6月17日の説教要旨 「見えるようになれ」 平賀真理子牧師

詩編53:2-7 ルカ福音書18:38-43

はじめに

イエス様は、人々の罪を贖うという救い主の役割を果たす時が近づいたことを悟られ、宣教の本拠地だったガリラヤ地方から、十字架にかかる地エルサレムに向かって南下しておられました。エルサレムに近い町エリコの手前で、今日の新約聖書箇所の奇跡の出来事は起こりました。これは、イエス様の数多くの癒しの奇跡の最後の奇跡です。それが「目が見えない人がイエス様によって見えるようにされた」というものです。イエス様によって「見えない人が見えるようになった」わけですが、これは単に、肉体的な視力の回復だけを指しているのではありません。そのことを学んでいきましょう。

 

「ダビデの子」(38節、39)

一人の盲人が、多くの人々が近くを通り過ぎる物音や雰囲気を感じ取り、周りの人に「これはいったい何事ですか」と尋ねました。その答えは「ナザレのイエスのお通りだ」という言葉でした。ところが、この盲人は、イエス様への呼びかけとして、聞いたとおりの「ナザレのイエス」ではなく、「ダビデの子イエス」という言葉を使いました。「ダビデの子」の「ダビデ」は、イエス様の時よりも更に千年程前にイスラエル王国が最も栄えた時の王様です。ダビデ王は、主なる神様から愛され、強い敵国との戦いでも、主の助けをいただいて勝利し、その恵みを感謝する王様でした。また、ダビデ王の子孫から「救い主」が生まれるという預言があって、イスラエルの民は皆それを知っていました。だから、イエス様を「ダビデの子」と呼ぶことは「あなたこそ、救い主だと私は信じます」という信仰告白でもあったのです。

 

「わたしを憐れんでください」(38節、39)

続いて、この盲人は「わたしを憐れんでください」と懇願しました。これは「あなたの力でわたしを助けてください」という意味です。自分の苦境は、自分や人間の力では解決できないから、もう神様に頼る他ないと心から思っていたことを意味しています。そして、「先に行く人々」の静止も聞かず、更に激しく、イエス様の助けを求めました。

 

「見えるようになれ」(42)

必死で助けを求める人を、イエス様は決して無視する御方ではありません。御自分を「救い主」と信仰告白した盲人に対して、自分の願いを口で表明するように導き、その願いを叶えてくださいました!御自分を救い主として受け入れた人の気持ちに寄り添い、願いを実現してくださったのです。「見えるようになれ」という言葉は、まさしく、「救い主の憐れみ」の言葉であり、それが実現し、盲人は望みどおり、見えるようになりました!そして、本人も、周りにいた民衆も神様を賛美するようになりました(43節)!「見えるようになる」という奇跡は、視力の回復はもちろんですが、彼らが、神様の人間への愛、特に、御子イエス様を通しての救いの御業の偉大さを、霊の目で「見えるようになってほしい」という、神様の御心が明らかになった出来事と読み取れます。

 

「あなたの信仰があなたを救った」42節)

イエス様は、御自分の御力を自慢するために奇跡を行ったのではありません。神様の力がこの世に現れるとどのようになるかを人々に知らせるためでした。今回の奇跡でも、イエス様が憐れんでくださった結果、神様の御力によって、この盲人は癒されたのです。ところが、イエス様は御自分のおかげだと言うような御方ではありません。この盲人の信仰ゆえに救われたのだとの励ましの御言葉をかけてくださったのです。

 

 「神の救いが見えるようになれ」

それまで、この盲人は、その社会で大変に傷つけられてきたことでしょう。このように身体や体の機能が不十分な人々を本来配慮すべき宗教指導者達は、彼らが神様から罰を受けていると言い、自分達の社会から排除すべきだとしていたからです。その一方、イエス様は、救い主としての憐れみを求める声を聞くとすぐに、それに向き合い、憐れみ、望みを実現するべく働かれる御方です。私達は、このようなイエス様を救い主として信仰しています。この盲人だけでなく、私達の神様の助けを求める叫びを聞き、「神様の救い」が見えるように導いてくださる御方です。霊の目が開かれ、その恵みを感謝できるよう、祈り求めましょう。