「自由に生きる」 加藤 秀久伝道師
*はじめに
皆さんにとって、神様の言葉は、どのように聞こえますか。
本日のエレミヤ書の初めには、エレミヤに「主の言葉が臨んだ」と記されています(1:4)。エレミヤは、祭司であった父親が神様に仕える姿や、神様を第一として礼拝する日々の生活を見ることから、神様の声を身近に感じるという環境にあったのではないかと想像します。
*「万軍の主はこう言われる」(23:16)
神様からの呼びかけの声は、神様を信じる私たち誰にでも聞く機会が与えられています。神様の声は時に小さく、時には大きく、又、聞く前には何か温かさで包まれているような感じであるのか、逆に、雷鳴のような胸の高鳴りが沸き起こり、全身を震えさせるような力が近づいて来るようであるのか、その時、その時の違いはあっても、神様の現われには、大きな力強さを感じることがあるかと思います。エレミヤは、その神様の呼びかけの声に耳を傾けて、正しく人々に伝え、そして従い続けました。
本日のエレミヤ書では、神様は、地上の私達のそば近くにおられる神様であると同時に、天の御国から世界を見渡して、私達ひとり一人に語りかけ、全てを支配されておられる神であることが語られています(23:23-)。
*預言者と偽預言者
預言者は、神様から告げられた言葉を語る時、人々の生活に影響を与え、時には、その人の運命を左右する言葉も語らなければなりません。神様から遣わされて、真実を伝える伝達者としての役割は、私情を挟む(個人的な感情が入り込む)誘惑も退けなければなりません。
ところが、神様の言葉を取り継ぐ預言者の中には、正しく取り継がない偽預言者たちもいたのです(23:9~)。偽預言者達は「わたしは夢を見た」と言って勝手にその夢を自分で解き明かし、神の名を使って自分の考えを「主の託宣(たくせん)だ」と、言い放っていました。
「夢」は、もともと神様の意志を伝達する方法の一つでもあり、「あなたたちの間に預言者がいれば 主なるわたしは幻によって自らを示し 夢によって彼に語る」とあり(民数記12:6)ます。しかし同じ民数記でも「モーセとは口から口へ語り合う」と言われます(同8節)。エレミヤも、神様と直接的な関係にあったことが、エレミヤの告白に於いて見ることが出来ます。「主の名を口にすまい。もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしのこころの中 骨の中に閉じ込められて 火のよう燃え上がります。押さえつけておこうとして わたしは疲れ果てました。わたしの負けです・・。」(20:9)
偽預言者は、偽りと気まぐれでイスラエルの民を迷わせていたために、神様は怒りをもって、彼らに「立ち向かう」(30節~)と言われました。
*恵みの道と律法の道
本日のガラテヤ書で、パウロはガラテヤの教会の人達が、神様を信じてイエス様の十字架による救いの恵みを受け入れ、御霊の注ぎも受けたにもかかわらず、割礼と律法遵守を要請するユダヤ人伝道者(パウロの反対者たち)の主張に耳を傾けて、割礼と律法遵守で信仰を完成させようとしていたことを警告しました。もし「割礼と律法」を守ることで「義」とされ、それが天国に入る道であるならば、イエス様の十字架は、何の意味もなくなり、イエス様が救い主であることさえ否定してしまう結果をもたらすからです。私達は、十字架による罪の赦しを信じる信仰によって「義」とされたのであり、「イエス様に結ばれていれば、『割礼の有無』は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(5:6)とのメッセージを聴きます。
*「わたしたちは、自由を得るために召し出された」(5:13)
私達は、救いによって与えられた自由を、「愛によって互いに仕え合う」形で用いることを教えられています(5:13)。偽預言者達も、パウロの反対者達も、神様の言葉でなく自分の言葉を付け加え、律法を強調しました。パウロは、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる。」(5:14)と語りました。このみ言葉が心の中に留まるように、神様の働きに励んで行きたいと願うものです。