11月22日の説教要旨 「幸せへの道」 デイビッド・マーチー先生(東北学院大学教授)

詩編1:1-6

 はじめに

人間は、幸せを得るために人生の道を選びます。幸せになるために、多くの人は、財産や所有物(車・家など)を得ようとしたり、身近な快楽を経験しようとしたりします。しかし、その望む状態になっても、今度は、それが当たり前になり、心は満たされません。また、教育を受けたり、気楽な友達を求めたり、快適な生活や老後のために蓄えるという、普通の人が行う方法でゴールにたどり着いても、虚しさや不満が残ります。待ち望んだ「幸せ」にはなれません。「本当の幸せ」は物質によっては得られません。

 詩編で示されている「幸せ」「幸せな人生」

聖書では、「幸せ」とは、人間が神様の意志の中に生きる時に見つかると教えています。神様と共にある人生こそ「幸せ」であると、困難な時にこそ、よくわかるのです。これがまさしく詩編第1編のテーマです。この1編は、精神的な困難や悩みを経験した人が書いたと思われます。この著者は、神様からの慰めを求めたのです。この詩の表現は簡単ですが、どんな人が幸せかという私達の疑問への、奥の深い答えを示しています。「本当の幸せな人生」とは、神様の思し召しと御言葉に根を下ろした人生であり、そうすれば、幸せな人生は消え去らないと告げています。

 詩編第1編から見る「幸せ」

第1節では、「神に逆らう者・罪ある者・傲慢な者」という「世」、つまり「神様を信じない空気」に支配されてはいけないと言っています。もし、そのような「世」に同調したら、今は歩けても、次第に動けなくなり、やがてあざける者の中に座らせられるようになり、神様を信じない世界に陥るのです。そのように、神様から遠ざかる者、神様を馬鹿にした呼び名で呼ぶ人を「高慢な者」とも言いますが、箴言21:24には「増長し、高慢な者、その名は不遜、高慢の限りを尽くす」とあります。詩編第1編の著者は、高慢な者達に囲まれた厳しい状況に居たのでしょう。高慢な者達は神様の御言葉を受け入れません。その本当の理由は、神様の御言葉によって私達が要求されるものよりも、神様の約束の恵みの方がずっと大きいと知らないで、「神様の要求が厳しい」と誤解しているということです。

3節では、神様の無い世界と神様の下にある生産的な人生が大きく違うとあります。神様の意志に根付いた生活こそが神様の導きに富んだ、豊かな生活であり、決して厳しくて、枠の中に捕らわれた生活ではありません。「枠」というと旧約聖書の「律法」を思い出されるかもしれませんが、それも、窮屈で面白くないものではありません。「律法」は神様の恵みにある自由な生活を送る人の羅針盤です。

 「神様の御言葉」を喜んで受け入れる

詩編第1編によれば、幸せな人は、神様の掟=神様の御言葉の恵みを喜び、昼も夜も口ずさむ人です。愛する御方の掟への服従は決して苦しくありません。私達を愛してくださる神様の御言葉は喜んで受け入れられるはずです。しかし、私達は本当に神様の御言葉を喜んでいるでしょうか。ダビデ王は、神様の御言葉を喜びとしていました(詩編19:10-11、119:92-93)し、 修道院の信仰者達の生活は神様の御言葉を毎日読むことの大切さを想起させてくれます。クリスチャンが神様の御言葉に自分自身を献げるならば、一人一人が変わり、人間関係が変わり、そして、神様と自分との関係が変わります。

 「神様と共にある人生」と「神様のいない人生」の対比

3節と4節には、「神様と共にある人生」と「神様のいない人生」という対照的な関係があります。イスラエルの民は日照りや飢饉に苦しんだので、水のありがたみを知っています。神様の御言葉を愛する人は、水の流れのほとりの木で、実を結ぶと表現されています。年をとっても、霊的な実を結ぶと保証しています。それは「永遠の幸せ」と言えます。これは、神様からだけいただけるものであり、神様からの約束の恵みであり、これこそ神様に従う本当の喜びです。決して虚しいものにはなりません。反対に、神様に逆らう者は虚しいものであることを「もみ殻」(4節)と例えています。神様のいない人生、我が道を行く悲劇を表しています。虚しく、役立たないのです。更に、詩編第1編の最後は、我が道を行く人への警告で終わります。神様から離れて自分勝手に歩む道は、当座は魅力的でも、決して神様の裁きに堪え得ません(ナホム書1:6、詩編130:3)。一方、 神様の御言葉を聞いて深く考えて従う人を神様は見守ってくださいます。聖霊に導かれるクリスチャンは、神様の御言葉と祈りに没頭する時、幸せな生活が体験できます。