2021年6月6日の礼拝説教要旨 エゼキエル書18:25-32・使徒言行録17:22-34

「創 造 主」     加藤 秀久伝道師

*はじめに

本日のエゼキエル書18章には、イスラエルの人々が「先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」ということわざを繰り返し口にして、現在、彼らの身の回りに起る幸・不幸の出来事は、先祖が過去に行った様々な行為の結果であると考えていたことが伝えられています。それゆえ、捕囚という悲惨な出来事は、先祖の罪の行いの報いであると受けとり、神様の、自分達に対する扱い方は正しくないと主張しています。

そのようなイスラエルの民に対して、預言者エゼキエルは、現在彼らの身の回りに起っていることは、イスラエルの一人、一人、各個人に責任があるとの神様の言葉を伝えます。すなわち、正しい人が、そこから離れて不正を行なうなら、彼は自分の行った不正によって死ぬのであり、逆に、悪い人が自分の行った悪から離れて、神様の前に正義と恵みの業を行うのなら自分の命を救うことができる、との主の言葉を語ります。

そして主なる神は、「ひとりひとりをその道に従って裁く」(30節)、「悔い改めて、お前たちのすべての背(そむ)きから立ち帰れ」(同)「あらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(31節)わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(32節)と言われたのです!

*パウロのアテネ伝道

 本日の使徒言行録でパウロは、アテネの人々が至る所に人の手で造った神々(偶像)を置いてあるのを見て、この町が「偶像に満ちている」のに憤慨(ふんがい)しました。(原語では、パウロの心の中の霊がしきりに憤りを感じたとの表現)。そこでパウロは、会堂や広場でイエス様の復活の出来事を告げ知らせ、アテネの人々と論じ合っていました。その時、パウロと論じ合っていた人々が「あなたが説いている新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことを私たちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」と、パウロをアレオパゴスという評議所に連れて行きました。

*「知らずに拝んでいる神、それは創造主なる神」

パウロはアレオパゴスの真ん中に立ち、「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなた方が信仰のあつい方であることを私は認めます。道を歩きながら、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなた方が知らずに拝んでいるもの、それをお知らせしましょう。」と言って、彼らの持っている信仰を否定することなく、知らずに拝んでいる神様について説明を始めます。

 パウロは、「神様は世界とその中の万物とを造られた神」であり、「神様は、一人の人からすべての民族を造り出した」こと、「人が神様を探し求めさえすれば、神様を見出すことが出来る」こと、実際、「神様は地上に生きる一人一人から遠く離れているのではなく、近くにいて下さるお方である」ことを語ります。そして、「神様を、自分たちの手で造った像と同じものと考えてはならない」こと、今は、「御子によって正しく裁く日をきめられた」ので、人々が「悔い改めなければ、今までのような生活は長く続かず、必ず裁きの日がある」こと、「神様はこの御子を死者の中から復活させて、人々に証しされた」ことを語りました。

*わたしたち

死者の復活と聞いてあざ笑う者や、「それについては、いずれ又」と立ち去る者たちがいましたが、パウロについて行き、信仰に入った者も何人かいたことが記されています。現代は、昔になかった新約聖書などの良い環境が整っているにもかかわらず、街を行く人々は神様を知ろうとも見ようとも、探し出そうともしないのはなぜなのでしょうか。そして私達はどうでしょうか。私達もひょっとしたら神様以外の人(家族の誰かであったり、友人であったり)や、目に見えないものを「偶像化」しているかもしれません。今日、私達にかかわる人や物のすべてを横に置き、神様に心を向け、神様が私たちの心の中に訪れて下さり、すべての今ある問題、ストレス、重荷を取り除いて下さるようにお祈り致します。