11月29日の説教要旨 「洗礼者ヨハネの誕生の予告」 牧師 平賀真理子

マラキ32324 ルカ福音書1520

 はじめに

神様は、御自分から離れた人間達との関係を取り戻すために、救い主をこの世に送り、その御方を救い主と信じる者達を救う御計画を立て、預言者に御言葉を託されました(イザヤ書7:14等)。また、救い主が来られる前に「道を備える者」をこの世に送る御計画さえも預言をとおして知らせてくださっていました(マラキ3:1、23)。神様から離れたがる罪深い人間を相手に、神様は御計画を教えてくださり、その御言葉の約束を必ず実行してくださる御方です。

 「道を備える者」の誕生の前に

「道を備える者」と預言されていたのが、「洗礼者ヨハネ」でした。それはマラキ書3:23にある「預言者エリヤ」の霊と力で、洗礼者ヨハネが主に先立つ者になると天使が言っていることからもわかります(ルカ福音書1:17)。神様は救い主の前に私達の心を準備させるために、長い時間をかけ、大いなる熱情を持って、洗礼者ヨハネを前々から準備してくださっていたのです。今日の新約聖書箇所では、「洗礼者ヨハネ」の両親の話から始まります。ザカリアと妻エリサベトは神様の御前に正しく生きていて「非の打ちどころがなかった」夫婦でした。彼らが血筋も行いも正しい人として歩み続けたのに、神様の祝福の証しと考えられていた子供に恵まれませんでした。それは、どんなに苦しいとげだったでしょうか。この苦しい状況の中でも、彼らは神様から与えられた律法に従い、神様の前に正しく生きていくことをやめずに続けました。人間の考えでは祝福されているように見えなかったザカリア夫婦は、長い忍耐の末、神様の御計画の中で重要な使命を担う子供を与えられました。自分の願いだけにとどまらず、神様を信頼して「本当の救い」を待ち続けるという、更なる信頼を神様に献げるよう、神様は願っておられるのではないでしょうか。大変過酷な運命の下に置かれても、神様を信じ続けるという忍耐をとおして、神様に用いられる信仰者の典型が示されています。

 天使ガブリエルをとおしての御言葉

ザカリアは祭司で、エルサレム神殿で大事な務めを果たしている時に、天使に出会って主の御言葉をいただきました。それは、元々の言葉では「詩」の形で書かれています。「詩」は、欧米では、尊敬されているものの一つです。それは真実で、美しい言葉として研ぎ澄まされたものだからです。ザカリアが天使の「真実で美しい、主の御言葉」を聞くことができたのは、彼がそれにふさわしく整えられていたからでしょう。本当は主の御言葉はもっと惜しみなく与えられているのかもしれません。ただ、それを受け取る私達が、神様に心を合わせようとしていないのかもしれません。私達は、主の御言葉を受け取れるように、真実で、美しく、清められたいと本当に願っているかが問われていると思います。

 3つのキーワード

天使ガブリエルの言葉は、主と呼ばれる神様が、天使に託した、神様の御言葉です。その中から、3つのキーワードについて、お伝えします。一つ目は、15節「(洗礼者ヨハネは)既に母の胎にいる時から聖霊に満たされていて」の「聖霊に満たされて」という言葉です。ルカによる福音書とその続編と言われる使徒言行録は、特に「聖霊(神の霊)に満たされ」とか「聖霊に導かれて」といった表現がよく出てきます。神様が直接この世に働きかけてくださり、神様の御心どおりに福音が広まっていくことを証ししているのです。

二つ目は、17節「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ」というところです。左欄の「『道を整える者』の前に」というところで書いたように、洗礼者ヨハネが、預言者マラキの預言の実現として、エリヤの再来としてこの世に遣わされていることを証ししています。

三つ目は、17節の最後「準備のできた民を主のために用意する」という御言葉です。救い主イエス様に導かれるために、洗礼者ヨハネが何をしたのかが、ルカ福音書の3章の初めにあります。「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」のです。「罪の赦し」は救い主イエス様のみの権能ですが、その前段階として、「悔い改め」が必要とされます。それを洗礼者ヨハネは、ユダヤの人々に呼びかけました。自分の欲望や利益のためだけに生きていた人々を、神様の御前で正しく生きるように方向転換するように勧めたのです。罪を悔い改めたいと願う心の準備をした者に、救い主による罪の赦しの恵みが充分にもたらされるのです。