを三つの福音書は伝えています。

しかし、それらと比較して気づくことは、このヨハネによる福音書だけが、この大いなる喜びとも言える主イエスの洗礼の出来事を記していないということです。ですから私達はむしろ、このヨハネ福音書を通して、洗礼者ヨハネという人を知る時に、他の福音書とは少し異なる形で、このヨハネの姿を見ている、ということができます。

福音書が四つあるというのは、このような豊かさを知る時でもあります。

 

*光を証する者

 では、ヨハネによる福音書において「洗礼者ヨハネ」はどのように描かれているのか。それが、1:19にある「証し」という言葉です。ヨハネの役割はヨハネ福音書において、この一点に集約されると言っても過言ではありません。ヨハネは証しをするために来た。彼は何を証するために来たのか。それは、少し前の、1:6以下に記されています。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」

 ヨハネの役割は、光について証しをすることであった。これが、ヨハネによる福音書が伝えるヨハネの姿です。光とは、この世界すべてを照らす光である主イエス・キリストを指します。主イエスの到来に先立って、ヨハネは現れた。そしてこのヨハネが、主イエス・キリスト到来の道備えをした。光を指し示した。ヨハネは、当時影響力のあった人物でした。 彼は人々から、来るべき救い主、もしくは、当時 救い主到来の直前に来ると言われていた預言者エリヤの再来、もしくは民を導く指導者的な預言者かと噂されていた人物でした。19節後半に「祭司やレビ人たちをヨハネのもとに遣わして」とあるのは、エルサレムの権力者たちが、彼のもとへ使者を遣わしたということです。ヨハネはこの人々から、「あなたは、どなたですか」と問われ、メシアか、エリヤか、預言者かと質問されていきます。

*わたしはキリストではない

 ヨハネは、「あなたは、どなたですか」と問われた時に、「わたしはメシアではない」と言い表しました。「メシア」とは、原文では「キリスト」です。「わたしはキリストではない」。言い換えれば、「私は救い主ではない」ということです。ヨハネの証の第一声は、自らがキリストではないと言い表すことにありました。「わたしはキリストではない」「わたしの後から来る方、ナザレ出身のイエスこそキリストである」。これは彼の信仰告白そのものです。私は救い主ではない。それは、目の前にいる祭司やレビ人、その他のユダヤ人に対して、ということでもあるでしょうけれども、ヨハネ自身についてもそうだということができます。

私自身を救う者も、私ではない。神様の前に罪を告白する。神様の方を向き直す。悔い改める。これらの出来事を、真の意味で完成してくださるのは、わたしではなく、主イエス・キリスト その方のみである、ということです。神様ご自身の御手によって、私自身の救いが成し遂げられるということです。私自身が神様から最も遠い状況にあるときですら、神様は私たちを決して見捨てず、私たちを救うことができる。私たちは、神様の御手の中に、自らの不誠実さ、弱さ、欠けを委ねることができる。

この恵みの内に生きることができる幸いこそ、私たち一人一人に与えられた信仰であり、喜びです。そういう意味で、ヨハネは、自らの内ではなくて、神様ご自身にのみ、救いがあることを ここで大胆に語っています。

彼が生きているのは、律法第一主義のユダヤの社会でした。律法を忠実に守らない者は救われないと考えられていた社会です。罪人は、神様に近づくことなど決して不可能だと考えられていた社会です。その社会のただ中で、ヨハネは大胆に、主イエス・キリストその方の恵みを、恐れず公言するのです。救いは主イエス、その方にこそある。 私たちもまた、自らの手の内に救いがあるのではありません。主イエスが私たちを救ってくださる。何の功(いさお)のない私たちを愛し、十字架でその命を捧げ、ただ一方的な恵みによって私たちを神の子とし、救いに入れてくださった方が主イエス・キリストその方です。

この方の恵みのうちに、私たち一人一人の人生はあります。

誰一人、この恵みからこぼれ落ちる者はいません。

*主イエスとの出会い

 今日、私たちは、ヨハネの証を通して、主イエス・キリスト その方と出会います。ヨハネだけではありません。あの主イエスを裏切り、見捨てた弟子たちもまた、後に、ヨハネと同じように、ただ主イエス・キリストを伝える「声」としての働きを始めました。皆、主イエスが十字架につけられる時には、主など知らないと言って逃げ去った弟子たちです。ユダヤの指導者たちに、まっすぐに、主イエスを証したヨハネの足元にも及ばない、弱さ、欠けをもった弟子たちです。しかし、彼らもまた、主イエスとの出会いを通して、ヨハネと共に「わたしはキリストではない」ということを知りました。弟子たちもまた、主イエスの十字架の恵みを知り、この罪深い自分もまた、ただ一方的な恵みによって救われていることを知り、全世界に、主イエス・キリストの福音を伝え始めたのです。彼らだけではありません。弟子たちの次の世代も、その次の世代も、2000年後の今の私たちの世代も、皆、ヨハネや、主イエスの弟子たちと同じように、それぞれの時代に、主イエス・キリストの証人として立たされているのです。

*共に礼拝を守る

 共に礼拝を守る時、私たち一人一人が主イエスの証人です。私たちは、今日、一人一人がこの時代に、ヨハネのように、主の弟子たちのように、公言して隠さず「わたしはメシアではない」と、この世界に言い表しています。たとえ明日、自らの地上の生涯が終わろうとも、私たちはキリストの証人としてここに立つのです。私たちが誰かを救うのではない。私たちが自らを救うのでもない。あの方が、クリスマスの夜ベツレヘムの飼い葉桶の中で、この地上の誰よりも低く生まれ、十字架の死に至るまで、徹底して、私たち一人一人を愛し抜いてくださったキリストが、私たちを救います。主イエスが来られます。今、私たち一人一人は、 この方の証人として生かされているのです。